किरणः
[kiraṇaḥ]
インド男性の一般的な名前のひとつです。
太陽や月から降りてくる光の筋、という感じです。
この言葉は、ヴェーダーンタの文献の中には頻繁にみられませんが、
アドヴァイタ・マカランダという、ヴェーダーンタのエッセンスを詞的に表した本の冒頭で、
とても美しい詩節の中に登場します。
कटाक्षकिरणाचान्तनमन्मोहाब्धये नमः।
kaṭākṣakiraṇācāntanamanmohābdhaye namaḥ |
अनन्तानन्दकृष्णाय जगन्मङ्गलमूर्तये॥१॥
anantānandakṛṣṇāya jaganmaṅgalamūrtaye ||1||
複合語の中で使われている言葉は、それぞれに意味的なつながりを持っている必要があります。
これらの言葉が互いにどのように関わっているのでしょうか。
「(クリシュナの)目の片隅」”の”「光線」
クリシュナの目から光線が放っている、とすると、その端っこの部分です。
まっすぐに直視しているのではなく、焦点はどこか別の場所にあって、
やっと視界に入っている、といった感じです。
クリシュナのGrace(恩恵)を受けるのには、
真正面にいなくても、端っこにいても受けられるということです。
「(クリシュナの)目の片隅の光線」”によって”「干上がった」
そんな、片隅からのわずかな光線でも、何かを完全に干上がらせることが出来るのですね。
何が干上がるのでしょうか。
「混乱」”の”「海」
混乱とは、無知とか、間違った認識です。
例えば、薄暗い場所で、ロープをヘビと見間違えて、叫びながら逃げたり、
朝焼けの浜辺で、貝殻を硬貨と見間違えて、喜んで拾ってみたり、
ロープや貝殻に対する無知から来る、ヘビや硬貨と言う勘違いです。
人生そんなことだらけで、喜んだり悲しんだりしながら、
あちこち飛び回って一生の時間が終わります。
こんな混乱の中でアップアップしているところから、「混乱の海」と言われるのです。
「(クリシュナを)認識している人達」”の”「混乱の海」
クリシュナを認識している、とはどういう意味でしょうか。
クリシュナとは、ここでは「イーシュワラ」を指します。
世界にある、無数の対象物について、
見たり感じたり出来る部分だけを理解しているのではなく、
それらの存在が可能になっている原因、それらを支えている原因に対しても
その存在を認識し、理解に努めている人達を、
「クリシュナ(イーシュワラ)を認識している人達」と呼びます。
「混乱の海」は、全ての人間に例外なくあるものです。
その中でも、「クリシュナ(イーシュワラ)を認識している人達」の「混乱の海」は、
どのようになるのでしょうか?
「(クリシュナを)認識している人達の混乱の海」”は”「(クリシュナの)”目の片隅の光線によって干上がった」
混乱の海が干上がるとは、どういうことでしょうか。
毎日のアップアップな世界が丸ごと無くなってのでしょうか。
そんなことはありません。世界は存在し続けます。
しかし、その人の世界の理解、現実の理解が、混乱から正しい理解へと正された時、
世界に対する混乱の海が干上がった、という表現になるのです。
なぜそこに、クリシュナが登場する必要があるのでしょうか?
他の神様ではだめなのでしょうか?
世界を正しく理解する為だけなら、ある程度の認識能力さえあればいいのではないのでしょうか?
クリシュナとは、イーシュワラのこと。
イーシュワラとは、この世界の全てのことです。
God@heaven.comのような、天国のどこかで座っていて、
あなたを地獄行きに審判するために待っている、
一個人の神様では、意味がありません。
全てのことである、イーシュワラを認識しない限り、
自分の理解も、自分を含む世界の全ての理解もありえません。
目の前の出来事に完全に捕らわれている近眼なものの見方では、
全てについての正しい理解をすることなど出来ません。
イーシュワラを認識しているゆえに、海を乾かすことが出来る「目の光線」を得られるのです。
「あそこに良いお医者さんがいる」と認識して、そこに行き、
「治してください」と頼んで、初めて、そのお医者さんの恩恵が受けられるのです。
それゆえに、「クリシュナ(イーシュワラ)を認識している人達」のみの、「混乱の海」が、
「(クリシュナの)”目の片隅の光線によって干上る」のですね。
そして、「干上がる」とは、「もともと海なんて無かった」ということが解かることだけなのです。
<< 前回の言葉 25.किम् [kim] - キム <<
何?という意味のサンスクリット語の疑問詞、代名詞です。
>> 次回の言葉 27.कीटः [kīṭaḥ] - キータ >>
[kiraṇaḥ]
masculine - 光線
インド男性の一般的な名前のひとつです。
太陽や月から降りてくる光の筋、という感じです。
この言葉は、ヴェーダーンタの文献の中には頻繁にみられませんが、
アドヴァイタ・マカランダという、ヴェーダーンタのエッセンスを詞的に表した本の冒頭で、
とても美しい詩節の中に登場します。
कटाक्षकिरणाचान्तनमन्मोहाब्धये नमः।
kaṭākṣakiraṇācāntanamanmohābdhaye namaḥ |
अनन्तानन्दकृष्णाय जगन्मङ्गलमूर्तये॥१॥
anantānandakṛṣṇāya jaganmaṅgalamūrtaye ||1||
とても大きな複合語(サマーサ)の中に、किरणः [kiraṇaḥ] 「キラナ」という今日の言葉が使われています。
詩節の最初の複合語、[kaṭākṣakiraṇācāntanamanmohābdhaye]には、
6つの単語が含まれています。
[kaṭākṣa] (クリシュナの)目の片隅
[kiraṇa] 光線
[ācānta] 干上がった
[namat] (クリシュナを)認識している人達
[moha] 混乱
[abdhi] 海
これらの言葉が互いにどのように関わっているのでしょうか。
「(クリシュナの)目の片隅」”の”「光線」
クリシュナの目から光線が放っている、とすると、その端っこの部分です。
まっすぐに直視しているのではなく、焦点はどこか別の場所にあって、
やっと視界に入っている、といった感じです。
クリシュナのGrace(恩恵)を受けるのには、
真正面にいなくても、端っこにいても受けられるということです。
そんな、片隅からのわずかな光線でも、何かを完全に干上がらせることが出来るのですね。
何が干上がるのでしょうか。
「混乱」”の”「海」
混乱とは、無知とか、間違った認識です。
例えば、薄暗い場所で、ロープをヘビと見間違えて、叫びながら逃げたり、
朝焼けの浜辺で、貝殻を硬貨と見間違えて、喜んで拾ってみたり、
ロープや貝殻に対する無知から来る、ヘビや硬貨と言う勘違いです。
人生そんなことだらけで、喜んだり悲しんだりしながら、
あちこち飛び回って一生の時間が終わります。
こんな混乱の中でアップアップしているところから、「混乱の海」と言われるのです。
「(クリシュナを)認識している人達」”の”「混乱の海」
クリシュナを認識している、とはどういう意味でしょうか。
クリシュナとは、ここでは「イーシュワラ」を指します。
世界にある、無数の対象物について、
見たり感じたり出来る部分だけを理解しているのではなく、
それらの存在が可能になっている原因、それらを支えている原因に対しても
その存在を認識し、理解に努めている人達を、
「クリシュナ(イーシュワラ)を認識している人達」と呼びます。
「混乱の海」は、全ての人間に例外なくあるものです。
その中でも、「クリシュナ(イーシュワラ)を認識している人達」の「混乱の海」は、
どのようになるのでしょうか?
「(クリシュナを)認識している人達の混乱の海」”は”「(クリシュナの)”目の片隅の光線によって干上がった」
混乱の海が干上がるとは、どういうことでしょうか。
毎日のアップアップな世界が丸ごと無くなってのでしょうか。
そんなことはありません。世界は存在し続けます。
しかし、その人の世界の理解、現実の理解が、混乱から正しい理解へと正された時、
世界に対する混乱の海が干上がった、という表現になるのです。
なぜそこに、クリシュナが登場する必要があるのでしょうか?
他の神様ではだめなのでしょうか?
世界を正しく理解する為だけなら、ある程度の認識能力さえあればいいのではないのでしょうか?
クリシュナとは、イーシュワラのこと。
イーシュワラとは、この世界の全てのことです。
God@heaven.comのような、天国のどこかで座っていて、
あなたを地獄行きに審判するために待っている、
一個人の神様では、意味がありません。
全てのことである、イーシュワラを認識しない限り、
自分の理解も、自分を含む世界の全ての理解もありえません。
目の前の出来事に完全に捕らわれている近眼なものの見方では、
全てについての正しい理解をすることなど出来ません。
イーシュワラを認識しているゆえに、海を乾かすことが出来る「目の光線」を得られるのです。
「あそこに良いお医者さんがいる」と認識して、そこに行き、
「治してください」と頼んで、初めて、そのお医者さんの恩恵が受けられるのです。
それゆえに、「クリシュナ(イーシュワラ)を認識している人達」のみの、「混乱の海」が、
「(クリシュナの)”目の片隅の光線によって干上る」のですね。
そして、「干上がる」とは、「もともと海なんて無かった」ということが解かることだけなのです。
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何?という意味のサンスクリット語の疑問詞、代名詞です。
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