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2018年9月11日火曜日

91.ラーマーヤナ(रामायणम् [rāmāyaṇam])- ラーマの人生を題材にした文献

伸ばす母音に注意しましょう。

ラーマという名の王子の人生を描いた物語(アヤナ)
ですから、

ラーマ + アヤナ = ラヤナ

となります。

母音の長短に気をつけましょう


長短を無視して、日本では「ラマヤナ」とか、
ラテン系だと「ラマヤ~ナ」など、いろいろ間違われているようですが、

正確には「ラヤナ(रामायणम् [rāmāyaṇam])」です。

最初の2つの音節が長く、続く2つの音節は短く発音します。
ちなみに、最後の「ナ」 は舌を内側に反らして発音します。
詳しくは、下の「文法的な説明」 を参照してください。

サンスクリット語には、母音の長短の違いで
意味が全く変わってしまう単語が多々あります。
そしてなにより、口伝により継承されて来たサンスクリット語においては、
発音の正確さはとても重要ですから、
ひとつひとつの音を、マインドフルに発音しましょうね。

日本でよく見かけられる、母音の長短の間違いが起きている言葉は、
ヴェーダンタ、サドゥ、プージャ、プラマ、等々でしょうか。
特に、短い i と u で終わる単語の最後が伸ばされているのと、
長い ā で終わる単語の最後が伸ばされていないのが気になります。

あと、日本語の小さい「ッ」のように、詰まるべき音が、
日本人の場合、詰まっていない、というのも気になります。
サティヤ、ニドラー、等々、このタイプはたくさん見かけます。
文字だけ追いかけていないで、きちんと耳から学んでくださいね。

ちなみに、1拍の長さの母音は、ह्रस्व [hrasva]と呼ばれ、
2拍の長さの母音は、दीर्घ [dīrgha]と呼ばれます。
発音する時は、長さの区別をしっかり意識して、
正しい発音を身につける努力をしてください。


ラーマーヤナという言葉の意味と語源


「ラーマ」とは、今でも存在するインド北部の都市アヨーディヤーの、
ダシャラタ王の息子である、王子の名前です。

「ラーマ(रामः [rāmaḥ])」の語源に関しては、
それだけでひとつの記事になるので、後日書きますね。

ヴィシュヌ神が、人間にダルマとは何かを体現して見せるために、
「ラーマ」という人間の姿をしてこの世に表れ、
その人生を描いた物語の文献「アヤナ」が、
「ラーマーヤナ」です。

”रामस्य चरितान्वितम् अयनं शास्त्रम् [rāmasya caritānvitam ayanaṃ śāstram]”
ラーマの行動に沿った文献
शब्दकल्पद्रुमःという梵梵辞典より

「アヤナ(अयनम् [ayanam])」は、
「行く」という意味の動詞の原形「अय् [ay]」を語源としています。

サンスクリット語の「行く」という言葉には、
様々な意味合いがあります。
単に、地点AからBへの移動、という意味もありますし、
その人の人格の表れである「行動」や、
そのような行動の連続である「人生・生き方」という意味、
そして「達成・成功」「ゴール」という意味もあります。

これらの意味が「アヤナ」という言葉に含まれます。
さらに、それらに沿って著わした「文献」という意味もあります。



文法的な説明


「ラーマーヤナ」という言葉は、サマーサ(複合語)というタイプの派生語です。

ヴィッグラハ・ヴァーキャ(派生語を説明する文章)は、
रामस्य अयनं रामायणम् ।
rāmasya ayanaṃ rāmāyaṇam |
となりますね。

サンスクリット語を学び始めたら、早い段階でサマーサを学ぶと良いですよ。

あと、अयन の न् が、ण् に変化するのは、राम の र् が原因です。
しかし、このルール(8.4.1, 8.4.2)が適用されるのは、
ひとつの単語内においてのみです。
サマーサの中の、前の単語(पूर्वपद [pūrvapada])にある原因が、
後ろの単語(उत्तरपद [uttarapada])にある न् を変化させることは出来ません。
しかし、8.4.3 पूर्वपदात् संज्ञायाम् अगः। というスートラにより、
固有名詞に限っては、サマーサの前後の単語にまたがった ण् への変化が認められています。

ラーマーヤナから学ぶべきこと「ダルマ」


ダルマの元型、ダルマとは何か、のアーキタイプ、
それがラーマです。

ダルマの体現である主人公ラーマが、
難しい状況をどのように乗り越えていくのかを、
物語から学び、ダルマを学びます。

この宇宙において、理性を与えられている生命体を人間と呼び、
その理性を正しく使って、その場その時の状況を判断し、
適切な行動を選びとり、実行できる人を、
ダルマに沿った人、つまり精神的に成長した人と呼びます。

思考ストップして、自分の頭を使わずに、
ただただ盲目的に宗教や国家の教義に従うのではないのです。


この宇宙の創造主は、契約書にサインすることを人間に課しているのではなく、
人間に理性を与えることにより、自分で理性的に考えることを課しているのです。

しかし、日々の生活の中で展開される状況は、
何が適切なのか、簡単に判断できないことが少なくありません。
ゆえに、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの物語から学ぶのです。

これらの物語は、登場人物たちの判断の失敗から成り立っています。
ダルマが最重要視されるバックグラウンドにおいて、
様々な過去を持つキャラクターが、様々な難しい状況の中で、
それぞれに判断を下し、物語が進みます。

私たちに考えさせるための内容であり、
盲目的に何でも賛美して追従するための内容ではありません。

ヴェーダーンタはもちろんですが、このような歴史物語も、
ダルマとモークシャを知る先生から学ぶ必要があります。

ラーマーヤナについて


ラーマーヤナは、ヴァールミーキという名の著者によって、
サンスクリット語の韻文律に沿って描かれた歴史物語です。
それをもとに、インド各地の言語でご当地ヴァージョンのラーマーヤナが生まれました。
北インドでは、トゥラシーダーサのラーマーヤナが有名です。

ラーマーヤナという文献は、イティハーサという種類に分類されます。
イティ・ハ・アーサで、「ということでしたとさ」のような意味になることから、
歴史物語は、イティハーサという名前で呼ばれます。

https://valmikiramayan.net/
ソースとしては、こちらのサイトが充実していますが、

インドの文献は自分で勝手に読むものでは無く、先生のもとで勉強するものです。
先生は、その文献の主題のみならず、サンスクリット語という言語はもちろん、
ダルマとモークシャについても、本人の生き方を通して教えられる人でなければなりません。

ダルマとモークシャについて、多くの人が、
正しい先生のもとで勉強を進められる社会でありますように。。

श्रीराम जय राम जय जय राम !

関連記事:

ラーマーヤナ日本語訳を冒頭から。。

ラーマとクリシュナ、対照的な誕生日の数字の謎

ラーマの誕生日、ラーマ・ナヴァミー

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2017年8月9日水曜日

86.マハー・バーラタ(महाभारतम् [mahābhāratam]) - 偉大なるバラタ族の歴史物語

マハーバーラタとは、紀元前○○世紀頃に著された叙事詩で、、、
とかいう、伝統では価値が認められていない年代などの情報は、もちろんここでは扱いません。
インドの伝統文化においての生活から得た学びならではの、
マハーバーラタのイントロダクションをまとめてみました。

 このページの目次

1.マハーバーラタのお祈り
2.マハーバーラタの別名、「ジャヤ」
3.マハーバーラタに隠された数字、「18」
4.マハー・バーラタの語源
5.バーラタとは 
6.マハーバーラタの入れ子式話し手  
7.マハー・バーラタの、ヴェーダ文化における聖典としての位置づけ

(アンカーを手作業で貼るのが出来なかったので、各自でスクロールダウンしてください。。。)



1.マハーバーラタのお祈り


聖典を読むとき、聴くときは、必ずお祈りから始めます。
それは、マハーバーラタの冒頭にあるお祈り自体の中でも言及されています。

नारायणं नमस्कृत्य नरं चैव नरोत्तमम् | देवीं सरस्वतीं व्यासं ततो जयमुदीरयेत् ||
nārāyaṇaṃ namaskṛtya naraṃ caiva narottamam |
devīṃ sarasvatīṃ caiva tato jayamudīrayet ||

意味:
ナーラーヤナ(ヴィシュヌ、クリシュナ)と、
最も秀でた人間であるナラ(人間、アルジュナ)、
知性を司る、芸術・学問の女神サラッスヴァティー
そしてヴャーサに、ナマスカーラをしてから、
ジャヤ(マハーバーラタ)という物語について話しましょう。
(なんか優しい口調ですね。。。訳:私)

ナーラーヤナ」とは、全人類が欲しているゴール(アーヤナ)です。
人は時代により国により人種により、それぞれ違ったものを追いかけているようだけど、
あらゆるゴールの裏にある、唯一の真のゴールとは、満たされている自分、
ただひとつそれだけなのです。それに本人が気づいていてもいなくても。
そのゴールは全てに浸透しているかの如く、変わりゆくものに存在を与えている存在、
つまりヴィシュヌ(全てに浸透しているもの)であり、それを教えるのが、
マハーバーラタ戦争真っただ中で先生の役を務めている、
ヴィシュヌの化身クリシュナです。

人生のゴールとして自分の本質を知ることの必要性に気づき、
生徒になることを選んだ、最も秀でた人間(ナラ)はアルジュナです。

知ることに必要なのは、ブッディ(知性)であるゆえに、
サラッスヴァティー女神のもたらす恩恵が必要。

そしてこの人間が人間として生まれて来た意味を満たす知識を、
人類に言葉という形でもたらしたのが、マハーバーラタの作者である、ヴィヤーサ

この祈りの中に、重要なカードが全て提示されているのです。

マハーバーラタには数え切れない程のキャラクターや出来事が登場しますが、
結局、何を人類に教えているのか?
そこのフォーカスを逃してしまうと、単なる奇想天外な昔話に終わってしまいます。

お祈りをして、主要な事柄をデーヴァターとして心に想い描き、その恩恵により、
語る人の、聴く人の、心に準備がされるのです。
そして、マハーバーラタは始まります。。


2.マハーバーラタの別名、「ジャヤ」



お祈りのシュローカ(句)にもあるように、
マハーバーラタは、「ジャヤ(जय)」とも呼ばれます。
ジャヤとは、「勝利」ですね。
パーンダヴァに象徴されるダルマが、
ドゥリヨーダナに象徴されるアダルマに勝利するからです。

これは単純な勧善懲悪という図式よりも、
もっと複雑な人間の心理と、この世の真理を表しています。

パーンダヴァ側の王子であるアルジュナは、軍の数よりも、
あらゆる運・動きを司る、この宇宙の全ての知識であるクリシュナを選び取ります。

一方、ドゥリヨーダナは、執着という曇りに包まれた歪んだ考え・価値観の象徴です。

「ジャヤ(जय)」とは、ダルマのジャヤであり、そこにあるのは、
真実のジャヤ、つまりモークシャが教えられているのです。

「サッティヤメーヴァ ジャヤテー(सत्यमेव जयते)」
= 「真実のみが勝つ」

というのは、インドという国の標語にもなっている、ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の言葉です。
(ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6)

सत्यमेव जयतेが見えますか?

3.マハーバーラタに隠された数字、「18」


数字に関しては、ヴェーダーンタの教えではあまり意味が問われないので、
話のネタ程度に聞き流してくださいね。

マハーバーラタの別名、「ジャヤ」の、
「ジャ(ज)」は、8を、「ヤ(य)」 は、1を表しています。
क्から数え始めてज्は8番目ですね。

マハーバーラタは、18のパールヴァという名前の章から成ります。

マハーバーラタの最重要部分、人間が人間として生まれた意味を教える、
ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の教えの部分である、
バガヴァッド・ギーターも18章から成ります。

1と8で9ですが、それはこんなことも関係しているのでしょうかね?

マハーバーラタ戦争は18日間続きます。

マハーバーラタ戦争に招集された軍隊の数は、
18アクシャウヒニー(अक्षौहिणी)という単位です。

1アクシャウヒニーは、
・ 21,870両の馬車
・ 21,870頭の象
・ 65,610頭の馬
・ 109,350人の歩兵
で構成されています。
全ての数は、一ケタごとの数を足していくと、、もちろん18ですね。

馬車1、象1、馬3、歩兵5からなる最小単位(पत्ति)を3倍ずつにしながら大きな単位のグループになり、7回3倍にして、最後に10倍にしたのがアクシャウヒニーです。計算してみてね。

カウラヴァ軍側に11アクシャウヒニー、
パーンダヴァ軍側には7アクシャウヒニー。
兵の数は少なくても、パーンダヴァ側が勝利します。

それは、戦わないけれども、運や知識をもたらせる、クリシュナというアヴァターラの存在に、
アルジュナが価値を見い出し、何万という兵隊よりも、
クリシュナひとりを見方につけることを選んだからです。
 

4.マハー・バーラタの語源


भरतान् भरतवंशीयानधिकृत्य कृतोग्रन्थ इत्यण्
(バラタの子孫を題材にした物語、
バラタに接尾語अण्を足して派生した言葉。)

出典:वाचस्पत्यम्  (梵梵辞典、サンスクリット語→サンスクリット語辞典の一種)


「マハー」は、皆さんよくご存じの、
「マハー・ラージャ」とか「マハートマー」という言葉にも使われている、
「偉大な」という意味の言葉です。原型はマハット(महत् [mahat]) 。


5.バーラタの意味



「バーラタ(भारत [bhārata])」 とは、
「バラタの末裔」という意味や、「バラタ族に関する物語」という意味です。

「バラタ(भरत [bharata])」とは、ラーマに忠誠を尽くして王国を守った異母弟の名前です。

サンスクリット語では、名詞に接尾語を付加して、新しい名詞を作る、
ということが頻繁に行われます。

「バラタ(भरत [bharata])」という名詞に、「~の子孫・末裔」という意味の接尾語を付けると、
一番前の母音が伸びて、「バーラタ(भारत [bhārata])」となります。
「~に関する物語」という意味でも、同じ接尾語がついて、同じ言葉になります。


「バーラタ(भारत [bhārata])」 とはまた、
インドに多数ある言語による、自国の名称です。

「インド」とか「インディア」というのは、外国人が勝手につけた名前で、
インドではインドのことを、誇り高きバラタの末裔の国「バーラタ(भारत [bhārata])」
と呼んでいるのです。

インドのコインや紙幣を見てみてください。
また出て来た!
 「バーラタ(भारत [bhārata])」が読めますか?
 
ライオンの下に書いてある、インドの標語「サッティヤメーヴァ ジャヤテー(सत्यमेव जयते)」
「真実のみが勝つ」という、ウパニシャッドの言葉も、
インド政府発行のお金経由で言われると、、意味の深みが増しますね。。。


6.マハーバーラタの入れ子式話し手


最初に紹介したお祈りの後に、見えないナレーターが、
スータ(सूत)とシャウナカ(शौनक)の会話を紹介します。

スータという名前で登場するウッグラシュラヴァス(उग्रश्रवस्)という人が、
ナイミシャーランニャ(नैमिशारण्य)という森の中を旅している時に、
その中で何年も続く儀式をしているリシ達に出会い、
リシ達の長であるシャウナカに、
最近何か変わった話が無いかと訊かれます。

スータは、自分の父親であり、ヴャーサの弟子でもある、
ローマハルシャナ(लोमहर्षण)が、ヴャーサから直接聴いた話を、
息子である自分に話してくれた話を話し出します。
 
その話は、ヴァイシャンパーヤナ(वैशंपायन)とジャヤメージャヤ(जनमेजय)の会話です。
ジャヤメージャヤは、マハーバーラタ戦争のパーンダヴァ側の唯一の生き残りである、
パリークシット(परीक्षित्)の息子です。
パリークシットはアビマンニュの息子で、アビマンニュはアルジュナの息子ですね。

ジャヤメージャヤは、サルパ・ヤッグニャ(蛇の儀式)の最中にヴァイシャンパーヤナに会い、
自分の祖先が主役である、マハーバーラタ戦争について尋ねます。
ヴァイシャンパーヤナもヴャーサの弟子なので、
ヴャーサから直接聞いたマハーバーラタ戦争について話し出します。


7.マハー・バーラタの、ヴェーダ文化における聖典としての位置づけ


マハーバーラタも、伝統的価値観を知っている先生から聴かなければ、
支離滅裂とした話にしか聞こえないかも知れません。

盲目の王ドゥリタラーシュトラの妃ガンダーリーが、
夫への献身と愛情を示すために自分も目隠しをしたことなど、
夫婦そろって、国を挙げての愚の骨頂です。
だからドゥリヨーダナのような愛情を欠いた息子を100人も世に送り出すことになったのです。
それなのに、マハーバーラタの話なら何でも盲目的に善しと捉え、
ガンダーリーを良き妻として褒め称えている語り部は沢山います。
盲目が盲目を呼ぶ、の良い見本です。


マハーバラタは、スムルティという聖典として、数えられています。
聖典ゆえに、自分で勝手に訳本を読んでも、正しい意味は得られません。
そもそも訳本を書いたその人が、伝統の教えを知らない場合が殆どですし。。。

最近は日本でも、アーユルヴェーダやヨーガ・スートラ、占星術など、
ヴェーダを中心とした、インドの文化を構成している文献を直接勉強する人も増えて来たので、
今度、シャーストラ(インドの文化を構成している文献)について、
何と何があって、どのように位置づけられているのかを説明しますね。




関連記事:

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段

65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])- 世界のあり方を支えている法則 

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ])

33.クリパー(कृपा [kṛpā])- 思いやり、優しさ、深い共感

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2016年11月18日金曜日

81.ヨーガ、ヨガ(योगः [yogaḥ])得ること、精神集中、得る手段

サンスクリット語の発音


もう日本語になったかもしれない、「ヨガ」という言葉。

既に日本語になったとして、日本語の発音としてなら、「ヨガ」という発音でいいと思いますが、

サンスクリット語として発音するのなら、「ヨーガ」と伸ばすべきですね。

なぜなら、サンスクリットには、短い「エ」や「オ」の音は無いからです。

「エー」と「オー」は、二拍分の長い音なので、「yoga」は「ヨーガ」となります。

発音についての記事も、さらに読みやすく・分かり易くアップデートしておきました。

サンスクリットは発音が大事!「ヨガ」は「ヨーガ」、「ヨギ」は「ヨーギー」、「ヨギーニ」は「ヨーギニー」です。 

伸ばしてね。

ヨーガの語源


サンスクリットの言葉は全て、

「原型+接尾語」

という枠組みで説明できます。


「ヨーガ(योग [yoga])」 という言葉は、

動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」に、接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を付加して出来た言葉です。

「ユジとは、つながること、、」と、

サンスクリット語文法を全く知らないヨガの先生でも教えていますが、

動詞の原型ユジには「つながる」という意味以外にも、いくつかの意味があります。

そして、接尾語にもいくつかの意味があります。

動詞の原型の意味と、接尾語の意味を、ひとつずつ組み合わせて、

「ヨーガ(योग [yoga])」というひとつの言葉になるのです。

ゆえに、一言でヨーガといっても、その使われ方によって、様々に意味が異なります。

庭の池に咲く蓮たち。

では、動詞の原型である「ユジ(युज् [yuj])」の意味、

そして、接尾語の「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味を、

それぞれ見て行きましょう。


動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」の意味


「ユジ(युज् [yuj])」という動詞の原型には3種類あり、

それぞれが別の意味を持っています。

1.「得る、繋げる、など」 という意味 (第7グループのयुज् योगे)

2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

3.「制御する、締め付ける、など」」 という意味 (第10グループのयुज् संयमने) 


いろいろありますね。似てるようで、違う。

ムルガン・テンプルにて。ムルガンの乗り物は、孔雀。

接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味


こちらにも様々な意味があります。

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

・ 「それによって~するもの」という、動詞の意味である動作を達成するための手段を表す(करणे)

・ 「~されるもの」という、動詞の目的語を表す(कर्मणि)

などなど、、、


3通りの意味のある「ユジ(युज् [yuj])」に、

これまた様々な意味のある「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を

組み合わせて作ることが出来るゆえに、

 「ヨーガ」という言葉には使い方によって様々な意味がある


のです。

意味は、「どこで、どのような意図で使われているのか」を見て決定します。


では、「ヨーガ」という言葉がどのように使われているのか、

いくつか例を見てみましょう。


インドの山奥で、野生の孔雀達と共に暮らしています。

一般的な「ヨーガ」の意味


ここでの「一般的」とは、「普通に言語で使われる」、ということで、

「専門用語や固有名詞ではない」、ということです。

一般的に言語の中で「ヨーガ」という言葉は、

「(何か持っていないものを)得ること」として使われる場合が多いです。

「ヨーガ(得ること)・クシェーマ(それを維持すること)」と、

ペアで使われることもあります。

ギーターでも何度かそのようにして出てきますね。

有名なシュローカに、

श्रीभगवानुवाच ।
अनन्याश्चिन्तयन्तो मां ये जनाः पर्युपासते ।
तेषां नित्याभियुक्तानां योगक्षेमं वहाम्यहम् ॥
śrībhagavānuvāca |
ananyāścintayanto māṃ ye janāḥ paryupāsate |
teṣāṃ nityābhiyuktānāṃ yogakṣemaṃ vahāmyaham ||

バガヴァーンは教えました
私と離れた存在ではなく、それを知り、認識し続ける人々、
常に私とひとつである人々のヨーガ(得ること)とクシェーマ(保持すること)を私は与えます。


インドの最大手保険会社のロゴにも使われています。

これです。手の下の文字が読めますか?

ヨーガ・スートラの「ヨーガ」の意味


ヨーガ・スートラと聞いた途端、前のめりになる人は多いのではないでしょうか。

昨今では、ヨガ(アーサナ)を始めて、少しすると、

「体を曲げ伸ばしするだけがヨガじゃない!もっと深い意味があるはず!」

「頭は、ヘッドスタンドするためだけに身体にくっついているのではない!

もうちょっと別の使い方をしなければ!」

と気づき始めた人が、最初に手に取る文献が「ヨーガ・スートラ」である場合が多いようです。





さて、ヨーガ・スートラで使われている「ヨーガ」という言葉の意味は、、

ヨーガ・スートラでの、ヨーガの定義は「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः [yogaścittavṛttinirodhaḥ] 」 ですね。

ヨーガ・スートラの有名な解説書のひとつである、भोज्-वृत्तिः を見てみると、

「योगो युक्तिः समाधानम् [yogo yuktiḥ samādhānam]」とあります。

つまり、、、


2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

という動詞の原型の意味に、

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

という接尾語を足した、「心を集中させること」ですね。

ヨーガ・スートラの教える心の集中のテクニックは、様々な面で役に立ちますが、

バガヴァッド・ギーターの教える、カルマ・ヨーガの代替になるようなものではありません。

同じヨーガでも、混同しないように注意しましょう。



ギーターの教えるヨーガ


バガヴァッド・ギーターでも、ヨーガという言葉が繰り返し使われます。

使われる場所・コンテクストによって、意味が大きく変わるので、

単に流通している訳本を読んで自分流に納得するのは危険です。

ギーターもウパニシャッドも全て、その意味を受け継いだ先生から教えてもらうようになっている、

ということは、ギーターとウパニシャッドそのものの中で教えられています。


2章にあるヨーガの二つの定義

समत्त्वं योग उच्यते । २.४८॥ [samattvaṃ yoga ucyate ] と、

योगः कर्मसु कौशलम् । २.५०॥ [yogaḥ karmasu kauśalam] では、

自分に与えられた義務をこなすこと、つまり自分の人生そのものを、

ヨーガへとするために必要な、理解と姿勢が教えられています。

ここで、パタンジャリのヨーガで得た知識を引きずっていると確実に混乱するので、

先にヨーガを勉強してしまった人は、別物として、真っ白な心で向かう必要があります。

そして、3章でも二つのヨーガの定義があります。

लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।
ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥
loke'smin dvividhā niṣṭhā purā proktā mayā'nagha |
jñānayogena sāṅkhyānāṃ karmayogena yoginām ||3.3||

ここでは二つのライフスタイルが、ヨーガという言葉で教えられています。

6章でもヨーガの定義がされています。

तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसंज्ञितम् । ६.२३॥
taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasaṃjñitam | 6.23||

その、悲しみによる自己認識(サンヨーガ)から離れること(ヴィヨーガ)が、
ヨーガであると、知りなさい。

世の中にはサンスクリット語だけでも、数え切れないほどの文献がありますが、

人生の意味を完全に満たす文献は、ギーターが包括的で、ギーターだけで充分です。


「○○・ヨーガ」「△△・ヨーガ」のヨーガ

 

最近は、いろいろな名前のヨーガが溢れていますね。

それは、より多くの人が、

消費という市場で推奨されている「幸せになる手段」の限界を見抜きはじめ、

それらとは別の、もっと精神的な、物質的なものに頼らない、

根本的な解決法を探りはじめた証拠です。


ありとあらゆる衣食住の形、快楽の形が提供されているこの消費社会で、

「それもいいけど、私はそれだけの為に生まれてきたわけではない」

「それらは本質的とは言えない。 一時的な気分の良さしかもたらさないから」

「お金やスキル、結婚や家族、地位や名声は手段であり、それ自体がゴールではないのでは?」

という、ものごとの限界の見極めが出来るようになった人も、

「ヨーガ」と名前のつくものに惹かれ、

そして最終的には、

インドの文献で教えられている知識に、おのずと惹かれていくものです。




ここでは、いろいろな「ヨーガ」の中で、どのように「ヨーガ」という言葉が使われているのか、

という点にのみに着目してみましょう。


どうやら、何か目指すものやゴールがあって、それを「得る為の手段」のようですね。

そのような意味の取り方をするなら、

動詞の原型「ユジ」の意味は、「得る」という意味で、

接尾語の意味は、「~する手段」ということになりますね。



もしそうなら、「ヨーガを通して何を得るのか?」

「自分が本当に得るべきものは何か?」

そして、「得るべきものと、その手段は、ちゃんとマッチしているか?」

「手段が目的になっていないか?」

というポイントを明確にするために、常に問いかけ続ける必要があります。

シャンカラーチャーリヤ

なぜなら、人は往々にして、忙しさゆえに、

自分が本当に欲しいもの、求めるべきものに関して混乱しがちで、

混乱ゆえに、「次はこれが私を幸せにしてくれるだろう」と、

手当たり次第に、次から次へと新しいものを追い求め続け、

さらに忙殺され、自分が本当に何を求めるべきか、なんてことを考える暇もなくなってしまう。。。

という、根本的な矛盾に陥ったまま、一生を終えるのが、人間の普通のありかたです。
 
このように、生きて、死に、また生まれては、、、と繰り返すのがサムサーラです。

 (だいぶ前に、人生の目的(プルシャ・アルタ)についてコラムを書きました。)




頭のヨーガ、サンスクリット語の勉強!


どさくさに紛れて、サンスクリット文法の推奨もさせてもらいますね。

サンスクリットの文法を少しでも知ると、

あらゆるサンスクリット文献の理解の深みが一気に増します。

そして、頭のヨガにもなります!脳細胞がプチプチ・パチパチして活性化しますよ!

身体は適度に曲げ伸ばして血流を良くしてあげないと凝り固まってしまうように、

脳みそも、きちんと正しい使い方・考え方を日頃から心掛けておく必要があります。

考えない人などはいませんが、正しく考えるスキル・訓練を受ける機会は少ないですね。。。

サンスクリットはその面で、とても役に立ちます。
 

サンスクリット語の本来の有用性


サンスクリット語の勉強は、頭の細胞の活性化には非常に強力に役立ちますが、

サンスクリット語がこの世界の中で存在している、本来の役目はただ一つです。

サンスクリットは、創造のあり方と人間との間のコミュニケーションの言語として、

人間の幸せの追求の為に役立つ知識を教えるために存在しています。

人間として生まれて来て、満たすべきあらゆる望みを満たすための手段を教える、

言葉の集まりがヴェーダです。

ヴェーダの教える、幸せの追求の手段は、単に望みを満たすだけの手段ではなく、

望みを満たしながら、人間として精神的に成長できる手段です。

精神的に豊かな人生を過ごす中で、成長した心を持つ人に向けて、

ヴェーダの最後の部分であるヴェーダーンタは、

人間の根本的な問題に関して、根本的な解決を教えます。

自分が人間として生まれて来た意味を、完全に満たすために必要な知識は、

この宇宙の仕組みでは、サンスクリット語というヴェーダの言葉で教えられる、

というようになっているのです。




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2016年7月13日水曜日

78.サンヴァーダ(संवादः [saṃvādaḥ]) - 対話、ダイアローグ

クリシュナが手綱を持ったまま教えているところに注目。


ウパニシャッド 、そしてバガヴァッド・ギーターは、

「サンヴァーダ(対話・ダイアローグ)」によって構成されています。

今回は、この言葉の語源と、さらに、

日常で私たちが気を付けるべき、対話のあり方を、

インドの伝統的な文献で使われている言葉を通して説明しますね。

 

サンヴァーダの語源



サンヴァーダは、「サム」と「ヴァーダ」に分けることができます。

「サム सम् sam」という接頭語には、「良い」「完全な」などの意味があります。

「ヴァーダ वाद vāda」は、「ヴァド वद् vad」=「話す」という意味の動詞の原型から派生しています。

「話す」に、 「~すること」「~されたもの」等の意味を表す接尾語を付加して、

वद् vad (話す)+घञ् ghañ (~すること、~されたもの)

= 話すこと、あるいは、話されたもの (対話・会話・ダイアローグ)

となるわけです。

文法が大好きな人の為に、最後に派生をスートラと共に載せておきますね。



3種類の「対話」


サンスクリット語には、他にもいくつかの「対話」という意味の言葉があります。

サンスクリットの文化では、一般的な対話は、3種類に分けて説明されます。


1.ヴァーダ (वादः vādaḥ)


接頭語の「サム」を付けずに、「ヴァーダ वाद vāda」だけでも、

「対話」という意味になります。

これは、ウパニシャッドの中に見られる「師と弟子との対話」ではなく、

対話する両者は同等です。

そして、ある題材について、より深い理解を得るために、

話し合い、検討しあう、という健康的で建設的な対話を、

「ヴァーダ वाद vāda」と呼びます。

サンスクリット文法のような、インドの伝統的な学問では、

こうやって生徒同士が集まって、議論しながら互いの理解を深め合う「ヴァーダ」を、

知識の修得過程の重要な一部としています。

それを教えるシュローカ(詩節)があります。

आचार्यात्पादमादत्ते पादं शिष्यः स्वमेधया । पादं सब्रह्मचारिभ्यः पादं कालक्रमेण तु ॥
ācāryātpādamādatte pādaṃ śiṣyaḥ svamedhayā | 
pādaṃ sabrahmacāribhyaḥ pādaṃ kālakrameṇa tu || 

生徒は、先生から4分の1を得て、自分の記憶力や努力によって4分の1、
生徒同士のディスカッションによって4分の1、
そして最後の4分の1を、時間の経過によって得るのです。

ちなみに、ヴェーダーンタに関しては、これは完全に通用するものではありません。

(追記: それは何故ですか?という質問があったので、こちらで答えています。)


私はインドでサンスクリット文法を教えていますが、

リシケシで私が他の生徒達と一緒にしてきたように、

自分の生徒達にも、自主的なスタディ・グループを作って助け合うことを推奨しています。

私の、私の先生方の、そしてその先生方たちの「Help(助ける)」の精神によって、

このサンスクリットの文法の知識が何千年も教え継がれてきたことを、

私の生徒にも知ってもらいたいからです。 


サンスクリット文法の勉強によって、客観的な分析力が養われるだけでなく、

勉強する過程でいろんな人と関わることから、様々な形を通して心が磨かれていきます。

これについて書き出すと長くなるので、またの機会に。




対話を健康的・建設的にして、実りのあるものにするために、

意識して避けるべきものとして、以下の2つのタイプの対話が定義されています。


2.ジャルパ (जल्पः jalpaḥ)



互いが既に確たる信念を持っていて、平行線を辿るだけの対話をジャルパと言います。

「正しいのは自分だけ」「間違っているのは相手だけ」と、

両者ともが互いに主張するだけの対話を指します。



3.ヴィタンダー (वितण्डा vitaṇḍā)


相手を否定することのみに専念した言葉のやりとりです。

「あなたの言っていることは全て間違っている!」

なんで?

「あなたが言っているから!」

というタイプの対話です。


このように書くと馬鹿ばかしく見えますが、程度の差こそはあれ、

日常会話でも頻繁に見られるような会話のパターンです。


考えを整え、無知と混乱を無くしていくには、まず、

自分が使う言葉を正していくことから始まります。

ちょうど、校正を入れて、無駄な言葉をどんどんそぎ落としていき、

本当に役に立つ言葉だけを残していくように。

これは「知的」な作業です。 

 「雑念を払う」といった類の、マインドをいじくりまわすテクニックではありません。



毎日の何気ない会話の中で、そして心の中での仮想会話の中で、

ジャルパやヴィタンダーに陥っていないか?

私は今、自分と相手を正しい理解に導くために言葉を使っているのか?

と、応用するために、これらの対話の分類があるのです。


そして、ヴェーダやヴェーダーンタを勉強している人が知っておくべき、

もう一つのタイプの対話は、「ヴァーダ」の前に「サン」を付加した

「サンヴァーダ」です。
ॐ तत्सदिति श्रीमद्भगवद्गीतासूपनिषत्सु ब्रह्मविद्यायां योगशास्त्रे श्रीकृष्णार्जुनसंवादे ...
om̐ tatsaditi śrīmadbhagavadgītāsūpaniṣatsu brahmavidyāyāṃ yogaśāstre śrīkṛṣṇārjunasaṃvāde ...
(ギーターの各章の最後に付加されている文章。
「クリシュナとアルジュナのサンヴァーダに於いて、、、」)

4.サンヴァーダ (संवादः [saṃvādaḥ])



先生と生徒の間での、質問と答えからなる対話を、サンヴァーダと呼びます。


これは、対等なメンバーでのディスカッションとは異なります。

単なるひとつの意見を聞かされているのでは無いのです。

生徒の側から、正しい質問をしなければ始まりません。

ギーターでも、परिप्रश्नेन सेवया とありますね。

ヴェーダーンタの文献の中で見られるサンヴァーダでは、生徒は先生に対して、

「あなたの意見を聞かせてください」

ではなく、

「真実は何ですか」

と問いかけているので、

先生からの答えに対して、「そういうものの見方もあるのね」や、

「わたしは自分なりにこういう風に取りました。(先生の伝えたかったことは知らないけど。)」

という、日本で今流行り?の「人それぞれの受け止め方でいいじゃな~い」という姿勢では、

世渡りは出来ても、ヴェーダーンタの教える真実は正しく理解出来ません。


「サム सम् sam」という接頭語と、「ヴァド वद् vad」という動詞の原型の組み合わせには、

「合意する」という意味もあります。

リグ・ヴェーダの一番最後に、「サンヴァーダ・スークタム」 というマントラがあります。

またの名を「アイカマッティヤ(皆の心がひとつになる)・スークタム」です。

その名の通りの実現を願って、

コレクティブ(皆が集まって全体として)・プレーヤー(祈り)として使われるマントラです。

昔は、議会に集まる人々が毎朝初めに唱えていたそうです。

人が集まって議論すれば必ず、侃侃諤諤+喧喧囂囂=喧々諤々となるのが、

この宇宙の創造の法則となっているがゆえに、

こういうプレーヤーが必要(セットで創造された)ということなのでしょうね。


ちなみに、こちらのグルクラムでも、今年から、毎月初めの木曜日に、

このマントラを108回唱えるホーマをしています。

ヤッグニョーパヴィータを着けている(ヴェーダのマントラを儀式で唱える資格のある) 生徒達が、

祭司と共に、分担して一緒に唱えます。

もちろん他の生徒も一緒に座って、ホーマを見守りながら参加します。

ホーマとは、こんな感じ。

意味はこちらを参考にどうぞ:http://www.speakingtree.in/blog/sa-j-nas-ktam
スワミニは、私の1期前の先輩です。

॥ ऐकमत्यसूक्तम् ॥ 
|| aikamatyasūktam ||
ॐ संसमिद्दुवसे वृषन्नग्ने विश्वान्नर्य आ
oṃ saṃsamidduvase vṛṣannagne viśvānnarya ā
इळस्पदे समिद्ध्यसे स नो वसून्न्या भर ॥
iḷaspade samiddhyase sa no vasūnnyā bhara ||

संगच्छध्वं संवदध्वं सं वो मनांसि जानतां
saṃgacchadhvaṃ saṃvadadhvaṃ saṃ vo manāṃsi jānatāṃ
देवा भागं यथापूर्वे संजानाना उपासते ॥
devā bhāgaṃ yathāpūrve saṃjānānā upāsate ||
समानो मन्त्रस्समितिस्समानी
samāno mantrassamitissamānī
समानं मनः सहचित्तमेषां ॥
samānaṃ manaḥ sahacittameṣāṃ ||
समानं मन्त्रमभिमन्त्रये वः
samānaṃ mantramabhimantraye vaḥ
समानेन वो हविषा जुहोमि ॥
samānena vo haviṣā juhomi ||
समानी व आकूतिस्समानो हृदयानि वः
samānī va ākūtissamāno hṛdayāni vaḥ
समानमस्तु वो मनो यथा वस्सुसहासति ॥
samānamastu vo mano yathā vassusahāsati ||
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||




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こちらも:
8.デーヴァター(देवता [devatā])- 法則を司る神



文法好きな方へ:
वद् + घञ्    3.3.19 अकर्तरि च कारके संज्ञायाम् । ~ भावे घञ्
接尾語घञ्が、動詞の主体以外(動詞そのものの意味、動詞の目的語、など)の意味で付加される。
वद् + अ      1.3.8 लशक्वतद्धिते।, 1.3.3 हलन्त्यम् । ~ इत्, 1.3.9 तस्य लोपः।
接尾語に付けられた印の意味での音が取られる。中身はअk印はघ्, ञ्。
वाद् + अ     7.2.116 अत उपधायाः। ~ वृद्धिः ञ्णिति
接尾語印にञ्があるので(ञित्)、接尾語の前にある基幹にある、後ろから2番目の短いअにवृद्धिが起きる。
वाद
名詞の原型の完成。 घञ् で終わる名詞は男性名詞となって活用します。

2015年6月3日水曜日

質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?

「ヴェーダーンタは宗教でも哲学でも科学でもない」
58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])の項)
プラマーナに関して質疑応答のコミュニケーションをしたので、
皆さんとここでシェアしますね。



質問: 
ヴェーダーンタは哲学ではないとは?ヴェーダーンタは六派哲学のうちのひとつと言われているのだから、哲学ではないのか?

答え:

「ヴェーダーンタは哲学ではない」を理解する鍵は
「プラマーナ(知る手段)」にあります。


早い話が、
ヴェーダーンタは独立したひとつのプラマーナであるのに対して、
哲学は、経験や憶測をもとにした考えの結果であって、
プラマーナでは無い。
この点に尽きます。

さらに、六派哲学は全て、ヴェーダをプラマーナとしているではないか?
とするなら、答えはこうです。
彼ら5つのダルシャナは、
ヴェーダの教える意味の追求が間違っていて、
彼ら独自の混乱した結論が先にあり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。

もうちょっと広げると、、、

色や形を知る為のプラマーナは視覚です。
それ以外で色や形を知ることは出来ません。
ゆえに視覚は、色や形に対して、
プラマーナというステータスを持っているのです。

同じように、音を知るプラマーナは聴覚のみ。
月までの距離を知るプラマーナは視覚を元にした
アヌマーナ(推論)のみです。

人間に与えられた知る手段は
五感などの「プラッティヤクシャ」と、
プラッティヤクシャのデータを元にした「アヌマーナ」、「アルターパッティ(こうでなければあり得ない)」、「ウパマー(例え)」、そして「アヌーパラブディ(ある場所にあるものの不在を知ること)」の5つです。これらはプラマーナであるゆえに、その対象はこれらを通してしか知ることが出来ません。それゆえに干渉しあうことがないのです。

プラマーナを数えるのはとても大事なことです。(後に出てくる理由から。)

哲学は経験や憶測を元にした思考の結果であるゆえに、
プラマーナとして数えられません。

この5つのプラマーナは全て、自分が対象化出来る
対象物を知る為の手段です。

これらは全く持ってして、対象化している主体を知る手段では無いのです。

対象物を見ている主体であり、
「対象化をしている自分」さえをも対象化している、
最終的な主体については、
「今ここにいる自分」だと知っていますが、
それ以上のことを人間は知りません。
また、対象を知るためだけにある5つのプラマーナで、
主体を知ることも出来ません。

では、知ることは出来ないのか?
主体の本質を知る為の、もうひとつ別のプラマーナがあります。
それがヴェーダーンタなのです。

ヴェーダーンタが自分とは何かを知る手段、
つまりプラマーナなのだ、
なんてそんなこといきなりいわれても、
信じるしか他ならないようですが、
ヴェーダーンタの教えは理解するためのもので、
信仰するためのものではありません。

小学校の先生が掛け算を教えている時に、
「私はあなたを信じます」といちいち信仰心を持たなかったとしても、
「この人は正しいことを教えているはずだ」という信頼はあったはずです。
「この人が教えている掛け算たるものは
インチキで嘘八百に違いない」と疑っていたら、
掛け算をマスターすることはなかったでしょう。
「掛け算という知識を得るためのプラマーナが
小学校の先生である」という意識はしてなくても、
信頼を元に先生の話を聞いていれば、
掛け算を理解することが出来ます。

一度理解してしまえば、
掛け算も先生も、信仰の対象でも何でも無くなってしまいます。

ヴェーダーンタも同じことです。
掛け算と同じように、事実について、きちんと理解しようとするのが
ヴェーダーンタの勉強する姿勢です。
ヴェーダというプラマーナを使い、それが明らかにしている事実を
きちんと理解するためのプロセスが、ヴェーダーンタの勉強です。

普通の哲学は、ヴェーダをプラマーナとして扱っていません。
また、六派哲学と呼ばれるうちの5つは、
いちおうはヴェーダをプラマーナとして数えているけれども、
早い話が、先にプラッティヤクシャETCベースの混乱した結論があり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。

プラマーナの特性を知り、きちんと数え分けることは
とても大切です。
ヴェーダを独立したプラマーナだとして向き合わなければ、
ヴェーダとしての役割を果たさないからです。


追記:


ここにあるものは、
「私」と「私の対象物」の2つのみです。

対象物には私の身体はもちろん考えも感情も体験も、深い瞑想の中のスピリチュアルでブリスフルな体験も、来世の体験も全て含まれます。
幽体離脱しても、4Dでも5Dでも、それら全ては、やはり「私の対象物」の範囲内です。

「私」と「私の対象物」の2つしかないことをしっかり突き詰める必要があります。
例外もBetweenもBeyondもありません。

ヴェーダーンタ以外のプラマーナは、「私の対象物」を知る為の手段です。
ヴェーダーンタは「私」を知る為の手段です。
・ 本当にそうなのか?
・ 私は私じゃん!いまさら何を知れというのか?
・ 私がこの宇宙に存在を与えている無限の存在だって?そんなの本当?だって私はこんなに小さい存在じゃん?これは理論的にどう説明するの?
と、理論を使って追究(ヴィチャーラ)するのが、「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」です。

世界や個人の本質について思考を巡らせ追究をする、
という点で類似していることから、ヴェーダーンタも、
哲学と同じカテゴリーで一般的には認識されています。

まずはプラマーナが何であるかの定義をしっかり把握し、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」が
哲学や他のダルシャナとどう違うのかをはっきり区別出来るように
努めながらプラマーナに接して初めて、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」としての実を結ぶのです。

2015年5月29日金曜日

58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])- シャンカラという名前の先生

शङ्कराचार्यः 
[śaṅkarācāryaḥ]


masculine - シャンカラという名前の先生



アーディ・シャンカラーチャーリヤを囲む4人の生徒達。
パドマパーダ、トータカ、若いのがハスタマラカ、年寄りがスレーシュヴァラ。


はじめに


ヴェーダーンタは哲学でも科学でも宗教でもないので、

シャンカラーチャーリヤも、哲学者でも創始者でもありません。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタを教え継ぐ、

脈々と続く伝承の中で、際立つ先生の一人です。

なぜ際立つのかと言えば、明瞭なコメンタリーを残したからです。

アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えは、

「無限の存在はあなただ」なのですから、

シャンカラーチャーリヤであれ誰であれ、

その意味を伝えることは出来ても、

変えることは出来ないのです。


シャンカラーチャーリヤという複合語の文法的派生


「シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])」とは前回でも見た、シヴァの別名です。

「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」とは「先生」という意味の単語です。

「シャンカラという名前のアーチャーリヤ」という意味で、

これら二つの言葉を繋げて、「シャンカラーチャーリヤ」という

複合語(サマーサ)になります。

二つ以上の言葉が一つの言葉になったものを複合語(サマーサ)と言います。

サンスクリット語には、サマーサの種類が沢山あり、

それぞれに綺麗に仕分けられています。

「シャンカラーチャーリヤ」という複合語は、

二つの言葉の意味がどちらとも、一人の人物を指しているので、

「カルマダーラヤ・タットプルシャ・サマーサ」という複合語として分類されます。

(サマーサの分析は楽しいですよ!
いつか皆さんと目いっぱいサンスクリットの文法の勉強が出来ますように!)


音の面から見ると、「シャンカラ」の最後の「ア」の音と、

「アーチャーリヤ」の最初の「アー」の音がくっついて、

「ア」+「アー」=「アー」という連音変化(サンディ)になります。

1+2でも2なんですね。「アーー」と3にはなりません。

(今、英語で革命的にシステマティックでわかり易いサンスクリット語の教科書のシリーズを書いていて、世界中で好評を得ています。近いうちに、丁寧な日本語バージョンも書きますね!)


シャンカラーチャーリヤの生まれ故郷、ケララのカラディという場所。
8歳のときに、そこに流れる川でワニに食べられそうになり、
死ぬ直前ということで、出家僧になる許可を母から得て、
晴れてサンニャーシーになったそうです。
もちろん、ワニには食べられずに生き残ったわけですが、
33歳の短い一生で、多くのコメンタリーを残しました。


アーチャーリヤという言葉の意味


サンスクリット語には、先生という言葉にも何種類かあり、

それぞれに意味が異なります。

「アー(आ [ā])」という接頭語と

「チャル(चर् [car])」という動詞の原型の組み合わせによる単語ですが、

その意味に沿って3つの意味を説いた、こんな節があります。

आचिनोति च शास्त्रार्थं आचारे स्थापयत्यपि ।
स्वयमाचरते यस्तु स आचार्य इति स्मृतः ॥
ācinoti ca śāstrārthaṃ ācāre sthāpayatyapi |
svayamācarate yastu sa ācārya iti smṛtaḥ ||

1.文献(ヴェーダ)の意味を教え、

2.その意味に従って生きるように教え、

3.自分自身も文献の意味に生きる人、

そのような人がアーチャーリヤと呼ばれます。

文献の意味とは2種類の意味があります。

ひとつは生活様式、もうひとつは自分・世界・イーシュワラの意味です。

どちらの意味でも取ることが出来ます。


毎日シャンカラーチャーリアの残した解説書によりヴェーダーンタを教えてくれた、

私の先生方は、まさに、「自分自身も文献の意味に生きている人」でした。

彼らの生き方、世の中との接し方を見ているだけで、

私の人生の意味がコペルニクス的大変化を遂げました。

大きく、与えることに徹し、一切のものに感情的に依存していない、

文献の教える意味そのものの人物、それが本当のアーチャーリヤです。


ヴェーダが教える知識


インドの聖典ヴェーダは、人類の幸せの追究を満たしてくれる為の

知識を教える文献です。

その知識は、人間の経験や憶測によるものではないので、

独立した一つのプラマーナとして見なされています。


ヴェーダで教えられている知識の殆んどは、あるべき生活様式や、

「~が欲しければ、~すれば良い」といった儀式の知識です。

それらは全て、知った後で実際に行動に移して、やっと意味を成す、

「実行する」ための「行為(カルマ)」の知識です。


そのような実践のための知識とは別に、

ここにあるもの全ての本質についての知識が、

ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)で教えられています。

全ての本質とは、全ての原因とも言えます。

全てを構成しているもの、、銀河、素粒子、肉体、感情、記憶、、

多種多様に無数にあるそれら全ての名前とその意味は、

そこから表れ、それに支えられ、それに還っていく。そのような、全ての原因。

例えるなら、そこから壺が表れ、壺はそれに支えられ、

壺がその名前を手放した時、そこに還っていく。それは土。土が全ての壺の原因。

壺が一万個あったとしても、ただ在るのは土がひとつです。

10001個の存在があるのではなく、ただひとつの存在があるだけです。

土という存在は、壺の壺の数によって制限されず、壺の形からも完全に自由です。

つまり、無限であり、部分も無い、ひとつの存在。


そのただひとつ本質の正しい知識、つまりクリアーな理解は、先生から生徒へ、

そしてその生徒が先生になり、またその生徒へと教え告がれてきました。

その途切れの無い、知識の伝授の系譜を「パラムパラー」と呼びます。

先生の理解と、それを教えてもらった生徒の理解は、

完全に同じでなければなりません。

無限であり、部分の無い一つの存在において、99%の理解などあり得ないからです。


シャンカラーチャーリヤとは


シャンカラーチャーリヤは、この知識の伝承「パラムパラー」の先生の一人です。

先生と生徒の理解が全く同じである、師弟の連鎖の一人なのですから、

彼自身の特別な貢献はありえません。

彼がなぜ知られる事になったかというと、

それまで口伝のみで教えられてきた伝統の正しい教えを、

注釈書という形で(もちろんサンスクリット語)、文字におとしたからです。

いつの時代でもそうであるように、シャンカラーチャーリヤの時代にも、

混乱し、間違ったウパニシャッドの理解が氾濫していました。

間違いは間違いだと指摘し、混乱を正し、

伝統の正しい理解を後世に残す為に、

ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、そしてブランマ・スートラに

注釈書を書くことを決心したのです。

その心意気は、バガヴァッド・ギーターの注釈書の始めにはっきりと、

彼自身によって書き表わされています。(*1)

シャンカラーチャーリヤの一生が映画化されています。

アーディ・シャンカラーチャーリヤとは


シャンカラーチャーリヤ以降、ヴェーダーンタを教える伝統の中で、

際立った先生には「シャンカラーチャーリヤ」というタイトルが与えられます。

それらの後の世代のシャンカラーチャーリヤと区別する為に、

元来のシャンカラーチャーリヤを、「最初の(アーディ)」という形容詞をつけて

「アーディ・シャンカラーチャーリヤ」呼ぶことがあります。

アーディ・シャンカラーチャーリヤは、インドの東西南北に、

4箇所のピータ(学問の為の「座」)を立て、4人の直弟子にそれぞれを任せました。

その4つのピータの最高位に立つ僧が「シャンカラーチャーリヤ」と呼ばれます。

現在ではなぜか、100人近くのシャンカラーチャーリヤがいる模様です。



シャンカラーチャーリヤという人物


ヴェーダーンタの勉強をする前には、必ず祈りのシュローカ(詩節)を唱えます。

この知識の伝統の中の先生達に「ナマハ」と敬意を示し、

知識を受け取られるよう、心のあり方を整え、

その為に必要なグレース(プンニャ)を得るために、

祈りのシュローカを唱えるのです。

その祈りのシュローカの中で、よく使われるのが、

シャンカラーチャーリヤという人物を説明しているシュローカです。

伝統の中の先生達のあり方を知り、心に持つことによって、

先生達とのコミュニケーションが出来る心が準備されるのです。


श्रुति-स्मृति-पुराणानाम् आलयं करुणालयम् ।
नमामि भगवत्पादं शङ्करं लोकशङ्करम् ॥
śruti-smṛti-purāṇānām ālayaṃ karuṇālayam |
namāmi bhagavatpādaṃ śaṅkaraṃ lokaśaṅkaram ||


文章の基幹:

私はその偉大な人物に敬意を示します。(भगवत्पादं नमामि [bhagavatpādaṃ namāmi])


その人物とは?:

シャンカラ。吉兆をもたらす人。シヴァの生まれ変わり。(शङ्करम् [śaṅkaram])


そして、この世の中に吉兆をもたらす人。(लोकशङ्करम् [lokaśaṅkaram] )


ヴェーダーンタも含めたヴェーダの意味(श्रुति [śruti])
マハーバーラタ等のスムルティと呼ばれる文献(स्मृति [smṛti])
そしてヴィシュヌ・プラーナなどのプラーナと呼ばれる文献(पुराण [purāṇa])

それら全ての文献に精通し、伝えられるべき意味を理解している人(आलयम् [ālayam])


それぞれの文献学者はいつの時代にも多くいますが、

ヴェーダーンタの意味を知りつつ、

さらに他の文献にも精通しているというのが、シャンカラーチャーリヤという人物です。


単に物知りなだけではなく、優しさや思いやりという言葉の意味

そのものの人物でもあります。(करुणालयम् [karuṇālayam])

「カルナー(करुणा [karuṇā])」とは、愛しみ、コンパッション、思いやり、共感

という意味のサンスクリット語です。


私はこの何年間か、ここ南インドのアシュラムにおいて、

シャンカラーチャーリヤの注釈書の一言一句を、

深く分析しながら、生徒達に説明するという生活を送っています。

一言一句の言葉の中に感じることは、彼のカルナー(愛情)ばかりです。

シャンカラーチャーリヤは無駄な言葉を一つも使わないという、

言葉の規律を尊重、厳守する人です。

彼の簡潔かつ理論的な言葉の選択という作業と、

その集大成である注釈書を書かせた動機は、

理解したいと願う、後世の生徒達への思いやりのみです。

それ以外のインタレストは彼には無いということもありますが、

言葉選びのひとつひとつに、母親のような愛情を感じられずにはいられません。


シャンカラーチャーリヤの像。
リシケシのテンプルにも、南インドのレクチャーホールにも、
黒いグラナイトで出来たシャンカラーチャーリヤの像があります。
オレンジはサンニャーシーの色。


シャンカラーチャーリヤが教えているのは、

シュルティで教えられている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタです。


シュルティとは何か、プラマーナとは何か、そして、

アドヴァイタ・ヴェーダーンタが教えていることは何か、

に間して、一般的な学者達に理解されていないがゆえに、

シャンカラーチャーリヤに関しても、間違った認識がされています。

ここでは、それらについて考えて見ましょう。


シャンカラーチャーリヤは哲学者ではない?


哲学者とは、本質とは何か?という問いに、その人自身の憶測を駆使して、

「私はこう考えました」と新しい概念や思想を提唱する人です。

近年では、そのような哲学者の思想を研究をする人も哲学者と呼ばれるようになりました。


一方、シャンカラーチャーリヤは、彼自身の意見や思想を持って教えていません。

人類の創造から脈々と続いている、ヴェーダの意味を教え継ぐ

先生と生徒の中の一人に過ぎません。

ヴェーダの教える意味、先生の理解、生徒の理解、全てが一致してこそ、

「知識の伝承」なのです。

しかも、教えている内容が、無限の存在なのですから、

ある先生の新しい考えを挿入することは出来ません。

シャンカラーチャーリヤの教えるヴェーダーンタのヴィジョンの中に、

彼自身の貢献は一切無いのです。


シャンカラーチャーリヤは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者ではない?


上と同じ理由で、シャンカラーチャーリヤだけではなく、

ヴャーサであれ誰であれ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者などいません。

重力の法則に創始者がいないのと同じです。

ヴェーダ自体にも著者はいません。

ニュートンのように、重力を発見した人がいるように、

ヴェーダのマントラを発見した賢人達がいます。

しかし、ヴェーダのマントラは、賢人たちによって著されたものではないのです。

ニュートンが「私のおかげで重力があるのだ!」と言えないように。


ゆえに、全てのヴェーダが人類に教えようとしている、

最終的な教えである、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにも創設者はいません。

そういう意味で、ヴェーダーンタは宗教でもなく、

哲学でもなく、科学でもないのです。


ヴェーダーンタは宗教ではない


ヴェーダーンタが宗教ではない所以は、

創設者がおらず、また信仰の対象ではないからです。

重力の法則に創設者がいないのと同じです。

また、重力の法則は、理解の対象であって、信仰の対象ではありません。

同じように、ヴェーダーンタはきちんと頭を明瞭にして、

主観や曖昧さを排除して、理解される為の対象であって、

信仰の対象ではありません。


ヴェーダーンタは哲学ではない


人の憶測などをベースとしているものが哲学というものです。

ヴェーダーンタのみならず、ヴェーダはプラマーナです。

まずは、プラマーナとは何であるかを、しっかり理解してからでないと、

ヴェーダ、ヴェーダーンタを勉強する意味はありません。

(質問があったので、ここに答えをまとめてシェアしますね。
「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?」


ヴェーダは科学ではない


科学というものは、

1.人間の五感と、

2.五感から得たデータを基にした推測

をプラマーナとして、理論を打ち立て、実験によって実証した知識です。

ヴェーダ自体が、1と2のプラマーナが扱う範囲とは、全く別の範囲を扱うプラマーナです。

そういう意味で、科学とは全く関係ありません。


今回は少し難しいテクニカルなことを書いたかもしれませんが、

とても大事なところなので、伝統を知る正しい先生についてしっかり勉強してください。




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>> 次回 59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])>>

不老不死の秘薬とは?

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(*1)ギーターのバーシャ(注釈書)の冒頭より:
तदिदं गीताशास्त्रं समस्तवेदार्थसारसङ्ग्रहभूतं दुर्विज्ञेयार्थम् ।
全てのヴェーダの意味のエッセンスであるギーターの意味は、理解が困難とされている。
तदर्थ-आविष्करणाय अनेकैः विवृतपदपदार्थवाक्यार्थन्यायमपि अत्यन्तविरुद्धानेकार्थत्वेन लौकिकैः गृह्यमाणम् उपलभ्य अहं विवेकतः अर्थनिर्धारणार्थं संक्षेपतः विवरणं करिष्यामि ।
その意味を明らかにするために、多くの学者によって研究が成されて来たが、とてつもなく矛盾した解釈が多く存在しているように世の中では理解されている。
それを見て私は、正しい理解により、ギーターの意味をはっきりさせる為に簡潔な説明を書くことにした。

2015年4月17日金曜日

54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ])- 善い人との繋がり、集まり

सत्सङ्गः 
[satsaṅgaḥ]


masculine - 善い人との繋がり、集まり




サットサンガの語源


「サット(सत् [sat])」と「サンガ(सङ्ग [saṅga])」という、

2つの言葉が複合語になって、「サットサンガ」になります。

ゆえに、まず「サット」と「サンガ」のそれぞれの意味を見て、

この2つの言葉がどのような関係を持って複合語になっているのかを理解しましょう。


サットの意味


「アス(अस् [as])= 存在する」という意味の動詞の原型から派生した「サット」には、

「存在する、真実の、高貴な、正しい、善い」といった幾つかの意味があります。

(詳しい文法的派生の解説は下を参照してください。)

それらの意味から、「善い人、ダルマに沿った正しい道を行く人、

つまり、ダルマを最優先にして生きている人、ダルマに生きた結果としておのずと、

人生の本当の意味を知る為に生きている人、次世代のお手本になる人」

といった人々を指すために「サット」という言葉が使われることもよくあります。


「サット」と呼ばれる人間の定義を見て、

「自分はそんな人間とは程遠い、そんな風には一生なれないよ~」と

思う人もいるかもしれません。しかし、誰にだって人を思いやる善い心はあります。

ダルマの根底にあるのは「アヒムサー(非暴力)」という価値感です。

アヒムサーという知識は、人種や性別、宗教や生まれ育ちに関係なく、

人間なら共通に誰でも持っているものです。


正しく教えられたヴェーダの知識は、そんな素晴らしい自分の一面に気付かせてくれます。

そして、自分の善い面を善いものだと知り、誇らしく思い、

それを培って大きく育てて行く方法を沢山教えてくれます。

その生き方を、ダルマの生き方と呼ぶのです。


ダルマの生き方、それは執着と嫌悪の支配から自分を解放すること


人間というものは、

「執着(ラーガ)=これが無いと私は幸せにはなれない!」と、

「嫌悪(ドヴェーシャ)=これさえ無くなれば私は幸せになれるのに!」の

2つに支配されています。

ある人や物、状況に対して精神的に依存し、その為ならダルマの一線を越しても構わない、

と思えてしまう心理・現実の理解が、ここで言う「執着と嫌悪」の定義です。

家族、恋人、人間関係、仕事、趣味、お金、権力、ファッション、健康、気分、etc.

に対する「執着と嫌悪」によって行動が決定されて、

忙しく西へ東へと走り回って、一生分の時間が過ぎます。




「本当にこれが無いと駄目?」「幸せって何?状況のこと?私のこと?」

などと客観的に問い直している時間も無いほどに、

無心に忙しく駆け回っています。一生は短いですから!

”自分の幸せを達成する為なら、少々ダルマに目をつぶっても、、、

周りのみんなだって普通に殺生しながら生きてるし!

私は幸せになりたいだけなの!幸せになる手段とは、

「執着と嫌悪」による行動をどんどん進めて、達成する事に決まってる!”

全人類がこのような世界観で行動し、全てのマーケットはそれが正しいことだと後押しします。

全ての根源は、「今の自分は駄目だ」という結論です。

「小さい自分 VS 巨大な世界」という認識から生まれる不安に押されて、

「執着と嫌悪」の追究が自分を幸せにする解決策だと信じて、行動を続けるのです。

これが古今東西の全世界の全人類の行動です。



一握りの運の良い人は、そんな渦中から一歩下がって、

自分の心の声を聞くことが出来て、

全世界の風潮から逆らってでも、ダルマの行動を始めます。

自分の都合の良さよりも、他の生き物の痛みに敏感になって行動を決めます。

自分の小ささから行動するのではなく、自分の大きさから行動をするのです。

ヴェーダの智慧は、自分がどれだけ大きな人間なのかを教えてくれます。

ダルマの生き方を実践すればするほど、自分がより寛大に成長します。

ダルマに生きるとは、「執着と嫌悪」から自分の行動を解放することです。

宇宙の法則の在り方(ダルマ)と調和した選択をしている人の心には、平和があります。

不安や恐怖、怒りさえも、宇宙の法則の中にあるのです。

心が惹かれたり離れたりすることも、宇宙の法則と調和しています。

だから、宇宙の在り方に安心して信頼していられるのです。

その人の心にはいつも平穏があり、常に客観性と思いやりに満ちた選択が出来るのです。


「執着と嫌悪」から解放された人の心には自然と、

「人生の本当の意味」について考えられる客観性と余裕が出てきます。

ここで「サットサンガ」が必要になります。


サンガの意味


サンガとは、「サンジ(सञ्ज् [sañj])= くっつく」という動詞の原型から派生しています。

そこから、「サンガ」は場合によっては「執着」のように使われる場合もありますが、

「関係を持つ、集まり、仲間」という意味にもなります。


「サットサンガ」の意味


「サット」と呼ばれる人達との繋がりを「サットサンガ」と言います。

自分と繋がっている「サット」な人々のことを「サットサンガ」と呼ぶことも出来ます。

そんな人々と集まり、一緒に話を聞いたり、勉強したり、歌を歌ったりして、

同じ時間を過ごすことも「サットサンガ」と呼びます。

人生の本当の意味を教えてくれる勉強を共にする仲間を「サットサンガ」と呼ぶこともあれば、

その意味を教えてくれる先生のことを「サットサンガ」と呼ぶときもあります。


サットサンガの必要性


ダルマの価値を良く知る為の教えに耳を傾ける、

ダルマを優先して生きる方法を学び、その生き方を生きる、

ヴェーダーンタやサンスクリットの勉強をする、

全ては独りで思いついて、独りで出来ることではありません。

最低、それについて教えてくれる先生が必要ですし、

見習える人や、サポートしてくれる人や体制が必要です。

プージャスワミジはいつも、このモークシャの為の生き方と勉強には、

「サットサンガが必要」と言っておられます。

人間の自然な傾向から逆らった追究であるがゆえだからでしょう。

私自身、始まりが無く繰り返されてきた前世の中で貯めたプンニャを全て使った、

といえるぐらい、今回の人生で、先生を始め、素晴らしい「サットサンガ」と呼べる人々に恵まれました。

本当に「サットサンガがあってこそ」と感謝があるのみです。。。


バジャ・ゴーヴィンダムのサンスクリット語を理解してみましょう


シャンカラーチャーリアが残した多くの詩歌の中で、特に有名なのが、

「バジャ・ゴーヴィンダム」です。

通説では全ての節がシャンカラーチャーリアによって作詞されたのではなく、

様々なアーチャーリャ(先生)たちの作品の寄せ集めだと言われています。


よく引用される節に「サットサンガ」という言葉が出てきます。

リズムがとても良く、発音も難しくないので、声に出して読んで貰いたく、
カタカナに訳してみました。

サットサンガットヴェー ニッサンガットヴァム
सत्सङ्गत्वे निस्सङ्गत्वं [satsaṅgatve nissaṅgatvaṃ]
サットサンガがあれば、限りのあるものに執着することが減り、

ニッサンガットヴェー ニルモーハットヴァム
निस्सङ्गत्वे निर्मोहत्वम् । [nissaṅgatve nirmohatvam |]
執着が無くなれば、現実に関する混乱が減り、

ニルモーハットヴェー ニスチャリタットヴァム
निर्मोहत्वे निश्चलतत्त्वं [nirmohatve niścalatattvaṃ]
現実に関する混乱が無くなれば、理解がぶれずに定着し、

ニスチャリタットヴェー ジーヴァンムクティヒ
निश्चलतत्त्वे जीवन्मुक्तिः ॥ [niścalatattve jīvanmuktiḥ ||]
理解がぶれない時、その人は生きながらにして全ての制限から自由である。

「~トヴェー」~がある時(第7格)、「~トヴァム」~がある(第1格)
という簡単な構成が4つ並んでいます。
ちなみに「トヴァ」とは、「~の状態」という意味です。

下線を引いた「ニッ」や「ニル」、「ニス」は全て語源は同じで、
3つとも全て、「~の無い」という意味です。

ゆえに、
サット(善い人との)サンガ(繋がり)がある時、サンガ(執着)が無い(ニッ)状態(トヴァ)がある。
ニッサンガットヴァがある時、モーハ(混乱)が無い(ニル)状態(トヴァ)がある。
ニルモーハットヴァがある時、チャリタ(ブレること)が無い(ニス)状態(トヴァ)がある。
ニスチャリタットヴァがある時、ジーヴァン(生きながら)ムクティ(自由)がある。

動詞の原型から全部知りたい人は、ご連絡下さい。


「バジャ・ゴーヴィンダム」の中で、私が好きなのは、
アーナンダギリというアーチャーリャが書いたとされる、この詩です。

ヨーガラトー ヴァー ボーガラトー ヴァー
योगरतो वा भोगरतो वा [yogarato vā bhogarato vā ]
ヨーガ(規律のある生活)に愉しんでいようが、ボーガ(快楽)に愉しんでいようが、

サンガラトー ヴァー サンガヴィヒーナハ
सङ्गरतो वा सङ्गविहीनः । [saṅgarato vā saṅgavihīnaḥ |]
サンガ(人々の中)で愉しんでいようが、人から離れていようが、

ヤッシャ ブランマニ ラマテー チッタム
यस्य ब्रह्मणि रमते चित्तं [yasya brahmaṇi ramate cittaṃ]
その人の心が、ブランマンにおいて愉しんでいるなら、

ナンダティ ナンダティ ナンダッティエーヴァ
नन्दति नन्दति नन्दत्येव ॥  [nandati nandati nandatyeva ||]
その人は愉しみ、愉しみ、ただ愉しんでいるだけ。

ブランマン(この宇宙の本質、無限の存在)が自分だと知っている人は、
他人から見てどうだとはジャッジ出来ないということです。

その人が何をしていようが、自分の本質を「知っている」ということ、
それのみが、その人を自由(限りが無い存在)にしているのだ。ということです。

文中に繰り返される「ram(愉しむ)」と共に、
最後の「ナンダティ」も「愉しむ」と訳しましたが、
幸せ=個人という限界から苛まされていないこと」という意味で「愉しみ」としました。

これぞ私の愉しみとして訳しているだけなので、インスピレーションとして取って下さい。
その意味をしっかり理解したい人は、伝統に基づいた手法でヴェーダーンタを教わった人で、
さらにその教え方を知っている人から、同じ伝統に基づいた手法で教わってくださいね。

一番有名な最初のスタンザ(詩)は、サンスクリット文法の勉強、
特にパーニニ文法を揶揄するもの、と間違って解釈されているので、
またの機会に説明しますね。


アシュラムでの「サットサンガ」の使われ方


先生から生徒へ、ヴェーダーンタの文献の意味を、

伝統的な手法で言葉によって伝えるフォーマルな文献の勉強の時間は、

それ自体がプージャーだと言われるくらいに神聖なものです。

ヴェーダーンタのクラスの最後に、先生にプージャーをする習慣がある程です。

そのようなクラスと区別して、フォーマルな教えの形式をとらない、

先生と生徒の集まりは、通称「サットサンガ」と呼ばれています。




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>> 次回 55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ]) >>

全体、宇宙、イーシュワラとの関わりを認識すること、
それが本当の意味のバクティです。







~~サンスクリット文法好きの人へ~~

「サット(सत् [sat])」
अस् भुवि + लट्   3.2.123
= अस् + शतृ      3.2.124
= स् + अत्    6.4.111
= सत्

「サンガ(सङ्ग [saṅga])」
सञ्च् सङ्गे + घञ्   3.3.18
सञ् ग् + अ     7.3.52
सन् ग् + अ     निमित्तापाये नैमित्तिकस्याप्यपायः ।
संग् + अ     8.3.24
सङ्ग् + अ    8.4.58

2015年4月8日水曜日

53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源

प्रमाणम् 
[pramāṇam]


neuter - 知る手段、情報源




プラマーナの語源


「マー(मा [mā])」とは、「知る」と言う意味の動詞の原型です。

「プラ(प्र [pra])」は動詞の前につく接頭語で、それ自体には意味は無いのですが、

「マー(मा [mā])」の意味を他の意味として取られないようにしています。

サンスクリット語で「お母さん」「~してはいけない」という時でも、

「マー(मा [mā])」が使われるからです。

動詞の原型の後についている接尾語は「アナ(अन [ana])」です。

「アナ(अन [ana])」には様々な意味がありますが、ここでは「~する手段」です。

全部併せると、「プラ+マー(知る)」+「アナ(~する手段)」、

つまり、「プラマーナ(知る手段、それによって知れるもの)」という言葉が出来上がります。

サンスクリットの文法って難しくないでしょ?でしょ?



プラマーナとは


対象物は何であれ、人間が何かを知る時には、

「その対象物を知る手段」つまり「プラマーナ」が必要です。

プラマーナを通してのみ、人は何かを知ることが出来るのです。

色や形を知るためには、「視覚」というプラマーナを使う。

音を知るためには、「聴覚」というプラマーナを使う。

明日晴れるかどうかを知るためには、目で見たデータを元にして、

それを論理的に処理して結果に導く「推測」というプラマーナを使う。

このように、プラマーナは何種類かに分類できます。


(カタカナばっかりになってしまうので、要点だけを押さえて簡素化しました。)

自分の身体の中に与えられたプラマーナ

1.五感

         i.    プラッティヤクシャ(五感)
        ii. サークシー・プラッティヤクシャ(空腹感など)

2.推論(五感から得たデータが元)

         i.    アヌマーナ
        ii. アルターパッティ
       iii. ウパマーナ
       vi. アヌーパラブディ
 と、4つありますが、全ては五感から得たデータに基づいて
 それを分析したものだと分かればそれでOKです。
 
自分の身体の外にあるプラマーナ

3.言葉

 a. パウルシェーヤ(人間の思考からの言葉)

         i.    出所が五感 「今朝あの人に会ったよ~」
        ii. 出所が推論 「顔色悪かったらきっと風邪引いたんだろうね」
       iii. 出所がアパウルシェーヤ … バガヴァッド・ギーターなど(スムルティ)

 b. アパウルシェーヤ(人間の思考からではない言葉)

         i.    独立したプラマーナ … ヴェーダ(シュルティ)



プラマーナである条件


・ 他のプラマーナと相反してはならない (अबाधितम्)

例えば、目の前のコップが2つに見える。しかし、触ったら1個だった。

視覚と触覚の2つのプラマーナが相反しています。

この場合は、視覚と言うプラマーナに欠陥があるので、メガネなどで補正する必要があります。


・ 他のプラマーナとかぶらない   (अनधिगतम्)

それぞれのプラマーナは、それぞれのエリアをカヴァーしていて、

他のプラマーナのエリアと重なったりしません。

例えば「視覚を使って聞いたりすることは出来ない」ということです。

当たり前すぎるようですが、ヴェーダで教えられている知識を正しく知ろうとする時に、

必ず前提として知っておくべきことです。

また、他の既存のプラマーナとかぶっているなら、

もうひとつのプラマーナとして数えられることは出来ません。


・ プラマーナを使う人に利益をもたらさなくてはならない。(फलवत्त्वम्)

これは言葉(シャブダ)がプラマーナである時に必要な条件です。

わざわざ言葉を使って、聞き手に何かを伝えているのですから、

聞き手の役に立つ新しい情報を提供するものでなければなりません。


プラマーナとして認められないもの


上で見た条件から、プラマーナとして認められないものをあげて見ると、、

・ 個人的な意見
・ 詩、作り話
・ 出鱈目、デマ
・ 直感、夢、お告げ、etc.

・ 言葉がプラマーナである場合:
  ・ 五感や推論に反するもの (अबाधितम्)
  ・ 聞き手の役に立たないもの (फलवत्त्वम्)
 
  ・ 言葉がプラマーナで、さらにアパウルシェーヤの場合:
    ・ 五感や推論で到達できる情報 (अनधिगतम्)



プラマーナに関する混乱が、情報リテラシーのレベルを下げる


無責任で利己的なな情報が溢れる中、自分自身の情報リテラシーのレベルが

落ちぶれないように常に気をつけないと、

プラマーナと呼ぶに値しないものを、プラマーナとしてとらえて論じ始め、

プラマーナと呼ばれるべきものを、「個人の意見」として片付けてしまう、

そんな混乱を自分自身の頭の中に招いてしまうのです。



何を知るために、どのプラマーナを使うか?


色や形を知るためには、視覚と言うプラマーナを使う。

こんなことは当たり前です。

では、自分自身を知るためには、どのプラマーナが適しているのか?

古今東西、自分と世界の真理を知る為の試みが、

哲学や宗教という名の下に続けられてきました。

哲学や宗教は、以下の情報の下に成り立っています。

A. 五感を基にした推論
B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ

哲学や宗教は、自分自身を知る為に適したプラマーナなのでしょうか?

A. 五感を基にした推論 では無理

五感や推論は、自分以外の対象物を対象化する為のプラマーナです。

世界のみならず、自分の身体や思考、感情も対象化し続けている、

意識的な主体=私を知る為に、五感や推論は使えません。


B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ でも無理

出所は五感では無いですが、

五感や推論に反するものであったり、(永遠の天国、無形で男性の神様など)

聞き手の幸せに貢献するものでなかったりするからです。(あなたは罪人です、など)




ヴェーダーンタ・プラマーナ


ヴェーダの最後の部分を、ヴェーダーンタ、或いはウパニシャッドと呼びます。

ヴェーダーンタは、自分と世界の本質を知る為の手段、

つまりプラマーナとして扱われています。


ヴェーダーンタを理解する為の伝統な論理手法として、

ウッタラ・ミーマームサーと呼ばれる学問があります。

そこでは、ヴェーダーンタのプラマーナとしての有効性が論理的に明らかされ、

さらに、プラマーナであるヴェーダーンタの教えの有効性が論理的に明らかにされます。


プラマーナ不在の精神世界マーケット


情報リテラシーに関して注意深くあるべきと常に気をつけていなければ、

ただでさえ正しい知識活動をするのは難しいのに、

一度「精神世界」「スピリチュアル」「宗教」の話になると、

人間の知能とは、局部麻酔にでもかけられた様に、機能を停止してしまうようです。


世界中に溢れている、「スピリチュアル」「エンライトメント」「サマーディ」

「覚醒」「解脱」「涅槃」「セルフ・ナレッジ」といったアイディアは、

どれも手探りの情報で、プラマーナと呼べるものではありません。

南インドのもっと南では、「自分自身について知りたければ、自分自身に聞けばよい」

と教えて瞑想を推奨し、プラマーナが何かなどとは考える余地も与えません。

どれも全ては、体験を追いかけるものばかりで、

体験者の本質を理解することと、人間の幸せとの関係を教えるものはありません。

インスパイアはしてくれても、辻褄の合う「教え」が無いのです。

体験を追いかけ、理屈に合わないけど、なんとなく気分のいい話を聞いていると、

それなりに満足感や心の平安を、一時的に与えることは出来るかもしれませんが、

一時的な体験であることから、ショッピングや旅行や晩酌と同じで、

根本的な解決には成り得ないのです。

プラマーナに関する質疑応答「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?



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<< 前回 52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ])<<

最近日本のヨガスクールでもどんどん教えられるようになってきましたが、充分な注意が必要です。





太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)の意味と、そのマントラについて

全身を使って太陽に礼拝することに、どのような意味が込められているのか、マントラとともに説明します。

2015年3月17日火曜日

サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順)

私がブログで解説を書いている

サンスクリット語の単語の一覧表です。


おめでとうございます。
どのようなきっかけであれ、この知識に行き着くということは、
始まりの無い過去から今までに貯めてきた多大な幸運が実ったということです。

タイトルにもあるように、一日一語ぐらい、もしくは一週間に一語ぐらいのペースで、
ゆっくり意味を味わってもらうことをお勧めします。
この知識が、欲する全ての人に届きますように。

Medha Michikaの著書の一覧はこちら

ア行

4. アーカーシャ(आकाशः [ākāśaḥ]) - 空間、空、スペース (五大元素の一つ) 
75.アーサナ(आसनम् [āsanam]) - 座法、座布団
3.アートマン(आत्मा [ātmā]) - 自分自身
82.アーナンダ(आनन्दः [ānandaḥ]) - 幸福、あらゆる制限から自由であること
19.アウシャディ(औषधिः - [auṣadhiḥ]) - 植物、薬、ハーブ、食物
20.アウシュニャ(औष्ण्यम् [auṣṇyam]) - 熱、暑さ
アグニ(अग्निः [agniḥ])  - 火、パンチャマハーブータ(五大元素)の一つ
2.アジャ(अजः [ajaḥ]) - 出生の無いもの(ブランマン)
1.アタ(अथ [atha]) - まず初めに、そして
アダルマ(अधर्मः [adharmaḥ])  - ダルマとは別の行動
アドリシュタ・パラ(अदृष्टफलम् [adṛṣṭaphalam])  - 見えない結果
49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ]) - 「これが私」という考え・結論
44.アヒムサー(अहिंसा [ahiṃsā]) - 非暴力
59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam]) - 不死、時間の範囲でないもの

(予定)アドヴァイタ

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 初心者にはわかりづらい、連続した子音文字について、
よく見かけられるもの、そして応用の利くものを集め、
豊富な例と共に紹介しています。
お祈りの句の書き写しの練習も紹介しています。 


 



7.イーシャ(ईशः [īśaḥ]) - 統治者
8.イーシュワラ(ईश्वरः [īśvaraḥ]) - 統治する者、権力者、神、宇宙の現象の全て
5.イダム(इदम् [idam]) - これ、この
6.イハ(इह [iha]) - ここ、この場所、これにおいて

9. ウダカ(उदकम् [udakam])  - 水
10.ウマー(उमा [umā])  - ウマー(パールヴァティの別称)
ヴァーユ(वायुः [vāyuḥ]) - 風、パンチャマハーブータ(五大元素)の一つ
50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])  - 聖典、知る手段


(予定)ウパニシャッド
(予定)ヴェーダーンタ
(予定)ヴィシュヌ

エーカーダシー(एकादशी [ekādaśī]) - 新月と満月から11日目の断食の日
14.エーシャハ(एषः [eṣaḥ]) - これ
13.エーヴァ(एव [eva]) - ~だけ、~のみ

16.オーシュタ(ओष्ठः [oṣṭhaḥ] )  - くちびる
15.オーム(ओम् [om]) - 全て(ブランマン)の音のシンボル



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インドのアシュラムや家庭で
日常的にチャンティング(朗唱)されている
数々のサンスクリットの祈りの詩節(シュローカ)の中から、
日本の読者に向けて選び集め、
サンスクリット語の原文からの日本語訳と解説を付けました。


音源のダウンロードはこちらから。

音声付きのKindle版もあります。


従来の混乱した認識・手垢のついた陳腐な専門用語は意識して使用せず、
読者に腑に落ちて理解してもらうための簡潔・適格な日本語に訳すように努めました。
インド悠久の智慧の言葉は、単に気分を良くするためにあるのではなく、
自分の存在の意味として、理解するためにあるからです。
 
 
カ行

23.カーカ(काकः [kākaḥ]) - カラス
24.カーラ(कालः [kālaḥ]) - 時間
67.カーリー(काली [kālī]) ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:1
39.カイラーサ(कैलासः [kailāsaḥ]) - マウント・カイラーシュ、カイラーサ山
40.カイヴァッリャ(कैवल्यम् [kaivalyam]) - 唯一であること、モークシャ、人生のゴール
41.カウムディー(कौमुदी [kaumudī] ) - 月明かり、月光、さわやかな冷たい月からの光
42.カウラヴァ(कौरवः [kauravaḥ] ) - クル家の子孫
21.カター(कथा [kathā])  - お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話
22.カマラ(कमलम् [kamalam] ) - 蓮
64.カルマ(कर्म [karma])  - 自由意志を使って選んで行う行為

ガーヤットリー・マントラ


ガネーシャへのお祈りのシュローカ  
27.キータ(कीटः [kīṭaḥ]) - (這う)虫
28.キールティ(कीर्तिः [kīrtiḥ]) - 名声、有名であること
25.キム(किम् [kim]) - 何
26.キラナ(किरणः [kiraṇaḥ]) - 光線、太陽から注す光の筋

31.クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ]) - 不動の、不変の
32.クーパ(कूपः [kūpaḥ]) - 井戸
87.毘沙門天の原型、クベーラ(कुबेरः [kuberaḥ])について
29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ]) - 幼年期の男子、シヴァとパールヴァティーの息子
30.クラ(कुलम् [kulam]) - 家、家庭、家系
34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ]) - クリシュナ
33.クリパー(कृपा [kṛpā]) -  思いやり、優しさ、深い共感
60.グル(गुरुः [guruḥ]) - (自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星

35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ]) -  クリシュナ
36.ケーヴァラ(केवल [kevala]) - 唯一の、ただそれだけ

37.コーシャ(कोशः [kośaḥ]) - (剣や刀を収める)鞘(さや)、被覆するもの
38.コーティ(कोटिः [koṭiḥ]) - 数え切れない位の大きな数字

 

 ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持たれたて来た方が、
 まず一番に習うプレーヤー(祈りの句)を、学び易いレイアウトで
 まとめました。

 さらに、「祈りって何?」「誰に祈るの?」
「神様を信じる必要はある?」といった、
 祈りの疑問に関しても、現代人の腑にすっきり落ちるよう、
 全て理論的に答えています。



サ行

51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ]) - 達成する者
54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ]) - 善い人との繋がり、集まり
46.サマーディ(समाधिः [samādhiḥ]) -  集中、心が一つになっていること
63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ]) - 別の自分になろうとすること
サラッスヴァティー(सरस्वती [sarasvatī]) - 知恵・芸術の女神
70.サラッスヴァティー(सरस्वती [sarasvatī])  - 知恵・芸術の女神
サンカルパ(सङ्कल्पः [saṅkalpaḥ]) - 心に決めること 
76.サンスクリット(संस्कृतम् [saṃskṛtam]) - ヴェーダの言語 
78.サンヴァーダ(संवादः [saṃvādaḥ]) - 対話、ダイアローグ 

77.シッダールタ (सिद्धार्थः [siddhārthaḥ]) 
85.シャブダ(शब्दः [śabdaḥ]) - 音、言葉
45.シャーンティ(शान्तिः [śāntiḥ]) - 平安、平穏、鎮静、衝突の無い状態
57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])  - 吉兆をもたらす者、シヴァの名称のひとつ
58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ]) - シャンカラという名前の先生
スーリャ・ナマスカーラの意味とマントラの説明
 
92.セーヴァー(सेवा [sevā]) - 世話、助ける側、貢献する側で、他の役に立つ行動をすること 
 
(予定)サードゥ
(予定)シヴァ
(予定)ジャパ

71.73.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam]) -  意味発音


タ行

79.ダーナ(दानम् [dānam]) - 与えること
ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) - その時その場所で自分が取るべき行動
65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) - 世界のあり方を支えている法則
80.ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ]) - 医学・薬学の原理、ヴィシュヌの姿のひとつ
68.ドゥルガー(दुर्गा [durgā]) - 破壊の女神、理解され難いもの
ドリシュタ・パラ(दृष्टफलम् [dṛṣṭaphalam]) - 見える結果
48.デーヴァター(देवता [devatā])  - 法則を司る神
(予定)ダクシナームールティ
(予定)デーヴァ
(予定)トゥリーヤ
72.トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī])- 主体・客体・その手段といった、3つ組 

ナ行

43.ナマステー(नमस्ते [namaste]) - あなたに尊敬を持って認識しています
66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam]) - 永遠、時間の範囲内でないこと

ハ行

「ハリオ~ム」は「ハリヒ・オーム」
61.ハリ(हरिः [hariḥ]) - 苦しみを取り去る者
パーパ(पापम् [pāpam]) - 不適切な行為の結果、不快な経験の原因
パンチャ・マハーブータ 五大元素
56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])  - バクティを持っている人
55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ]) - 深く関わること、献身的に努めること
プージャー (पूजा [pūjā]) - イーシュワラとの関わりを認識する為の儀式
53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam]) - 知る為の手段
プリティヴィー(पृथिवी [pṛthivī]) - 地、パンチャマハーブータ(五大元素)の一つ
プンニャ(पुण्यम् [puṇyam]) - 善い行いの結果、快適な経験を与えてくれる

ホーマ (होमः [homaḥ]ヴェーダで教えられている火の儀式

(予定)バガヴァーン
(予定)ブランマン

マ行

47.マウナ(मौनम् [maunam]) - 沈黙、言葉の制御
86.マハー・バーラタ(महाभारतम् [mahābhāratam]) - 偉大なるバラタ族の歴史物語 
83.マハートマー(महात्मा [mahātmā]) -  聖人、寛大な心を持った人
52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ]) - マントラ、ヴェーダの言葉
62.メーダー(मेधा [medhā]) - 知性、知力、知の女神

番外編: マルちゃん(महिषासुरमर्दिनी [mahiṣāsuramardinī])


ヤ行

「ヨガ」は「ヨーガ」、「ヨギ」は「ヨーギー」、「ヨギーニ」は「ヨーギニー」
(予定)ヨーガ

ラ行

ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ]) - 富の女神
69.ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ]) - 富の女神
ラーマーヤナ 日本語訳 (रामायणम् [rāmāyaṇam])
12.リク(リグ)(ऋक् [ṛk] ) - マントラ、韻文
84.リシ(ऋषिः [ṛṣiḥ]) - マントラを発見した聖者・賢者
11.ルタ(ऋतम् [r̥tam]) - 真実


サンスクリット語の数字
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味:

1.阿吽(あうん)、阿伽/閼伽(あか)、阿闍梨(あじゃり)、阿修羅(あしゅら)
2.阿僧祗(あそうぎ)、尼(あま)、阿羅漢(あらかん)、刹那(せつな)、僧伽(さんが)
3.不動明王(ふどうみょうおう)
4.護摩(ごま) 閻魔(えんま)
5.禅(ぜん) 檀那・旦那(だんな) 南無(なむ) 








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