2016年11月18日金曜日

81.ヨーガ、ヨガ(योगः [yogaḥ])得ること、精神集中、得る手段

サンスクリット語の発音


もう日本語になったかもしれない、「ヨガ」という言葉。

既に日本語になったとして、日本語の発音としてなら、「ヨガ」という発音でいいと思いますが、

サンスクリット語として発音するのなら、「ヨーガ」と伸ばすべきですね。

なぜなら、サンスクリットには、短い「エ」や「オ」の音は無いからです。

「エー」と「オー」は、二拍分の長い音なので、「yoga」は「ヨーガ」となります。

発音についての記事も、さらに読みやすく・分かり易くアップデートしておきました。

サンスクリットは発音が大事!「ヨガ」は「ヨーガ」、「ヨギ」は「ヨーギー」、「ヨギーニ」は「ヨーギニー」です。 

伸ばしてね。

ヨーガの語源


サンスクリットの言葉は全て、

「原型+接尾語」

という枠組みで説明できます。


「ヨーガ(योग [yoga])」 という言葉は、

動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」に、接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を付加して出来た言葉です。

「ユジとは、つながること、、」と、

サンスクリット語文法を全く知らないヨガの先生でも教えていますが、

動詞の原型ユジには「つながる」という意味以外にも、いくつかの意味があります。

そして、接尾語にもいくつかの意味があります。

動詞の原型の意味と、接尾語の意味を、ひとつずつ組み合わせて、

「ヨーガ(योग [yoga])」というひとつの言葉になるのです。

ゆえに、一言でヨーガといっても、その使われ方によって、様々に意味が異なります。

庭の池に咲く蓮たち。

では、動詞の原型である「ユジ(युज् [yuj])」の意味、

そして、接尾語の「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味を、

それぞれ見て行きましょう。


動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」の意味


「ユジ(युज् [yuj])」という動詞の原型には3種類あり、

それぞれが別の意味を持っています。

1.「得る、繋げる、など」 という意味 (第7グループのयुज् योगे)

2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

3.「制御する、締め付ける、など」」 という意味 (第10グループのयुज् संयमने) 


いろいろありますね。似てるようで、違う。

ムルガン・テンプルにて。ムルガンの乗り物は、孔雀。

接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味


こちらにも様々な意味があります。

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

・ 「それによって~するもの」という、動詞の意味である動作を達成するための手段を表す(करणे)

・ 「~されるもの」という、動詞の目的語を表す(कर्मणि)

などなど、、、


3通りの意味のある「ユジ(युज् [yuj])」に、

これまた様々な意味のある「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を

組み合わせて作ることが出来るゆえに、

 「ヨーガ」という言葉には使い方によって様々な意味がある


のです。

意味は、「どこで、どのような意図で使われているのか」を見て決定します。


では、「ヨーガ」という言葉がどのように使われているのか、

いくつか例を見てみましょう。


インドの山奥で、野生の孔雀達と共に暮らしています。

一般的な「ヨーガ」の意味


ここでの「一般的」とは、「普通に言語で使われる」、ということで、

「専門用語や固有名詞ではない」、ということです。

一般的に言語の中で「ヨーガ」という言葉は、

「(何か持っていないものを)得ること」として使われる場合が多いです。

「ヨーガ(得ること)・クシェーマ(それを維持すること)」と、

ペアで使われることもあります。

ギーターでも何度かそのようにして出てきますね。

有名なシュローカに、

श्रीभगवानुवाच ।
अनन्याश्चिन्तयन्तो मां ये जनाः पर्युपासते ।
तेषां नित्याभियुक्तानां योगक्षेमं वहाम्यहम् ॥
śrībhagavānuvāca |
ananyāścintayanto māṃ ye janāḥ paryupāsate |
teṣāṃ nityābhiyuktānāṃ yogakṣemaṃ vahāmyaham ||

バガヴァーンは教えました
私と離れた存在ではなく、それを知り、認識し続ける人々、
常に私とひとつである人々のヨーガ(得ること)とクシェーマ(保持すること)を私は与えます。


インドの最大手保険会社のロゴにも使われています。

これです。手の下の文字が読めますか?

ヨーガ・スートラの「ヨーガ」の意味


ヨーガ・スートラと聞いた途端、前のめりになる人は多いのではないでしょうか。

昨今では、ヨガ(アーサナ)を始めて、少しすると、

「体を曲げ伸ばしするだけがヨガじゃない!もっと深い意味があるはず!」

「頭は、ヘッドスタンドするためだけに身体にくっついているのではない!

もうちょっと別の使い方をしなければ!」

と気づき始めた人が、最初に手に取る文献が「ヨーガ・スートラ」である場合が多いようです。





さて、ヨーガ・スートラで使われている「ヨーガ」という言葉の意味は、、

ヨーガ・スートラでの、ヨーガの定義は「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः [yogaścittavṛttinirodhaḥ] 」 ですね。

ヨーガ・スートラの有名な解説書のひとつである、भोज्-वृत्तिः を見てみると、

「योगो युक्तिः समाधानम् [yogo yuktiḥ samādhānam]」とあります。

つまり、、、


2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

という動詞の原型の意味に、

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

という接尾語を足した、「心を集中させること」ですね。

ヨーガ・スートラの教える心の集中のテクニックは、様々な面で役に立ちますが、

バガヴァッド・ギーターの教える、カルマ・ヨーガの代替になるようなものではありません。

同じヨーガでも、混同しないように注意しましょう。



ギーターの教えるヨーガ


バガヴァッド・ギーターでも、ヨーガという言葉が繰り返し使われます。

使われる場所・コンテクストによって、意味が大きく変わるので、

単に流通している訳本を読んで自分流に納得するのは危険です。

ギーターもウパニシャッドも全て、その意味を受け継いだ先生から教えてもらうようになっている、

ということは、ギーターとウパニシャッドそのものの中で教えられています。


2章にあるヨーガの二つの定義

समत्त्वं योग उच्यते । २.४८॥ [samattvaṃ yoga ucyate ] と、

योगः कर्मसु कौशलम् । २.५०॥ [yogaḥ karmasu kauśalam] では、

自分に与えられた義務をこなすこと、つまり自分の人生そのものを、

ヨーガへとするために必要な、理解と姿勢が教えられています。

ここで、パタンジャリのヨーガで得た知識を引きずっていると確実に混乱するので、

先にヨーガを勉強してしまった人は、別物として、真っ白な心で向かう必要があります。

そして、3章でも二つのヨーガの定義があります。

लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।
ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥
loke'smin dvividhā niṣṭhā purā proktā mayā'nagha |
jñānayogena sāṅkhyānāṃ karmayogena yoginām ||3.3||

ここでは二つのライフスタイルが、ヨーガという言葉で教えられています。

6章でもヨーガの定義がされています。

तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसंज्ञितम् । ६.२३॥
taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasaṃjñitam | 6.23||

その、悲しみによる自己認識(サンヨーガ)から離れること(ヴィヨーガ)が、
ヨーガであると、知りなさい。

世の中にはサンスクリット語だけでも、数え切れないほどの文献がありますが、

人生の意味を完全に満たす文献は、ギーターが包括的で、ギーターだけで充分です。


「○○・ヨーガ」「△△・ヨーガ」のヨーガ

 

最近は、いろいろな名前のヨーガが溢れていますね。

それは、より多くの人が、

消費という市場で推奨されている「幸せになる手段」の限界を見抜きはじめ、

それらとは別の、もっと精神的な、物質的なものに頼らない、

根本的な解決法を探りはじめた証拠です。


ありとあらゆる衣食住の形、快楽の形が提供されているこの消費社会で、

「それもいいけど、私はそれだけの為に生まれてきたわけではない」

「それらは本質的とは言えない。 一時的な気分の良さしかもたらさないから」

「お金やスキル、結婚や家族、地位や名声は手段であり、それ自体がゴールではないのでは?」

という、ものごとの限界の見極めが出来るようになった人も、

「ヨーガ」と名前のつくものに惹かれ、

そして最終的には、

インドの文献で教えられている知識に、おのずと惹かれていくものです。




ここでは、いろいろな「ヨーガ」の中で、どのように「ヨーガ」という言葉が使われているのか、

という点にのみに着目してみましょう。


どうやら、何か目指すものやゴールがあって、それを「得る為の手段」のようですね。

そのような意味の取り方をするなら、

動詞の原型「ユジ」の意味は、「得る」という意味で、

接尾語の意味は、「~する手段」ということになりますね。



もしそうなら、「ヨーガを通して何を得るのか?」

「自分が本当に得るべきものは何か?」

そして、「得るべきものと、その手段は、ちゃんとマッチしているか?」

「手段が目的になっていないか?」

というポイントを明確にするために、常に問いかけ続ける必要があります。

シャンカラーチャーリヤ

なぜなら、人は往々にして、忙しさゆえに、

自分が本当に欲しいもの、求めるべきものに関して混乱しがちで、

混乱ゆえに、「次はこれが私を幸せにしてくれるだろう」と、

手当たり次第に、次から次へと新しいものを追い求め続け、

さらに忙殺され、自分が本当に何を求めるべきか、なんてことを考える暇もなくなってしまう。。。

という、根本的な矛盾に陥ったまま、一生を終えるのが、人間の普通のありかたです。
 
このように、生きて、死に、また生まれては、、、と繰り返すのがサムサーラです。

 (だいぶ前に、人生の目的(プルシャ・アルタ)についてコラムを書きました。)




頭のヨーガ、サンスクリット語の勉強!


どさくさに紛れて、サンスクリット文法の推奨もさせてもらいますね。

サンスクリットの文法を少しでも知ると、

あらゆるサンスクリット文献の理解の深みが一気に増します。

そして、頭のヨガにもなります!脳細胞がプチプチ・パチパチして活性化しますよ!

身体は適度に曲げ伸ばして血流を良くしてあげないと凝り固まってしまうように、

脳みそも、きちんと正しい使い方・考え方を日頃から心掛けておく必要があります。

考えない人などはいませんが、正しく考えるスキル・訓練を受ける機会は少ないですね。。。

サンスクリットはその面で、とても役に立ちます。
 

サンスクリット語の本来の有用性


サンスクリット語の勉強は、頭の細胞の活性化には非常に強力に役立ちますが、

サンスクリット語がこの世界の中で存在している、本来の役目はただ一つです。

サンスクリットは、創造のあり方と人間との間のコミュニケーションの言語として、

人間の幸せの追求の為に役立つ知識を教えるために存在しています。

人間として生まれて来て、満たすべきあらゆる望みを満たすための手段を教える、

言葉の集まりがヴェーダです。

ヴェーダの教える、幸せの追求の手段は、単に望みを満たすだけの手段ではなく、

望みを満たしながら、人間として精神的に成長できる手段です。

精神的に豊かな人生を過ごす中で、成長した心を持つ人に向けて、

ヴェーダの最後の部分であるヴェーダーンタは、

人間の根本的な問題に関して、根本的な解決を教えます。

自分が人間として生まれて来た意味を、完全に満たすために必要な知識は、

この宇宙の仕組みでは、サンスクリット語というヴェーダの言葉で教えられる、

というようになっているのです。




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2016年10月18日火曜日

新刊『サンスクリットの祈りの詩節集』 を発刊しました

インドのアシュラムや家庭で日常的にチャンティング(朗唱)されている

数々のサンスクリットの祈りの詩節(シュローカ)の中から、

著者が日本の読者に向けて選んで集め、

サンスクリットの原文から日本語訳と解説を付けました。
 
http://amzn.to/2dG8big
音源はGoogleDriveまたはSoundCloudからダウンロードできます。

従来の混乱した認識・手垢のついた陳腐な専門用語は意識して使用せず、

読者に腑に落ちて理解してもらうための簡潔・適格な日本語に訳すように努めました。

インド悠久の智慧の言葉は、単に気分を良くするためにあるのではなく、

自分の存在の意味として、理解するためにあるからです。


10月11日のヴィジャヤ・ダシャミーという吉日に、
新刊『サンスクリットの祈りの詩節集』 のKindle版を発刊し、
紙の書籍版『サンスクリットの祈りの詩節集』(白黒・カラー)の入稿を済ませ、
アマゾンでの発売が始まりましたのでお知らせします。


Kindle版には、音源あり音源無しの両方がありますが、
どちらを選ぶべきかは、こちらを参考にしてください。

1.サンカタ・ナーシャナ・ガネーシャ・ストートラム
2.ガネーシャ・ストートラム
3.ハヌマット・スタヴァナム
4.ラーマ・ストートラム
5.シヴァ・マーナサ・プージャー
6.リンガ・アシュタカム
7.マールガ・バンドゥ・ストートラム
8.ガンガー・ストートラム
9.シャーラダー・ストートラム
10.マハー・ラクシュミー・アシュタカム
11.デーヴィー・マーハートミャム
12.サラッスヴァティー・ストゥティヒ
13.トゥラシー・プージャー
14.アーディッティヤ・リダヤム
15.ナヴァ・グラハ・ストートラム
16.スマールタ・サヴィトゥル・マントラハ
17.プージャー・シュローカーハ
18.プラータッスマラナム
19.ダクシナームールティ・ディヤーナ・シュローカ
20.ダクシナームールティ・ストートラム
21.グル・ストートラム
22.グル・パードゥカー・ストートラム
23.グル・アシュタカム
24.トータカ・アシュタカム
25.バジャ・ゴーヴィンダ
26.ニルヴァーナ・シャタカム
27.ギーター・ディヤーナム
28.バガヴァッド・ギーター15章

コラム目次
§  バジャン、バクティの語源、「バジ (भज् bhaj)
§  「ナム (नम् nam)」とは
§  ダルマとは
§  カルマ、そしてプンニャとパーパとは
§  サムサーラとは
§  サラッスヴァティー
§  「あなたに祈りを捧げます」
§  ブッディ(知性)
§  人間として生まれてきた意味
§  曜日と関連するデーヴァター
§  プージャー
§  oの意味
§  グルとは
§  四つのプルシャ・アルタ(人生のゴール)
§  ヴィヴェーカ
§  ヴァイラーギヤ
§  ヴェーダーンタ

2016年10月15日土曜日

80.ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ])医学・薬学の原理、ヴィシュヌの姿のひとつ

アーユルヴェーダを学ぶ人にはおなじみの、ダンヴァンタリ様。


こちらのアシュラムに付属しているアーユルヴェーダの施設でも、

トリートメントを行うまえに、施す人と施される人が一緒に、

施術部屋にあるダンヴァンタリ様の神棚の前でお祈りをします。

お祈りとその意味は前にこちらで紹介しましたね。

ところで、ダンヴァンタリという名前はどういう意味なのでしょうか?

ヴェーダーンタとは直接関係ないので、そんなん知らんがな、なのですが、
最近何人かの人に聞かれたので、辞書を引いてみました。


ダンヴァンタリの語源


 शब्दकर्पद्रूमः というサンスクリットの百科事典を引いてみると、、、

धनुरुपलक्षणत्वात् शल्यादिचिकित्साशास्त्रं तस्य अन्तम् ऋच्छति इति । देववैद्यः, स भगवदवतारः ।


ダヌ(医学の知識の) + アンタ(終わりまで) + アリ(行く)

というデーヴァのお医者さん、ヴィシュヌのアヴァターラということです。

まず、ダヌ(弓、धनु [dhanu])とは、
シャッリャ(矢、शल्य [śalya])という名前の文献に代表される、

医学の知識の集合体を表しているそうです。

それの、アンタ(最後、結論、अन्त [anta])まで行く、もしくは得る。

つまり、 全ての医学の知識を有している者、となります。


次に、वाचस्पत्यम्  という辞書を引いてみますと、

धनोः तन्निमित्तशल्यस्यान्तं पारमृच्छत।

ダヌ(弓、武器全般の代表)による痛みのアンタ(終わり、向こう側)に行く、

となっています。


ダンヴァンタリの登場する文献


プラーナという文献ですね。

ブランマヴァイヴァルタ、ヴィシュヌプラーナ、バーガヴァタなどに登場するそうです。

プラーナとは、

シュルティ(ヴェーダ)、スムリティ(マハー・バーラタ等)に続くプラマーナとされる文献で、

ヒンドゥーの神様をモチーフにしたお話の殆どは、プラーナで見つかります。

 プラーナの中の数々のお話しの根底はヴェーダーンタであり、

シャンカラーチャーリヤは、自身のコメンタリーの中でヴィシュヌ・プラーナを

しばしば引用していますが、

なぜか、一番有名で大きいバーガヴァタからの引用はひとつもないということです。


インドには、プラーナの話を民衆に聴かせるのに特化した、

「ポウラーニカ」と呼ばれる学者がたくさんいます。

でも、ヴェーダーンタを勉強する人とは、かなり色が違います。。


ダンヴァンタリの誕生祭


ダンテラス(Dhanteras)という名前で、ディーパ―ヴァリ(ディワリ)の前の、

トラヨーダシー(満月から13日目)です。地域や宗派によって違いはあると思いますが。

2016年は、10月28日です。



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文法的にもうちょっと知りたい人は====

ダヌ + アンタ + アリ

ヌの最後の音「ウ(u)」は、後ろに母音(ここではア)が来ると、

Vの音に変化しますね。そう、ヤン・サンディです。

アリは、ऋ(行く) + इ(者、行動の主体)から成ります。

(उणादिसूत्रम्) ४.१४० अच इः ।

अन्त と अरि は、、、शकन्ध्वादिगण が आकृतिगण なのでそこで पररूपम् にしてしまう?

====================
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2016/03/patanjaliprayer.html

ヨガとアーユルヴェーダと文法と、
ヴェーダーンタの関係 
- パタンジャリへの祈りから読み解く








<< アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句) <<

ダンヴァンタリへの祈りの句です。






2016年10月2日日曜日

仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(5)

シリーズも5回目を数えます。

最初にも書きましたが、仏教用語の解説ではなく、

仏教用語になった、サンスクリット語そのものの、

サンスクリットの文化(ヴェーダの文化)に基づく解釈です。

その中でも、私はアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学び・教える立場なので、

それも考慮に入れておいてくださいね。

禅(ぜん)


サンスクリット語では「ディヤーナ(ध्यानम् (dhyānam))」です。

ध्यै चिन्तायाम् という、「考える」という意味の動詞の原型から造られていることから、

「熟考」「そればかりを考えたり、思い描いたりすること」

という一般的な意味から、

ヨーガの修行法として「神経を集中させること」 「瞑想」、

そしてヴェーダでは、「ヴェーダで教えられている神々の姿を心に想い続ける行為」

「ヴェーダで教えられている言葉の意味を心に置き続けること」

などといったように、心を一点に置くといった意味は共通していますが、

何に、どのような目的で、などに関しては、意味に大きな幅があります。

他のサンスクリット語の言葉の多くがそうであるように、


どのようなコンテキスト(文脈・内容)で使われているかによって、

同じ言葉でも意味が変わる言葉です。

 

檀那・旦那(だんな)


サンスクリット語では「ダーナ(दानम् (dānam))」。

これは前回見ましたね。「与えること」と言う意味です。

(文法が好きな方へ: 「与える人」を造るためのल्युの付くनन्द्यादिगणにदाはありません。)

ダーナがどうやって檀那・旦那さんとなったのか、

サンスクリットの文化をもとに考察してみると、繋がりが見えてきます。
 
यज्ञदानतपःकर्म न त्याज्यं कार्यमेव तत् । yajñadānatapaḥkarma na tyājyaṃ kāryameva tat |
祈り、与えること(ダーナ)、タパスというカルマは、
(人生のどのステージにおいても)放棄するべきではなく、
常に実践されるべき行為です。
(バガヴァッド・ギーター第18章5節)


ダーナは、上のギーターのシュローカで教えられているように、

1.学生、2.家庭人(結婚したり、パートナーのいる人)、3.リタイアした人、

そして、4.ヴェーダーンタの勉強の為に全てを放棄した人、

という四つのアーシュラマ(人生のステージ)において、

最後に全てを放棄するまでの三つのアーシュラマの中で、

心の成長のために実践されるべきことです。


しかし、この三つの中で、生産・稼働しているのは、家庭人だけであり、

他の三つのアーシュラマに生きる人を支えるのは家庭人だけであることから、

ダーナは、家庭人に対して特に奨励される行為です。

より多くを得て、貯め込むのが家庭人の役割ですが、

時間が来れば、第一線から退いて、静かに暮らし、

ひとつひとつ手放して行かなければならないので、

手放すことも早いうちから実践して学ばなければなりません。

現代の日本では、結婚とは個人的なものだと捉えられていて、

学生期とも、家庭期とも、林住期とも区別のつかない生活をしていても問題ありませんが、

ヴェーダの世界では、学生期を終えたら、すぐに結婚して、社会に貢献する義務が発生し、

孫が生まれる頃には、主権を手放して、引退しなければならない。

単に好きだからという理由だけではなく、

社会的責任を一手に背負う覚悟が結婚には必要なのです。

でも、それ位の覚悟を持っていなければ、何においても成功しませんね。



南無(なむ)


サンスクリット語では「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」です。

「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」の意味は、ナマステ―のところで解説しています。

「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」は、不活用名詞です。

名詞の原型は、 「ナマス(नमस् [namas]) 」と、「S」で終わる言葉です。


ナマハ? ナモー? ナマス? ナマ?


「ナマス(नमस् [namas]) 」の後に何の音も続かず、単品で使う場合、

「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」となります。

後ろに有声音(日本語では濁音と、ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行)が来た場合、

「ナモー(नमो [namo])」 となります。

こういった、後ろの音によって前の音が変わる、とかいう変化を、

「サンディ(連音変化)」と呼びます。

日本の教科書で勉強する人は、ここでくじけるみたいですが、

伝統的なパーニニのシステムに沿ってきちんと勉強すれば、

整然として、そんなに難しいものではない、ということが分かってもらえると思います。


サンスクリット文法の学習の秘訣


文法はどんなトピックでも、すんなりと勉強できる秘訣は、

「チャンティングから入る」ということ。

正しい発音をきちんと学び、

すらすらと口から出るようになれば、

後でその意味を教えられた時、

もしくは、それがなぜそのような形になるのかを教えられた時に、

「あ~なるほど!」

と、まさに茂木健一郎さんの「アハ体験」のように、

脳内で快感と共にシナプスが繋がっていくのです。

逆に、音を学ばずに、意味だけを学ぼうとしても、

「意味を教えてもらっているときには理解できるのだけど、

その後、何を習ったのか、頭に残らない」症候群になってしまいます。


今日はこのくらいで、、、

あと、奈落(ならく)とか、涅槃(ねはん)とか、波羅蜜(はらみつ)、

波羅門(ばらもん)、仏陀(ぶっだ)、盆(ぼん)、曼荼羅(まんだら)、

夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)などを予定しています。

あと2回くらいかな。


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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)

仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(3)


仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)

仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)

2016年8月14日日曜日

79.ダーナ(दानम् [dānam]) 与えること


「消費者」社会の現代の日本では、

豊かさとは、より多くのものを「ゲット」すること、という価値観ですが、

「貢献者」社会である伝統的なインドでは、

豊かさとは、より多くのものや思いやりを「ギブ」できること、という価値観です。

本当の豊かさを模索する上で、最近日本でも知られるようになってきている、

とても重要なインドの智慧のひとつ、「ダーナ」について、

伝統に沿って、正しく理解していただけるように紹介しますね。


ダーナの語源


「与える」という意味の動詞の原型「ダー(दा [dā])」に、

「~すること」という意味の接尾語「アナ(अन [ana])」を付けて出来上がり。

分かりやすいですね。



ダーナとは


ダーナとは、語源からみると単に「与えること」ですが、

与えられた人の幸せに貢献できるものを与えること、というのはもちろん、


インドの伝統文化に沿ってもっときちんと定義すると、

1.お返しの出来ない人

(お返しが出来るなら、それは普通の取引・やり取りであり、ダーナではありません。)

2.自分が与える義務の無い人

(家族の扶養・納税・賃金労働・何かしてもらったお礼はダーナではありません。)

このような人に対して、自分からわざわざ歩み寄って与えることがダーナです。


与えることのできるものは、自分が与えられているものなら何でも、です。

金品だけに限らず、 時間や能力・知識など、自分に与えられているものは全て、

他の人や動植物に与えるために、そうして思いやりを表現するために、与えられているのです。

もし自分に思いやる気持ちがないのなら、与えることを実践してみて、

思いやりとは何かが分かるように、全てのものは自分に与えられているのです。


「与えられる」という能力は、その人の心の豊かさを表しています。

どれだけの富を持っていても、心が貧しければ、ダーナは出来ません。

富の蓄積が無くても、心が豊かな人は、手に持っているものを差し出すことが出来ます。



インド伝統文化での「ダーナ」の意味



この「ダーナ」はインドの文化でとても高貴な行動とされ、

人間としての精神的な成長の表われとして讃えられ、

ゆえに、自己成長の手段として実践されています。


実際に与えてみて初めて、自分がどれだけ与えられているのか、

そして、自分がどれだけ満たされているのかが分かるからです。

世界平和を祈り、毎日独りガンガー・プージャーをするプージャリ(祭司)さん

サンスクリット文献の中でのダーナ


ヴェーダ文献の教えの全ては、ヴェーダーンタの教えとされる、

「あなたは無限の存在である」に集約されます。

自分のお金や持ち物のみならず、思いやる心や、時間、さらに思考能力までもを、

目先の快楽の獲得以外には絶対に使おうとしない、吝嗇な心を持つ人には、

ヴェーダーンタの教えを100万回の人生分聞いても、絶対に理解は出来ません。

自分が無限の存在であることをすんなり矛盾なく理解できる心は、

自分と周りとの限界に苛まされていない、思いやりに境界線の無い、

与えることのできる寛大な心です。

そのような心を育てるために、人生の全ての行動はあるのです。

ダーナは、心を育てるための、とても強力で有効な手段であると、

サンスクリットの文献のいたるところで教えられています。


バガヴァッド・ギーター(18章5節)

यज्ञो दानं तपश्चैव पावनानि मनीषिणाम् ।
yajño dānaṃ tapaścaiva pāvanāni manīṣiṇām |

「祈りの儀式(それぞれの義務)・ダーナ・タパスは、人間を清める行為です」

どのような立場の人でも、人生のどのステージにおいても、

自分のするべきこと(スヴァ・ダルマ)が、精神的な成長の手段であり、

それは、勉強であったり、家族を養うことであったり、労働によって社会に貢献することであったり、

その時その場所、その人によって、 いろいろ変わりますが、

上の三つ(祈りの儀式(それぞれの義務)・ダーナ・タパス)は、

全ての人の、全ての人生のステージで、共通してあるべきもので、

辞めたり、引退することの出来ないものだと教えられています。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド(1章22節)

श्रद्धया देयम् । अश्रद्धयाऽदेयम् । श्रिया देयम् । ह्रिया देयम् । भिया देयम् । संविदा देयम् ।
śraddhayā deyam | aśraddhayā:'deyam | śriyā deyam | hriyā deyam | bhiyā deyam | saṃvidā deyam | 

「シュラッダー(これは善いことであるという信頼)を持って、与えなさい」

ダーナは、経済効果を狙った活動ではありません。
ダーナとは、祈りの表現方法のひとつなのです。


「シュラッダーが無いのなら、与えるべきではありません」

「ラクシュミーを持って(豊富に気前良く)与えなさい」

ダーナは、不用品の処分ではありません!

「羞恥心を持って(上からではなく、下から)与えなさい」

「(これで十分ではないかも知れないと)恐れを持って与えなさい」

「(受け取る人や状況が適切であるかの)知識をもって与えなさい」

一度与えたら、もう「ナ、ママ(私のものではありません)」なので、

使い道を気にしたり、口出ししたり、パトロンになったような姿勢で接したりするのは、

ダーナのスピリットではありません。


サーマ・ヴェーダ(セートゥ・サーマ)

दानेन अदानं तर । dānena adānaṃ tara |

「与えることが出来ない自分の小ささは、

与えるという行動によって、超しなさい」

知識と行動は、まったく別のものです。

どれだけダーナが善いことだと知っていても、実践しなければ意味がありません。

栄養失調の人が、どれだけ栄養学を勉強しても、栄養は摂れないのと同じです。

私の今の状況では、まだダーナなんて出来ない!と、状況のせいにしがちですが、

ダーナが出来ないのは状況のせいではなく、自分が出来ないだけだからです。

ダーナが出来るようになるために、たった一つの必要なことは、

自分が与えることを「選び取る」ことだけです。

聖地でアンナ(食べ物)・ダーナをすることは、とても高徳とされます。


ダーナについて、もう少し詳しく知る


日本ではいろいろ勘違いされて使われている言葉でもあるので、
もうちょっと実際的に詳しく見ると:

1.お返しの出来ない人に対して与えることが、ダーナ。

何かの見返りとして、もしくはお返しを見込んで与えることは、
生活の中での取引なので、ダーナとは呼びません。

2.スヴァ・ダルマの範囲外で与えることが、ダーナ。

自分の(=スヴァ)するべきこと(=ダルマ)を、スヴァ・ダルマと呼びます。
ゆえに、スヴァ・ダルマの範囲外とは、自分がしなくてもいいことを指します。
アフリカにボランティア活動をしにいかなかった、という理由で法的に責められることはありません。
反対に、子供にご飯を食べさせることは、ダーナとは呼びません。


また、「ダクシナ」と「ダーナ」とは、別々のものです。

ダクシナは、儀式・芸術鑑賞・学び等を完成させる要素のひとつとして、

それぞれ祭司・芸術家・先生に渡すお礼です。

それらのお礼はダーナとは呼べません。

バラタナティヤムの有名なダンサー。日本語も話せます。ガンガーにて。

特に、プージャーをしてもらった際に、祭司に対してダクシナをきちんとしないのは、

儀式が不完全になり、不吉とされるので気をつけましょう。

また、無料のイベントであっても、出演された音楽家・舞踊家には、

主催者が必ず、出演者とイベントのステータスに見合うダクシナをするのが常識とされます。

インドの文化とうまく馴染むための知識として、お役に立てれば幸いです。。。


おまけ: ダーナをした時には名前を公表するべきか?


日本にはダーナの文化が一般に成熟してないゆえに、有名人が公にダーナをすると、理不尽な批判にさらされるという不幸が相次いでいるようですね。。。

バガヴァッド・ギーターでは、何らかの間接的な見返りを期待してダーナをするのは「ラジャス」なダーナとされていますが、「名前を公表してはならない」という決まりはありません。

ヴェーダでも、ダーナをした人の話が多く讃えられており、隠れてしなければならない、という感じではありません。

むしろ、ダーナが出来るということはおめでたいことなので、「結婚しました」「おかげさまで誕生日を迎えました」と同じ感覚で、皆にシェアして、皆で喜ぶべきことです。

インドでも、ダーナをした人に対して、「Thank you」と英語文化で答えることもありますが、「ああ、ダーナをしたのね。Congratulations! おめでとう!」という方がインド的です。

(故人を偲ぶ機会としてダーナをすることもあるので、一概には言えませんが!)

実際には、わざわざ名前を公表する・される機会が無く、そのまま人知れずダーナをする人も多数いて、それを良しとする人も多くいます。
しかし、ダーナをしたと公表すること自体について批判をするという文化はありません。

ダーナをしたことを公表することによって、より多くの人々は勇気を与えられ、「じゃあ、私も!」と、
善い行いをするきっかけになるので、公表することは社会にとっても善いことです。

そして、仮に売名行為でダーナをする人がいたとしても、売名が動機となって、その人がダーナを出来ることになったのだから、悪いことではありません。
きっかけは何であれ、ダーナが出来なかった自分から、大きな一歩を踏み出したのです。それは祝福するべきことです。
一度ダーナをすると、その高貴な行動の力によって心は成長し、遅かれ早かれ、特別な動機がなくても自然とダーナが出来る寛大な人間へと必ず変化を遂げるようになっているのです。

そのような人と一緒に喜べるような社会になりたいですね。





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2016年8月3日水曜日

ガネーシャへのお祈りのシュローカ


ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)

これらを全部足して一語にすると、その意味は何になるでしょうか?

答えは本文中にあります。


ものごとを始めるときには必ず、滞りのない達成を願い、

障害物を司るデーヴァター(法則)であるガネーシャに、

祈りが捧げられます。

ガネーシャへの祈りのシュローカには、いくつか良く知られたものがありますが、

その中で、わたくしの朝のクラスで使っているシュローカを紹介します。


अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |

अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||

似たような音の繰り返しが、謎かけのようなっていて、

面白いシュローカです。

では、一語一語見ていきましょう。


1.ウパースマヘー (私たちは祈ります)


文章の基幹は、動詞によって決まります。

動詞は、उपास्महे upāsmahe 「私たちは、心に描きます、認識します、瞑想します、祈ります。」

そうすると、「何を?」という疑問が湧いてきます。

「~を」という目的語を表す言葉は、サンスクリット語では大体

「m」で終わる単語を見つければOK、です。本当に大体ですが。

あ、でもこのシュローカでは、目的語以外の単語もすべて 「m」で終わってる。。。

そんなこともあるさ。


2.ガジャーナナ(象の顔をした)


このシュローカには、目的語が全部で4つあります。


目的語の中で一番わかりやすい言葉は、

गजाननम् gajānanam 「象の顔をした」 ガネーシャのことですね。

ガジャ गज gaja が「象」で、アーナナ आनन ānana は「顔」という意味です。

「象のような顔を持った」という複合語(サマーサ)になります。


3.長い複合語


このガネーシャを説明するのが、その前の長い複合語(サマーサ)です。

アガジャーナナパッドマールカム अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam

まず、「ガ」 ग ga とは、動詞の原型「gam (行く)」から派生した、「動く者」という意味です。

「ガ」に否定の「ア」を付けると、「アガ」 अग aga となり「動かない者」となります。

動かない者とは何でしょうか? ここでは「山」という意味です。

「山から生まれたもの(ज ja)」は、「アガジャー」 अगजा agajā です。女性形です。

山(パルヴァタ)から生まれた娘は、、、パールヴァティーですね。

シヴァの奥さんです。

ガネーシャのお母さんでもあります。
 

パールヴァティー(अगजा agajā)の顔(アーナナआनन ānana)は、

アガジャーナナとなります。
 
अगजा agajā + आनन ānana = अगजानन  agajānana



パールヴァティーの輝く顔は、大きく開いた蓮の花に例えられます。

蓮の花は、「パドマ पद्म padma」ですね。

蓮の花は、太陽が昇って初めて満開になります。

曇りの日は咲きません。

太陽の名前にはいろいろありますが、その一つに、「アルカ अर्क arka」があります。

パールヴァティーの顔を、満開の蓮の花のように輝かせる、太陽のような存在とは、、、

ガネーシャですね。

ゆえに、これらの言葉を全部ひとつにつなぎ合わせた複合語(サマーサ):

ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)

अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam は、ガネーシャを指しているのです。

サンスクリット語って面白いね~。

じゃあ次行きましょうか。



4.エーカダンタ(一本の牙を持つ者)



ガネーシャの名前として、もうひとつ良く知られているのは、

エーカダンタ एकदन्तम् ekadantam 「一本の牙を持つ者」 

エーカ एक eka が「1」で、ダンタ दन्त danta は、「歯」ですが、ここでは「牙」と解釈されます。

ガネーシャは、ヴャーサがマハーバーラタを口述したとき、

それを書き取るために、牙を一本折りましたね。それ故にです。

場所は、バドリナートのちょっと上にある、洞穴の中です。

画像検索したら、屋外の絵ばっかりでした。洞窟って言われているのに~。


5.アネーカダンタム?


「エーカダンタム」と対照的に、その前の言葉は「アネーカダンタム」です。

そのまま理解しようとすると、「一本以上、つまり沢山の牙を持つ者???」

になってしまします。

これがひっかけなのですね。

本当は、「アネーカダム」と「タム」に分けられます。

あ~おもしろ。

エーカ एक eka が「1」なら、アネーカ अनेक aneka は「沢山」です。

ここで「ダ」と言うと、「与える」という意味の「ダー दा dā」という動詞の原型からきた、

「与える者」という意味の単語になります。


「アネーカ(沢山のものを)」「ダ(与える者)」で、「アネーカダ」になります。


ガネーシャは、願えば願っただけ、沢山のもの、いや全てのものを与える力があります。

しかし、それは誰にでも、という訳ではありません。誰にとってでしょうか。

 

6.バクターナーム(認識する人々にとって)

 
バクターナーム भक्तानाम्  bhaktānām 「(ガネーシャを)認識する人々にとっての」

バクタとか、バクティという言葉は、一般的にとても誤解されている言葉です。

信奉とか、神への愛、とか、良く分からない言葉が上滑りしているだけだからでしょう。

信奉の対象について、神について、どういう理解をしているのか?


その前提がまったくないまま、信仰しろとか、愛を捧げるとか言っても、それは難しいでしょう。

人それぞれ適当にファンタジーいっぱいで思い描かれている対象が、

普通の信仰の対象の「神」であり、それに命や人生をかけることが出来るのも、

人間の、、、何と言いましょうか、ワンダフルなところです。

「神」とか言った瞬間、頭のボルトが外れて、無責任な考えになる。

勝手に思索するだけでなく、理論詰めで考えつくすのが、ヴェーダーンタです。



障害物といえども、何が障害で、何がそうでないかは、その場面によって変わります。

結局は、この全てを司っているのがガネーシャなのです。

司るとは?物理学や量子物理学や心理学やなんでもいいですが、

そのような、宇宙のミクロにもマクロにも見られる様々な法則と言う形で、

ここにあるもの全てを司っている、それがガネーシャです。

このようなガネーシャの理解があるとき、ここにある全てのものに、ガネーシャを認識している。

そのような人を、「バクタ」と呼ぶのです。


7.アハルニシャム(昼夜を通して)



全てにおいて、つまり、いつでも、どこにおいても、ガネーシャを認識しています。

ゆえに、「アハルニシャム」 अहर्निशम् aharniśam 「朝も夜も」という副詞が使われています。

バクタにとって、ガネーシャを、この全てを、正しく認識することに専念した人々にとって、

ここにあるもの全ては、正しい認識の為に、「与えられている」のです。

ゆえに、ガネーシャは、「アネーカダ(沢山のものを与える者)」と呼ばれるのです。


「その」、という代名詞である「タム(तम् tam)」、

つまり、障害を取り除き、全てを与える、ガネーシャを、

私たちは常に認識しています。

という意味でした~。


अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |

अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||

こちらも:
55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること

56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人
 




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