ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)
これらを全部足して一語にすると、その意味は何になるでしょうか?
答えは本文中にあります。
ものごとを始めるときには必ず、滞りのない達成を願い、
障害物を司るデーヴァター(法則)であるガネーシャに、
祈りが捧げられます。
ガネーシャへの祈りのシュローカには、いくつか良く知られたものがありますが、
その中で、わたくしの朝のクラスで使っているシュローカを紹介します。
अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |
अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||
似たような音の繰り返しが、謎かけのようなっていて、
面白いシュローカです。
では、一語一語見ていきましょう。
1.ウパースマヘー (私たちは祈ります)
文章の基幹は、動詞によって決まります。
動詞は、उपास्महे upāsmahe 「私たちは、心に描きます、認識します、瞑想します、祈ります。」
そうすると、「何を?」という疑問が湧いてきます。
「~を」という目的語を表す言葉は、サンスクリット語では大体、
「m」で終わる単語を見つければOK、です。本当に大体ですが。
あ、でもこのシュローカでは、目的語以外の単語もすべて 「m」で終わってる。。。
そんなこともあるさ。
2.ガジャーナナ(象の顔をした)
このシュローカには、目的語が全部で4つあります。
目的語の中で一番わかりやすい言葉は、
गजाननम् gajānanam 「象の顔をした」 ガネーシャのことですね。
ガジャ गज gaja が「象」で、アーナナ आनन ānana は「顔」という意味です。
「象のような顔を持った」という複合語(サマーサ)になります。
3.長い複合語
このガネーシャを説明するのが、その前の長い複合語(サマーサ)です。
アガジャーナナパッドマールカム अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam
まず、「ガ」 ग ga とは、動詞の原型「gam (行く)」から派生した、「動く者」という意味です。
「ガ」に否定の「ア」を付けると、「アガ」 अग aga となり「動かない者」となります。
動かない者とは何でしょうか? ここでは「山」という意味です。
「山から生まれたもの(ज ja)」は、「アガジャー」 अगजा agajā です。女性形です。
山(パルヴァタ)から生まれた娘は、、、パールヴァティーですね。
シヴァの奥さんです。
ガネーシャのお母さんでもあります。
パールヴァティー(अगजा agajā)の顔(アーナナआनन ānana)は、
アガジャーナナとなります。
अगजा agajā + आनन ānana = अगजानन agajānana
パールヴァティーの輝く顔は、大きく開いた蓮の花に例えられます。
蓮の花は、「パドマ पद्म padma」ですね。
蓮の花は、太陽が昇って初めて満開になります。
曇りの日は咲きません。
太陽の名前にはいろいろありますが、その一つに、「アルカ अर्क arka」があります。
パールヴァティーの顔を、満開の蓮の花のように輝かせる、太陽のような存在とは、、、
ガネーシャですね。
ゆえに、これらの言葉を全部ひとつにつなぎ合わせた複合語(サマーサ):
ア(不)・ガ(動)・ジャー(娘)・アーナナ(顔)・パッドマ(蓮)・アルカム(太陽)
अगजाननपद्मार्कम् agajānanapadmārkam は、ガネーシャを指しているのです。
サンスクリット語って面白いね~。
じゃあ次行きましょうか。
4.エーカダンタ(一本の牙を持つ者)
ガネーシャの名前として、もうひとつ良く知られているのは、
エーカダンタ एकदन्तम् ekadantam 「一本の牙を持つ者」
エーカ एक eka が「1」で、ダンタ दन्त danta は、「歯」ですが、ここでは「牙」と解釈されます。
ガネーシャは、ヴャーサがマハーバーラタを口述したとき、
それを書き取るために、牙を一本折りましたね。それ故にです。
場所は、バドリナートのちょっと上にある、洞穴の中です。
画像検索したら、屋外の絵ばっかりでした。洞窟って言われているのに~。 |
5.アネーカダンタム?
「エーカダンタム」と対照的に、その前の言葉は「アネーカダンタム」です。
そのまま理解しようとすると、「一本以上、つまり沢山の牙を持つ者???」
になってしまします。
これがひっかけなのですね。
本当は、「アネーカダム」と「タム」に分けられます。
あ~おもしろ。
エーカ एक eka が「1」なら、アネーカ अनेक aneka は「沢山」です。
ここで「ダ」と言うと、「与える」という意味の「ダー दा dā」という動詞の原型からきた、
「与える者」という意味の単語になります。
「アネーカ(沢山のものを)」「ダ(与える者)」で、「アネーカダ」になります。
ガネーシャは、願えば願っただけ、沢山のもの、いや全てのものを与える力があります。
しかし、それは誰にでも、という訳ではありません。誰にとってでしょうか。
6.バクターナーム(認識する人々にとって)
バクターナーム भक्तानाम् bhaktānām 「(ガネーシャを)認識する人々にとっての」
バクタとか、バクティという言葉は、一般的にとても誤解されている言葉です。
信奉とか、神への愛、とか、良く分からない言葉が上滑りしているだけだからでしょう。
信奉の対象について、神について、どういう理解をしているのか?
その前提がまったくないまま、信仰しろとか、愛を捧げるとか言っても、それは難しいでしょう。
人それぞれ適当にファンタジーいっぱいで思い描かれている対象が、
普通の信仰の対象の「神」であり、それに命や人生をかけることが出来るのも、
人間の、、、何と言いましょうか、ワンダフルなところです。
「神」とか言った瞬間、頭のボルトが外れて、無責任な考えになる。
勝手に思索するだけでなく、理論詰めで考えつくすのが、ヴェーダーンタです。
障害物といえども、何が障害で、何がそうでないかは、その場面によって変わります。
結局は、この全てを司っているのがガネーシャなのです。
司るとは?物理学や量子物理学や心理学やなんでもいいですが、
そのような、宇宙のミクロにもマクロにも見られる様々な法則と言う形で、
ここにあるもの全てを司っている、それがガネーシャです。
このようなガネーシャの理解があるとき、ここにある全てのものに、ガネーシャを認識している。
そのような人を、「バクタ」と呼ぶのです。
7.アハルニシャム(昼夜を通して)
全てにおいて、つまり、いつでも、どこにおいても、ガネーシャを認識しています。
ゆえに、「アハルニシャム」 अहर्निशम् aharniśam 「朝も夜も」という副詞が使われています。
バクタにとって、ガネーシャを、この全てを、正しく認識することに専念した人々にとって、
ここにあるもの全ては、正しい認識の為に、「与えられている」のです。
ゆえに、ガネーシャは、「アネーカダ(沢山のものを与える者)」と呼ばれるのです。
「その」、という代名詞である「タム(तम् tam)」、
つまり、障害を取り除き、全てを与える、ガネーシャを、
私たちは常に認識しています。
という意味でした~。
अगजाननपद्मार्कं गजाननमहर्निशम् ।
agajānanapadmārkaṃ gajānanamaharniśam |
अनेकदन्तं भक्तानाम् एकदन्तमुपास्महे ॥
anekadantaṃ bhaktānām ekadantamupāsmahe ||
こちらも:
55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること
56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人
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