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2016年8月3日水曜日

ガネーシャへのお祈りのシュローカ


ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)

これらを全部足して一語にすると、その意味は何になるでしょうか?

答えは本文中にあります。


ものごとを始めるときには必ず、滞りのない達成を願い、

障害物を司るデーヴァター(法則)であるガネーシャに、

祈りが捧げられます。

ガネーシャへの祈りのシュローカには、いくつか良く知られたものがありますが、

その中で、わたくしの朝のクラスで使っているシュローカを紹介します。


अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |

अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||

似たような音の繰り返しが、謎かけのようなっていて、

面白いシュローカです。

では、一語一語見ていきましょう。


1.ウパースマヘー (私たちは祈ります)


文章の基幹は、動詞によって決まります。

動詞は、उपास्महे upāsmahe 「私たちは、心に描きます、認識します、瞑想します、祈ります。」

そうすると、「何を?」という疑問が湧いてきます。

「~を」という目的語を表す言葉は、サンスクリット語では大体

「m」で終わる単語を見つければOK、です。本当に大体ですが。

あ、でもこのシュローカでは、目的語以外の単語もすべて 「m」で終わってる。。。

そんなこともあるさ。


2.ガジャーナナ(象の顔をした)


このシュローカには、目的語が全部で4つあります。


目的語の中で一番わかりやすい言葉は、

गजाननम् gajānanam 「象の顔をした」 ガネーシャのことですね。

ガジャ गज gaja が「象」で、アーナナ आनन ānana は「顔」という意味です。

「象のような顔を持った」という複合語(サマーサ)になります。


3.長い複合語


このガネーシャを説明するのが、その前の長い複合語(サマーサ)です。

アガジャーナナパッドマールカム अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam

まず、「ガ」 ग ga とは、動詞の原型「gam (行く)」から派生した、「動く者」という意味です。

「ガ」に否定の「ア」を付けると、「アガ」 अग aga となり「動かない者」となります。

動かない者とは何でしょうか? ここでは「山」という意味です。

「山から生まれたもの(ज ja)」は、「アガジャー」 अगजा agajā です。女性形です。

山(パルヴァタ)から生まれた娘は、、、パールヴァティーですね。

シヴァの奥さんです。

ガネーシャのお母さんでもあります。
 

パールヴァティー(अगजा agajā)の顔(アーナナआनन ānana)は、

アガジャーナナとなります。
 
अगजा agajā + आनन ānana = अगजानन  agajānana



パールヴァティーの輝く顔は、大きく開いた蓮の花に例えられます。

蓮の花は、「パドマ पद्म padma」ですね。

蓮の花は、太陽が昇って初めて満開になります。

曇りの日は咲きません。

太陽の名前にはいろいろありますが、その一つに、「アルカ अर्क arka」があります。

パールヴァティーの顔を、満開の蓮の花のように輝かせる、太陽のような存在とは、、、

ガネーシャですね。

ゆえに、これらの言葉を全部ひとつにつなぎ合わせた複合語(サマーサ):

ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)

अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam は、ガネーシャを指しているのです。

サンスクリット語って面白いね~。

じゃあ次行きましょうか。



4.エーカダンタ(一本の牙を持つ者)



ガネーシャの名前として、もうひとつ良く知られているのは、

エーカダンタ एकदन्तम् ekadantam 「一本の牙を持つ者」 

エーカ एक eka が「1」で、ダンタ दन्त danta は、「歯」ですが、ここでは「牙」と解釈されます。

ガネーシャは、ヴャーサがマハーバーラタを口述したとき、

それを書き取るために、牙を一本折りましたね。それ故にです。

場所は、バドリナートのちょっと上にある、洞穴の中です。

画像検索したら、屋外の絵ばっかりでした。洞窟って言われているのに~。


5.アネーカダンタム?


「エーカダンタム」と対照的に、その前の言葉は「アネーカダンタム」です。

そのまま理解しようとすると、「一本以上、つまり沢山の牙を持つ者???」

になってしまします。

これがひっかけなのですね。

本当は、「アネーカダム」と「タム」に分けられます。

あ~おもしろ。

エーカ एक eka が「1」なら、アネーカ अनेक aneka は「沢山」です。

ここで「ダ」と言うと、「与える」という意味の「ダー दा dā」という動詞の原型からきた、

「与える者」という意味の単語になります。


「アネーカ(沢山のものを)」「ダ(与える者)」で、「アネーカダ」になります。


ガネーシャは、願えば願っただけ、沢山のもの、いや全てのものを与える力があります。

しかし、それは誰にでも、という訳ではありません。誰にとってでしょうか。

 

6.バクターナーム(認識する人々にとって)

 
バクターナーム भक्तानाम्  bhaktānām 「(ガネーシャを)認識する人々にとっての」

バクタとか、バクティという言葉は、一般的にとても誤解されている言葉です。

信奉とか、神への愛、とか、良く分からない言葉が上滑りしているだけだからでしょう。

信奉の対象について、神について、どういう理解をしているのか?


その前提がまったくないまま、信仰しろとか、愛を捧げるとか言っても、それは難しいでしょう。

人それぞれ適当にファンタジーいっぱいで思い描かれている対象が、

普通の信仰の対象の「神」であり、それに命や人生をかけることが出来るのも、

人間の、、、何と言いましょうか、ワンダフルなところです。

「神」とか言った瞬間、頭のボルトが外れて、無責任な考えになる。

勝手に思索するだけでなく、理論詰めで考えつくすのが、ヴェーダーンタです。



障害物といえども、何が障害で、何がそうでないかは、その場面によって変わります。

結局は、この全てを司っているのがガネーシャなのです。

司るとは?物理学や量子物理学や心理学やなんでもいいですが、

そのような、宇宙のミクロにもマクロにも見られる様々な法則と言う形で、

ここにあるもの全てを司っている、それがガネーシャです。

このようなガネーシャの理解があるとき、ここにある全てのものに、ガネーシャを認識している。

そのような人を、「バクタ」と呼ぶのです。


7.アハルニシャム(昼夜を通して)



全てにおいて、つまり、いつでも、どこにおいても、ガネーシャを認識しています。

ゆえに、「アハルニシャム」 अहर्निशम् aharniśam 「朝も夜も」という副詞が使われています。

バクタにとって、ガネーシャを、この全てを、正しく認識することに専念した人々にとって、

ここにあるもの全ては、正しい認識の為に、「与えられている」のです。

ゆえに、ガネーシャは、「アネーカダ(沢山のものを与える者)」と呼ばれるのです。


「その」、という代名詞である「タム(तम् tam)」、

つまり、障害を取り除き、全てを与える、ガネーシャを、

私たちは常に認識しています。

という意味でした~。


अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |

अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||

こちらも:
55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること

56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人
 




<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

2015年1月6日火曜日

39.カイラーサ(कैलासः [kailāsaḥ])- マウント・カイラーシュ、カイラーサ山

कैलासः 
[kailāsaḥ] 

masculine - マウント・カイラーシュ、カイラーサ山


ヴィシュヌ神の住居がヴァイクンタであるように、

シヴァ神の住居はカイラーサです。

シヴァ一家が住む、カイラーサ山

インド聖地巡礼の道のり


ヴァイクンタはこの地球上に無いので、

死んでからじゃないとヴァイクンタには行けません。

ヴィシュヌ派の巡礼地は108あって、それぞれにランクがついているそうです。

もちろんナンバーワンは、ヴァイクンタですが、なんせ天国なので、

生きているうちにいける巡礼地のナンバーワンは、ナンバーツーの”バドリナート”だそうです。

さすがヴェーダの国、インド。この世とあの世の境がごっつ適当!

バドリナートは、私の故郷リシケシから車で一日かけて行ける場所ですが、

そこまでの道のりは、崖を削って作ったくねくねした細い山道で、

運転手たちが向こう見ずに車を飛ばしまくっています。

リシケシからバドリナートの道のりはずっとこんな感じ。

いつ対向車と正面衝突しても、道から逸れて崖から落ちてもおかしくないまま、

バドリナートに到着するのが先か、ヴァイクンタに到着するのが先か?

と、まさに、12時間のスリリングな道のりです。

道のりの間ずっと、マントラを唱え続けたりしながら、

嫌でも、神様のこととか、人生のこととか、いろいろ考えてしまいます。

さすがヴェーダの国、インド。皆がスピリチュアルに向かうように、

あちらこちらすべてに仕掛けが仕込んであるんだなぁ。

おっと、シヴァ神のカイラーサから、ヴィシュヌ神のヴァイクンタに話が逸れてしまった。

カイラーサの道のりは、もっとハードです!


聖地カイラーサ(マウント・カイラシュ)への道のり


現在は中国領です。チベットより、もっともっと奥のヒマラヤ山脈の一部です。

でも、この世にあるので、今回の人間の体の中で生きているうちに行ける場所ですよ。

生きている間に行って帰ってこれる天国です。

ちなみに、ヴェーダが教えるには、天国というところは、行ってもいいけど、

どうせまた帰ってこなければならない場所なんですよ。

あんまり気軽に行ける感じではない

ネパールのカトマンドゥから、ジープとコックさんを雇って、

2週間かけて行って帰ってくるツアーで、お一人様20万円くらいかかるそうです。

ヘリコプターを使えば、10日間で往復出来るそう。

道のりです。ご参考までに。

カイラーサ山の頂上には、ॐ(オーム)が見えるのだそう。

「ॐ」が見えた?

シヴァ神のもう一つの住処


しかし、シヴァ一家は、一年の半分くらいは、カーシー(ヴァラナシ)の、

ヴィシュワナータ・テンプルという、外国人は入れないヒンドゥー寺院に住んでいらっしゃるそうです。

夏はカイラーサ、冬はヴァラナシなのかなぁ。と想像してしまいますが、

ちゃんとした日程はないそうです。

まぁ、どの時間にも、どの場所にも、在るもの全ては、パールヴァティーの表れだし、

すべての時間と空間に、存在を与えて支えているのはシヴァだし、

それはつまり、すべての時間と空間を対象化している、意識という主体、

つまり、「今」「ここ」にいる自分のことなんですが。





>> 次回の言葉 40.कैवल्यम् [kaivalyam] - カイヴァッリャ >>

サムサーラ=今の自分では無い自分になろうと頑張り続けること
それからの自由がモークシャ、カイヴァッリャ







<< 前回の言葉 38.कोटिः [koṭiḥ] - コーティ <<

2014年7月3日木曜日

29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ])- 幼年期の男子

कुमारः 
[kumāraḥ] 

masculine - 幼年期の男子



シヴァとパールヴァティーの息子


この「クマーラ」という言葉は、インド男子の名前によく使われます。

名前として使われるときは、最後の「a」が落ちて「クマール」と発音されます。

しかし、サンスクリット語では、きちんと「クマーラ」と発音されるべきです。

南インドのタミル・ナードゥ州では特に多く見られる名前です。

なぜかと言うと、シヴァ神とパールヴァティー女神の間にある、

2人の息子のうちの弟の名前が「クマール」で、

タミル・ナードゥ州では多大な信仰を集めているからです。

お兄さんは、北インド、特にマハーラーシュトラ州でで大人気の「ガネーシャ」。



弟は、南インド、特にタミル・ナードゥで人気を博している「スブラマンニャ」またの名を「カルティケーヤ」、そしてまたの名を「シャンムカ」、はたまた「スカンダ」、通称は「クマール」君です。

南インドで大人気のクマーラ君。
シヴァの息子であり、ガネーシャの弟でもあります。

なぜか北インドでは殆ど知られていません。

私もこちらコインバトールに来る前に、リシケシに4年住んでいましたが、

ガネーシャに弟がいる事自体、ぜんぜん知りませんでした。

コインバトールからリシケシに帰った時に、地元の人に

「ガネーシャには兄弟がいる」って言っても信じてもらえなかった。。

また、クマール君は、少年期から、結婚して、家族を持って、

最後にサンニャーシー(出家僧)になるまで、南インド各地を転々としていたそうです。

ゆえに、それぞれの土地で、それぞれの人生の段階のイメージで知られているので、

クマール君が、未婚の青年として知られている土地では、

「彼が結婚しているなんて!」って思われるそうです。



ガネーシャとクマール君の逸話:


シヴァとパールヴァティーは、ある日、とてもスペシャルな果物をもらったので、

自分たちの息子たちのうちの一人にそれをあげようと思った。

この世界、宇宙を、速く一周した方が、果物をもらえるという条件にした。

おなかのポッコリ出ている、正直ちょっと肥満体質のガネーシャ君の

ヴァーハナ(乗り物)は、ちっちゃいネズミちゃん。

一方、端麗なクマール君の乗り物は、すばしっこい孔雀。

クマール君は「ここは俺がもらった!」と言いながら、

さっそうと孔雀に乗って、宇宙をくるっと一周してのける。

絶対勝ち目のなさそうなガネーシャ君は、焦りもせず、

クマール君が外を走っている間に、

目の前に座っているシヴァとパールヴァティーの周りを、くるりと歩いて一周した。

「この宇宙の全ては、私のお母さんとお父さんです。」

「良く解かってるじゃないか!」と喜びながら、

シヴァとパールヴァティーは、ガネーシャ君に果物をあげましたとさ。




== कुमारः [kumāraḥ] - クマーラ   が使われている文献 ==

カタ・ウパニシャッド 


冒頭部分

ॐ उशन् ह वै वाजश्रवसः सर्ववेदसं ददौ। तस्य ह नचिकेता नाम पुत्र आस।। 1.1.1
om̐ uśan ha vai vājaśravasaḥ sarvavedasaṃ dadau| tasya ha naciketā nāma putra āsa|| 1.1.1

ヴァージャシュラヴァスという名のお金持ちの男性は、

自分の財産を全て寄付してしまう、ヴィシュヴァジットという儀式をしていました。

彼には、ナチケータスという名の息子がいました。

तँ ह कुमारँ सन्तं दक्षिणासु नीयमानासु श्रद्धाविवेश सोऽमन्यत।। 1.1.2
tam̐ ha kumāram̐ santaṃ dakṣiṇāsu nīyamānāsu śraddhāviveśa so'manyata|| 1.1.2

自分もお父さんの持ち物だから、誰かに寄付されるのだと思ったナチケータスは、

お父さんに、「僕を誰にあげるの?」のしつこく聞きます。

儀式に忙しいお父さんは、しつこい息子に対して、

怒りに任せて「お前なんて死神にあげるよ!」と言ってしまいます。

死神のところに送られるも、主人ヤマは不在。

3日3晩待った後、待たせてしまって悪いと思った死神ヤマから、

3つの願い事を叶えて貰う権利を授かります。

...

少年ナチケータス


カタ・ウパニシャッドの主人公は、少年ナチケータス。

マントラでは、「クマーラ」と形容されています。

まだ幼い少年でありながら、死神ヤマから、

しっかりブランマ・ニャーナを教えてもらうのです。

死神ヤマは、教えを乞われても、最初は教えることを拒みます。

引き換えに、長生き出来る特権や、高級車や美女を差し出します。

そんな誘惑に乗らない(若すぎるから?)ナチケータスだからこそ、

このブランマ・ニャーナを知ることが出来るのです。

彼の成長が伺える点が他にもあります。

死神ヤマは、ナチケータスに、3つの願い事を叶えてあげる約束をします。

ナチケータスが最初に頼んだのは、

生きてお父さんのところに帰してもらう事。

お父さんの後悔も怒りも悲しみも記憶も無くなって、

今までどうりに幸せな親子関係を持てる事。

ここで、息子としての、家族に対する責任と義務をしっかり果たしているのですね。

2つめは、天国に行く為の儀式の方法を教えてもらうこと。

ナチケータス自身は天国に興味はないのだけれど、

社会の人々の健康な幸福の実現の為に、この儀式の方法を学び、

生前の社会に戻った後、人々にこの儀式の方法を教え伝えるのです。

この儀式は後に、「ナーチケータサ」と言う名で知られるようになります。

ここでは、社会の幸福の為に貢献しているのですね。

そして、3つ目にやっと、ブランマ・ニャーナを乞うのです。

これが、人間の成長のステップであり、順番は抜かせないって事なんでしょうね。






<< 前回の言葉 28.キールティ(कीर्तिः [kīrtiḥ])<<

私の能力、行動、判断において、神性をみせてくれる祈りのある生活
   



>> 次回の言葉 30.クラ( कुलम् [kulam] ) >>

家、家庭、家系という意味のサンスクリット語です。

2014年4月13日日曜日

24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間

कालः 
[kālaḥ] 


masculine - 時間




「時間」のもっと深い意味


「時間」と日本語で言うと、とても一般的で実際的な響きがあります。

「忙しくて時間が無い」「明日はお時間ありますか?」「仕事の時間」「私の時間」、、

ヴェーダーンタの文献の中で見られるサンスクリット後の「カーラ(कालः [kālaḥ] )」は、

もっと深い意味で使われています。
アシュワッタ(インドの菩提樹、ピッパラ・ツリー)の葉っぱは、
本に挟んで置くと、時間がたては葉脈だけが綺麗に残ります。

死神の別名、「時間」


時間(カーラ)とは、私達の若さ、能力、寿命を燃やし尽きる火のようです。

寿命を終えるべき時が来た時、

「時間切れですよ」

と肩を叩きに来る者がいます。

それが、「ヤマ(यमः [yamaḥ])」と呼ばれる、俗に言う死神です。

「カーラ(कालः [kālaḥ] )」は、ヤマの別名でもあります。

彼は、(インド人なのに)しっかり時間を守ります。

一秒も遅れずに時間通りに来て、今の体からあなたを連れ出します。


寿命が終わるのは賞味期限切れ?


インド英語では、誰かが亡くなった時の表現は、

「He is expired.」

です。

普通、Expired と言うと、「賞味期限切れ」といった感じがします。

この状況と、言葉のギャップに、インドに来たばかりの外人は苦笑してしまいます。

しかし、この「He is expired.」は、哲学的にも、客観的にも的を得た表現です。

どんな生き物にも、生きられる年月が、運命という名の下に割り当てられています。

それが時間切れになったのだから、Expired、「期限切れ」になっただけなんですね。

期限が切れたのは物理的な身体だけ。


身体は死んでも、個人は死なない。


心や感覚といったものの集まりは「スークシュマ(微細な)・シャリーラ(身体)」と呼ばれ、

それが「個人」を個人たらしめている、

つまり他の一切のものと切り離しているかのようにしているものなのです。

そんなスークシュマ・シャリーラが、次にどの物理的な体に入るかは、

体が死んでしまう前にしっかり決まっていると言われています。

「誰が決めるのか?」というと、あなた自身の行ってきた行動が決めるのです。

一応「チットラ・グプタさん」と言う会計士が、全ての個人の行いを記録管理しているのですが、

内容を決めているのは、その個人です。

あなたが味わっている経験は、過去からの結果です。

あなたを含めた誰かしらが行った行為が、結果を生んでいるのです。


カルマの法則


原因である行為は、巡り巡って、その結果を生み出し、個人が味わうことになります。

過去に行われた個人の行動が、巡り巡ってやってくるその結果を招いているのです。

原因と結果を結ぶネットワークは、全宇宙、全時間を網羅しているので、

とても複雑です。

バガヴァッド・ギーターでも、バガヴァーンは、

「गहना कर्मणो गतिः」(カルマの法則は把握出来無い)と教えています。

中間のネットワークの構造は複雑で理解し得ないものですが、

最初の原因である行為が、廻り回って、本人のところに結果となって返って来る事は理解されるべき事です。

「なんで自分はこんな身体を持って、この両親の元に生まれて来たのだ?」

それは、もちろん原因があるからです。

過去の事象の諸々が、今ここにあるあなたの身体を作っているのです。

「身体は勝手に出来たとしても、何でわたしの体になってんの?」

その原因も過去にあります。あなたが過去に行った行為が、この身体を引き寄せたのです。

過去に行った行為の結果を味わうのに適した体が、あなたに与えられているのです。

これが、ヴェーダを基にした、世界の事象の説明です。

理論的に考えてみて、「ふーん、それはそれで筋が通ってるな」と納得出来る事はあっても、

理論を利用して、「それは絶対間違っている」と立証することは出来ません。


天国も地獄も永遠ではありません。


「永遠の天国」や「永遠の地獄」は理論的に間違っており、理論的に立証出来ます。

永遠なら、今現在も既に永遠に含まれているはずだからです。

ヴェーダの教える天国や地獄は、永遠ではありません。これはとても理論的です。

がんばって貯金したら10日間ハワイに行ける、すなわち11日目には帰って来る。

道徳に反する行為をしたら、嫌な思いをする。しかし、それもいつかは無くなる。

同じように、善い行いをして天国に行っても、悪い行いをして地獄に行っても、

また、時間が切れて、遅かれ早かれ、人間の体に戻ってきます。


どの道、「身体を得る」「経験を味わう」「体がExpireする」というのは全て、

時間(カーラ)の範囲内なのです。

時間の範囲内ということは、永遠ではないのです。常に変化し続けているのです。

永遠のように見える長い時間も、感じる人の感覚次第です。

宇宙という巨大な単位でも、素粒子というミクロの単位でも、常に変化し続けているのです。


永遠は、あなたです。


時間の範囲内で無いものなんてあるのでしょうか?

時間の範囲内で無いから、それは永遠です。

そんなものなんてあるのでしょうか?

それは、ある。とヴェーダは教えます。

どこにあるのでしょうか。

それは、あなたである。とヴェーダは教えます。

いずれ死ぬわたし、毎日老い続けているわたしこそが、時間の範囲内であり、

永遠とは程遠い存在のような気がするのですが?!

でも、考えてみてください。


流れ続ける時間を対象化している、わたしがいます。

わたし自身が流れ続けていたら、流れ続けている時間を、流れ続けている物として対象化出来ません。

過去や未来といった時間、1時間や1マイクロ秒といった時間、

それらを対象化しているのは、わたしであり、それは「今」の正体なのです。


永遠の主体である私、時間も空間も私の対象物


当たり前の話ですが、対象物と、それを対象化している主体とは、別の存在です。

時間と時間の範囲内の全ての事象は、わたしにとって対象物です。

昔の記憶も、将来の不安も、老い続け、やがて朽ち果てるこの身体も、

全てはわたしにとっての対象物です。

先述のスークシュマ・シャリーラさえも、わたしにとっては対象物です。

全ての経験、感情、考え全ての経験者を、経験者たらしめているのが、

幼少の頃からの全ての経験者を対象化している、

今、ここにいるわたしなのです。


時間と時間の範囲内の全ての事象が対象物で、

それとは別の存在が、主体のわたしです。

つまり、わたしは時間の範囲内では無く、わたしは永遠なのです。


アムリタの意味


「永遠」のことを、サンスクリット語では「アムリタ」と言います。

「アムリタ」とは「不死」とも訳されます。それは皆が捜し求めているものです。


わたしが「今」の正体であり、「永遠」であることが、真実なのにも関わらず、

わたしは自分のことを、老い続け、やがて朽ち果てる存在だと信じて、

昔の記憶や将来の不安に捕われ、苛まされ続けています。

真実とは違う事実に従って、わたしは自分自身を理解しています。

そのようなことを、「無知」から起きる「混乱」と呼びます。

それを取り払ってくれるのは、正しい、真実に基づいた自分に対する「知識」です。

正しい知識の理解が、わたしを時間(カーラ)の呪縛から解放するのです。


それゆえに、本当の自由を与えてくれるシヴァの別名が、

「カーラ・カーラ」なのです。

時間(カーラ)と呼ばれる死神の、死神(カーラ)。

つまり、時間という呪縛から解放してくれるもの=知識のことなのです。






<< 前の言葉 23.काकः [kākaḥ] - カーカ <<

その名のとおり、カラスという意味のサンスクリット語です。
   


>> 次回の言葉 25.किम् [kim] - キム >>

何?という意味のサンスクリット語の代名詞・疑問詞です

2014年2月11日火曜日

10.ウマー(उमा [umā])- ウマー(パールヴァティの別称)

उमा 
[umā]


feminine - ウマー(パールヴァティの別称)






このブログ初の女性名詞です。

シヴァの伴侶、と言うよりもシヴァの半分、

と言うよりもシヴァと全く離れていない存在の女性です。



「ウマー」の語源 その1:



「ウ」は、シヴァ、パラメーシュワラを指します。

「マー」は、シャクティを表します。

「ウ」の「マー」で、「ウマー」です。

ओः मा, इति उमा। [oḥ mā, iti umā|]


シャクティ


女性というのは、シャクティ(शक्तिः [śaktiḥ] )の象徴です。

ここに在るもの全てを生み出し、動かし、

そして破壊する事により可能性の形に変えていく、

その「力」を、シャクティと呼びます。

存在するものは、あらゆる属性も持たない、

それゆえに、たった一つのアートマンだけなのに、

無数の事象が表現され続けているのは、

このウーマン・パワー、シャクティの仕業です。


シャクティの存在は、シヴァに頼っている


しかし、このシャクティは、それ自体の存在を有していません。

彼女の存在は、完全にシヴァという存在に頼っているのです。

それゆえに、シヴァと全く離れていないのです。

シヴァ自体では何も表現することも、知ることも出来無いので、

シャクティは、シヴァの「Better Half」です。

そして、この2人が揃って、この宇宙が生まれるので、

シヴァとシャクティは、この宇宙の両親です。

ヒンドゥーの神様が皆既婚者なのは、この事に所以しているのです。

シャクティには様々な側面があり、それに従って、

「カーリー」、「パールヴァティ」等、様々な名前で呼ばれます。

この「ウマー」という名前は、

シャクティの中でも、「知識のシャクティ」としての側面を代表しています。


知識の象徴、女神ウマー


ケーナ・ウパニシャッドの最後の方に、ウマーが登場します。

ウマーは知識の象徴として、光り輝く女性という姿で、

インドラ神の前に現れて、ブランマンの知識を乞う彼に、教えを与えます。

サンスクリット語では、知識、特にブランマンの知識を表す言葉は、

ヴィッディヤー、ウパニシャッド、シュルティ、etc...

ほとんどが女性形です。

反対に、知識を必要としている個人を表す言葉は、

ジーヴァ、プルシャ、アートマン、ムムクシュ、

そうですね、ほとんどが男性形です。

何だか象徴的ですね。


「ウマー」の語源 その2:


まだうら若い少女パールヴァティが、

シヴァのハートをゲットして、お嫁さんになりたいと強く願うようになり、

日中日夜、身体を酷使する苦行に励み出します。

それを心苦しく見守っている母親が、

「ウ(もう)、マー(止めて)!」

と言ったのが、彼女の名前になったそうです。



「ウマー」の語源 その3:



「ウマー」を分解して書くと、

「U」「M」「A」

ですね。

これを、並べ替えると、

「A」「U」「M」

になった!

3つ合わせて表記すると「ॐ」。それは、ブランマンの名前です。


= उमा [umā] (ウマー)が使われている文献 =

ケーナ・ウパニシャッド3章12節
これは、上でみました。

3章の話はとても面白く、深いので、また機会があれば、意味を紹介したいです。


ちなみに、「ウマー」を使ったシヴァの名前集:


उमा [umā] (ウマー)の ईशः [īśaḥ] (イーシャ、司る人)で、उमेशः [umeśaḥ](ウメーシャ)
グナのサンディが掛かってますね。

उमा [umā] (ウマー)の पतिः [patiḥ] (パティ、主人)で、उमापतिः [umāpatiḥ](ウマーパティ)

उमा [umā] (ウマー)の कान्तः [kāntaḥ] (カーンタ、愛されてる人)で、उमाकान्तः [umākāntaḥ](ウマーカーンタ)

なんか素敵ですね。。。




<< 前回の言葉 9.उदकम् [udakam] - ウダカ

水の神様「ヴァルナ」、お風呂のマントラなど。






次回の言葉11.ルタ(ऋतम् [ṛtam])>>
               
真実という意味のサンスクリット語の単語です。

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練習帳 & 問題集
 
 わかりやすいサンスクリット語の正しい発音と表記
のメソッドに沿った、全ての文字の練習帳と、 
早く読み書きできるようになるための問題集です。

 
 初心者にはわかりづらい、連続した子音文字について、
よく見かけられるもの、そして応用の利くものを集め、
豊富な例と共に紹介しています。
お祈りの句の書き写しの練習も紹介しています。