शङ्कराचार्यः
[śaṅkarācāryaḥ]
ヴェーダーンタは哲学でも科学でも宗教でもないので、
シャンカラーチャーリヤも、哲学者でも創始者でもありません。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタを教え継ぐ、
脈々と続く伝承の中で、際立つ先生の一人です。
なぜ際立つのかと言えば、明瞭なコメンタリーを残したからです。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えは、
「無限の存在はあなただ」なのですから、
シャンカラーチャーリヤであれ誰であれ、
その意味を伝えることは出来ても、
変えることは出来ないのです。
「シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])」とは前回でも見た、シヴァの別名です。
「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」とは「先生」という意味の単語です。
「シャンカラという名前のアーチャーリヤ」という意味で、
これら二つの言葉を繋げて、「シャンカラーチャーリヤ」という
複合語(サマーサ)になります。
二つ以上の言葉が一つの言葉になったものを複合語(サマーサ)と言います。
サンスクリット語には、サマーサの種類が沢山あり、
それぞれに綺麗に仕分けられています。
「シャンカラーチャーリヤ」という複合語は、
二つの言葉の意味がどちらとも、一人の人物を指しているので、
「カルマダーラヤ・タットプルシャ・サマーサ」という複合語として分類されます。
(サマーサの分析は楽しいですよ!
いつか皆さんと目いっぱいサンスクリットの文法の勉強が出来ますように!)
音の面から見ると、「シャンカラ」の最後の「ア」の音と、
「アーチャーリヤ」の最初の「アー」の音がくっついて、
「ア」+「アー」=「アー」という連音変化(サンディ)になります。
1+2でも2なんですね。「アーー」と3にはなりません。
(今、英語で革命的にシステマティックでわかり易いサンスクリット語の教科書のシリーズを書いていて、世界中で好評を得ています。近いうちに、丁寧な日本語バージョンも書きますね!)
サンスクリット語には、先生という言葉にも何種類かあり、
それぞれに意味が異なります。
「アー(आ [ā])」という接頭語と
「チャル(चर् [car])」という動詞の原型の組み合わせによる単語ですが、
その意味に沿って3つの意味を説いた、こんな節があります。
आचिनोति च शास्त्रार्थं आचारे स्थापयत्यपि ।
स्वयमाचरते यस्तु स आचार्य इति स्मृतः ॥
ācinoti ca śāstrārthaṃ ācāre sthāpayatyapi |
svayamācarate yastu sa ācārya iti smṛtaḥ ||
1.文献(ヴェーダ)の意味を教え、
2.その意味に従って生きるように教え、
3.自分自身も文献の意味に生きる人、
そのような人がアーチャーリヤと呼ばれます。
文献の意味とは2種類の意味があります。
ひとつは生活様式、もうひとつは自分・世界・イーシュワラの意味です。
どちらの意味でも取ることが出来ます。
毎日シャンカラーチャーリアの残した解説書によりヴェーダーンタを教えてくれた、
私の先生方は、まさに、「自分自身も文献の意味に生きている人」でした。
彼らの生き方、世の中との接し方を見ているだけで、
私の人生の意味がコペルニクス的大変化を遂げました。
大きく、与えることに徹し、一切のものに感情的に依存していない、
文献の教える意味そのものの人物、それが本当のアーチャーリヤです。
インドの聖典ヴェーダは、人類の幸せの追究を満たしてくれる為の
知識を教える文献です。
その知識は、人間の経験や憶測によるものではないので、
独立した一つのプラマーナとして見なされています。
ヴェーダで教えられている知識の殆んどは、あるべき生活様式や、
「~が欲しければ、~すれば良い」といった儀式の知識です。
それらは全て、知った後で実際に行動に移して、やっと意味を成す、
「実行する」ための「行為(カルマ)」の知識です。
そのような実践のための知識とは別に、
ここにあるもの全ての本質についての知識が、
ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)で教えられています。
全ての本質とは、全ての原因とも言えます。
全てを構成しているもの、、銀河、素粒子、肉体、感情、記憶、、
多種多様に無数にあるそれら全ての名前とその意味は、
そこから表れ、それに支えられ、それに還っていく。そのような、全ての原因。
例えるなら、そこから壺が表れ、壺はそれに支えられ、
壺がその名前を手放した時、そこに還っていく。それは土。土が全ての壺の原因。
壺が一万個あったとしても、ただ在るのは土がひとつです。
10001個の存在があるのではなく、ただひとつの存在があるだけです。
土という存在は、壺の壺の数によって制限されず、壺の形からも完全に自由です。
つまり、無限であり、部分も無い、ひとつの存在。
そのただひとつ本質の正しい知識、つまりクリアーな理解は、先生から生徒へ、
そしてその生徒が先生になり、またその生徒へと教え告がれてきました。
その途切れの無い、知識の伝授の系譜を「パラムパラー」と呼びます。
先生の理解と、それを教えてもらった生徒の理解は、
完全に同じでなければなりません。
無限であり、部分の無い一つの存在において、99%の理解などあり得ないからです。
シャンカラーチャーリヤは、この知識の伝承「パラムパラー」の先生の一人です。
先生と生徒の理解が全く同じである、師弟の連鎖の一人なのですから、
彼自身の特別な貢献はありえません。
彼がなぜ知られる事になったかというと、
それまで口伝のみで教えられてきた伝統の正しい教えを、
注釈書という形で(もちろんサンスクリット語)、文字におとしたからです。
いつの時代でもそうであるように、シャンカラーチャーリヤの時代にも、
混乱し、間違ったウパニシャッドの理解が氾濫していました。
間違いは間違いだと指摘し、混乱を正し、
伝統の正しい理解を後世に残す為に、
ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、そしてブランマ・スートラに
注釈書を書くことを決心したのです。
その心意気は、バガヴァッド・ギーターの注釈書の始めにはっきりと、
彼自身によって書き表わされています。(*1)
その為に必要なグレース(プンニャ)を得るために、
祈りのシュローカを唱えるのです。
श्रुति-स्मृति-पुराणानाम् आलयं करुणालयम् ।
[śaṅkarācāryaḥ]
masculine - シャンカラという名前の先生
アーディ・シャンカラーチャーリヤを囲む4人の生徒達。 パドマパーダ、トータカ、若いのがハスタマラカ、年寄りがスレーシュヴァラ。 |
はじめに
ヴェーダーンタは哲学でも科学でも宗教でもないので、
シャンカラーチャーリヤも、哲学者でも創始者でもありません。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタを教え継ぐ、
脈々と続く伝承の中で、際立つ先生の一人です。
なぜ際立つのかと言えば、明瞭なコメンタリーを残したからです。
アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えは、
「無限の存在はあなただ」なのですから、
シャンカラーチャーリヤであれ誰であれ、
その意味を伝えることは出来ても、
変えることは出来ないのです。
シャンカラーチャーリヤという複合語の文法的派生
「シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])」とは前回でも見た、シヴァの別名です。
「アーチャーリヤ(आचार्यः [ācāryaḥ])」とは「先生」という意味の単語です。
「シャンカラという名前のアーチャーリヤ」という意味で、
これら二つの言葉を繋げて、「シャンカラーチャーリヤ」という
複合語(サマーサ)になります。
二つ以上の言葉が一つの言葉になったものを複合語(サマーサ)と言います。
サンスクリット語には、サマーサの種類が沢山あり、
それぞれに綺麗に仕分けられています。
「シャンカラーチャーリヤ」という複合語は、
二つの言葉の意味がどちらとも、一人の人物を指しているので、
「カルマダーラヤ・タットプルシャ・サマーサ」という複合語として分類されます。
(サマーサの分析は楽しいですよ!
いつか皆さんと目いっぱいサンスクリットの文法の勉強が出来ますように!)
音の面から見ると、「シャンカラ」の最後の「ア」の音と、
「アーチャーリヤ」の最初の「アー」の音がくっついて、
「ア」+「アー」=「アー」という連音変化(サンディ)になります。
1+2でも2なんですね。「アーー」と3にはなりません。
(今、英語で革命的にシステマティックでわかり易いサンスクリット語の教科書のシリーズを書いていて、世界中で好評を得ています。近いうちに、丁寧な日本語バージョンも書きますね!)
シャンカラーチャーリヤの生まれ故郷、ケララのカラディという場所。 8歳のときに、そこに流れる川でワニに食べられそうになり、 死ぬ直前ということで、出家僧になる許可を母から得て、 晴れてサンニャーシーになったそうです。 もちろん、ワニには食べられずに生き残ったわけですが、 33歳の短い一生で、多くのコメンタリーを残しました。 |
アーチャーリヤという言葉の意味
サンスクリット語には、先生という言葉にも何種類かあり、
それぞれに意味が異なります。
「アー(आ [ā])」という接頭語と
「チャル(चर् [car])」という動詞の原型の組み合わせによる単語ですが、
その意味に沿って3つの意味を説いた、こんな節があります。
आचिनोति च शास्त्रार्थं आचारे स्थापयत्यपि ।
स्वयमाचरते यस्तु स आचार्य इति स्मृतः ॥
ācinoti ca śāstrārthaṃ ācāre sthāpayatyapi |
svayamācarate yastu sa ācārya iti smṛtaḥ ||
1.文献(ヴェーダ)の意味を教え、
2.その意味に従って生きるように教え、
3.自分自身も文献の意味に生きる人、
そのような人がアーチャーリヤと呼ばれます。
文献の意味とは2種類の意味があります。
ひとつは生活様式、もうひとつは自分・世界・イーシュワラの意味です。
どちらの意味でも取ることが出来ます。
毎日シャンカラーチャーリアの残した解説書によりヴェーダーンタを教えてくれた、
私の先生方は、まさに、「自分自身も文献の意味に生きている人」でした。
彼らの生き方、世の中との接し方を見ているだけで、
私の人生の意味がコペルニクス的大変化を遂げました。
大きく、与えることに徹し、一切のものに感情的に依存していない、
文献の教える意味そのものの人物、それが本当のアーチャーリヤです。
ヴェーダが教える知識
インドの聖典ヴェーダは、人類の幸せの追究を満たしてくれる為の
知識を教える文献です。
その知識は、人間の経験や憶測によるものではないので、
独立した一つのプラマーナとして見なされています。
ヴェーダで教えられている知識の殆んどは、あるべき生活様式や、
「~が欲しければ、~すれば良い」といった儀式の知識です。
それらは全て、知った後で実際に行動に移して、やっと意味を成す、
「実行する」ための「行為(カルマ)」の知識です。
そのような実践のための知識とは別に、
ここにあるもの全ての本質についての知識が、
ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)で教えられています。
全ての本質とは、全ての原因とも言えます。
全てを構成しているもの、、銀河、素粒子、肉体、感情、記憶、、
多種多様に無数にあるそれら全ての名前とその意味は、
そこから表れ、それに支えられ、それに還っていく。そのような、全ての原因。
例えるなら、そこから壺が表れ、壺はそれに支えられ、
壺がその名前を手放した時、そこに還っていく。それは土。土が全ての壺の原因。
壺が一万個あったとしても、ただ在るのは土がひとつです。
10001個の存在があるのではなく、ただひとつの存在があるだけです。
土という存在は、壺の壺の数によって制限されず、壺の形からも完全に自由です。
つまり、無限であり、部分も無い、ひとつの存在。
そのただひとつ本質の正しい知識、つまりクリアーな理解は、先生から生徒へ、
そしてその生徒が先生になり、またその生徒へと教え告がれてきました。
その途切れの無い、知識の伝授の系譜を「パラムパラー」と呼びます。
先生の理解と、それを教えてもらった生徒の理解は、
完全に同じでなければなりません。
無限であり、部分の無い一つの存在において、99%の理解などあり得ないからです。
シャンカラーチャーリヤとは
シャンカラーチャーリヤは、この知識の伝承「パラムパラー」の先生の一人です。
先生と生徒の理解が全く同じである、師弟の連鎖の一人なのですから、
彼自身の特別な貢献はありえません。
彼がなぜ知られる事になったかというと、
それまで口伝のみで教えられてきた伝統の正しい教えを、
注釈書という形で(もちろんサンスクリット語)、文字におとしたからです。
いつの時代でもそうであるように、シャンカラーチャーリヤの時代にも、
混乱し、間違ったウパニシャッドの理解が氾濫していました。
間違いは間違いだと指摘し、混乱を正し、
伝統の正しい理解を後世に残す為に、
ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、そしてブランマ・スートラに
注釈書を書くことを決心したのです。
その心意気は、バガヴァッド・ギーターの注釈書の始めにはっきりと、
彼自身によって書き表わされています。(*1)
シャンカラーチャーリヤの一生が映画化されています。 |
アーディ・シャンカラーチャーリヤとは
シャンカラーチャーリヤ以降、ヴェーダーンタを教える伝統の中で、
際立った先生には「シャンカラーチャーリヤ」というタイトルが与えられます。
それらの後の世代のシャンカラーチャーリヤと区別する為に、
元来のシャンカラーチャーリヤを、「最初の(アーディ)」という形容詞をつけて
「アーディ・シャンカラーチャーリヤ」呼ぶことがあります。
アーディ・シャンカラーチャーリヤは、インドの東西南北に、
4箇所のピータ(学問の為の「座」)を立て、4人の直弟子にそれぞれを任せました。
その4つのピータの最高位に立つ僧が「シャンカラーチャーリヤ」と呼ばれます。
現在ではなぜか、100人近くのシャンカラーチャーリヤがいる模様です。
シャンカラーチャーリヤという人物
ヴェーダーンタの勉強をする前には、必ず祈りのシュローカ(詩節)を唱えます。
この知識の伝統の中の先生達に「ナマハ」と敬意を示し、
知識を受け取られるよう、心のあり方を整え、
その為に必要なグレース(プンニャ)を得るために、
祈りのシュローカを唱えるのです。
その祈りのシュローカの中で、よく使われるのが、
シャンカラーチャーリヤという人物を説明しているシュローカです。
伝統の中の先生達のあり方を知り、心に持つことによって、
先生達とのコミュニケーションが出来る心が準備されるのです。
नमामि भगवत्पादं शङ्करं लोकशङ्करम् ॥
śruti-smṛti-purāṇānām ālayaṃ karuṇālayam |
namāmi bhagavatpādaṃ śaṅkaraṃ lokaśaṅkaram ||
文章の基幹:
私はその偉大な人物に敬意を示します。(भगवत्पादं नमामि [bhagavatpādaṃ namāmi])
その人物とは?:
シャンカラ。吉兆をもたらす人。シヴァの生まれ変わり。(शङ्करम् [śaṅkaram])
そして、この世の中に吉兆をもたらす人。(लोकशङ्करम् [lokaśaṅkaram] )
ヴェーダーンタも含めたヴェーダの意味(श्रुति [śruti])
マハーバーラタ等のスムルティと呼ばれる文献(स्मृति [smṛti])
そしてヴィシュヌ・プラーナなどのプラーナと呼ばれる文献(पुराण [purāṇa])
それら全ての文献に精通し、伝えられるべき意味を理解している人(आलयम् [ālayam])
それぞれの文献学者はいつの時代にも多くいますが、
ヴェーダーンタの意味を知りつつ、
さらに他の文献にも精通しているというのが、シャンカラーチャーリヤという人物です。
単に物知りなだけではなく、優しさや思いやりという言葉の意味
そのものの人物でもあります。(करुणालयम् [karuṇālayam])
「カルナー(करुणा [karuṇā])」とは、愛しみ、コンパッション、思いやり、共感
という意味のサンスクリット語です。
私はこの何年間か、ここ南インドのアシュラムにおいて、
シャンカラーチャーリヤの注釈書の一言一句を、
深く分析しながら、生徒達に説明するという生活を送っています。
一言一句の言葉の中に感じることは、彼のカルナー(愛情)ばかりです。
シャンカラーチャーリヤは無駄な言葉を一つも使わないという、
言葉の規律を尊重、厳守する人です。
彼の簡潔かつ理論的な言葉の選択という作業と、
その集大成である注釈書を書かせた動機は、
理解したいと願う、後世の生徒達への思いやりのみです。
それ以外のインタレストは彼には無いということもありますが、
言葉選びのひとつひとつに、母親のような愛情を感じられずにはいられません。
シャンカラーチャーリヤが教えているのは、
シュルティで教えられている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタです。
シュルティとは何か、プラマーナとは何か、そして、
アドヴァイタ・ヴェーダーンタが教えていることは何か、
に間して、一般的な学者達に理解されていないがゆえに、
シャンカラーチャーリヤに関しても、間違った認識がされています。
ここでは、それらについて考えて見ましょう。
哲学者とは、本質とは何か?という問いに、その人自身の憶測を駆使して、
「私はこう考えました」と新しい概念や思想を提唱する人です。
近年では、そのような哲学者の思想を研究をする人も哲学者と呼ばれるようになりました。
一方、シャンカラーチャーリヤは、彼自身の意見や思想を持って教えていません。
人類の創造から脈々と続いている、ヴェーダの意味を教え継ぐ
先生と生徒の中の一人に過ぎません。
ヴェーダの教える意味、先生の理解、生徒の理解、全てが一致してこそ、
「知識の伝承」なのです。
しかも、教えている内容が、無限の存在なのですから、
ある先生の新しい考えを挿入することは出来ません。
シャンカラーチャーリヤの教えるヴェーダーンタのヴィジョンの中に、
彼自身の貢献は一切無いのです。
上と同じ理由で、シャンカラーチャーリヤだけではなく、
ヴャーサであれ誰であれ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者などいません。
重力の法則に創始者がいないのと同じです。
ヴェーダ自体にも著者はいません。
ニュートンのように、重力を発見した人がいるように、
ヴェーダのマントラを発見した賢人達がいます。
しかし、ヴェーダのマントラは、賢人たちによって著されたものではないのです。
ニュートンが「私のおかげで重力があるのだ!」と言えないように。
ゆえに、全てのヴェーダが人類に教えようとしている、
最終的な教えである、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにも創設者はいません。
そういう意味で、ヴェーダーンタは宗教でもなく、
哲学でもなく、科学でもないのです。
ヴェーダーンタが宗教ではない所以は、
創設者がおらず、また信仰の対象ではないからです。
重力の法則に創設者がいないのと同じです。
また、重力の法則は、理解の対象であって、信仰の対象ではありません。
同じように、ヴェーダーンタはきちんと頭を明瞭にして、
主観や曖昧さを排除して、理解される為の対象であって、
信仰の対象ではありません。
人の憶測などをベースとしているものが哲学というものです。
ヴェーダーンタのみならず、ヴェーダはプラマーナです。
まずは、プラマーナとは何であるかを、しっかり理解してからでないと、
ヴェーダ、ヴェーダーンタを勉強する意味はありません。
(質問があったので、ここに答えをまとめてシェアしますね。
「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?」)
科学というものは、
1.人間の五感と、
2.五感から得たデータを基にした推測
をプラマーナとして、理論を打ち立て、実験によって実証した知識です。
ヴェーダ自体が、1と2のプラマーナが扱う範囲とは、全く別の範囲を扱うプラマーナです。
そういう意味で、科学とは全く関係ありません。
今回は少し難しいテクニカルなことを書いたかもしれませんが、
とても大事なところなので、伝統を知る正しい先生についてしっかり勉強してください。
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>> 次回 59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])>>
不老不死の秘薬とは?
<< 前回 57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])<<
(*1)ギーターのバーシャ(注釈書)の冒頭より:
तदिदं गीताशास्त्रं समस्तवेदार्थसारसङ्ग्रहभूतं दुर्विज्ञेयार्थम् ।
全てのヴェーダの意味のエッセンスであるギーターの意味は、理解が困難とされている。
तदर्थ-आविष्करणाय अनेकैः विवृतपदपदार्थवाक्यार्थन्यायमपि अत्यन्तविरुद्धानेकार्थत्वेन लौकिकैः गृह्यमाणम् उपलभ्य अहं विवेकतः अर्थनिर्धारणार्थं संक्षेपतः विवरणं करिष्यामि ।
その意味を明らかにするために、多くの学者によって研究が成されて来たが、とてつもなく矛盾した解釈が多く存在しているように世の中では理解されている。
それを見て私は、正しい理解により、ギーターの意味をはっきりさせる為に簡潔な説明を書くことにした。
śruti-smṛti-purāṇānām ālayaṃ karuṇālayam |
namāmi bhagavatpādaṃ śaṅkaraṃ lokaśaṅkaram ||
文章の基幹:
私はその偉大な人物に敬意を示します。(भगवत्पादं नमामि [bhagavatpādaṃ namāmi])
その人物とは?:
シャンカラ。吉兆をもたらす人。シヴァの生まれ変わり。(शङ्करम् [śaṅkaram])
そして、この世の中に吉兆をもたらす人。(लोकशङ्करम् [lokaśaṅkaram] )
ヴェーダーンタも含めたヴェーダの意味(श्रुति [śruti])
マハーバーラタ等のスムルティと呼ばれる文献(स्मृति [smṛti])
そしてヴィシュヌ・プラーナなどのプラーナと呼ばれる文献(पुराण [purāṇa])
それら全ての文献に精通し、伝えられるべき意味を理解している人(आलयम् [ālayam])
それぞれの文献学者はいつの時代にも多くいますが、
ヴェーダーンタの意味を知りつつ、
さらに他の文献にも精通しているというのが、シャンカラーチャーリヤという人物です。
単に物知りなだけではなく、優しさや思いやりという言葉の意味
そのものの人物でもあります。(करुणालयम् [karuṇālayam])
「カルナー(करुणा [karuṇā])」とは、愛しみ、コンパッション、思いやり、共感
という意味のサンスクリット語です。
私はこの何年間か、ここ南インドのアシュラムにおいて、
シャンカラーチャーリヤの注釈書の一言一句を、
深く分析しながら、生徒達に説明するという生活を送っています。
一言一句の言葉の中に感じることは、彼のカルナー(愛情)ばかりです。
シャンカラーチャーリヤは無駄な言葉を一つも使わないという、
言葉の規律を尊重、厳守する人です。
彼の簡潔かつ理論的な言葉の選択という作業と、
その集大成である注釈書を書かせた動機は、
理解したいと願う、後世の生徒達への思いやりのみです。
それ以外のインタレストは彼には無いということもありますが、
言葉選びのひとつひとつに、母親のような愛情を感じられずにはいられません。
シャンカラーチャーリヤの像。 リシケシのテンプルにも、南インドのレクチャーホールにも、 黒いグラナイトで出来たシャンカラーチャーリヤの像があります。 オレンジはサンニャーシーの色。 |
シャンカラーチャーリヤが教えているのは、
シュルティで教えられている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタです。
シュルティとは何か、プラマーナとは何か、そして、
アドヴァイタ・ヴェーダーンタが教えていることは何か、
に間して、一般的な学者達に理解されていないがゆえに、
シャンカラーチャーリヤに関しても、間違った認識がされています。
ここでは、それらについて考えて見ましょう。
シャンカラーチャーリヤは哲学者ではない?
哲学者とは、本質とは何か?という問いに、その人自身の憶測を駆使して、
「私はこう考えました」と新しい概念や思想を提唱する人です。
近年では、そのような哲学者の思想を研究をする人も哲学者と呼ばれるようになりました。
一方、シャンカラーチャーリヤは、彼自身の意見や思想を持って教えていません。
人類の創造から脈々と続いている、ヴェーダの意味を教え継ぐ
先生と生徒の中の一人に過ぎません。
ヴェーダの教える意味、先生の理解、生徒の理解、全てが一致してこそ、
「知識の伝承」なのです。
しかも、教えている内容が、無限の存在なのですから、
ある先生の新しい考えを挿入することは出来ません。
シャンカラーチャーリヤの教えるヴェーダーンタのヴィジョンの中に、
彼自身の貢献は一切無いのです。
シャンカラーチャーリヤは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者ではない?
上と同じ理由で、シャンカラーチャーリヤだけではなく、
ヴャーサであれ誰であれ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの創始者などいません。
重力の法則に創始者がいないのと同じです。
ヴェーダ自体にも著者はいません。
ニュートンのように、重力を発見した人がいるように、
ヴェーダのマントラを発見した賢人達がいます。
しかし、ヴェーダのマントラは、賢人たちによって著されたものではないのです。
ニュートンが「私のおかげで重力があるのだ!」と言えないように。
ゆえに、全てのヴェーダが人類に教えようとしている、
最終的な教えである、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにも創設者はいません。
そういう意味で、ヴェーダーンタは宗教でもなく、
哲学でもなく、科学でもないのです。
ヴェーダーンタは宗教ではない
ヴェーダーンタが宗教ではない所以は、
創設者がおらず、また信仰の対象ではないからです。
重力の法則に創設者がいないのと同じです。
また、重力の法則は、理解の対象であって、信仰の対象ではありません。
同じように、ヴェーダーンタはきちんと頭を明瞭にして、
主観や曖昧さを排除して、理解される為の対象であって、
信仰の対象ではありません。
ヴェーダーンタは哲学ではない
人の憶測などをベースとしているものが哲学というものです。
ヴェーダーンタのみならず、ヴェーダはプラマーナです。
まずは、プラマーナとは何であるかを、しっかり理解してからでないと、
ヴェーダ、ヴェーダーンタを勉強する意味はありません。
(質問があったので、ここに答えをまとめてシェアしますね。
「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?」)
ヴェーダは科学ではない
科学というものは、
1.人間の五感と、
2.五感から得たデータを基にした推測
をプラマーナとして、理論を打ち立て、実験によって実証した知識です。
ヴェーダ自体が、1と2のプラマーナが扱う範囲とは、全く別の範囲を扱うプラマーナです。
そういう意味で、科学とは全く関係ありません。
今回は少し難しいテクニカルなことを書いたかもしれませんが、
とても大事なところなので、伝統を知る正しい先生についてしっかり勉強してください。
>> 次回 59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])>>
不老不死の秘薬とは?
<< 前回 57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])<<
(*1)ギーターのバーシャ(注釈書)の冒頭より:
तदिदं गीताशास्त्रं समस्तवेदार्थसारसङ्ग्रहभूतं दुर्विज्ञेयार्थम् ।
全てのヴェーダの意味のエッセンスであるギーターの意味は、理解が困難とされている。
तदर्थ-आविष्करणाय अनेकैः विवृतपदपदार्थवाक्यार्थन्यायमपि अत्यन्तविरुद्धानेकार्थत्वेन लौकिकैः गृह्यमाणम् उपलभ्य अहं विवेकतः अर्थनिर्धारणार्थं संक्षेपतः विवरणं करिष्यामि ।
その意味を明らかにするために、多くの学者によって研究が成されて来たが、とてつもなく矛盾した解釈が多く存在しているように世の中では理解されている。
それを見て私は、正しい理解により、ギーターの意味をはっきりさせる為に簡潔な説明を書くことにした。