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2014年11月16日日曜日

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ])

कृष्णः 
[kṛṣṇaḥ] 

masculine - クリシュナ


インド関係のことを少しでも知っている人なら

誰でも知っているだろう、ということで、

クリシュナ、といきなり固有名詞を訳にいれました。

孔雀の羽をつけて、

笛を持って、

いつも微笑んでいて、

青黒い肌をした、

牛飼いのハンサムボーイ、

という容姿が伝統で私達に与えられています。


このような容姿や形のことを、伝統的には「ウパーサナ・ムールティ」と呼びます。

私達の心は、色、形状、音などの「フォーム」とやりとりするように出来ています。

色や形が無い、抽象的で、形而上のアイディアであっても、

私達の経験や考えの全ては、最終的には、脳波の形です。


なぜ、ウパーサナ・ムールティが伝統の中で教えられているのでしょうか?


なぜ、このような容姿が伝統で教えられているのか?



神様とは?全知全能とは?私達は何処から来た?

何のために生きている?死んだらどうなる?

この世の意味は?


といった人間として基本的な探求をする時に、

その人の心を、こういった容姿や形のものに持って行くと、

水先案内人のように、スムーズに答えに導いてくれますよ。

と伝統が教えているのです。

バガヴァッド・ギーターの冒頭の詩で、

रणनदी पाण्डवैः सोत्तीर्णा, कैवर्तकः केशवः ॥

’このマハーバーラタ戦争という、とても超え難い川を、

パーンダヴァ達は越す事が出来た。

なぜなら、ケーシャヴァ(クリシュナ)が水先案内人をしていたから。”

とあります。


クリシュナを味方につけるということは、

グレース(幸運)という、全ての成功に必要な要素の存在を認めて、

グレースを手に入れるために、ちゃんと手を打っている、と言う事です。


さらに、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナが教えを説きます。

先生を水先案内人として置く、ということは、

先生の教える智慧に、自分の思考とその基準を沿わせる、ということです。

道に迷ったら、出口を知っている人に道を聞くのと同じ事です。




ヴィシュヌ神の化身(アヴァターラ)とは?


クリシュナって誰?と聞くと、すぐに返ってくる答えが、

「ヴィシュヌ神の化身」「ヴィシュヌ・アヴァターラ」

ですが、それを聞いて何を分れと言うのでしょうか?

ヴィシュヌって誰?

神様に決まってるじゃん!

って、当たり前のように言ってるけど、

神様って誰よ?化身って一体何?


「神」の定義を試みてみましょう


宗教を持っている人も、持っていない人も、

「神様が、、」とか、「神様はいるの?」とか、「神様なんかいない!」とかも、

あたかも既に、神様が誰か知っているのが前提になっています。

それって、とっても変ですね。人間って面白いものです。

信仰の厚い人でさえも、「神様って何???」ってちゃんと真面目に考えている人は、

この世に殆どいないように見受けられます。


一般的に定義されている、神様とは、、、

「信仰の対象」― 信じないと存在出来無い神様なんて、頼りになるのでしょうか?

「人知を超えた存在」― 要するに、解からない、知らないってことでしょ?

そんな掴みどころのない神様に、世界の人口の殆どが、

すがりついたり、人生を捧げたりしている事自体が、摩訶不思議に他なりません。


今までの手垢のついた「神」の曖昧な定義は横において、

今から、一からきちんと定義しなおしてみましょう。

まず大前提として、「神」とは、信じる対象ではなく、理解されるべき対象である。

ということです。

全世界の大多数は、「神」と言ったとたんに、知能がOFFになっています。

大事な事は、知能をONにして、ちゃんと正面に向かって、考えるべきです。


「全知全能」というのが、神様によくついてくる形容詞ですね。

全知 = 全部知ってる。

私が今何を考えているとか、どんな状況に置かれているとか、

いちいち報告しないと知らなかったり、報告しても気づいてくれなかったりするのは神様じゃない。

私の考えも、自然環境の在り方も、宇宙の動きも、全て、

脳神経学、生物学、物理学、素粒子物理学、、、などの知識の表れです。

その識のて = 全知 

が、「全知」という言葉の本当の意味です。

これは、信じる必要性の全くない、理解出来ることです。

そして、理解されるべき事です。


全能 = 全ての能力

先ほど見た、「全ての知識」が、私の考えや体や、飼い猫や、お隣さんや、

政治情勢や、環境問題も含む、全ての「宇宙」として現れるために必要な能力のことです。

これも、信じるとか信じないとかいった議論ではないですね。


「全知全能」とは、理解し、認識するべき対象なのです。



全知全能の本当の意味が理解出来たら、

見るもの全ては全知全能の神の表れです。

しかし、そんなことを言われても、

「スケールが大きすぎて、把握できない。。」

というのが、人間の頭脳です。

それゆえに、理解につながるための第一段階として、

人間の頭脳で把握できる、「形」が伝統の中で提唱されているのです。

それが、ヴィシュヌであり、クリシュナであり、シヴァであり、ドゥルガーであり、、、

と人間の好みの数だけ、神様の形も用意されているのです。




「アヴァターラ」とは?



この前の、「ケーシャヴァ」の回で説明しています。

ヴィシュヌのアヴァターラとして良く知られているのがラーマとクリシュナ、

そして、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダもヴィシュヌのアヴァターラとして数えられています。

コーダンダという名の彼しか扱えない大きな弓を持って、
直立しているのが、ラーマの姿勢。
ダルマ=正義を表している。


いっぽう、クリシュナは笛を持って、
体をくねらせているのがいつものポーズ。
アーナンダ=幸せを表している。

ラーマが象徴するダルマ(正義、宇宙の秩序との調和)があって、

初めて、クリシュナの象徴するアーナンダが可能なのです。


ではでは、本題のクリシュナの意味を見てみましょう。


クリシュナの意味



1.永遠の幸福



कृष्णः [kṛṣṇaḥ] は、कृष् [kṛṣ] という動詞の原形から派生しています。

कृष् [kṛṣ] とは、「存在する」という意味です。

ण [ṇa] は、「幸福」を表しています。

伝統で語り継がれているクリシュナの容姿は、常に幸福を表しています。

笛を吹いたり、ダンスをしたり、周りの人達を皆幸せにしたり。。。

しかし、「存在する」を「幸福」とがどう繋がって、クリシュナになるのか?

आकृष् [ākṛṣ] という動詞の原形は「魅了する、心を引き付ける」という意味です。

人は誰でも、心が惹きつけられるものに幸せを見出します。

しかし、どんな幸せも長く続きません。

この宇宙の中にあるもの全ては、常に変わり続けているからです。

変化し続けているものは、それが「在る」といった瞬間に、既に変化しています。

私達の心も体も、物理的、心理的、様々なレベルで、変化し続けています。

そういったものを「絶対的な存在」と呼ぶ事は出来ません。

しかし、「じゃあ、無い」とも言えません。

私はここにいるし、つま先を机の角にぶつければ痛い。

つま先は在るし、机も在る。

姑に何か言われたらムカつく、ってことは、姑はいるし、ムカつく心も在る。

時間とともに生まれては無くなるものばかりだけど、ある、と言える。

その「在る」が、कृष् [kṛṣ] の意味である、「存在する」です。

そして、それが「幸福」のण [ṇa] なのです。

なぜ?

今までの人生の中で、来ては去っていった、沢山の幸せな時間を思い出してください。

私を幸せにしてくれた状況は、常に変化し続けている、宇宙の中の出来事でした。

その中で、常に、一定して在ったもの、、、

それは、「私」でした。

「存在」と「幸せ」のつながりが見えましたか?

そして、それが、私達が常に追いかけ続けているもの、心を惹きつけているものなのです。




2.青黒い色をした者



これが、上で言われている「ウパーサナ・ムールティ」のことです。




<< 前回の言葉 33.クリパー(कृपा [kṛpā])<<

マハーバーラタの戦い、アルジュナの心理、
バガヴァッド・ギーターの背景などを説明します。


   

>> 次回の言葉 35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])>>
          
クリシュナの別名、ケーシャヴァについてサンスクリット語文法を交えて説明します。

2014年9月28日日曜日

32.クーパ(कूपः [kūpaḥ])- 井戸

कूपः
[kūpaḥ] 


masculine - 井戸




いきなり生活臭のする言葉に降りてきました。

哲学的な言葉ばかりを選んできて、なぜ今、井戸なんでしょうかね?

理由は2つ。

ひとつ目の理由は、クー(कू [kū] )から始まる言葉ってあまり無いんですね。

ふたつ目の理由は、サンスクリット語のテキストとして長年流通している、

Antoine(日本語では「アントン」、フランス語では「アントワン」)

という著者のSanskrit Manual という本の中で、

一番最初に出てくる名詞の活用表に登場する言葉だからです。


初級サンスクリットの勉強方法


サンスクリット語の名詞を勉強する時に、一番初めに習うのは、aで終わる男性名詞。

これが基本中の基本です。

そして、普通、aで終わる男性名詞と言えば「ラーマ(राम [rāma])」。

伝統的にサンスクリット語を学べば、必ず、例外なく、最初の言葉はラーマです。

ラーマとは、インド人なら12億人が全員知っている、あのラーマです。

「ラーマ」というアーキタイプ


アーヨーディヤーという国の王子、ダシャラタの息子、

シーターの夫、ラクシュマナの兄、そしてバラタの兄、ハヌマーンの最愛の主、

国民からはもちろん、おおくの聖者から、そして神々からでさえも、深く愛されているラーマ。

ラーマの人格、容姿、全てが人々の心を捉えます。

ラーマを賞賛する言葉だけで、何百何千という詞が出来てしまう、そんな人物がラーマです。

もちろん、ヴィシュヌのアヴァターラなので、ただの人じゃないのですが、

一人の地に足の着いた男性として、ラーマーヤナの中で描かれています。

ラーマーヤナを少しでも読むと、世界中のどんな人だって、

彼が正義の象徴であることが理解出来ます。

そして、どんな人だって、ラーマの話を少しでも聞くと、彼を愛さずにはいられません。

皆、ラーマのことが大好き
そんな完璧な人間なんて滅多にいないからこそ、

100%安心して尊敬出来る、そして愛し、見習える人物像が与えられているのです。

ラーマのような人物像と、絶対的な信頼に基いた関係を持つということは、

人間の精神的な成長に大きく関わるのだと思います。


ちなみに、ラーマという言葉を発するだけで、プンニャですからね。

ラーマを活用して何回も唱えるなんて、かなりのプンニャです。


西欧サンスクリット学者の陰謀


そんなラーマの名前を、幸先のよい一番目のサンスクリット活用表から降ろし、

クーパ(井戸)なんて味気も無い言葉を持って来たのがアントワンです。

アントワンはなぜそのようなことをしたのでしょうか?


答えは簡単です。彼はのクリスチャンの修道士でした。

イギリスやヨーロッパが、インドを植民地化するために、

この何世紀間、現在までも、ヒンドゥー教潰しが盛んに行われています。

キリスト教の布教する人達が、ヒンドゥー教の文化に忍び入って、文化を学び、

ヒンドゥー文化を内側から潰そうとする事は、現在でも一般的に行われています。

アントワンもその一人でした。19世紀にインドにやって来てサンスクリット語を学び、

ヒンドゥー文化の語彙を一掃した教科書を作ったのです。


新しい改革的な教科書の必要性


コンパクトにまとまっている本なので、現在でも一般的に使われている教科書ですが、

私のクラスでは使いません。

使わない理由は、彼の本意があまり正直に感じられない事もありますが、

実際的には、のちのちパーニニを勉強するに当たって、不都合な点が沢山出てくるからです。

アントワンを勉強した人に、パーニニを教えるのは、とても辛いことです。

そんなわけで、現在サンスクリット語を担任させてもらっている、

南インドでの3年コースにおいて、新しい教科書を作っています。

その名も「Sanskrit for Vedanta Student」。

そのうち日本語に訳されて、日本でも勉強し易い環境を提供できるようになりたいです。




    
<< 前回の言葉 31.クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ])<<

不動、不変という意味のサンスクリット語の単語


   
 

>> 次回の言葉 33.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])>>

クリシュナの別名「素敵な髪の毛を持った者」という意味の単語

2014年5月22日木曜日

25.キム(किम् [kim])- 何

किम्
[kim] 

neuter - 何



このサイトのラベル分けでは、中性名詞としましたが、

किम् [kim] - キム という名詞は、ありとあらゆる形に七変化します。


1.不活用名詞として、活用せずに使う 


किम् [kim] - キム という、活用しない形で肯定文の中で使われると、

「?」が付いた、疑問文になります。

किं त्वं गच्छसि। [kiṃ tvaṃ gacchasi|]  君、行くの?


2.疑問代名詞として、3つの性で活用して使う 


疑問の対象となる名詞の性に合わせて、さらに格と数にも合わせて使います。

=男性形の活用例=

सः 1/1 कः 1/1 [saḥ kaḥ] 彼は誰?

रामः  1/1 कान् 2/1 वदति III/1 [rāmaḥ kān vadati] ラーマは誰に話しているの?

रामः केन गच्छति [rāmaḥ kena gacchati] ラーマは誰と行くの?

=女性形の活用例=

सा 1/1  का 1/1 [sā kā] 彼女は誰?

रामः 1/1  कया 3/1 गच्छति III/1 [rāmaḥ kayā gacchati] ラーマは誰(女性)と行くの?

=中性形の活用例=

तत् 1/1 किम् 1/1 [tat kim ] あれは何?

कानि 1/3 फलानि 1/3 [kāni phalāni] 何の果物(複数)ですか?



3.複合語(サマーサ)にして使う



疑問詞を複合語にするなんて、英語や他のインドの言語でさえも、考えられない事だから、

インド人にも、外国人にも、これを教えるのには、ちょっと苦労と時間が必要なのです。

さすが、サンスクリットならでは!と思いきや、、、

日本語にも、「其奴、何奴?」とか「お前、何者?」などという、

疑問詞が含まれた複合語ありました!

日本語の場合だと、「何」と「奴」とか「者」は同格で解かり易いですね。

サンスクリット語の場合だと、

त्वं किमभिधानोऽसि । [tvaṃ kimabhidhāno'si]

意訳だと、「あなたの名前は何ですか?」
直訳だと、「あなたは、あなたの名前は何か、という人です。」

となります。

以下のふたつの言葉が複合語になっています。

1.किम् [kim]  何

2.अभिधानम् [abhidhānam] 名前

ふたつ併せると、「その人の名前は何?と言う人」という複合語になるのです。

日本語で書くとなんとなくチンプンカンプンですが、

英語もしくはサンスクリット語で書くともうちょっとすっきりします。

英語:The one whose name is "what"

サンスクリット語: किम् अभिधानं यस्य सः  किमभिधानः (बहुव्रीहिसमासः)

になります。


== किम् [kim] - キム が使われている文献 ==

バガヴァッド・ギーター4章16節

किं कर्म किमकर्मेति कवयोऽप्यत्र मोहिताः ।
तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ ४.१६॥
kiṃ karma kimakarmeti kavayo'pyatra mohitāḥ |
tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt || 4.16||

何(kiṃ)がカルマ(行い)で、何(kiṃ)がアカルマ(行いの無い事)なのか、
詩人(知識層の人々)でさえも、このことについて混乱している。
それを知ったら、サムサーラから自由になるという、
そのカルマというものを、あなた(アルジュナ)に教えましょう。






<< 前回の言葉 24.कालः [kālaḥ] - カーラ <<

時間という、とても深い意味のサンスクリット語です。
ヤマという死神のお話、そして永遠について考えます

   
 

>> 次回の言葉 26.किरणः [kiraṇaḥ] - キラナ >>

2014年3月19日水曜日

21.カター(कथा [kathā])- お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話

कथा 
[kathā] 


feminine - お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話




いままでに、母音から始まる言葉を20個学びました。

これからは、子音から始まる言葉を見て行きます。

クリシュナのお話は、カターで大人気。
歌や演奏と共に、聴衆に公演されます。

カターの語源


कथा [kathā] (カター)という言葉は、

कथ् [kath] = 「話す」という、動詞の原形から出来た言葉です。


一般的にインドで、कथा [kathā] (カター)と言うと、単なるお話ではなく、

大きなホールで数日間かけて催される、クラシック音楽隊を引き連れた公演会を指します。

ラーマーヤナなどの宗教的な物語を、ヴィヴィッドに朗誦するのは、

カター(お話を)カーラ(する人)と呼ばれ、人気を集めます。

人々も、ヴェーダーンタとか難しい話はちょっと。。。だけど、

カターなら、聞きやすいし、音楽もあるし、

面白い話がタダで聴けて(インドのこういった催しは必ず無料)、

宗教的にもクリーンな気分にさせてくれるので、

カターの公演に通う事は、とても良い事だと考えられています。

インドのみならず、世界中でकथा [kathā] (カター)を上演する、超有名なカターカーラもいます。

一回の公演は数時間にも及び、単にカリスマがあるだけではなく、

精神的、宗教的、肉体的、知能的に高い能力が要求されます。


ベイビー・クリシュナのお話も、カターの人気アイテムです。

天国に行っても、比較、嫉妬は変わらない


そんなカターカーラに関して、プージャ・スワミジが良くするお話を紹介します。

題して、「デリーのパットパット・ワラ(オートリキシャの運転手)」

デリーでとても人気のある、カターカーラがいました。

彼は、バーガヴァタ(インドの伝統的叙事詩のひとつ)のカターをするのがとてもうまく、

毎週毎週、何千、何万という人々に、ヒンドゥーの神々の話を聞かせて来ました。

「こんなに多くの人々に神様の話をするという善い行いをしているのだから、

俺は死んだ後、絶対にトップクラスのスワルガ(天国)に行くはずだ!」

という彼の確信の通り、このカターカーラは、死後にとても素敵なスワルガに行きました。

スワルガでは、大きな豪邸があてがわれて、上機嫌。

しかし、彼のお隣さんは、その数倍の大きさの、超大豪邸。

誰が住んでいるのか気になって調べてみると、なんと、その超大豪邸の住人は、

デリーのパットパット・ワラ(オートリキシャの運転手)!

「なんでこんな奴がスワルガに来て、しかも俺よりいい家に住んでいるんだ!?」

カターカーラはとても理不尽な思いに苛まれます。

理由を突き止めてみると、真実はこうでした。

デリーの大混乱の渋滞の中を荒い運転で切り抜けるパットパット・ワラは、

乗客に、常に神々の名前を思い出させ、心の底から神々に感謝させて来たのでした。

それが善行として認められ、天国に来たのでした。


このお話のターッパリヤ(要点)は、

天国だろうと何だろうと、経験的快楽/幸せの、

सातिशयत्वम् [sātiśayatvam](絶対的でない事、相対的である事)

= स(ह) [sa(ha)] (~がある)+ अतिशय [atiśaya](もっと良い事)+ त्व [tva](ステータス)

です。

生きている間に、物質や人間関係、瞑想などで、どんなによい経験をしても、

たとえ死んでから天国に行って、この世で味わえない経験をしても、

経験は経験、相対的なものであって、必ず終わりは来るし、

「最高!」と思っても、それよりももっと良い経験の可能性はある。

ここでも、天国でも、周りと比べて惨めになったり嫉妬したり、

そして時間が来れば終わってしまう。

程度は違えど、経験と言うものの本質は変わりませんよ、と言う事。

そもそも経験というものは、相対、UPアンドDownの範囲内であって、

絶対的幸せというものは、経験の範囲ではない、という事実を、

世界を見渡して、自分でしっかり見極める為のお話です。



<< 前回の単語 20.औष्ण्यम् [auṣṇyam] - アウシュニャ <<

熱いと言う意味のサンスクリット語です。


>> 次回の単語 22.कमलम् [kamalam] - カマラ >>

蓮の花という意味のサンスクリット語です。

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