शङ्करः
[śaṅkaraḥ]
シャム(吉兆を)カローティ(作る者)イティ(というのが)シャンカラハ。
शं मङ्गलं करोति इति शङ्करः [śaṃ maṅgalaṃ karoti iti śaṅkaraḥ]
「シャム + カラ」という2つのパーツから成っています。
「シャム(शम् [śam])」とは語尾活用しない名詞で、
「吉兆、幸福、喜び、おめでたい、マンガラ(मङ्गल [maṅgala])」という意味です。
「カラ」は英語の「make(作る)」に相当する「कृ [kṛ]」という動詞の原型に、
「~する人」という接尾語を付けて出来た言葉です。
「吉兆(シャム)を作る、もたらす者(カラ)」で、
シャムの「M」の音と、カラの「K」の音を続けて発音しやすくして、
「シャンカラ」となるわけです。
(パーニニ文法は一番下を参照してください。)
「シャム(शम् [śam])」という動詞の原型は、
「シャーンティ(शान्तिः [śāntiḥ])」でも見たように、
「平和、平穏、静寂になる、静止する」という意味です。
ジタバタしていない、何も不満も無い、平和な心にこそ幸せが見つかります。
幸せとは結局、外から与えられた刺激ではなく、
不満の無い状態なのです。
今の自分に不満を持ってソワソワと何かを追い求めていることをしていない時、
人は、私は幸せだ、平和だ。と言うのです。
「シャム(शम् [śam])」という動詞には「破壊する」という意味もありますが、
それは、ザワザワと動いていたものが静止する、という意味からだと思われます。
名詞の「シャム(शम् [śam])」は、「幸福、吉兆」という意味にのみに使われます。
先にも説明したように、「おめでたい、マンガラ(मङ्गल [maṅgala])」
という意味ですが、具体的に言うと、
「シャム(शम् [śam])」とは、皆が欲しがっているものです。
欲しい物の対象は、家族の健康であったり、車や家など、
人それぞれに、無数にあります。
私達が持っているもの、これから持つであろうもの、
全てを与えてくれていて、これからも与え続けられる能力のある人って、誰でしょうか?
政治家でも大金持ちでも無理ですね。
全てを持っている人でないと、全てを与えることは出来ません。
この宇宙の全てであり、カルマの法則に従って、モノや出来事を循環させているのが、
イーシュワラ、またの名を、シヴァです。
あれこれ欲しいものだらけで、追いかけているうちに終わってしまう人生ですが、
私たちは頑張って努力して、ひとつひとつ手に入れて行きます。
自分の力ではどうにもならない事もいっぱいあります。
そんな時に、「そこをどうにか!」と頼みいれるのなら、
そこなへんの小さな権力者にお願いするよりも、
全宇宙を司っている者にお願いするのが賢明です。
ヴェーダの文献にはお願いの方法が教えられています。
完全に頼りに出来る、全てを司っているのが、
デーヴァ(それぞれの法則を司っている神々)の中のデーヴァ、
つまりマハーデーヴァ(最高のデーヴァ)です。
マハーデーヴァもシヴァの別名です。
人々が欲しがっている物の対象は、人それぞれに無数にありますが、
突き詰めてよく観察すると、
全人類の求めているものは、たった一つのものだと分かります。
それは、「何も欲しがっていない自分」です。
何も欲しがっていない、ということは、「満たされている」ということです。
欲しいのは、物でも人でもなく、「満たされた自分」なのです。
欲しくないのは、「欲しがっている自分=満たされていない自分」です。
「満たされていない自分」から、どうやって解放されるべきか?
幸せな家族や、家や車や権力を手に入れても、
それらによって満たされた自分でいられるのは、運次第の一定期間だけです。
この宇宙は全てが動き続け、全てが相対的であり、
自分を取り巻く状況は、一瞬たりとも同じではありません。
来年、明日、次の瞬間さえも、何が起こるとは誰にも予測出来ません。
それが私達の住んでいる宇宙の在り方です。
自分の幸せが、常に変わり続ける状況に頼っている以上、
100%永遠に満たされている自分でいられるのは、
100%無理!です。
本当に100%無理なのでしょうか。
ヴェーダは、可能性を教えてくれます。
「何の制限も無く満たされている、幸福の意味は、あなたな自身のですよ」と。
こんなに制限だらけの不完全な身体と心に閉じ込められていながら、
「はぁ、そうですね」なんて簡単に受け止められません。
ゆえに、ヴェーダの言葉の意味を知る先生にガイドしてもらいながら、
全てをゆっくりと検証し、ヴェーダの教えを正しく理解する必要があるのです。
<< 目次へ戻る <<
<< 前回 56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ]) <<
>> 次回 シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])>>
文法のコーナー
शं करोति इति शङ्करः
शम् + कृ + अच् ३.२.१४ शमि धातोः संज्ञायाम् ।
शम् + कर् + अ ७.३.८४ सार्वधातुकार्धधातुकयोः । ~ गुणः
शंकर ८.३.२३ मोऽनुस्वारः ।
शङ्कर ८.४.५८ अनुस्वारस्य यञि परसवर्णः ।
अच् は、agent (कर्ता)を表すकृत्という種類の接尾語で、必ずशम्という目的語を取ります。
このように、धातुだけでなく、それに関係する名詞(उपपदと呼ばれる)を必要とする
कृत्-प्रत्ययを、उपपद-कृत्と一般的に呼び、派生した言葉は複合語になることから、
उपपद-तत्पुरुष-समासःになります。なぜतत्पुरुषになるかというと、
उत्तरपदが常に主要(प्रधान)な意味だからです。
派生した言葉を説明するための文章を、विग्रहवाक्यम्と呼びます。
शङ्करःという派生語のविग्रहवाक्यम्は、शं करोति です。
[śaṅkaraḥ]
masculine - 吉兆をもたらす者、シヴァの名称のひとつ
シャンカラの語源
シャム(吉兆を)カローティ(作る者)イティ(というのが)シャンカラハ。
शं मङ्गलं करोति इति शङ्करः [śaṃ maṅgalaṃ karoti iti śaṅkaraḥ]
「シャム + カラ」という2つのパーツから成っています。
「シャム(शम् [śam])」とは語尾活用しない名詞で、
「吉兆、幸福、喜び、おめでたい、マンガラ(मङ्गल [maṅgala])」という意味です。
「カラ」は英語の「make(作る)」に相当する「कृ [kṛ]」という動詞の原型に、
「~する人」という接尾語を付けて出来た言葉です。
「吉兆(シャム)を作る、もたらす者(カラ)」で、
シャムの「M」の音と、カラの「K」の音を続けて発音しやすくして、
「シャンカラ」となるわけです。
(パーニニ文法は一番下を参照してください。)
創造には必ず父親と母親が必要です。 ゆえに、ヒンドゥーの創造に関わる神は必ず夫婦になっています。 |
シャム(吉兆)の意味
「シャム(शम् [śam])」という動詞の原型は、
「シャーンティ(शान्तिः [śāntiḥ])」でも見たように、
「平和、平穏、静寂になる、静止する」という意味です。
ジタバタしていない、何も不満も無い、平和な心にこそ幸せが見つかります。
幸せとは結局、外から与えられた刺激ではなく、
不満の無い状態なのです。
今の自分に不満を持ってソワソワと何かを追い求めていることをしていない時、
人は、私は幸せだ、平和だ。と言うのです。
「シャム(शम् [śam])」という動詞には「破壊する」という意味もありますが、
それは、ザワザワと動いていたものが静止する、という意味からだと思われます。
名詞の「シャム(शम् [śam])」は、「幸福、吉兆」という意味にのみに使われます。
先にも説明したように、「おめでたい、マンガラ(मङ्गल [maṅgala])」
という意味ですが、具体的に言うと、
「シャム(शम् [śam])」とは、皆が欲しがっているものです。
欲しい物の対象は、家族の健康であったり、車や家など、
人それぞれに、無数にあります。
誰に頼むか?
私達が持っているもの、これから持つであろうもの、
全てを与えてくれていて、これからも与え続けられる能力のある人って、誰でしょうか?
政治家でも大金持ちでも無理ですね。
全てを持っている人でないと、全てを与えることは出来ません。
この宇宙の全てであり、カルマの法則に従って、モノや出来事を循環させているのが、
イーシュワラ、またの名を、シヴァです。
ナタラージャ、踊るシヴァ。 振り乱された髪の毛が、常に動き続ける宇宙を表しています。 シヴァのダンスそのものが、この宇宙の全ての象徴なのです。 |
あれこれ欲しいものだらけで、追いかけているうちに終わってしまう人生ですが、
私たちは頑張って努力して、ひとつひとつ手に入れて行きます。
自分の力ではどうにもならない事もいっぱいあります。
そんな時に、「そこをどうにか!」と頼みいれるのなら、
そこなへんの小さな権力者にお願いするよりも、
全宇宙を司っている者にお願いするのが賢明です。
ヴェーダの文献にはお願いの方法が教えられています。
完全に頼りに出来る、全てを司っているのが、
デーヴァ(それぞれの法則を司っている神々)の中のデーヴァ、
つまりマハーデーヴァ(最高のデーヴァ)です。
マハーデーヴァもシヴァの別名です。
全人類の求めているたった一つのもの
人々が欲しがっている物の対象は、人それぞれに無数にありますが、
全人類の求めているものは、たった一つのものだと分かります。
それは、「何も欲しがっていない自分」です。
何も欲しがっていない、ということは、「満たされている」ということです。
欲しいのは、物でも人でもなく、「満たされた自分」なのです。
欲しくないのは、「欲しがっている自分=満たされていない自分」です。
「満たされていない自分」から、どうやって解放されるべきか?
それらによって満たされた自分でいられるのは、運次第の一定期間だけです。
この宇宙は全てが動き続け、全てが相対的であり、
自分を取り巻く状況は、一瞬たりとも同じではありません。
来年、明日、次の瞬間さえも、何が起こるとは誰にも予測出来ません。
それが私達の住んでいる宇宙の在り方です。
常に動き続ける宇宙は、踊るシヴァとして表されています。 全てがめまぐるしく変化する中で、私達が安心して幸せを感じられるのは、ほんの一瞬、、 |
自分の幸せが、常に変わり続ける状況に頼っている以上、
100%永遠に満たされている自分でいられるのは、
100%無理!です。
本当に100%無理なのでしょうか。
ヴェーダは、可能性を教えてくれます。
「何の制限も無く満たされている、幸福の意味は、あなたな自身のですよ」と。
こんなに制限だらけの不完全な身体と心に閉じ込められていながら、
「はぁ、そうですね」なんて簡単に受け止められません。
ゆえに、ヴェーダの言葉の意味を知る先生にガイドしてもらいながら、
全てをゆっくりと検証し、ヴェーダの教えを正しく理解する必要があるのです。
吉兆をもたらす者って誰?
一人の人間でも、役割によって様々な名前で呼ばれます。
子供からは「お母さん」と呼ばれます。
お母さんと呼ばれたら、お母さんとして、子供に与えるものを与えます。
同じ人が会社では「社長」と呼ばれます。
呼び名によって、その名前によって期待されている役をこなすのです。
「シャンカラ」は、幸せを作ってくれる人、吉兆をもたらしてくれる人、
という意味です。
イーシュワラを「シャンカラ!」と呼べば、
「幸せにして欲しいんだね」といって、答えてくれるだろう、という訳です。
しかし本当のところは、全知全能のイーシュワラは、
何が欲しいのかをわざわざあなたに言ってもらう必要はありません。
あなた自身が「自分は何を欲しいのか」を知る必要があるのです。
あなたの欲しいものが、車や家、人間関係など、有限なものであるとき、
あなたの祈りが、将来に出てくる結果に関わる、ひとつ要因となって、
カルマの法則であるマハーデーヴァに捧げられます。
あなたの欲しいものが、無限であるとき、つまりヴェーダが教えていたように、
「何の制限も無く満たされている、幸福の意味」に私はなりたい!
のなら、さすがのマハーデーヴァも困ってしまいます。
なぜなら、無限の存在というのなら、今ここにいるあなたを除外してはあり得ないからです。
つまり、何の制限も無く満たされている幸福は、既に今ここにいるあなたなのです。
つまり、何の制限も無く満たされている幸福は、既に今ここにいるあなたなのです。
既に得られているものを与えることは、イーシュワラにも出来ません。
既に得られているのに、それを持っていない!と言う人には、
それを既に持っているのだよ、と理解してもらうしかありません。
その理解に必要な全てのグレースを与えることによって、
あなたを幸せにするのが「シャンカラ」なのです。
次回は、このシャンカラのアヴァターラと言われている、
シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])について書きますね。
<< 目次へ戻る <<
<< 前回 56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ]) <<
>> 次回 シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])>>
文法のコーナー
शं करोति इति शङ्करः
शम् + कृ + अच् ३.२.१४ शमि धातोः संज्ञायाम् ।
शम् + कर् + अ ७.३.८४ सार्वधातुकार्धधातुकयोः । ~ गुणः
शंकर ८.३.२३ मोऽनुस्वारः ।
शङ्कर ८.४.५८ अनुस्वारस्य यञि परसवर्णः ।
अच् は、agent (कर्ता)を表すकृत्という種類の接尾語で、必ずशम्という目的語を取ります。
このように、धातुだけでなく、それに関係する名詞(उपपदと呼ばれる)を必要とする
कृत्-प्रत्ययを、उपपद-कृत्と一般的に呼び、派生した言葉は複合語になることから、
उपपद-तत्पुरुष-समासःになります。なぜतत्पुरुषになるかというと、
उत्तरपदが常に主要(प्रधान)な意味だからです。
派生した言葉を説明するための文章を、विग्रहवाक्यम्と呼びます。
शङ्करःという派生語のविग्रहवाक्यम्は、शं करोति です。
शम् が目的語、कृがधातु、तिがकर्ताを表しています。
तिङ्(動詞の活用接尾語)のひとつであるतिの代わりに、
同じकर्ताを表しているकृत्接尾語अच्を付加することによって、
文章と同じ意味の単語を作るのです。