वेदः
[vedaḥ]
ヴェーダは言葉の集まりから成る知識の集合体です。
ヴェーダという言葉は「विद् [vid] to know(知る)」という動詞の原型から派生した言葉です。
「घञ् [ghañ]」は「~する手段」という意味の接尾語です。
この接尾語は「ア [a]」の音だけが残ります。
[vid] と[a] を併せて「知る+手段」という意味の
「ヴェーダ(वेद [veda])」という言葉が出来上がります。
(文法の式は一番下をご覧下さい)
「知る手段」というからには、ヴェーダを使って何かを知ることが出来ます。
何を知る手段なのでしょうか。
ここでは「ヴェーダには4つあって、それぞれの名前は、、」
といったどこにでもある情報は割愛させて頂きます。
なぜかというと、4つあるヴェーダが私達人間に伝えるべき題目は同じだからです。
その題目は何かというと「人間の幸せ」です。
「OOヴェーダは紀元前XX年頃に、、」といった情報は、
伝統の教えでは扱われません。ゆえにここでも扱いません。
それは人間の幸せとは無縁な情報だからです。
ヴェーダとは、聖典であるがゆえに、全人類の幸せに貢献するものでなければなりません。
全人類の幸せに貢献してこそ、聖典と呼ばれるに相応しいのです。
聖典とは、全人類の幸せに貢献するからこそ聖典と呼ばれるのです。
一部の人間しか幸せになれないようなことが書いてあったり、
ましてや全人類をも不幸に陥れるようなことが書いてあるのなら、
それは聖典などではなく、不幸の書とでも呼ばれるべきです。
もし、人類に暴力と不安をもたらしている宗教があれば、
その宗教の聖典そのものが聖典と呼ばれる資格が無いということです。
聖典としてのステータスを失いたくなければ、
人間による聖典の教義の解釈が間違っていたと認めて、
解釈の改訂を検討するべきです。
聖典の教義という名の下に暴力を振るっている宗教団体がいたとしたら、
社会全体が、彼らに教義の解釈の見直しを迫る必要があります。
話を戻して、
ヴェーダは言葉の集まりから成る知識の集合体であることから、
ヴェーダは言葉を通して、私達の幸せの追求のための智慧を教えてくれるのです。
言葉であるゆえに、言語能力を通して理解されるべき対象がヴェーダの教えです。
感じたり、瞑想中に光を見たり、音を聞いたり、
そんな馬鹿げた経験の対象ではありません。
ヴェーダは私達人間がより幸せになるための知識を言葉を通して教えてくれます。
しかしヴェーダが無くても、私達は生きてきた経験によって、
それなりに幸せになれる方法を沢山知っています。
私達は、より多く働けばより高い収入を得られる。
より魅力的になればより良いパートナーを得られる。
より身体をいじくれば健康と美容を得られる。
より活動すればより多くの人脈や名声を得られる。
そして、それらが私に幸せをもたらしてくれるだろう、ということを知っています。
自分独りの経験による知識だけでは足りなければ、他人の豊富な経験から学べば良いのです。
これらのような経験によって得られる知識は、
ヴェーダの教える範囲ではありません。
目や耳などの五感を通したデータとそれを基にした推論が、
私達に与えられた「知る手段」です。
それらとは独立した「知る手段」がヴェーダです。
ゆえに、ヴェーダが無くても分かることは、ヴェーダは教えないのです。
では、ヴェーダは何を教えてくれるのか?
ヴェーダは、私達の経験や推論によって知ることの出来ない範囲の題材について教えています。
例えば「幸運」とか、それを得る為の「祈り」のこととか。
こう書くと、単なる信仰やおまじないのように聞こえますが、
そんな単純なものではありません。
「幸運」を認識するとは、
「結果を出しているのは私だけでは無い」と
客観的に世界の現象を認識することです。
「祈り」は、私達の認識の範囲を、
「個人の対立からなる小さな社会」から、
「宇宙全体の大きな動き」へと、どんどん広げてくれます。
ゆえに、「幸運」や「祈り」は、盲目的に信仰する為のものではなく、
世界の客観的な理解とその認識を助けてくれる便利なツールなのです。
ヴェーダは、人々の多岐にわたる無数の欲求に応えて、
「幸運」や「祈り」についてもこと細かく説明します。
カルマの法則をいうモデルを使って宇宙世界を説明し、
そして宇宙世界とうまく関わる為の生活様式や祈りの儀式を教えます。
カルマの法則とは、簡単にいうと行動と結果の連鎖の法則です。
その理解のために、
デーヴァター(物理や生理などの法則を神格化して説明したヴェーダの神々)や
アドリシュタ(運。結果に関わる予想困難な要素)といったコンセプトが使われます。
「幸運」や「祈り」といった鍵を使って、より多くの物質的・心理的な満足を得ながら、
さらに人間としての精神的な成長も手伝ってくれるのが、ヴェーダの教える生き方です。
「幸運」に気付き感謝し、「祈り」のある生き方は
「自分と宇宙はひとつ」という認識をより確かにしてくれるのです。
私達は生まれつき消費者です。
他の動植物の命を奪わなければ、生きていくことも出来ません。
母親から始まって、幾多の人の慈悲と優しさに頼って生きています。
他の聖典では「地球上の動植物は人間の消費の為に与えられている」と教えられていますが、
ヴェーダは「人間は、貢献者として成長する為に生まれてきた」と教えます。
私達には創意工夫の出来る器用な手先や、
人の痛みを感じ、理論的かつ倫理的に考えられる脳みそが与えられています。
人間は、自由意志をうまく使えば、
ただ地球上にあるものを消費してエンジョイするだけの生き物以上の存在になりえるのです。
ヴェーダは、人間のそれぞれの世代にあわせて、学生や社会人としての義務を与え、
義務を果たすことによって、自然と貢献者として成長出来るような生活規範を教えています。
ヴェーダは人間の幸せの為に与えられた知識です。
人間的な幸せとは、消費ではなく、貢献なのです。
こうして人類により豊かに、貢献者として成長する手段を教えた後、
ヴェーダが最終的に教えることは「私」の意味です。
なぜなら「私」のことは、私だけでは知りえないからです。
= サンスクリット文法 =
विद् + घञ् 3.3.131 हलश्च । ~ घञ् करनाधिकरणयोश्च
= विद् +अ 1.3.3 हलन्त्यम् । 1.3.8 लशक्वतद्धिते । 1.3.9 तस्य लोपः।
= वेद् +अ 7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । गुणः
= वेद
विद्यते अनेन इति वेदः । शब्दप्रमाणम्
51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])
「探求者 ≠ 探求しているもの」
これが全ての間違いのもとなのです。
<<前回 49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ])<<
それによって「これが私」という考え・結論が出来る。
それがアハンカーラ。
<< 前回の言葉 48.デーヴァター(देवता [devatā]) <<
「私と宇宙は別の存在ではない」ことを気付かせてくれる為に、
この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、
名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。
[vedaḥ]
masculline - 知る手段
パームリーフ(やしの葉)に書かれたリグ・ヴェーダ |
ヴェーダとは
ヴェーダは言葉の集まりから成る知識の集合体です。
ヴェーダという言葉は「विद् [vid] to know(知る)」という動詞の原型から派生した言葉です。
「घञ् [ghañ]」は「~する手段」という意味の接尾語です。
この接尾語は「ア [a]」の音だけが残ります。
[vid] と[a] を併せて「知る+手段」という意味の
「ヴェーダ(वेद [veda])」という言葉が出来上がります。
(文法の式は一番下をご覧下さい)
「知る手段」というからには、ヴェーダを使って何かを知ることが出来ます。
何を知る手段なのでしょうか。
ヴェーダという聖典が人類に伝えようとしていること
ここでは「ヴェーダには4つあって、それぞれの名前は、、」
といったどこにでもある情報は割愛させて頂きます。
なぜかというと、4つあるヴェーダが私達人間に伝えるべき題目は同じだからです。
その題目は何かというと「人間の幸せ」です。
「OOヴェーダは紀元前XX年頃に、、」といった情報は、
伝統の教えでは扱われません。ゆえにここでも扱いません。
それは人間の幸せとは無縁な情報だからです。
ヴェーダとは、聖典であるがゆえに、全人類の幸せに貢献するものでなければなりません。
全人類の幸せに貢献してこそ、聖典と呼ばれるに相応しいのです。
そもそも聖典とは?
聖典とは、全人類の幸せに貢献するからこそ聖典と呼ばれるのです。
一部の人間しか幸せになれないようなことが書いてあったり、
ましてや全人類をも不幸に陥れるようなことが書いてあるのなら、
それは聖典などではなく、不幸の書とでも呼ばれるべきです。
もし、人類に暴力と不安をもたらしている宗教があれば、
その宗教の聖典そのものが聖典と呼ばれる資格が無いということです。
聖典としてのステータスを失いたくなければ、
人間による聖典の教義の解釈が間違っていたと認めて、
解釈の改訂を検討するべきです。
聖典の教義という名の下に暴力を振るっている宗教団体がいたとしたら、
社会全体が、彼らに教義の解釈の見直しを迫る必要があります。
話を戻して、
ヴェーダは、言葉という形の知識
ヴェーダは言葉の集まりから成る知識の集合体であることから、
ヴェーダは言葉を通して、私達の幸せの追求のための智慧を教えてくれるのです。
言葉であるゆえに、言語能力を通して理解されるべき対象がヴェーダの教えです。
感じたり、瞑想中に光を見たり、音を聞いたり、
そんな馬鹿げた経験の対象ではありません。
全人類の幸せに貢献するための知識の集合体、ヴェーダ
ヴェーダは私達人間がより幸せになるための知識を言葉を通して教えてくれます。
しかしヴェーダが無くても、私達は生きてきた経験によって、
それなりに幸せになれる方法を沢山知っています。
私達は、より多く働けばより高い収入を得られる。
より魅力的になればより良いパートナーを得られる。
より身体をいじくれば健康と美容を得られる。
より活動すればより多くの人脈や名声を得られる。
そして、それらが私に幸せをもたらしてくれるだろう、ということを知っています。
自分独りの経験による知識だけでは足りなければ、他人の豊富な経験から学べば良いのです。
これらのような経験によって得られる知識は、
ヴェーダの教える範囲ではありません。
目や耳などの五感を通したデータとそれを基にした推論が、
私達に与えられた「知る手段」です。
それらとは独立した「知る手段」がヴェーダです。
ゆえに、ヴェーダが無くても分かることは、ヴェーダは教えないのです。
ヴェーダが扱う題材の範囲
では、ヴェーダは何を教えてくれるのか?
ヴェーダは、私達の経験や推論によって知ることの出来ない範囲の題材について教えています。
例えば「幸運」とか、それを得る為の「祈り」のこととか。
「幸運」と「祈り」
こう書くと、単なる信仰やおまじないのように聞こえますが、
そんな単純なものではありません。
「幸運」を認識するとは、
「結果を出しているのは私だけでは無い」と
客観的に世界の現象を認識することです。
「祈り」は、私達の認識の範囲を、
「個人の対立からなる小さな社会」から、
「宇宙全体の大きな動き」へと、どんどん広げてくれます。
ゆえに、「幸運」や「祈り」は、盲目的に信仰する為のものではなく、
世界の客観的な理解とその認識を助けてくれる便利なツールなのです。
私の住んでいるアシュラムでのお正月プージャー(祈りの儀式)にて |
信じさせるのではなく、考え、理解させる聖典
ヴェーダは、人々の多岐にわたる無数の欲求に応えて、
「幸運」や「祈り」についてもこと細かく説明します。
カルマの法則をいうモデルを使って宇宙世界を説明し、
そして宇宙世界とうまく関わる為の生活様式や祈りの儀式を教えます。
カルマの法則とは、簡単にいうと行動と結果の連鎖の法則です。
その理解のために、
デーヴァター(物理や生理などの法則を神格化して説明したヴェーダの神々)や
アドリシュタ(運。結果に関わる予想困難な要素)といったコンセプトが使われます。
「幸運」や「祈り」といった鍵を使って、より多くの物質的・心理的な満足を得ながら、
さらに人間としての精神的な成長も手伝ってくれるのが、ヴェーダの教える生き方です。
「幸運」に気付き感謝し、「祈り」のある生き方は
「自分と宇宙はひとつ」という認識をより確かにしてくれるのです。
消費者から、貢献者へ
私達は生まれつき消費者です。
他の動植物の命を奪わなければ、生きていくことも出来ません。
母親から始まって、幾多の人の慈悲と優しさに頼って生きています。
他の聖典では「地球上の動植物は人間の消費の為に与えられている」と教えられていますが、
ヴェーダは「人間は、貢献者として成長する為に生まれてきた」と教えます。
私達には創意工夫の出来る器用な手先や、
人の痛みを感じ、理論的かつ倫理的に考えられる脳みそが与えられています。
人間は、自由意志をうまく使えば、
ただ地球上にあるものを消費してエンジョイするだけの生き物以上の存在になりえるのです。
義務を果たすことによって、自然と貢献者として成長出来るような生活規範を教えています。
ヴェーダは人間の幸せの為に与えられた知識です。
人間的な幸せとは、消費ではなく、貢献なのです。
ヴェーダの最後の部分にある教え
こうして人類により豊かに、貢献者として成長する手段を教えた後、
ヴェーダが最終的に教えることは「私」の意味です。
なぜなら「私」のことは、私だけでは知りえないからです。
= サンスクリット文法 =
विद् + घञ् 3.3.131 हलश्च । ~ घञ् करनाधिकरणयोश्च
= विद् +अ 1.3.3 हलन्त्यम् । 1.3.8 लशक्वतद्धिते । 1.3.9 तस्य लोपः।
= वेद् +अ 7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । गुणः
= वेद
विद्यते अनेन इति वेदः । शब्दप्रमाणम्
51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])
「探求者 ≠ 探求しているもの」
これが全ての間違いのもとなのです。
<<前回 49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ])<<
それによって「これが私」という考え・結論が出来る。
それがアハンカーラ。
<< 前回の言葉 48.デーヴァター(देवता [devatā]) <<
「私と宇宙は別の存在ではない」ことを気付かせてくれる為に、
この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、
名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。