ラベル ハ行で始まる単語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ハ行で始まる単語 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年8月9日水曜日

86.マハー・バーラタ(महाभारतम् [mahābhāratam]) - 偉大なるバラタ族の歴史物語

マハーバーラタとは、紀元前○○世紀頃に著された叙事詩で、、、
とかいう、伝統では価値が認められていない年代などの情報は、もちろんここでは扱いません。
インドの伝統文化においての生活から得た学びならではの、
マハーバーラタのイントロダクションをまとめてみました。

 このページの目次

1.マハーバーラタのお祈り
2.マハーバーラタの別名、「ジャヤ」
3.マハーバーラタに隠された数字、「18」
4.マハー・バーラタの語源
5.バーラタとは 
6.マハーバーラタの入れ子式話し手  
7.マハー・バーラタの、ヴェーダ文化における聖典としての位置づけ

(アンカーを手作業で貼るのが出来なかったので、各自でスクロールダウンしてください。。。)



1.マハーバーラタのお祈り


聖典を読むとき、聴くときは、必ずお祈りから始めます。
それは、マハーバーラタの冒頭にあるお祈り自体の中でも言及されています。

नारायणं नमस्कृत्य नरं चैव नरोत्तमम् | देवीं सरस्वतीं व्यासं ततो जयमुदीरयेत् ||
nārāyaṇaṃ namaskṛtya naraṃ caiva narottamam |
devīṃ sarasvatīṃ caiva tato jayamudīrayet ||

意味:
ナーラーヤナ(ヴィシュヌ、クリシュナ)と、
最も秀でた人間であるナラ(人間、アルジュナ)、
知性を司る、芸術・学問の女神サラッスヴァティー
そしてヴャーサに、ナマスカーラをしてから、
ジャヤ(マハーバーラタ)という物語について話しましょう。
(なんか優しい口調ですね。。。訳:私)

ナーラーヤナ」とは、全人類が欲しているゴール(アーヤナ)です。
人は時代により国により人種により、それぞれ違ったものを追いかけているようだけど、
あらゆるゴールの裏にある、唯一の真のゴールとは、満たされている自分、
ただひとつそれだけなのです。それに本人が気づいていてもいなくても。
そのゴールは全てに浸透しているかの如く、変わりゆくものに存在を与えている存在、
つまりヴィシュヌ(全てに浸透しているもの)であり、それを教えるのが、
マハーバーラタ戦争真っただ中で先生の役を務めている、
ヴィシュヌの化身クリシュナです。

人生のゴールとして自分の本質を知ることの必要性に気づき、
生徒になることを選んだ、最も秀でた人間(ナラ)はアルジュナです。

知ることに必要なのは、ブッディ(知性)であるゆえに、
サラッスヴァティー女神のもたらす恩恵が必要。

そしてこの人間が人間として生まれて来た意味を満たす知識を、
人類に言葉という形でもたらしたのが、マハーバーラタの作者である、ヴィヤーサ

この祈りの中に、重要なカードが全て提示されているのです。

マハーバーラタには数え切れない程のキャラクターや出来事が登場しますが、
結局、何を人類に教えているのか?
そこのフォーカスを逃してしまうと、単なる奇想天外な昔話に終わってしまいます。

お祈りをして、主要な事柄をデーヴァターとして心に想い描き、その恩恵により、
語る人の、聴く人の、心に準備がされるのです。
そして、マハーバーラタは始まります。。


2.マハーバーラタの別名、「ジャヤ」



お祈りのシュローカ(句)にもあるように、
マハーバーラタは、「ジャヤ(जय)」とも呼ばれます。
ジャヤとは、「勝利」ですね。
パーンダヴァに象徴されるダルマが、
ドゥリヨーダナに象徴されるアダルマに勝利するからです。

これは単純な勧善懲悪という図式よりも、
もっと複雑な人間の心理と、この世の真理を表しています。

パーンダヴァ側の王子であるアルジュナは、軍の数よりも、
あらゆる運・動きを司る、この宇宙の全ての知識であるクリシュナを選び取ります。

一方、ドゥリヨーダナは、執着という曇りに包まれた歪んだ考え・価値観の象徴です。

「ジャヤ(जय)」とは、ダルマのジャヤであり、そこにあるのは、
真実のジャヤ、つまりモークシャが教えられているのです。

「サッティヤメーヴァ ジャヤテー(सत्यमेव जयते)」
= 「真実のみが勝つ」

というのは、インドという国の標語にもなっている、ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の言葉です。
(ムンダカ・ウパニシャッド3.1.6)

सत्यमेव जयतेが見えますか?

3.マハーバーラタに隠された数字、「18」


数字に関しては、ヴェーダーンタの教えではあまり意味が問われないので、
話のネタ程度に聞き流してくださいね。

マハーバーラタの別名、「ジャヤ」の、
「ジャ(ज)」は、8を、「ヤ(य)」 は、1を表しています。
क्から数え始めてज्は8番目ですね。

マハーバーラタは、18のパールヴァという名前の章から成ります。

マハーバーラタの最重要部分、人間が人間として生まれた意味を教える、
ウパニシャッド(ヴェーダーンタ)の教えの部分である、
バガヴァッド・ギーターも18章から成ります。

1と8で9ですが、それはこんなことも関係しているのでしょうかね?

マハーバーラタ戦争は18日間続きます。

マハーバーラタ戦争に招集された軍隊の数は、
18アクシャウヒニー(अक्षौहिणी)という単位です。

1アクシャウヒニーは、
・ 21,870両の馬車
・ 21,870頭の象
・ 65,610頭の馬
・ 109,350人の歩兵
で構成されています。
全ての数は、一ケタごとの数を足していくと、、もちろん18ですね。

馬車1、象1、馬3、歩兵5からなる最小単位(पत्ति)を3倍ずつにしながら大きな単位のグループになり、7回3倍にして、最後に10倍にしたのがアクシャウヒニーです。計算してみてね。

カウラヴァ軍側に11アクシャウヒニー、
パーンダヴァ軍側には7アクシャウヒニー。
兵の数は少なくても、パーンダヴァ側が勝利します。

それは、戦わないけれども、運や知識をもたらせる、クリシュナというアヴァターラの存在に、
アルジュナが価値を見い出し、何万という兵隊よりも、
クリシュナひとりを見方につけることを選んだからです。
 

4.マハー・バーラタの語源


भरतान् भरतवंशीयानधिकृत्य कृतोग्रन्थ इत्यण्
(バラタの子孫を題材にした物語、
バラタに接尾語अण्を足して派生した言葉。)

出典:वाचस्पत्यम्  (梵梵辞典、サンスクリット語→サンスクリット語辞典の一種)


「マハー」は、皆さんよくご存じの、
「マハー・ラージャ」とか「マハートマー」という言葉にも使われている、
「偉大な」という意味の言葉です。原型はマハット(महत् [mahat]) 。


5.バーラタの意味



「バーラタ(भारत [bhārata])」 とは、
「バラタの末裔」という意味や、「バラタ族に関する物語」という意味です。

「バラタ(भरत [bharata])」とは、ラーマに忠誠を尽くして王国を守った異母弟の名前です。

サンスクリット語では、名詞に接尾語を付加して、新しい名詞を作る、
ということが頻繁に行われます。

「バラタ(भरत [bharata])」という名詞に、「~の子孫・末裔」という意味の接尾語を付けると、
一番前の母音が伸びて、「バーラタ(भारत [bhārata])」となります。
「~に関する物語」という意味でも、同じ接尾語がついて、同じ言葉になります。


「バーラタ(भारत [bhārata])」 とはまた、
インドに多数ある言語による、自国の名称です。

「インド」とか「インディア」というのは、外国人が勝手につけた名前で、
インドではインドのことを、誇り高きバラタの末裔の国「バーラタ(भारत [bhārata])」
と呼んでいるのです。

インドのコインや紙幣を見てみてください。
また出て来た!
 「バーラタ(भारत [bhārata])」が読めますか?
 
ライオンの下に書いてある、インドの標語「サッティヤメーヴァ ジャヤテー(सत्यमेव जयते)」
「真実のみが勝つ」という、ウパニシャッドの言葉も、
インド政府発行のお金経由で言われると、、意味の深みが増しますね。。。


6.マハーバーラタの入れ子式話し手


最初に紹介したお祈りの後に、見えないナレーターが、
スータ(सूत)とシャウナカ(शौनक)の会話を紹介します。

スータという名前で登場するウッグラシュラヴァス(उग्रश्रवस्)という人が、
ナイミシャーランニャ(नैमिशारण्य)という森の中を旅している時に、
その中で何年も続く儀式をしているリシ達に出会い、
リシ達の長であるシャウナカに、
最近何か変わった話が無いかと訊かれます。

スータは、自分の父親であり、ヴャーサの弟子でもある、
ローマハルシャナ(लोमहर्षण)が、ヴャーサから直接聴いた話を、
息子である自分に話してくれた話を話し出します。
 
その話は、ヴァイシャンパーヤナ(वैशंपायन)とジャヤメージャヤ(जनमेजय)の会話です。
ジャヤメージャヤは、マハーバーラタ戦争のパーンダヴァ側の唯一の生き残りである、
パリークシット(परीक्षित्)の息子です。
パリークシットはアビマンニュの息子で、アビマンニュはアルジュナの息子ですね。

ジャヤメージャヤは、サルパ・ヤッグニャ(蛇の儀式)の最中にヴァイシャンパーヤナに会い、
自分の祖先が主役である、マハーバーラタ戦争について尋ねます。
ヴァイシャンパーヤナもヴャーサの弟子なので、
ヴャーサから直接聞いたマハーバーラタ戦争について話し出します。


7.マハー・バーラタの、ヴェーダ文化における聖典としての位置づけ


マハーバーラタも、伝統的価値観を知っている先生から聴かなければ、
支離滅裂とした話にしか聞こえないかも知れません。

盲目の王ドゥリタラーシュトラの妃ガンダーリーが、
夫への献身と愛情を示すために自分も目隠しをしたことなど、
夫婦そろって、国を挙げての愚の骨頂です。
だからドゥリヨーダナのような愛情を欠いた息子を100人も世に送り出すことになったのです。
それなのに、マハーバーラタの話なら何でも盲目的に善しと捉え、
ガンダーリーを良き妻として褒め称えている語り部は沢山います。
盲目が盲目を呼ぶ、の良い見本です。


マハーバラタは、スムルティという聖典として、数えられています。
聖典ゆえに、自分で勝手に訳本を読んでも、正しい意味は得られません。
そもそも訳本を書いたその人が、伝統の教えを知らない場合が殆どですし。。。

最近は日本でも、アーユルヴェーダやヨーガ・スートラ、占星術など、
ヴェーダを中心とした、インドの文化を構成している文献を直接勉強する人も増えて来たので、
今度、シャーストラ(インドの文化を構成している文献)について、
何と何があって、どのように位置づけられているのかを説明しますね。




関連記事:

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段

65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])- 世界のあり方を支えている法則 

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ])

33.クリパー(कृपा [kṛpā])- 思いやり、優しさ、深い共感

<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

2015年6月22日月曜日

61.ハリ(हरिः [hariḥ])- 苦しみを取り去る者

हरिः 
[hariḥ]

masculine - 苦しみを取り去る者


ハリの別名を持つ、ヴィシュヌ神

バガヴァーン、イーシュワラなどと並んで、

この宇宙の全体を指す名前のひとつです。

ハリというと、普通はヴィシュヌのことを指します。

こられ全ての名前は、ひとつのブランマンを指しているのです。

ハリの語源


「フル(हृ [hṛ] )」という、カタカナではなんとも表現しにくいですが、

「取り去る、持って行ってしまう」という意味の動詞の原型から派生した言葉です。

そこに、「~する者」という、行動の主体を表す接尾語の「イ(इ [i]」 が来て、

 हृ [hṛ] + इ [i]

接尾語がくると、動詞の原型の [ṛ] の音が [ar] に変化して、

= हर् [har] + इ [i]

になります。それらをくっつけると、

हरि [hari] ハリ

という名詞の原型になりましたね!

名詞の原型は、हरिः, हरी, हरयः ... といった具合に変化します。

日本語で言う、ハリが、ハリに、ハリと、、、といった感じです。

日本語では名詞の形は変わらず、「ガヲノニトハモヘ」 という助詞が付きますが、

サンスクリット語では名詞の形も変わってしまうわけです。

そういう面では、日本語は世界の言語の中で一番シンプルだと思います。

でも、日本語は理論的なディスカッション向きの言語ではありませんね。


何を取り去るのか?


 हृ [hṛ](取り去る) + इ [i](者)
= 取り去る者

が「ハリ」さんですが、何を取り去るのでしょうか?

伝統では、

ハラティ(取り去る者)、パーパーニ(苦しみを)、イティ(というのが)、ハリヒ(「ハリ」です。)
हरति पापानि इति हरिः ।

と教えられています。


苦しみ(パーパ)を取り去る者がハリなのです。


パーパって何?


一度聞いたら忘れられない言葉の響きですね。

ハリが取り去ってくれるパーパとは何なのでしょうか。

簡単に言うと、自分の思うように行かない状況を作る、自分自身の行為の結果です。

つまり、宇宙のあり方に調和しない行動を選択したとき、

例えば他の生き物を苦しめたり、嫌な思いをさせたりするような行動をしたときに発生する

マイナスポイントみたいなものです。


相対的な意味のパーパ


相対的な意味では、パーパとは「ラーガ・ドヴェーシャ」と呼ばれる、

正しい判断を狂わせるパワーのある、執着や嫌悪です。

ダルマの一線を越してしまう理由にはならない、

つまり害の無い、単なる好き嫌いは問題ありません。

しかし、人を傷つけてまでも、嫌な思いをさせてまでも、

これが無いと我慢できない!もしくは、これがあるから我慢できない!

というのがパーパです。

具体的には、苦手な人とか、嫌いな物とか、辛い状況とかです。

そいうものが私達の人生を惨めにしているのです。

そんなパーパを取りさらってくれるのが、我らがバガヴァーン、ハリです。

でも、どうやって?


ハリはヴィシュヌ、つまりバガヴァーンです。

バガヴァーンということは、この宇宙の法則の全てです。

法則の塊なので、そこに自分の行為を投入すると、それなりの結果が返ってきます。

バガヴァーンに「私のパーパを取り去ってください!」と祈ると、

祈りという行為をした訳なので、何らかの結果が出ます。

その結果のことを、サンスクリット語では「プンニャ(पुण्यम् (puṇyam)」 、

英語では「グレース(grace)」と言います。

その結果が、自分の望む方向へ流れを変えることを願って祈るのです。

また、その結果は、今まで自分を苦しめて来た人や物に対して、

「ま、いいんじゃない?別にそんなのどうってことないよ」

 と言える様になる大きさを自分に与えてくれるかもしれません。

祈るということ自体、この世の全ては自分独りで回っているわけではない、

だれが回しているのかというと、究極的にはバガヴァーンである、と認めているわけなので、

そういう大きなヴィジョンを持っている人にとって、パーパの影響は少なくなるのです。


ヴィシュヌの手は4本。
チャックラ(時間という必殺の武器)、蓮の花、
ガダ(これも武器)、そしてほら貝を持っています。
後ろは無限大のパワー(シャクティ)を示す、シェーシャ(蛇)。

絶対的な意味で

 

パーパとか、 苦しみとか、そういったことは相対的なものです。

時間と共に生まれ、時間と共に変化し、0.1秒後なり、10年後なり、

いずれ無くなるものです。そこに絶対的な存在はありません。

そんな相対的なものに、絶対的価値を見出しているのが、

無知の表れなのです。

無知を取り除いてくれるのは、 もちろん知識だけですが、

知識を得るのにも、多大なプンニャ(グレース)が必要です。

最低限、正しい先生に出会い、その先生の言っていることが

100%理解出来ないといけないのですから。

それの邪魔をするパーパも取り除き、

最終的には、自分にはパーパなど無かった!と気付かせてくれるのも、

バガヴァーン・ハリのお仕事なのです。


左がラーマ、右がクリシュナ。
どちらも「ハリ」の名前で知られるヴィシュのアヴァターラです。

マハー・マントラの謎

 

世界中で最も有名なマントラと言っても良い、

カリ・サンターラ・ウパニシャッド(कलिसन्तारोपनिषद्)

の中にある、一度聞いたら忘れられないマントラです。


ハレー ラーマ ハレー ラーマ 
ラーマ ラーマ ハレー ハレー 

ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ 
クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー 

हरे राम हरे राम राम राम हरे हरे ।
hare rāma hare rāma rāma rāma hare hare |
हरे कृष्ण हरे कृष्ण कृष्ण कृष्ण हरे हरे ॥
hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare ||

ちなみに、イスコン(ハレークリシュナ)の人達は、

先にクリシュナのラインを唱えます。クリシュナが一番ですから!

って、ウパニシャッドのマントラ変えちゃってもいいの?

でも、ずっと繰り返して唱えるわけだから、2回目以降はどちらが先か、

もう分からなくなるから、いいか。


しかしこのマントラ、文法的にいうと、文章になっていません。

動詞が無く、呼びかけだけで構成されているからです。

マントラの中にある言葉は、16語。

種類で言えば3語のみ。1.ハレー、2.ラーマ、3.クリシュナ

3語とも、「サンボーダナ」と呼ばれる、お~い!って呼びかる時の形です。

マントラの全てが呼びかけなのです。

お~い!ハリ!(हे हरे!)

お~い!ラーマ!(हे राम!)

お~い!クリシュナ!(हे कृष्ण!)

と呼びかけているだけなので、動詞が無く、

文法的には文章として成り立ちません。

ウパニシャッドの言葉なのに、文章として成り立たないなんて?

しかも、神様の名前を呼びかけの形で連呼しているだけで、

それって神様に失礼では?

誰の名前でも、呼んでおいて、その後何も言わないって失礼ですよね?


左側がクリシュナとラーダー、右側が弟ラクシュマナ、ラーマ、そして妻シーターです。
ラーマの前で膝まづいているのがハヌマーン。

マハー・マントラの意味



インドの鉄道駅には、チャイ・ワーラーや、コーピー・ワーラ達が

絶え間なく往来しています。

チャイ・ワーラーとは、チャイ(インドの甘いミルクティー)を売る人、

コーヒー・ワーラーは、そう、コーヒーを売る人です。

彼らはポットと紙コップ(ちょっと前までは赤土で出来た使い捨てカップ)を

持ち歩きながら、「チャイ・ワ~ラ~」「コーヒー・ワ~ラ~」と自分で言いながら

プラットフォームを歩いています。

チャイが欲しい人は、「チャイ・ワーラー!」 と叫べばよいだけです。

呼びかけに気付いたチャイ・ワーラーは、別に「チャイ下さい」とわざわざ言われなくても、

無言で勝手にチャイをカップに注ぎ、それを客に渡して去って行きます。

誰かの名前を呼ぶときには、相手に何を期待しているかによって、

それに応じた名前で呼ぶのです。

「先生!」 と呼ぶ時は、何かを教えて欲しい時、

「社長!」と呼ぶ時は、何かをおごって欲しい時、

「チャイ・ワーラー!」と呼ぶときは、チャイが欲しい時で、

「コーヒー・ワーラー!」と呼ぶときは、コーヒーが欲しい時です。

呼んだ後に、チャイが欲しいの、とかコーヒー出来る?とか聞かなくてもいいのです。

じゃや、バガヴァーンのことを、

「お~い!ハリ!(へー!ハレー!)」と呼ぶ時は?

そう、ハラティ パーパーニ。パーパを取り払う者。

苦しみを原因ごとどっかに持って行って欲しい時です。

どうやって持って行くの?とかどれくらい?とか、いちいち気にしなくても、

相手はバガヴァーンなのです。

何がどうなのか、一番よく知っているからバガヴァーンなのです。

「へー!ハレー!」と祈ったら、あとは委ねればよいのです。


ハリはヴィシュヌの別名であり、ラーマもクリシュナもヴィシュヌのアヴァターラなので、

2人ともハリ、苦しみを取り去る者です。


アカンダ・サンキールタナ


ちなみに、このマハー・マントラ、インドでは

アカンダ(途切れなく)・サンキールタナ(栄光を唱えること)として、

24時間年中無休で、ハレー ラーマ ハレー ラーマ、、、と

唱え続ける場所を設けているアシュラムが幾つかあります。

私のふるさと、リシケシのスワミ・ダヤーナンダ・アシュラムでも、

毎日朝6時から夕方の6時まで、このマハー・マントラのアカンダがされています。




<< 目次へ戻る <<


<< 前回 60.グル(गुरुः [guruḥ]) <<

ブランマ・ヴィディヤーを教えてくれる先生、という意味の
サンスクリット語の単語です。








>> 次回 62.メーダー(मेधा [medhā]) >>

知力、知性、知力の女神、メーダーについて

2015年5月4日月曜日

56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人

भक्तः 
[bhaktaḥ]


masculine - バクティを持っている人




バクタの語源


「バクタ」とは人を指す言葉です

前回で説明した「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」を持っている人が

「バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])」です。

भक्तिः अस्य अस्ति इति भक्तः । (文法は下を参照のこと)

つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っているひとが「バクタ」です。



バガヴァーンとは


この宇宙の全てのもの、全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、

空間、全ての元素、全ての力、全ての感情、全ての関係、

原因と結果の法則の全て、知っているものと知らないものをあわせた全てを

バガヴァーンと呼びます。

つまり、バガヴァーンとは、この宇宙の全てを指すのですから、

バガヴァーンと離れている人などいないのです。



あなたとバガヴァーンは別の存在では無い


あなたの怒りも、悲しみも、病気も健康も、全てバガヴァーンです。

それなのに、「自分は宇宙から切り離された存在なのだ」と、

誰もが疑いの余地も無く信じています。

怒りという感情は、「自分 VS 自分とは別のもの」といった、

自分と宇宙との隔たりや対抗を強く感じている、というものです。

悲しみも痛みも、人間が嫌う全ての感情はそんなものです。

そんな感情にバガヴァーンを見出すというのは、

「こういう状況に置かれれば、こんな嫌な感情が表れる。

そんな方程式が全人類に通用する。それが普遍の法則なのだ。

だから、こんな嫌な感情を味わっているというのは、

私の心の全ては、宇宙の法則の表れに他ならない」

という理解が、「バガヴァーンとの繋がり」なのです。

これは理解によるもので、想像や思い込みやポジティブシンキングではありません。



一般的な「神」の定義とその落とし穴


ヴェーダーンタを教える時には、「バガヴァーン」という言葉は使っても、

「神」や「God」という言葉は普通は使われません。

なぜなら、聞き手が勘違いするような言葉は避けるべきだからです。


「神」という言葉を、聞き手はどう受け取るでしょうか。

・ いるかいないか判らない者

・ 自分以外の誰か別の存在

・ 信じる対象

・ 非日常、この世の者ではない

・ 自分を審判するジャッジメンタルな存在

このような、既存の宗教が直接・間接的に植えつけた、

「神」という言葉のイメージが先行して、正しい理解を阻害してしまうからです。


ひとつひとつ駄目出しをしてみると、

問:いるかいないか判らない者?

答:この目の前にあるもの全てをバガヴァーンと呼びます。

目の前にあるものなんか無い!と言うのなら、それを言っているあなたが在るでしょう。

有るとか無いとか言う議論は、まずそれを議論する人が在る必要があります。


問:自分以外の誰か別の存在?

答:宇宙の全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、
それらに存在を与えている、ひとつの意識的存在がバガヴァーンの定義なのですから、
あなた以外の別の存在では在り得ません。


問:信じる対象?

答:信じないと存在出来ない神様なら信じるしかありませんが、
ヴェーダで教えられているバガヴァーンは、理解する為の対象です。


問:非日常、この世の者ではない?

答:「今、ここ、私」という意識的な存在がバガヴァーンの本質です。
日常も、非日常も、この世も、あの世も、どの場所も時間も全を指して、バガヴァーンという名前をつけているのです。


問:自分を審判するジャッジメンタルな存在?

答:そんな神様を信じてまで受け入れる価値はありますか?



ゆえに、手垢のついていない理解に繋がる言葉、例えば

「全体」とか「宇宙の法則」とか「宇宙の原因」とか

「イーシュワラ」とか「バガヴァーン」といった言葉を使って、

ヴェーダーンタを教えるのです。


繋がりとは、理解のこと


「バガヴァーンとの繋がり」とは「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」であり、

つまり「バガヴァーンとの繋がり」とは「バガヴァーンの理解」なのです。

理解が深まれば深まるほど、繋がりが深くなる、と言うことが出来ます。

これが分かると、バガヴァッド・ギーターでバガヴァーン・クリシュナが、

バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])を4種類で説明した理由が解りますね。

1.困ったときの神頼みの人(アールタ)

2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)

3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)

4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)


知るためには適切なプラマーナが必要


この小さな自分について、

私を小さな存在にさせているこの世界について、

そして宇宙の全てであるバガヴァーンについて、

混乱した理解を正すのが、ヴェーダーンタの勉強です。

理解ベースであるがゆえに、プラマーナ(知る手段)が必要です。


バガヴァッド・ギーターは、バガヴァーン自身が教えている、

バガヴァーンについての知識です。


ギーター・アーチャーリャ(ギーターの先生)
クリシュナ

バガヴァーンついて、つまり自分を含めたこの宇宙の在り方について、

知れば知るほど、混乱が解ければ解けるほど、人生の意味がはっきりします。

自分に与えられた身体、家庭環境、社会環境の意味がはっきりします。

自分に与えられた、自分の自由意志で操ることの出来る、

手や足や目や口は、何か行動をする為にあります。

私の身体と感覚器官は、バガヴァーンの身体と感覚器官です。

何をするべきか?

それも自分に与えられています。

自分に与えられた家庭環境や社会環境、そして自分の置かれたその瞬間瞬間の状況、

それらが自動的に「今ここで何をすべきか」を決定しています。

それを実行しているとき、宇宙との調和があります。

つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っている人です。

そこには「自分 VS 全宇宙」という、今まで自分を苦しめて来た図式では無く、

もっと大きくて、宇宙の中で心地よく調和している自分がいます。

何をするべきかがはっきり判断出来ない時は、

ダルマに沿った賢い先人を見習えば良いと教えられています。



宇宙と調和した行動を「ダルマ」と呼び、それは人間の心を成長させます。

常に要求している小さな自分から、与える側の大きな自分に成長するのです。

そんな成長した心を育てる為に、宇宙と調和した行動を選ぶ人を、

「カルマ・ヨーギー」と呼びます。

バガヴァーンと繋がっているという理解があるからこそ、

行動基準にダルマやアヒムサーといった価値感や姿勢が反映されるのです。

ゆえに、「カルマ・ヨーギー」は「バクタ」です。

「バクティ・ヨーガ」、「カルマ・ヨーガ」と別々に数えることは出来無いのですよ。


まずバクタがいる


社会で生きていれば、人間関係は避けられません。

人間関係には必ず絶対に問題が付きまといます。これも避けられません。

しかしよく見ると、自分の抱えている全ての問題は、

自分が演じている役割に関わる問題です。

私達は毎日様々な役割を演じています。

息子・娘、父・母、会社員、社会人、恋人、、、

これら全ての役柄を演じているのは誰でしょうか?

一つの役から、もう一つの役に、代わる代わる演じている役者は、

全ての役柄から自由な、独立した人間です。

それが、私です。

その私が、バガヴァーンの理解を深めると、いろんなことが分かってきます。

役割を与えたのは、宇宙の法則であるバガヴァーンです。

そして役割に付いてやってくる台本も、バガヴァーンによって書かれています。

全ての役柄をこなしているのは、バガヴァーンについて理解を始めた、

「バクタ」の私。

役柄を演じる前に、バクタの私がいる。

役柄に関する問題に巻き込まれる前に、バガヴァーンと関わっていれば、

役柄と自分の間にスペースが出来て、巻き込まれずに済む。

自分とバガヴァーンとの関係が深まるにつれ、

自分の役柄と関わっている相手からのジャッジメントを恐れたり、

無理解に傷ついたりしなくなります。

相手からどう勘違いされようと、結局は私とバガヴァーンの関係なのです。

そして、社会の真っ只中で様々な役割を熱心に演じながらも、

宇宙の在り方のなかで、リラックスしていられるのです。




<< 目次に戻る <<


<< 前回 55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])<<

feminine - 深く関わること、献身的に努めること









>> 次回 57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])>>

あなたを幸せ(シャム)にする者(カラ)。

幸せの意味から深く考察します。






文法:
भक्ति + सुँ + अच्     5.2.127 अर्शआदिभ्योऽच् । ~ तदस्यस्त्यस्मिन्निति
प्रातिपदिकसंज्ञा        1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
भक्ति +  अ              2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः । ~ लुक्
भ-संज्ञा                    1.4.18 यचि भम् ।
भक्त्+  अ                6.4.148 यस्येति च । ~ भस्य लोपः
भक्त

2015年4月24日金曜日

55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])- 深く関わること、献身的に努めること

भक्तिः
 [bhaktiḥ]


feminine - 深く関わること、献身的に努めること


ハヌマーンは、ラーマが大好き。
ラーマの為だったら何でもします。

バクティの語源


「バジ-世話をする(भज् सेवायाम् [bhaj sevāyām])」という動詞の原型に、

「~すること」という意味の抽象名詞をつくる接尾語「ティ(ति [ti])」を付加します。

後ろの「ティ」につられて「バジ」の「ジ」がカ行の「グ」になり、

さらに濁音「グ」が清音「ク」になって、「バク」+「ティ」で、

「バクティ、世話をすること、親愛をもって深く関わること」といった意味の単語になります。
スリランカで緊急事態発生!
ラーマの弟、ラクシュマナを助ける為に、ヒマラヤの薬草が必要!
ハヌマーン、ヒマラヤにひとっ飛び!しかし、暗い山の中で薬草を探せない!
えい!そしたら山ごとひとつ、スリランカまで持っていくよ~!

「バクティ」の使われ方


この「バクティ」という文化がある国インドでは、

「グル・バクティ」「ヴィシュヌ・バクティ」といって、

自分の先生や、自分の好きなデーヴァターに対して、

せっせと祈ったりお世話をしたり、と何かにつけ毎日積極的に関わっていくことを指します。

日本にはこのような目に見えるカタチ(フォーム)が無いので、

「バクティ」といってもピンと来ないかもしれません。


バジャン?


インドでは、「バクティ」と聞くと、バジャンで恍惚となって神様の栄光を讃える、、、
チャイタニヤ・マハープラブ
いうイメージが、一般的です。日本ではどうでしょうか。
現代でも変わらない!楽しそう!
「カリユガにはバクティ=神の名前を歌うしかない!」と、
ヴェーダーンタを勉強する人を批判することもあるそうです。

それはそれで、とても美しいことです。

しかし、「神様の栄光を讃える」為には、その栄光を知らなくてはいけません。

それを知らずにただ賞賛するのは、

- アインシュタインがNYで拾ったタクシーの運転手が、

「あなたはとても素晴らしい物理学者ですね!」と褒め讃える -

というたとえ話のようなものです。



そもそも、「神様」って何なのか?

世界で多くの信者を持っている信仰宗教の神様はこんな感じです:

無形だけど男性で、無形だけど、今ここではない別の場所の天国に居て、

あなたに不幸な状況を与え続け、あなたを原罪人呼ばわりし、

死後に助けてあげるから、生きている間に出来るだけ神様に好かれるようにしなさい、

というような、ジャッジメンタルな神様でしょうか?

そんな人、居ないほうがいいですよね。賞賛にも値しません。


まず知ることから


この宇宙の全てのものであり、全ての知識であり、

そして全てのものに存在を与えている、イーシュワラです。

そのイーシュワラの存在を教えるのがヴェーダです。

イーシュワラは、正しく知って理解する為の対象です。信仰の対象ではありません。

1+1=2や、重力の法則などは、理解するためにあります。

先生は、それらを理解しなさいと教えます。それらを信じなさい、とは教えません。

イーシュワラについても同じです。

あなたの目の前にあるもの全て、経験してきたもの全て、

知っていること全てと、知らないこと全てを併せた、全てを指してイーシュワラと呼ぶのです。


「関わる」とは「関わっていない事など無い」と知ること


「私」が、この身体や心で区切られた「個人」であるならば、

「全体」と対比しての「個」なのですから、

「全体」と深く関わっている「私」があります。

どの時間も、どこの場所も、どの人間も対象物も、全ては「全体」に包括されています。

ゆえに私が、いつ、どこで、何をやっていても、

「全体」つまりイーシュワラと関わっていない事など無いのです。

その関わりを認識するのが「バクティ」です。


イーシュワラ、つまり「全体」について知ることにより、

自分の事を、イーシュワラと深く関わっている「私」で認識すること、

それが「バクティ」なのです。


4つのパス(道のり)という混乱


「バクティ」と聞いて思い出すのが、この4つの道のりの話:

外向的で行動的な人は、カルマ(行為)・ヨーガ、
情緒的で信仰心の強い人は、バクティ・ヨーガ、
知的な人は、ニャーナ(知識)・ヨーガ、
どれにも当てはまらない、good for nothingな人は、ハタ・ヨーガ!!

この話を聞いた事のある人は多いと思います。

しかし、このようなことは、ヴェーダの教えの伝統にはありません。

ある有名なアシュラムの、ある有名な先生が、何十年か前に言い始めたものです。


正しいプラマーナを使って、イーシュワラについて知ることにより、

イーシュワラとの関わっている自分を見つけることが「バクティ」なのだと理解出来たら、

4つの道のりは、つじつまが合わないことが分かります。


イーシュワラについて知ることが、「ニャーナ・ヨーガ」であり、

知りたいと思うこと、知る為の姿勢、全てが「バクティ」です。

自分とイーシュワラの理解にもとづく姿勢が「バクティ」であり、

そのバクティの姿勢をもって、自分の義務を果たすことにより

人間として成長する生き方が「カルマ・ヨーガ」です。

ハタ・ヨーガは、「ニャーナ・ヨーガ」や「カルマ・ヨーガ」の生き方に必要な、

身体と心のコンディションを整えるのにとても効果的です。

「バクティ」は、4つのうちの1つには成り得ません。


バガヴァーンの教える「バクティ」


バガヴァーン(=イーシュワラ)とは何かについて、

バガヴァーン自身が教えたのが、バガヴァッド・ギーターです。

その中にこのような詩節があります。

चतुर्विधा भजन्ते मां जनाः सुकृतिनोऽर्जुन ।
आर्तो जिज्ञासुरर्थार्थी ज्ञानी च भरतर्षभ ॥ ७-१६॥
[caturvidhā bhajante māṃ janāḥ sukṛtino'rjuna |
ārto jijñāsurarthārthī jñānī ca bharatarṣabha || 7-16||]

「幸運な人々は、4種類の方法で私(バガヴァーン)に関わっています。
1.困ったときの神頼みの人
2.成功の為に味方につける人
3.私について知りたいと願う人
4.私を(その人自身として)知っている人」

それぞれを見てみましょう

1.困ったときの神頼みの人(アールタ)

普段はバガヴァーンとかいったものに興味は無いけれども、

苦境に陥って、自分の力ではもうどうにもならない時、神頼みしかない!

と思いついて祈りを捧げる人。

その後うまく行っても、バガヴァーンのおかげ!と思うかどうかは別として、

一時的にも「バガヴァーンに祈る」という関係を持てた人です。


2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)

普段から、商売繁盛や家内安全などの為に、バガヴァーンに祈る習慣がある、

しっかり者です。世の中が分かれば分かるほど、成功や失敗には

「予測不可能な要因」が多様に関わっていることが見えてきます。

自分で出来ることはしっかりやる。予測不可能な要因にも、しっかり手を打つ。

その手の打ち方のひとつとして、

予測可能・不可能な要因すべてを司っている全ての存在、バガヴァーンに祈りを捧げる、

という実用的な方法で、日常的にバガヴァーンと関わっている人です。

でも、その人の心は、商売繁盛や家内安全にフォーカスしています。


3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)

単なる信仰の対象から、理解の対象へシフトした人です。

2から3が、革命的に大きなジャンプです。

バガヴァーンって何?誰?知ってなにかいいことあるの?

知るためには、それなりのプラマーナが必要です。

数学を知るためには数学の教科書、天文学を知るには天文学の先生が必要です。

バガヴァーンについて教えるのがヴェーダと、ヴェーダに関する文献です。

文献だけだと、どうとでも取れてしまうので、

何を言わんとしているかの全体像を明瞭に理解し、

さらにそれを、生徒に伝えられる能力のある先生が必要です。



4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)

ここにある宇宙の全てはバガヴァーンです。

バガヴァーンの本質は1つ、ゆえにそれはあなたの本質です。

ハヌマーンとラーマの関係は?
と聞かれたハヌマーンが答えます。
身体というレベルでは主と使いの関係です。
個人というレベルでは友達のような同等の関係です。
そして本質的には、私はラーマ自身です。
伝えられるべき事が伝わり続けている先生と生徒の代々続く流れを「伝統」と呼びます。

正しい伝統を受け継ぐ先生のところに行かなければ、

大学で何十年勉強しても、ヒマラヤの山奥で何十年修行しても、理解出来ません。

「理解は出来たけど、体験しなきゃ」というのは理解出来ていない証拠です。


次回は、同じ動詞の原型から派生した「バクタ」という単語と、

さらに、「バジャ・ゴーヴィンダン」の解説もしますね。



<< 目次へ戻る <<


<< 前回 54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ])<<

一緒にいるだけで、自分を正しい方向へ、成長の方向へ、
明るい知識へと導いてくれる、大切な人々との繋がりを、
サットサンガと言います。









>> 次回 56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])>>

バクティを持っている人がバクタです。

既存の「神様」の定義の問題点にも迫ります。

Medhaみちかの関連サイト

人気の投稿(過去30日間)

【新刊のお知らせ】
ヨガクラスの座学や、チャンティングのクラス、
サンスクリット語入門のクラスの教材として活用してください。
 

 すぐ読み書きできるようになる
サンスクリット語 デーヴァナーガリー文字 
練習帳 & 問題集
 
 わかりやすいサンスクリット語の正しい発音と表記
のメソッドに沿った、全ての文字の練習帳と、 
早く読み書きできるようになるための問題集です。

 
 初心者にはわかりづらい、連続した子音文字について、
よく見かけられるもの、そして応用の利くものを集め、
豊富な例と共に紹介しています。
お祈りの句の書き写しの練習も紹介しています。