केशवः
[keśavaḥ]
複数の意味を持っている言葉ですが、
一般的には、ヴィシュヌのアヴァターラ(日本語では「アバター」ですね。)、
特に「クリシュナ」を指す時に用いられる言葉です。
ちなみに、アヴァターラ(avatāra)、それが変化した、アバター(avtar)は、
直訳すると、「上から降りてくる」という意味です。
バガヴァッドギーターの4章で、クリシュナが自分自身をアヴァターラとして紹介しています。
普通の人は、その人のカルマ(過去の行い)の結果として、
自分の行いの結果を味わうためにぴったりの体を、次から次へと授かり続け、
生きている間にまた更なるカルマをして、永遠に生と死を繰り返すと言われています。
日本語で言う、輪廻転生ってやつですね。
普通の個人が、自分自身の行為の結果として、次の体を持たされるのに対して、
多くの人々の「祈り」という行為の結果として、体を持って生まれてくるのが
アヴァターラです。
しかし、何をしに、体を持って降りて来たのでしょうか?
परित्राणाय साधूनां विनाशाय च दुष्कृताम् ।
धर्मसंस्थापनार्थाय सम्भवामि युगे युगे ॥ ४-८॥
paritrāṇāya sādhūnāṃ vināśāya ca duṣkṛtām |
dharmasaṃsthāpanārthāya sambhavāmi yuge yuge || 4-8||
ギーターの中でも、一番有名なシュローカのひとつです。
このシュローカの中で言われている、
アヴァターラが体を持って生まれてくる理由は3つ:
1.善い人を守る為(paritrāṇāya sādhūnāṃ )
2.悪い行いをする人を無くす為(vināśāya ca duṣkṛtām)
3.ダルマ(簡単に訳すと「正義」)を確立する為(dharmasaṃsthāpanārthāya)
でも、アヴァターラがいなくたって、人間として生まれたら、
何が正義で、何が悪い事か、誰でもちゃんと分かっています。
A.自分が「傷つきたくない」ということは、生き物なら誰でも知っています。
人間の場合、それ以上に、
B.他の人も自分と同じように「傷つきたくない」と思っていることも知っています。
わざわざ神様に、十戒とかを石版に刻んでいただかなくても、
人間として生まれたら、Bの知識が必ず心の中にプログラムされているのです。
ヒトラーだって、「こんなこと自分がされたら嫌だな。」
「そんな嫌な気持ちを、やられている人達は味わっているんだな。」
「それは良くないことだな。」ということぐらい分かっていたはずです。
それなのに、なぜ、人は傷つけあうのか?
答えは簡単。その人の心が小さいからです。
何十兆円というお金を持ってしても、
総理大臣とか大統領という権力を持ってしても、
正しい心がけが無ければ、その人の心は大きくなりません。
小さい心は、いつも欲しがって、欲求が満たされなければ憎んで、
人を傷つける事も平気になってしまうのです。
世の中を見回したら、
1.善い人は損をしている
2.悪い行いをする人が権力を持っている
3.何が善い事で、何が悪い事なのかについて、すなわちダルマについて、混乱が起きている
こんな状態は世の常です。
「アヴァターラは何処行ったんじゃーい?」と聞きたくなりますね。
答えは、その聞いている人の心の中にあるのです。
アヴァターラの話を聞くだけで、
自分の中にあったけど、混乱でよく分からなくなっていたダルマを、
再確立することが出来ます。
損をしてでも、自分の知識の範囲で最善の行動を選ぶことが出来る能力も、
バガヴァーンの表れです。
悪い行いも全てはバガヴァーンですが、それが悪いと分かること、
そしてそれを避けたり抑圧出来たりする能力は、バガヴァーンの「Grace」です。
「自分がやった」「アイツがやった」という近眼のヴィジョンから、
「全て」を認識できるヴィジョンを持つことが、いわゆる人間の成長です。
バガヴァーンは、アヴァターラのみならず、いろんな姿や形や言葉を通して、
私達が大きなヴィジョンを持つ為の成長を促してくれているのです。
話をアヴァターラから、ケーシャヴァに戻しましょう。
विष्णुसहस्रनामस्तोत्र(ヴィシュヌの1000の名前)について書かれている
コメンタリー(भाष्यम्)に沿って解釈すると、
ケーシャヴァ(keśavaḥ)の意味には、5つあります。
1.美しい髪を持っている者
2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿
3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者
4.光の筋として現れる者
5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)
長くなりそうですが、ひとつひとつ見て行きましょう。
「髪」はサンスクリット語で「ケーシャ(केशः[keśaḥ])」です。
それを持つ者、という意味で、「ヴァ」という接尾語が付いて、
ケーシャ + ヴァ = ケーシャヴァ になります。
体や持ち物の特徴が名前になっている場合、その姿を思い出して、
その姿形を通して、全体=バガヴァーンを認識して欲しい、という意味があります。
「ア/アー」と「イ/イー」をあわせると、グナになる、
すなわちここでは「エー」の音になります。
結局、3つ併せて「ケーシャ(keśa)」
これこそが「三位一体」と言われるにふさわしい姿です。
なぜかというと、創造も、維持も、破壊も、視点によるもので、
これらは、ひとつに他ならないからです。
壷は、作られたり、維持されたり、壊れたりしますが、
あるのは土だけです。
壷が出来たとか、そのせいで粘土がなくなちゃったとか、
壷が壊れたとか、そのせいで土が生まれたとか、
人間の体も同じことです。
創造も、維持も、破壊も、ものの見方次第なのです。
どれが創造で、どれが破壊と、絶対的に言えるものは無い。
だから、「三位一体」なのです。
この「三位一体」は、とても理論的ですね。
神・息子(キリスト)・ホーリーゴーストの三位一体って、
何なのかを知りたくて、昔勉強してみましたが、
理論的な考えを培うのにも、自分の幸せにも、なにも貢献してもらえませんでした。
ちなみに、ブランマ・ヴィシュヌ・シヴァを合わせた姿を、
サンスクリット語では「トリムールティ」と言います。
「ヴィシュヌ・プラーナ」と呼ばれる文献の中で、
クリシュナを殺すために馬に化けて、ブリンダーヴァンにやって来た、
ケーシーという名の怪物を、クリシュナが殺した時に、
ケーシーを殺した者(ヴァダ)ということで、ケーシャヴァという名前を付けられた。。。
という話があります。
太陽や月、火や電気、全ての光の筋は、バガヴァーンの髪(ケーシャ)。
と、ポエティックにイメージして、全てとは何か、バガヴァーンとは何かの理解を
深めるのに役立てることも出来ます。
もうひとつ、光の筋とは、ダクシナームールティストートラムで教えられている、
「穴の開いた壷の中に光が入っていて、そこから光線が飛び出している」
その光の筋のことでもあります。
それはつまり、私達の意識を例えているのです。
目鼻口などの開き口を通して、意識の光の筋が飛び出して、
その光線に当たった対象物が、主体によって意識的に認識される。。。
その光こそが、私達が毎日使っている言葉「私」の本質の意味なんですね。
それがバガヴァーンの本質に他ならない、と教えるのがヴェーダーンタです。
これを理解するためにはまず、バガヴァーン=全てって何?
を理解する必要があります。
ヴェーダは教えています。
幼少期も、結婚生活も、親になることも、社会で生きることも、
人生の中で与えられているステージの全ては、
バガヴァーンを理解するために設計されていると。
与えられた責任をこなすこと、社会の中で貢献者になること、
それが人間を成長させる手段であること、
成長とはすなわち、「全て」を把握できる大きな心を持つこと、
それがヴェーダの教える、人間のあるべき生活なのです。
シャクティとは、能力のことです。
ブランマージーの、創造するため能力、資源、それに関わる知識全て。
ヴィシュヌが、この宇宙全体を維持するために必要な、資源、能力、知識の全て。
シヴァが、この宇宙全てのものを破壊し続けられる能力と知識全て。
それらの3つの能力全てを併せた、すべての全てが、シャクティと呼ばれる能力です。
それを表す為に、「ケーシャヴァ」という言葉が使われる場合もあります。
<< 前回の言葉 34. कृष्णः [kṛṣṇaḥ] - クリシュナ <<
クリシュナという言葉の意味を、サンスクリット語の文法と、
ヴェーダーンタの視点から説明します。
>> 次回の言葉 36.केवल [kevala] - ケーヴァラ >>
「唯一であること」とはどういうことか?
[keśavaḥ]
masculine - クリシュナ
ヴィシュヌ・アヴァターラとしてのクリシュナ
複数の意味を持っている言葉ですが、
一般的には、ヴィシュヌのアヴァターラ(日本語では「アバター」ですね。)、
特に「クリシュナ」を指す時に用いられる言葉です。
ちなみに、アヴァターラ(avatāra)、それが変化した、アバター(avtar)は、
直訳すると、「上から降りてくる」という意味です。
バガヴァッドギーターの4章で、クリシュナが自分自身をアヴァターラとして紹介しています。
普通の人は、その人のカルマ(過去の行い)の結果として、
自分の行いの結果を味わうためにぴったりの体を、次から次へと授かり続け、
生きている間にまた更なるカルマをして、永遠に生と死を繰り返すと言われています。
日本語で言う、輪廻転生ってやつですね。
普通の個人が、自分自身の行為の結果として、次の体を持たされるのに対して、
多くの人々の「祈り」という行為の結果として、体を持って生まれてくるのが
アヴァターラです。
しかし、何をしに、体を持って降りて来たのでしょうか?
परित्राणाय साधूनां विनाशाय च दुष्कृताम् ।
धर्मसंस्थापनार्थाय सम्भवामि युगे युगे ॥ ४-८॥
paritrāṇāya sādhūnāṃ vināśāya ca duṣkṛtām |
dharmasaṃsthāpanārthāya sambhavāmi yuge yuge || 4-8||
ギーターの中でも、一番有名なシュローカのひとつです。
このシュローカの中で言われている、
アヴァターラが体を持って生まれてくる理由は3つ:
1.善い人を守る為(paritrāṇāya sādhūnāṃ )
2.悪い行いをする人を無くす為(vināśāya ca duṣkṛtām)
3.ダルマ(簡単に訳すと「正義」)を確立する為(dharmasaṃsthāpanārthāya)
でも、アヴァターラがいなくたって、人間として生まれたら、
何が正義で、何が悪い事か、誰でもちゃんと分かっています。
A.自分が「傷つきたくない」ということは、生き物なら誰でも知っています。
人間の場合、それ以上に、
B.他の人も自分と同じように「傷つきたくない」と思っていることも知っています。
わざわざ神様に、十戒とかを石版に刻んでいただかなくても、
人間として生まれたら、Bの知識が必ず心の中にプログラムされているのです。
ヒトラーだって、「こんなこと自分がされたら嫌だな。」
「そんな嫌な気持ちを、やられている人達は味わっているんだな。」
「それは良くないことだな。」ということぐらい分かっていたはずです。
それなのに、なぜ、人は傷つけあうのか?
答えは簡単。その人の心が小さいからです。
何十兆円というお金を持ってしても、
総理大臣とか大統領という権力を持ってしても、
正しい心がけが無ければ、その人の心は大きくなりません。
小さい心は、いつも欲しがって、欲求が満たされなければ憎んで、
人を傷つける事も平気になってしまうのです。
世の中を見回したら、
1.善い人は損をしている
2.悪い行いをする人が権力を持っている
3.何が善い事で、何が悪い事なのかについて、すなわちダルマについて、混乱が起きている
こんな状態は世の常です。
「アヴァターラは何処行ったんじゃーい?」と聞きたくなりますね。
答えは、その聞いている人の心の中にあるのです。
アヴァターラの話を聞くだけで、
自分の中にあったけど、混乱でよく分からなくなっていたダルマを、
再確立することが出来ます。
損をしてでも、自分の知識の範囲で最善の行動を選ぶことが出来る能力も、
バガヴァーンの表れです。
悪い行いも全てはバガヴァーンですが、それが悪いと分かること、
そしてそれを避けたり抑圧出来たりする能力は、バガヴァーンの「Grace」です。
「自分がやった」「アイツがやった」という近眼のヴィジョンから、
「全て」を認識できるヴィジョンを持つことが、いわゆる人間の成長です。
バガヴァーンは、アヴァターラのみならず、いろんな姿や形や言葉を通して、
私達が大きなヴィジョンを持つ為の成長を促してくれているのです。
話をアヴァターラから、ケーシャヴァに戻しましょう。
विष्णुसहस्रनामस्तोत्र(ヴィシュヌの1000の名前)について書かれている
コメンタリー(भाष्यम्)に沿って解釈すると、
ケーシャヴァ(keśavaḥ)の意味には、5つあります。
1.美しい髪を持っている者
2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿
3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者
5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)
長くなりそうですが、ひとつひとつ見て行きましょう。
1.美しい髪を持っている者
「髪」はサンスクリット語で「ケーシャ(केशः[keśaḥ])」です。
それを持つ者、という意味で、「ヴァ」という接尾語が付いて、
ケーシャ + ヴァ = ケーシャヴァ になります。
こんな感じでいかがでしょう |
体や持ち物の特徴が名前になっている場合、その姿を思い出して、
その姿形を通して、全体=バガヴァーンを認識して欲しい、という意味があります。
サイババ師も、素敵な髪をお持ちでしたね。 |
2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿
「ka」が、創造をの象徴である、ブランマージー
「a」は、持続の象徴である、ヴィシュヌ
「īśa」は破壊の象徴である、シヴァ
ここからは、サンスクリット語の文法を勉強されている方には、
もってこいの、サンディの練習問題です。
「ka」+ 「a」+ 「īśa」は?
まず、「ka」+ 「a」=「kā」 ディールガ・サンディってやつですね。
「ア」と「ア」で「アー」です。サンスクリット語を勉強していなくても、
人間なら誰にでも分かる連音変化です。
そして、「kā」+ 「īśa」=「keśa」 グナ・サンディってやつです。
「ア/アー」と「イ/イー」をあわせると、グナになる、
すなわちここでは「エー」の音になります。
結局、3つ併せて「ケーシャ(keśa)」
これこそが「三位一体」と言われるにふさわしい姿です。
なぜかというと、創造も、維持も、破壊も、視点によるもので、
これらは、ひとつに他ならないからです。
壷は、作られたり、維持されたり、壊れたりしますが、
あるのは土だけです。
壷が出来たとか、そのせいで粘土がなくなちゃったとか、
壷が壊れたとか、そのせいで土が生まれたとか、
人間の体も同じことです。
創造も、維持も、破壊も、ものの見方次第なのです。
どれが創造で、どれが破壊と、絶対的に言えるものは無い。
だから、「三位一体」なのです。
この「三位一体」は、とても理論的ですね。
神・息子(キリスト)・ホーリーゴーストの三位一体って、
何なのかを知りたくて、昔勉強してみましたが、
理論的な考えを培うのにも、自分の幸せにも、なにも貢献してもらえませんでした。
ちなみに、ブランマ・ヴィシュヌ・シヴァを合わせた姿を、
サンスクリット語では「トリムールティ」と言います。
トリニティ = トリムールティ |
3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者
「ヴィシュヌ・プラーナ」と呼ばれる文献の中で、
クリシュナを殺すために馬に化けて、ブリンダーヴァンにやって来た、
ケーシーという名の怪物を、クリシュナが殺した時に、
ケーシーを殺した者(ヴァダ)ということで、ケーシャヴァという名前を付けられた。。。
という話があります。
4.光の筋として現れる者
太陽や月、火や電気、全ての光の筋は、バガヴァーンの髪(ケーシャ)。
と、ポエティックにイメージして、全てとは何か、バガヴァーンとは何かの理解を
深めるのに役立てることも出来ます。
もうひとつ、光の筋とは、ダクシナームールティストートラムで教えられている、
「穴の開いた壷の中に光が入っていて、そこから光線が飛び出している」
その光の筋のことでもあります。
それはつまり、私達の意識を例えているのです。
目鼻口などの開き口を通して、意識の光の筋が飛び出して、
その光線に当たった対象物が、主体によって意識的に認識される。。。
その光こそが、私達が毎日使っている言葉「私」の本質の意味なんですね。
それがバガヴァーンの本質に他ならない、と教えるのがヴェーダーンタです。
これを理解するためにはまず、バガヴァーン=全てって何?
を理解する必要があります。
ヴェーダは教えています。
幼少期も、結婚生活も、親になることも、社会で生きることも、
人生の中で与えられているステージの全ては、
バガヴァーンを理解するために設計されていると。
与えられた責任をこなすこと、社会の中で貢献者になること、
それが人間を成長させる手段であること、
成長とはすなわち、「全て」を把握できる大きな心を持つこと、
それがヴェーダの教える、人間のあるべき生活なのです。
5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)
シャクティとは、能力のことです。
ブランマージーの、創造するため能力、資源、それに関わる知識全て。
ヴィシュヌが、この宇宙全体を維持するために必要な、資源、能力、知識の全て。
シヴァが、この宇宙全てのものを破壊し続けられる能力と知識全て。
それらの3つの能力全てを併せた、すべての全てが、シャクティと呼ばれる能力です。
それを表す為に、「ケーシャヴァ」という言葉が使われる場合もあります。
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クリシュナという言葉の意味を、サンスクリット語の文法と、
ヴェーダーンタの視点から説明します。
>> 次回の言葉 36.केवल [kevala] - ケーヴァラ >>
「唯一であること」とはどういうことか?