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2018年9月11日火曜日

90.マハーラタ(महारथः [mahārathaḥ])一万人の弓兵と同時に戦える戦士


バガヴァッド・ギーターの第一章で出てくる言葉です。

ドゥリヨーダナ(दुर्योधनः [duryodhanaḥ])が、
敵対するパーンダヴァ軍を見渡しながら、
 ドローナ・アーチャーリヤ(द्रोणाचार्यः [droṇācāryaḥ])に、
「(この戦場に集結した各国の王や王子達)彼らは皆、マハーラタです」
と紹介しています。(सर्व एव महारथाः ॥1.6॥)

マハーラタとは、戦士の強さを表す言葉です。
さらに、アティラタ、ラタ、アルダラタという言葉もあります。

1.マハーラタ 一万人の弓兵と同時に戦い、武器や戦法に詳しい戦士
2.アティラタ 千~一万人
3.ラタ 千人
4.アルダラタ  千人以下

定義は以下のシュローカから。

एको दशसहस्राणि योधयेद्यस्तु धन्विनाम् ।
शस्त्रशास्त्रप्रवीणश्च महारथ इति स्मृतः ॥
eko daśasahasrāṇi yodhayedyastu dhanvinām |
śastraśāstrapravīṇaśca mahāratha iti smṛtaḥ ||

अमितान् योधयेद्यस्तु सम्प्रोक्तोऽतिरथस्तु सः ।
रथस्त्वेकेन यो योद्धा तन्न्यूनोऽर्धरथः स्मृतः ॥
amitān yodhayedyastu samprokto:'tirathastu saḥ |
rathastvekena yo yoddhā tannyūno'rdharathaḥ smṛtaḥ ||


[पदच्छेदः]
एकः 1/1 दश-सहस्राणि 2/3 योधयेत् III/1 यः 1/1 तु 0 धन्विनाम् 6/3
शस्त्र-शास्त्र-प्रवीणः 1/1 0 महारथः 1/1 इति 0 स्मृतः 1/1
अमितान् 2/3 योधयेत् III/1 यः 1/1 तु 0 सम्प्रोक्तः 1/1 अतिरथः 1/1 तु 0 सः 1/1
रथः 1/1 तु 0 एकेन 3/1 यः 1/1 योद्धा 1/1 तत्-न्यूनः 1/1 अर्धरथः 1/1 स्मृतः 1/1

[अन्वयः]
यः 1/1 तु 0 एकः 1/1 धन्विनाम् 6/3 दश-सहस्राणि 2/3 योधयेत् III/1 शस्त्र-शास्त्र-प्रवीणः 1/1 0 (भवति, सः) महारथः 1/1 इति 0 स्मृतः 1/1
यः 1/1 तु 0 अमितान् 2/3 योधयेत् III/1 सः 1/1 तु 0 अतिरथः 1/1 सम्प्रोक्तः 1/1
यः 1/1 तु 0 एकेन 3/1 (सहस्रेण) योद्धा 1/1 (सः) रथः 1/1
तत्-न्यूनः 1/1 अर्धरथः 1/1 स्मृतः 1/1


独りで(एकः)一万の(दश-सहस्राणि)弓兵達(धन्विनाम्)と戦い(योधयेत्)、武器と戦術に長けている人(शस्त्र-शास्त्र-प्रवीणः)は、マハーラタと呼ばれます。 


クリパとシカンディンの戦い

 

2018年9月5日水曜日

89.ユユッツ(युयुत्सुः [yuyutsuḥ])- 戦おうとしている人


バガヴァッド・ギーターの冒頭のシュローカにある言葉です。

धर्मक्षेत्रे कुरुक्षेत्रे समवेता युयुत्सवः
मामकाः पाण्डवाश्चैव किमकुर्वत सञ्जय ॥ 1.1॥
dharmakṣetre kurukṣetre samavetā yuyutsavaḥ |
māmakāḥ pāṇḍavāścaiva kimakurvata sañjaya || 1.1||

毎朝のクラスにて、一語一語の詳しい伝統に沿った意味の展開を見ているところです。

この「ユユ」 という重なった音は、
「~したいと願望する」という意味を持つ動詞の特徴です。
ムムクシュ(मुमुक्षु [mumukṣu]、自由になりたい人)も同様です。


この言葉は、

戦う + ~したいと願望する + ~する人
युध् [yudh]  + स [sa] + उ [u]

という、みっつの要素から出来ています。
以下で詳しく説明しますね。

ブラジルなど南米で良く知られている「柔術(jiujitsuと発音される)」
は、サンスクリット語の「ユユッツ(yuyutsuḥ)」から来た!
と言う人もいますが、それは違うような気がするなぁ。

ちなみに、上のギーターのシュローカでは複数形で使われています。
u で終わる男性形のプラーティパディカ(名詞の原形)なので、
第1格複数(1/3)だと、u の部分が avaḥ になりますね。


言葉の成り立ち



上にも述べたとおり、ユユッツ(युयुत्सुः [yuyutsuḥ])という言葉は、

युध् [yudh] という、「戦う」という意味の動詞の原形に、

सन् [san] という、「~したいと願望する」という意味の接尾語を付加し、

さらに、उ [u] という、「(その人のあり方として、常に、うまく)~する人」という意味の接尾語を付加して出来た言葉です。


サナンタ・ダートゥ


सन् [san] という接尾語は、動詞の原形の後ろに付加して、
「~したいと願望する」という意味の新しい動詞の原形を造るために使われます。

この接尾語が来ると、動詞の原形の音節は二回繰り返されることになります。
この、音節を二度繰り返すことを、ドヴィットヴァ(द्वित्व [dvitva])と呼びます。
また、繰り返して出来た二つの音節の、最初の音節を、アッビャーサ(अभ्यास [abhyāsa])と呼びます。


この接尾語で終わっている動詞の原形を、サナンタ・ダートゥと呼びます。
サナンタとは、san + anta(終わり)、ということですね。
(8.3.32にてnがもういっこ増えてसन्नन्त となります。)

ダートゥとは、動詞の原形のことです。

サンスクリット語には、動詞の原形には2種類あります。
元素のように、最初からある2千ほどの動詞の原形と、
サナンタ・ダートゥのように、他の言葉から派生して出来た動詞の原形です。

ちなみに、सन् [san] の最後のnは、音の抑揚の為にあります。


言葉を造るプロセス


yudh + sa  
動詞の原形の後ろに、「~したいと願望する」という意味において、
接尾語 sa を付加します。

yudh yudh + sa  
san で終わっている言葉の最初の音節は、二度繰り返されます。

yu yudh + sa  
繰り返された最初の音節の、初めにある子音だけを残して、後ろのdhは消えます。

yu yut + sa
無声音 s の前にある有声音 dh は、無息音・無声音 t に替わります。

これで、yuyutsa という新しい動詞が出来ました。

yuyutsa + u
新しい動詞の原形、今度は「~する人」という意味の u という接尾語を付加します。

yuyuts + u
接尾語の直前の a が消えます。

yuyutsu
新しい名詞の原形の出来上がり。


 スートラを使った造語プロセス


युध् + सन्     3.1.7 धातोः कर्मणः समानकर्तृकादिच्छायां वा । ~ सन् धातोः प्रत्ययः परश्च
सन् is किद्वत् by 1.2.10 हलन्ताच्च । ~ इकः झलः सन्, thus no गुण takes place on युध् by 1.1.5 क्क्ङिति च । ~ गुणवृद्धी न
युध् युध् + स    6.1.9 सन्यङोः । ~ एकाचः द्वे प्रथमस्य धातोः अनभ्यासस्य
यु युध् + स    7.4.60 हलादिः शेषः । ~ अभ्यासस्य
यु युत् + स    8.4.55 खरि च । ~ झलाम् चर्
युयुत्स is qualified to be धातु by 3.1.32 सनाद्यन्ता धातवः।
युयुत्स + उ     3.2.168 सनाशंसभिक्ष उः । ~ तच्छीलतद्धर्मतत्साधुकारिषु धातोः प्रत्ययः परः
युयुत्स् + उ     6.4.48 अतो लोपः । ~ आर्धधातुके
युयुत्सु is qualified to be प्रातिपदिक by 1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्

こういうのを一緒に楽しめる人を日本で増やして行きたいです。。


関連記事:
<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<


2016年7月13日水曜日

78.サンヴァーダ(संवादः [saṃvādaḥ]) - 対話、ダイアローグ

クリシュナが手綱を持ったまま教えているところに注目。


ウパニシャッド 、そしてバガヴァッド・ギーターは、

「サンヴァーダ(対話・ダイアローグ)」によって構成されています。

今回は、この言葉の語源と、さらに、

日常で私たちが気を付けるべき、対話のあり方を、

インドの伝統的な文献で使われている言葉を通して説明しますね。

 

サンヴァーダの語源



サンヴァーダは、「サム」と「ヴァーダ」に分けることができます。

「サム सम् sam」という接頭語には、「良い」「完全な」などの意味があります。

「ヴァーダ वाद vāda」は、「ヴァド वद् vad」=「話す」という意味の動詞の原型から派生しています。

「話す」に、 「~すること」「~されたもの」等の意味を表す接尾語を付加して、

वद् vad (話す)+घञ् ghañ (~すること、~されたもの)

= 話すこと、あるいは、話されたもの (対話・会話・ダイアローグ)

となるわけです。

文法が大好きな人の為に、最後に派生をスートラと共に載せておきますね。



3種類の「対話」


サンスクリット語には、他にもいくつかの「対話」という意味の言葉があります。

サンスクリットの文化では、一般的な対話は、3種類に分けて説明されます。


1.ヴァーダ (वादः vādaḥ)


接頭語の「サム」を付けずに、「ヴァーダ वाद vāda」だけでも、

「対話」という意味になります。

これは、ウパニシャッドの中に見られる「師と弟子との対話」ではなく、

対話する両者は同等です。

そして、ある題材について、より深い理解を得るために、

話し合い、検討しあう、という健康的で建設的な対話を、

「ヴァーダ वाद vāda」と呼びます。

サンスクリット文法のような、インドの伝統的な学問では、

こうやって生徒同士が集まって、議論しながら互いの理解を深め合う「ヴァーダ」を、

知識の修得過程の重要な一部としています。

それを教えるシュローカ(詩節)があります。

आचार्यात्पादमादत्ते पादं शिष्यः स्वमेधया । पादं सब्रह्मचारिभ्यः पादं कालक्रमेण तु ॥
ācāryātpādamādatte pādaṃ śiṣyaḥ svamedhayā | 
pādaṃ sabrahmacāribhyaḥ pādaṃ kālakrameṇa tu || 

生徒は、先生から4分の1を得て、自分の記憶力や努力によって4分の1、
生徒同士のディスカッションによって4分の1、
そして最後の4分の1を、時間の経過によって得るのです。

ちなみに、ヴェーダーンタに関しては、これは完全に通用するものではありません。

(追記: それは何故ですか?という質問があったので、こちらで答えています。)


私はインドでサンスクリット文法を教えていますが、

リシケシで私が他の生徒達と一緒にしてきたように、

自分の生徒達にも、自主的なスタディ・グループを作って助け合うことを推奨しています。

私の、私の先生方の、そしてその先生方たちの「Help(助ける)」の精神によって、

このサンスクリットの文法の知識が何千年も教え継がれてきたことを、

私の生徒にも知ってもらいたいからです。 


サンスクリット文法の勉強によって、客観的な分析力が養われるだけでなく、

勉強する過程でいろんな人と関わることから、様々な形を通して心が磨かれていきます。

これについて書き出すと長くなるので、またの機会に。




対話を健康的・建設的にして、実りのあるものにするために、

意識して避けるべきものとして、以下の2つのタイプの対話が定義されています。


2.ジャルパ (जल्पः jalpaḥ)



互いが既に確たる信念を持っていて、平行線を辿るだけの対話をジャルパと言います。

「正しいのは自分だけ」「間違っているのは相手だけ」と、

両者ともが互いに主張するだけの対話を指します。



3.ヴィタンダー (वितण्डा vitaṇḍā)


相手を否定することのみに専念した言葉のやりとりです。

「あなたの言っていることは全て間違っている!」

なんで?

「あなたが言っているから!」

というタイプの対話です。


このように書くと馬鹿ばかしく見えますが、程度の差こそはあれ、

日常会話でも頻繁に見られるような会話のパターンです。


考えを整え、無知と混乱を無くしていくには、まず、

自分が使う言葉を正していくことから始まります。

ちょうど、校正を入れて、無駄な言葉をどんどんそぎ落としていき、

本当に役に立つ言葉だけを残していくように。

これは「知的」な作業です。 

 「雑念を払う」といった類の、マインドをいじくりまわすテクニックではありません。



毎日の何気ない会話の中で、そして心の中での仮想会話の中で、

ジャルパやヴィタンダーに陥っていないか?

私は今、自分と相手を正しい理解に導くために言葉を使っているのか?

と、応用するために、これらの対話の分類があるのです。


そして、ヴェーダやヴェーダーンタを勉強している人が知っておくべき、

もう一つのタイプの対話は、「ヴァーダ」の前に「サン」を付加した

「サンヴァーダ」です。
ॐ तत्सदिति श्रीमद्भगवद्गीतासूपनिषत्सु ब्रह्मविद्यायां योगशास्त्रे श्रीकृष्णार्जुनसंवादे ...
om̐ tatsaditi śrīmadbhagavadgītāsūpaniṣatsu brahmavidyāyāṃ yogaśāstre śrīkṛṣṇārjunasaṃvāde ...
(ギーターの各章の最後に付加されている文章。
「クリシュナとアルジュナのサンヴァーダに於いて、、、」)

4.サンヴァーダ (संवादः [saṃvādaḥ])



先生と生徒の間での、質問と答えからなる対話を、サンヴァーダと呼びます。


これは、対等なメンバーでのディスカッションとは異なります。

単なるひとつの意見を聞かされているのでは無いのです。

生徒の側から、正しい質問をしなければ始まりません。

ギーターでも、परिप्रश्नेन सेवया とありますね。

ヴェーダーンタの文献の中で見られるサンヴァーダでは、生徒は先生に対して、

「あなたの意見を聞かせてください」

ではなく、

「真実は何ですか」

と問いかけているので、

先生からの答えに対して、「そういうものの見方もあるのね」や、

「わたしは自分なりにこういう風に取りました。(先生の伝えたかったことは知らないけど。)」

という、日本で今流行り?の「人それぞれの受け止め方でいいじゃな~い」という姿勢では、

世渡りは出来ても、ヴェーダーンタの教える真実は正しく理解出来ません。


「サム सम् sam」という接頭語と、「ヴァド वद् vad」という動詞の原型の組み合わせには、

「合意する」という意味もあります。

リグ・ヴェーダの一番最後に、「サンヴァーダ・スークタム」 というマントラがあります。

またの名を「アイカマッティヤ(皆の心がひとつになる)・スークタム」です。

その名の通りの実現を願って、

コレクティブ(皆が集まって全体として)・プレーヤー(祈り)として使われるマントラです。

昔は、議会に集まる人々が毎朝初めに唱えていたそうです。

人が集まって議論すれば必ず、侃侃諤諤+喧喧囂囂=喧々諤々となるのが、

この宇宙の創造の法則となっているがゆえに、

こういうプレーヤーが必要(セットで創造された)ということなのでしょうね。


ちなみに、こちらのグルクラムでも、今年から、毎月初めの木曜日に、

このマントラを108回唱えるホーマをしています。

ヤッグニョーパヴィータを着けている(ヴェーダのマントラを儀式で唱える資格のある) 生徒達が、

祭司と共に、分担して一緒に唱えます。

もちろん他の生徒も一緒に座って、ホーマを見守りながら参加します。

ホーマとは、こんな感じ。

意味はこちらを参考にどうぞ:http://www.speakingtree.in/blog/sa-j-nas-ktam
スワミニは、私の1期前の先輩です。

॥ ऐकमत्यसूक्तम् ॥ 
|| aikamatyasūktam ||
ॐ संसमिद्दुवसे वृषन्नग्ने विश्वान्नर्य आ
oṃ saṃsamidduvase vṛṣannagne viśvānnarya ā
इळस्पदे समिद्ध्यसे स नो वसून्न्या भर ॥
iḷaspade samiddhyase sa no vasūnnyā bhara ||

संगच्छध्वं संवदध्वं सं वो मनांसि जानतां
saṃgacchadhvaṃ saṃvadadhvaṃ saṃ vo manāṃsi jānatāṃ
देवा भागं यथापूर्वे संजानाना उपासते ॥
devā bhāgaṃ yathāpūrve saṃjānānā upāsate ||
समानो मन्त्रस्समितिस्समानी
samāno mantrassamitissamānī
समानं मनः सहचित्तमेषां ॥
samānaṃ manaḥ sahacittameṣāṃ ||
समानं मन्त्रमभिमन्त्रये वः
samānaṃ mantramabhimantraye vaḥ
समानेन वो हविषा जुहोमि ॥
samānena vo haviṣā juhomi ||
समानी व आकूतिस्समानो हृदयानि वः
samānī va ākūtissamāno hṛdayāni vaḥ
समानमस्तु वो मनो यथा वस्सुसहासति ॥
samānamastu vo mano yathā vassusahāsati ||
ॐ शान्तिः शान्तिः शान्तिः ॥
oṃ śāntiḥ śāntiḥ śāntiḥ ||




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こちらも:
8.デーヴァター(देवता [devatā])- 法則を司る神



文法好きな方へ:
वद् + घञ्    3.3.19 अकर्तरि च कारके संज्ञायाम् । ~ भावे घञ्
接尾語घञ्が、動詞の主体以外(動詞そのものの意味、動詞の目的語、など)の意味で付加される。
वद् + अ      1.3.8 लशक्वतद्धिते।, 1.3.3 हलन्त्यम् । ~ इत्, 1.3.9 तस्य लोपः।
接尾語に付けられた印の意味での音が取られる。中身はअk印はघ्, ञ्。
वाद् + अ     7.2.116 अत उपधायाः। ~ वृद्धिः ञ्णिति
接尾語印にञ्があるので(ञित्)、接尾語の前にある基幹にある、後ろから2番目の短いअにवृद्धिが起きる。
वाद
名詞の原型の完成。 घञ् で終わる名詞は男性名詞となって活用します。

2015年5月4日月曜日

56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])- バクティを持っている人

भक्तः 
[bhaktaḥ]


masculine - バクティを持っている人




バクタの語源


「バクタ」とは人を指す言葉です

前回で説明した「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」を持っている人が

「バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])」です。

भक्तिः अस्य अस्ति इति भक्तः । (文法は下を参照のこと)

つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っているひとが「バクタ」です。



バガヴァーンとは


この宇宙の全てのもの、全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、

空間、全ての元素、全ての力、全ての感情、全ての関係、

原因と結果の法則の全て、知っているものと知らないものをあわせた全てを

バガヴァーンと呼びます。

つまり、バガヴァーンとは、この宇宙の全てを指すのですから、

バガヴァーンと離れている人などいないのです。



あなたとバガヴァーンは別の存在では無い


あなたの怒りも、悲しみも、病気も健康も、全てバガヴァーンです。

それなのに、「自分は宇宙から切り離された存在なのだ」と、

誰もが疑いの余地も無く信じています。

怒りという感情は、「自分 VS 自分とは別のもの」といった、

自分と宇宙との隔たりや対抗を強く感じている、というものです。

悲しみも痛みも、人間が嫌う全ての感情はそんなものです。

そんな感情にバガヴァーンを見出すというのは、

「こういう状況に置かれれば、こんな嫌な感情が表れる。

そんな方程式が全人類に通用する。それが普遍の法則なのだ。

だから、こんな嫌な感情を味わっているというのは、

私の心の全ては、宇宙の法則の表れに他ならない」

という理解が、「バガヴァーンとの繋がり」なのです。

これは理解によるもので、想像や思い込みやポジティブシンキングではありません。



一般的な「神」の定義とその落とし穴


ヴェーダーンタを教える時には、「バガヴァーン」という言葉は使っても、

「神」や「God」という言葉は普通は使われません。

なぜなら、聞き手が勘違いするような言葉は避けるべきだからです。


「神」という言葉を、聞き手はどう受け取るでしょうか。

・ いるかいないか判らない者

・ 自分以外の誰か別の存在

・ 信じる対象

・ 非日常、この世の者ではない

・ 自分を審判するジャッジメンタルな存在

このような、既存の宗教が直接・間接的に植えつけた、

「神」という言葉のイメージが先行して、正しい理解を阻害してしまうからです。


ひとつひとつ駄目出しをしてみると、

問:いるかいないか判らない者?

答:この目の前にあるもの全てをバガヴァーンと呼びます。

目の前にあるものなんか無い!と言うのなら、それを言っているあなたが在るでしょう。

有るとか無いとか言う議論は、まずそれを議論する人が在る必要があります。


問:自分以外の誰か別の存在?

答:宇宙の全ての場所、全ての時間、それらの全ての知識、
それらに存在を与えている、ひとつの意識的存在がバガヴァーンの定義なのですから、
あなた以外の別の存在では在り得ません。


問:信じる対象?

答:信じないと存在出来ない神様なら信じるしかありませんが、
ヴェーダで教えられているバガヴァーンは、理解する為の対象です。


問:非日常、この世の者ではない?

答:「今、ここ、私」という意識的な存在がバガヴァーンの本質です。
日常も、非日常も、この世も、あの世も、どの場所も時間も全を指して、バガヴァーンという名前をつけているのです。


問:自分を審判するジャッジメンタルな存在?

答:そんな神様を信じてまで受け入れる価値はありますか?



ゆえに、手垢のついていない理解に繋がる言葉、例えば

「全体」とか「宇宙の法則」とか「宇宙の原因」とか

「イーシュワラ」とか「バガヴァーン」といった言葉を使って、

ヴェーダーンタを教えるのです。


繋がりとは、理解のこと


「バガヴァーンとの繋がり」とは「バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ])」であり、

つまり「バガヴァーンとの繋がり」とは「バガヴァーンの理解」なのです。

理解が深まれば深まるほど、繋がりが深くなる、と言うことが出来ます。

これが分かると、バガヴァッド・ギーターでバガヴァーン・クリシュナが、

バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])を4種類で説明した理由が解りますね。

1.困ったときの神頼みの人(アールタ)

2.成功の為にバガヴァーンを味方につける人(アルタールティー)

3.私(バガヴァーン)について知りたいと願う人(ジッニャース)

4.私(バガヴァーン)をその人自身として知っている人(ニャーニー)


知るためには適切なプラマーナが必要


この小さな自分について、

私を小さな存在にさせているこの世界について、

そして宇宙の全てであるバガヴァーンについて、

混乱した理解を正すのが、ヴェーダーンタの勉強です。

理解ベースであるがゆえに、プラマーナ(知る手段)が必要です。


バガヴァッド・ギーターは、バガヴァーン自身が教えている、

バガヴァーンについての知識です。


ギーター・アーチャーリャ(ギーターの先生)
クリシュナ

バガヴァーンついて、つまり自分を含めたこの宇宙の在り方について、

知れば知るほど、混乱が解ければ解けるほど、人生の意味がはっきりします。

自分に与えられた身体、家庭環境、社会環境の意味がはっきりします。

自分に与えられた、自分の自由意志で操ることの出来る、

手や足や目や口は、何か行動をする為にあります。

私の身体と感覚器官は、バガヴァーンの身体と感覚器官です。

何をするべきか?

それも自分に与えられています。

自分に与えられた家庭環境や社会環境、そして自分の置かれたその瞬間瞬間の状況、

それらが自動的に「今ここで何をすべきか」を決定しています。

それを実行しているとき、宇宙との調和があります。

つまり、バガヴァーンとの繋がりを持っている人です。

そこには「自分 VS 全宇宙」という、今まで自分を苦しめて来た図式では無く、

もっと大きくて、宇宙の中で心地よく調和している自分がいます。

何をするべきかがはっきり判断出来ない時は、

ダルマに沿った賢い先人を見習えば良いと教えられています。



宇宙と調和した行動を「ダルマ」と呼び、それは人間の心を成長させます。

常に要求している小さな自分から、与える側の大きな自分に成長するのです。

そんな成長した心を育てる為に、宇宙と調和した行動を選ぶ人を、

「カルマ・ヨーギー」と呼びます。

バガヴァーンと繋がっているという理解があるからこそ、

行動基準にダルマやアヒムサーといった価値感や姿勢が反映されるのです。

ゆえに、「カルマ・ヨーギー」は「バクタ」です。

「バクティ・ヨーガ」、「カルマ・ヨーガ」と別々に数えることは出来無いのですよ。


まずバクタがいる


社会で生きていれば、人間関係は避けられません。

人間関係には必ず絶対に問題が付きまといます。これも避けられません。

しかしよく見ると、自分の抱えている全ての問題は、

自分が演じている役割に関わる問題です。

私達は毎日様々な役割を演じています。

息子・娘、父・母、会社員、社会人、恋人、、、

これら全ての役柄を演じているのは誰でしょうか?

一つの役から、もう一つの役に、代わる代わる演じている役者は、

全ての役柄から自由な、独立した人間です。

それが、私です。

その私が、バガヴァーンの理解を深めると、いろんなことが分かってきます。

役割を与えたのは、宇宙の法則であるバガヴァーンです。

そして役割に付いてやってくる台本も、バガヴァーンによって書かれています。

全ての役柄をこなしているのは、バガヴァーンについて理解を始めた、

「バクタ」の私。

役柄を演じる前に、バクタの私がいる。

役柄に関する問題に巻き込まれる前に、バガヴァーンと関わっていれば、

役柄と自分の間にスペースが出来て、巻き込まれずに済む。

自分とバガヴァーンとの関係が深まるにつれ、

自分の役柄と関わっている相手からのジャッジメントを恐れたり、

無理解に傷ついたりしなくなります。

相手からどう勘違いされようと、結局は私とバガヴァーンの関係なのです。

そして、社会の真っ只中で様々な役割を熱心に演じながらも、

宇宙の在り方のなかで、リラックスしていられるのです。




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feminine - 深く関わること、献身的に努めること









>> 次回 57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])>>

あなたを幸せ(シャム)にする者(カラ)。

幸せの意味から深く考察します。






文法:
भक्ति + सुँ + अच्     5.2.127 अर्शआदिभ्योऽच् । ~ तदस्यस्त्यस्मिन्निति
प्रातिपदिकसंज्ञा        1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च । ~ प्रातिपदिकम्
भक्ति +  अ              2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः । ~ लुक्
भ-संज्ञा                    1.4.18 यचि भम् ।
भक्त्+  अ                6.4.148 यस्येति च । ~ भस्य लोपः
भक्त

2014年11月16日日曜日

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ])

कृष्णः 
[kṛṣṇaḥ] 

masculine - クリシュナ


インド関係のことを少しでも知っている人なら

誰でも知っているだろう、ということで、

クリシュナ、といきなり固有名詞を訳にいれました。

孔雀の羽をつけて、

笛を持って、

いつも微笑んでいて、

青黒い肌をした、

牛飼いのハンサムボーイ、

という容姿が伝統で私達に与えられています。


このような容姿や形のことを、伝統的には「ウパーサナ・ムールティ」と呼びます。

私達の心は、色、形状、音などの「フォーム」とやりとりするように出来ています。

色や形が無い、抽象的で、形而上のアイディアであっても、

私達の経験や考えの全ては、最終的には、脳波の形です。


なぜ、ウパーサナ・ムールティが伝統の中で教えられているのでしょうか?


なぜ、このような容姿が伝統で教えられているのか?



神様とは?全知全能とは?私達は何処から来た?

何のために生きている?死んだらどうなる?

この世の意味は?


といった人間として基本的な探求をする時に、

その人の心を、こういった容姿や形のものに持って行くと、

水先案内人のように、スムーズに答えに導いてくれますよ。

と伝統が教えているのです。

バガヴァッド・ギーターの冒頭の詩で、

रणनदी पाण्डवैः सोत्तीर्णा, कैवर्तकः केशवः ॥

’このマハーバーラタ戦争という、とても超え難い川を、

パーンダヴァ達は越す事が出来た。

なぜなら、ケーシャヴァ(クリシュナ)が水先案内人をしていたから。”

とあります。


クリシュナを味方につけるということは、

グレース(幸運)という、全ての成功に必要な要素の存在を認めて、

グレースを手に入れるために、ちゃんと手を打っている、と言う事です。


さらに、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナが教えを説きます。

先生を水先案内人として置く、ということは、

先生の教える智慧に、自分の思考とその基準を沿わせる、ということです。

道に迷ったら、出口を知っている人に道を聞くのと同じ事です。




ヴィシュヌ神の化身(アヴァターラ)とは?


クリシュナって誰?と聞くと、すぐに返ってくる答えが、

「ヴィシュヌ神の化身」「ヴィシュヌ・アヴァターラ」

ですが、それを聞いて何を分れと言うのでしょうか?

ヴィシュヌって誰?

神様に決まってるじゃん!

って、当たり前のように言ってるけど、

神様って誰よ?化身って一体何?


「神」の定義を試みてみましょう


宗教を持っている人も、持っていない人も、

「神様が、、」とか、「神様はいるの?」とか、「神様なんかいない!」とかも、

あたかも既に、神様が誰か知っているのが前提になっています。

それって、とっても変ですね。人間って面白いものです。

信仰の厚い人でさえも、「神様って何???」ってちゃんと真面目に考えている人は、

この世に殆どいないように見受けられます。


一般的に定義されている、神様とは、、、

「信仰の対象」― 信じないと存在出来無い神様なんて、頼りになるのでしょうか?

「人知を超えた存在」― 要するに、解からない、知らないってことでしょ?

そんな掴みどころのない神様に、世界の人口の殆どが、

すがりついたり、人生を捧げたりしている事自体が、摩訶不思議に他なりません。


今までの手垢のついた「神」の曖昧な定義は横において、

今から、一からきちんと定義しなおしてみましょう。

まず大前提として、「神」とは、信じる対象ではなく、理解されるべき対象である。

ということです。

全世界の大多数は、「神」と言ったとたんに、知能がOFFになっています。

大事な事は、知能をONにして、ちゃんと正面に向かって、考えるべきです。


「全知全能」というのが、神様によくついてくる形容詞ですね。

全知 = 全部知ってる。

私が今何を考えているとか、どんな状況に置かれているとか、

いちいち報告しないと知らなかったり、報告しても気づいてくれなかったりするのは神様じゃない。

私の考えも、自然環境の在り方も、宇宙の動きも、全て、

脳神経学、生物学、物理学、素粒子物理学、、、などの知識の表れです。

その識のて = 全知 

が、「全知」という言葉の本当の意味です。

これは、信じる必要性の全くない、理解出来ることです。

そして、理解されるべき事です。


全能 = 全ての能力

先ほど見た、「全ての知識」が、私の考えや体や、飼い猫や、お隣さんや、

政治情勢や、環境問題も含む、全ての「宇宙」として現れるために必要な能力のことです。

これも、信じるとか信じないとかいった議論ではないですね。


「全知全能」とは、理解し、認識するべき対象なのです。



全知全能の本当の意味が理解出来たら、

見るもの全ては全知全能の神の表れです。

しかし、そんなことを言われても、

「スケールが大きすぎて、把握できない。。」

というのが、人間の頭脳です。

それゆえに、理解につながるための第一段階として、

人間の頭脳で把握できる、「形」が伝統の中で提唱されているのです。

それが、ヴィシュヌであり、クリシュナであり、シヴァであり、ドゥルガーであり、、、

と人間の好みの数だけ、神様の形も用意されているのです。




「アヴァターラ」とは?



この前の、「ケーシャヴァ」の回で説明しています。

ヴィシュヌのアヴァターラとして良く知られているのがラーマとクリシュナ、

そして、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダもヴィシュヌのアヴァターラとして数えられています。

コーダンダという名の彼しか扱えない大きな弓を持って、
直立しているのが、ラーマの姿勢。
ダルマ=正義を表している。


いっぽう、クリシュナは笛を持って、
体をくねらせているのがいつものポーズ。
アーナンダ=幸せを表している。

ラーマが象徴するダルマ(正義、宇宙の秩序との調和)があって、

初めて、クリシュナの象徴するアーナンダが可能なのです。


ではでは、本題のクリシュナの意味を見てみましょう。


クリシュナの意味



1.永遠の幸福



कृष्णः [kṛṣṇaḥ] は、कृष् [kṛṣ] という動詞の原形から派生しています。

कृष् [kṛṣ] とは、「存在する」という意味です。

ण [ṇa] は、「幸福」を表しています。

伝統で語り継がれているクリシュナの容姿は、常に幸福を表しています。

笛を吹いたり、ダンスをしたり、周りの人達を皆幸せにしたり。。。

しかし、「存在する」を「幸福」とがどう繋がって、クリシュナになるのか?

आकृष् [ākṛṣ] という動詞の原形は「魅了する、心を引き付ける」という意味です。

人は誰でも、心が惹きつけられるものに幸せを見出します。

しかし、どんな幸せも長く続きません。

この宇宙の中にあるもの全ては、常に変わり続けているからです。

変化し続けているものは、それが「在る」といった瞬間に、既に変化しています。

私達の心も体も、物理的、心理的、様々なレベルで、変化し続けています。

そういったものを「絶対的な存在」と呼ぶ事は出来ません。

しかし、「じゃあ、無い」とも言えません。

私はここにいるし、つま先を机の角にぶつければ痛い。

つま先は在るし、机も在る。

姑に何か言われたらムカつく、ってことは、姑はいるし、ムカつく心も在る。

時間とともに生まれては無くなるものばかりだけど、ある、と言える。

その「在る」が、कृष् [kṛṣ] の意味である、「存在する」です。

そして、それが「幸福」のण [ṇa] なのです。

なぜ?

今までの人生の中で、来ては去っていった、沢山の幸せな時間を思い出してください。

私を幸せにしてくれた状況は、常に変化し続けている、宇宙の中の出来事でした。

その中で、常に、一定して在ったもの、、、

それは、「私」でした。

「存在」と「幸せ」のつながりが見えましたか?

そして、それが、私達が常に追いかけ続けているもの、心を惹きつけているものなのです。




2.青黒い色をした者



これが、上で言われている「ウパーサナ・ムールティ」のことです。




<< 前回の言葉 33.クリパー(कृपा [kṛpā])<<

マハーバーラタの戦い、アルジュナの心理、
バガヴァッド・ギーターの背景などを説明します。


   

>> 次回の言葉 35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])>>
          
クリシュナの別名、ケーシャヴァについてサンスクリット語文法を交えて説明します。

2014年11月8日土曜日

33.クリパー(कृपा [kṛpā])- 思いやり、優しさ、深い共感

कृपा
[kṛpā]


feminine - 思いやり、優しさ、深い共感





== कृपा [kṛpā] - クリパー が使われている文献 ==


कृपया परयाविष्टो विषीदन्निदमब्रवीत् ।
kṛpayā parayāviṣṭo viṣīdannidamabravīt |

バガヴァッドギーター1章28節

”とても深い(parayā)人々を思いやる心に(kṛpayā)打ち響かれた(।āviṣṭaḥ)

アルジュナは、とても悲しくなりながら(viṣīdan)言いました。(idamabravīt)”


この詩のバックグラウンド


バガヴァッドギーター1章のこの部分は、

マハーバーラタ戦争が今まさに始まろうとしている時、

主人公であり、正義を通すために戦うパーンダヴァ軍のトップであるアルジュナが、

戦車を止めて戦場を見渡した時、

そこには自分の愛する家族、先生、友人、親戚達が両軍に配置され、

これから愛する者同士で殺し合いをしなければならないという、

想像を絶する境遇に置かれている現実を目の当たりにした時の一節です。


勇敢なアルジュナが、真っ青になって愕然とし、

意識朦朧としている様子をクリシュナに伝えるところです。


アルジュナは「クシャットリア」という、王家に属している身分で、

国を統治したり、民衆のために戦ったり、勧善懲悪の為に尽くすのが、

与えられた役目です。


バガヴァッド・ギーターとは?


ここで、バガヴァッド・ギーターの説明を。。

バガヴァッド・ギーターはマハーバーラタという壮大な叙事詩の中に収められている、

18章、700節からなる小さなセクションです。

なぜこの部分だけクローズアップされて特別に扱われているかというと、

1.ブランマの知識
2.それを知るための成長した心を造る方法=ヨーガ(YOGA,ヨガ)

が凝縮して、バガヴァーン・クリシュナによって直接教えられているからです。


バガヴァッド・ギーターが始まる前の、マハーバーラタの話の中でも、

クリシュナもアルジュナも登場しますが、彼が教え始めるのは、

バガヴァッド・ギーターの2章からです。

2章で初めて、アルジュナが生まれて初めて、幼馴染のクリシュナに教えを請うのです。

マハーバーラタ戦争が今まさに始まろうとしている時、
アルジュナが人間の根本的な問題に気付き、
クリシュナに教えを請います。


教えを請われて初めて、उपदेशः [upadeśaḥ] ティーチング(教え)が始まるのです。

この教えは、頼んでもいない人に、教えるものではないからです。

アルジュナが「教えてください」と言い出すには、バックグランドがあります。

マハーバーラタの以前の部分で、この戦争に至るまでの、

何世代も前からのバックグランドが描かれています。



マハーバーラタ戦争に至るまでのあらすじ



あらすじをまとめると、、、

クルという王国は跡継ぎを必要としていました。

武力に秀でて、品行も正しく、なにより正義とは何かを体現している、

パーンダヴァと呼ばれる王子5人兄弟が、疑いのない候補でした。

才能に長け、皆から愛され、皆を愛しているパーンダヴァ達を、

彼らのいとこであるドゥリヨーダナは、ひどく嫉妬していました。

ドゥリヨーダナと99人の兄弟は、嫉妬に駆られるままに、

非合法的、非道徳的、暴力的な手段で、

パーンダヴァ達の破壊を、事あるごとに試みてきました。

身内の中での争いを好まないパーンダヴァ5人兄弟は、

ドゥリヨーダナ達の悪行に目をつむって甘んじている間、

事態は悪化する一方でした。

身内同士での戦争を避ける為に、数々の侮辱を受け入れ続けたれども、

ドゥリヨーダナの悪行は度を過ぎ、これ以上放置すると、

社会全体が無秩序になるというところまでになり、

パーンダヴァ達が、ドゥリヨーダナ達と戦争をする他ならない状況になりました。

正義という秩序を守るのが、クシャットリアであるパーンダヴァ達の義務だからです。



アルジュナの葛藤



しかし、両軍とも身内ばかりです。

しかも、ドゥリヨーダナは卑怯な手で、パーンダヴァ達に関係の深い人々に、

恩を着せて、自分の軍で戦うように囲っていました。


これが、マハーバーラタで伝えられているバックグランドです。


そして、バガヴァッド・ギーターの1章では、

両軍の中に、親しく愛しく尊敬する人々ばかりを見つけている、

凄まじい痛みと葛藤に襲われたアルジュナの心境が描かれています。


「正義の為と言っても、お世話になった人や身内を殺すなんて事は出来無い。

戦争に勝って王国を手に入れたところで、全ては自分が殺した親戚の血で染まっている。

自分は何も欲しいものは無いのだから、このままリシケシにでも言って、

サドゥーになって、乞食をしながら暮らしたほうがいい。」

と言い出します。



伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

1.アルジュナは家族に執着しているのか?



最近のヴェーダーンタでは、アルジュナの壮絶な心境を、

「家族に対するアタッチメント」

と軽く言ってのけますが、それはとっても危険です。

身内を陥れて殺すことを躊躇しないドゥリヨーダナの方が、

「家族に対するアタッチメント」がなくて、よりスピリチュアル♪といった、

とんでもない論議に展開してしまいます。

スビリチュアル=家族や社会生活を大切にしない

というとんでもない勘違いが罷り通っています。これは絶対に間違っています。


ヴェーダーンタは、伝統的に、本当にちゃんとした教え方がされなければ、

とても、とても危険なので、気をつけましょう。


アルジュナがこの状況で苦しんでいるのは、

彼の精神的豊かさの表れの他なりません。

それが、バガヴァッド・ギーターの詩節のながで、

「कृपा [kṛpā] - クリパー」という言葉で表されているのです。

身内を殺したくないと思うのは、人間として当然のことです。

究極的な立場に追い詰められても、人間性を失わないでいられるのは、

彼が「कृपा [kṛpā] - クリパー」を持っている証拠です。

だからこそ、この状況で、人間として最も基本的な疑問にぶつかるのです。

「自分は何の為に生きているのか?」

「何が人間にとって真実の意味で良いことのなのか?」

そして、それにクリシュナが答えるのです。



伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

2.クリシュナは、戦争をけしかけているのか?



これもよくある解釈です。

「インド国民に、パキスタンに対しての戦闘意識を植え付けるために、

ギーターが教えられている」

といった、いかにもキリスト教宣教師が吹聴したような、

トンチンカンな噂が横行していると聞きます。


人間にとって最も大事で根本的な価値は、

「अहिंसा [ahiṃsā] アヒムサー(非暴力)」である、

とう教えが、バガヴァッド・ギーターの中で何回も出てきます。

ギーターのメッセージは、戦うことそのものではありません。


バガヴァッド・ギーターのメッセージは、

「人は誰でも、その人に与えられた義務を遂行することによって、

人間として成長出来る。家庭や社会の役割を果たす事が、ヨーガなのだ」

ということです。

クリシュナは、教えを請われる前の冒頭に、

「まぁ、つべこべ言わずに、戦いな」と助言します。

この部分は、バガヴァッド・ギーターの教えの部分ではありません。

まだバックグラウンドの部分です。

そのあと、アルジュナに、人間の基本的な問題への答えを教えるように請われてからは、

けしかけたり、助言したりは、一切しません。

クリシュナは、教え出すのです。


全ての人間のみならず、全ての生き物が探している、本当のもの。

本人達は気付いていないけど、全人類が、それとは知らずに、

追いかけ続けている、その本当のもの。

私達は、本当は何が欲しくて、毎日汗をかいたり、苦労したり、

泣いたり、笑ったりしながら、一生掛けて駆けずり回っているのか?


その答えをクリシュナは教えます。

そして、その答えを理解するには、理解する為の「心」が必要です。

「心」が、理解出来るくらいに成長していなければ、

答えを聞かされても、馬に念仏です。


その成長した「心」を育てる為にはどうしたらいいのか?

その方法が「ヨーガ」として、バガヴァッド・ギーターの中で教えられています。

心を成長させるものは、全てヨーガです。

結婚生活も、子育ても、社会貢献も、その人の理解と心がけで、

全て大事なヨーガになるのです。


どんな役割も、それぞれの人に、運命と言う名のもとに与えられています。

役割には、自然と義務が付随します。

これが宇宙の在り方なのです。

役割に与えられた義務を果たす事は、宇宙の秩序と調和する事です。

その人の行動や在り方の全てが、宇宙と調和するようになったとき、

「私が宇宙だ」と言えるぐらい、心の大きな人間に成長しているのです。


それらを何度も繰り返してしっかり教えた後、18章でクリシュナはアルジュナに言います。

「教えるべきことは教えたから、あとは、自分のしたいようにしなさい。」




伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

3.義務とはいえ、家族内の戦争で殺し合いをするのは、極端すぎ?



もちろんそうです。

与えられた役割の義務を果たす事がヨーガなら、

役割が母親で、義務がお弁当を作ること、でも良いのです。

しかし、あまり地味な設定では、

全世界、全時代の人々の心を揺さぶる超大作ドラマになりえません。

そして、「お弁当作るぐらいなら出来るけど、朝5時起きはいや」とかいった、

否定できる可能性を残さない為に、

人間として、一番究極に辛い行為が取り上げられているのです。

これを、「प्रथम-मल्ल-न्यायः [prathama-malla-nyāyaḥ](プラタマ・マッラ・ニャーヤ)」と言います。

直訳すると、「レスリング・チャンピオンの例え」です。

今年のチャンピオンを決めるには、今年のトーナメントで勝ち残ったチャンピオンと、

去年のチャンピオンを戦わせればOK。という例えです。


上にも述べたように、ギーターの教えるヨーガの、

根本的価値を支えているベースは「アヒムサー(非暴力)」です。

この言葉がギーターの中に何度も出てきます。

バガヴァッド・ギーターのメッセージは、戦う事そのものにはありません。


全ての人の置かれた立場に対応出来るように、最も極端な義務を使って教えているのです。


伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性



4.伝統的教えを知らなければ、大学教授であってもトンチンカンな解釈しか出来無い。




ヴェーダーンタ、ウパニシャッド、バガヴァッドギーター、そしてヴェーダ全般、

その他の文献の理解には、伝統的教授法というのがあります。

はっきり申し上げますが、インドでも、日本でも、

大学などの機関には、伝統的教授法はありません。

あるとすれば、間違った解釈の教授法が伝統になっているだけです。

いくらサンスクリットの文法に精通していたとしても、

これらの文献は文面をたどるだけでは理解出来るようには出来ていません。

私はインドで、ヴェーダーンタを学ぶことを志す世界中から来た生徒達に、

伝統的方法で(パーニニ)サンスクリットを教えていますが、

「代々続くヴェーダーンタの先生達の教えを受け取るために、

サンスクリットと勉強しているのですよ。

自分で勝手に読み進めるために勉強しているのではありません。」

と口をすっぱくして教えています。

先生の助け無しに文法の知識だけで文献を読んでみると、

トンチンカンな意味しか出てこない、そんな仕掛けがいっぱいあるのを、

実際に例を挙げて、生徒達に見せています。

先生について勉強しない人には、

ヴェーダはその本当の意味を見せないように出来ているのです。


大学教授達がウパニシャッドやギーターに関して研究して書いた文献、

さらにそれを元にして書かれたであろう文献が世間に出回っている文献の大多数を占めますが、

トンチンカンな解釈ばかりです。

こうして多くの誠実な生徒達が、間違った解釈に連れて行かれているのです。



バガヴァッド・ギーターの正しい理解の助けになれば幸いです。



「कृपा [kṛpā] - クリパー」の意味と、その育て方



ちなみに、「कृपा [kṛpā] - クリパー」という言葉の意味である、

「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」というものは、

自然に出てくるもの、と思われがちです。

誰にだって、このような心のあり方を持っています。

スピリチュアリティー、もしくはもっと簡単に、人間として成長すること、

実用的に言うと、メンタルが強く、大きい人になる、というのは全て、

これらの心の在り方を、意識して培い、育てていく事です。


「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」の深い人間へと成長する方法は?

答えは簡単。

今の自分があたかも、ものすごく深い「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」を

持っているかのように振舞う事です。

例え内面がギクシャクしていたとしても、すぐにそれが自分の自然な振る舞いとなります。


逆に、意識して育てない限り、人間と言うものは、なかなか勝手には育ちません。

この事実が、自分に対しても、他人に対してもしっかり当てはまる事も、

よく覚えておかなければならない事です。






<< 前回の言葉 32. कूपः [kūpaḥ]  - クーパ <<

ヴィシュヌ・アヴァターラのラーマ王、そして
初級サンスクリット語学習法の歴史にも触れます。






 
次の言葉はクリシュナ


 >> 次回の言葉 34.कृष्णः [kṛṣṇaḥ] - クリシュナ >>

 クリシュナの名前の意味を説明します。

2014年10月24日金曜日

35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])- クリシュナ

केशवः 
[keśavaḥ] 


masculine - クリシュナ




ヴィシュヌ・アヴァターラとしてのクリシュナ


複数の意味を持っている言葉ですが、

一般的には、ヴィシュヌのアヴァターラ(日本語では「アバター」ですね。)、

特に「クリシュナ」を指す時に用いられる言葉です。


ちなみに、アヴァターラ(avatāra)、それが変化した、アバター(avtar)は、

直訳すると、「上から降りてくる」という意味です。

バガヴァッドギーターの4章で、クリシュナが自分自身をアヴァターラとして紹介しています。

普通の人は、その人のカルマ(過去の行い)の結果として、

自分の行いの結果を味わうためにぴったりの体を、次から次へと授かり続け、

生きている間にまた更なるカルマをして、永遠に生と死を繰り返すと言われています。

日本語で言う、輪廻転生ってやつですね。


普通の個人が、自分自身の行為の結果として、次の体を持たされるのに対して、

多くの人々の「祈り」という行為の結果として、体を持って生まれてくるのが

アヴァターラです。

しかし、何をしに、体を持って降りて来たのでしょうか?

परित्राणाय साधूनां विनाशाय च दुष्कृताम् ।
धर्मसंस्थापनार्थाय सम्भवामि युगे युगे ॥ ४-८॥
paritrāṇāya sādhūnāṃ vināśāya ca duṣkṛtām |
dharmasaṃsthāpanārthāya sambhavāmi yuge yuge || 4-8||

ギーターの中でも、一番有名なシュローカのひとつです。


このシュローカの中で言われている、

アヴァターラが体を持って生まれてくる理由は3つ:

1.善い人を守る為(paritrāṇāya sādhūnāṃ )

2.悪い行いをする人を無くす為(vināśāya ca duṣkṛtām)

3.ダルマ(簡単に訳すと「正義」)を確立する為(dharmasaṃsthāpanārthāya)


でも、アヴァターラがいなくたって、人間として生まれたら、

何が正義で、何が悪い事か、誰でもちゃんと分かっています。

A.自分が「傷つきたくない」ということは、生き物なら誰でも知っています。

人間の場合、それ以上に、

B.他の人も自分と同じように「傷つきたくない」と思っていることも知っています。

わざわざ神様に、十戒とかを石版に刻んでいただかなくても、

人間として生まれたら、Bの知識が必ず心の中にプログラムされているのです。

ヒトラーだって、「こんなこと自分がされたら嫌だな。」

「そんな嫌な気持ちを、やられている人達は味わっているんだな。」

「それは良くないことだな。」ということぐらい分かっていたはずです。

それなのに、なぜ、人は傷つけあうのか?

答えは簡単。その人の心が小さいからです。


何十兆円というお金を持ってしても、

総理大臣とか大統領という権力を持ってしても、

正しい心がけが無ければ、その人の心は大きくなりません。

小さい心は、いつも欲しがって、欲求が満たされなければ憎んで、

人を傷つける事も平気になってしまうのです。


世の中を見回したら、

1.善い人は損をしている

2.悪い行いをする人が権力を持っている

3.何が善い事で、何が悪い事なのかについて、すなわちダルマについて、混乱が起きている

こんな状態は世の常です。

「アヴァターラは何処行ったんじゃーい?」と聞きたくなりますね。

答えは、その聞いている人の心の中にあるのです。


アヴァターラの話を聞くだけで、

自分の中にあったけど、混乱でよく分からなくなっていたダルマを、

再確立することが出来ます。

損をしてでも、自分の知識の範囲で最善の行動を選ぶことが出来る能力も、

バガヴァーンの表れです。

悪い行いも全てはバガヴァーンですが、それが悪いと分かること、

そしてそれを避けたり抑圧出来たりする能力は、バガヴァーンの「Grace」です。


「自分がやった」「アイツがやった」という近眼のヴィジョンから、

「全て」を認識できるヴィジョンを持つことが、いわゆる人間の成長です。

バガヴァーンは、アヴァターラのみならず、いろんな姿や形や言葉を通して、

私達が大きなヴィジョンを持つ為の成長を促してくれているのです。


話をアヴァターラから、ケーシャヴァに戻しましょう。



विष्णुसहस्रनामस्तोत्र(ヴィシュヌの1000の名前)について書かれている

コメンタリー(भाष्यम्)に沿って解釈すると、

ケーシャヴァ(keśavaḥ)の意味には、5つあります。


1.美しい髪を持っている者

2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿

3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者

4.光の筋として現れる者

5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)

長くなりそうですが、ひとつひとつ見て行きましょう。



1.美しい髪を持っている者


「髪」はサンスクリット語で「ケーシャ(केशः[keśaḥ])」です。

それを持つ者、という意味で、「ヴァ」という接尾語が付いて、

ケーシャ + ヴァ = ケーシャヴァ になります。

こんな感じでいかがでしょう

体や持ち物の特徴が名前になっている場合、その姿を思い出して、

その姿形を通して、全体=バガヴァーンを認識して欲しい、という意味があります。

サイババ師も、素敵な髪をお持ちでしたね。

2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿



「ka」が、創造をの象徴である、ブランマージー

「a」は、持続の象徴である、ヴィシュヌ

「īśa」は破壊の象徴である、シヴァ

ここからは、サンスクリット語の文法を勉強されている方には、

もってこいの、サンディの練習問題です。

「ka」+ 「a」+ 「īśa」は?

まず、「ka」+ 「a」=「kā」 ディールガ・サンディってやつですね。

「ア」と「ア」で「アー」です。サンスクリット語を勉強していなくても、

人間なら誰にでも分かる連音変化です。

そして、「kā」+ 「īśa」=「keśa」 グナ・サンディってやつです。

「ア/アー」と「イ/イー」をあわせると、グナになる、

すなわちここでは「エー」の音になります。

結局、3つ併せて「ケーシャ(keśa)」

これこそが「三位一体」と言われるにふさわしい姿です。

なぜかというと、創造も、維持も、破壊も、視点によるもので、

これらは、ひとつに他ならないからです。

壷は、作られたり、維持されたり、壊れたりしますが、

あるのは土だけです。

壷が出来たとか、そのせいで粘土がなくなちゃったとか、

壷が壊れたとか、そのせいで土が生まれたとか、

人間の体も同じことです。

創造も、維持も、破壊も、ものの見方次第なのです。

どれが創造で、どれが破壊と、絶対的に言えるものは無い。

だから、「三位一体」なのです。

この「三位一体」は、とても理論的ですね。


神・息子(キリスト)・ホーリーゴーストの三位一体って、

何なのかを知りたくて、昔勉強してみましたが、

理論的な考えを培うのにも、自分の幸せにも、なにも貢献してもらえませんでした。


ちなみに、ブランマ・ヴィシュヌ・シヴァを合わせた姿を、

サンスクリット語では「トリムールティ」と言います。
トリニティ = トリムールティ


3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者



「ヴィシュヌ・プラーナ」と呼ばれる文献の中で、

クリシュナを殺すために馬に化けて、ブリンダーヴァンにやって来た、

ケーシーという名の怪物を、クリシュナが殺した時に、

ケーシーを殺した者(ヴァダ)ということで、ケーシャヴァという名前を付けられた。。。

という話があります。




4.光の筋として現れる者



太陽や月、火や電気、全ての光の筋は、バガヴァーンの髪(ケーシャ)。

と、ポエティックにイメージして、全てとは何か、バガヴァーンとは何かの理解を

深めるのに役立てることも出来ます。

もうひとつ、光の筋とは、ダクシナームールティストートラムで教えられている、

「穴の開いた壷の中に光が入っていて、そこから光線が飛び出している」

その光の筋のことでもあります。

それはつまり、私達の意識を例えているのです。

目鼻口などの開き口を通して、意識の光の筋が飛び出して、

その光線に当たった対象物が、主体によって意識的に認識される。。。

その光こそが、私達が毎日使っている言葉「私」の本質の意味なんですね。

それがバガヴァーンの本質に他ならない、と教えるのがヴェーダーンタです。

これを理解するためにはまず、バガヴァーン=全てって何?

を理解する必要があります。

ヴェーダは教えています。

幼少期も、結婚生活も、親になることも、社会で生きることも、

人生の中で与えられているステージの全ては、

バガヴァーンを理解するために設計されていると。

与えられた責任をこなすこと、社会の中で貢献者になること、

それが人間を成長させる手段であること、

成長とはすなわち、「全て」を把握できる大きな心を持つこと、

それがヴェーダの教える、人間のあるべき生活なのです。



5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)



シャクティとは、能力のことです。

ブランマージーの、創造するため能力、資源、それに関わる知識全て。

ヴィシュヌが、この宇宙全体を維持するために必要な、資源、能力、知識の全て。

シヴァが、この宇宙全てのものを破壊し続けられる能力と知識全て。

それらの3つの能力全てを併せた、すべての全てが、シャクティと呼ばれる能力です。

それを表す為に、「ケーシャヴァ」という言葉が使われる場合もあります。





<< 前回の言葉 34. कृष्णः [kṛṣṇaḥ] - クリシュナ <<
   
クリシュナという言葉の意味を、サンスクリット語の文法と、
ヴェーダーンタの視点から説明します。








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「唯一であること」とはどういうことか?

2014年8月29日金曜日

31.クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ])- 不動の、不変の

कूटस्थ
 [kūṭastha]

adjective - 不動の、不変の




クータスタの語源


文法的に説明すると:

कूट [kūṭa] (クータ)という名詞に、

स्था [sthā] (スター)という動詞の原型が組み合わさった、

複合語(サマーサ)が、「クータスタ(कूटस्थ [kūṭastha])」です。


स्था [sthā] (スター)は、to stay, to stand という意味の動詞の原形です。

英語の音と良く似ていますね。

ラテン語などのヨーロッパの言語と、サンスクリット語を比べると、

類似している言葉が沢山あります。

ヨーロッパの西端から、朝鮮半島そして日本までは、殆ど陸続きなので、

交易商の流通と共に、文化や哲学、様々な学問、史記(噂話?)が

東西に往来しているのも当然です。


クータスタの2つの意味


この「クータスタ(कूटस्थ [kūṭastha])」という複合語には、

2種類の展開が、バガヴァッド・ギーターのシャンカラーチャーリアの

コメンタリー(バーシャ)の中でされています。(12章3節)



1つ目の意味:マーヤーの中の存在


1.कूटे तिष्ठति । kūṭe tiṣṭhati |

कूट [kūṭa]  = 騙すもの、マーヤー、この世の現象の原因。

その中に、तिष्ठति [tiṣṭhati]  存在しているもの。

どのようにして存在しているのか?間借りしている居候のように存在しているのか?

いいえ。そのकूट [kūṭa] と呼ばれる、この世の現象の原因に、

存在を与えているもの、司っているもの、それが「कूटस्थः [kūṭasthaḥ] (クータスタ)」です。

時間的にも空間的にも果てしない、この変わり続ける宇宙の中で、

どれだけ見回しても、何一つ「これ」と名指す事の出来る、絶対的な存在はありません。

なぜなら、一瞬も留まる事無く変化し続けているからです。

この変化し続ける現象の原因が、マーヤー、あるいはクータです。

それに存在を与えているもの。

宇宙は「在る」と言えます。目の前のコンピューターも「在る」。

私もここに「在る」。

ブッディスト(仏教学者、禅学者)のように、「無い」とは言わせませんよ。

だって、「無い」と言っているあなたが「在る」でしょう。

「在るかな、無いかな、うーん、分からない」と言う人も、まずその人が存在して、

初めて、在るとか無いとか分からないとか言えるのです。

どこに在るのか聞かれたら、今ここに居る私、この意識として存在するのです。

存在を疑うにしても、この意識的存在を無しにしては、疑えないでしょう。

サット(存在)=(イコール)チット(意識)なのです。

これ以上簡単なことはありません。

今そこに居る、私、という意識的存在。これを見つけるのに瞑想も何も要りません。

そしてこの、今ここにいる私、という意識的存在は、絶対的存在で、

全ての宇宙と言う、移り変わる相対的存在に、存在を与えているのです。

何を突然スケールのでかすぎる事を!と思うかもしれませんが、

よくよく考えると、これほどはっきりしていて、筋の通っている事実はありません。

茂木健一郎さんという科学者が、人生をかけて突き詰めようとしている

「クオリア」という物体(?)も、それを探求している人自身の本質なのです。

自分のおへそから出てくるいい匂いを探し続けて、

草原を四方八方に走り回り、疲れ果てて死に行く鹿。

という例えとして、インド哲学によく出てくるやつです。

是非、彼にも知っていただきたい。

話は戻って、この宇宙が「在る」と認めるなら、

その原因のマーヤーも「在る」と認めざるを得ない。

でも、それらは変わり行くものだから、それらだけでは存在してると言えない。

では、それらの存在はどこから借りているのか?

それが、クータ(マーヤー)の中で、存在を与えるものとして居る(スタ)もの。

つまり、「クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ] )」であり、

それが、ブランマンであり、それは、私(アートマン)として理解されるのです。



2つ目の意味:山のように不動の存在



では、「クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ] )」という言葉の2つ目の解釈。

2.कूटवत् तिष्ठति । kūṭavat tiṣṭhati |

ここでの「クータ」は、山のように大きく積み重なって動かないもの、

或いは、鉄を打つ時の、台のことも「クータ」と言います。

どちらにしても、「動かないもの」という意味です。

熱い鉄を打って、いろんな形のものが出来上がります。

そのプロセスの中で、形の変化する為の土台を与えているのが「クータ」なのです。

動かないもの、変わらないもの、という意味ですね。


カイラーサ山
= कूटस्थः [kūṭasthaḥ] - クータスタ の出て来る文献 =

バガヴァッド・ギーター12章3節

ये त्वक्षरमनिर्देशमव्यक्तं पर्युपासते ।
ye tvakṣaramanirdeśamavyaktaṃ paryupāsate |

सर्वत्रगमचिन्त्यं च कूटस्थमचलं ध्रुवम् ॥१२.३॥
sarvatragamacintyaṃ ca kūṭasthamacalaṃ dhruvam ||12.3||



永遠(ニッティヤ)の3つの意味



もうちょっと話をしますね。

永遠(ニッティヤ)という言葉には、3種類の使われ方があります。


1.アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिक-नित्यम् [āpekṣika-nityam])


相対的に長い時間。例えば1兆年とか。

「天国に行ったら、そこで楽しく快適に、永遠の時間を過ごせます。」

という時に使う「永遠」です。

気の遠くなるほど長い時間ですが、やっぱり時間の範囲内。

時間が経てば、1週間のハワイ旅行から会社へ帰ってくるのと同じように、

また人間の体の中に生まれてきて、せっせと徳と不徳を積む為に、一生汗をかくのです。


2.プラヴァーハ・ニッティヤ प्रवाह-नित्यम् [pravāha-nityam]


これは英語でperennial と呼ばれる、永遠です。

つまり、絶え間なく流れ続ける、変化し続ける、その時間の流れです。

例えるなら、川の流れのようなものです。枯れる事無く流れ続けるけど、

流れている水の形は、一瞬たりとて、同じではありません。変化をし続けています。

この宇宙の創造も、ビッグ・バンがあって、創造が続いて、

そしてビッグ・クランチとして現象が無くなった状態になり、

― つまり可能性の形、例えば種や卵のように ― 

また次のビッグ・バンの原因の形となるのです。

そうして、現れては、また見えなくなって、それがまた現れて、、、

と繰り返し続ける、永遠の時間を、プラヴァーハ・ニッティヤと言います。


3.クータスタ・ニッティヤ कूटस्थ-नित्यम् [kūṭastha-nityam]


絶対的な永遠のこと。

つまり、時間の範囲でない事。

時間の範囲でないものはどこに存在している?

時間を対象化している、主体のことです。

それってどこにあるの?

あなたです。

20年前とか、5年前とか、昨日とか、明日とか、

そんな時間と、時間にある事象を対象化し続けている主体。

それ自体は全く変わらない主体。

それが、永遠=timeless=時間の範囲外 = あなたなのです。

違う!とは言えないでしょう?




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