2014年11月2日日曜日

36.ケーヴァラ(केवल [kevala])- 唯一の、ただそれだけ

केवल
 [kevala] 


adjective - 唯一の、ただそれだけ





英語で言う「ONLY」です。


アルファベット練習帳の第一版では、केयूरः(腕飾り)だったのだけど、

第二版では、この「केवल [kevala] - ケーヴァラ」という言葉に差し替えました。

ヴェーダーンタに関係する意味のある言葉の方が良いと思ったのと、

次に出てくるकैवल्य [kaivalya](唯一である事)と、

併せて理解出来ると良いと思ったので、変更しました。




この言葉は、ヴェーダーンタを理解するうえでとても大切な言葉です。

ヴェーダーンタは日本語のWikiなどで、「不二一元論」と訳されています。

(私は使いませんが!)

「不二」「一元」「唯一」、、、

どうして「1つであること」がそんなに大事なのでしょうか?

どうしてそれが、人間の幸せに関わるのでしょうか?

天涯孤独のような響きがして、幸せとは反対のような気がしませんか?


「唯一」の定義


ヴェーダーンタが教えるこの「唯一」という言葉を、

まずは、きっちり定義してみましょう。



= 唯一であることの3つの条件 =


1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

सजातीयभेद-रहितम् [sajātīyabheda-rahitam]

花でも、動物でも、無生物でも、同じ種類に属するメンバーは複数あります。

例えば、「木」というジャーティ(種類、クラス)があります。

その中には、リンゴの木、菩提樹の木、ニームの木、、、

といろんなベーダ(違い)があります。


同じ種類に属するメンバーがひとつも無いもの、それが「唯一」の定義のひとつです。

例えば、「空間(space)」というコンセプトの中には種類はありません。

家の外の空間、中の空間、というのは、

壁で区切って考えている人の中にあるコンセプトであって、

空間そのものに種類があるわけではありません。


2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

विजातीयभेद-रहितम्  [vijātīyabheda-rahitam]

「木」という種類・クラス以外にも、「石」「山」「哺乳類」など、

様々な種類・クラスが存在します。

そして、それらは、お互いに別々の違い(ベーダ)があります。


空間には、サジャーティーヤ・ベーダは無いけれど、

ヴィジャーティーヤ・ベーダはあります。

空間以外の全てのコンセプトが、ヴィジャーティーヤ・ベーダです。



3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

स्वगतभेदरहितम्   [svagatabhedarahitam]

ひとつの「木」をとっても、それ自身の中には様々なベーダ(違い)が存在します。

幹、枝、根、葉、花、、、それぞれはお互いに違う存在です。

空間には、スヴァガタ・ベーダはありません。空間の何処をとっても空間です。



なぜ、唯一を理解するのが、ヴェーダーンタの理解に関係しているのか?

ヴェーダーンタは、この宇宙の一切の原理が、たった一つだと教えているからです。



しかし、原理がただひとつである事と、私の幸せとに何の関係があるのでしょうか?


「へぇ、昔のインドにはそういう考え方している人達もいたんだね」と、

単にちょっと物知りになって、ヨーガの哲学のクラスで分かったっぽい事を言って、

聞いている人に感心してもらう為でしょうか?

インターネットで、”ヴェーダーンタ”とか”ウパニシャッド”とかを検索してみると、

ウィキペディアを初めとして、数々のサイトが、

「不二一元論」とか「梵我一如」とか、「ブラフマンの悟り」とか、

言葉だけが先走りして、理解を伴っていないであろう語彙達や、

「ヴャーサが開祖」とか「シャンカラが開祖」とかいった、

間違った理解のオンパレードです。まぁ、世の中というのは、そんなもんなんですけど。


言葉というものは、

まず話し手が、使う言葉をちゃんと理解して、自分のものにして、

そして、その言葉を使うことによって、聞き手の幸せに貢献出来るかどうか、

ちゃんと見極めてから使って、

初めて、言葉の本当の役目が果たされるのです。


ヴェーダとは、言葉の集まりです。

ヴェーダというものは、私達の幸せに貢献する為にある、知識の集合体です。

ヴェーダは、私達の幸せの為に、言葉を通して、「唯一であること」を教えてくれます。


しかし、そもそも、「私の幸せ」って何なのでしょうか?


家族や周りの人が皆、健康で笑顔でいられること。

好きな人と一緒にいる時。

好きなものを食べている時、欲しいものを手に入れた時、

好きな音楽を聴いている時、素敵な景色を見ている時、、、

幸せにしてくれる状況は色々あって、状況は常に変わり続けています。

これらに共通していることは何でしょうか?





それは、「幸せな私」です。


10年前に私を幸せにしてくれた状況は、今年の私を幸せにはしてくれません。

代わりに、10年前に何とも感じなかった状況が、今年の私を幸せにしてくれています。

幸せとは、状況のことではなく、「私」のことなのです。


「幸せ」=「私」と言われても、常に幸せを感じているわけではないですよね。

不幸とまで感じる時はしょっちゅう無くても、常々不満に感じることは、誰にでもあります。

幸せを「感じている」時というのは、常々ある不満を「忘れている」時に他なりません。

「自分を忘れさせてくれる経験=幸せな経験」なのです。

もっときっちり定義すると、

「常々自分が自分に対して持っているイメージや考えを、忘れさせてくれる経験=幸せな経験」

となります。

だから人は、寝ている時が幸せなのです。

人間関係、芸術鑑賞、スポーツ、ヨガや瞑想、しいてはお酒や薬物も、

いつも自分が抱いている、モヤモヤやコンプレックスから、気分を解放してくれるから、

幸せに感じさせてくれるから、そちらに向かって行くのです。



思考を逆転してみましょう。

幸せとは、不幸せの反対。不幸せが無い事。

幸せになりたい、って思うことは、デフォルトは不幸せって事、なんです。

では、不幸せって何なのでしょうか?


不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ、、、

これら全ての正体は、何なのでしょうか?

つまるところ、これら全ては、自分が自分に対して持っているイメージ、考え、意見です。

そんなもの達は、何処から来たのでしょうか。出所は明らかです。

それは、自分にかかっている「制限」です。

制限って?

「自分は○○であって、××ではない」

「自分の△△は、○○であって、××ではない」

全ての制限はこの2つに集約されます。


不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ等を感じているとき、

原因は何かを分析してみると、必ずこの2つのどれかになります。

「私は50歳であって、もう25歳ではない」

「私の所持金はマイナス3000万円であって、プラス1億円では無い」

「私の過去も将来も暗くて、明るくは無い」

「私の、、、」に続くのは、心の状態、体の状態、持ち物、人間関係、

属している国や、政治のあり方、環境のあり方、、、何でも当てはまります。


これらは、全て「制限」と言いましたが、

「ベーダ(भेद [bheda])、違い」と言う事も出来ます。


1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違い)

2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違い)

3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違い)


「自分は○○であって、××ではない」

「自分の△△は、○○であって、××ではない」


○○ と ×× が別のものだから、

すなわち、○○ ≠ ×× だから、

不満やコンプレックスが可能なのです。


そして、○○ ≠ ×× という違いは、

上記の3つのベーダ(違い)によって生み出されます。



不幸、不満と、「ベーダ(भेद [bheda])」、違い。

幸せ、私、唯一、「ケーヴァラ(केवल [kevala] )」。

考えるためのツールとして、これらの言葉を使って、

ゆっくり分析してみてください。

続きは、37.कैवल्य [kaivalya] - カイヴァリヤ にて、、、






<< 前回の言葉 35.केशवः [keśavaḥ] - ケーシャヴァ <<
 
クリシュナの別名「美しい髪を持った者」という意味の単語です。








>> 次回の言葉 37.कोशः [kośaḥ] コーシャ >>
 
ヨガ・スクールで必ずと言っていいほど勘違いされて、
間違った意味で教えられている、「パンチャ・コーシャ」
の意味について詳しく説明します。

Medhaみちかの関連サイト

人気の投稿(過去30日間)