「ヴェーダーンタは宗教でも哲学でも科学でもない」
(58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])の項)
とプラマーナに関して質疑応答のコミュニケーションをしたので、
皆さんとここでシェアしますね。
質問:
ヴェーダーンタは哲学ではないとは?ヴェーダーンタは六派哲学のうちのひとつと言われているのだから、哲学ではないのか?
答え:
「ヴェーダーンタは哲学ではない」を理解する鍵は
「プラマーナ(知る手段)」にあります。
早い話が、
ヴェーダーンタは独立したひとつのプラマーナであるのに対して、
哲学は、経験や憶測をもとにした考えの結果であって、
プラマーナでは無い。
この点に尽きます。
さらに、六派哲学は全て、ヴェーダをプラマーナとしているではないか?
とするなら、答えはこうです。
彼ら5つのダルシャナは、
ヴェーダの教える意味の追求が間違っていて、
彼ら独自の混乱した結論が先にあり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。
もうちょっと広げると、、、
色や形を知る為のプラマーナは視覚です。
それ以外で色や形を知ることは出来ません。
ゆえに視覚は、色や形に対して、
プラマーナというステータスを持っているのです。
同じように、音を知るプラマーナは聴覚のみ。
月までの距離を知るプラマーナは視覚を元にした
アヌマーナ(推論)のみです。
人間に与えられた知る手段は
五感などの「プラッティヤクシャ」と、
プラッティヤクシャのデータを元にした「アヌマーナ」、「アルターパッティ(こうでなければあり得ない)」、「ウパマー(例え)」、そして「アヌーパラブディ(ある場所にあるものの不在を知ること)」の5つです。これらはプラマーナであるゆえに、その対象はこれらを通してしか知ることが出来ません。それゆえに干渉しあうことがないのです。
プラマーナを数えるのはとても大事なことです。(後に出てくる理由から。)
哲学は経験や憶測を元にした思考の結果であるゆえに、
プラマーナとして数えられません。
この5つのプラマーナは全て、自分が対象化出来る
対象物を知る為の手段です。
これらは全く持ってして、対象化している主体を知る手段では無いのです。
対象物を見ている主体であり、
「対象化をしている自分」さえをも対象化している、
最終的な主体については、
「今ここにいる自分」だと知っていますが、
それ以上のことを人間は知りません。
また、対象を知るためだけにある5つのプラマーナで、
主体を知ることも出来ません。
では、知ることは出来ないのか?
主体の本質を知る為の、もうひとつ別のプラマーナがあります。
それがヴェーダーンタなのです。
ヴェーダーンタが自分とは何かを知る手段、
つまりプラマーナなのだ、
なんてそんなこといきなりいわれても、
信じるしか他ならないようですが、
ヴェーダーンタの教えは理解するためのもので、
信仰するためのものではありません。
小学校の先生が掛け算を教えている時に、
「私はあなたを信じます」といちいち信仰心を持たなかったとしても、
「この人は正しいことを教えているはずだ」という信頼はあったはずです。
「この人が教えている掛け算たるものは
インチキで嘘八百に違いない」と疑っていたら、
掛け算をマスターすることはなかったでしょう。
「掛け算という知識を得るためのプラマーナが
小学校の先生である」という意識はしてなくても、
信頼を元に先生の話を聞いていれば、
掛け算を理解することが出来ます。
一度理解してしまえば、
掛け算も先生も、信仰の対象でも何でも無くなってしまいます。
ヴェーダーンタも同じことです。
掛け算と同じように、事実について、きちんと理解しようとするのが
ヴェーダーンタの勉強する姿勢です。
ヴェーダというプラマーナを使い、それが明らかにしている事実を
きちんと理解するためのプロセスが、ヴェーダーンタの勉強です。
普通の哲学は、ヴェーダをプラマーナとして扱っていません。
また、六派哲学と呼ばれるうちの5つは、
いちおうはヴェーダをプラマーナとして数えているけれども、
早い話が、先にプラッティヤクシャETCベースの混乱した結論があり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。
プラマーナの特性を知り、きちんと数え分けることは
とても大切です。
ヴェーダを独立したプラマーナだとして向き合わなければ、
ヴェーダとしての役割を果たさないからです。
追記:
ここにあるものは、
「私」と「私の対象物」の2つのみです。
対象物には私の身体はもちろん考えも感情も体験も、深い瞑想の中のスピリチュアルでブリスフルな体験も、来世の体験も全て含まれます。
幽体離脱しても、4Dでも5Dでも、それら全ては、やはり「私の対象物」の範囲内です。
「私」と「私の対象物」の2つしかないことをしっかり突き詰める必要があります。
例外もBetweenもBeyondもありません。
ヴェーダーンタ以外のプラマーナは、「私の対象物」を知る為の手段です。
ヴェーダーンタは「私」を知る為の手段です。
・ 本当にそうなのか?
・ 私は私じゃん!いまさら何を知れというのか?
・ 私がこの宇宙に存在を与えている無限の存在だって?そんなの本当?だって私はこんなに小さい存在じゃん?これは理論的にどう説明するの?
と、理論を使って追究(ヴィチャーラ)するのが、「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」です。
世界や個人の本質について思考を巡らせ追究をする、
という点で類似していることから、ヴェーダーンタも、
哲学と同じカテゴリーで一般的には認識されています。
まずはプラマーナが何であるかの定義をしっかり把握し、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」が
哲学や他のダルシャナとどう違うのかをはっきり区別出来るように
努めながらプラマーナに接して初めて、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」としての実を結ぶのです。
(58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])の項)
とプラマーナに関して質疑応答のコミュニケーションをしたので、
皆さんとここでシェアしますね。
質問:
ヴェーダーンタは哲学ではないとは?ヴェーダーンタは六派哲学のうちのひとつと言われているのだから、哲学ではないのか?
答え:
「ヴェーダーンタは哲学ではない」を理解する鍵は
「プラマーナ(知る手段)」にあります。
早い話が、
ヴェーダーンタは独立したひとつのプラマーナであるのに対して、
哲学は、経験や憶測をもとにした考えの結果であって、
プラマーナでは無い。
この点に尽きます。
さらに、六派哲学は全て、ヴェーダをプラマーナとしているではないか?
とするなら、答えはこうです。
彼ら5つのダルシャナは、
ヴェーダの教える意味の追求が間違っていて、
彼ら独自の混乱した結論が先にあり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。
もうちょっと広げると、、、
色や形を知る為のプラマーナは視覚です。
それ以外で色や形を知ることは出来ません。
ゆえに視覚は、色や形に対して、
プラマーナというステータスを持っているのです。
同じように、音を知るプラマーナは聴覚のみ。
月までの距離を知るプラマーナは視覚を元にした
アヌマーナ(推論)のみです。
人間に与えられた知る手段は
五感などの「プラッティヤクシャ」と、
プラッティヤクシャのデータを元にした「アヌマーナ」、「アルターパッティ(こうでなければあり得ない)」、「ウパマー(例え)」、そして「アヌーパラブディ(ある場所にあるものの不在を知ること)」の5つです。これらはプラマーナであるゆえに、その対象はこれらを通してしか知ることが出来ません。それゆえに干渉しあうことがないのです。
プラマーナを数えるのはとても大事なことです。(後に出てくる理由から。)
哲学は経験や憶測を元にした思考の結果であるゆえに、
プラマーナとして数えられません。
この5つのプラマーナは全て、自分が対象化出来る
対象物を知る為の手段です。
これらは全く持ってして、対象化している主体を知る手段では無いのです。
対象物を見ている主体であり、
「対象化をしている自分」さえをも対象化している、
最終的な主体については、
「今ここにいる自分」だと知っていますが、
それ以上のことを人間は知りません。
また、対象を知るためだけにある5つのプラマーナで、
主体を知ることも出来ません。
では、知ることは出来ないのか?
主体の本質を知る為の、もうひとつ別のプラマーナがあります。
それがヴェーダーンタなのです。
ヴェーダーンタが自分とは何かを知る手段、
つまりプラマーナなのだ、
なんてそんなこといきなりいわれても、
信じるしか他ならないようですが、
ヴェーダーンタの教えは理解するためのもので、
信仰するためのものではありません。
小学校の先生が掛け算を教えている時に、
「私はあなたを信じます」といちいち信仰心を持たなかったとしても、
「この人は正しいことを教えているはずだ」という信頼はあったはずです。
「この人が教えている掛け算たるものは
インチキで嘘八百に違いない」と疑っていたら、
掛け算をマスターすることはなかったでしょう。
「掛け算という知識を得るためのプラマーナが
小学校の先生である」という意識はしてなくても、
信頼を元に先生の話を聞いていれば、
掛け算を理解することが出来ます。
一度理解してしまえば、
掛け算も先生も、信仰の対象でも何でも無くなってしまいます。
ヴェーダーンタも同じことです。
掛け算と同じように、事実について、きちんと理解しようとするのが
ヴェーダーンタの勉強する姿勢です。
ヴェーダというプラマーナを使い、それが明らかにしている事実を
きちんと理解するためのプロセスが、ヴェーダーンタの勉強です。
普通の哲学は、ヴェーダをプラマーナとして扱っていません。
また、六派哲学と呼ばれるうちの5つは、
いちおうはヴェーダをプラマーナとして数えているけれども、
早い話が、先にプラッティヤクシャETCベースの混乱した結論があり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。
プラマーナの特性を知り、きちんと数え分けることは
とても大切です。
ヴェーダを独立したプラマーナだとして向き合わなければ、
ヴェーダとしての役割を果たさないからです。
追記:
ここにあるものは、
「私」と「私の対象物」の2つのみです。
対象物には私の身体はもちろん考えも感情も体験も、深い瞑想の中のスピリチュアルでブリスフルな体験も、来世の体験も全て含まれます。
幽体離脱しても、4Dでも5Dでも、それら全ては、やはり「私の対象物」の範囲内です。
「私」と「私の対象物」の2つしかないことをしっかり突き詰める必要があります。
例外もBetweenもBeyondもありません。
ヴェーダーンタ以外のプラマーナは、「私の対象物」を知る為の手段です。
ヴェーダーンタは「私」を知る為の手段です。
・ 本当にそうなのか?
・ 私は私じゃん!いまさら何を知れというのか?
・ 私がこの宇宙に存在を与えている無限の存在だって?そんなの本当?だって私はこんなに小さい存在じゃん?これは理論的にどう説明するの?
と、理論を使って追究(ヴィチャーラ)するのが、「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」です。
世界や個人の本質について思考を巡らせ追究をする、
という点で類似していることから、ヴェーダーンタも、
哲学と同じカテゴリーで一般的には認識されています。
まずはプラマーナが何であるかの定義をしっかり把握し、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」が
哲学や他のダルシャナとどう違うのかをはっきり区別出来るように
努めながらプラマーナに接して初めて、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」としての実を結ぶのです。