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2017年2月13日月曜日

82.アーナンダ(आनन्दः [ānandaḥ]) 幸福、あらゆる制限から自由であること

アーナンダの語源


「アー」と「ナンダ」から成り立っています。

「ナンダ(नन्दः [nandaḥ])」は、「幸福」という意味。

नन्द् (nand) という、「幸せである」という動詞の原型から造られています。

「アー(आङ् [āṅ])」は、「完全に」という意味で、「幸福」を修飾しています。


「ナンダ」は、幸せ。

「アーナンダ」は、完全な幸せ。

幸せって何?

さらに、完全な幸せって?そんなものあるの?

どこまで幸せになっても、もっと凄い人はいっぱいいるし、

どうせどれもこれも束の間の出来事。

完全な幸せは、何処に行けばあるのでしょうか?

 

アーナンダの意味



アーナンダとは、英語ではBlissとかと訳されていますが、

Blissは、分かりづらくさせている言葉の選択ですね。

普通に、Happinessで良いのです。

私達が人生の中で経験してきた、「幸せ」「幸福感」が「アーナンダ」ですし、

それらの経験的な幸福感は、「アーナンダ」の本質を知る、大切な窓となります。



幸せとはナンダ?


あなたにとって幸せとは何ですか?

特別な人と一緒に居る時、嬉しい言葉を頂いた時、尊敬している人から受け入れられた時、

美味しいものを食べている時、、、、

人それぞれ。

しかも、~な時、というように、時間や状況に制約されたものばかりですね。

人にとっての幸せの対象が、自分にとっての幸せの対象であるとは限りません。

だから、皆それぞれに、自分の家族や、自分の住んでいる地域や生まれ育った文化に囲まれて、幸せでいられるのです。
 
自分の中でも、時や場所によって、幸せの意味は変わりますね。

20年前に熱狂していた人物や場所・物が、今となっては、何がそんなに嬉しかったのか?

と思うことはありますね。

いろいろ考察してみて分かったことは、

幸せの意味はひとそれぞれ。

数え切れない対象物の種類と、それぞれ個人の数え切れない状況によって、

相対的にコロコロ変わるものです。


幸せの本当の意味



しかし、そこに変わらないものがひとつだけあります。

どの人においても、どの時代や民族、宗教、性別、立場においても、

共通する、たったひとつの「幸せの意味」があります。

それは、幸せを感じているその人そのものです。

幸せとは、自分自身なのです。

自分自身が幸せの意味である、ということを思い出させてくれる状況が、

大切な人と一緒にいる時間であったり、尊敬している人から認められることであったり、

欲しかったものを手に入れたり、嫌なものを撤去した時だったりするだけで、

幸せそのものの意味は、自分自身なのです。

へ~、それは知らナンダ。


なぜ知らなかったのでしょうか。

知る術が無かったからです。

私達が知ることが出来るのは、自分以外のもの、つまり経験の対象だけです。

五官という感覚器官を通して、もしくは通さずに、直接知り得るもの、

それは、あらゆる経験です。

その経験から、いろいろ分析して、推論や理論を立てることも出来ます。

経験や、経験から得られた理論は、何もかも、あらゆるコンセプトは、

私が対象化している、対象物です。

それらの対象物を対象化している、主体である私は、対象物ではありません。

つまり、私達は、どのような経験を通しても、

経験者である自分の本質を知ることは出来ないようになっているのです。

ちょうど、自分の顔は、自分ではどうひっくり返っても、自分では見えないように。

自分の顔を見るには、鏡のように、直接的な経験とそれによる推論とは別の、

知る手段が必要になります。


人間の経験によって知り得ない知識を教えるのが、ヴェーダです。

あらゆる幸せの追求において、成功へと導く術の知識は、

経験によって得られるものもありますが、

ヴェーダの教える範囲は、経験によっては得られない知識です。

プンニャとパーパ、デーヴァター、祈りの儀式について教え、

人間の幸せの追求を支援します。

家庭の義務を果たし、社会へ貢献すること自体が祈りの儀式であり、

デーヴァター達を喜ばせる行為であり、そこからプンニャを得て、

より快適で充実した人生を送り、より分別のある思いやりに満ちた心を育て、

葛藤から自由で平安な心を得るのです。
 
このように、成熟した心を持った人は、

あれやこれやという「普通一般に言われる」幸せの意味は、
 
時間に制限されたものであることが分かります。


そのような限られた幸せは、使い捨てカイロのようなもので、

次から次へと、永遠に、新しい幸せの対象を追い求め続けなければなりません。

そのサムサーラというカラクリを見抜けた、分別(ヴィヴェーカ)のある人に、

ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)は教えます。

「あなたの本質は、アナンタ(制限の無い存在)なのですよ。」


もっと分かり易く: 幸せとは?


より的を射て、より分かりやすい、幸せの定義は、

「自分を縛る制限から自由になること」 です。

自分とは常に、欠陥だらけの身体や心や感覚器官から制限を受け、

さらに自分を取り巻く状況からも制限されっぱなしです。

「私は金持ちではない、有名ではない、賢くない、愛されていない、ない、ない、ない」

というように、ありとあらゆるものから、束縛されている存在が、自分です。

ゆえに、人生に与えられた時間は、もがき続ける時間。

ジタバタと、もがきにもがきまくって、

たま~に、ちょこっとした制限から解放されて、「あ~幸せ~」。

そう、幸せとは、自分を雁字搦めに束縛している制限からの解放です。

好きな人と一緒にいる時は、好きな人から離れている時間や空間の制限から解放されている。

好きな人から認証されたり、愛情表現されると、

自分は好きな人とは別の存在だという概念から解放される。

欲しかったものを手に入れると、自分と欲しかったものを引き離していた境界線がなくなり、

物欲しげだった自分から解放される。

音楽、読書、映画、瞑想、お酒、薬物、熟睡などで、我を忘れている時は、

まさに、制限だらけの惨めな自分を忘れられているから、幸せ。

幸せの正体は、制限からの自由・解放、だったのです。


この幸せの定義は、

とても、つまらないようで、

とても、重大な定義です。


ヴェーダは人間に、最後の最後に教えます。

(最期じゃないですよ!既に達成されている事実であるゆえに、
知るだけで、実践しなくてもよいので、最期でも大丈夫ですが、
出来れば元気なうちに知ってください!)

「でも、本質的にあなたは、制限された存在ではないのですよ。」

じゃあ、何なのでしょうか。

「あなたの本質は、あらゆる制限から自由な存在です。

つまり、アナンタ=アンタ(制限)の無いもの、無限の存在です」


「へ~、そうナンダ。でも、私が無限存在=アナンタって言われても、ピンと来ません。

私の幸せの追求とどう関係があるのでしょうか?」

と、思ってしまうのが人間であるというのを良く知っているので、

人間の幸せの追求を完全に満たすための知識を与える為にあるヴェーダーンタは、

分かり易く教えてくれます。

「あなたは、アナンタ=アーナンダなのです。

つまり、あなたが常に探し続けていたもの=アーナンダ=幸せな自分なのですよ。」

サットチットアーナンダアートマー
サッティヤムニャーナムアナンタムブランマ  
ですね。単なるもじりではないです。)


「その、本質的で、完全な幸せである、アーナンダはどのようにして経験出来るのでしょうか?」

は、よくある質問ですね。

ありとあらゆる経験、幸せな経験も、不幸な経験も、来ては去って行くものです。

来ては去って行く経験を見続けている、

来たり去ったりしない、今ここにいる自分が、アーナンダなのですよ。

全ての経験の中に、常にあり続けていたけど、見逃していた、自分自身のことです。

それを知るのに、特別な経験は何も必要ありません。

必要なのは、正しく知る手段(プラマーナ)のみです。





<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

こちらも:

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間

2016年3月12日土曜日

75.アーサナ(आसनम् [āsanam]) - 座法、座布団

アーサナの語源


動詞の原型「アース(आस् [ās])」は、「座る」という動作を表します。

そこに、「アナ(अन [ana])」という、サンスクリット語によく出てくる接尾語がついて、

आस् [ās] + अन [ana] = आसन [āsana]

となります。

「アナ(अन [ana])」の意味は、実に様々です。

現在の世間一般で、「ヨガ」という言葉の意味となっている、

ポーズをとることによる健康法という意味での「アーサナ」という場合、

「アナ」 は、座るという動作をするための「方法、やり方」となります。

ゆえに、座法という漢訳(?)は正しいですね。


また、 「アナ」 を、座るという動作をするための「場所」とすると、

それは、座る場所、つまり座布団とか、椅子とかになります。



アーサナとは単なる健康法か?


先ほどアーサナを健康法と説明しましたが、

アーサナに思い入れのある人なら、単なる健康法なんかではない!

と思われるかもしれません。

しかし、ヴェーダの文化の全体構成をぐるりと見回す立場から見ると、

アーサナはあくまで、健康法です。


全ては、その限界を知ることから



ヨガでも、瞑想でも、美味しい食べ物でも、お金でも、物でも、地位でも、

どんなに素晴らしい人間関係でも、何でも全て、

それらの限界を知っておくことはとても大事です。

所有物や人間関係、仕事などにおいて、

「これこそが!」と絶対的価値を夢見てしまい、

全人生をかけて没頭してしまうのは、よくあることで、

そのような人に対して、横から囁くようなことはしてはなりませんが、

ヨガや瞑想に入れ込んで、そこで止まってしまうのは、

もったいないなぁ、と思います。

しかし、これもプラーラブダですが。


限界の見極めがつくまでは、人生は何回でも繰り返します。


全てを手に入れ成功する方法を教えてくれるのと同時に、

それらの限界もきっちり教えてくれるのが、ヴェーダなのです。





ここまで言いましたが、しかし、

アーサナが単なる健康法ではない、と言うことも出来ます。


なぜなら、ヴェーダの文化の全体構成に組み入れられているからです。


単なるポーズだけでなく、それを受け継いできた文化に尊敬の態度を持って目を向けると、

全体像が少しずつ見えてきて、ヨガ・アーサナの全体像の中でのポジションが自ずと見えてきます。



伝統の意味



現代の日本やアメリカのみならず、本場インドでも、

○○ヨガ、××ヨガ、、、とかなり現代風にアレンジされています。

私は、伝統を厳格に守るブランミンに囲われて生活しているので、

それらのヨガを、たまに垣間見たときには、絶句してしまいますが、

そのようなものが世界的に主流となっているのが現実です。


アーサナでも、音楽でも、ダンスでも、アーユルヴェーダや占星術、サンスクリット語も全て、

遠い日本で生まれ育った私達が、それらを始めるに至った背景には、

その知識を教え継いでいた先人の存在があります。

まず、その知識の伝承に感謝できるようになって、全てが始まります。

そして、「この伝統文化とは?」ということに興味を持って、

調べたり、実践したりすることは、現代まで伝承してくれた先生方につながり、

全体像につながり、そして自分が正しい知識を得ることにつながります。


こうして、全体像が見えてきて、本当のゴール、本当に手に入れるべきものは何か、

というプルシャ・アルタ・ニスチャヤが出来てくるのです。



馬車の例え



ヴェーダでは、人間の身体は馬車に例えられます。

馬車は走らせて、目的地に辿り着く為にあります。

馬車をチューンナップすることばかりに専念しても意味がありません。

車でも体でも、完全完璧は無理です。当たり前のことですが。

いかに少ない投資で、いかに多く働けるか、のバランスが必要です。

アーサナで造り上げた、しなやかで強く美しいボディで、

どこに向かって走るのですか?




インドの伝統では、プルシャ・アルタという人生の目的の見据え方がはっきりと教えられています。

それをインド人がちゃんと理解しているかどうかは全く別の話ですが!

しかし、日本ではプルシャ・アルタという概念が全く紹介されませんね。

アルタとカーマしか教えられない社会で生きていたら、

そりゃ不安と混乱に満ちた心になるよな、、、、

とインドの山奥で恐ろしく感じます。

交通網も、情報網も、医療機関も、何もかにも「発展」 しているのに、

何の為の発展なのか、その答を教えられるものが無く、

とりあえず楽しく!美味しいもの食べて!

出来るだけ多くのものを消費して!

出来るだけ多くの経験をして!長生きして!

ということぐらいしか教えられないのが現代日本社会です。

当然、空しくなりますね。



長時間座って、何をするべきなのか。


「アーサナ」 という言葉の意味からも分かるように、

結局は、長時間座っていられる身体を造るための実践されるべき智慧が、

ヨガ・アーサナという名前で一般的にしられている言葉の、あるべき意味です。


ヴェーダを基調とした伝統的・文化的な生活規範の全ては、

人間としての成長のためにあります。


自分のするべきこと、社会や家庭での役割・責任を果たすことによってのみ、

人間は成長できます。

これを、ダルマに基づいた生活と言います。

そのために機能できる身体を造り、心をサットヴァにするために、

アーサナのプラクティスは役に立ちます。


ダルマの生活を続けて、人間として成長した人は、

自ずとモークシャに向かうようになります。

最終的にはモークシャを見据えて、

シュラヴァナ、マナナ、二ディッティヤーサナという、

基本的には座りっぱなしの生活を続ける為の身体作りに、

アーサナは最も有効なのです。




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http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/ahimsa.html

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/04/bhaktih.html



 http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/04/suryanamaskara.html

2015年6月5日金曜日

59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])- 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの

अमृतम्
[amṛtam]


neuter - 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの




不老不死の秘薬?


古今東西の物語の中で「アムリタ」とは、

「不老不死の秘薬」という、この世のものではないような飲み物のことを指します。

王様や富豪が世界中の辺境な地に遣いをやったり、

時には自ら危険をおかしてまでも、この不老不死の秘薬を手に入れようとします。

どんなにお金や権力を持ってしても、やっぱり老いや死を恐れる、

か弱い生き物なのだな、人間と言うものは。と幼心に思ったものです。


しかし、不老不死の秘薬なんて、誰も見たことも無いものなのに、

そんなもの、どこから聞きつけてきたのか?と思っていましたが、

ヴェーダをはじめとする文献には「アムリタ」という表現がよく出てきます。

ヴェーダの教える「アムリタ」とは、一体何なのでしょうか。


アーユルヴェーダの神様、ヴィシュヌの姿のひとつ、
ダンヴァンタリーが手にしている壷の中身は?

アムリタの語源


アムリタという言葉は、以下のように定義されています。

नास्ति मृतं मरणं यस्मात् तद् अमृतम् ।

「それ(アムリタ)によって、死(ムリタ、マラナ)がなくなるもの。

それが、アムリタ。」

それってやっぱり、不老不死の秘薬みたいですね。

この世にあるものは全て例外なく、時間の中で滅び行く運命にあるのに、

どうやって死がなくなるのでしょうか。


「ムリ(मृ [mṛ])」とはサンスクリット語で「死ぬ」という動詞の原型です。

この「ṛ」の巻き舌の音は、日本語に無い音なので、

「ムリ」とも「ムル」とも言えない音ですが、とりあえず「ムリ」とカタカナ表記しています。


この動詞の原型に、「~すること」という意味の「タ(त [ta])」という接尾語を付けると、

「ムリ(मृ [mṛ])死ぬ」+「タ(त [ta])~すること」
=「ムリタ(मृत [mṛta])死ぬこと、死」

になります。


否定の意味の「ア(अ [a])」と、「ムリタ(मृत [mṛta])死」をくっつけて、

「アムリタ(अमृत [amṛta])」となります。


文法の話: バフヴリーヒ・サマーサ


このタイプの複合語(サマーサ)は、「バフヴリーヒ」というタイプのサマーサで、

複合された言葉以外の意味を指す言葉です。

つまり、「それにより、死(ムリタ無くなる(」という場合、

複合語は「ムリタ」ですが、

その言葉の意味は、「それ」、つまり不老不死の薬などを指しているのです。


その人の、心や考え(アートマー)は寛大(マハー)である」の場合、

複合語は「マハーアートマー」で、

その言葉の意味は「その人」つまりガンジー師や、サドゥーを指します。

サンスクリット語は深い!

その中身は?

死にたくない、幸せになりたい、と願うことは、尊敬されるべき願い



「アムリタ」を求めているのは、何も王様や富豪だけではありません。

全ての人が欲しいものの象徴として、「アムリタ」があります。

それは何故かと言うと、私たちは皆例外なく、死ぬのは嫌だからです。

死にたくないと思うことは、恥ずかしいことでも何でもありません。

それがバガヴァーンのアレンジメントなのです。

ヴェーダーンタを学んで理解しなかった自称グルが、

「生への執着を捨てろ」などと教えるのは、危険極まりないことです。

人間だけでなく、全ての生きているものが、

死ぬことを嫌がること、傷ついたり痛みを感じることを嫌がることは、

バガヴァーンの在り方であるゆえに、尊敬されるべきことです。

自ら命を絶とうとする人もいますが、その人も「これ以上の痛みを感じたくない」

という思いから行動しているのです。例外なく誰だって、幸せになりたいのです。

幸せになりたいと願うのは、生きるものとして当たり前のことであり、

それを追求する為に、人生の時間が与えられているのであり、

それもバガヴァーンの創造のあり方なので、

自分の願いも、他者の願いも、後ろめたさを感じることなく、

尊重されるべきことなのです。


コンパッション - 成長した人間の在り方


「死にたくない」というのは、全ての生き物に共通であることから、

ユニヴァーサルな価値感、つまり宇宙に普遍する共通の法則のあり方です。

私達生きるもの全ては、自分が「死にたくない」というのをよーく知っています。

自分自身のことですからね。

では、自分と同じように、他の生き物も「死にたくない」と思っている事を、

一番よーく知っているのは誰でしょう?

それは人間です。

このことをよーく知っているがゆえに、人間なのです。

「このこと」とは「共感、コンパッション、思いやり、良心」といった、

人間の、一番人間らしい感情のことです。


しかし、人間は、宗教の名の下に、「お国を守る」為に、

そして怒りや恐怖、不安から、

そして「地球上の動植物は全て、人間の消費の為にあるのだよ」といった

宗教的、あるいは経済至上的な価値感教育による洗脳、

そんな理由から、他の生き物を毎日殺しています。

自分が生きていく為に避けられなかった、最小限の殺生よりも、

はるかに多くの命を、上に挙げたような都合で殺生しているのです。


私利私欲の為に、大多数の人々に対して、

人間はもちろん動植物を殺すことを推奨することは、

その人々の人間性を否定していることに他なりません。


宗教、政治、経済などの大きな波に飲まれて、

大多数の人間達は、人間である証、「コンパッション」を放棄させられているのです。


神々が集まって、ミルキー・オーシャンを攪拌して、
アムリタを取り出そうとしている図
プラーナに出てくる有名なお話。

時間軸の中にあるのは全て、死に行く運命にある



生きているものが全て「死にたくない」「傷つきたくない」と願う一方で、

この世にあるものは全て、そして、ヴェーダによれば、あの世にあるもの全ても、

例外なく、いつか死ぬ運命にあります。

この宇宙自体、全体そのものが、

時間の範囲内で生まれ、時間の範囲内で一瞬も止まらずに変化し続けています。

それゆえに、この宇宙にあるもの全てにおいても同じことが言えます。

この机は動いてないよ~って言っても、ミクロレベルでは素粒子はぐるぐると動き続けています。

マクロレベルでも、太陽の視点から見ると、

この机はものすごいスピードで、ぶんぶん回っています。

太陽は動いてないって?銀河の視点から見たら、太陽もぶんぶん回っています。

私の体の細胞も、私の考えも、ぶんぶん、ぐるぐる、、、変化し続けています。

そして、時間軸の中にあるものは全て、変化を遂げて、

最終的には、その名前で呼ばれることに相応しくない形へと変化します。

形を変えているだけで、新しい名前と形の登場とも言えますが、

死ぬ、という呼び方で認識されます。

ここにポジティヴ・シンキングもネガティブ・シンキングも要りません。

この世のあり方の現実として、死があり、それは、

人間でも、動物でも、植物でも、どんな生き物でも、忌み嫌うものです。

なぜかと言うと、そういう風に出来ているからです。

それがバガヴァーンの創造のあり方です。

それは尊敬と畏怖をもって受け入れられるべきことです。

誰だって死ぬのは嫌なのです。


しかし、生きている以上、死というイベントは避けられません。

なぜなら、私達の体は時間軸の中に存在しているからです。

どんなに健康でラッキーでも、意外と短い時間内に、必ず、

身体の機能はストップしてしまいます。

時間軸のなかで生まれてきたものは必ず、時間に縛られています。

つまり、時間軸内で形を変え、時間軸の中で姿を消していくのです。

自分の目に入るもの、考えられるもの全てにおいて、

時間に縛られて消えていくことを認識する必要があります。


絞りたてのアムリタですよ~
と偽って、偽物のアムリタを分配しようとしている、
モーヒニーに化けているヴィシュヌ

「不死」なんて絶対無理?


そうだとしたら、「不死」なんて、絶対無理ですね。

「アムリタ」が何であれ、それによって私から死を無くすなんて、

あり得ないことです。

時間はサンスクリット語で「カーラ(कालः [kālaḥ])」と言いますが、

時間という言葉そのものが、死を表しているのです。


ヴェーダーンタが教える、あなたの本質


しかし、ヴェーダは教えます。

「あなたは死(時間)から自由な存在である」と。

どういうことでしょうか?

私は生まれてからずっと、時間の中にあるものを対象化し続けています。

小さいときの自分の身体と心のあり方は、今ではもうほとんど原型を留めていません。

でも、自分の変わり続ける身体と心を、脳みそのどこかで静かに眺め続けている私がいます。


4D?5D?19D?


1枚の紙の上に描かれる絵は、2Dです。つまり縦軸と横軸の中の世界です。

それを鑑賞するには、もうひとつのディメンション、つまり奥行きという軸を足した、

3Dの視点から眺めなければなりません。

私達が眺めている世界は、3Dです。時間軸を足したら4Dですかね。

あの世も足したければ、もうひとつ足してもいいですよ。

ちなみにヴェーダでは世界は大きく分けて3つ、さらに分けたら14あります。

「じゃあ、私のいる世界は、5D?いや、10D?いやいや、19D??」

というのが凡人の考えです。

どういう点が凡人なのかと言うと、

同じディメンションという枠の中で数を増やしているだけ、という点です。

さらに、「そこに行って見たい!」と言い出すのは凡人の極みです。

どこに行こうが行くまいが、行き先の話をしているのではなく、

行っている自分の話をしているのです。

時間的にも空間的にも離れていない、

今、ここに存在している、自分の話をしてるのです。

ディメンションの数がいくつであれ、移り変わり行くそれらを対象化している、

変らない、意識的な存在である、いまここにいる自分は、

それらの対象物とは、まさに次元が違うのです。


対象化されているものは、時間枠の中にあるので、「ムリタ(मृतम् [mṛtam]」。

つまり死に行くもの。

それを対象化しているのは、時間枠の中にいない、

「今」という現実である私。

時間に制限されていない、死から自由な存在、それが私の本質なのです。


アンコール・ワットにも、同じモチーフの壮大な彫刻があります。
バンコクのスワルナ・ブーミ(サンスクリット語で「黄金の地」)国際空港にも、
アムリタのお話のディスプレイがあります。


アムリタの意味



もし、私が時間軸の中に存在していない、不死の存在であるとしたら、

今、ここで既に、私は不死の存在であるべきです。

「今」の意味は、時間の中には無いのです。

「今」の意味は、いま、ここ、の意識的な存在、つまり自分なのです。

しかし私はそんなことも知らずに、死と老いを恐れて毎日生きています。

そうです、「知らずに」いることが、私を「死にゆく者」にしているのです。

では、私を死から、時間の制限から解放してくれるもの、

つまり、「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」=「それにより死が無くなるもの」とは、、、

「あなたは時間軸の中に存在していないのですよ。

意識的存在である、あなたが時間に存在を与えているのですよ」

と教えてくれる、ヴェーダの知識が「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」なのです。

それをきちんと理解出来たときにのみに言えることですが。



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58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])


質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?








>> 次回 60.グル(गुरुः [guruḥ])>>

(自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星

2015年3月13日金曜日

44.アヒムサー(अहिंसा [ahiṃsā])- 非暴力

अहिंसा
[ahiṃsā]


feminine - 非暴力




アヒムサーの語源


サンスクリットの動詞の原型の「हिंस् [hiṃs](傷つける)」を、

名詞化したものが「हिंसा [hiṃsā] (ヒムサー、暴力)」です。

「ヒムサー(暴力)」に否定の意味の「ア」をつけて、

「アヒムサー(非暴力)」となります。

マハトマ・ガンディが推奨していた言葉でもあります。



アヒムサーの意味


実は、アヒムサーの意味は、誰に教えてもらわなくても、

人間なら誰も知っています。

人間を創造をしたときに、人間のハートなり脳みそなりに、

マイクロチップのように、埋め込まれている知識が「アヒムサー」です。


アヒムサーとは知識


アヒムサーとは、知識です。

人間として生まれた者が、必ず先天的に持って生まれる知識です。

この知識を持っている者を、人間と呼ぶのです。

ゆえに、人間を人間たらしめている知識が、アヒムサーです。


一つ目の知識


動物でも植物でも、全ての生き物が必ず持っている知識があります。

それは、「私は誰からも傷つけられたくない」という知識です。

この知識は誰に教えてもらわなくても、生き物なら全員知っていることです。


二つ目の知識


そして、二つ目の知識は、

「私が誰からも傷つけられたくないように、他の生き物も傷つけられたくない」

という知識です。

この知識は、人間であれば、誰に教えてもらわずしても、必ず知っている知識です。

「汝、殺すなかれ」とわざわざ神様に石版に刻んでもらう必要もありません。

神様が私達人間の一体一体の精神にきっちり刻み込んでいるからです。


傷つけること(ヒムサー)とは


傷つけるとは、自分がされたら嫌なこと全部です。

殺されたり、切られたりするだけではなく、拘束されたり、食べられたり、

自分の家族が食べられたり、嘘をつかれたり、大切なものを奪われたり、

嫌な言葉を使われたり、助けが必要なときに無視されたり、

自分の見た目や過去でジャッジされたり、、、

全て、少しでも自分がされたら一生忘れないほど傷つくのに、

それを私達は日常的に他の人間や動植物に当たり前のようにしていないでしょうか。



ヒムサーをしなければ、自然とアヒムサーになる


何か行為をする時、特に言葉を発するとき、声に出すにしても、書くにしても、

実際に行動に移したり声に出す前に、

「たとえ微量にでも傷つけてしまう可能性があるのではなかろうか?」

とスクリーンを掛ける習慣をつけ、もし可能性があるなら、その場で取りやめる。

考えのレベルですら、これを実施する。

怒りや欲望に任せて行動するのではなく、

ヒムサーを避けるように意識的に行動する。

その時、その人の行動と、アヒムサーの知識とが、調和しています。

つまり、その人の中でも、そして外でも、調和が保たれているのです。



アヒムサーな行動を選ぶことが出来るのは、高貴な人間の証


アヒムサーを行動基準として、それをいつも実践している人のことを、

「聖人」といいます。

聖人とは、どこかヒマラヤの山奥に篭っている人のことではありません。

アヒムサーを最高の優先順位に置いて、周囲の痛みにとてもセンシティブに行動する、

そんな当たり前のことを、自然に出来ている人が「聖人」なのです。

誰だって、心がけ一つで聖人になれるのです。

聖人とは、その人の心の在り方のことなのですから。



人間の特権、自由意志


自分がどういう行動を取るか、自由に決定出来る意志の力を「自由意志」と呼びます。

「自由意志」という特権を与えられている生命体を、人間と呼びます。

しかし、人間に生まれたとしても、自由意志が自由な人はあまりいません。

生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている人は、

自由に自由意志を使っている場合ではありません。

暴力を振るってでも、親しい人を裏切ってでも、生き延びようとするでしょう。


あなたの自由意志は自由ですか?


しかし、衣食住に不自由の無いはずの、洗練されて恵まれた生活を送っている人でも、

欲望という自分の内からのプレッシャーと、

宣伝広告やプロパガンダなどの外からのプレッシャーに負けて、

暴力を間接的・直截的に行使し、道徳に少しくらい違反して、

我がための悦楽に興じています。

そのような人は一見自由に振舞っているように見えますが、

人間の特権である自由意志が、完全にプレッシャーに押されているので、

本当の自由な人間とは言えません。


「アヒムサー」本当に自由な人間の選択


本当の自由な人間とは、自由意志が自由な人間です。

欲望や政治的・商業的プレッシャーから、完全に自由な自由意志を持っていて、

初めてアヒムサーの行動が選択が出来るのです。

アヒムサーを選ぶことが、いちばん人間として自由で高貴な選択なのです。



= 追記 =

まずは自分自身に対してアヒムサーを実践してみる


自分自身にケチをつけたり、人と比べて至らないとこを見つけたり、

怒ったり悲しんだりしている自分を、未熟な人間だとジャッジしたり、

もし、そんな自分に対するヒムサーをする癖があったら、

自分自身の味方になってあげて、自分いじめを辞めるのがアヒムサーです。

自分の良き理解者、応援者、良き友達に、自分自身がなるのです。

自分自身にしていることは、相手にもしてしまう。

そしてその逆でもあるので、どちらから始めても同じ結果が得られるものです。




関連記事: 心の平和とアヒムサー




[11]   1.ダルマ(その時その場所で自分が取るべき行動)


ヴェーダが教える「カルマの法則」という全体像から説明します。







[12] 2.アダルマ(ダルマとは別の行動)









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毎日使っている言葉、ナマステーの意味







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シャーンティと3回唱える理由と、シャーンティの正しい発音

2014年2月5日水曜日

4. アーカーシャ(आकाशः [ākāśaḥ])- 空間、空、スペース

आकाशः
[ākāśaḥ]


m. 空間、空、スペース



アーカーシャ (空間)の定義


「アーカーシャ (आकाशः)」の定義としてよく言われるのが、

「全てのものに、場所を提供するもの」

「全てをaccommodate(受け入れてあげる)もの」です。

この宇宙にある全てのものは、

どんなに巨大でも、どんなに離れていても、

どんなに種類が多くても、全ては、

一つのスペースの中に収まっているんですね。


サンスクリットの「空間」の哲学的意味


サンスクリット語で、

壷(ガタ)のスペース(アーカーシャ)を、

「ガターカーシャ」といい、

全体(マハー)のスペース(アーカーシャ)を、

「マハーカーシャ」といいます。

壷の中にある小さなスペースは、

全体の無限のスペースと、一切離れていません。

壷という概念に沿って、

「小さなスペース」「大きなスペース」と言っていますが、

スペースそのものに着目すると、

あるのは、無限に広がるただ一つのスペースだけで、

それは、壷や、部屋の壁や、人間の身体に区切られることなく、

それらを突き抜けて、浸透して、

ただ一つの無限のスペースとして存在しているんですね。

そんな眺め方を助けてくれるために、

「ガターカーシャ」と「マハーカーシャ」という言葉があります。


「アーカーシャ(आकाशः )」の類義語


खम् [kham], नभः [nabhaḥ] (s-ending), व्योम [vyoma] (n-ending),

वियत् [viyat], गगनम् [gaganam](全て中性名詞)

などがあります。(अमरकोशःより)



=== आकाशः [ākāśaḥ ] が使われている文献 === 

パンチャダシー6章18節

घटाकाशमहाकाशौ ...
ghaṭākāśamahākāśau ...
意味は先に見た通りです。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド第2章

तस्माद्वा एतास्मादात्मन आकशः संभूतः।
tasmādvā etāsmādātmana ākaśaḥ saṃbhūtaḥ|
それ(brahma)から、まさに、このアートマンから、空間が生まれた。

昨日のआत्मा [ātmā]からの続きです。
आकाशाद् वायुः । वायोरग्निः ।अग्नेरापः । अब्भ्यः पृथिवी। पृथिव्या ओषधयः । ओषधीभ्योऽन्नम् । अन्नात् पुरुषः।
ākāśād vāyuḥ | vāyoragniḥ |agnerāpaḥ | abbhyaḥ pṛthivī| pṛthivyā oṣadhayaḥ | oṣadhībhyo'nnam | annāt puruṣaḥ|
空間から空気、空気から火、火から水、水から土、土から植物、植物から食物、食物から人間、、、


私はこのタイッティリーヤ・ウパニシャッドが大好きで、

全章を暗記して、よくチャンティングしてました。

リシケシでこれをチャンティングしてると、

なぜがリス達がが寄って来て、

私を囲んで聞き惚れているようようでした。


永遠に対象化出来ない、主体である意識的な存在、
今ここに在る「私」について、その正体を明かします。

2014年2月4日火曜日

3.アートマン(आत्मा [ātmā])- 自分自身

आत्मा
[ātmā]

m. 自分自身



アートマンの意味


インド哲学を少しでもかじった人なら、耳にした事がある言葉、

原型が「ātman」なので、カタカナでは「アートマン」とよく表記されています。

活用は「ātmā(アートマー)」「ātmānau」「ātmānaḥ」...となります。

インド哲学で出てくる言葉なので、

「アートマン」と聞くだけで構えてしまうかも知れませんが、

それはあまりよろしくないです。

「アートマン」の指す最初の意味は、

まず単純に「自分」、今ここにいる「自分」でという意味であるべきです。

なぜかと言うと、、、


シンプルに、今ここに在る私、それがアートマン


今ここに在る自分、「いる」という意識の存在である「私」に、

性別や、職業や、母、妻、娘、部長、納税者、、などの、

社会や家庭で使う役割・役職名がのっかっているのです。

さらに、楽しい、悲しい、怒り、惨め、、といった感情も、

この意識的な存在である「私」の上にのっかっている。

「私」は、映画を見ているように、幼少の頃から今までの出来事や身体の変化を、

暗い映画館のような脳みその片隅から、全てを眺めている。


自分に対する無知と混乱


しかし、あまりに映画にのめりこみすぎて、自分が役柄になりきり、

自分が感情や体の変化になりきっている。

そして、そんな役柄や、感情や、必ず朽ち果てる体の変化から

「自由になりたい!」ともがき続けて、

また新しい役柄をとろうとして必死になっている。それが解決策ではないのに。


それを解くのが聖典


そんな自分自身に対しての誤解を解くために、

聖典の教えが始まるからです。

それゆえに、「アートマン」が、自分とは別の、

どこか離れた場所や時間や次元にあるものだと捉えられてしまうと、

後に続く教えが全て無駄になってしまいます。



「私は太っている」「私は痩せている」

「私は元気だ」「私は疲れている」

「私は迷っている」「私は苦悩している」

「私がやっている」「私はこう考える」

「私は幸せだ」「私はこう感じている」

「私はこのような人間だ」


「私」の意味は、人によっても、状況によっても、

実にくるくると変わる意味ですね。

「私は~」に続く意味は無数にありますが、

常にあり続けるのは、この「私」なのです。

聖典が教えようとしているのは、その「私」についてなのです。


アートマンの語源


「आत्मा [ātmā] 」の語源にはいろいろあります。

文献によると、、、

「आप् to pervade」という動詞の原形から、

「全てのものの中に在るもの (सर्वम् आप्नोति)」

という意味から始まり、

「अद् to eat」という動詞の原形からは、

「全てを経験しているもの(विषयान् अत्ति)」となり、

「आङ् + दा to take」からは、似たような意味で、

「全てを受け取っているもの(विषयान् आदत्ते)」になります。

「अत् to go constantly」からは、

「常に存在するもの(अस्य भावः सन्ततः)」という意味で、

全ては「アートマン」、「この私」を指します。

(出典:लिङ्गपुराणः ७०-१६)

私が2010年から住んでいる、南インドのアシュラムにある、
小さな池に咲く、青い蓮の花。

=== आत्मा [ātmā] が使われている文献 === 

グルストートラム

मदात्मा सर्वभूतात्मा ...
madātmā sarvabhūtātmā ...
私の本質(アートマー)、それは全ての本質(アートマー)、、、


タイッティリーヤ・ウパニシャッド

तस्माद्वा एतास्मादात्मन आकशः संभूतः।
tasmādvā etāsmādātmana ākaśaḥ saṃbhūtaḥ|
それ(ブランマン)から、まさに、このアートマンから、空間が生まれた。






<< 前回の言葉 2.अजः [ajaḥ] - アジャ <<

出生は無く、永遠に存在するもの







   
>> 次の言葉 4.आकाशः [ākāśaḥ] - アーカーシャ >>

全てに存在を与えている「空間」。
そしてその「空間」存在を与えているのが、
「ここ」の意味である私です。

2014年2月3日月曜日

2.アジャ(अजः [ajaḥ])- 出生の無いもの(ブランマン)

अजः
[ajaḥ]


m. 出生の無いもの(ブランマン)



アジャの語源

न जायते इति अजः(生まれ無いもの、それがアジャ。)

「ジャ(ज [ja])」は、「ジャン(जन् [jan] )生まれる」という

動詞の原形から派生した言葉で、「出生、誕生」という意味です。

それが無いもの。

生まれて来なかった。

それなのに存在している。

そんなものってあるのでしょうか?


「生まれて無いのに存在するもの」なんて在るのか?


それは、昨日の「アタ(अथ [atha])」で勉強した、

「अव्यय [avyaya]」朽ち果てないもの、無くならないもの、

すなわち「永遠」です。

誕生したものは全て、誕生する前には存在していません。

そのようなものは、全て、永遠とは呼べません。

誕生したり、朽ち果てて無くなったりして、

休みなく生まれ変りをぐるぐる繰返している宇宙に、

存在を与え続けているのが、永遠です。

誕生日の無い、अजः [ajaḥ] 、永遠。

それは、全てのヴェーダが教えようとしている「ブランマン」の名前の一つです。


もう一つの意味


「アジャ(अजः [ajaḥ])」 はまた、「ヤギ」という意味もあります。

サンスクリット語は、一つの言葉に、実にいろいろな意味があります。

ゆえに、文献を勉強する時は、伝統的意味を理解し、

それを伝える為の深い学識のある先生に就く事が必須です。

「ブランマン」と「ヤギ」を取り違えては大変ですから!



=== アジャ(अजः [ajaḥ]) が使われている文献 === 

バガヴァッド・ギーター2章20節
अजो नित्यः शाश्वतोऽयं पुराणः ...
ajo nityaḥ śāśvato'yaṃ purāṇaḥ ...
この(アートマン=自己)は、अजः(生まれて来ず)、永遠で、変化せず、しかも常に新しい、、、


ヴィシュヌ・サハッスラナーマ・ストートラム
अजः सर्वेश्वरः सिद्धः ...
ajaḥ sarveśvaraḥ siddhaḥ ...
अजः(永遠)、全ての統治者、既に達成された、、、





<< 前の言葉 1.अथ [atha] - アタ <<

初めにおいて縁起の良い言葉、アタ。

なぜ縁起が良いのか、どのように使われているのかを
説明します。


>> 次の言葉 3.आत्मा [ātmā] - アートマン >>

シンプルに「私」という意味。
「今」という意味は私であり、「ここ」も私。

それと同時に、全ての人が探し求めている、
「幸福」の意味そのもの。

なぜそうなのかを説明します。

1.アタ(अथ [atha])- まず初めに、そして

अथ
[atha]


ind. まず初めに、そして



吉兆、さいさきの良い始まりを表す言葉。

文献の中で、新しいトピックのの最初に使われる言葉です。

この言葉は格変化しません。

サンスクリット語で「अव्यय [avyaya]」、英語では「indeclinable」です。

「格変化」と日本語で言うと、なんともないように聞こえますが、

サンスクリット語や英語で言うと、それぞれ「व्यय」「decline」となり、

どちらも、朽ち果てて行く、削られて小さくなって行く、という意味になります。

それは、この世にあるもの全てですね。

しかし格変化しない「अव्यय [avyaya]」は、永遠を表すので、

とてもおめでたい言葉なのです。

でもなぜ永遠がおめでたいのでしょうか。

誰だって、どんな生き物だって、存在し続けたいと願うものです。

私達が毎日毎日、一生の間にしている行動は、

自分と自分が大切にしているものの永続の為にあるといっていいようなものです。

私達は、自然と永遠というものに惹かれるように出来ているのです。


もう一歩踏み込んで考えてみましょう。

この世にあるものは全て、自分の身体も含めて、

朽ち果てて無くなって行くものです。

しかし、その変化を、今も昔も眺め続けけている、

変化しない私がいます。

その私こそが、永遠である「अव्यय [avyaya]」なのです。

リシケシ、ダヤーナンダ・アシュラムからのガンガーと日の出。


===「अथ  [atha]」が使われている文献 ===


ブランマ・スートラ(ब्रह्मसूत्रम्/brahmasūtram)
अथातो ब्रह्मजिज्ञासा। १.१।
athāto brahmajijñāsā| 1.1|


「अथ」 そして、人間としての成熟・成長を遂げたら、
ブランマを知る事を望みなさい。




バガヴァッド・ギーター(भगवद्गीता/bhagavadgītā)
अथ प्रथमोऽध्यायः।
atha prathamo'dhyāyaḥ|
「अथ」 これから、第一章が始まります。

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