भक्तः
[bhaktaḥ]
「バクタ」とは人を指す言葉です
前回で説明した「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」を持っている人が
「バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])」です。
भक्तिः अस्य अस्ति इति भक्तः । (文法は下を参照のこと)
「神」という言葉を、聞き手はどう受け取るでしょうか。
・ いるかいないか判らない者
・ 自分以外の誰か別の存在
・ 信じる対象
・ 非日常、この世の者ではない
・ 自分を審判するジャッジメンタルな存在
このような、既存の宗教が直接・間接的に植えつけた、
「神」という言葉のイメージが先行して、正しい理解を阻害してしまうからです。
ひとつひとつ駄目出しをしてみると、
問:いるかいないか判らない者?
答:この目の前にあるもの全てをバガヴァーンと呼びます。
目の前にあるものなんか無い!と言うのなら、それを言っているあなたが在るでしょう。
有るとか無いとか言う議論は、まずそれを議論する人が在る必要があります。
問:自分以外の誰か別の存在?
答:宇宙の全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、
それらに存在を与えている、ひとつの意識的存在がバガヴァーンの定義なのですから、
あなた以外の別の存在では在り得ません。
問:信じる対象?
答:信じないと存在出来ない神様なら信じるしかありませんが、
ヴェーダで教えられているバガヴァーンは、理解する為の対象です。
問:非日常、この世の者ではない?
答:「今、ここ、私」という意識的な存在がバガヴァーンの本質です。
日常も、非日常も、この世も、あの世も、どの場所も時間も全を指して、バガヴァーンという名前をつけているのです。
問:自分を審判するジャッジメンタルな存在?
答:そんな神様を信じてまで受け入れる価値はありますか?
ゆえに、手垢のついていない理解に繋がる言葉、例えば
「全体」とか「宇宙の法則」とか「宇宙の原因」とか
「イーシュワラ」とか「バガヴァーン」といった言葉を使って、
ヴェーダーンタを教えるのです。
「バガヴァーンとの繋がり」とは「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」であり、
つまり「バガヴァーンとの繋がり」とは「バガヴァーンの理解」なのです。
理解が深まれば深まるほど、繋がりが深くなる、と言うことが出来ます。
これが分かると、バガヴァッド・ギーターでバガヴァーン・クリシュナが、
バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])を4種類で説明した理由が解りますね。
1.困ったときの神頼みの人(アールタ)
प्रातिपदिकसंज्ञा 1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
[bhaktaḥ]
masculine - バクティを持っている人
バクタの語源
「バクタ」とは人を指す言葉です
前回で説明した「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」を持っている人が
「バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])」です。
भक्तिः अस्य अस्ति इति भक्तः । (文法は下を参照のこと)
つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っているひとが「バクタ」です。
バガヴァーンとは
この宇宙の全てのもの、全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、
空間、全ての元素、全ての力、全ての感情、全ての関係、
原因と結果の法則の全て、知っているものと知らないものをあわせた全てを
バガヴァーンと呼びます。
つまり、バガヴァーンとは、この宇宙の全てを指すのですから、
バガヴァーンと離れている人などいないのです。
あなたとバガヴァーンは別の存在では無い
あなたの怒りも、悲しみも、病気も健康も、全てバガヴァーンです。
それなのに、「自分は宇宙から切り離された存在なのだ」と、
誰もが疑いの余地も無く信じています。
怒りという感情は、「自分 VS 自分とは別のもの」といった、
自分と宇宙との隔たりや対抗を強く感じている、というものです。
悲しみも痛みも、人間が嫌う全ての感情はそんなものです。
そんな感情にバガヴァーンを見出すというのは、
「こういう状況に置かれれば、こんな嫌な感情が表れる。
そんな方程式が全人類に通用する。それが普遍の法則なのだ。
だから、こんな嫌な感情を味わっているというのは、
私の心の全ては、宇宙の法則の表れに他ならない」
という理解が、「バガヴァーンとの繋がり」なのです。
これは理解によるもので、想像や思い込みやポジティブシンキングではありません。
一般的な「神」の定義とその落とし穴
ヴェーダーンタを教える時には、「バガヴァーン」という言葉は使っても、
「神」や「God」という言葉は普通は使われません。
なぜなら、聞き手が勘違いするような言葉は避けるべきだからです。
・ いるかいないか判らない者
・ 自分以外の誰か別の存在
・ 信じる対象
・ 非日常、この世の者ではない
・ 自分を審判するジャッジメンタルな存在
このような、既存の宗教が直接・間接的に植えつけた、
「神」という言葉のイメージが先行して、正しい理解を阻害してしまうからです。
ひとつひとつ駄目出しをしてみると、
問:いるかいないか判らない者?
答:この目の前にあるもの全てをバガヴァーンと呼びます。
目の前にあるものなんか無い!と言うのなら、それを言っているあなたが在るでしょう。
有るとか無いとか言う議論は、まずそれを議論する人が在る必要があります。
問:自分以外の誰か別の存在?
答:宇宙の全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、
それらに存在を与えている、ひとつの意識的存在がバガヴァーンの定義なのですから、
あなた以外の別の存在では在り得ません。
問:信じる対象?
答:信じないと存在出来ない神様なら信じるしかありませんが、
ヴェーダで教えられているバガヴァーンは、理解する為の対象です。
問:非日常、この世の者ではない?
答:「今、ここ、私」という意識的な存在がバガヴァーンの本質です。
日常も、非日常も、この世も、あの世も、どの場所も時間も全を指して、バガヴァーンという名前をつけているのです。
問:自分を審判するジャッジメンタルな存在?
答:そんな神様を信じてまで受け入れる価値はありますか?
「全体」とか「宇宙の法則」とか「宇宙の原因」とか
「イーシュワラ」とか「バガヴァーン」といった言葉を使って、
ヴェーダーンタを教えるのです。
繋がりとは、理解のこと
「バガヴァーンとの繋がり」とは「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」であり、
つまり「バガヴァーンとの繋がり」とは「バガヴァーンの理解」なのです。
理解が深まれば深まるほど、繋がりが深くなる、と言うことが出来ます。
これが分かると、バガヴァッド・ギーターでバガヴァーン・クリシュナが、
バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])を4種類で説明した理由が解りますね。
1.困ったときの神頼みの人(アールタ)
2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)
3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)
4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)
この小さな自分について、
私を小さな存在にさせているこの世界について、
そして宇宙の全てであるバガヴァーンについて、
混乱した理解を正すのが、ヴェーダーンタの勉強です。
理解ベースであるがゆえに、プラマーナ(知る手段)が必要です。
バガヴァッド・ギーターは、バガヴァーン自身が教えている、
バガヴァーンについての知識です。
バガヴァーンついて、つまり自分を含めたこの宇宙の在り方について、
知れば知るほど、混乱が解ければ解けるほど、人生の意味がはっきりします。
自分に与えられた身体、家庭環境、社会環境の意味がはっきりします。
自分に与えられた、自分の自由意志で操ることの出来る、
手や足や目や口は、何か行動をする為にあります。
私の身体と感覚器官は、バガヴァーンの身体と感覚器官です。
何をするべきか?
それも自分に与えられています。
自分に与えられた家庭環境や社会環境、そして自分の置かれたその瞬間瞬間の状況、
それらが自動的に「今ここで何をすべきか」を決定しています。
それを実行しているとき、宇宙との調和があります。
つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っている人です。
そこには「自分 VS 全宇宙」という、今まで自分を苦しめて来た図式では無く、
もっと大きくて、宇宙の中で心地よく調和している自分がいます。
何をするべきかがはっきり判断出来ない時は、
ダルマに沿った賢い先人を見習えば良いと教えられています。
宇宙と調和した行動を「ダルマ」と呼び、それは人間の心を成長させます。
常に要求している小さな自分から、与える側の大きな自分に成長するのです。
そんな成長した心を育てる為に、宇宙と調和した行動を選ぶ人を、
「カルマ・ヨーギー」と呼びます。
バガヴァーンと繋がっているという理解があるからこそ、
行動基準にダルマやアヒムサーといった価値感や姿勢が反映されるのです。
ゆえに、「カルマ・ヨーギー」は「バクタ」です。
「バクティ・ヨーガ」、「カルマ・ヨーガ」と別々に数えることは出来無いのですよ。
社会で生きていれば、人間関係は避けられません。
人間関係には必ず絶対に問題が付きまといます。これも避けられません。
しかしよく見ると、自分の抱えている全ての問題は、
自分が演じている役割に関わる問題です。
私達は毎日様々な役割を演じています。
息子・娘、父・母、会社員、社会人、恋人、、、
これら全ての役柄を演じているのは誰でしょうか?
一つの役から、もう一つの役に、代わる代わる演じている役者は、
全ての役柄から自由な、独立した人間です。
それが、私です。
その私が、バガヴァーンの理解を深めると、いろんなことが分かってきます。
役割を与えたのは、宇宙の法則であるバガヴァーンです。
そして役割に付いてやってくる台本も、バガヴァーンによって書かれています。
全ての役柄をこなしているのは、バガヴァーンについて理解を始めた、
「バクタ」の私。
役柄を演じる前に、バクタの私がいる。
役柄に関する問題に巻き込まれる前に、バガヴァーンと関わっていれば、
役柄と自分の間にスペースが出来て、巻き込まれずに済む。
自分とバガヴァーンとの関係が深まるにつれ、
自分の役柄と関わっている相手からのジャッジメントを恐れたり、
無理解に傷ついたりしなくなります。
相手からどう勘違いされようと、結局は私とバガヴァーンの関係なのです。
そして、社会の真っ只中で様々な役割を熱心に演じながらも、
宇宙の在り方のなかで、リラックスしていられるのです。
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feminine - 深く関わること、献身的に努めること
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あなたを幸せ(シャム)にする者(カラ)。
幸せの意味から深く考察します。
文法:
भक्ति + सुँ + अच् 5.2.127 अर्शआदिभ्योऽच् । ~ तदस्यस्त्यस्मिन्निति知るためには適切なプラマーナが必要
この小さな自分について、
私を小さな存在にさせているこの世界について、
そして宇宙の全てであるバガヴァーンについて、
混乱した理解を正すのが、ヴェーダーンタの勉強です。
理解ベースであるがゆえに、プラマーナ(知る手段)が必要です。
バガヴァッド・ギーターは、バガヴァーン自身が教えている、
バガヴァーンについての知識です。
ギーター・アーチャーリャ(ギーターの先生) クリシュナ |
バガヴァーンついて、つまり自分を含めたこの宇宙の在り方について、
知れば知るほど、混乱が解ければ解けるほど、人生の意味がはっきりします。
自分に与えられた身体、家庭環境、社会環境の意味がはっきりします。
自分に与えられた、自分の自由意志で操ることの出来る、
手や足や目や口は、何か行動をする為にあります。
私の身体と感覚器官は、バガヴァーンの身体と感覚器官です。
何をするべきか?
それも自分に与えられています。
自分に与えられた家庭環境や社会環境、そして自分の置かれたその瞬間瞬間の状況、
それらが自動的に「今ここで何をすべきか」を決定しています。
それを実行しているとき、宇宙との調和があります。
つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っている人です。
そこには「自分 VS 全宇宙」という、今まで自分を苦しめて来た図式では無く、
もっと大きくて、宇宙の中で心地よく調和している自分がいます。
何をするべきかがはっきり判断出来ない時は、
ダルマに沿った賢い先人を見習えば良いと教えられています。
宇宙と調和した行動を「ダルマ」と呼び、それは人間の心を成長させます。
常に要求している小さな自分から、与える側の大きな自分に成長するのです。
そんな成長した心を育てる為に、宇宙と調和した行動を選ぶ人を、
「カルマ・ヨーギー」と呼びます。
バガヴァーンと繋がっているという理解があるからこそ、
行動基準にダルマやアヒムサーといった価値感や姿勢が反映されるのです。
ゆえに、「カルマ・ヨーギー」は「バクタ」です。
「バクティ・ヨーガ」、「カルマ・ヨーガ」と別々に数えることは出来無いのですよ。
まずバクタがいる
社会で生きていれば、人間関係は避けられません。
人間関係には必ず絶対に問題が付きまといます。これも避けられません。
しかしよく見ると、自分の抱えている全ての問題は、
自分が演じている役割に関わる問題です。
私達は毎日様々な役割を演じています。
息子・娘、父・母、会社員、社会人、恋人、、、
これら全ての役柄を演じているのは誰でしょうか?
一つの役から、もう一つの役に、代わる代わる演じている役者は、
全ての役柄から自由な、独立した人間です。
それが、私です。
その私が、バガヴァーンの理解を深めると、いろんなことが分かってきます。
役割を与えたのは、宇宙の法則であるバガヴァーンです。
そして役割に付いてやってくる台本も、バガヴァーンによって書かれています。
全ての役柄をこなしているのは、バガヴァーンについて理解を始めた、
「バクタ」の私。
役柄を演じる前に、バクタの私がいる。
役柄に関する問題に巻き込まれる前に、バガヴァーンと関わっていれば、
役柄と自分の間にスペースが出来て、巻き込まれずに済む。
自分とバガヴァーンとの関係が深まるにつれ、
自分の役柄と関わっている相手からのジャッジメントを恐れたり、
無理解に傷ついたりしなくなります。
相手からどう勘違いされようと、結局は私とバガヴァーンの関係なのです。
そして、社会の真っ只中で様々な役割を熱心に演じながらも、
宇宙の在り方のなかで、リラックスしていられるのです。
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<< 前回 55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])<<
feminine - 深く関わること、献身的に努めること
>> 次回 57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])>>
あなたを幸せ(シャム)にする者(カラ)。
幸せの意味から深く考察します。
文法:
प्रातिपदिकसंज्ञा 1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
भक्ति + अ 2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः । ~ लुक्
भ-संज्ञा 1.4.18 यचि भम् ।
भ-संज्ञा 1.4.18 यचि भम् ।
भक्त्+ अ 6.4.148 यस्येति च । ~ भस्य लोपः
भक्त