発音や意味の変わり方が面白いと思ったので、
仏教用語の語源になっているサンスクリット語を集めてみました。
今回こちらで説明するのは、
ヴェーダの伝統に基づくサンスクリット語の意味だけにしますね。
仏教はもちろんヴェーダの文化から生まれた哲学ですが、
似ているようで、本質的な違いは沢山あるので、
ごっちゃにしない方がいいです。
仏教が教える伝統の瞑想方法や心の鍛える方法は、
相対的な心の平和を育てるのに役立ちますが、
仏教学者の説く真理は、ヴェーダーンタと異なっているからです。
どの面で異なっているかというと、挙げれば切が無いほど沢山ありますが、
詰まるところは「アドヴァイタ(अद्वैत [advaita])」という点です。
アドヴァイタとは、「真実というからには、
それは時間も含めたこの世界の何からにも制約を受けない、
そして時間も含めたこの世界の全てに存在を与えている、
ゆえに唯一の存在であり、だからそれはあなたです」
という真実です。ヴェーダーンタの教えはそれを理解する為の手法です。
見た目が似ているからといって同一視しては、余計に解きにくい混乱を招くだけなので、
切り離して考えるのがよいでしょう。
前置きはこれくらいにして、、、
あいうえお順で行きますね。
仏教用語としての意味の参考に(なるかは分からないですが)、
それぞれの言葉にウィキペディアのリンクを貼っておきました。
サンスクリット語では「ओम्, ॐ [om](オーム)」です。
「ア」から「ム(日本語ではン)」まで、この世界にある名前の全て、
という意味で似ていますね。
尊敬を示しながら来賓を迎え入れることを、
サンスクリット語では「アルガ(अर्घः [arghaḥ])」と言います。
そこから派生して、迎賓に使われる花や聖水などは、
「アルギャ(अर्ध्यम् [arghyam])」と呼ばれます。
来賓は人間だけでなく、デーヴァター達も、プージャーをする時には来賓として扱われ、
マントラと共に様々なものが捧げられます。
ゆえに、プージャーの段取りと来賓を迎える段取りは同じです。
来賓を迎えたら、座ってもらうための椅子「アーサナ(आसनम् [āsanam])」を勧めて、
まず足を洗います。足を洗う水は「パーディヤ(पाद्यम् [pādyam])」と呼ばれます。
そしてお香やお花などの「アルギャ(अर्ध्यम् [arghyam])」を捧げ、
「アーチャマナ(आचमनम्)[ācamanam]」と呼ばれる、
水を掌からすする行為を3回します。
アーチャマナ用の水を入れる銅製の容器を
「パンチャパートラ(पञ्चपात्रम् [pañcapātram])」と呼び、
それに水をすくうスプーンのようなものを「ウッダラナ(उद्धरणम् [uddharaṇam])」
と呼びます。
「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」から派生したそうです。
シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])の項でも説明しましたが、
「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」とは「先生」という意味のサンスクリット語で、
その語源から、
1.文献(ヴェーダ)の意味を教え、
2.その意味に従って生きるように教え、
3.自分自身も文献の意味に生きる人、
というような人がアーチャーリヤと呼ばれます。
サンスクリット語の「アスラ(असुरः [asuraḥ])」から来ました。
プラーナ(インドの古事記のような物語集)に鬼役として登場するキャラクターです。
「アスラ(असुरः [asuraḥ])」の語源は、
「असुषु रमते इति असुरः [asuṣu ramate iti asuraḥ]
(感覚器官において楽しむ者を、アスラと呼ぶ)」
असुः [asuḥ] とは、感覚器官のことです。
感覚器官において(असुषु [asuṣu])楽しむ(रमते [ramate])、
その人を「アスラ(असुरः [asuraḥ])」と呼びます。
気持ちいい~、気分いい~、を人生の目標として立てて、
それにコミットした生き方をしている人のことです。
ということは、この地球上の殆んどの人?
人間の身体というものは、たかだか1~2メートルの大きさの、
ガタガタいいながらそのうち壊れる代物です。
世界の片隅の無職のおっさんも、
世界を動かしている超ビッグな大富豪や権力者でも、
持っている身体はだいたい同じようなもの。
戦争を仕掛けてお金儲けしたりして、非道な手段に駆り立てる動機は、
権力や巨額の富。でも、そのお金で何するの?
煮詰めると結局は、小さくて惨めな身体を喜ばせること位しか出来ないのです。
どんなにお金を費やしても、人間の感覚器官を通して得られる快楽はたかだか知れています。
ちなみに天国用の身体だと、もっと快適に過ごせるそうです。
地上の人間の身体というものは、快適・快楽に過ごすには、
あまり適していない代物ということですね。
そんなつまらない事の為に、アダルマに人生を費やすのは、
せっかくの人生がもったいないですね。
アスラと言えば、ラーマーヤナに出てくる、
ラーマの奥さんのシーターをスリランカに誘拐したラーヴァナ王です。
彼の特徴は、顔が10もあること。普通のドアなら正面から通れませんね。
10もある顔は、人格の不調和を表しています。
実はラーヴァナは、サーマヴェーダを歌う高貴な人なのです。
しかし嫉妬や怒り、権力への渇望といった強い感情に操られるがままに、
ダルマに背いた行動がやめられない。
お金や権力、快楽への執着(過大評価)とは結局、
自己評価の低さ・自己受容の無さの表れです。
自分自身についてハッピーな人は、ダルマに背く理由を持っていません。
1.どうにか頑張ってハッピーな状態を作る
→ それでは常にハッピーは無理です。なぜかって?生きていてそれを知らない人はいません。
2.自分はハッピーなのだと思い込む。ポジティブシンキング!
→ 思い込まないといけない、ということは、それは事実に反していると認めているのと同じです。余計に虚しい。
3.幸せの意味は自分である、という事実を理解する
→ 自分自身が幸せの意味ってどいうこと?それを客観的・理論的に理解する為の教えがヴェーダーンタです。
人間として生まれてダルマを知らないことなどありえません。
また、自分の立場において期待される正しい義務や役割も知らないわけはありません。
ゆえに、ダルマに反した行為を繰り返す人は、
心の中が葛藤だらけで不調和を起こし、自己評価も自己受容もさらに低くなり、
心の平和は遠のくばかりです。
目先の欲につられずに、出来る限りダルマに沿った行動を選ぶのが、
結局は一番賢明な方法なのです。
心をシンプルに、平和に、そして自由に保てるからです。
まだ「あ」始まりの途中なのに、もうこんなに書いてしまった。。
シリーズの次回は、阿修羅の反対の、修羅(しゅら)から書き始めますね。
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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)
阿僧祗(あそうぎ)、尼(あま)、阿羅漢(あらかん)、
刹那(せつな)僧伽(さんが)
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(3)
不動明王 & シヴォーハムとは
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)
<< 前回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) <<
これも「達磨(だるま)」という日本語になって
使われているサンスクリット語ですね。
>> 次回 66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam])>>
永遠という意味のサンスクリット語です。
永遠にも大きく分けて3種類あります。
それらをひとつずつ詳しく説明しますね。
仏教用語の語源になっているサンスクリット語を集めてみました。
今回こちらで説明するのは、
ヴェーダの伝統に基づくサンスクリット語の意味だけにしますね。
仏教はもちろんヴェーダの文化から生まれた哲学ですが、
似ているようで、本質的な違いは沢山あるので、
ごっちゃにしない方がいいです。
日本の仏像も基本的には ヤッニョーパヴィータ(襷掛けの紐、ヒンドゥー男子の必須アイテム)と ドーディ(腰に巻く布)がお決まり。 |
仏教が教える伝統の瞑想方法や心の鍛える方法は、
相対的な心の平和を育てるのに役立ちますが、
仏教学者の説く真理は、ヴェーダーンタと異なっているからです。
どの面で異なっているかというと、挙げれば切が無いほど沢山ありますが、
詰まるところは「アドヴァイタ(अद्वैत [advaita])」という点です。
アドヴァイタとは、「真実というからには、
それは時間も含めたこの世界の何からにも制約を受けない、
そして時間も含めたこの世界の全てに存在を与えている、
ゆえに唯一の存在であり、だからそれはあなたです」
という真実です。ヴェーダーンタの教えはそれを理解する為の手法です。
「浄土に行く」は真実とは関係のない話のレベルとして
(ちなみにヴェーダでは天国もサムサーラの範囲内です)、
「真実は無い」とか「何も存在しない」とか「全ての真実は考えのフローです」では、
アドヴァイタには辿り着けません。
見た目が似ているからといって同一視しては、余計に解きにくい混乱を招くだけなので、
切り離して考えるのがよいでしょう。
前置きはこれくらいにして、、、
あいうえお順で行きますね。
仏教用語としての意味の参考に(なるかは分からないですが)、
それぞれの言葉にウィキペディアのリンクを貼っておきました。
仏教用語の語源となったサンスクリット語の説明
阿吽(あうん)
サンスクリット語では「ओम्, ॐ [om](オーム)」です。
「ア」から「ム(日本語ではン)」まで、この世界にある名前の全て、
という意味で似ていますね。
阿伽/閼伽(あか)
尊敬を示しながら来賓を迎え入れることを、
サンスクリット語では「アルガ(अर्घः [arghaḥ])」と言います。
そこから派生して、迎賓に使われる花や聖水などは、
「アルギャ(अर्ध्यम् [arghyam])」と呼ばれます。
来賓は人間だけでなく、デーヴァター達も、プージャーをする時には来賓として扱われ、
マントラと共に様々なものが捧げられます。
ゆえに、プージャーの段取りと来賓を迎える段取りは同じです。
来賓を迎えたら、座ってもらうための椅子「アーサナ(आसनम् [āsanam])」を勧めて、
まず足を洗います。足を洗う水は「パーディヤ(पाद्यम् [pādyam])」と呼ばれます。
そしてお香やお花などの「アルギャ(अर्ध्यम् [arghyam])」を捧げ、
「アーチャマナ(आचमनम्)[ācamanam]」と呼ばれる、
水を掌からすする行為を3回します。
パンチャパートラとウッダラナ |
「パンチャパートラ(पञ्चपात्रम् [pañcapātram])」と呼び、
それに水をすくうスプーンのようなものを「ウッダラナ(उद्धरणम् [uddharaṇam])」
と呼びます。
阿闍梨(あじゃり)
「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」から派生したそうです。
シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])の項でも説明しましたが、
「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」とは「先生」という意味のサンスクリット語で、
その語源から、
1.文献(ヴェーダ)の意味を教え、
2.その意味に従って生きるように教え、
3.自分自身も文献の意味に生きる人、
というような人がアーチャーリヤと呼ばれます。
阿修羅(あしゅら)
サンスクリット語の「アスラ(असुरः [asuraḥ])」から来ました。
プラーナ(インドの古事記のような物語集)に鬼役として登場するキャラクターです。
「アスラ(असुरः [asuraḥ])」の語源は、
「असुषु रमते इति असुरः [asuṣu ramate iti asuraḥ]
(感覚器官において楽しむ者を、アスラと呼ぶ)」
असुः [asuḥ] とは、感覚器官のことです。
感覚器官において(असुषु [asuṣu])楽しむ(रमते [ramate])、
その人を「アスラ(असुरः [asuraḥ])」と呼びます。
気持ちいい~、気分いい~、を人生の目標として立てて、
それにコミットした生き方をしている人のことです。
ということは、この地球上の殆んどの人?
人間の身体というものは、たかだか1~2メートルの大きさの、
ガタガタいいながらそのうち壊れる代物です。
世界の片隅の無職のおっさんも、
世界を動かしている超ビッグな大富豪や権力者でも、
持っている身体はだいたい同じようなもの。
戦争を仕掛けてお金儲けしたりして、非道な手段に駆り立てる動機は、
権力や巨額の富。でも、そのお金で何するの?
煮詰めると結局は、小さくて惨めな身体を喜ばせること位しか出来ないのです。
どんなにお金を費やしても、人間の感覚器官を通して得られる快楽はたかだか知れています。
ちなみに天国用の身体だと、もっと快適に過ごせるそうです。
地上の人間の身体というものは、快適・快楽に過ごすには、
あまり適していない代物ということですね。
そんなつまらない事の為に、アダルマに人生を費やすのは、
せっかくの人生がもったいないですね。
アスラ代表で登場してもらったのは、顔が10あるラーヴァナ。 ラーマの奥さんシーターを、シュリランカーに誘拐した犯人です。 |
アスラと言えば、ラーマーヤナに出てくる、
ラーマの奥さんのシーターをスリランカに誘拐したラーヴァナ王です。
彼の特徴は、顔が10もあること。普通のドアなら正面から通れませんね。
10もある顔は、人格の不調和を表しています。
実はラーヴァナは、サーマヴェーダを歌う高貴な人なのです。
しかし嫉妬や怒り、権力への渇望といった強い感情に操られるがままに、
ダルマに背いた行動がやめられない。
お金や権力、快楽への執着(過大評価)とは結局、
自己評価の低さ・自己受容の無さの表れです。
自分自身についてハッピーな人は、ダルマに背く理由を持っていません。
自分自身について、どうやったらハッピーになれるのか?
1.どうにか頑張ってハッピーな状態を作る
→ それでは常にハッピーは無理です。なぜかって?生きていてそれを知らない人はいません。
2.自分はハッピーなのだと思い込む。ポジティブシンキング!
→ 思い込まないといけない、ということは、それは事実に反していると認めているのと同じです。余計に虚しい。
3.幸せの意味は自分である、という事実を理解する
→ 自分自身が幸せの意味ってどいうこと?それを客観的・理論的に理解する為の教えがヴェーダーンタです。
人間として生まれてダルマを知らないことなどありえません。
また、自分の立場において期待される正しい義務や役割も知らないわけはありません。
ゆえに、ダルマに反した行為を繰り返す人は、
心の中が葛藤だらけで不調和を起こし、自己評価も自己受容もさらに低くなり、
心の平和は遠のくばかりです。
目先の欲につられずに、出来る限りダルマに沿った行動を選ぶのが、
結局は一番賢明な方法なのです。
心をシンプルに、平和に、そして自由に保てるからです。
まだ「あ」始まりの途中なのに、もうこんなに書いてしまった。。
シリーズの次回は、阿修羅の反対の、修羅(しゅら)から書き始めますね。
【新刊のお知らせ】
インドのアシュラムや家庭で日常的にチャンティング(朗唱)されている
数々のサンスクリットの祈りの詩節(シュローカ)の中から、
日本の読者に向けて選び集め、
サンスクリット語の原文からの日本語訳と解説を付けました。
祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば Medha Michika 著 祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば Kindle版 (音声付) | |
わかりやすいサンスクリット語の正しい発音と表記 - 詳しい理論解説 発音矯正指導 Medha Michika著 わかりやすいサンスクリット語の発音と表記 Kindle版 (動画・音声付き) |
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)
阿僧祗(あそうぎ)、尼(あま)、阿羅漢(あらかん)、
刹那(せつな)僧伽(さんが)
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(3)
不動明王 & シヴォーハムとは
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)
<< 前回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) <<
これも「達磨(だるま)」という日本語になって
使われているサンスクリット語ですね。
>> 次回 66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam])>>
永遠という意味のサンスクリット語です。
永遠にも大きく分けて3種類あります。
それらをひとつずつ詳しく説明しますね。