最初にも書きましたが、仏教用語の解説ではなく、
仏教用語になった、サンスクリット語そのものの、
サンスクリットの文化(ヴェーダの文化)に基づく解釈です。
その中でも、私はアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学び・教える立場なので、
それも考慮に入れておいてくださいね。
禅(ぜん)
サンスクリット語では「ディヤーナ(ध्यानम् (dhyānam))」です。
ध्यै चिन्तायाम् という、「考える」という意味の動詞の原型から造られていることから、
「熟考」「そればかりを考えたり、思い描いたりすること」
という一般的な意味から、
ヨーガの修行法として「神経を集中させること」 「瞑想」、
そしてヴェーダでは、「ヴェーダで教えられている神々の姿を心に想い続ける行為」
「ヴェーダで教えられている言葉の意味を心に置き続けること」
などといったように、心を一点に置くといった意味は共通していますが、
何に、どのような目的で、などに関しては、意味に大きな幅があります。
他のサンスクリット語の言葉の多くがそうであるように、
どのようなコンテキスト(文脈・内容)で使われているかによって、
同じ言葉でも意味が変わる言葉です。
檀那・旦那(だんな)
サンスクリット語では「ダーナ(दानम् (dānam))」。
これは前回見ましたね。「与えること」と言う意味です。
(文法が好きな方へ: 「与える人」を造るためのल्युの付くनन्द्यादिगणにदाはありません。)
ダーナがどうやって檀那・旦那さんとなったのか、
サンスクリットの文化をもとに考察してみると、繋がりが見えてきます。
यज्ञदानतपःकर्म न त्याज्यं कार्यमेव तत् । yajñadānatapaḥkarma na tyājyaṃ kāryameva tat |
祈り、与えること(ダーナ)、タパスというカルマは、
(人生のどのステージにおいても)放棄するべきではなく、
常に実践されるべき行為です。
(バガヴァッド・ギーター第18章5節)
ダーナは、上のギーターのシュローカで教えられているように、
1.学生、2.家庭人(結婚したり、パートナーのいる人)、3.リタイアした人、
そして、4.ヴェーダーンタの勉強の為に全てを放棄した人、
という四つのアーシュラマ(人生のステージ)において、
最後に全てを放棄するまでの三つのアーシュラマの中で、
心の成長のために実践されるべきことです。
しかし、この三つの中で、生産・稼働しているのは、家庭人だけであり、
他の三つのアーシュラマに生きる人を支えるのは家庭人だけであることから、
ダーナは、家庭人に対して特に奨励される行為です。
より多くを得て、貯め込むのが家庭人の役割ですが、
時間が来れば、第一線から退いて、静かに暮らし、
ひとつひとつ手放して行かなければならないので、
手放すことも早いうちから実践して学ばなければなりません。
現代の日本では、結婚とは個人的なものだと捉えられていて、
学生期とも、家庭期とも、林住期とも区別のつかない生活をしていても問題ありませんが、
ヴェーダの世界では、学生期を終えたら、すぐに結婚して、社会に貢献する義務が発生し、
孫が生まれる頃には、主権を手放して、引退しなければならない。
単に好きだからという理由だけではなく、
社会的責任を一手に背負う覚悟が結婚には必要なのです。
でも、それ位の覚悟を持っていなければ、何においても成功しませんね。
南無(なむ)
サンスクリット語では「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」です。
「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」の意味は、ナマステ―のところで解説しています。
「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」は、不活用名詞です。
名詞の原型は、 「ナマス(नमस् [namas]) 」と、「S」で終わる言葉です。
ナマハ? ナモー? ナマス? ナマ?
「ナマス(नमस् [namas]) 」の後に何の音も続かず、単品で使う場合、
「ナマハ(नमः [namaḥ]) 」となります。
後ろに有声音(日本語では濁音と、ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行)が来た場合、
「ナモー(नमो [namo])」 となります。
こういった、後ろの音によって前の音が変わる、とかいう変化を、
「サンディ(連音変化)」と呼びます。
日本の教科書で勉強する人は、ここでくじけるみたいですが、
伝統的なパーニニのシステムに沿ってきちんと勉強すれば、
整然として、そんなに難しいものではない、ということが分かってもらえると思います。
サンスクリット文法の学習の秘訣
文法はどんなトピックでも、すんなりと勉強できる秘訣は、
「チャンティングから入る」ということ。
正しい発音をきちんと学び、
すらすらと口から出るようになれば、
後でその意味を教えられた時、
もしくは、それがなぜそのような形になるのかを教えられた時に、
「あ~なるほど!」
と、まさに茂木健一郎さんの「アハ体験」のように、
脳内で快感と共にシナプスが繋がっていくのです。
逆に、音を学ばずに、意味だけを学ぼうとしても、
「意味を教えてもらっているときには理解できるのだけど、
その後、何を習ったのか、頭に残らない」症候群になってしまいます。
今日はこのくらいで、、、
あと、奈落(ならく)とか、涅槃(ねはん)とか、波羅蜜(はらみつ)、
波羅門(ばらもん)、仏陀(ぶっだ)、盆(ぼん)、曼荼羅(まんだら)、
夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)などを予定しています。
あと2回くらいかな。
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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)
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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)