2017年2月13日月曜日

82.アーナンダ(आनन्दः [ānandaḥ]) 幸福、あらゆる制限から自由であること

アーナンダの語源


「アー」と「ナンダ」から成り立っています。

「ナンダ(नन्दः [nandaḥ])」は、「幸福」という意味。

नन्द् (nand) という、「幸せである」という動詞の原型から造られています。

「アー(आङ् [āṅ])」は、「完全に」という意味で、「幸福」を修飾しています。


「ナンダ」は、幸せ。

「アーナンダ」は、完全な幸せ。

幸せって何?

さらに、完全な幸せって?そんなものあるの?

どこまで幸せになっても、もっと凄い人はいっぱいいるし、

どうせどれもこれも束の間の出来事。

完全な幸せは、何処に行けばあるのでしょうか?

 

アーナンダの意味



アーナンダとは、英語ではBlissとかと訳されていますが、

Blissは、分かりづらくさせている言葉の選択ですね。

普通に、Happinessで良いのです。

私達が人生の中で経験してきた、「幸せ」「幸福感」が「アーナンダ」ですし、

それらの経験的な幸福感は、「アーナンダ」の本質を知る、大切な窓となります。



幸せとはナンダ?


あなたにとって幸せとは何ですか?

特別な人と一緒に居る時、嬉しい言葉を頂いた時、尊敬している人から受け入れられた時、

美味しいものを食べている時、、、、

人それぞれ。

しかも、~な時、というように、時間や状況に制約されたものばかりですね。

人にとっての幸せの対象が、自分にとっての幸せの対象であるとは限りません。

だから、皆それぞれに、自分の家族や、自分の住んでいる地域や生まれ育った文化に囲まれて、幸せでいられるのです。
 
自分の中でも、時や場所によって、幸せの意味は変わりますね。

20年前に熱狂していた人物や場所・物が、今となっては、何がそんなに嬉しかったのか?

と思うことはありますね。

いろいろ考察してみて分かったことは、

幸せの意味はひとそれぞれ。

数え切れない対象物の種類と、それぞれ個人の数え切れない状況によって、

相対的にコロコロ変わるものです。


幸せの本当の意味



しかし、そこに変わらないものがひとつだけあります。

どの人においても、どの時代や民族、宗教、性別、立場においても、

共通する、たったひとつの「幸せの意味」があります。

それは、幸せを感じているその人そのものです。

幸せとは、自分自身なのです。

自分自身が幸せの意味である、ということを思い出させてくれる状況が、

大切な人と一緒にいる時間であったり、尊敬している人から認められることであったり、

欲しかったものを手に入れたり、嫌なものを撤去した時だったりするだけで、

幸せそのものの意味は、自分自身なのです。

へ~、それは知らナンダ。


なぜ知らなかったのでしょうか。

知る術が無かったからです。

私達が知ることが出来るのは、自分以外のもの、つまり経験の対象だけです。

五官という感覚器官を通して、もしくは通さずに、直接知り得るもの、

それは、あらゆる経験です。

その経験から、いろいろ分析して、推論や理論を立てることも出来ます。

経験や、経験から得られた理論は、何もかも、あらゆるコンセプトは、

私が対象化している、対象物です。

それらの対象物を対象化している、主体である私は、対象物ではありません。

つまり、私達は、どのような経験を通しても、

経験者である自分の本質を知ることは出来ないようになっているのです。

ちょうど、自分の顔は、自分ではどうひっくり返っても、自分では見えないように。

自分の顔を見るには、鏡のように、直接的な経験とそれによる推論とは別の、

知る手段が必要になります。


人間の経験によって知り得ない知識を教えるのが、ヴェーダです。

あらゆる幸せの追求において、成功へと導く術の知識は、

経験によって得られるものもありますが、

ヴェーダの教える範囲は、経験によっては得られない知識です。

プンニャとパーパ、デーヴァター、祈りの儀式について教え、

人間の幸せの追求を支援します。

家庭の義務を果たし、社会へ貢献すること自体が祈りの儀式であり、

デーヴァター達を喜ばせる行為であり、そこからプンニャを得て、

より快適で充実した人生を送り、より分別のある思いやりに満ちた心を育て、

葛藤から自由で平安な心を得るのです。
 
このように、成熟した心を持った人は、

あれやこれやという「普通一般に言われる」幸せの意味は、
 
時間に制限されたものであることが分かります。


そのような限られた幸せは、使い捨てカイロのようなもので、

次から次へと、永遠に、新しい幸せの対象を追い求め続けなければなりません。

そのサムサーラというカラクリを見抜けた、分別(ヴィヴェーカ)のある人に、

ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)は教えます。

「あなたの本質は、アナンタ(制限の無い存在)なのですよ。」


もっと分かり易く: 幸せとは?


より的を射て、より分かりやすい、幸せの定義は、

「自分を縛る制限から自由になること」 です。

自分とは常に、欠陥だらけの身体や心や感覚器官から制限を受け、

さらに自分を取り巻く状況からも制限されっぱなしです。

「私は金持ちではない、有名ではない、賢くない、愛されていない、ない、ない、ない」

というように、ありとあらゆるものから、束縛されている存在が、自分です。

ゆえに、人生に与えられた時間は、もがき続ける時間。

ジタバタと、もがきにもがきまくって、

たま~に、ちょこっとした制限から解放されて、「あ~幸せ~」。

そう、幸せとは、自分を雁字搦めに束縛している制限からの解放です。

好きな人と一緒にいる時は、好きな人から離れている時間や空間の制限から解放されている。

好きな人から認証されたり、愛情表現されると、

自分は好きな人とは別の存在だという概念から解放される。

欲しかったものを手に入れると、自分と欲しかったものを引き離していた境界線がなくなり、

物欲しげだった自分から解放される。

音楽、読書、映画、瞑想、お酒、薬物、熟睡などで、我を忘れている時は、

まさに、制限だらけの惨めな自分を忘れられているから、幸せ。

幸せの正体は、制限からの自由・解放、だったのです。


この幸せの定義は、

とても、つまらないようで、

とても、重大な定義です。


ヴェーダは人間に、最後の最後に教えます。

(最期じゃないですよ!既に達成されている事実であるゆえに、
知るだけで、実践しなくてもよいので、最期でも大丈夫ですが、
出来れば元気なうちに知ってください!)

「でも、本質的にあなたは、制限された存在ではないのですよ。」

じゃあ、何なのでしょうか。

「あなたの本質は、あらゆる制限から自由な存在です。

つまり、アナンタ=アンタ(制限)の無いもの、無限の存在です」


「へ~、そうナンダ。でも、私が無限存在=アナンタって言われても、ピンと来ません。

私の幸せの追求とどう関係があるのでしょうか?」

と、思ってしまうのが人間であるというのを良く知っているので、

人間の幸せの追求を完全に満たすための知識を与える為にあるヴェーダーンタは、

分かり易く教えてくれます。

「あなたは、アナンタ=アーナンダなのです。

つまり、あなたが常に探し続けていたもの=アーナンダ=幸せな自分なのですよ。」

サットチットアーナンダアートマー
サッティヤムニャーナムアナンタムブランマ  
ですね。単なるもじりではないです。)


「その、本質的で、完全な幸せである、アーナンダはどのようにして経験出来るのでしょうか?」

は、よくある質問ですね。

ありとあらゆる経験、幸せな経験も、不幸な経験も、来ては去って行くものです。

来ては去って行く経験を見続けている、

来たり去ったりしない、今ここにいる自分が、アーナンダなのですよ。

全ての経験の中に、常にあり続けていたけど、見逃していた、自分自身のことです。

それを知るのに、特別な経験は何も必要ありません。

必要なのは、正しく知る手段(プラマーナ)のみです。





<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

こちらも:

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間

2016年11月18日金曜日

81.ヨーガ、ヨガ(योगः [yogaḥ])得ること、精神集中、得る手段

サンスクリット語の発音


もう日本語になったかもしれない、「ヨガ」という言葉。

既に日本語になったとして、日本語の発音としてなら、「ヨガ」という発音でいいと思いますが、

サンスクリット語として発音するのなら、「ヨーガ」と伸ばすべきですね。

なぜなら、サンスクリットには、短い「エ」や「オ」の音は無いからです。

「エー」と「オー」は、二拍分の長い音なので、「yoga」は「ヨーガ」となります。

発音についての記事も、さらに読みやすく・分かり易くアップデートしておきました。

サンスクリットは発音が大事!「ヨガ」は「ヨーガ」、「ヨギ」は「ヨーギー」、「ヨギーニ」は「ヨーギニー」です。 

伸ばしてね。

ヨーガの語源


サンスクリットの言葉は全て、

「原型+接尾語」

という枠組みで説明できます。


「ヨーガ(योग [yoga])」 という言葉は、

動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」に、接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を付加して出来た言葉です。

「ユジとは、つながること、、」と、

サンスクリット語文法を全く知らないヨガの先生でも教えていますが、

動詞の原型ユジには「つながる」という意味以外にも、いくつかの意味があります。

そして、接尾語にもいくつかの意味があります。

動詞の原型の意味と、接尾語の意味を、ひとつずつ組み合わせて、

「ヨーガ(योग [yoga])」というひとつの言葉になるのです。

ゆえに、一言でヨーガといっても、その使われ方によって、様々に意味が異なります。

庭の池に咲く蓮たち。

では、動詞の原型である「ユジ(युज् [yuj])」の意味、

そして、接尾語の「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味を、

それぞれ見て行きましょう。


動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」の意味


「ユジ(युज् [yuj])」という動詞の原型には3種類あり、

それぞれが別の意味を持っています。

1.「得る、繋げる、など」 という意味 (第7グループのयुज् योगे)

2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

3.「制御する、締め付ける、など」」 という意味 (第10グループのयुज् संयमने) 


いろいろありますね。似てるようで、違う。

ムルガン・テンプルにて。ムルガンの乗り物は、孔雀。

接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味


こちらにも様々な意味があります。

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

・ 「それによって~するもの」という、動詞の意味である動作を達成するための手段を表す(करणे)

・ 「~されるもの」という、動詞の目的語を表す(कर्मणि)

などなど、、、


3通りの意味のある「ユジ(युज् [yuj])」に、

これまた様々な意味のある「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を

組み合わせて作ることが出来るゆえに、

 「ヨーガ」という言葉には使い方によって様々な意味がある


のです。

意味は、「どこで、どのような意図で使われているのか」を見て決定します。


では、「ヨーガ」という言葉がどのように使われているのか、

いくつか例を見てみましょう。


インドの山奥で、野生の孔雀達と共に暮らしています。

一般的な「ヨーガ」の意味


ここでの「一般的」とは、「普通に言語で使われる」、ということで、

「専門用語や固有名詞ではない」、ということです。

一般的に言語の中で「ヨーガ」という言葉は、

「(何か持っていないものを)得ること」として使われる場合が多いです。

「ヨーガ(得ること)・クシェーマ(それを維持すること)」と、

ペアで使われることもあります。

ギーターでも何度かそのようにして出てきますね。

有名なシュローカに、

श्रीभगवानुवाच ।
अनन्याश्चिन्तयन्तो मां ये जनाः पर्युपासते ।
तेषां नित्याभियुक्तानां योगक्षेमं वहाम्यहम् ॥
śrībhagavānuvāca |
ananyāścintayanto māṃ ye janāḥ paryupāsate |
teṣāṃ nityābhiyuktānāṃ yogakṣemaṃ vahāmyaham ||

バガヴァーンは教えました
私と離れた存在ではなく、それを知り、認識し続ける人々、
常に私とひとつである人々のヨーガ(得ること)とクシェーマ(保持すること)を私は与えます。


インドの最大手保険会社のロゴにも使われています。

これです。手の下の文字が読めますか?

ヨーガ・スートラの「ヨーガ」の意味


ヨーガ・スートラと聞いた途端、前のめりになる人は多いのではないでしょうか。

昨今では、ヨガ(アーサナ)を始めて、少しすると、

「体を曲げ伸ばしするだけがヨガじゃない!もっと深い意味があるはず!」

「頭は、ヘッドスタンドするためだけに身体にくっついているのではない!

もうちょっと別の使い方をしなければ!」

と気づき始めた人が、最初に手に取る文献が「ヨーガ・スートラ」である場合が多いようです。





さて、ヨーガ・スートラで使われている「ヨーガ」という言葉の意味は、、

ヨーガ・スートラでの、ヨーガの定義は「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः [yogaścittavṛttinirodhaḥ] 」 ですね。

ヨーガ・スートラの有名な解説書のひとつである、भोज्-वृत्तिः を見てみると、

「योगो युक्तिः समाधानम् [yogo yuktiḥ samādhānam]」とあります。

つまり、、、


2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

という動詞の原型の意味に、

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

という接尾語を足した、「心を集中させること」ですね。

ヨーガ・スートラの教える心の集中のテクニックは、様々な面で役に立ちますが、

バガヴァッド・ギーターの教える、カルマ・ヨーガの代替になるようなものではありません。

同じヨーガでも、混同しないように注意しましょう。



ギーターの教えるヨーガ


バガヴァッド・ギーターでも、ヨーガという言葉が繰り返し使われます。

使われる場所・コンテクストによって、意味が大きく変わるので、

単に流通している訳本を読んで自分流に納得するのは危険です。

ギーターもウパニシャッドも全て、その意味を受け継いだ先生から教えてもらうようになっている、

ということは、ギーターとウパニシャッドそのものの中で教えられています。


2章にあるヨーガの二つの定義

समत्त्वं योग उच्यते । २.४८॥ [samattvaṃ yoga ucyate ] と、

योगः कर्मसु कौशलम् । २.५०॥ [yogaḥ karmasu kauśalam] では、

自分に与えられた義務をこなすこと、つまり自分の人生そのものを、

ヨーガへとするために必要な、理解と姿勢が教えられています。

ここで、パタンジャリのヨーガで得た知識を引きずっていると確実に混乱するので、

先にヨーガを勉強してしまった人は、別物として、真っ白な心で向かう必要があります。

そして、3章でも二つのヨーガの定義があります。

लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।
ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥
loke'smin dvividhā niṣṭhā purā proktā mayā'nagha |
jñānayogena sāṅkhyānāṃ karmayogena yoginām ||3.3||

ここでは二つのライフスタイルが、ヨーガという言葉で教えられています。

6章でもヨーガの定義がされています。

तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसंज्ञितम् । ६.२३॥
taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasaṃjñitam | 6.23||

その、悲しみによる自己認識(サンヨーガ)から離れること(ヴィヨーガ)が、
ヨーガであると、知りなさい。

世の中にはサンスクリット語だけでも、数え切れないほどの文献がありますが、

人生の意味を完全に満たす文献は、ギーターが包括的で、ギーターだけで充分です。


「○○・ヨーガ」「△△・ヨーガ」のヨーガ

 

最近は、いろいろな名前のヨーガが溢れていますね。

それは、より多くの人が、

消費という市場で推奨されている「幸せになる手段」の限界を見抜きはじめ、

それらとは別の、もっと精神的な、物質的なものに頼らない、

根本的な解決法を探りはじめた証拠です。


ありとあらゆる衣食住の形、快楽の形が提供されているこの消費社会で、

「それもいいけど、私はそれだけの為に生まれてきたわけではない」

「それらは本質的とは言えない。 一時的な気分の良さしかもたらさないから」

「お金やスキル、結婚や家族、地位や名声は手段であり、それ自体がゴールではないのでは?」

という、ものごとの限界の見極めが出来るようになった人も、

「ヨーガ」と名前のつくものに惹かれ、

そして最終的には、

インドの文献で教えられている知識に、おのずと惹かれていくものです。




ここでは、いろいろな「ヨーガ」の中で、どのように「ヨーガ」という言葉が使われているのか、

という点にのみに着目してみましょう。


どうやら、何か目指すものやゴールがあって、それを「得る為の手段」のようですね。

そのような意味の取り方をするなら、

動詞の原型「ユジ」の意味は、「得る」という意味で、

接尾語の意味は、「~する手段」ということになりますね。



もしそうなら、「ヨーガを通して何を得るのか?」

「自分が本当に得るべきものは何か?」

そして、「得るべきものと、その手段は、ちゃんとマッチしているか?」

「手段が目的になっていないか?」

というポイントを明確にするために、常に問いかけ続ける必要があります。

シャンカラーチャーリヤ

なぜなら、人は往々にして、忙しさゆえに、

自分が本当に欲しいもの、求めるべきものに関して混乱しがちで、

混乱ゆえに、「次はこれが私を幸せにしてくれるだろう」と、

手当たり次第に、次から次へと新しいものを追い求め続け、

さらに忙殺され、自分が本当に何を求めるべきか、なんてことを考える暇もなくなってしまう。。。

という、根本的な矛盾に陥ったまま、一生を終えるのが、人間の普通のありかたです。
 
このように、生きて、死に、また生まれては、、、と繰り返すのがサムサーラです。

 (だいぶ前に、人生の目的(プルシャ・アルタ)についてコラムを書きました。)




頭のヨーガ、サンスクリット語の勉強!


どさくさに紛れて、サンスクリット文法の推奨もさせてもらいますね。

サンスクリットの文法を少しでも知ると、

あらゆるサンスクリット文献の理解の深みが一気に増します。

そして、頭のヨガにもなります!脳細胞がプチプチ・パチパチして活性化しますよ!

身体は適度に曲げ伸ばして血流を良くしてあげないと凝り固まってしまうように、

脳みそも、きちんと正しい使い方・考え方を日頃から心掛けておく必要があります。

考えない人などはいませんが、正しく考えるスキル・訓練を受ける機会は少ないですね。。。

サンスクリットはその面で、とても役に立ちます。
 

サンスクリット語の本来の有用性


サンスクリット語の勉強は、頭の細胞の活性化には非常に強力に役立ちますが、

サンスクリット語がこの世界の中で存在している、本来の役目はただ一つです。

サンスクリットは、創造のあり方と人間との間のコミュニケーションの言語として、

人間の幸せの追求の為に役立つ知識を教えるために存在しています。

人間として生まれて来て、満たすべきあらゆる望みを満たすための手段を教える、

言葉の集まりがヴェーダです。

ヴェーダの教える、幸せの追求の手段は、単に望みを満たすだけの手段ではなく、

望みを満たしながら、人間として精神的に成長できる手段です。

精神的に豊かな人生を過ごす中で、成長した心を持つ人に向けて、

ヴェーダの最後の部分であるヴェーダーンタは、

人間の根本的な問題に関して、根本的な解決を教えます。

自分が人間として生まれて来た意味を、完全に満たすために必要な知識は、

この宇宙の仕組みでは、サンスクリット語というヴェーダの言葉で教えられる、

というようになっているのです。




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