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2016年10月15日土曜日

80.ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ])医学・薬学の原理、ヴィシュヌの姿のひとつ

アーユルヴェーダを学ぶ人にはおなじみの、ダンヴァンタリ様。


こちらのアシュラムに付属しているアーユルヴェーダの施設でも、

トリートメントを行うまえに、施す人と施される人が一緒に、

施術部屋にあるダンヴァンタリ様の神棚の前でお祈りをします。

お祈りとその意味は前にこちらで紹介しましたね。

ところで、ダンヴァンタリという名前はどういう意味なのでしょうか?

ヴェーダーンタとは直接関係ないので、そんなん知らんがな、なのですが、
最近何人かの人に聞かれたので、辞書を引いてみました。


ダンヴァンタリの語源


 शब्दकर्पद्रूमः というサンスクリットの百科事典を引いてみると、、、

धनुरुपलक्षणत्वात् शल्यादिचिकित्साशास्त्रं तस्य अन्तम् ऋच्छति इति । देववैद्यः, स भगवदवतारः ।


ダヌ(医学の知識の) + アンタ(終わりまで) + アリ(行く)

というデーヴァのお医者さん、ヴィシュヌのアヴァターラということです。

まず、ダヌ(弓、धनु [dhanu])とは、
シャッリャ(矢、शल्य [śalya])という名前の文献に代表される、

医学の知識の集合体を表しているそうです。

それの、アンタ(最後、結論、अन्त [anta])まで行く、もしくは得る。

つまり、 全ての医学の知識を有している者、となります。


次に、वाचस्पत्यम्  という辞書を引いてみますと、

धनोः तन्निमित्तशल्यस्यान्तं पारमृच्छत।

ダヌ(弓、武器全般の代表)による痛みのアンタ(終わり、向こう側)に行く、

となっています。


ダンヴァンタリの登場する文献


プラーナという文献ですね。

ブランマヴァイヴァルタ、ヴィシュヌプラーナ、バーガヴァタなどに登場するそうです。

プラーナとは、

シュルティ(ヴェーダ)、スムリティ(マハー・バーラタ等)に続くプラマーナとされる文献で、

ヒンドゥーの神様をモチーフにしたお話の殆どは、プラーナで見つかります。

 プラーナの中の数々のお話しの根底はヴェーダーンタであり、

シャンカラーチャーリヤは、自身のコメンタリーの中でヴィシュヌ・プラーナを

しばしば引用していますが、

なぜか、一番有名で大きいバーガヴァタからの引用はひとつもないということです。


インドには、プラーナの話を民衆に聴かせるのに特化した、

「ポウラーニカ」と呼ばれる学者がたくさんいます。

でも、ヴェーダーンタを勉強する人とは、かなり色が違います。。


ダンヴァンタリの誕生祭


ダンテラス(Dhanteras)という名前で、ディーパ―ヴァリ(ディワリ)の前の、

トラヨーダシー(満月から13日目)です。地域や宗派によって違いはあると思いますが。

2016年は、10月28日です。



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文法的にもうちょっと知りたい人は====

ダヌ + アンタ + アリ

ヌの最後の音「ウ(u)」は、後ろに母音(ここではア)が来ると、

Vの音に変化しますね。そう、ヤン・サンディです。

アリは、ऋ(行く) + इ(者、行動の主体)から成ります。

(उणादिसूत्रम्) ४.१४० अच इः ।

अन्त と अरि は、、、शकन्ध्वादिगण が आकृतिगण なのでそこで पररूपम् にしてしまう?

====================
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2016/03/patanjaliprayer.html

ヨガとアーユルヴェーダと文法と、
ヴェーダーンタの関係 
- パタンジャリへの祈りから読み解く








<< アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句) <<

ダンヴァンタリへの祈りの句です。






2015年12月2日水曜日

72.トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī])- 主体・客体・その手段といった、3つ組

त्रिपुटी
[tripuṭī]

feminine - 主体・客体・その手段といった、3つ組



カタカナで書くと、「幸せ、満足」という意味の「トリプティ(तृप्तिः [tṛptiḥ])」に見えますね。

しかし今回は「3つのモノの集まり」という意味の「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」です。

ローマ字やデーヴァナーガリーで書くと全く違うのに、

カタカナで書くと同じに見えてしまいます。

それゆえに、サンスクリット語をカタカナ表記をする時はいつも、なんとも心苦しくなり、

横にデーヴァナーガリーとローマ字表記をせっせと付けているのです。


カタカナ表記の限界


日本語の仮名は、子音と母音が既に1つになっていて、

子音だけで独立して表記は出来ません。

さらに、日本語にある音の種類は、他のどの言語に比べても、

かなり少ない方です。

母音は5つだけ。

子音は、14??

サ行の中にでも、「S」と「SH」が混じっているし、

ワ行はアとしか合わさらないので、どう数えていいのかも曖昧です。

日本語は、音声学的にかなりシンプルな言語です。

サンスクリット語は、母音が9、子音は33、

さらに日本語には殆んど無い複合子音がいっぱいあります。

そんな訳で、サンスクリット語はもとより、どんな外国語でも、

カタカナ表記してしまうと、本来の発音とはほど遠くなってしまうことは多々あります。


文字習得は、日本人にとっては難しいことではない


日本語は、発音の種類がシンプルなゆえに、会話は学び易いけど、

書き言葉となると、世界一難しい言語かも知れません。

音の少なさゆえに、同音異義語がとてつもなく多く、

漢字表記に大きく頼っているので、学習は大変です。

しかし一方で、使用する文字の種類の多いことから、

デーヴァナーガリー文字など、新しいアルファベットを学習するスピードは、

西洋人に比べて、ぐんと速いのも、日本人の特徴です。

というわけで、何が言いたかったかというと、

そんなに難しいことではないけど、効果は絶大なので、

カタカナ表記の横に添えてある、ローマ字やデーヴァナーガリーにも目を通すくせをつければ、

思っている以上に早く、正しい発音の表記法が習得出来ますよ!

ということでした。

ローマ字は、ヘボン式ローマ字とほぼ同じです。

ちなみに、ヘボンは、ヘップバーンです。ヘボンの方が発音近い?



何でこんな話になったのかというと、

「トリプティ(तृप्तिः [tṛptiḥ])」と

「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」の違いですね。

「トリ(त्रि [tri])」とは、英語のthreeと一緒ですね。3です。

「プタ(पुट [puṭa])」は「~種類」という意味です。

それらが複合語として合わさって「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」です。

何かを説明するときに、その主要な構成要素が3つの場合、

「3つ揃え」として紹介するのに使われます。


「知る」という認識行動に関わるトリプティー


今回なぜ「トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]」を取り上げたかというと、

「The Value of the Values」の本の中でよく登場するからです。

文法的に説明しなければ、すっきり理解出来ないので、

今回のトピックとして取り上げました。

カタカナよりは、ローマ字やデーヴァナーガリーを見たほうが、

分かり易いかもしれません。


「ニャー(ज्ञा [jñā])= 知る」のトリプティー

1.「ニャーター(ज्ञाता [jñātā])」(知る人、知る主体

2.「ニェーヤム(ज्ञेयम् [jñeyam])」(知られる対象

3.「ニャーナム(ज्ञानम् [jñānam])」(知る手段、認識


「プラマー(प्र + मा [pra + mā])= 知る」のトリプティー

1.「プラマーター(प्रमाता [pramātā])」(知る人、知る主体

2.「プラメーヤム(प्रमेयम् [prameyam])」(知られる対象

3.「プラマーナム(प्रमानम् [pramānam])」(知る手段、認識


それぞれの言葉を良くよく観察してみてください。

前の部分は、動詞の原型(ニャーとかプラマーとか)です。

それぞれのトリプティーに共通にありますね。


一方、後ろの部分(色つき)が、接尾語と呼ばれる部分(ターとか)で、

言葉全体が、動詞の主語なのか、目的語なのか、手段なのか、

はたまた動詞で示されている行為そのものなのかを表しています。


これは、「知る」という認識のプロセスにおいて、

最低必要な要素を表しています。


3つに分けて説明する理由


「知る人」、「知られる対象」、「知る手段」、

これらは全て、当たり前の事ばかりですが、

これらをきっちりした言葉できっちり把握する必要があります。


「知る人」という主体が無ければ、始まらない。

そして、知るからには、「知られる対象」がなければ話にならない。


この世界を体験している私にとって、全宇宙とはこの2つだけです。

いろいろあるように見えるけれども、煮詰めると、

「私」という認識と、「私以外」という対象物の認識しかありません。


「知る人」と「知られる対象」があっても、

「知る手段」が適当でなければ、知ることは出来ません。

さらに、「知られる対象」が「知る手段」によって、

知りうる範囲になければ、それを知ることが出来ない。


サンスクリット語の学習は、ボンヤリ認識していた世界や宇宙を、

構造的にすっきり理論的に把握するのを手伝ってくれます。




五感、推論、言葉などの「知る手段」を使っても、最終的に「心」という

「知る手段」が適当な状態でなければ、うまく知る事はできない。


「知るべき対象」の性質によって、適当な「知る手段」を使わなければ、

知ったことにはならない。


「知る主体」が自身の本質を知ろうとするとき、その「知るべき対象」とは?

その場合の「知る手段」は?

それが全てはヴェーダーンタにつながるのです。



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53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源






<< 前回 71.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- (意味1:) 知る手段 <<










= 文法に興味がある人へ =

ज्ञा + तृच्     3.1.133 ण्वुल्तृचौ । 動詞の主体を表す接尾語तृच्が付与される
ज्ञा + तृ        अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
ज्ञातृ  
ज्ञाता, ज्ञातारौ, ज्ञातारः... 名詞の活用(男性形)

ज्ञा + यत्      3.1.97 अचो यत् । 動詞の目的語を表す接尾語यत्が、
             母音で終わる動詞の原型に付与される
ज्ञा + य         अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
ज्ञी + य         6.4.65 ईद्यति । यत्の前の長いआはईに変わる
ज्ञे + य          7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । グナが起きる
ज्ञेय
ज्ञेयम्, ज्ञेये, ज्ञेयानि...  名詞の活用(中性形)

ज्ञा + ल्युट्       3.3.117 करणाधिकरणयोश्च । 動詞の手段や場所を表す接尾語ल्युट्の付与
ज्ञा + यु            अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
ज्ञा + अन         7.1.1 युवोरनाकौ । 接尾語のयुはअनに変わる
ज्ञान
ज्ञानम्, ज्ञाने, ज्ञानानि...  名詞の活用(中性形)



प्र + मा + तृच्     3.1.133 ण्वुल्तृचौ । 動詞の主体を表す接尾語तृच्が付与される
प्र + मा +  तृ        अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
प्रमातृ
प्रमाता, प्रमातारौ, प्रमातारः...  名詞の活用(男性形)

प्र + मा + यत्         3.1.97 अचो यत् । 動詞の目的語を表す接尾語यत्が、
               母音で終わる動詞の原型に付与される
प्र + मा + य           अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
प्र + मी + य           6.4.65 ईद्यति । यत्の前の長いआはईに変わる
प्र + मे + य            7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । グナが起きる
प्रमेय
प्रमेम्, प्रमेये, प्रमेयानि...  名詞の活用(中性形)

प्र + मा  + ल्युट्       3.3.117 करणाधिकरणयोश्च ।
प्र + मा  + यु           अनुबन्धलोपः  取扱説明書的な文字が取り除かれる
प्र + मा  + अन        7.1.1 युवोरनाकौ । 接尾語のयुはअनに変わる
प्रमान
प्रमानम्, प्रमाने, प्रमानानि...  名詞の活用(中性形)

2015年8月2日日曜日

65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])- 世界のあり方を支えている法則

धर्मः
[dharmaḥ]


masculine - 世界のあり方を支えている法則



ダルマ・チャックラ(車輪)
 あなたの身体も心も過去も未来も含んだ、この宇宙の全ては、
法則に沿って、形を変え続け、回り続けている

ダルマとは?


前回に見た「カルマ」といえば「ダルマ」です。

仏教のお坊さんの名前「達磨さん」も、この「ダルマ」という言葉から来ています。


「ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])」は、インドの智慧に少しでも触れれば、

必ず耳にする言葉のうちのひとつですが、

文化の上に成り立っている言葉の代表のようなので、

その意味を日本語一言で言い表すのは難しいです。

ゆえに今回は広げて説明しますね。でも、出来るだけ簡潔にわかりやすくまとめます。

こちらのダルマ・チャックラの方がインドの国旗に使われているものと似ている。
ちなみにインド国旗では深い青色で描かれている。

ダルマの語源


世界を、宇宙のあり方を支えているもの(धरति लोकान् [dharati lokān])

「ドリ(धृ [dhṛ])」という動詞の原型には、「支える」という意味があります。

そこに、ブランマンとかアートマンとか、カルマンとかの「マン」という接尾語が

付加されて出来た言葉です。接尾語の意味は「~するもの」です。

धृ [dhṛ](支える)+ मन् [man](~するもの)= धर्म [dharma](支えるもの)

となります。何を支えているのか?この


具体的な例を見ていきましょう。

無生物のダルマ


「火」のダルマは、「熱い、光を放つ」という性質です。

燃えている火が熱く、光を放ってこそ、この世はこんな風に出来ているのです。

火は熱いけど、たまに冷たくなる時もある、なんてことになると、

料理を作ったり、太陽に太陽でいてもらうことさえも期待出来なくなります。

空気は空気、水は水、海は海、川は川、空は空、

それぞれの「ダルマ」を守って、その範囲内で動いているからこそ、

この世界はこのような世界なのです。


生物のダルマ


生物でも、ライオンはライオン、猫は猫、パンダはパンダ、

竹は竹、きのこはきのこの「ダルマ」を守って、

それぞれの行動基準に沿った生き方をしています。

ある日突然竹やぶの竹が「ガオ~!」と叫んだりはしません。

個性はいろいろあれども、自分のあるべきあり方の一線を越すことはしません。


カメレオンはカメレオンらしく。

人間のダルマ


どうして人間様だけを特別に生物から離して別のカテゴリーに分けたのかというと、、、

人間には「自由意志」があるからです。

自由意志があるということは、自分のダルマに関して混乱がある、ということです。

人間にももちろん「人間のダルマ」そして「その人個人のダルマ」というものがあります。

自分に与えられた身体とその機能、立場という「ダルマ(あり方)」を見れば、

自分のするべき事についての「ダルマ」もおのずと決まります。


ただ食べてテレビを見て寝るだけにしては、

やたらにラグジュアリーな手足や脳みそが与えられています。

それらは、他の人間や動植物を愛したり、守ったりする為に与えられています。

脳みそは、しっかり考えられるように、かなり大きめに作って与えられています。

自分達の安全や快楽に関わる智慧を持って実行出来る事から、

他の動植物に比べてかなり有利な立場にあります。

日本に生まれてきたら、経済的にも職業選択の自由にもかなり有利な立場にあります。


しかし、そんな人間としての有利さを活かして、

「人間のダルマ」に沿って行動を選んでいるかと言えば、、、

怠惰や好き嫌いの慣性に引っ張られて、

「人間のダルマ」と誇らしく言えない方向に流されがちです。

そのジレンマがあるのが人間です。

このジレンマを司っているのが「自由意志」なのです。

必要であれば自由意志を使って、

人間としてのダルマを「選択」しなければならないのが、人間なのです。

ここが、他の動植物と人間が違うポイントです。


「ダルマ」の起源


「ダルマ」という言葉を使って、世界のあり方について教えるのが聖典ヴェーダです。

「カルマ」や「ダルマ」といった言葉とその意味(コンセプト)は、

聖典ヴェーダが元のソースとなっています。

「カルマとは、、」「ダルマとは、、」と説明する時には、

その元となる情報源は、ヴェーダであるべきです。

ヴェーダを元の情報源とせず、堂々とヴェーダの語彙を説明しているケースをよく見かけられるので、ご用心を。


幸せになりやすい人生を教えるヴェーダ


ヴェーダは人間の一生に、これでもかというほど生活規範を与えます。

朝は日の出までに起きて、お風呂はこういう風にしてこのマントラを唱えながら入って、

そのあとプラーナーヤーマとかしてからお祈りして、ジャパして、、、

と、ヴェーダの言う通りに生きていると自然に、

人間の好き嫌いの傾向をを諦めて、本能的惰性に引っ張られない、

精神的に安定・独立した、幸せが簡単に手に入りやすい人間に成長します。


なぜ幸せが手に入りやすいのかというと、

その人は客観的に世界を理解出来る、心が広く優しい人なので、

(心の狭さは、世界の理解を歪めますからね)

周りの無意味なあれこれに左右されにくく、

するべきことがすんなり出来て、多くの人を助けられるので、

自然と心は落ち着き、周りとも調和しているのです。


それだけでも十分幸せですが、ヴェーダが本当に教えたいことはその先にあります。

このように心を成長させた人にしか理解出来ない、

最後の教え、つまりヴェーダーンタを教える為に、

人間の心を成長させる手段を、ヴェーダの99.9%を占める

ヴェーダーンタの前の部分(カルマ・カーンダ)で言葉を尽くして教えているのです。

シャンカラーチャーリヤが持っている旗は「ダルマ」の印です。
ダルマがあって、初めてモークシャなのです。

自分のダルマって何?


これが、ヴェーダの文化の無い、現代日本の問題です。

私のダルマって?
ダルマは、あれこれ悩むものではなく、
その時その場所で正しく判断することなのです。

ダルマとは、その場その場で「Best of my knowledge(私の知る限りでベスト)」

を尽くして判断するように出来ています。

ゆえに、「これが私の定職、役目、ダルマ!」といえるものが

見つからないのは問題ではありません。

その日その日、目の前のやるべきことをやっていく、それがダルマなのです。


ダルマに沿った行動は、その時その場所で客観的に判断するべき事です。

自由意志を、惰性や好き嫌いから解放してあげて、やるべきことを選ぶ、

という生き方を続けていると、自然と正しい選択が苦も無く出来るようになります。

そんな人を、人間として精神的に成長した人と呼ぶのです。

物理的な成長は「人間的な成長」とは呼べません。

人間でなくても生物なら全て、時間が経てば自動的に成長し、劣化し、そして死にます。

人間の特権である「自由意志」を意識的に使い、精神的な成長を遂げることが、

わざわざ人間として生まれた目的なのです。



人間として生まれた目的


人間が生きている間になすべき目的は、人間として精神的に成長することにあります。

正しい知識に沿ってきっちり説明してもらえば、こんなに簡単で明快なことはありません。

正しいガイダンスがあれば、人生の目的は太陽の光の如くはっきりしますが、

正しいガイダンス無しに、頭をフル回転させているだけなら、

頭の良い医学博士でも、成功した実業家でも、宗教家でも、セラピストでも、

「人間としての目的」について、はっきりしたことが言えません。

健康で、長生きして、、その人生で何するの?

富と財産と名声は、、それ自体がゴールじゃなくて手段ですよね?

じゃあそれで何を得るべきなの?

人類を幸せに導く為の宗教家やオピニオン・リーダーの人達も、

悪気無く「人生に目的なんか無い、そんなの探しちゃ駄目!」と言ってのけます。

しっかりした価値感のベースになる教えが、日本には無いのです。

人生のゴールという絶対的価値が欠落している社会で、

何をどうやって納得しながら生きていけるのだろうか?

と、インドからおせっかいにも心配してしまいます。




ダルマの基準


随時状況を判断し、自由意志を使って行動を選択しなければならないのが人間の宿命です。

しかし、判断するには判断基準が必要です。

全てが完全に計算されつくされいるかのような、宇宙の秩序の中では、

ある生命体に自由意志を与えた場合、同時に意志を使う基準も与えています。

その基準は、私達人間ののDNAに、

そして深層心理にも表面心理にも、深く刻まれています。

どこぞの石版に刻まれている必要もありません。

その基準は、「アヒムサー」や「思いやり、コンパッション」と呼ばれるものです。

人間は、自分が傷つけらるのが嫌なのと同じように、

他の生物も傷つけられるのが嫌なことを、

誰から教わることなく、必ず知っています。

だから、他の痛みに敏感になり、出来るだけ痛みの少ない行動を選択する。

これがダルマの基準です。




全ての人類において普遍的なダルマは、サーマーンニャ・ダルマと呼ばれます。

サーマーンニャ(सामन्यः [sāmanyaḥ])とは、総体的な、一般的な、という意味です。

一方、その時代や場所で変わるダルマは、ヴィシェーシャ・ダルマと呼ばれます。

ヴィシェーシャ(विशेषः [viśeṣaḥ])とは、特異な、特別な、という意味です。

文化や習慣、宗教の違いも、このヴィシェーシャ・ダルマに反映されます。

そこから、サンスクリットが劣化して出来た言語であるヒンディーでは、

さまざまな宗教のことを、ダルマと呼びます。

イーサイー(キリスト)・ダルマ、イスラーム・ダルマ、ブッダ・ダルマ、、、


ダルマの種類??


しかし、ここでよく気をつけないと、

宇宙の原理が宗教創設者の考えによりいくつもある、

なんてことになってしまいます。


ヒンドゥーには、「我らのダルマ」などはありません。

あるのは、「サナータナ・ダルマ」(悠久に続くダルマ)だけです。

月や地球が軌道に沿って動くのが「ダルマ」です。

言葉や武器で傷つけられて、痛みを感じるのが「ダルマ」です。


ダルマとカルマ、そしてその結果


ダルマに沿って選択された行動は、この宇宙のあらゆる法則と調和しているので、

回り続ける大宇宙を車輪に見立てた、ダルマ・チャックラ(車輪)を回す動力になります。

そして、その行動をする人の周りや、その人の心の中に調和や平和、つまり幸せを生みます。




ダルマに沿わない行動は、宇宙のあらゆる法則と不調和しているので、

大宇宙のダルマ・チャックラの動きに反して、不協和音を発します。

ちょうど、ささくれ立った堅い木の皮に、服を脱いで背中を

きつくこつりつけているようなものです。

同じように、ダルマに沿わない行動を選択した人は、

遅かれ早かれ、必ず痛い思いをするわけです。


「ダルマ」は、自分や他人を審判する為のコンセプトではありません。

毎日を調和と共に生きて、自分と周りにより多くの幸せをもたらすことで、

自分が精神的に成長するために、知っておくべきコンセプトなのです。



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<< 前回 64.カルマ(कर्म [karma]) <<

正しく理解されていないもの、それがカルマ

日本でも使われている「カルマ」という言葉は、
正しく理解されないままに使われているサンスクリット語の
代表例のひとつです。バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナが言っています、、



>> 次回 仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1) >> 



2015年3月20日金曜日

48.デーヴァター(देवता [devatā])- 法則を司る神

देवता 
[devatā]


feminine - 法則を司る神




デーヴァーターとは


この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、

名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。

この宇宙全体と、その中にあるこの小さな私の心と体を、

どちらにも普遍にあるデーヴァターという側面から理解することは、

心と身体を健康に、客観的に、そして幸せに成長させる為に必要なことです。


宇宙にあまねく存在し、宇宙をミクロにマクロに動かしているデーヴァター達が、

あなたから距離0(ゼロ)の存在なのですよ、と知る為の仕掛けが、

ヴェーダの教える生活様式の中に、沢山ちりばめられているのです。


デーヴァターの語源


光ると言う意味の「ディヴ(दिव् [div])」という動詞の原型から成っています。

この世の者ではない、という意味と、光というと意識の光という意味があります。


デーヴァーターはどこにいる?


インドの伝統的な祈りには、デーヴァター達が沢山登場します。

今回紹介するのは、ルッドラというとても有名なシヴァのマントラを唱える前に、

その準備として、心身を清める為に唱えられる「ラグンニャーサ」という章です

清めるとは、自分の身体は祈りをするテンプル(神殿)なので、

各部位にデーヴァターを見て、神聖なものであると認識するということです。

下は「ラグンニャーサ」の中盤です。一緒に見てみましょう。


1:17から聞き始めてください。
書き落としのローマ字表記には間違いが多く見つかりますが、
ダクシナームールティの写真があるので、これを使いました。

प्रजनने ब्रह्मा तिष्ठतु । [prajanane brahmā tiṣṭhatu]
私の生殖器官に、ブランマー(創造を司るデーヴァター)がありますように。

バガヴァーンは、赤ちゃんを空からポトンと落として世に送ったりしません。

父親と母親を通して、さらに母親の痛み、献身、愛と喜びをセットにして、

新しい人間の身体をこの世に送り出します。

プージャスワミジがいつも言う、「親とはバガヴァーンのアソシエイト」のことです。

この仕組みの一環のシステムを総称して、創造のデーヴァター、ブランマーと呼ぶのです。

そのデーヴァターが、私のこの身体に存在している。

デーヴァターとあなたの距離が無いことを、知って欲しいのです。


पादयोर्विष्णुस्तिष्ठतु । [pādayorviṣṇustiṣṭhatu]
私の両足に、ヴィシュヌ(継続を司るデーヴァター)がありますように。

タットヴァボーダにもあるように、足のデーヴァターはヴィシュヌと決まっているみたいです。

हस्तयोर्हरस्तिष्ठतु । [hastayorharastiṣṭhatu]
私の両手に、ハラ(シヴァの別名)がありますように。

ハラとは、「持ち去る」という動詞の原型から来ています。

बाह्वोरिन्द्रस्तिष्ठन्तु । [bāhvorindrastiṣṭhantu]
私の両腕に、インドラ(力強さを司るデーヴァター)がありますように。

जठरेऽग्निस्तिष्ठतु । [jaṭhare'gnistiṣṭhatu]
私の消化器官に、アグニ(火、消化を司るデーヴァター)がありますように。

हृदये शिवस्तिष्ठतु । [hṛdaye śivastiṣṭhatu]
私の心臓に、シヴァ(吉兆という意味)がありますように。

कण्ठे वसवस्तिष्ठन्तु । [kaṇṭhe vasavastiṣṭhantu]
私の喉に、8人のヴァス神たち(元素、要素のデーヴァター)がありますように。

वद्त्रे सरस्वती तिष्ठतु । [vadtre sarasvatī tiṣṭhatu]
私の口に、サラッスヴァティー(言語、知恵を司るデーヴァター)がありますように。

नासिकयोर्वायुस्तिष्ठतु । [nāsikayorvāyustiṣṭhatu]
私の両鼻に、ヴァーユ(風、空気、動きを司るデーヴァター)がありますように。

नयनयोश्चन्द्रादित्यौ तिष्ठेताम् । []
私の両目に、チャンドラ(月)とアーディッティヤ(太陽)
(視覚を司るデーヴァター)がありますように。

कर्णयोरश्विनौ तिष्ठेताम् । [karṇayoraśvinau tiṣṭhetām]
私の両耳に、アシュヴィン(双子の医療を司るデーヴァター)がありますように。

ललाटे रुद्रास्तिष्ठन्तु । [lalāṭe rudrāstiṣṭhantu]
私の額に、ルッドラ(怒りのデーヴァター)がありますように。

मूर्ध्न्यादित्यास्तिष्ठन्तु । [mūrdhnyādityāstiṣṭhantu]
私のつむじに、12のアーディッティヤ(知性の光のデーヴァター)がありますように。

शिरसि महादेवस्तिष्ठतु । [śirasi mahādevastiṣṭhatu]
私の頭に、マハーデーヴァ(デーヴァターを司るデーヴァター)がありますように。

शिखायां वामदेवस्तिष्ठतु । [śikhāyāṃ vāmadevastiṣṭhatu]
私のシカーに、ヴァーマデーヴァ(シヴァの姿の一つ)がありますように。

シカーとはですね、別名チョティです。こんな感じです。
シカー、もしくはチョティと呼ばれる、一束の毛髪。
ヒンドゥーの男子に義務付けられている。
でも現代インド人はそんなこと恥ずかしいことだと現代社会から教えられている。かっこいいのにね。
私の教え子のちびっ子達のシカーが見えますか?
あんまりいい写真が無くて、、
もう地球上に3つしか残っていないサーマヴェーダの小さなグループの将来を担う子達です。

पृष्ठे पिनाकी तिष्ठतु । [pṛṣṭhe pinākī tiṣṭhatu]
私の背後に、ピーナーキー(ピナーカという名の弓を持つシヴァの化身)がありますように。

पुरतः शूली तिष्ठतु । [purataḥ śūlī tiṣṭhatu]
私の前に、シューリー(剣をもつ、スブラマンニャ)がありますように。

पार्श्वयोः शिवाशङ्करौ तिष्ठेताम् । [pārśvayoḥ śivāśaṅkarau tiṣṭhetām]
私の両脇に、シヴァーとシャンカラ(シヴァ夫婦)がありますように。

सर्वतो वायुस्तिष्ठतु । [sarvato vāyustiṣṭhatu]
私の周りに、ヴァーユ(風と空気を司るデーヴァター)がありますように。

ततो बहिः सर्वतोऽग्निर्ज्वालामालापरिवृतस्तिष्ठतु । [tato bahiḥ sarvato'gnirjvālāmālāparivṛtastiṣṭhatu]
そしてその周りを、アグニ(火のデーヴァター )が、火の鎖で囲んでくれますように。

सर्वेष्वङ्गेषु सर्वा देवता यथास्थानं तिष्ठन्तु । [sarveṣvaṅgeṣu sarvā devatā yathāsthānaṃ tiṣṭhantu ]
私の体の全ての部位において、全てのデーヴァターが、あるべきところにありますように。

「ヤタースターナン(あるべきように)・ティシュタントゥ(ありますように)」は、
とても使える祈りです。

मां रक्षन्तु । [māṃ rakṣantu]
(全てのデーヴァター達が)私を守り、恩恵を与えてますように。

सर्वान् महान् जनान् रक्षन्तु ॥ [sarvān mahān janān rakṣantu]
そして全ての高貴な人間を守り、恩恵を与えますように。




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<<前回 47.マウナ、モウナ(मौनम् [maunam])<<

沈黙、言葉を制御するという意味の単語です。









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インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。

聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。

2015年3月18日水曜日

47.マウナ、モウナ(मौनम् [maunam])- 沈黙、言葉の制御

मौनम्
[maunam]


neuter - 沈黙、言葉の制御




私の住んでいるアシュラムの敷地内にある
伝統的儀式の習慣を守り続ける、とても強力な寺院で祀られている
シヴァの先生という形、メーダー・ダクシナームールティ

マウナの語源


「ムニ(मुनिः [muniḥ] )」とは、聖人・賢者を表すサンスクリット語です。

聖人・賢者(ムニ)の在り方を、マウナと言います。

मुनेः भवः मौनम् [muneḥ bhavaḥ maunam]

最初の「ム」の音に「ヴリッディ」と呼ばれる母音の変化が起きて「マウ」となり、

「ニ」の最後の「イ」の音が「ア」になって、「マウナ」となります。

中性名詞なので、活用すると、「マウナム(मौनम् [maunam])」となります。

発音によっては「モウナ」と書かれる時もあります。



聖人・賢者って誰?どんな人?


マウナをしている人です!


マウナとは?


言葉を制御することです。


バガヴァッド・ギーター12章で教えられている聖人・賢者の在り方として、

「マウニー」(ヨーガ→ヨーギー と同じ原理で、マウナ→マウニー です。)

つまり、「モウナを実践している人」と教えられています。

シャンカラーチャーリヤは聖人・賢者の在り方である「マウニー」について、

こう解説しています。

「マウナをしているひと、言葉が制御されている人」
(मौनवान् संयतवाक् [maunavān saṃyatavāk])



ぜひトライしてみたい、効果的な「マウナ」


一般に言われるマウナは、言葉を発せずにただ静かに沈黙していることです。

例えば一日のうちの決まった時間や、一週間のうちの決まった曜日などに、

誰とも話さずに無言で過ごす習慣はとても良いことです。

プージャスワミジも、生徒にいつも勧めています。

話さないと決めると、時間がいっぱいあることに気付きます。

実際に話す時間だけではなく、話し相手と話す環境を整える時間、

何を言ってやろうかとか、何であんなこと言ったんだろうとか、

ちゃんと伝わったのかな?と、過去未来へ思いを馳せながら、

とてつもなく多いメンタルな時間を、私達はお喋りに費やしていることに気付きます。

その時間をごっそり全部、自分自身と一緒に過ごせるのです。

これは贅沢な時間です。

しかも、話し相手の時間も無駄にしなくて済むので、これは立派な社会貢献です。



インドでは、何年と言う単位でマウナをしている人がいますが、

そういうのを許してくれるインド社会はもっとすごいですですね。


マウナの最上級形


最上級のマウナは、聞き手の為になる事だけを話すことです。

最小の文章、最小の単語で、要点が伝わるように話す。

聞き手の役に立つ、真実で、しかも気分を害しない優しい言葉で話す。

これに気をつけるだけでも、大きな変化が生まれます。


言葉だけではなく、マインドも洗練される


人間としての成長を促す有効な手段として、「タパス(規律)」があります。

バガヴァッド・ギーター17章では、タパスの種類がいくつか教えられており、

その中に「モウナ」があります。

シャンカラーチャーリヤはモウナのことをこう解説しています。

「マウナとは、言葉の制御であるが、考えの制御が先立つことから、

結果を指す言葉を使って、原因を指し示すとして、

マウナとはここでは、考えの制御と取る。」

मौनं वाक्-संयमः अपि मनःसंयमपूर्वकः इति कार्येण् अकारणम् उच्यते मनःसंयमः मौनम् इति (१७.१६)


聞き手に役立つことだけを話せたらいいですが、

やっぱり「ちょっと聞いて欲しい!」と思うことも日々多々あります。

やせ我慢をするのは良くないですが、

こういう「話さないと気が済まない」というプレッシャーから自由になることが、

人間の成長なんだな、と知っておくのはいいことです。


自分への癒し - 愚痴る人への共感者になる


心を開くことの出来る人がいて、その人に自分の話を聞いてもらったり、

そして共感してもらうことは、大事な癒しのステップです。

自分が聞いてもらう立場にあるより、自分が聞いてあげる立場にある方が、

より確実で、より強力な癒しのステップになります。

人が愚痴り始めたら、ボランティアと思って積極的に聞き役に回ってあげましょう。

よっぽど頼まれない限りアドヴァイスをするのは極力避けて、

とにかく聞いて、共感して、一緒に怒ったり悲しんだりするだけでいいのです。

でもそれ悪いのどっちかな?と思うような時でも、とりあえず、

「ムカつく気持ちは分かる!」と誰かに共感してもらえて始めて、

「まぁ、私も悪かったかも知れないけど」と考えられるみたいです。人間という者は。

人の愚痴を積極的に聞いているうちに、自分も愚痴り方のツボが分かってきて、

最小時間で最大の癒しの効果が得られるような、効率的に愚痴れるようになります。

愚痴をこぼすのは、時間の無駄と言えば無駄ですが、

うまく使えば、とても良い相互の癒しが期待できます。


話を戻して。

見習いたい、賢人の言葉の使い方


ヴェーダーンタと文法に関するサンスクリットの文献を毎日読んでいますが、

賞賛すべきは、解説書の著者達が、一語のみならず、一音節すらも無駄に使わないことです。

「聖典ヴェーダの言葉は全て、何かしら人間の役に立つ意味があるはず」

という前提において研究が進められていることから、

研究者達も、「聞き手の役に立たないなら、半音節すら使うべきではない」

という姿勢が貫かれています。

ゆえに、原典でも、解説書でも、その一言一句ついて、

「なぜこの言葉が使われたのか、この言葉が無かったらどうなっていたか?」

という検証をするのです。

言葉の単位、文章の単位、パラグラフの単位、章の単位、そして本の単位で、

それぞれ、その存在価値を証明しなければならない、という世界です。

その姿勢を表す最高峰が、パーニニ・スートラです。

最小音節を追求して、完全にメタ言語(人工言語)になっています。

スートラと呼ばれるに相応しい文章のあり方として、6つの条件があります。

1.最小最短であること
2.曖昧さがないこと
3.意味があること
4.汎用性があること
5.感嘆詞を入れないこと
6.間違いがないこと

これは、私達が言葉を発する時にも参考にしたいですね。


比べ物には到底成り得ませんが、現代の日本の書籍やインターネットが、

いかに無意味な言葉で溢れているのか、思い知らされますね。


沈黙の教えとは


冒頭に使用したのは、ダクシナームールティの姿です。

描かれた姿の中のひとつひとつのアイテムに、それぞれ深い意味が込められています。
それは、また後の機会に説明しますね

ダクシナームールティは「ヴェーダーンタを沈黙で教えた」と

シャンカラーチャーリヤが彼の詩で表しています。

いつもマウナだった、ラマナ・マハルシについても同じ事が言われています。

ティルヴァンナーマライでは、だから文献の勉強なんてしな~い、になっています。

自分を知るには自分に「私は誰?」と瞑想の中で問いかければいい。

そしたらいつか、瞑想の中でアーナンダを体験出来る、、、というのが彼らの夢です。


無知を直せるのは知識だけ


私達は自分自身のことを、この身体だ、この心だ、この名前だ、等など、

無数の勘違いを持って生まれ、勘違いを深め、増殖しながら生きています。

間違いを正すのは、間違いのある場所でしかありません。


自分の部屋で指輪を無くしたのに、「部屋は探し物をするには暗すぎるから」

といって、明るい屋外に出て指輪を探し続けているのと同じです。


自分に対して持っている結論が間違っているのだから、

その結論のある場所、つまり「私は~だ」という間違いの言葉を、

言葉を使って正すのです。


「沈黙の教え」の本当の意味


じゃあ、私は何なのだ?という答えが「沈黙の教え」です。

「沈黙の教え」とは、その言葉が直接表す意味ではなく、

言葉の意味を理解している主体を指しているのです。

言葉の反対側、つまり無言の側。

言葉とその理解者は向こう岸にあり、私は対岸でそれを無言で傍観している。

つまり言葉とその意味を対象化し続けている、永遠の主体。

言葉が直接指し示すことの出来ない存在。

それは、今ここで、「読んでいる私」を対象化している、意識的存在の、

私のことなのです。


ネオ・ヴェーダーンタの行き詰まり


しかし、ここまで分かったとしても、

イーシュワラ(全体)の意味を理解していなければ、

その人の幸せには全く貢献出来ません。

「あなたは意識的存在だ」なんて、赤ちゃんでも知っています。

知るべきは「あなたはこの宇宙に存在を与えている、

あらゆる制限も無い、ブランマンなのだ」の知識なのです。

ゆえに、伝統的な教えを知る先生と文献が必要なのです。





<< 前回 46.サマーディ(समाधिः [samādhiḥ]) <<

瞑想で鍛えたそのマインドで何するの?
サマーディは手段であって、ゴールではありません。


>> 次回 48.デーヴァター(देवता [devatā])>>

物理の法則、化学の法則、生理学の法則、心理学の法則、、

自分の心身を含めた、宇宙全体にあまねく法則を認識するための言葉です。




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