アーナンダの語源
「アー」と「ナンダ」から成り立っています。
「ナンダ(नन्दः [nandaḥ])」は、「幸福」という意味。
नन्द् (nand) という、「幸せである」という動詞の原型から造られています。
「アー(आङ् [āṅ])」は、「完全に」という意味で、「幸福」を修飾しています。
「ナンダ」は、幸せ。
「アーナンダ」は、完全な幸せ。
幸せって何?
さらに、完全な幸せって?そんなものあるの?
どこまで幸せになっても、もっと凄い人はいっぱいいるし、
どうせどれもこれも束の間の出来事。
完全な幸せは、何処に行けばあるのでしょうか?
アーナンダの意味
アーナンダとは、英語ではBlissとかと訳されていますが、
Blissは、分かりづらくさせている言葉の選択ですね。
普通に、Happinessで良いのです。
私達が人生の中で経験してきた、「幸せ」「幸福感」が「アーナンダ」ですし、
それらの経験的な幸福感は、「アーナンダ」の本質を知る、大切な窓となります。
幸せとはナンダ?
あなたにとって幸せとは何ですか?
特別な人と一緒に居る時、嬉しい言葉を頂いた時、尊敬している人から受け入れられた時、
美味しいものを食べている時、、、、
人それぞれ。
しかも、~な時、というように、時間や状況に制約されたものばかりですね。
人にとっての幸せの対象が、自分にとっての幸せの対象であるとは限りません。
だから、皆それぞれに、自分の家族や、自分の住んでいる地域や生まれ育った文化に囲まれて、幸せでいられるのです。
自分の中でも、時や場所によって、幸せの意味は変わりますね。
20年前に熱狂していた人物や場所・物が、今となっては、何がそんなに嬉しかったのか?
と思うことはありますね。
いろいろ考察してみて分かったことは、
幸せの意味はひとそれぞれ。
数え切れない対象物の種類と、それぞれ個人の数え切れない状況によって、
相対的にコロコロ変わるものです。
幸せの本当の意味
しかし、そこに変わらないものがひとつだけあります。
どの人においても、どの時代や民族、宗教、性別、立場においても、
共通する、たったひとつの「幸せの意味」があります。
それは、幸せを感じているその人そのものです。
幸せとは、自分自身なのです。
自分自身が幸せの意味である、ということを思い出させてくれる状況が、
大切な人と一緒にいる時間であったり、尊敬している人から認められることであったり、
欲しかったものを手に入れたり、嫌なものを撤去した時だったりするだけで、
幸せそのものの意味は、自分自身なのです。
へ~、それは知らナンダ。
なぜ知らなかったのでしょうか。
知る術が無かったからです。
私達が知ることが出来るのは、自分以外のもの、つまり経験の対象だけです。
五官という感覚器官を通して、もしくは通さずに、直接知り得るもの、
それは、あらゆる経験です。
その経験から、いろいろ分析して、推論や理論を立てることも出来ます。
経験や、経験から得られた理論は、何もかも、あらゆるコンセプトは、
私が対象化している、対象物です。
それらの対象物を対象化している、主体である私は、対象物ではありません。
つまり、私達は、どのような経験を通しても、
経験者である自分の本質を知ることは出来ないようになっているのです。
ちょうど、自分の顔は、自分ではどうひっくり返っても、自分では見えないように。
自分の顔を見るには、鏡のように、直接的な経験とそれによる推論とは別の、
知る手段が必要になります。
人間の経験によって知り得ない知識を教えるのが、ヴェーダです。
あらゆる幸せの追求において、成功へと導く術の知識は、
経験によって得られるものもありますが、
ヴェーダの教える範囲は、経験によっては得られない知識です。
プンニャとパーパ、デーヴァター、祈りの儀式について教え、
人間の幸せの追求を支援します。
家庭の義務を果たし、社会へ貢献すること自体が祈りの儀式であり、
デーヴァター達を喜ばせる行為であり、そこからプンニャを得て、
より快適で充実した人生を送り、より分別のある思いやりに満ちた心を育て、
葛藤から自由で平安な心を得るのです。
このように、成熟した心を持った人は、
あれやこれやという「普通一般に言われる」幸せの意味は、
時間に制限されたものであることが分かります。
そのような限られた幸せは、使い捨てカイロのようなもので、
次から次へと、永遠に、新しい幸せの対象を追い求め続けなければなりません。
そのサムサーラというカラクリを見抜けた、分別(ヴィヴェーカ)のある人に、
ヴェーダの最後の部分(ヴェーダーンタ)は教えます。
「あなたの本質は、アナンタ(制限の無い存在)なのですよ。」
もっと分かり易く: 幸せとは?
より的を射て、より分かりやすい、幸せの定義は、
「自分を縛る制限から自由になること」 です。
自分とは常に、欠陥だらけの身体や心や感覚器官から制限を受け、
さらに自分を取り巻く状況からも制限されっぱなしです。
「私は金持ちではない、有名ではない、賢くない、愛されていない、ない、ない、ない」
というように、ありとあらゆるものから、束縛されている存在が、自分です。
ゆえに、人生に与えられた時間は、もがき続ける時間。
ジタバタと、もがきにもがきまくって、
たま~に、ちょこっとした制限から解放されて、「あ~幸せ~」。
そう、幸せとは、自分を雁字搦めに束縛している制限からの解放です。
好きな人と一緒にいる時は、好きな人から離れている時間や空間の制限から解放されている。
好きな人から認証されたり、愛情表現されると、
自分は好きな人とは別の存在だという概念から解放される。
欲しかったものを手に入れると、自分と欲しかったものを引き離していた境界線がなくなり、
物欲しげだった自分から解放される。
音楽、読書、映画、瞑想、お酒、薬物、熟睡などで、我を忘れている時は、
まさに、制限だらけの惨めな自分を忘れられているから、幸せ。
幸せの正体は、制限からの自由・解放、だったのです。
この幸せの定義は、
とても、つまらないようで、
とても、重大な定義です。
ヴェーダは人間に、最後の最後に教えます。
(最期じゃないですよ!既に達成されている事実であるゆえに、
知るだけで、実践しなくてもよいので、最期でも大丈夫ですが、
出来れば元気なうちに知ってください!)
「でも、本質的にあなたは、制限された存在ではないのですよ。」
じゃあ、何なのでしょうか。
「あなたの本質は、あらゆる制限から自由な存在です。
つまり、アナンタ=アンタ(制限)の無いもの、無限の存在です」
「へ~、そうナンダ。でも、私が無限存在=アナンタって言われても、ピンと来ません。
私の幸せの追求とどう関係があるのでしょうか?」
と、思ってしまうのが人間であるというのを良く知っているので、
人間の幸せの追求を完全に満たすための知識を与える為にあるヴェーダーンタは、
分かり易く教えてくれます。
「あなたは、アナンタ=アーナンダなのです。
つまり、あなたが常に探し続けていたもの=アーナンダ=幸せな自分なのですよ。」
(サット・チット・アーナンダ、アートマー
サッティヤム・ニャーナム・アナンタム、ブランマ
ですね。単なるもじりではないです。)
「その、本質的で、完全な幸せである、アーナンダはどのようにして経験出来るのでしょうか?」
は、よくある質問ですね。
ありとあらゆる経験、幸せな経験も、不幸な経験も、来ては去って行くものです。
来ては去って行く経験を見続けている、
来たり去ったりしない、今ここにいる自分が、アーナンダなのですよ。
全ての経験の中に、常にあり続けていたけど、見逃していた、自分自身のことです。
それを知るのに、特別な経験は何も必要ありません。
必要なのは、正しく知る手段(プラマーナ)のみです。
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50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間