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2020年10月28日水曜日

92.セーヴァー(सेवा [sevā])- 世話、助ける側、貢献する側で、他の役に立つ行動をすること

セーヴァー(सेवा [sevā])

セーヴァーというサンスクリット語の言葉は、ヴェーダが教える伝統的価値観をよく表している言葉であり、恩師であるプージヤ・スワミジが、私達全ての人に話す時にいつも強調されていた言葉です。

私自身も、ヴェーダーンタに出会ってから毎日、私のすること、書くこと、話すこと、考えることの全てが、全てのものへのセーヴァーでありますように、と考えながら生きています。

ヴェーダーンタが教えるヴィジョンである、「自分と世界の本質について」に関わるトピックであるゆえに、以下とても長文になります。また、本来は直接話をするべきトピックなので、文面ではどうしても分かりにくくなると思います。きちんと理解したい人には世界中どこにでもお話に伺いますので、いつでもご連絡ください。

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消費者から貢献者への成長

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セーヴァーとは、与えられた状況の中で、貢献者として行動することです。

人間としての精神的な成長は、貢献者として行動することによってのみでしか得られません。

どのような状況においても平安で幸せであり続けていられるという、物理的だけでなく精神的に豊かな人生を送るためには、精神的な成長が必要とされます。さらに、人間として生まれて来た意味を完全に満たしてくれる自己の本質の知識を得るための準備が整えるためにも、精神的な成長は、最も必要とされる要因です。特にヴェーダーンタ(ウパニシャッド)で教えられている知識は、それを聴く人の精神的な成長が足りなければ、単なる小難しい哲学のような情報にしか聞こえず、自分のこととして理解されることはありません。

ゆえに、ヴェーダーンタを学ぶ人はもちろん、全ての人にとって、人生の出来るだけ早いうちから、セーヴァーという言葉が教える貢献者として行動する意味について知っておくことは、自分の人生を精神的に豊かな人生にする上で、とても重要なことです。

セーヴァーの姿勢とは、自分を取り巻く状況から、より利益を得ようとする消費者的な姿勢から、貢献者的な姿勢に変え、自分に出来ることは何かを考え、一歩踏み出して行動することです。

自分に出来ることは何かを考えるとき、基準となるのは、自分が相手の立場なら、と想像する、相手を思いやる気持ちです。

人間の心というものは、他の痛みを感じ取れるように出来ています。相手が人間であれ動植物であれ、相手の痛みを思い計り、痛みを取り除き、幸せを増やすのに役立つ行動を選びとることが、自分のすべきことであり、貢献者になるということです。

しかし、相手を思いやる気持ちは、自分の都合や好き嫌いといった条件によって阻害され、見えなくなってしまうことは往々にしてあります。ゆえに、状況を判断する目が、自分の都合や好き嫌いに染められていないか、意識する必要があります。これが、貢献者へと成長を飛べるための第一歩です。

自分がどのように行動すべきか分からない、という人は多いですが、それでも、他人がどのように行動すべきかについては、はっきり分かっているものです。

自分が他人にして欲しいことが、自分のすべきことであり、自分が他人にされたくないことは、自分がすべきでないことです。これくらいに当たり前に、全ての生き物に共通する法則を、サーマンニャ・ダルマ(普遍的秩序)と言います。

この普遍的な価値観を先天的に察することの出来る心を持っているのが、人間の心です。

人間なら誰でも、今ここで何をすべきかについて、だいたいのことは先天的に分かっている筈なのです。しかし、自分の好き嫌いによって心に曇りができて、都合よく、自分のするべきことが何なのかが分からなくなるのです。

普遍的な価値観に沿った行為を、ダルマに沿った行為と呼びます。人間の自由意志が、ダルマに沿った行為を選択する為に使われた場合、自由意志が人間らしく、賢明にうまく使われたことになります。

現代の社会では、より多くを消費することがより幸せなのだという概念が広く受け入れられていますが、ヴェーダの価値観では常に、貢献者へと成長を遂げることを推奨しています。なぜなら、消費者から貢献者へ変容することは、人間として本当の成長することであり、それは本当の豊かさをもたらすからです。

貢献者として世界に参加することを選ぶことによって得られる精神的な成長と精神的な豊かさは、ほんとうに生きていて良かったと思える人生を送るために必要であり、また、人生の本当の意味を完全に満たすためにも必要になります。ゆえに、自分が貢献者になることを選ぶこと、つまりセーヴァーの姿勢で世界に参加することは、ヴェーダの価値観のなかで強調されているのです。

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小さな自分という自己認識

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自分の本質を知らなければ、この身体この心でこの世界を認識している経験が絶対となります。ヴェーダーンタの教えによって、自分の本質は完全な存在であると聞かされても、自分の心が精神的な成長を遂げていなければ、ヴェーダーンタの教えはただの難しい哲学のようなお話にしか聞こえず、今ここにいる自分のこととして理解できません。

この広大な世界の中で、ほぼ見えないくらいに微小な点に過ぎないこの身体とこの心で自分を認識しているとき、自分という存在はあまりにも儚く無力な存在です。ゆえに、経験によって得られる満足感に完全に依存し、思い通りにいかなければ、当然の結果として、嘆き悲しむことになります。これが普通の人の自分と世界の認識です。

このような自己認識と世界の認識を持っているから、自分が世界と関わるときの態度が、消費者的な態度になってしまうのです。この世界の中で、とてつもなく小さな存在として自分を認識し、この世界から出来るだけ多くのお情けとおこぼれを頂戴して、安心を得て幸せになろうとし続け、それに終わりはありません。自分をこの身体この心で認識している以上、完全に満たされることが無いからです。

人間は誰でも、生まれたときは完全な消費者です。空気と食べ物を必要とし、また、周りの人からのお世話も必要としています。生き続けている間はずっと、このように世界からさまざまなものを受け取らなければなりませんから、消費者の側面を持って世界と関わり続けることは避けられません。

ヴェーダは、消費することを最小限に抑え、貢献を最大限にすることを、人間としての成長として教えています。それと正反対の価値観を教えるのが、現代の消費経済社会です。しかし、このような社会は、物理的にも経済的にも、そして倫理的にも当然の行き詰まりを迎えています。ゆえに、現代に生きる人々には、貢献者になろうとすることが人間としての精神的な成長と豊かさであると教えるヴェーダの人生観を、是非学んでいただきたいと願うばかりです。

人間は、生存本能が備わっているだけでなく、自分とは本質的にとても小さな存在だと認識し、それをどうにかしたいと根本的に切望しているので、放っておけば消費するばかりになってしまう傾向にあります。ゆえに、貢献者へと成長するためには、自由意思を使って、貢献者となることを選び取らなければなりません。人間に与えられている自由意志とは、この為にあるのです。そして人間の知性とは、自分は何をするべきかについて、正しく判断するために与えられているのです。

ヴェーダの価値観は、盲目的に従うだけの思考停止を導くものではなく、人間としての知性の力を最大限に使うことを推奨します。また、ヴェーダーンタの教える真実も、信じるものではなく、理解する為にあるのです。

ゆえに、ヴェーダでは、人間を人間たらしめている、人間の最大の財産である知性(メーダー、ブッディ)が、人間として生まれて手に入れられる幸福の追求に欠かせないものとして教えています。これが、ヴェーダという聖典が、他の宗教の聖典とは根本的に異なる点です。動植物は人間の消費の為だと神が仰ったのだから、盲目的に何も考えずに使い放題つかえばいいよ、というのではなく、神は人間に知性を与えたのだから、ちゃんと使ってね、ということです。

貢献者になることは良いことなのだと感じられる経験は、子供の頃から周りの大人が教えてあげることが出来ます。子供が何かを成し遂げたとき、たとえそれが小さなことでも、子供の目を見て、心から褒めながら、あなたのした事は私を幸せにしてくれた、あなたの存在は私の幸福に貢献してくれている、としっかり伝わるようにコミュニケーションをとれば、肯定的な自己認識と、貢献者になれるという自信を育てることに繋がります。

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大きな自分という自己認識

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多くの人は、「貢献しようにも、お金にも才能にも恵まれていない私なんて無理!」と言います。この「私なんて」という態度は特に日本文化に顕著かも知れません。セーヴァーを頼まれた場合、断る理由として、「私になんて無理です」というセリフがよく聞かれます。
たしかに、貢献者になるには、自分が状況よりも大きな存在でなければなりません。しかし、貢献者になるためには、有り余るほどのお金や才能は必要としません。自分の自己認識が、目の前の状況よりも大きければ、それで良いのです。

与えられた状況を客観的に見て、自分に何が出来るかを考え、それを行動に移すことが貢献するということです。今目の前にある状況が与えられているのと同様、自分が持っているものも全て、与えられています。自分の手足も時間も、自分を育ててくれた人々も、自分の頑張れる力も、全ては自分に持たされ、与えられ、目の前にある状況の一部を構成しています。この事実に気づいて、全ては自分が成長するために与えられているとして、状況を客観的に判断すれば、おのずと、この状況の中で自分がどのように貢献者として参加するのが適切なのかが見えてきます。

人間や動植物といった全ての生きるものの、痛みを減らし、幸福を増やすために、今目の前にある状況の中で自分が選択すべき行動はなにか?人間としての思考能力は、このようなことを考えるためにあります。
自分に出来ることを発見しているとき、自己認識における自分は、状況よりも大きな存在です。

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クル、セーヴァーム

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多くの人々が互いを思いやり合い、それを行動に移すことを全国的なレベルで可能にするために、プージヤ・スワミジは、セーヴァーという言葉を掲げた「AIM for Seva (All India Movement for SEVA、エイム・フォー・セーヴァー)」という活動を発足させました。僻地に住む子供たちが安全に通学できるよう、インド全国に100以上の寄宿舎が建てられ、スワミジのお弟子さんたちが運営や指導に関わっておられます。

また、幼稚園から大学までの文化的で質の高い教育機関や、医療機関も提供されています。
スワミジはヴェーダーンタのヴィジョンにもとづいた曲を多く作詞作曲されています。その中で、AIM for Sevaのテーマソングとして書かれた曲の繰り返しの部分では、「कुरु सेवां त्वं कुरु सेवाम्... (セーヴァーをしなさい)」というダイレクトなメッセージが私達に教えられています。

助けを必要としている状況に向かって、自ら歩み寄り、手を差し伸べる。
実際にどのような活動をされているのか、皆がどのような姿勢で行動しているのか、是非インドに行って見て来てください、そして、是非この活動に参加してみてください。

スワミジの生誕地にあるAIM for SEVAによる
幼稚園から大学までの教育機関の校庭にて。
毎朝の牛さん達のお散歩コース

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グル・セーヴァー

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セーヴァーは、助けを必要としている状況に対して手を差し伸べるものだけではなく、グル・セーヴァーと呼ばれる、ヴェーダやヴェーダーンタを勉強するためのものもあります。教えを聴きたい、という動機によって行われることから、グル・セーヴァーは「シュッシュルーシャー(शुश्रूषा [śuśrūṣā]、聴きたいと望むこと)」とも呼ばれます。

ヴェーダーンタを学ぶ上で、セーヴァーが必要であることは、バガヴァッドギーター4章34節において、バガヴァーン自身によって、「完全なナマスカーラ、適切な質問、そしてセーヴァーをすることを通して、その(知識)を理解しなさい」と、「セーヴァー」という言葉を使って教えられています。

तद्विद्धि प्रणिपातेन परिप्रश्नेन सेवया। उपदेक्ष्यन्ति ते ज्ञानं ज्ञानिनस्तत्त्वदर्शिनः।।4.34।।
ヴェーダーンタの教える自分の本質とは何かの知識を、単なる難しい哲学的情報でななく、自分自身の意味として理解することを望む人は、セーヴァーをする機会を積極的に見つけて活用するべきです。

ここで、私自身の経験の話をしますね。

私はコインバトールのグルクラムに移る前は、北インドにあるリシケシのダヤーナンダアシュラムにて、ヴェーダーンタとサンスクリット語文法、そしてチャンティングの勉強するための生活をしておりました。当時のリシケシのアシュラムでは、「コース」といったクラスはありませんから、勉強したいのなら、自ら先生のところに行って、「私のためにクラスをして下さい」と直々にお願いするところから始めなければなりません。

私が頼んだからといって、先生が必ずOKしてくれるとは限りません。先生には既にいろいろするべきことがあるでしょうし、また、私のために教える時間をわざわざ作る価値があるのか、と思うかもしれません。実際、クラスをして欲しいと頼んだのに、実際クラスを始めてみると、一回も来ない人やすぐに来なくなるという人は多く、先生の時間を無駄にさせてしまうことは多々あります。

このようなことから、まずは、私を教えるための時間を捻出してもらうために、先生を無駄に忙しくさせている作業を見つけ出して、肩代わりさせてもらえないかお願いするところから始めていました。それがきっかけで、クラスの準備として、教室を確保して掃除し、他の人を集めたり、書籍を手配したり、授業で使うサンスクリット語の書類を作ったり、校正作業をしたり、先生の代わりに簡単な英語やサンスクリット語を他の生徒に教えたりと、いろいろさせてもらうことが出来ました。クラス開催のための先生への直接のセーヴァーだけでなく、クラスを可能にしてくれているアシュラムのセーヴァーとして、オフィスや図書館、本屋、テンプルなどを手伝ったり、アシュラム内や近隣に住んでいるお年寄りのお手伝いや、アシュラムへの訪問者のさまざまな遣いっ走りなど、さまざまな活動をさせてもらうことが出来ました。

セーヴァーをしていく上では、指示待ちではなく、自分から、この状況でどうすることが、ダルマに沿っていて、人々の幸せを増やすことが出来るのか?を自分の頭で考えることが要求されます。このようなアプローチでの勉強環境の実現は、いろいろ大変だったかも知れないですが、より伝統的なアプローチであり、この勉強に対する必要なあるべき姿勢を体得させてもらう機会となったので、私はこのような環境で勉強を始められたことを、とても幸運に思っています。

プージヤ・スワミジは、セーヴァーという言葉の意味を、ヴェーダーンタのクラスを通して教えてくれただけでなく、スワミジの、思いやりそのものの生き方を通しても教えてくださいました。

その教えを受けて、実際に自分がリシケシのアシュラムで生活をしていて学んだことは、「他人がどうすべきか?」といったことは考えるだけ不毛なので、意識して一切考えないようにして、「自分が今ここで出来ることは何か?するべきことは何か?」だけを考えるようにすれば、生きていることが全く難しくなくなり、人生は充実したものでしかあり得ない、ということです。

自分が世界を見渡すとき、貢献者になろうとして自分と世界を見ていれば、難しいことや苛立たしいこと、不便さといったことはあっても、自分が不幸になることはあり得ません。「自分はこれだけ貢献しているのに、誰からも感謝されない」と嘆くのは、「相手は自分に感謝すべきだ」と、やはり「他人がどうすべきか」と考えている証拠です。

他人の言動に、自分の幸せを委ねているから、他人の言動を支配しようとしてしまうのです。自分が自分を肯定していないから、他人からの肯定的認証に心理的に依存するのです。
どれだけ多くのものに恵まれていても、本人が消費者目線で世界と関わっている限り、自分は不幸だと嘆くことになります。一方、たとえ傍目からは何も持っていないように見えても、自分が世界を見渡すときの姿勢が「ここで私が出来るセーヴァーは何か?」という貢献者的目線なら、「私は全てを与えられている」という事実に気づくことができます。

また私は、自分自身が先生方から受け取ったヴェーダーンタとサンスクリット語の知識を教え継ぐ活動もしていますが、その活動の全ても、セーヴァーの精神によってのみ成り立っています。私自身が、「教えないといけない」というプレッシャーを全く持っていないので、クラスの開催に関わる全ては、学びたいと真摯に願う人々によって、それだけでなくさらに、他の多くの人々にも学ぶ機会を提供しようとしてくれている、高尚な意思を持った人々によって運営されています。これは、ヴェーダを発見したリシ達から、ヴィヤーサ、シャンカラーチャーリヤ、そして私の先生まで綿々と続く、グル・パランパラー(知識伝承の系譜)にある先生方の恩恵の表れに他なりません。

このように、日本でクラスが出来るというのは、私にとっては奇跡的事象です。ですから、お客様的・消費者的態度で参加するのではなく、是非、貢献者的態度で、運営してくださっている方々に感謝し、手助け出来ることはないかと探す姿勢でクラスに参加し、学びの機会・成長の機会となるよう、希少なクラスを活用してください。

また、今年(2019年)の9月には、インドからパラマートマーナンダ・スワミジが日本の皆さんの為にヴェーダーンタを教えにいらしてくださいます。インドからスワミジをお呼びするということは大変なことで、多くの方面で多数のセーヴァーを必要としています。セーヴァーをする側として参加してみると、ただ聴いているよりも、はるかに多くのことを学びとることが出来ます。是非、勇気を持って一歩踏み出して、この機会を活用してみてください。

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ゴー・セーヴァー

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インドの伝統では、特に牛のお世話をすることを、「ゴー(牛)・セーヴァー」と呼び、今でもとても神聖な行為として、重要視されています。牛からとれるミルクや牛糞は、火の儀式やプージャーなどで捧げものとして使われるだけでなく、場を清めたり、薬品としてなど、インドの伝統文化の中で様々な用途で使われています。
ゴー・セーヴァーの精神では、ミルクを産出しない老いた牛や雄牛も、大切に飼育されます。直接的に何も生産していなくても、ただダラダラ生きているだけの牛達を、尊敬し、それなりのお金と人員を使って、大切にセーヴァーをするのです。動物を利用できるのが人間の特権ではなく、動物のセーヴァーを出来るのが、人間の特権なのだと、私達に教えてくれます。

これは、今の日本には、とても重要なことだと私は思っています。資本経済主義の社会において人々は、金銭的価値を生まないものは喰うべからず、という暴力的な価値観を振りかざし、自分自身を含めた社会を構成している全ての人々をジャッジし、結局、自分自身が苦しむ結果となっているように見えます。
自分は人間なのだから、人間的意思を使えば、他を生かすことが出来るし、自分は生き物だから、他によって生かされている。この当たり前の事実が、見えづらい社会になっているようです。このような、人間と自然との繋がりについて、インドの伝統的な価値観に沿った場所で牛のセーヴァーをしていると、いろいろ考えさせられます。ゴー・セーヴァーは、そのようなことを考えるためにもあるのではと思います。

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現代社会において見直されるべき、祈りという貢献

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最近、生きているだけで価値がある、というフレーズが聞かれるようになりました。動物の場合は生きているだけで貢献者になれるように出来ているので、本当に生きているだけでいいのですが、人間の場合は、意思を使って行動しなければ、なかなか貢献者になれなません。しかも人間は、貢献者として世界と関わっているという自覚を持って初めて、自分を受け入れらるという心理構造を持っているものです。

貢献者として世界に関わるということは、必ずしもより多くの金銭的価値を生んでいるということではありませんし、より多くの点数を取ったり、より高い役職についたりすることでもありません。それらは貢献になることもあれば、破壊につながることもあります。そして何よりも、貢献の仕方は人それぞれです。

生まれや育ちに関わらず、どんな人でも出来る貢献が、祈りです。どんな健康状態でも、経済状態でも、くよくよ悩むことが出来るマインド持っている人なら誰でも、マインドひとつで出来るのが、生きとし生けるもの全ての幸福を願う祈りです。祈りに必要なものは、たったひとつ、自分の自由意志だけです。マインドを使ってする行為も立派な行為です。自由意志を使ってされた行為は必ず結果を生みます。皆の幸せを祈ることによって、生まれや育ちに関わらず、いつでもどこでも誰でも平等に、社会貢献は出来るのです。

そしてその祈りを、言葉や行動へと表現していくのです。生きていることそのものが祈りになるのです。

祈りがどのように言葉やは、人それぞれ、その人の生まれや育ちや環境・状況など、様々なコンディションによって決定されますが、それは優劣の付けられるものではありません。皆それぞれ違った形で社会参加をしているから社会として機能しているのであって、そこに優劣をつけられるものではありません。どのような生まれでも育ちでも、それぞれに貢献の仕方がある。自分のするべきことをすることによって、どのような生まれでも育ちでも、精神的な成長を手に入れるチャンスは等しくある、というのがヴェーダのヴィジョンです。好きなことだけをするために、するべきことを放棄する。他人を蹴落として競争に勝つ。環境の循環機能を破壊して最大限に搾取する。

こういった、現代のいわゆる「成功像」は、人間の成長でも成功でもないということを、ヴェーダは始まりの無い時から知っていて、人間に教え続けてきたのです。それなのに、それがカースト制度だと歪曲されてしまったことは人類にとって不運なことです。

現代の自由競争社会では、自分のするべきことを放棄して好きなことだけをしたり、競争の中で他を蹴落として下剋上を達成したり、環境を破壊して搾取することが、人間の「自由の証し」として善しとされていますが、当然それでは無理があり、環境的・心理的にストレスが大きく、結局人間は本当に幸せになれないということを人間は早く学ぶべきです。

競争をしなくても、自分の居る場所で、自分に与えられたこの身体この心で、誰でも貢献者になれるのです。そのスタート地点は、生きとし生けるもの全ての幸せを祈ることです。それは立派な貢献です。「私は毎日生きるもの全ての幸せを祈ることを日課としている人間です」という自己認識に勝る自己肯定はありません。そして、この身体この心をうまく使えれば、その祈りを、人々に届く言葉や行動へと表現することも出来ます。それはその人それぞれで、その表現方法に優劣はありません。

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自分を知ること

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人間という生き物は、幸せの追求のためにある人生の中で、自分とは何者か?という自己意識が、最重要事項である生き物です。同時に、全ての人間は、自分という存在の本質を知らずに生まれて来て、さらに、それを知る由も体の中に持っていません。だから、自分の身体や自分の心、自分の持ち物など、自分を取り巻く環境で自分の価値を判断してしまうことは避けられません。

自分をジャッジする要因として、金銭価値や、その生産性といったものほど中身の無いものはありません。しかし現代の社会では、金銭価値という数字がそのまま人間の価値にとして受け入れられているかのようです。そのような基準で、自分と他をジャッジして、自分と他を窮地に追い込んでいるのだとしたら、それほど意味のない人生はありません。

また、自分の前世や来世、カルマなどで自分をジャッジしようと(もしくはされようと)する人々も多数います。しかし、それも小さな自己認識の上に成り立っています。この小さな自分が天国に行ったり生まれ変わったりしている以上、根本的な問題の解決に繋がっていないことには、何ら変わりはありません。

今後、ベーシックインカムの導入などで、生き延びるためにがむしゃらになって努力する必要がなくなり、目先の目標によって気を紛らわすことが出来なくなったら、人間はさらに、自分とは何かの問いに直面させられることになります。

この根本的な問いに完全に答えるだけでなく、毎日の生活の中での姿勢についてまでも含めた、トータルなヴィジョンを教えるヴェーダとヴェーダーンタは、今後人類がより注目すべき知識となるでしょう。

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終わりに

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ここまで長い文章を書きましたが、冒頭でもお伝えしたように、やはり、このような話は、直接顔を見ながら話し、聴くものです。文面だけでは伝わらないことが沢山あります。ですから、この文章を読んだだけで分かった気になるのではなく、きちんと理解するためには、是非、パラマートマーナンダスワミジのクラスはもちろん、私や私と同じ師を持つ先生方のクラスに出てみて、じっくり話を聴き、質問をしに来てください。

全ての人々の幸せを祈りながら。。

Medha Chaitanya

2015年12月2日水曜日

72.トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī])- 主体・客体・その手段といった、3つ組

त्रिपुटी
[tripuṭī]

feminine - 主体・客体・その手段といった、3つ組



カタカナで書くと、「幸せ、満足」という意味の「トリプティ(तृप्तिः [tṛptiḥ])」に見えますね。

しかし今回は「3つのモノの集まり」という意味の「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」です。

ローマ字やデーヴァナーガリーで書くと全く違うのに、

カタカナで書くと同じに見えてしまいます。

それゆえに、サンスクリット語をカタカナ表記をする時はいつも、なんとも心苦しくなり、

横にデーヴァナーガリーとローマ字表記をせっせと付けているのです。


カタカナ表記の限界


日本語の仮名は、子音と母音が既に1つになっていて、

子音だけで独立して表記は出来ません。

さらに、日本語にある音の種類は、他のどの言語に比べても、

かなり少ない方です。

母音は5つだけ。

子音は、14??

サ行の中にでも、「S」と「SH」が混じっているし、

ワ行はアとしか合わさらないので、どう数えていいのかも曖昧です。

日本語は、音声学的にかなりシンプルな言語です。

サンスクリット語は、母音が9、子音は33、

さらに日本語には殆んど無い複合子音がいっぱいあります。

そんな訳で、サンスクリット語はもとより、どんな外国語でも、

カタカナ表記してしまうと、本来の発音とはほど遠くなってしまうことは多々あります。


文字習得は、日本人にとっては難しいことではない


日本語は、発音の種類がシンプルなゆえに、会話は学び易いけど、

書き言葉となると、世界一難しい言語かも知れません。

音の少なさゆえに、同音異義語がとてつもなく多く、

漢字表記に大きく頼っているので、学習は大変です。

しかし一方で、使用する文字の種類の多いことから、

デーヴァナーガリー文字など、新しいアルファベットを学習するスピードは、

西洋人に比べて、ぐんと速いのも、日本人の特徴です。

というわけで、何が言いたかったかというと、

そんなに難しいことではないけど、効果は絶大なので、

カタカナ表記の横に添えてある、ローマ字やデーヴァナーガリーにも目を通すくせをつければ、

思っている以上に早く、正しい発音の表記法が習得出来ますよ!

ということでした。

ローマ字は、ヘボン式ローマ字とほぼ同じです。

ちなみに、ヘボンは、ヘップバーンです。ヘボンの方が発音近い?



何でこんな話になったのかというと、

「トリプティ(तृप्तिः [tṛptiḥ])」と

「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」の違いですね。

「トリ(त्रि [tri])」とは、英語のthreeと一緒ですね。3です。

「プタ(पुट [puṭa])」は「~種類」という意味です。

それらが複合語として合わさって「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」です。

何かを説明するときに、その主要な構成要素が3つの場合、

「3つ揃え」として紹介するのに使われます。


「知る」という認識行動に関わるトリプティー


今回なぜ「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」を取り上げたかというと、

「The Value of the Values」の本の中でよく登場するからです。

文法的に説明しなければ、すっきり理解出来ないので、

今回のトピックとして取り上げました。

カタカナよりは、ローマ字やデーヴァナーガリーを見たほうが、

分かり易いかもしれません。


「ニャー(ज्ञा [jñā])= 知る」のトリプティー

1.「ニャーター(ज्ञाता [jñātā])」(知る人、知る主体

2.「ニェーヤム(ज्ञेयम् [jñeyam])」(知られる対象

3.「ニャーナム(ज्ञानम् [jñānam])」(知る手段、認識


「プラマー(प्र + मा [pra + mā])= 知る」のトリプティー

1.「プラマーター(प्रमाता [pramātā])」(知る人、知る主体

2.「プラメーヤム(प्रमेयम् [prameyam])」(知られる対象

3.「プラマーナム(प्रमानम् [pramānam])」(知る手段、認識


それぞれの言葉を良くよく観察してみてください。

前の部分は、動詞の原型(ニャーとかプラマーとか)です。

それぞれのトリプティーに共通にありますね。


一方、後ろの部分(色つき)が、接尾語と呼ばれる部分(ターとか)で、

言葉全体が、動詞の主語なのか、目的語なのか、手段なのか、

はたまた動詞で示されている行為そのものなのかを表しています。


これは、「知る」という認識のプロセスにおいて、

最低必要な要素を表しています。


3つに分けて説明する理由


「知る人」、「知られる対象」、「知る手段」、

これらは全て、当たり前の事ばかりですが、

これらをきっちりした言葉できっちり把握する必要があります。


「知る人」という主体が無ければ、始まらない。

そして、知るからには、「知られる対象」がなければ話にならない。


この世界を体験している私にとって、全宇宙とはこの2つだけです。

いろいろあるように見えるけれども、煮詰めると、

「私」という認識と、「私以外」という対象物の認識しかありません。


「知る人」と「知られる対象」があっても、

「知る手段」が適当でなければ、知ることは出来ません。

さらに、「知られる対象」が「知る手段」によって、

知りうる範囲になければ、それを知ることが出来ない。


サンスクリット語の学習は、ボンヤリ認識していた世界や宇宙を、

構造的にすっきり理論的に把握するのを手伝ってくれます。




五感、推論、言葉などの「知る手段」を使っても、最終的に「心」という

「知る手段」が適当な状態でなければ、うまく知る事はできない。


「知るべき対象」の性質によって、適当な「知る手段」を使わなければ、

知ったことにはならない。


「知る主体」が自身の本質を知ろうとするとき、その「知るべき対象」とは?

その場合の「知る手段」は?

それが全てはヴェーダーンタにつながるのです。



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53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源






<< 前回 71.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- (意味1:) 知る手段 <<










= 文法に興味がある人へ =

ज्ञा + तृच्     3.1.133 ण्वुल्तृचौ । 動詞の主体を表す接尾語तृच्が付与される
ज्ञा + तृ        अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
ज्ञातृ  
ज्ञाता, ज्ञातारौ, ज्ञातारः... 名詞の活用(男性形)

ज्ञा + यत्      3.1.97 अचो यत् । 動詞の目的語を表す接尾語यत्が、
             母音で終わる動詞の原型に付与される
ज्ञा + य         अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
ज्ञी + य         6.4.65 ईद्यति । यत्の前の長いआはईに変わる
ज्ञे + य          7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । グナが起きる
ज्ञेय
ज्ञेयम्, ज्ञेये, ज्ञेयानि...  名詞の活用(中性形)

ज्ञा + ल्युट्       3.3.117 करणाधिकरणयोश्च । 動詞の手段や場所を表す接尾語ल्युट्の付与
ज्ञा + यु            अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
ज्ञा + अन         7.1.1 युवोरनाकौ । 接尾語のयुはअनに変わる
ज्ञान
ज्ञानम्, ज्ञाने, ज्ञानानि...  名詞の活用(中性形)



प्र + मा + तृच्     3.1.133 ण्वुल्तृचौ । 動詞の主体を表す接尾語तृच्が付与される
प्र + मा +  तृ        अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
प्रमातृ
प्रमाता, प्रमातारौ, प्रमातारः...  名詞の活用(男性形)

प्र + मा + यत्         3.1.97 अचो यत् । 動詞の目的語を表す接尾語यत्が、
               母音で終わる動詞の原型に付与される
प्र + मा + य           अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
प्र + मी + य           6.4.65 ईद्यति । यत्の前の長いआはईに変わる
प्र + मे + य            7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । グナが起きる
प्रमेय
प्रमेम्, प्रमेये, प्रमेयानि...  名詞の活用(中性形)

प्र + मा  + ल्युट्       3.3.117 करणाधिकरणयोश्च ।
प्र + मा  + यु           अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
प्र + मा  + अन        7.1.1 युवोरनाकौ । 接尾語のयुはअनに変わる
प्रमान
प्रमानम्, प्रमाने, प्रमानानि...  名詞の活用(中性形)

2015年10月27日火曜日

70.サラッスヴァティー(सरस्वती [sarasvatī])ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:4

सरस्वती
[sarasvatī]

1. 芸術と学問を司る女神


2. サラス(水)を持つもの


ナヴァラトリーの間に全ての女神の記事を
上げるつもりでしたが、新刊の入稿に追われておりました。
でも、無事にアマゾンで公開されました
同じ師を持つ心強い人々に助けてもらい、
いろんな意味でドキドキ、ワクワクしながら本作りが出来ました。
本当に皆様、ありがとうございます。
紙の書籍ももうすぐ発刊されます。楽しみです。

では、本題に入りましょう。

本来の発音に近いのは「サラッスヴァティー」ですが、
日本語では「サラスワティ」として広く知られていますね。

1.芸術と学問を司る女神


「サラッスヴァティーは、日本では弁財天という名で知られています」

とサラリと説明して「そーなんだー」と言ってもらうことも出来ますが、

私はそういう説明はどうかな?と思います。


なぜなら、日本人は学校でも家でも塾でも、勉強する前や楽器を弾く前に、

毎日毎回、必ず弁財天様にお祈りなんてしませんね。

インドでは、クラスの始まりごとにサラッスヴァティーに祈りを捧げ、

マントラ、シュローカ、ストートラ、スークタムなどを唱えたり、

ジャパをしたりして、一日に何回もサラッスヴァティーを思い出す習慣があります。


本や楽器をサラッスヴァティーそのものの表れとして拝み、

ナマスカーラをしたり、クンクマをつけたりし、

本を床に置かない、足に触れたり上に座ったり絶対しない、

食べ物や飲み物を触った手で絶対に触らない、

という規律を守って尊敬を表します。

もし誤って、足で触れてしまったり、落としてしまったりしたら、

本に対して頭や目を付けて謝罪します。

インドのサラッスヴァティーは、毎日このように扱ってもらっています。

それほど、サラッスヴァティーと、私達の毎日の生活、

そして私達の知識に対する態度とが密接に、

深く深く個人的に関っているのです。

神社やお寺の中ではなく、

私の舌の上に、私の頭の中に居てください、

と毎日お願いし、

私が話したり書いたり考えたり出来るのは、

全てサラッスヴァティーのおかげ、

と毎日認識する習慣を幼い頃から植え付けるのがインドの文化です。


一方、日本の弁財天様はどうでしょうか。


「弁財天」と言ってしまうと、ちょっと遠いイメージになってしまうので、

私はインドの神様を、日本の神様を通して説明するのには抵抗があるのです。


オン・ソラソバテイエイ・ソワカ


ちなみに、弁財天様の真言「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ」は、

もちろんですが、サラッスヴァティーのマントラ

「ॐ सरस्वत्यै स्वाह [om sarasvatyai svāha]」が訛ったものですね。

「スヴァーハ(स्वाह [svāha] )」はデーヴァターに対して

捧げものをする時に発する言葉です。それが「ソワカ」と訛ったのですね。

ちなみにご先祖様に対しては「スヴァダー(स्वधा [svadhā])」です。

デーヴァターの名前は第4格で表されます。

「サラッスヴァティー」の第4格は、

「サラッスヴァッティヤイ(सरस्वत्यै [sarasvatyai])」です。

それが「ソラソバテイエイ」と訛った。わかりやすいですね。

「オン」は「オーム(ओम् [om])」ですね。

「ॐ」という書き方は、単なる風習で、その形自体に意味はありません。

ヴェーダの伝統では、「オーム(ओम् [om])」は音のシンボル(プラティーカー)であり、

形のシンボル(プラティマー)では無いからです。

「ॐ」の形について薀蓄を言うのは、伝統の外にある人達です。


サンスクリット語の単語の2種類の意味


辞書に載せられているような、よく使われるサンスクリット語の名詞には、

通常2種類の意味があります。

ひとつは「ヨーギカ・アルタ(योगिकार्थः [yogikārthaḥ])」といって、

文法的な語源を元にした意味です。

もうひとつは「ルーディー・アルタ(रूढ्यर्थः [rūḍhyarthaḥ])」と呼ばれる、

一般によく知られて通用している意味です。


ヨーギカとルーディーが同じでない場合は、

ルーディーの意味が優先されます。

サラッスヴァティーのヨーギカ・アルタは「水を持つ者=川」ですが、

ルーディー・アルタは「学問の神様」です。

ラクシュミーを真ん中にして、
ガネーシャとサラッスヴァティーという構図が
よく見かけられます。
世間一般の優先順位なのでしょうか。

2. サラス(水)を持つもの


サラッスヴァティー川は、現在のインドとパキスタンの国境辺りにあったとされています。

衛生写真で見ると、地形や古い町の分布から、

その存在が明らかだとする研究をしている人の発表を見たことがあります。

物理的にどうであれ、それに対する個人の態度が、

その人の学問に対する姿勢、

そしてその学問が教えてくれる知識に対する姿勢に影響するのです。


サラッスヴァティーの絵の意味


両手に持っているのは、「ヴィーナー(वीणा [vīṇā])」と呼ばれる

古くからある弦楽器です。現在でもいくつかの種類が残っています。

中でもルッドラ・ヴィーナーという種類のヴィーナーは特に珍しく、

現在それを演奏できる人はごく僅かです。

伝説の故ヴィーナー・マハラージ
ルッドラ・ヴィーナーを轢くことが出来た最後の一人、
とリシケシで誰かに教えてもらいましたが、
南インドにはまだいます。
ちなみに、弁天さんが持っている琵琶(びわ)は、

ヴィーナーが訛ったものみたいですね。今回初めて気付いた!

バラモンがブラーンマナが訛ったものであるということも、ごく最近気付きました。


右手に持っているのは、スパティカ・マーラー、水晶の数珠です。

スパティカは、その透明性から、明瞭な思考・理解を象徴しています。

左手に持っているのは、ヴェーダですね。

ちなみにサラッスヴァティーの伴侶は、

4つのヴェーダを象徴する4つの顔を持つ、ブランマージーですね。

サラッスヴァティーは普通、蓮の上に座っています。

乗り物(ヴァーハナ)は、ハムサ(हंसः [haṃsaḥ])白鳥です。

白鳥は、水の混じったミルクが与えられても、

ミルクだけを飲むことが出来る、という言い伝えがあり、

それが「ヴィヴェーカ(विवेकः [vivekaḥ])」を表しています。

ヴィヴェーカとは、見た目は似ているけど、本質は違う、

二つのものが混じっているとき、それを見分ける能力です。

人間が人間として生まれて来た意味を満たすために、

一番大事で、必要不可欠な能力が、ヴィヴェーカなのです。

ヴィヴェーカについては、また今度ゆっくり説明しますね。



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関連記事:

 67.カーリー(काली [kālī]) 
ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:1


 68.ドゥルガー(दुर्गा [durgā])
ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:2

69.ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ])
ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:3










人生の豊かさを決定する2人のレディース 
ラクシュミーとサラスワティ










या देवी सर्वभूतेषु मातृरूपेण संस्थिता ।
yā devī sarvabhūteṣu mātṛrūpeṇa saṃsthitā |
नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमो नमः ॥
namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ ||

या देवी सर्वभूतेषु शक्तिरूपेण संस्थिता ।
yā devī sarvabhūteṣu śaktirūpeṇa saṃsthitā |
नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमो नमः ॥
namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ ||

या देवी सर्वभूतेषु लक्ष्मीरूपेण संस्थिता ।
yā devī sarvabhūteṣu lakṣmīrūpeṇa saṃsthitā |
नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमो नमः ॥
namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ ||

या देवी सर्वभूतेषु बुद्धिरूपेण संस्थिता ।
yā devī sarvabhūteṣu buddhirūpeṇa saṃsthitā |
नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमो नमः ॥
namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ ||

2015年10月20日火曜日

69.ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ])ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:3

 लक्ष्मीः
[lakṣmīḥ]


1.ヴィシュヌの伴侶、ラクシュミー


2.努力する人に恩恵を与えるもの



あらゆる形の富の象徴


ラクシュミーは、あらゆる形の富の象徴です。

金銀財産はもちろん、権力、勝利、家族や食糧といった、

人間が持てる豊かさの全ては、ラクシュミーの表れです。

ケララ人のスワミ曰く、

ケララ州では、どんな家庭にでも、家の中に

「この家族は、ラクシュミーの恩恵によって成り立っている」

と書いたお札を奉っているそうです。

酔っ払って、「この家はな~誰のおかげでな~」と説教する&されるよりも、

より視野が宇宙に向けて広く、 客観的で謙虚な姿勢ですね。


アシュタ・ラクシュミー


ラクシュミーの八つの姿を合わせて、

アシュタ(8)・ラクシュミーと呼びます。


ダナ(財産)・ラクシュミー、

サンターナ(子孫繁栄)・ラクシュミー

ジャヤ(勝利)・ラクシュミー

ダーンニャ(穀物)・ラクシュミー

アイシュヴァリヤ(統治力)・ラクシュミー

ヴィーリャ(力)・ラクシュミー

ガジャ(象)・ラクシュミー

など、いろいろあって、何が8なのか、特に決まっていないみたいです。

豊かさを表すものなら何でもラクシュミーってことなのです。


1.ヴィシュヌの伴侶


विष्णोःपत्न्याम् अमरः

シヴァの伴侶はパールヴァティー、

ブランマージーの伴侶はサラッスヴァティー、

ヴィシュヌの伴侶は、ラクシュミーです。



ラクシュミージーは、手に蓮の花「パッドマ(पद्मम् [padmam])」を

持っている姿で描かれることが多いので、

「蓮の花を持つ者(女性)」という意味の

「パッドミニー(पद्मिनी [padminī])」もしくは

「パッドマヴァティー(पद्मवती [padmavatī])」

という名前で呼ばれます。

「パッドマ(पद्मम् [padmam])」に「~を持つ者」という意味の

「イン(इन् [in])」もしくは「マット(मत् [mat])」という接尾語を付けると、

「パッドミン(पद्मिन् [padmin])」「パッドマヴァット(पद्मवत् [padmavat])」

となります。

「ヨーガ」が「ヨーギン」に、「バガ」が「バガヴァット」になるのと、

全く同じ要領です。

そして、それらを女性形にしたければ、女性形の接尾語「イー」を付ければよいだけ。

それぞれ「パッドミニー」、「パッドマヴァティー」に、そして

「ヨーギニー(योगिनी [yoginī])」「バガヴァティー(भगवती [bhagavatī])」

となるわけです。


2.ラクシュミーの文法的語源


「印をつける、定義する、見つける」といった意味を持つ、

「ラクシュ(लक्ष् [lakṣ])」という動詞の原型に、

「ミー(मी [mī])」という、動作の主格を表す接尾語を付けて、


「ラクシュミー(लक्ष्मी [lakṣmī])」 となります。

これで、「見る人」となるわけですね。


「神様がこっちを見てくれる」ってどういう意味で取ればよい?



ヒンドゥーでは、「神様がこっちを見てくれる」、というのは、

「贔屓にしてもらえる=思い通りに事を運んでくれる=幸運を与えてくれる」

という意味として捉えられます。

ラクシュミーの御眼鏡に適うのは、どんな人?

लक्षयति पश्यति उद्योगिनमिति।
lakṣayati paśyati udyoginamiti|

「努力する人を見るもの、ラクシュミー」 という定義があります。

努力と運(ダイヴァ)は、車輪に例えられます。

「右側だけでも、左側だけでも駄目で、

両方無いと前に進めない」、という意味です。


ラクシュミーの活用


「ラクシュミー」は名詞の原型です。

「イー」で終わる女性名詞ですが、活用するときは注意が必要です。

上でも見たように、「ラクシュミー」の「イー」 は、

動作の主格を表す接尾語であって、

女性形を作るために足される接尾語では在りません。

(カーリーを参照のこと)

女性形の単語を作るための「イー」という接尾語で終わる単語は、

第一格・単数においては、「ナディー」と、名詞の原型と同じ形になりますが、

「ラクシュミー」の場合は、「ラクシュミーヒ」と、最後にヴィサルガが付くのです。

第一格・単数以外の形は、「ナディー」「ラクシュミー」とも、全て同じです。

なぜそんなことが起きるのかと言いますとね、

第一格・単数を表す接尾語は「S」 の音であり、

ヴィサルガの元となります。

女性形の単語を作るための「イー」という接尾語で終わる単語の場合、

その「S 」が落ちてしまいます。

それで、「ナディー(Sが落ちてヴィサルガが聞こえない)」となるわけです。

しかし、「ラクシュミー」の「イー」は、女性形の接尾語ではないので、

「S」 が落ちず、「ラクシュミーヒ」となるわけですな。

同じような単語は、ラクシュミーと同じ意味の「シュリー(श्रीः [śrīḥ])」や、

知能・知性といった意味の「ディー(धीः [dhīḥ])」などがあります。

文法が好きな方は、このシュローカを覚えると良いでしょう。

अवीतन्त्रीतरीलक्ष्मीधीह्रीश्रीणामुणादितः ।
अपि स्त्रीलिङ्गवृत्तीनां सोर्लोपो न कदाचन ॥
(これら7つの女性形の単語は、उणादि-प्रत्ययで終わっているので、
सुँ-लोपが起きません、という意味です。)


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今日のシュローカ
या देवी सर्वभूतेषु लक्ष्मीरूपेण संस्थिता ।
yā devī sarvabhūteṣu lakṣmīrūpeṇa saṃsthitā |
नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमो नमः ॥
namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ ||

この宇宙の全てのものの中で、ラクシュミー(富、豊かさ)という形で存在する、

そのデーヴィー(女神)へ、私の感謝と尊敬の念を表します。
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http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2015/10/kali.html67.カーリー(काली [kālī]) 
ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:1








http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/10/durga.html


ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:2  ドゥルガー(दुर्गा [durgā])

2015年10月19日月曜日

68.ドゥルガー(दुर्गा [durgā])ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:2

दुर्गा 
[durgā]

1.ドゥルガー女神、創造と破壊の力(シャクティ)


2.理解されにくいもの



まず一つ目の意味から。


1.ドゥルガー女神、創造と破壊の力(シャクティ)


昨日のカーリーと同じように、創造と破壊を象徴する女神です。

カーリーはその名の通り、青黒い色で描かれていますが、

ドゥルガーは白くて、ライオンに乗っています。

マヒシャースラ・マルディニーとしても知られています。

その名の通り、マヒシャースラという魔物を殺したからことから由来している名前です。


アイ ギリナンディニ ナンディタメーディニ ヴィシュヴァヴィノーディニ ナンディヌテ~~

ギリヴァラヴィンディヤシローディニヴァーシニ ヴィシュヌヴィラーシニ ジシュヌヌテ~

私の好きな、『マヒシャースラ・マルディニー・ストートラム』です。

一見難しそうだけど、一度口に出すと、スラスラ出てきて、止まらない。しかも長い。

いかにもシャクティ!っという感じで力の湧き出るストートラムです。

バガヴァティ へー シティカンタクトゥンビニ ブーリクトゥンビニ ブーリクリテ~~

ジャヤ ジャヤ へー マヒシャースラマルディニ ランミャカパルティニ シャイラステ~

ここまでで1つのシュローカ。これが20番まで続きます。


なぜ武器を持った姿で描かれているのか


ドゥルガーはもちろん、カーリーも、ラーマも、ヴィシュヌも皆、

武器を持った姿で描かれています。

「守ってあげる準備はいつでも出来てるよ!」という意味です。

頼りにしたいから祈っている訳です。

何をどうもってして、頼りになるのか、本当のところを考え出したとき、

それに答えるのがヴェーダーンタです。

そして、二つ目の意味。


2.理解されにくいもの


दुर्दुःखेन गम्यते प्राप्यते
[durduḥkhena gamyate prāpyate]


「ドゥル(दुर् [dur])」=難しい

「ガム(गम् [gam])」は「行く」以外にも「理解する」という意味でも使われます。

「ガム(गम् [gam])理解」+「ダ(ड [ḍa])~されるもの」

この「ダ(ड [ḍa])」は、「ड् [ḍ]」の部分が取扱説明書で、

「अ [a]」の部分が中身です。

中身である「अ [a]」をどうやって取り扱うべきか、「ड् [ḍ]」が教えているのです。

「ड् [ḍ]」が教えるメッセージは、、

「前にある言葉の中の、最後の母音から始まる音を全て消して下さい」

(文法が好きな人の為に:डित्त्वसामर्थ्यादभस्यापि टेर्लोपः । という有名なपरिभाषाです。)

ということは、「गम् [gam]」の「am」の部分を消してしまうということですね。

そうすると、「ग् [g]」+「अ [a]」=「ガ(ग [ga])」だけになります。

女性名詞なので、女性接尾語「アー(आ [ā])」を付けて、

「ガー(गा [gā])」ですね。

「अ [a]」+「आ [ā]」=「アー(आ [ā])」、ディールガ・サンディです。

そこに、「ドゥル(दुर् [dur])」を付けて、

「ドゥルガー(दुर् [dur])」、理解し難いもの(女性)となるわけです。



どうしてドゥルガーは理解し難いのか?



ドゥルガー・デーヴィー(女神)は、シヴァ(イーシュヴァラ)と一心同体です。

離れて存在は出来ません。

アルダ・ナーリーシュワラの姿は、それを理解しやすい形ですね。


アルダ(半分)・ナーリー(女性)・イーシュヴァラなのです。

जगतः पितरौ वन्दे पारिवतीपरमेश्वरौ ।
jagataḥ pitarau vande pārivatīparameśvarau |

これは、カーリダーサ(昨日見ましたね)のラグ・ヴァムシャの

有名な、最初の祈りのシュローカです。

私が教えている3年コースのサンスクリット語のクラスでも、

毎日皆で唱えています。

「ジャガット(この宇宙の全て)の父母である、

パールヴァティーとパラメーシュヴァラに、

尊敬の念を表します。」

イーシュヴァラは、シャクティと、不離一体なのです。

だからこそ、その本質はひとつ。アドヴァイタです。


ひとつしか無いのだから、しかもそれはあなたでしかあり得ないのだから、

これほど分かりやすい事は無いのに!と思うのですが、

「ドゥルガー(理解され難いもの)」なのです。


理解に必要なもの



「理解」というからには、マインド(心、頭脳)が必要です。

マインドが準備されていなければ、理解は出来ません。

掛け算をまだ習っていないマインドが、

「8X9=72」を理解できないのと同じです。


ヴェーダーンタの「イーシュヴァラはあなたです」のヴィジョンも、

準備の出来ていない心=人間として成熟していない心

では理解出来ません。


それゆえに、こんなに明解な真実も、

「そういう意見って面白いよね。分かる分かる!

でも僕は違うと思うけど。」で片付けられてしまうのです。


心の準備、つまり人間として成熟した心とは、

出来るだけ短い言葉で言うと、客観的で、コンパッションのある心です。

当たり前と言えば、当たり前のことですが、

客観性やコンパッションというものは、

それの価値を充分理解し、意識して培っていくものです。


そして、そんな人間として成熟した心は、

自分のすべきこと「スヴァダルマ(स्वधर्मः [svadharmaḥ])」

に徹した生き方でしか得られません。


何が人間として成熟した心なのか?


上で示したように、プラマーナのはっきりしているインドでは、

人間としての成熟とはなにかも、はっきり定義され、詳しく説明されています。


一方、プラマーナの無い国、日本では、それははっきりしていませんね。

何でも「個人の問題」で片付けられて、さまよい続けています。

もちろん個人差はありますが、

日本人ほど、全体的にダルマのレベルが高い国も珍しいのに、

「何がダルマか」というのを、はっきりしたがらずに、

「個人」「感覚」「好きなことを!」という傾向が強く、

せっかく真面目に生きているのに、方向性が与えられていないのは、

インドから見ていて面白いです。っていうか、もったいない!ですね。


インドは元祖「ダルマ」の国で、

揺れ動かない普遍的な「成熟した心」の価値感が、

何千年と伝えられている国なのにも関らず、

全体的に「君たち自由過ぎるよ~!!」のように感じることが多いです。


どちらにせよ、ウパニシャッドでもギーターでも、

アドヴァイタは、「理解され難いものである」と何度も言われています。

宇宙の創造がそういう風に出来ているのですね。


ハッピー・ナヴァラートリー!

2015年10月18日日曜日

67.カーリー(काली [kālī]) ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:1

काली
[kālī]
カーリー


1.カーラ(シヴァ)の伴侶

2.黒い色をした女神




ナヴァ・ラートリーとは


カールティカ月の新月の次の日から、九夜続けて、

女神に祈りを捧げる期間が、ナヴァ(9)・ラートリー(夜)です。

どの日にどの女神に祈りを捧げるかは、地方によって異なります。

女神はサンスクリット語で「デーヴィー (देवी [devī])」です。

デーヴィーは全て、「シャクティ(शक्तिः [śaktiḥ])」と呼ばれる、

創造する力、可能性を象徴しています。



今日はまず、パールヴァティーの姿のひとつである、

カーリーを紹介しますね。

「カーリー(काली [kālī])」の定義のひとつめ、

1.カーラと呼ばれる、シヴァの伴侶が、カーリー。


कालस्य शिवस्य पत्नी ङीष्

「カーラ」に女性形の接尾語「イー」がついて、

それが原因で「カーラ」の最後の「ア」がとれて、

「カーリー」と成るわけです。

カーラ(कालः [kālaḥ])」とは、「時間」という意味。

破壊を象徴するシヴァの名前のひとつです。

時間は、全てのものを破壊に導きますね。

微生物も、巨大な恒星も、全ては時間の中に存在します。

毎秒、時間に蝕まれ続けているのです。

ゆえに、カーラは死神の名前でもあります。


しかし、シヴァは死神よりももう一歩上を行きます。

「カーラカーラ」は、もうひとつのシヴァの名前です。

意味は「カーラ(時間の)カーラ(破壊者)」。

時間ってどうやって破壊できるの?

ふたつの切り口から説明できます。

時間も創造の一部。作られては消えていくものです。

時間は絶対的な存在ではありません。

最近の物理学もそれに気付き始めています。

では、時間はどこから表れて、時間はどこへ消え去るのか?

それが、シヴァです。

創造が始まり、創造が維持され、創造が幕を閉じる、

創造が存在できているのは、存在とは離れていない、

でも独立した存在。

もうひとつの切り口は、

「自分は時間の範囲内にある」という、

サムサーラの根源となる、無知からくる考えにピリオドを打つ、

「私は時間の範囲内にはいない」というウパニシャッドの知識です。

アムリタのところで見ましたね。

2Dの絵を見るためには、自分はもうひとつ別の次元にいなければならない。

この世界は3D。ってことは、この世界を見ているあなたは、何次元にいるの?

時間をもうひとつの次元と数えるなら、

時間を対象化しているあなたは、時間と言う次元からも、

もうひとつ別の存在であるはず。

こんなにシンプルなのに、誰もまともに受け入れられない、

ウパニシャッドの知識です。

その知識の理解が、カーラを破壊してしまう、という意味です。


知識の宿る、人間として成熟した心


ちなみに、なぜまともに受け入れられないかというと、

心の準備ができていないからです。

心の準備は、アヒムサーに代表される、ダルマの生き方を

生きることによってのみ、培われます。

ダルマの生き方とは、家族・社会・環境(デーヴァター)へ

奉仕・配慮・貢献といった、義務を果たす生き方です。


シヴァの伴侶とは?


そんなシヴァと、ひとときたりとも離れていない存在。

2人別々に存在出来てしまうのなら、それはドヴァイタですからね。

「ブランマン+マーヤー=イーシュワラ」といった、

ヨーガ界にまかり通っている、危険な方程式です。

そんなことを教える人は混乱していますし、

混乱している人に限って、多くのデヴォーティーを抱え、

さらにその混乱を広めているのです。まぁ、世の中そんなものですが。


デーヴィーはシヴァから存在を得ているけど、

シヴァは独立した存在です。

それを表しているのが、これらの絵なのです。

2.黒い色の者(女性形)



「カーラ」は「黒」という意味もあります。

そこに女性形をつくる接尾語「イー」が付いて、「カーリー」です。


謎めかしい絵の意味


カーリー女神を表す絵は、怖いですね。

しかし何で、こんな恐ろしい形相で、しかも伴侶のシヴァを踏みつけているのでしょうか。

この絵の象徴するものは一体何なのでしょうか。



創られたものは全て、破壊の道を辿る。

それが創造のあり方です。それが創っては破壊し続ける女神のあり方です。

それに私達は目を奪われて、時間の範囲の中で一生ジタバタして、

彼女の思う壺、ペロンと食べられます。

彼女を支えているシヴァも、彼女の創造のパワー(シャクティ)に

圧倒されているかのよう。私達の目には入ってきません。

当の本人のシヴァは、彼女を支えているにも関わらず、

血なまぐさい光景に巻き込まれず、シャーンティです。

変わり続ける現象を、変わらない意識という存在で見続けている、

絵のこちら側、現象のこちら側の、自分と言う意味の意識なのです。


この絵に関して、いろいろ薀蓄を言う人々はいるでしょうが、

つまらない薀蓄に心を奪われて、大事な点を逃し、

カーリーの絵の中に飲み込まれないように、気をつけて下さいね。



カーリー信仰


マハラーシュトラでは、ガネーシャ、

グジュラートではクリシュナ、

タミルではムルガンが人気であるように、

ベンガル地方では、カーリーが人々の信仰を集めています。


かの有名な、パラマナムサ・ラーマクリシュナも、カーリーの信仰者でした。

ラグ・ヴァムシャを著した、カーリダーサも、「カーリーの召使・信仰者」という意味です。


毎日、デーヴィーの祈りの句を紹介しますね。

या देवी सर्वभूतेषु शक्तिरूपेण संस्थिता ।
yā devī sarvabhūteṣu śaktirūpeṇa saṃsthitā |
नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमस्तस्यै नमो नमः ॥
namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ ||


この宇宙にある全てのものの中で、

シャクティという形で表現される、

デーヴィー(女神)に対して、

繰り返し、尊敬と感謝の認識を表現(ナマハ)します。



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ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:2  ドゥルガー(दुर्गा [durgā])
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/10/durga.html

ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:3  ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ])
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/10/laksmih.html




前の記事 セートゥ・サーマ(सेतुसाम [setusāma])







2015年6月26日金曜日

62.メーダー(मेधा [medhā])- 知性、知力、知性の女神の名前

मेधा 
[medhā]


feminine - 知性、知力、知性の女神の名前




私たちにとって、とても大事なものです。

また、恩師が私にくれた名前でもあります。


知性の女神


メーダー(मेधा [medhā])とは、知性の女神の名前として良く知られています。

芸術と学問の女神サラッスヴァティーと同じと考えて良いですが、

芸術と学問の女神サラッスヴァティ。
両手に持っているのは古典楽器のヴィーナ。
スパティカ・マーラーとヴェーダの文献を持っている。


サラッスヴァティーは白いサリーを着て、スパティカ(水晶)のマーラー(数珠)を

持っている姿で描かれるのに対して、

メーダーには特に描かれる姿がありません。

絵柄によって姿が描かれないヒンドゥーの神様って珍しいですね。


知力(メーダー・シャクティ)


一般的に「メーダー」と言うと、

「メーダー・シャクティ」、つまり「記憶力」と解釈されます。

しかし、より伝統的な解釈では、

メーダー・シャクティには3つの側面があると言われます。


1.多くの情報から正しい意味を素早く把握する力。理解力

一度言われただけで分かる人、何回言われても分からない人、

すぐに状況が飲み込める人、そうで無い人、

見た目だけでなく、その裏にある真実を見抜ける人、見かけで騙される人、

速く学び上達する人、そうでない人、

この差を作っているのが、メーダー・シャクティの一番目の能力、

Grasping Powerと言われる、把握力、理解力です。


2.理解したことを保持する力。記憶力

理解しても、すぐ忘れてしまったら意味がありません。

現代人には「私には記憶力が無い!」と言い張る人が多いですが、

本当は、記憶力というものは誰にでもあるものです。

しかし、それを発揮するには、メーダー女神のグレースが必要なのです。


私はインドでサンスクリット文法を教えている身ですが、

現代人は、理解に重きをシフトした分、

繰り返し&暗記ベースの学習アレルギーを持つ人が多いように思います。

現代人というよりも、伝統の暗記ベースの学習法に敬意を持っていない人達、

って言うほうが正しいですね。

現代人でも覚えることの大切さを知っている人は沢山いるので。

「私には記憶力が無い」という生徒に、

「でも、記憶するために5分でも努力したことある?」

と聞き返したら、返ってくる答えは必ず「NO」です。

記憶出来ないのではなくて、記憶する努力をしたことがないだけなのです。

それなのに「私には記憶力が無い」というのは、真実に沿った発言とは言えません。

「記憶するなんて面倒くさい、それに価値が見出せない」と言うほうが正直です。


暗記するプロセスは、心のあり方を学ぶプロセスです。

そのことに気付くことにも相当のグレースが必要です。


3.覚えたことを、必要な時に取り出せる力。

せっかく覚ても、ここぞ!という時、特に人前で話す時など、

大事な時に限って、出てこない!

ってことは誰にでも良くあることです。

これかそ、メーダー女神のグレースが必要なシャクティですね。


メーダー女神のグレースを得るには


有名なヴェーダのマントラ「メーダー・スークタム」があります。

日本にいる人がチャンティングをするのはまず無理ですから、聞くのが良いでしょう。

Googleでざっと検索しましたが、本当にウェブ上にあるヴェーダのマントラのチャンティングって、

めちゃくちゃな間違った発音のものばかりです!

間違った発音は不本意な結果を招くので気をつけて下さい!

10種類以上ある中、いろいろ聞いてみて、ちゃんとしてると思えたのはこれだけです。


しかし、最後の「マイ メーダーム」のいいところが収録されていない!


私が住んでいるアシュラムの主要なデーヴァターは、

「メーダー・ダクシナームールティ」です。

ヴェーダーンタの勉強に必要なのは、メーダーですから!

恩師がこのアシュラムを建立したときに、このデーヴァターに決めたそうです。

これは、アメリカのセーラースブルグのアシュラムの
メーダー・ダクシナームルティ
メーダー・ダクシナームルティに手をあわせて、

メーダー・シャクティを願うだけでも、充分でしょう。

ओं नमो मेधादक्षिणामूर्तये मह्यं  मेधां प्रज्ञां प्रयच्छ स्वाहा ।
oṃ namo medhādakṣiṇāmūrtaye mahyaṃ  medhāṃ prajñāṃ prayaccha svāhā |




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私達の辛さ苦しさを原因ごと持って行ってくれる、

ヴィシュヌの別名、ハリについて。




>> 次回 63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])>>

サンサーラの本当の意味。

ヴェーダが信仰ベースの宗教では無い所以。

他宗教との比較など。




文法の好きな方用:

मेधते सङ्गच्छते अस्याम् इति मेधा

मेध् सङ्गमने + अङ् + टाप्

properly understand

2015年4月24日金曜日

55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること

भक्तिः
 [bhaktiḥ]


feminine - 深く関わること、献身的に努めること


ハヌマーンは、ラーマが大好き。
ラーマの為だったら何でもします。

バクティの語源


「バジ-世話をする(भज् सेवायाम् [bhaj sevāyām])」という動詞の原型に、

「~すること」という意味の抽象名詞をつくる接尾語「ティ(ति [ti])」を付加します。

後ろの「ティ」につられて「バジ」の「ジ」がカ行の「グ」になり、

さらに濁音「グ」が清音「ク」になって、「バク」+「ティ」で、

「バクティ、世話をすること、親愛をもって深く関わること」といった意味の単語になります。
スリランカで緊急事態発生!
ラーマの弟、ラクシュマナを助ける為に、ヒマラヤの薬草が必要!
ハヌマーン、ヒマラヤにひとっ飛び!しかし、暗い山の中で薬草を探せない!
えい!そしたら山ごとひとつ、スリランカまで持っていくよ~!

「バクティ」の使われ方


この「バクティ」という文化がある国インドでは、

「グル・バクティ」「ヴィシュヌ・バクティ」といって、

自分の先生や、自分の好きなデーヴァターに対して、

せっせと祈ったりお世話をしたり、と何かにつけ毎日積極的に関わっていくことを指します。

日本にはこのような目に見えるカタチ(フォーム)が無いので、

「バクティ」といってもピンと来ないかもしれません。


バジャン?


インドでは、「バクティ」と聞くと、バジャンで恍惚となって神様の栄光を讃える、、、
チャイタニヤ・マハープラブ
いうイメージが、一般的です。日本ではどうでしょうか。
現代でも変わらない!楽しそう!
「カリユガにはバクティ=神の名前を歌うしかない!」と、
ヴェーダーンタを勉強する人を批判することもあるそうです。

それはそれで、とても美しいことです。

しかし、「神様の栄光を讃える」為には、その栄光を知らなくてはいけません。

それを知らずにただ賞賛するのは、

- アインシュタインがNYで拾ったタクシーの運転手が、

「あなたはとても素晴らしい物理学者ですね!」と褒め讃える -

というたとえ話のようなものです。



そもそも、「神様」って何なのか?

世界で多くの信者を持っている信仰宗教の神様はこんな感じです:

無形だけど男性で、無形だけど、今ここではない別の場所の天国に居て、

あなたに不幸な状況を与え続け、あなたを原罪人呼ばわりし、

死後に助けてあげるから、生きている間に出来るだけ神様に好かれるようにしなさい、

というような、ジャッジメンタルな神様でしょうか?

そんな人、居ないほうがいいですよね。賞賛にも値しません。


まず知ることから


この宇宙の全てのものであり、全ての知識であり、

そして全てのものに存在を与えている、イーシュワラです。

そのイーシュワラの存在を教えるのがヴェーダです。

イーシュワラは、正しく知って理解する為の対象です。信仰の対象ではありません。

1+1=2や、重力の法則などは、理解するためにあります。

先生は、それらを理解しなさいと教えます。それらを信じなさい、とは教えません。

イーシュワラについても同じです。

あなたの目の前にあるもの全て、経験してきたもの全て、

知っていること全てと、知らないこと全てを併せた、全てを指してイーシュワラと呼ぶのです。


「関わる」とは「関わっていない事など無い」と知ること


「私」が、この身体や心で区切られた「個人」であるならば、

「全体」と対比しての「個」なのですから、

「全体」と深く関わっている「私」があります。

どの時間も、どこの場所も、どの人間も対象物も、全ては「全体」に包括されています。

ゆえに私が、いつ、どこで、何をやっていても、

「全体」つまりイーシュワラと関わっていない事など無いのです。

その関わりを認識するのが「バクティ」です。


イーシュワラ、つまり「全体」について知ることにより、

自分の事を、イーシュワラと深く関わっている「私」で認識すること、

それが「バクティ」なのです。


4つのパス(道のり)という混乱


「バクティ」と聞いて思い出すのが、この4つの道のりの話:

外向的で行動的な人は、カルマ(行為)・ヨーガ、
情緒的で信仰心の強い人は、バクティ・ヨーガ、
知的な人は、ニャーナ(知識)・ヨーガ、
どれにも当てはまらない、good for nothingな人は、ハタ・ヨーガ!!

この話を聞いた事のある人は多いと思います。

しかし、このようなことは、ヴェーダの教えの伝統にはありません。

ある有名なアシュラムの、ある有名な先生が、何十年か前に言い始めたものです。


正しいプラマーナを使って、イーシュワラについて知ることにより、

イーシュワラとの関わっている自分を見つけることが「バクティ」なのだと理解出来たら、

4つの道のりは、つじつまが合わないことが分かります。


イーシュワラについて知ることが、「ニャーナ・ヨーガ」であり、

知りたいと思うこと、知る為の姿勢、全てが「バクティ」です。

自分とイーシュワラの理解にもとづく姿勢が「バクティ」であり、

そのバクティの姿勢をもって、自分の義務を果たすことにより

人間として成長する生き方が「カルマ・ヨーガ」です。

ハタ・ヨーガは、「ニャーナ・ヨーガ」や「カルマ・ヨーガ」の生き方に必要な、

身体と心のコンディションを整えるのにとても効果的です。

「バクティ」は、4つのうちの1つには成り得ません。


バガヴァーンの教える「バクティ」


バガヴァーン(=イーシュワラ)とは何かについて、

バガヴァーン自身が教えたのが、バガヴァッド・ギーターです。

その中にこのような詩節があります。

चतुर्विधा भजन्ते मां जनाः सुकृतिनोऽर्जुन ।
आर्तो जिज्ञासुरर्थार्थी ज्ञानी च भरतर्षभ ॥ ७-१६॥
[caturvidhā bhajante māṃ janāḥ sukṛtino'rjuna |
ārto jijñāsurarthārthī jñānī ca bharatarṣabha || 7-16||]

「幸運な人々は、4種類の方法で私(バガヴァーン)に関わっています。
1.困ったときの神頼みの人
2.成功の為に味方につける人
3.私について知りたいと願う人
4.私を(その人自身として)知っている人」

それぞれを見てみましょう

1.困ったときの神頼みの人(アールタ)

普段はバガヴァーンとかいったものに興味は無いけれども、

苦境に陥って、自分の力ではもうどうにもならない時、神頼みしかない!

と思いついて祈りを捧げる人。

その後うまく行っても、バガヴァーンのおかげ!と思うかどうかは別として、

一時的にも「バガヴァーンに祈る」という関係を持てた人です。


2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)

普段から、商売繁盛や家内安全などの為に、バガヴァーンに祈る習慣がある、

しっかり者です。世の中が分かれば分かるほど、成功や失敗には

「予測不可能な要因」が多様に関わっていることが見えてきます。

自分で出来ることはしっかりやる。予測不可能な要因にも、しっかり手を打つ。

その手の打ち方のひとつとして、

予測可能・不可能な要因すべてを司っている全ての存在、バガヴァーンに祈りを捧げる、

という実用的な方法で、日常的にバガヴァーンと関わっている人です。

でも、その人の心は、商売繁盛や家内安全にフォーカスしています。


3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)

単なる信仰の対象から、理解の対象へシフトした人です。

2から3が、革命的に大きなジャンプです。

バガヴァーンって何?誰?知ってなにかいいことあるの?

知るためには、それなりのプラマーナが必要です。

数学を知るためには数学の教科書、天文学を知るには天文学の先生が必要です。

バガヴァーンについて教えるのがヴェーダと、ヴェーダに関する文献です。

文献だけだと、どうとでも取れてしまうので、

何を言わんとしているかの全体像を明瞭に理解し、

さらにそれを、生徒に伝えられる能力のある先生が必要です。



4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)

ここにある宇宙の全てはバガヴァーンです。

バガヴァーンの本質は1つ、ゆえにそれはあなたの本質です。

ハヌマーンとラーマの関係は?
と聞かれたハヌマーンが答えます。
身体というレベルでは主と使いの関係です。
個人というレベルでは友達のような同等の関係です。
そして本質的には、私はラーマ自身です。
伝えられるべき事が伝わり続けている先生と生徒の代々続く流れを「伝統」と呼びます。

正しい伝統を受け継ぐ先生のところに行かなければ、

大学で何十年勉強しても、ヒマラヤの山奥で何十年修行しても、理解出来ません。

「理解は出来たけど、体験しなきゃ」というのは理解出来ていない証拠です。


次回は、同じ動詞の原型から派生した「バクタ」という単語と、

さらに、「バジャ・ゴーヴィンダン」の解説もしますね。



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<< 前回 54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ])<<

一緒にいるだけで、自分を正しい方向へ、成長の方向へ、
明るい知識へと導いてくれる、大切な人々との繋がりを、
サットサンガと言います。









>> 次回 56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])>>

バクティを持っている人がバクタです。

既存の「神様」の定義の問題点にも迫ります。

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