केवल
[kevala]
英語で言う「ONLY」です。
アルファベット練習帳の第一版では、केयूरः(腕飾り)だったのだけど、
第二版では、この「केवल [kevala] - ケーヴァラ」という言葉に差し替えました。
ヴェーダーンタに関係する意味のある言葉の方が良いと思ったのと、
次に出てくるकैवल्य [kaivalya](唯一である事)と、
併せて理解出来ると良いと思ったので、変更しました。
この言葉は、ヴェーダーンタを理解するうえでとても大切な言葉です。
ヴェーダーンタは日本語のWikiなどで、「不二一元論」と訳されています。
(私は使いませんが!)
「不二」「一元」「唯一」、、、
どうして「1つであること」がそんなに大事なのでしょうか?
どうしてそれが、人間の幸せに関わるのでしょうか?
天涯孤独のような響きがして、幸せとは反対のような気がしませんか?
ヴェーダーンタが教えるこの「唯一」という言葉を、
まずは、きっちり定義してみましょう。
= 唯一であることの3つの条件 =
花でも、動物でも、無生物でも、同じ種類に属するメンバーは複数あります。
例えば、「木」というジャーティ(種類、クラス)があります。
その中には、リンゴの木、菩提樹の木、ニームの木、、、
といろんなベーダ(違い)があります。
同じ種類に属するメンバーがひとつも無いもの、それが「唯一」の定義のひとつです。
例えば、「空間(space)」というコンセプトの中には種類はありません。
家の外の空間、中の空間、というのは、
壁で区切って考えている人の中にあるコンセプトであって、
空間そのものに種類があるわけではありません。
「木」という種類・クラス以外にも、「石」「山」「哺乳類」など、
様々な種類・クラスが存在します。
そして、それらは、お互いに別々の違い(ベーダ)があります。
空間には、サジャーティーヤ・ベーダは無いけれど、
ヴィジャーティーヤ・ベーダはあります。
空間以外の全てのコンセプトが、ヴィジャーティーヤ・ベーダです。
ひとつの「木」をとっても、それ自身の中には様々なベーダ(違い)が存在します。
幹、枝、根、葉、花、、、それぞれはお互いに違う存在です。
空間には、スヴァガタ・ベーダはありません。空間の何処をとっても空間です。
なぜ、唯一を理解するのが、ヴェーダーンタの理解に関係しているのか?
ヴェーダーンタは、この宇宙の一切の原理が、たった一つだと教えているからです。
「へぇ、昔のインドにはそういう考え方している人達もいたんだね」と、
単にちょっと物知りになって、ヨーガの哲学のクラスで分かったっぽい事を言って、
聞いている人に感心してもらう為でしょうか?
インターネットで、”ヴェーダーンタ”とか”ウパニシャッド”とかを検索してみると、
ウィキペディアを初めとして、数々のサイトが、
「不二一元論」とか「梵我一如」とか、「ブラフマンの悟り」とか、
言葉だけが先走りして、理解を伴っていないであろう語彙達や、
「ヴャーサが開祖」とか「シャンカラが開祖」とかいった、
間違った理解のオンパレードです。まぁ、世の中というのは、そんなもんなんですけど。
言葉というものは、
まず話し手が、使う言葉をちゃんと理解して、自分のものにして、
そして、その言葉を使うことによって、聞き手の幸せに貢献出来るかどうか、
ちゃんと見極めてから使って、
初めて、言葉の本当の役目が果たされるのです。
ヴェーダとは、言葉の集まりです。
ヴェーダというものは、私達の幸せに貢献する為にある、知識の集合体です。
ヴェーダは、私達の幸せの為に、言葉を通して、「唯一であること」を教えてくれます。
家族や周りの人が皆、健康で笑顔でいられること。
好きな人と一緒にいる時。
好きなものを食べている時、欲しいものを手に入れた時、
好きな音楽を聴いている時、素敵な景色を見ている時、、、
幸せにしてくれる状況は色々あって、状況は常に変わり続けています。
これらに共通していることは何でしょうか?
それは、「幸せな私」です。
10年前に私を幸せにしてくれた状況は、今年の私を幸せにはしてくれません。
代わりに、10年前に何とも感じなかった状況が、今年の私を幸せにしてくれています。
幸せとは、状況のことではなく、「私」のことなのです。
「幸せ」=「私」と言われても、常に幸せを感じているわけではないですよね。
不幸とまで感じる時はしょっちゅう無くても、常々不満に感じることは、誰にでもあります。
幸せを「感じている」時というのは、常々ある不満を「忘れている」時に他なりません。
「自分を忘れさせてくれる経験=幸せな経験」なのです。
もっときっちり定義すると、
「常々自分が自分に対して持っているイメージや考えを、忘れさせてくれる経験=幸せな経験」
となります。
だから人は、寝ている時が幸せなのです。
人間関係、芸術鑑賞、スポーツ、ヨガや瞑想、しいてはお酒や薬物も、
いつも自分が抱いている、モヤモヤやコンプレックスから、気分を解放してくれるから、
幸せに感じさせてくれるから、そちらに向かって行くのです。
思考を逆転してみましょう。
幸せとは、不幸せの反対。不幸せが無い事。
幸せになりたい、って思うことは、デフォルトは不幸せって事、なんです。
では、不幸せって何なのでしょうか?
不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ、、、
これら全ての正体は、何なのでしょうか?
つまるところ、これら全ては、自分が自分に対して持っているイメージ、考え、意見です。
そんなもの達は、何処から来たのでしょうか。出所は明らかです。
それは、自分にかかっている「制限」です。
制限って?
「自分は○○であって、××ではない」
不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ等を感じているとき、
原因は何かを分析してみると、必ずこの2つのどれかになります。
「私は50歳であって、もう25歳ではない」
「私の所持金はマイナス3000万円であって、プラス1億円では無い」
「私の過去も将来も暗くて、明るくは無い」
「私の、、、」に続くのは、心の状態、体の状態、持ち物、人間関係、
属している国や、政治のあり方、環境のあり方、、、何でも当てはまります。
これらは、全て「制限」と言いましたが、
「ベーダ(भेद [bheda])、違い」と言う事も出来ます。
1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違い)
2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違い)
3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違い)
「自分は○○であって、××ではない」
○○ と ×× が別のものだから、
すなわち、○○ ≠ ×× だから、
不満やコンプレックスが可能なのです。
そして、○○ ≠ ×× という違いは、
上記の3つのベーダ(違い)によって生み出されます。
不幸、不満と、「ベーダ(भेद [bheda])」、違い。
幸せ、私、唯一、「ケーヴァラ(केवल [kevala] )」。
考えるためのツールとして、これらの言葉を使って、
ゆっくり分析してみてください。
続きは、37.कैवल्य [kaivalya] - カイヴァリヤ にて、、、
<< 前回の言葉 35.केशवः [keśavaḥ] - ケーシャヴァ <<
クリシュナの別名「美しい髪を持った者」という意味の単語です。
>> 次回の言葉 37.कोशः [kośaḥ] コーシャ >>
ヨガ・スクールで必ずと言っていいほど勘違いされて、
間違った意味で教えられている、「パンチャ・コーシャ」
の意味について詳しく説明します。
[kevala]
adjective - 唯一の、ただそれだけ
英語で言う「ONLY」です。
アルファベット練習帳の第一版では、केयूरः(腕飾り)だったのだけど、
第二版では、この「केवल [kevala] - ケーヴァラ」という言葉に差し替えました。
ヴェーダーンタに関係する意味のある言葉の方が良いと思ったのと、
次に出てくるकैवल्य [kaivalya](唯一である事)と、
併せて理解出来ると良いと思ったので、変更しました。
この言葉は、ヴェーダーンタを理解するうえでとても大切な言葉です。
ヴェーダーンタは日本語のWikiなどで、「不二一元論」と訳されています。
(私は使いませんが!)
「不二」「一元」「唯一」、、、
どうして「1つであること」がそんなに大事なのでしょうか?
どうしてそれが、人間の幸せに関わるのでしょうか?
天涯孤独のような響きがして、幸せとは反対のような気がしませんか?
「唯一」の定義
ヴェーダーンタが教えるこの「唯一」という言葉を、
まずは、きっちり定義してみましょう。
= 唯一であることの3つの条件 =
1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)
सजातीयभेद-रहितम् [sajātīyabheda-rahitam]花でも、動物でも、無生物でも、同じ種類に属するメンバーは複数あります。
例えば、「木」というジャーティ(種類、クラス)があります。
その中には、リンゴの木、菩提樹の木、ニームの木、、、
といろんなベーダ(違い)があります。
同じ種類に属するメンバーがひとつも無いもの、それが「唯一」の定義のひとつです。
例えば、「空間(space)」というコンセプトの中には種類はありません。
家の外の空間、中の空間、というのは、
壁で区切って考えている人の中にあるコンセプトであって、
空間そのものに種類があるわけではありません。
2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)
विजातीयभेद-रहितम् [vijātīyabheda-rahitam]「木」という種類・クラス以外にも、「石」「山」「哺乳類」など、
様々な種類・クラスが存在します。
そして、それらは、お互いに別々の違い(ベーダ)があります。
空間には、サジャーティーヤ・ベーダは無いけれど、
ヴィジャーティーヤ・ベーダはあります。
空間以外の全てのコンセプトが、ヴィジャーティーヤ・ベーダです。
3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)
स्वगतभेदरहितम् [svagatabhedarahitam]ひとつの「木」をとっても、それ自身の中には様々なベーダ(違い)が存在します。
幹、枝、根、葉、花、、、それぞれはお互いに違う存在です。
空間には、スヴァガタ・ベーダはありません。空間の何処をとっても空間です。
なぜ、唯一を理解するのが、ヴェーダーンタの理解に関係しているのか?
ヴェーダーンタは、この宇宙の一切の原理が、たった一つだと教えているからです。
しかし、原理がただひとつである事と、私の幸せとに何の関係があるのでしょうか?
「へぇ、昔のインドにはそういう考え方している人達もいたんだね」と、
単にちょっと物知りになって、ヨーガの哲学のクラスで分かったっぽい事を言って、
聞いている人に感心してもらう為でしょうか?
インターネットで、”ヴェーダーンタ”とか”ウパニシャッド”とかを検索してみると、
ウィキペディアを初めとして、数々のサイトが、
「不二一元論」とか「梵我一如」とか、「ブラフマンの悟り」とか、
言葉だけが先走りして、理解を伴っていないであろう語彙達や、
「ヴャーサが開祖」とか「シャンカラが開祖」とかいった、
間違った理解のオンパレードです。まぁ、世の中というのは、そんなもんなんですけど。
言葉というものは、
まず話し手が、使う言葉をちゃんと理解して、自分のものにして、
そして、その言葉を使うことによって、聞き手の幸せに貢献出来るかどうか、
ちゃんと見極めてから使って、
初めて、言葉の本当の役目が果たされるのです。
ヴェーダとは、言葉の集まりです。
ヴェーダというものは、私達の幸せに貢献する為にある、知識の集合体です。
ヴェーダは、私達の幸せの為に、言葉を通して、「唯一であること」を教えてくれます。
しかし、そもそも、「私の幸せ」って何なのでしょうか?
家族や周りの人が皆、健康で笑顔でいられること。
好きな人と一緒にいる時。
好きなものを食べている時、欲しいものを手に入れた時、
好きな音楽を聴いている時、素敵な景色を見ている時、、、
幸せにしてくれる状況は色々あって、状況は常に変わり続けています。
これらに共通していることは何でしょうか?
それは、「幸せな私」です。
10年前に私を幸せにしてくれた状況は、今年の私を幸せにはしてくれません。
代わりに、10年前に何とも感じなかった状況が、今年の私を幸せにしてくれています。
幸せとは、状況のことではなく、「私」のことなのです。
「幸せ」=「私」と言われても、常に幸せを感じているわけではないですよね。
不幸とまで感じる時はしょっちゅう無くても、常々不満に感じることは、誰にでもあります。
幸せを「感じている」時というのは、常々ある不満を「忘れている」時に他なりません。
「自分を忘れさせてくれる経験=幸せな経験」なのです。
もっときっちり定義すると、
「常々自分が自分に対して持っているイメージや考えを、忘れさせてくれる経験=幸せな経験」
となります。
だから人は、寝ている時が幸せなのです。
人間関係、芸術鑑賞、スポーツ、ヨガや瞑想、しいてはお酒や薬物も、
いつも自分が抱いている、モヤモヤやコンプレックスから、気分を解放してくれるから、
幸せに感じさせてくれるから、そちらに向かって行くのです。
思考を逆転してみましょう。
幸せとは、不幸せの反対。不幸せが無い事。
幸せになりたい、って思うことは、デフォルトは不幸せって事、なんです。
では、不幸せって何なのでしょうか?
不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ、、、
これら全ての正体は、何なのでしょうか?
つまるところ、これら全ては、自分が自分に対して持っているイメージ、考え、意見です。
そんなもの達は、何処から来たのでしょうか。出所は明らかです。
それは、自分にかかっている「制限」です。
制限って?
「自分は○○であって、××ではない」
「自分の△△は、○○であって、××ではない」
全ての制限はこの2つに集約されます。
全ての制限はこの2つに集約されます。
原因は何かを分析してみると、必ずこの2つのどれかになります。
「私は50歳であって、もう25歳ではない」
「私の所持金はマイナス3000万円であって、プラス1億円では無い」
「私の過去も将来も暗くて、明るくは無い」
「私の、、、」に続くのは、心の状態、体の状態、持ち物、人間関係、
属している国や、政治のあり方、環境のあり方、、、何でも当てはまります。
これらは、全て「制限」と言いましたが、
「ベーダ(भेद [bheda])、違い」と言う事も出来ます。
1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違い)
2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違い)
3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違い)
「自分は○○であって、××ではない」
「自分の△△は、○○であって、××ではない」
○○ と ×× が別のものだから、
すなわち、○○ ≠ ×× だから、
不満やコンプレックスが可能なのです。
そして、○○ ≠ ×× という違いは、
上記の3つのベーダ(違い)によって生み出されます。
不幸、不満と、「ベーダ(भेद [bheda])」、違い。
幸せ、私、唯一、「ケーヴァラ(केवल [kevala] )」。
考えるためのツールとして、これらの言葉を使って、
ゆっくり分析してみてください。
続きは、37.कैवल्य [kaivalya] - カイヴァリヤ にて、、、
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クリシュナの別名「美しい髪を持った者」という意味の単語です。
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ヨガ・スクールで必ずと言っていいほど勘違いされて、
間違った意味で教えられている、「パンチャ・コーシャ」
の意味について詳しく説明します。