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2015年9月3日木曜日

66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam])永遠、時間の範囲内でないこと

ニッティヤ(नित्यम् [nityam])は「永遠の」という形容詞としても使われますが、

中性名詞として使えば、「永遠」「エタニティ」という意味の抽象名詞になります。



形容詞の「永遠の愛」とか「永遠の幸せ」とかいった使われ方や、

中性名詞の「永遠」「エタニティ」はキャッチフレーズのように良く使われますが、

その本当の意味が理解出来るのなら、それはモークシャです。

今回は、「永遠」「エタニティ」という言葉の意味をじっくり探ってみましょう。



ニッティヤ(नित्यम् [nityam])には大きく分けて3つの意味があります。

1.相対的なニッティヤ
  アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])

2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ
  プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])

3.絶対的なニッティヤ
  パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])

では、それぞれを見ていきましょう。


1.相対的なニッティヤ



気の遠くなるような長~い長い時間のことを、

アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])と呼びます。

アペークシャ(अपेक्ष [apekṣa])とは、相対的、比較的という意味です。

長いけれども、終わりがある。

結婚するときに誓う、「永遠の愛」とか、

ヴェーダの教える「永遠の(ように長い時間遊んでいられる)天国」などに、

このタイプの「ニッティヤ(永遠)」が使われます。

天国とは?


ヴェーダは嘘をつきません。

ヴェーダは天国のことを「相対的に長い時間楽しんでいられる場所」として教えています。

絶対的な永遠は、その意味を理解出来る準備が出来た人のみに教えられます。


ヴェーダ以外では天国をどのように教えているのでしょうか。

宗教というものは大体「永遠の天国」を「人間の得られる最高のゴール」としています。

天国があるのか無いのかは、死んでからしか分からないので、

生きている間は信じるしかありません。

「信じないと永遠の地獄に落ちるぞ」と脅して、

生きている間のその人の人生をコントロールします。

人間というものは無邪気なもので、「永遠って何さ?」と立ち止まって考えてもみずに、

文字通り「盲目的」に永遠の天国というコンセプトを鵜呑みにして一生を棒に振ります。


天国とは、行ってまた帰ってくるところ


会社で一生懸命働いて残業代を沢山稼ぎ、無駄遣いもしないでちゃんと貯金すれば、

ハワイに1週間遊びに行けます。

でも、1週間過ぎたらまた、もとの会社に戻ってまた働くのです。

同じように、人間として生きている間に善い行いを沢山すれば、

死んだ後に天国に行けるよ~、とヴェーダは約束をします。

しかし、「本当の永遠ではなく、相対的な永遠、つまりまた人間として戻ってきますよ!」

と、ヴェーダは正直にちゃんと教えてくれます。

天国行きとは結局、ハワイ旅行と同じ、ツーリズム・プロモーションなのです。

天国に行っても、人間の本当の、最終のゴールは果たせないと、

人間に解らせてくれるのです。

でも、それを言われても解らないのが人間なので、いつか気付くまでの間は、

気の済むまで天国行きを繰り返せるように、いろんな方法を教えてくれます。





相対的な永遠


ヴェーダの教える天国「スワルガ(स्वर्गः [svargaḥ])」では、

とてつもなく長~い時間快適に過ごすことが出来ます。

人間の身体というものは、持っても100年そこそこで、

生きている間もどんどん老いて、痛みやコンプレックスの根源であり、

命をつなぐ為だけにも、毎日食べたり消化したり汗をかいたりとメンテナンスが大変で、

楽しいことばかりにいそしんでいられません。

一方、人間として生きている間に善い事を沢山した人は、

死んでからスワルガに行き、そこでスワルガ用の身体を得ます。

スワルガ用の身体は老いたり病気をしたりしません。汗もかきません。

長い時間、ただただエンジョイするためだけに設計された身体です。

スワルガには色んな種類があって、最上の天国はブランマ・ローカだと、

ヴェーダは教えます。ブランマ・ローカではブランマージーの一生分の時間が過ごせます。

それってどれ位の長さかというと。。。

こちらにヒンドゥーの気の遠くなるような時間の単位の計算をまとめました。

物理的にこのように長くなくとも、感覚的にでも構いません。

実質は5分しか経っていなくても、その5分が永遠に感じる時があります。

5分でも、5兆年でも、どちらも相対的な時間の範囲なのです。

長いと感じたら、それは長いのです。

経験というものは相対的なものなのですから。



2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ


プラヴァーハ(प्रवाह [pravāha])とは、「河の流れ」という意味にもなっているように、

継続的な流れを指すサンスクリット語です。

河の水面を眺めていると、一瞬一瞬にそれぞれ違った形をしていて、

同じ形の水面は2度とありません。

私が昔住んでいたリシケシのアシュラムから眺める
ガンガージーの水面(雨季)

同じように、変化し続けながら存在する、この世界・宇宙は、

プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])と呼ばれます。

世界・宇宙は、五感で知覚出来るように表れている状態でも、

五感で近く出来なくても、可能性という状態で存在しています。

今の科学の説明を使うと、ビッグバン以前でも、ビッグバンが起きる原因として

宇宙は存在し続けていると言えます。

宇宙の表れ方について、物理学的、地学的、天文学的、

といったあらゆる側面の法則をダルマと呼びます。

ゆえにダルマもプラヴァーハ・ニッティヤです。

ヴェーダも、人間のあるところには必ず表れるので、プラヴァーハ・ニッティヤです。

ちなみに、人間の定義は、「自由意志を持った生命体」です。




3.絶対的なニッティヤ


パラマールタ(परमार्थ [paramārtha])とは「絶対的」という意味です。

絶対的な意味でのニッティヤは、

パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])

と呼ばれます。

この言葉の本当の意味を理解出来れば、それがモークシャです。


人間の生まれてきた意味、人生のゴール


モークシャとは、文字通り訳すと「自由」です。

何からの自由なのかというと、「常に何かになろうとしている自分からの自由」です。

人間の最終的なゴールと呼ばれるにふさわしい、

本当のモークシャは永遠でなければなりません。

しかし、永遠とか永遠でないものについてきちんと考えないゆえに、

時間制限付きのモークシャで手を打つのです。

永遠といったテーマについてきちんとした考えを持っていないがゆえに、

宗教家やスピリチュアル・リーダーとよばれる人々が、

「人生にゴールなんてありません」といった無責任な言葉を発しているのが

現在の日本の状況です。


しかし、私達人間にはもっときちんと考えられるブッディ(思考力)が与えられています。

今一度、きちんと考えて見ましょう。

きちんとした考えを助けるのが、ヴェーダーンタの伝統なのです。


楽しい経験をしている時、瞑想という経験をしている時、

平和な気持ちを経験している時、などの経験は、

時間制限つきの相対的なモークシャです。

5秒間なり、1分間なり、1年間なり、惨めな自分のことを忘れていられる時間を、

「幸せ」つまり「(相対的な)モークシャ」と定義づけ、

それを夢見て追いかけ続けて一生を過ごします。

ジタバタして頑張って、至福の時間を経験しても、時間が切れれば、

また元の惨めな自分に戻ります。

そんな経験を繰り返しているうちに、とてつもなく幸運な人々は、

お金・権力・人間関係・瞑想・などなどから得られる「経験」を分析し、

それら時間制限付きの幸せの限界を見抜き、興味を失います。

「ニッティヤーニッティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ
(नित्यानित्यवस्तुविवेकः [nityānityavastuvivekaḥ])」

そう、タットヴァ・ボーダ(तत्त्वबोधः [tattvabodhaḥ])ですね。

この世でもあの世でも、宇宙の中で経験できる全ての幸せについて、

限界を見抜いた人が、ヴィヴェーキー(विवेकी [vivekī])、つまり

ヴィヴェーカ(विवेकः [vivekaḥ])を持っている人であり、

その人はムムクシュ(मुमुक्षुः [mumukṣuḥ])と呼ばれます。

時間の範囲内では、相対的ではない、絶対的なモークシャとは、

絶対的な永遠でなければなりません。

絶対的な永遠とは何か。

本当の永遠の意味とは、実はそれを探しているあなたのことなのですよ。

時間の流れを傍観し続けている、時間の範囲内では無い、

こちら側、つまり永遠である、それがあなたなのですよ。

と教えるのがヴェーダーンタなのです。



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 仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)

<< 前回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) <<

2015年2月10日火曜日

40.カイヴァッリャ(कैवल्यम् [kaivalyam])- 唯一であること、モークシャ、人生のゴール

कैवल्यम् 
[kaivalyam] 

neuter - 唯一であること、モークシャ、人生のゴール




前回の「ケーヴァラ(केवल [kevala] - )」で見た、「唯一の、ただそれだけ」という意味に、

「~であること」「~というステータス」という言葉を作るための接尾語「ष्यञ्」をつけて、

となりまして、「カイヴァッリャ(कैवल्यम् [kaivalyam] )」が出来上がりです。

केवल + ष्यञ्  5.1.123
कैवल + य            7.2.117
कैवल् य                6.4.148


途中の番号が気になる方は、パーニニ文法を勉強してみましょう!

ऐश्वर्यम् [aiśvaryam] - アイシュワリヤ でも同じステップです。


なぜ、唯一であることが、モークシャと呼ばれる、人生のゴールなのでしょうか?

モークシャ(मोक्षः [mokṣaḥ] )とはちなみに、「自由になる」という意味です。

何から「自由になる」のでしょうか?

悲しい自分、苦しい自分、辛い自分、小さい自分、不健康な自分、

楽しくない自分、つまらない自分、こんな自分、あんな自分、、、

そんな自分から解放されたいが為に、物乞いから億万長者まで奔走を続けています。

かといって、「自分」からの自由、というわけではありません。

「自分」の前についている、あれやこれやの「形容詞」からの自由です。

形容するということは、区切りをつけている、つまり限界をつけているということです。

結局のところ、人間誰しも、自分の持っている限界が気に食わない訳です。

じゃあ、それから自由になるには?

ヴェーダは教えます。「あなたは、もともと限界から自由です。」

区切るものが無いから、だからたったひとつ、唯一の存在なのです。

へぇー、それは知らなんだ。そう、自分に対しての無知が原因なのです。

無知を取り除くには?知るしかない。


なぜモークシャにヴェーダーンタが必要なのか?


しかし、なぜヴェーダに教えてもらわないといけないのか?

私達に与えられている情報収集機能は、目鼻口などの五感と、

五感から得られたデータをベースにした推論だけです。

それらは全て、自分以外のことを知るためにあります。

色や形や言葉の意味も、全ては区切りであり限界です。

だから、自分自身の本質は、自分ではどうしても知ることの出来ないように出来ているのです。

とてもシンプルなことですが。

では、ヴェーダの言うことが正しいとして、理解出来れば、

「私はただ唯一の存在です。だから全ての限界から自由です。

だから、”~な自分”から逃げるための奔走から自由です。

今ここにいる自分でない自分になろうとして
行動しを繰り返し、生まれ変わりを続けること、
それが、サムサーラ(輪廻)

つまり、人生のゴールは私であり、それは私であるがゆえに、もう達成されているのです」

と言い切れるのです。

ヴェーダを分かったつもりで、でも理解出来てない人達が、

「分かったから、じゃあ、瞑想に入って、その無限とやらを体験しよう」と言い出すのです。


リミットレスは体験出来ない。理解するしかない。


瞑想して、サマーディや涅槃の境地に入っても、

「境地に入る」こと自体、限界を表しています。

入るということは、以前はそれに入っていなかった、

そしてまたいつかは出る、ということです。

全ての時間と場所に存在を与えているのが無限の存在なのです。

それがあなたなのです。

全く同じ理屈で、天国や地獄も、出たり入ったりの境地に過ぎません。

ハワイも罰ゲームも同じです。


人生を正しく生きれば、心が成長し、考えを歪ませる感情から自由になり、

物事を客観的に観察出来るようになります。

この世やあの世の全ての限界の見極めがついた時、

ヴェーダの言葉「あなたは無限の唯一の存在だ。」を理解するのはたやすい事なのです。


その時、目に見える無数の限界の全てはどうなるのでしょうか。

これをちゃんと教えないのが、中途半端なヴェーダーンタであり、

一般的に現代のヨガ界・スピリチュアル界で氾濫している考え方です。


自分の中にも外にもある限界、全ての現象とその因果関係を、

物理の法則や生物学の法則、心理学の法則など、

寸分の狂いも無い全ての法則の中にあるという理解が先に必要です。

これが、ヴェーダで教えられている、イーシュワラの理解であり、

それは客観的で成長した心の持ち主の世界観なのです。





>> 次の言葉 41.कौमुदी [kaumudī] - カウムディー >>

優しい月明かりという意味のサンスクリット語の単語です。

2014年3月19日水曜日

21.カター(कथा [kathā])- お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話

कथा 
[kathā] 


feminine - お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話




いままでに、母音から始まる言葉を20個学びました。

これからは、子音から始まる言葉を見て行きます。

クリシュナのお話は、カターで大人気。
歌や演奏と共に、聴衆に公演されます。

カターの語源


कथा [kathā] (カター)という言葉は、

कथ् [kath] = 「話す」という、動詞の原形から出来た言葉です。


一般的にインドで、कथा [kathā] (カター)と言うと、単なるお話ではなく、

大きなホールで数日間かけて催される、クラシック音楽隊を引き連れた公演会を指します。

ラーマーヤナなどの宗教的な物語を、ヴィヴィッドに朗誦するのは、

カター(お話を)カーラ(する人)と呼ばれ、人気を集めます。

人々も、ヴェーダーンタとか難しい話はちょっと。。。だけど、

カターなら、聞きやすいし、音楽もあるし、

面白い話がタダで聴けて(インドのこういった催しは必ず無料)、

宗教的にもクリーンな気分にさせてくれるので、

カターの公演に通う事は、とても良い事だと考えられています。

インドのみならず、世界中でकथा [kathā] (カター)を上演する、超有名なカターカーラもいます。

一回の公演は数時間にも及び、単にカリスマがあるだけではなく、

精神的、宗教的、肉体的、知能的に高い能力が要求されます。


ベイビー・クリシュナのお話も、カターの人気アイテムです。

天国に行っても、比較、嫉妬は変わらない


そんなカターカーラに関して、プージャ・スワミジが良くするお話を紹介します。

題して、「デリーのパットパット・ワラ(オートリキシャの運転手)」

デリーでとても人気のある、カターカーラがいました。

彼は、バーガヴァタ(インドの伝統的叙事詩のひとつ)のカターをするのがとてもうまく、

毎週毎週、何千、何万という人々に、ヒンドゥーの神々の話を聞かせて来ました。

「こんなに多くの人々に神様の話をするという善い行いをしているのだから、

俺は死んだ後、絶対にトップクラスのスワルガ(天国)に行くはずだ!」

という彼の確信の通り、このカターカーラは、死後にとても素敵なスワルガに行きました。

スワルガでは、大きな豪邸があてがわれて、上機嫌。

しかし、彼のお隣さんは、その数倍の大きさの、超大豪邸。

誰が住んでいるのか気になって調べてみると、なんと、その超大豪邸の住人は、

デリーのパットパット・ワラ(オートリキシャの運転手)!

「なんでこんな奴がスワルガに来て、しかも俺よりいい家に住んでいるんだ!?」

カターカーラはとても理不尽な思いに苛まれます。

理由を突き止めてみると、真実はこうでした。

デリーの大混乱の渋滞の中を荒い運転で切り抜けるパットパット・ワラは、

乗客に、常に神々の名前を思い出させ、心の底から神々に感謝させて来たのでした。

それが善行として認められ、天国に来たのでした。


このお話のターッパリヤ(要点)は、

天国だろうと何だろうと、経験的快楽/幸せの、

सातिशयत्वम् [sātiśayatvam](絶対的でない事、相対的である事)

= स(ह) [sa(ha)] (~がある)+ अतिशय [atiśaya](もっと良い事)+ त्व [tva](ステータス)

です。

生きている間に、物質や人間関係、瞑想などで、どんなによい経験をしても、

たとえ死んでから天国に行って、この世で味わえない経験をしても、

経験は経験、相対的なものであって、必ず終わりは来るし、

「最高!」と思っても、それよりももっと良い経験の可能性はある。

ここでも、天国でも、周りと比べて惨めになったり嫉妬したり、

そして時間が来れば終わってしまう。

程度は違えど、経験と言うものの本質は変わりませんよ、と言う事。

そもそも経験というものは、相対、UPアンドDownの範囲内であって、

絶対的幸せというものは、経験の範囲ではない、という事実を、

世界を見渡して、自分でしっかり見極める為のお話です。



<< 前回の単語 20.औष्ण्यम् [auṣṇyam] - アウシュニャ <<

熱いと言う意味のサンスクリット語です。


>> 次回の単語 22.कमलम् [kamalam] - カマラ >>

蓮の花という意味のサンスクリット語です。

2014年2月8日土曜日

6.イハ(इह [iha])- ここ、この場所、これにおいて

इह
[iha]


ind. ここ、この場所、これにおいて




この世が永遠でないように、天国も永遠ではない。


前回見た「イダム(इदम् [idam])」から派生した言葉です。

普通は、「別の場所/あの世/天国etc」とかと比較して、

「この場所/この世」、つまり今生きている世界を指す言葉です。

また、この体において、この生きている身体において、

つまり、「生きているうちに」、という意味でも使われます。

「人生のゴールは生きている内に達成するべき」

「死んでから行く天国は、ゴールじゃない。

だって、またこっちに帰ってくることになるだけだから。

1週間のハワイ旅行みたいに。」

この世の天国も、あの世の天国も、天国の定義は同じ。
「行っても、また元の世界に戻ってこないといけない場所、それが天国。」
यथा इह, तथा अमुत्र।
yathā iha, tathā amutra|

「ここ(इह [iha] )で通用するロジックは、あちら側(अमुत्र [amutra])でも通用する。」

という時などに使われます。


サンスクリット文法的説明


ここからは文法のお話。===

इदम् という代名詞を第7格(~において)で活用すると、

अस्मिन् 7/1 , अनयोः 7/2 , एषु 7/3  

と原形からはとてもかけ離れた形になります。

覚えるのが大変ですね。

もっと簡単な方法があります。

それは、「त्र [tra]」という接尾語を、代名詞の後ろにくっつけてしまえば、

第7格の意味はそのままに、活用しなくていい形(indeclinable)になるのです。

इदम् + त्र [tra]
= इह

って、これも原形を留めずに形が変わっているのですが。。。

そんなもんなんです。

以下のように、

代名詞+त्र [tra] 

で、様々なindeclinable(活用しない、簡単な名詞)が作れるのです。

サルヴァ(सर्व [sarva]) 代名詞. 全て
サルヴァットラ(सर्वत्र [sarvatra] indeclinable.) 全てにおいて

エーカ(एक [eka]) 代名詞. ひとつ
エーカットラ(एकत्र [ekatra] indeclinable.) 一箇所で

アンニャ(अन्य [anya]) 代名詞. 別の
アンニャットラ(अन्यत्र  [anyatra] indeclinable. )別の場所等において

タド(तद्  [tad]) 代名詞. それ
タットラ(तत्र [tatra] indeclinable.)そこ

ヤド(यद्  [yad]) 代名詞. それ(関係代名詞)
ヤットラ(यत्र  [yatra] indeclinable.) そこ (関係代名詞)

エータド(एतद्  [etad]) 代名詞. これ
アットラ(अत्र  [atra] indeclinable.) ここ
 
=== お勉強になりました。

全て頻出単語なので、サンスクリット語を勉強されている方は、メモっとくと良いですよ!




=== इह [iha] が使われいる文献 ===

タットヴァボーダ


इहामुत्रार्थफलोपभोगविरागः।
ihāmutrārthaphalopabhogavirāgaḥ|

”この世においても、あの世においても、

享楽や快適さといった結果を楽しむことについて

それらは、一時的なものであって、

本質的なものは与えてくれない、

ということを見抜いている事”

世界中の、天国に行くためにがんばってる人達は皆、

この本質が見抜けていないんですね。

科学や文学などで活躍している知的な人も沢山いるのに、、、。

明晰な頭脳に、天国行きを願うgullibleさが共存できるのは、

とても不思議です。



ケーナ・ウパニシャッド2章5節


इह चेदवेदीदथ सत्यमस्ति न चेदिहावेदीन्महती विनष्टिः ।
iha cedavedīdatha satyamasti na cedihāvedīnmahatī vinaṣṭiḥ |

”この世で(人間として生きている間に)(それを)知ったならば、

人間としてのゴールは達成された。

もし知ることが出来なければ、失うものは巨大だ。”


<< 前回の言葉 5.इदम् [idam] - イダム <<

この宇宙全て、私の身体も心も含めて、ここにある全ては、
「これ」と指をさせる対象物。
私はそれを対象化している、永遠の意識的主体。



>> 次の言葉 7.ईशः [īśaḥ] - イーシャ >>

唯一、絶対確実で信頼できるもの、
それは、この宇宙の法則。

その宇宙の法則に安心して委ねて生きる智慧を
教える為の言葉が、イーシャです。

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