ラベル ヨーガ・スートラ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ヨーガ・スートラ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年6月15日木曜日

85.シャブダ(शब्दः [śabdaḥ]) - 音、言葉

タンプーラ、バンスリ、ハンド・タール、そしてミーラ・バイの歌声

シャブダとは


「音を出す」という意味の動詞の原型「シャブド(शब्द् [śabd])」が語源です。


タットヴァ・ボーダを勉強された人なら、

五大元素の一番最初のエレメント、

アーカーシャ(आकाशः [ākāśaḥ])の属性として、

教えてもらった記憶があるはずです。(忘れちゃってたら復習してね!)


シャブダの意味


シャブダという言葉はとても一般的な言葉なので、意味もいろいろありますが、

それらは大きくふたつに分けることが出来ます。

1.音

2.言葉


なぜこのように分けるのかは、以下のように説明することが出来ます。


「音を出す」にも、二種類ある


ダートゥ・パータと呼ばれる、2500年にパーニニよって著され、

今でも(私のクラスで)使われている、動詞の原型の辞書には、

それぞれの動詞の意味がサンスクリット語によって簡潔に著わされています。

「音を出す」という意味の動詞の原型は沢山ありますが、

パーニニによって、だいたいざっくりと以下のように分けられています。

1.人間の発声器官を使って、言語としての言葉を発する。

(व्यक्तायां वाचि, 明瞭に発声された言語という意味において) 

という意味と、

2.雷の音、動物の鳴き声、言葉ではない発声、言葉として聞き取れない発声

といった、「人間の言語ではない音を出す」

(अव्यक्ते शब्दे, はっきりしない音という意味において)

という意味に分けられている場合が多いです。


 しかし、「シャブダ (शब्दः [śabdaḥ])」という言葉はどちらにも使われています。

ゆえに、1.音 という意味でも、2.言葉 という意味にでも使われるのです。



サンスクリット文法において


文法用語でも、「シャブダ (शब्दः [śabdaḥ])」という言葉が使われる時には、
 
「言語を構成する、意味を持った音のひとかたまり」と使われることもあれば、

 「名詞の原型」という意味で使われることも多いですし、

「音そのもの」と言う時にも、शब्दस्वरूपम्  [śabdasvarūpam]  として使われます。

パーニニ文法の教えは、シャブダ・アヌシャーサナ(言葉の教え)として知られていますね。

パタンジャリのヨーガ・スートラが、

「アタ ヨーガーヌシャーサナム (अथ योगानुशासनम् [atha yogānuśāsanam])」で始まるように、

パーニニ文法の主要なコメンタリーのひとつ、महाभाष्यम् も、

「アタ シャブダーヌシャーサナム (अथ शब्दानुशासनम् [atha śabdānuśāsanam ])」で始まります。
 

プラマーナとしてのシャブダ


ヴェーダーンタをきちんと真剣に勉強している人には。

曖昧にしてはならないトピックが、プラマーナですね。

プラッティヤクシャの対象物として、色形、味、匂い、などと並んで、

シャブダ(音)というのがありますね。

しかし同時に、六つ目のプラマーナとして、

「シャブダ・プラマーナ」がありますね。

そこで、お決まりの質問・疑問ですが、

「シャブダって、プラッティヤクシャでも出て来たじゃん?」

「音も聴くし、ヴェーダーンタというプラマーナも、シュラヴァナとかいって、聴いてるし、、、」

と思うのは不思議なことではありません

違いは、

プラッティヤクシャの音(シャブダ)は、「知られる対象物」であり、

プラマーナとしてシャブダは、「それによって何かを知る手段」なのですね。

サンスクリット語で言った方が分かり易いかもしれません。

「プラメーヤ(प्रमेयम् [prameyam])」

と、

「プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])」

の違いです。

प्र + मा (プラ+マー)は、「知る」という意味の動詞の原型と接頭語ですね。

そこに、「対象物」と言う意味の「ヤ」という接尾語をつけると、「プラメーヤ」となり、

同じ動詞の原型と接頭語に、「手段・道具」という意味である「アナ」という接尾語を付けると、

「プラマーナ」となります。

これは、Enjoyable Sanskrit Grammar Volume 3 でゆっくり説明しています。

サンスクリットの文法を少しでも知っていると、

ものごとの理解が明晰になり、深まりますよ!


文献で使われている「シャブダ」という言葉


私が一番に思い出すのは、カタ・ウパニシャッドの始まりの場面です。

死神ヤマ・ラージャが、物覚えの良いナチケータスを気に入って、

首飾り(सृङ्का [sṛṅkā])をプレゼントするのですが、

シャンカラーチャーリアのコメンタリーで、その首飾りが、

「音の鳴る(शब्दवती [śabdavatī])」、そして

「宝石から出来た(रत्नमयी [ratnamayī])」と説明されているのが、

鮮明に想像できて、素敵だな、と思ったものです。





関連記事:

五大元素(パンチャ・マハー・ブータ/パンチャ・タットヴァ)について 

53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源

質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?


<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<
 

2016年11月18日金曜日

81.ヨーガ、ヨガ(योगः [yogaḥ])得ること、精神集中、得る手段

サンスクリット語の発音


もう日本語になったかもしれない、「ヨガ」という言葉。

既に日本語になったとして、日本語の発音としてなら、「ヨガ」という発音でいいと思いますが、

サンスクリット語として発音するのなら、「ヨーガ」と伸ばすべきですね。

なぜなら、サンスクリットには、短い「エ」や「オ」の音は無いからです。

「エー」と「オー」は、二拍分の長い音なので、「yoga」は「ヨーガ」となります。

発音についての記事も、さらに読みやすく・分かり易くアップデートしておきました。

サンスクリットは発音が大事!「ヨガ」は「ヨーガ」、「ヨギ」は「ヨーギー」、「ヨギーニ」は「ヨーギニー」です。 

伸ばしてね。

ヨーガの語源


サンスクリットの言葉は全て、

「原型+接尾語」

という枠組みで説明できます。


「ヨーガ(योग [yoga])」 という言葉は、

動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」に、接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を付加して出来た言葉です。

「ユジとは、つながること、、」と、

サンスクリット語文法を全く知らないヨガの先生でも教えていますが、

動詞の原型ユジには「つながる」という意味以外にも、いくつかの意味があります。

そして、接尾語にもいくつかの意味があります。

動詞の原型の意味と、接尾語の意味を、ひとつずつ組み合わせて、

「ヨーガ(योग [yoga])」というひとつの言葉になるのです。

ゆえに、一言でヨーガといっても、その使われ方によって、様々に意味が異なります。

庭の池に咲く蓮たち。

では、動詞の原型である「ユジ(युज् [yuj])」の意味、

そして、接尾語の「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味を、

それぞれ見て行きましょう。


動詞の原型「ユジ(युज् [yuj])」の意味


「ユジ(युज् [yuj])」という動詞の原型には3種類あり、

それぞれが別の意味を持っています。

1.「得る、繋げる、など」 という意味 (第7グループのयुज् योगे)

2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

3.「制御する、締め付ける、など」」 という意味 (第10グループのयुज् संयमने) 


いろいろありますね。似てるようで、違う。

ムルガン・テンプルにて。ムルガンの乗り物は、孔雀。

接尾語「ガンニュ(घञ् [ghañ])」の意味


こちらにも様々な意味があります。

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

・ 「それによって~するもの」という、動詞の意味である動作を達成するための手段を表す(करणे)

・ 「~されるもの」という、動詞の目的語を表す(कर्मणि)

などなど、、、


3通りの意味のある「ユジ(युज् [yuj])」に、

これまた様々な意味のある「ガンニュ(घञ् [ghañ])」を

組み合わせて作ることが出来るゆえに、

 「ヨーガ」という言葉には使い方によって様々な意味がある


のです。

意味は、「どこで、どのような意図で使われているのか」を見て決定します。


では、「ヨーガ」という言葉がどのように使われているのか、

いくつか例を見てみましょう。


インドの山奥で、野生の孔雀達と共に暮らしています。

一般的な「ヨーガ」の意味


ここでの「一般的」とは、「普通に言語で使われる」、ということで、

「専門用語や固有名詞ではない」、ということです。

一般的に言語の中で「ヨーガ」という言葉は、

「(何か持っていないものを)得ること」として使われる場合が多いです。

「ヨーガ(得ること)・クシェーマ(それを維持すること)」と、

ペアで使われることもあります。

ギーターでも何度かそのようにして出てきますね。

有名なシュローカに、

श्रीभगवानुवाच ।
अनन्याश्चिन्तयन्तो मां ये जनाः पर्युपासते ।
तेषां नित्याभियुक्तानां योगक्षेमं वहाम्यहम् ॥
śrībhagavānuvāca |
ananyāścintayanto māṃ ye janāḥ paryupāsate |
teṣāṃ nityābhiyuktānāṃ yogakṣemaṃ vahāmyaham ||

バガヴァーンは教えました
私と離れた存在ではなく、それを知り、認識し続ける人々、
常に私とひとつである人々のヨーガ(得ること)とクシェーマ(保持すること)を私は与えます。


インドの最大手保険会社のロゴにも使われています。

これです。手の下の文字が読めますか?

ヨーガ・スートラの「ヨーガ」の意味


ヨーガ・スートラと聞いた途端、前のめりになる人は多いのではないでしょうか。

昨今では、ヨガ(アーサナ)を始めて、少しすると、

「体を曲げ伸ばしするだけがヨガじゃない!もっと深い意味があるはず!」

「頭は、ヘッドスタンドするためだけに身体にくっついているのではない!

もうちょっと別の使い方をしなければ!」

と気づき始めた人が、最初に手に取る文献が「ヨーガ・スートラ」である場合が多いようです。





さて、ヨーガ・スートラで使われている「ヨーガ」という言葉の意味は、、

ヨーガ・スートラでの、ヨーガの定義は「योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः [yogaścittavṛttinirodhaḥ] 」 ですね。

ヨーガ・スートラの有名な解説書のひとつである、भोज्-वृत्तिः を見てみると、

「योगो युक्तिः समाधानम् [yogo yuktiḥ samādhānam]」とあります。

つまり、、、


2.「心を集中させる」 という意味  (第4グループのयुज् समाधौ) 

という動詞の原型の意味に、

・ 「~すること」という、動詞の意味そのものを表す(भावे)

という接尾語を足した、「心を集中させること」ですね。

ヨーガ・スートラの教える心の集中のテクニックは、様々な面で役に立ちますが、

バガヴァッド・ギーターの教える、カルマ・ヨーガの代替になるようなものではありません。

同じヨーガでも、混同しないように注意しましょう。



ギーターの教えるヨーガ


バガヴァッド・ギーターでも、ヨーガという言葉が繰り返し使われます。

使われる場所・コンテクストによって、意味が大きく変わるので、

単に流通している訳本を読んで自分流に納得するのは危険です。

ギーターもウパニシャッドも全て、その意味を受け継いだ先生から教えてもらうようになっている、

ということは、ギーターとウパニシャッドそのものの中で教えられています。


2章にあるヨーガの二つの定義

समत्त्वं योग उच्यते । २.४८॥ [samattvaṃ yoga ucyate ] と、

योगः कर्मसु कौशलम् । २.५०॥ [yogaḥ karmasu kauśalam] では、

自分に与えられた義務をこなすこと、つまり自分の人生そのものを、

ヨーガへとするために必要な、理解と姿勢が教えられています。

ここで、パタンジャリのヨーガで得た知識を引きずっていると確実に混乱するので、

先にヨーガを勉強してしまった人は、別物として、真っ白な心で向かう必要があります。

そして、3章でも二つのヨーガの定義があります。

लोकेऽस्मिन् द्विविधा निष्ठा पुरा प्रोक्ता मयाऽनघ ।
ज्ञानयोगेन साङ्ख्यानां कर्मयोगेन योगिनाम् ॥३.३॥
loke'smin dvividhā niṣṭhā purā proktā mayā'nagha |
jñānayogena sāṅkhyānāṃ karmayogena yoginām ||3.3||

ここでは二つのライフスタイルが、ヨーガという言葉で教えられています。

6章でもヨーガの定義がされています。

तं विद्याद् दुःखसंयोगवियोगं योगसंज्ञितम् । ६.२३॥
taṃ vidyād duḥkhasaṃyogaviyogaṃ yogasaṃjñitam | 6.23||

その、悲しみによる自己認識(サンヨーガ)から離れること(ヴィヨーガ)が、
ヨーガであると、知りなさい。

世の中にはサンスクリット語だけでも、数え切れないほどの文献がありますが、

人生の意味を完全に満たす文献は、ギーターが包括的で、ギーターだけで充分です。


「○○・ヨーガ」「△△・ヨーガ」のヨーガ

 

最近は、いろいろな名前のヨーガが溢れていますね。

それは、より多くの人が、

消費という市場で推奨されている「幸せになる手段」の限界を見抜きはじめ、

それらとは別の、もっと精神的な、物質的なものに頼らない、

根本的な解決法を探りはじめた証拠です。


ありとあらゆる衣食住の形、快楽の形が提供されているこの消費社会で、

「それもいいけど、私はそれだけの為に生まれてきたわけではない」

「それらは本質的とは言えない。 一時的な気分の良さしかもたらさないから」

「お金やスキル、結婚や家族、地位や名声は手段であり、それ自体がゴールではないのでは?」

という、ものごとの限界の見極めが出来るようになった人も、

「ヨーガ」と名前のつくものに惹かれ、

そして最終的には、

インドの文献で教えられている知識に、おのずと惹かれていくものです。




ここでは、いろいろな「ヨーガ」の中で、どのように「ヨーガ」という言葉が使われているのか、

という点にのみに着目してみましょう。


どうやら、何か目指すものやゴールがあって、それを「得る為の手段」のようですね。

そのような意味の取り方をするなら、

動詞の原型「ユジ」の意味は、「得る」という意味で、

接尾語の意味は、「~する手段」ということになりますね。



もしそうなら、「ヨーガを通して何を得るのか?」

「自分が本当に得るべきものは何か?」

そして、「得るべきものと、その手段は、ちゃんとマッチしているか?」

「手段が目的になっていないか?」

というポイントを明確にするために、常に問いかけ続ける必要があります。

シャンカラーチャーリヤ

なぜなら、人は往々にして、忙しさゆえに、

自分が本当に欲しいもの、求めるべきものに関して混乱しがちで、

混乱ゆえに、「次はこれが私を幸せにしてくれるだろう」と、

手当たり次第に、次から次へと新しいものを追い求め続け、

さらに忙殺され、自分が本当に何を求めるべきか、なんてことを考える暇もなくなってしまう。。。

という、根本的な矛盾に陥ったまま、一生を終えるのが、人間の普通のありかたです。
 
このように、生きて、死に、また生まれては、、、と繰り返すのがサムサーラです。

 (だいぶ前に、人生の目的(プルシャ・アルタ)についてコラムを書きました。)




頭のヨーガ、サンスクリット語の勉強!


どさくさに紛れて、サンスクリット文法の推奨もさせてもらいますね。

サンスクリットの文法を少しでも知ると、

あらゆるサンスクリット文献の理解の深みが一気に増します。

そして、頭のヨガにもなります!脳細胞がプチプチ・パチパチして活性化しますよ!

身体は適度に曲げ伸ばして血流を良くしてあげないと凝り固まってしまうように、

脳みそも、きちんと正しい使い方・考え方を日頃から心掛けておく必要があります。

考えない人などはいませんが、正しく考えるスキル・訓練を受ける機会は少ないですね。。。

サンスクリットはその面で、とても役に立ちます。
 

サンスクリット語の本来の有用性


サンスクリット語の勉強は、頭の細胞の活性化には非常に強力に役立ちますが、

サンスクリット語がこの世界の中で存在している、本来の役目はただ一つです。

サンスクリットは、創造のあり方と人間との間のコミュニケーションの言語として、

人間の幸せの追求の為に役立つ知識を教えるために存在しています。

人間として生まれて来て、満たすべきあらゆる望みを満たすための手段を教える、

言葉の集まりがヴェーダです。

ヴェーダの教える、幸せの追求の手段は、単に望みを満たすだけの手段ではなく、

望みを満たしながら、人間として精神的に成長できる手段です。

精神的に豊かな人生を過ごす中で、成長した心を持つ人に向けて、

ヴェーダの最後の部分であるヴェーダーンタは、

人間の根本的な問題に関して、根本的な解決を教えます。

自分が人間として生まれて来た意味を、完全に満たすために必要な知識は、

この宇宙の仕組みでは、サンスクリット語というヴェーダの言葉で教えられる、

というようになっているのです。




<< 目次へ戻る <<

2016年3月4日金曜日

ヨガとアーユルヴェーダと文法と、ヴェーダーンタの関係 - パタンジャリへの祈りから読み解く


ヴェーダーンタに辿り着くまでには、人それぞれ様々な道のりがありますが、

サンスクリット語をベースとしたヒンドゥー文化、という同じ土壌であることから、

ヨガやアーユルヴェーダ、音楽、舞踊、占星術、哲学、文学、文法などが、

ヴェーダーンタの入り口となることはよくあることです。

パームリーフ(椰子の葉)に刻まれて保存された文献

これらの学問と、ヴェーダーンタには、

「サンスクリット語による文献によって伝えられている知識」という共通点はあれども、

主題は全く次元からして異なっています。

次元が違うことなのに、ごっちゃにしてしまって、

ヴェーダーンタを聞いても、「そうそう、私の習ってった○○でもそう言ってた!」

となってしまっては、もったいないです。

というわけで、今回はそこなへんを整理してみたいと思います。



ヨーゲーナ チッタッシャ、、から始まるこのプレーヤー(祈りの句)。

योगेन चित्तस्य पदेन वाचां मलं शरीरस्य वैद्यकेन
योऽपाकरोत्तं प्रवरं मुनीनाम् पतञ्जलिं प्राञ्जलिराणतोऽस्मि ॥

yogena cittasya padena vācāṃ malaṃ  śarīrasya vaidyakena
yo'pākarottaṃ pravaraṃ munīnām patañjaliṃ prāñjalirāṇato'smi ||


ヨーガによって、心のマラ(不純・不調・不和)を、

文法によって、言葉のマラを、

アーユルヴェーダによって、身体のマラを、

取り除いたその人、

賢者の中の最高者、そのパタンジャリに、

私は手を合わせて、 尊敬を示します。


ヨーガによって(yogena)、心の(cittasya)マラ(不純・不調・不和)を(malam)、

文法によって(padena)、言葉の(vācām)マラを(malam)、

アーユルヴェーダによって(vaidyakena)、身体の(śarīrasya)マラを(malam)、

取り除いた(apākarot)その人(yaḥ)、

賢者の中の(munīnām)最高者(pravaram)、その(tam)パタンジャリに(patañjalim)、

私は(asmi)手を合わせて(prāñjaliḥ)、 尊敬を示します(āṇataḥ)。




「学びごとの前には必ず祈る」という重要性



パタンジャリという名の賢人の偉業を讃えることにより、

彼の残した智慧を授かる、という形で、彼からの恩恵を受けるためのお祈りです。

学びごとをする前には、必ずお祈りをします。

祈るという行為により、

知識の伝承という伝統の一員になるのだという、知識を受け取る姿勢を整えるのです。


伝統への姿勢、先生に対する姿勢、知識への姿勢、

そして、知ることの出来る自分の能力や、得られた知識に対しても、

正しい姿勢で向き合えるように、毎回祈り続けるのです。


こうして、今の学びを可能にしている知識の伝承という「伝統」に対して、

正しい姿勢を培います。




パタンジャリの偉業とは


1. ヨーガによって、心のマラ(不純・不調・不和)を、

2. 文法によって、言葉のマラ

3. アーユルヴェーダによって、身体のマラを、

取り除いた


とあります。
 

1.心


「ヨーガによって」とありますが、ここでのヨーガとは、

精神集中をゴールとした、アシュターンガ・ヨーガです。

それを説明したヨーガ・スートラの著者は、パタンジャリですからね。

心の落ち着きの無さ、集中力の無さが、マラ(不純・不調・不和) という訳です。


2.言葉

サンスクリット文法の解説書「マハーバーシヤ」の著者もパタンジャリです。

人間は言葉を使って正しく考えることが出来ます。

間違った言葉、つまり間違った考えが、言葉のマラです。

3.身体

アーユルヴェーダの著者も、パタンジャリとして知られています。

あらゆる体調不良の原因がマラですね。

 

なぜ、心・言葉・身体にマラ(不純・不調不和)ができるのか


心・言葉・身体とはどれも、カルマの産物です。

カルマとは、私達人間が24時間365日している行動のことです。


限りある時間の中で、限りある要素を集めて為される、

限りある結果を生み出すのが、カルマ(行為)です。
 

カルマの産物ゆえに、マラ(不純・不調不和)が出来るのです。



限りとか限界というものは、相対的なものです。

AとBというふたつの物があって、限界が出来るからです。

そんな、相対的なものから成り立っているのが、

カルマであり、その産物である心・言葉・身体なのです。

心・言葉・身体とは結局、儚い「状態」であり、

絶対的な永遠の存在ではありません。


絶対的に完璧な心や身体など無いのです。

ゆえに、 心・言葉・身体には、マラ(不純・不調不和)がある。


ヨガ、アーユルヴェーダ、文法の役割


心・言葉・身体のマラを取り除くための知識が、

ヨーガであり、文法であり、アーユルヴェーダなのです。

それらの知識を得るためのプラマーナ(知る手段)が、

ヨーガ・スートラであり、マハーバーシヤという文法書であり、

アーユルヴェーダという文献なのです。


しかし、これらは相対的な次元での、相対的な解決方法の智慧なのです。

ここが、ヴェーダーンタと根本的に違う点です。


相対的な解決策の限界を見抜くことを、ヴァイラーギャと言います。

心・言葉・身体をどれだけ洗練しても、

時間や身体的・精神的な限界の中でジタバタしているに過ぎない。

そんなジタバタしている自分を辞めたくて、

いろいろ違った方法を試すけど、結局ジタバタの方法が変わっただけ。

根本的な解決にはならない。



「ヴェーダーンタ」 という知る手段


絶対的な解決策などあるのか?

正しい先生によって教えられたヴェーダーンタは、

きっちり最初から最後まで教えます。

時間や身体的・精神的な限界の中で苦しんでいるあなたの本質は、

無限の存在であり、それが、あなたが探し続けているものなのだと。


ヴェーダーンタとは、自分の本質について正しく知るための手段です。

 
限界から成り立っていて、相対的な状態である、

私の心・言葉・身体は、常に変化し続けるゆえに、私の本質ではありません。

限界や変化という向こう岸を眺め続けている私。

現在・過去・未来の心・言葉・身体を眺め続けている私。

そんな、今ここにいる、この私の存在は、自明自白です。



目・耳・鼻・舌・触覚などの知る手段も、それらのデータを元にした推論なども、

対象物として私が眺め続けている、向こう岸にあるものを知る手段です。

自分の本質を知るようには出来ていません。

体験、経験、感覚、感情や思い出などは対象物であり、対象化している自分ではありません。

憶測や思いつきは、憶測や思い付きであり、知る手段ではありません。



自明自白な存在である私を、心・言葉・身体という限界に苛まされた存在であると、

無限の存在である私を、儚い心・言葉・身体という状態なのだと、

誰もが疑うことすらせずに信じていますが、、

「それは間違いですよ。

真実は、自明自白な存在である私は、無限の存在なのですよ。」


と教えるのがヴェーダーンタなのです。

この教えを聞いて、「自分自身に対する混乱が完全に解けました」

と言える人は、人間として精神的に成熟した人です。

つまり、教えを受け継ぐ心の準備が出来ている人です。


精神的な成熟・心の準備は、ダルマに沿った生活によって形成されます。

自分の置かれた状況で、他の命への幸せへの貢献を最大にし、

他の命への負担を最小にしようと努力すること(アヒムサー)です。

それはつまり、宇宙のあり方に調和して生きることです。



ヨガとアーユルヴェーダと文法と、ヴェーダーンタの関係



しかし、心とは執着や嫌悪にまみれているもので、

言葉や身体はそんな心に追随して働いています。

そんな心を成熟させて、執着や嫌悪から自由にしてあげられるのは、

ダルマに沿った生き方だけです。
 

心・言葉・身体のマラを取り除くのは、ダルマに沿って生きやすいようにするためです。

ダルマに沿った生活とは、自分に与えられた家庭や社会の義務を果たしながら、

周りに与える痛みや迷惑を最小限にして、

周りに与える貢献を最大限にして生きることです。

そのように生きる為の心・言葉・身体を整える為に、マラを取り除くのです。

そして、その智慧が、パタンジャリの教えたヨガ・文法・アーユルヴェーダなのです。


ヨガ・文法・アーユルヴェーダ以外にも、インド音楽や舞踊、占星術といった、

インドの伝統文化や生活様式に触れながら、

ダルマに沿って生きていれば、

遅かれ早かれ、必ずヴェーダーンタに辿り着くのです。



<<目次へ戻る<<

これもおすすめ:

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/09/blog-post_17.html アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句)

ダンヴァンタリへの祈りです。












ヴェーダーンタは哲学ではないとは?

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段

Medhaみちかの関連サイト

人気の投稿(過去30日間)

【新刊のお知らせ】
ヨガクラスの座学や、チャンティングのクラス、
サンスクリット語入門のクラスの教材として活用してください。
 

 すぐ読み書きできるようになる
サンスクリット語 デーヴァナーガリー文字 
練習帳 & 問題集
 
 わかりやすいサンスクリット語の正しい発音と表記
のメソッドに沿った、全ての文字の練習帳と、 
早く読み書きできるようになるための問題集です。

 
 初心者にはわかりづらい、連続した子音文字について、
よく見かけられるもの、そして応用の利くものを集め、
豊富な例と共に紹介しています。
お祈りの句の書き写しの練習も紹介しています。