कर्म
[karma]
日本でも使われている「カルマ」という言葉は、
正しく理解されないままに使われているサンスクリット語の
代表例のひとつでしょう。
バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナが言っています。
किं कर्म किमकर्मेति कवयोऽप्यत्र मोहिताः ।
[kiṃ karma kimakarmeti kavayo'pyatra mohitāḥ]
「何がカルマで、何がアカルマ(カルマの反対)なのか、
賢者とみなされるような人達まで、この点において混乱している。」
ましてや、文献の正しい解釈に触れる機会を持たずして、
分かったつもりで会話の中で多用するのは避けたほうが良いですね。
クリシュナは続けます。
तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]
「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、
そのカルマについて、あなた(アルジュナ)に教えましょう。」
カルマとは何かを「知ることにより」と言われています。
次のシュローカは、
कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]
「文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。
何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。
何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。
これらカルマの理解は難しいものです。」
そして、次のシュローカで、クリシュナは、
サムサーラから解放してくれる、カルマの知識を教えてくれるのです。
しかも、たった半分のシュローカの中で。
その前に、カルマの語源と定義を見てみましょう。
「クル(कृ [kṛ])」という動詞の原型から派生した言葉です。
「する、つくる」という意味で、英語の「do」に相当する、
言語の基本になる、重要な動詞の原型です。
そこに、「マン (मन् [man])」という接尾語をつけて、
「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がります。
詳しい文法は、下に別記しました。
さまざまな学派によって、さまざまな定義がされているのが、
「カルマ」という言葉です。
ゆえに、クリシュナも「賢者と呼ばれるような人でも混乱している」と言っているのです。
では、さまざまな定義をひとつひとつ検証しましょう。
1.動くことがカルマ(चलनात्मकं कर्म)
これだと、流れている川、風に揺れる木も、
カルマをしていることになります。
でもそれは違います。
2.見えない結果を生む行動がカルマ(अदृष्टफलकं कर्म)
見えない結果とは、日本語の「徳」のようなもののように、
親切にしたり、祈りの儀式をしたり、または非道徳な行為をした場合、
その行為の直後には見えないけど、後になって回りまわって自分に帰ってくると信じられる、
そんな結果をサンスクリット語で「アドリシュタ」と呼び、
それを直訳すると、「見えない結果」となる訳です。
「アドリシュタ」には「プンニャ」と「パーパ」があり、それぞれ、
「善い行いの結果」と「善くない行いの結果」という意味です。
もうちょっと広げると、
「自分の義務、つまり宇宙の秩序に沿った行為をすることによって生まれる、
後に快適な経験をもたらしてくれるもの」がプンニャで、
その反対がパーパです。
ちなみにプンニャは、ヴェーダーンタやサンスクリットへの興味、
そしてそれらを勉強出来る環境(先生、先生へのアクセス、心の平和など)も、
作り出してくれます。
この定義も完全とはいえません。
全ての行為が必ず「アドリシュタ」を生むとは限らないからです。
3.文法上のカルマ(कर्तरीप्सिततमं कर्म)
行為の主体の対象、という意味です。
これは、文法の話をしている時だけに使われるべき言葉です。
4.自由意志を使ってする行為がカルマ(कर्तृतन्त्रं कर्म / पुरुषतन्त्रं कर्म)
私達は、この身体を使って、ありとあらゆる種類の行為をすることが出来ます。
この時この場所で、この行為を、するか、しないか、するとしたらどのようにするか、
という選択権は私達にあります。
その選択権を「自由意志」と呼びます。
行為の選択権である「自由意志」を持たされている生命体を「人間」と定義します。
行為の選択基準は「宇宙の秩序との調和」です。
宇宙との調和を基準にして、この時この場所で、自分の行為を選ぶとき、
そこには、選択肢は殆どありません。
宇宙の動きが、「自分のすべきこと」として、目の前に表れているのです。
自分の行為を通して、宇宙の動きの中に、調和という形で参加する。
そのとき、その人のこころに精神的な成長が生まれ、平和が生まれるのです。
こうして、自由意志を使って選択した行為(カルマ)と通して、
精神的な成長と平和を得ること(ヨーガ)を、カルマ・ヨーガというのです。
「宇宙の秩序との調和」として、一番大切な基準は「アヒムサー」です。
「私は痛めつけられたくない。」
という知識は全ての生命体が持っています。
「私と同じように、他の生き物も、痛めつけられたくない」
という知識を持っているのが、人間です。
ゆえに、
「あらゆる生命体に対して、自分が与える痛みを最小限にして生きたい。」
と願うのは、人間が、もっとも人間らしくある姿なのです。
Q1:自由意志なんて、全ての人間が持っているものなのか?
A1:はい。自由意志を持たされているのが人間です。
ヴェーダによる人間の定義は「自由意志を持っている生命体」です。
地球にいようと、どの惑星にいようと、
自由意志を持っていれば、人間とみなされます。
Q2:全ては運命に操られているのだから、自由意志ではどうにもならないのでは?
A2:運命とは、その人がしてきた行為、つまりカルマの現われです。
カルマとは、自由意志を使用・誤用・悪用して、行われた行為です。
その結果が運命なので、運命を認める事自体が、
カルマ、つまり自由意志を認めていることなのです。
自由意志とは、自由にうまく使いこなす為に与えられているものです。
実際には、使いこなせていない場合が殆どなのです。
殆どの人が多くの場合、
1.自由意志を使っていない、もしくは
2.自由意志を誤用、悪用しているのです。
なぜそうなるかというと、
1.何も考えずに機械的に行動をしている
2.こうじゃなきゃやだ!という執着に背中を押されて判断が鈍っている
という理由が考えられます。
自分のこころの成長と平和を願う人は、この辺りを気をつければ良いわけです。
経済至上主義の社会では、「自分の好きなことをやる!」ことが、
いかにも自由であるように教えられていますが、
人間の特権である自由意志が、好き嫌いにハイジャックされている状態を、
本当の意味で自由と呼ぶことは出来ません。
「好きなこと」と「すべきこと」が同じとは限りません。
好きか嫌いかは別として、「すべきこと」が出来る人を、
「客観的」「ヨーギー」「大人」「精神的に成長した人」と呼ぶのです。
कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]
1.文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。
2.何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。
3.何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。
これらカルマの理解は難しいものです。」
1.カルマの理解は、ここで試みましたね。
2.ヴィカルマとは、今ここでするべきではない行為です。
つまり、自由意志の不使用、誤用、悪用、乱用によって選択された行為です。
宇宙の秩序の調和に欠けた行為であるゆえに、
その人のこころには、不調和、未熟・幼稚さ、不平和、不満、などがついて回ります。
3.調和のある行為の結果はプンニャだし、不調和の結果はパーパ、
自分はプンニャもパーパも要らないから、息を潜めて、ただただ座って、何もしません!
というのが「アカルマ」です。
しかし、息を潜めているのも、自分で選んでしている行為、つまりカルマです。
座っているのもカルマです。生きているうちは、カルマをしない!なんてのは無理です。
馬鹿ばかしく聞こえるかも知れませんが、ヴェーダーンタを勉強していながら、
このような「僕はヨーギーだから何もしない!」という落とし穴にはまっている人を
私は何人も見てきています。
だから、クリシュナもわざわざギーターの中で言ってくれているのでしょうね。
तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]
「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、
そのカルマについて、教えましょう。」
と、16節でクリシュナが約束した、カルマについて知る時が来ました。
それを教えるのが次のシュローカです。
कर्मण्यकर्म यः पश्येद् अकर्मणि च कर्म यः ।
[karmaṇyakarma yaḥ paśyed akarmaṇi ca karma yaḥ |]
「カルマの中に、アカルマを見ている者。
アカルマの中にカルマを見ている者。」
教えはこれだけです。
後は、教えを理解している人について。
स बुद्धिमान् मनुष्येषु स युक्तः कृत्स्नकर्मकृत् ॥ 4-18 ॥
[sa buddhimān manuṣyeṣu sa yuktaḥ kṛtsnakarmakṛt || 4-18 || ]
「その人は、人間に与えられた知能を、使われるべき用途で使った人。
その人の考え、言葉、行動には矛盾が無く、
その人は、人間として生まれてするべきカルマを全てした人である。」
人間としてするべき全てのカルマとは、
「カルマでは人間の幸福は満たされない」という見切りが付けられて、
ヴェーダーンタに出会うまでのプンニャを稼げたら、
ほとんど仕事は終わりです。
あとは、カルマ・ヨーガでこころを成長させながら、
日々クリアーになるヴェーダーンタの教えに触れ続ける生活があるのみです。
「料理をする」というカルマ(行為)をとってみます。
そこには、台所に立つ、米を研ぐ、水を流す、、、という行為の連続があります。
それらのどれひとつをとっても「料理をする」ではありません。
「料理をする」という実体は無いのです。
「米を研ぐ」という行為にも、米を釜に入れる、水道の蛇口を開ける、米をかき回す、、、
という行為の連続があり、どれひとつをとっても、それは「米を研ぐ」ではありません。
つまり「行為」に実体は無いのです。
お米をとっても、そこにはデンプンと水分があるだけ、デンプンには炭素と窒素などの原子が、
水の分子には、水素と酸素の原子が、、、と素粒子まで行っても、
やっぱり最終的に「これだ!」という実体はないのです。
じゃあ、何も無いのか?
実体はないけれども、ほかほかの美味しいご飯は食べられます。
いや、ご飯なんて無い!世の中はすべて「無」だ!
というなら、ご飯抜きね。ほかほかご飯も、食べる人も、無いんでしょ?
じゃあ、実体は何なのか?
この実体と、実体は無いけれども、「ある」世の中の現象全てについて、
追究するのがヴェーダーンタなのです。
これは、人生の意味を満たしてくれる、真剣な勉強です。
ヴェーダーンタは必ず、ヴェーダーンタの知識の伝承の伝統のなかで学んだ先生から、
直に教えてもらわなければ、その意味は成せません。
カルマの役割は、正しく理解される必要があります。
ヴェーダーンタの知識を理解出来るこころは、
カルマを通してのみ、つまり義務を果たす生活を通してのみ、培われます。
また、モークシャとか、解脱とか、ニルヴァーナとか、ニッバナとか、
「何からの解放・自由なのか?」というと、「カルマ」からです。
つまり、カルマを認めないと、そこからの自由も無いのです。
ゆえに、カルマが何かを分からないと、そこからの自由も何も語れないのです。
何を求めているのか、何が気に食わないのか、何がどうなればいいのか、
全てをきっちり考え抜かないのは、
「メルセデスを欲する代わりに、解脱を欲している」のレベルです。
考え抜くガイドをしてくれ、その答を教えてくれるのが文献とそれを教える伝統なのです。
クリシュナの言うとおり、カルマについては混乱だらけです。
カルマの役割を正しく知ってこそ、さらなるカルマの意味が分かるのです。
今回見た一連のギーター・シュローカの一語一語は、
その意味と意味の開き方の伝統を知る先生から、正しく教えてもらって下さい。
皆さんが正しい先生とめぐり逢える事をお祈りしています。
<< 目次へ戻る <<
こちらも: 行動の選択と葛藤について、ギータークラスの質問への答え
63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])
ヒンドゥーでは、天使や悪魔のささやきといった、人格を分裂させ、自己否定・自己糾弾させるような教えはありません。
>> 次回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) >>
カルマと言えば、ダルマを知らなければなりません。
「クル(कृ [kṛ])」に「マン(मनिँन् [manim̐n])」という接尾語を付けます。
この接尾語を付加することによって、
「される対象、もしくはすることによって得られる対象」
という意味の名詞の原型が出来るのです。
さらに、この接尾語は、「クル(कृ [kṛ])」にグナの変化を起こします。
k ṛ + man
= k a + man
「ṛ」のグナは「a」です。
「ṛ」の音が「a, i, u」のいづれかに変化した際、その後ろに「r」が付加されます。
ゆえに、
= k a r + man
[karma]
neuter - 自由意志を使って選んで行う行為
マハーバーラタ戦争が始まろうとする中で、 アルジュナに教えるクリシュナ |
正しく理解されていないもの、それがカルマ
日本でも使われている「カルマ」という言葉は、
正しく理解されないままに使われているサンスクリット語の
代表例のひとつでしょう。
バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナが言っています。
किं कर्म किमकर्मेति कवयोऽप्यत्र मोहिताः ।
[kiṃ karma kimakarmeti kavayo'pyatra mohitāḥ]
「何がカルマで、何がアカルマ(カルマの反対)なのか、
賢者とみなされるような人達まで、この点において混乱している。」
ましてや、文献の正しい解釈に触れる機会を持たずして、
分かったつもりで会話の中で多用するのは避けたほうが良いですね。
クリシュナは続けます。
तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]
「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、
そのカルマについて、あなた(アルジュナ)に教えましょう。」
カルマとは何かを「知ることにより」と言われています。
頼まれたら教えます。 頼まれてもいないのに教えても、 解らないどころか、誰も聞いてくれません。このような教えは。 |
次のシュローカは、
कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]
「文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。
何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。
何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。
これらカルマの理解は難しいものです。」
そして、次のシュローカで、クリシュナは、
サムサーラから解放してくれる、カルマの知識を教えてくれるのです。
しかも、たった半分のシュローカの中で。
その前に、カルマの語源と定義を見てみましょう。
カルマの語源
「クル(कृ [kṛ])」という動詞の原型から派生した言葉です。
「する、つくる」という意味で、英語の「do」に相当する、
言語の基本になる、重要な動詞の原型です。
そこに、「マン (मन् [man])」という接尾語をつけて、
「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がります。
詳しい文法は、下に別記しました。
カルマの定義
さまざまな学派によって、さまざまな定義がされているのが、
「カルマ」という言葉です。
ゆえに、クリシュナも「賢者と呼ばれるような人でも混乱している」と言っているのです。
では、さまざまな定義をひとつひとつ検証しましょう。
1.動くことがカルマ(चलनात्मकं कर्म)
これだと、流れている川、風に揺れる木も、
カルマをしていることになります。
でもそれは違います。
2.見えない結果を生む行動がカルマ(अदृष्टफलकं कर्म)
見えない結果とは、日本語の「徳」のようなもののように、
親切にしたり、祈りの儀式をしたり、または非道徳な行為をした場合、
その行為の直後には見えないけど、後になって回りまわって自分に帰ってくると信じられる、
そんな結果をサンスクリット語で「アドリシュタ」と呼び、
それを直訳すると、「見えない結果」となる訳です。
「アドリシュタ」には「プンニャ」と「パーパ」があり、それぞれ、
「善い行いの結果」と「善くない行いの結果」という意味です。
もうちょっと広げると、
「自分の義務、つまり宇宙の秩序に沿った行為をすることによって生まれる、
後に快適な経験をもたらしてくれるもの」がプンニャで、
その反対がパーパです。
ちなみにプンニャは、ヴェーダーンタやサンスクリットへの興味、
そしてそれらを勉強出来る環境(先生、先生へのアクセス、心の平和など)も、
作り出してくれます。
この定義も完全とはいえません。
全ての行為が必ず「アドリシュタ」を生むとは限らないからです。
3.文法上のカルマ(कर्तरीप्सिततमं कर्म)
行為の主体の対象、という意味です。
これは、文法の話をしている時だけに使われるべき言葉です。
4.自由意志を使ってする行為がカルマ(कर्तृतन्त्रं कर्म / पुरुषतन्त्रं कर्म)
私達は、この身体を使って、ありとあらゆる種類の行為をすることが出来ます。
この時この場所で、この行為を、するか、しないか、するとしたらどのようにするか、
という選択権は私達にあります。
その選択権を「自由意志」と呼びます。
行為の選択権である「自由意志」を持たされている生命体を「人間」と定義します。
行為の選択基準は「宇宙の秩序との調和」です。
宇宙との調和を基準にして、この時この場所で、自分の行為を選ぶとき、
そこには、選択肢は殆どありません。
宇宙の動きが、「自分のすべきこと」として、目の前に表れているのです。
自分の行為を通して、宇宙の動きの中に、調和という形で参加する。
そのとき、その人のこころに精神的な成長が生まれ、平和が生まれるのです。
こうして、自由意志を使って選択した行為(カルマ)と通して、
精神的な成長と平和を得ること(ヨーガ)を、カルマ・ヨーガというのです。
アヒムサー
「宇宙の秩序との調和」として、一番大切な基準は「アヒムサー」です。
「私は痛めつけられたくない。」
という知識は全ての生命体が持っています。
「私と同じように、他の生き物も、痛めつけられたくない」
という知識を持っているのが、人間です。
ゆえに、
「あらゆる生命体に対して、自分が与える痛みを最小限にして生きたい。」
と願うのは、人間が、もっとも人間らしくある姿なのです。
よくある質問:
Q1:自由意志なんて、全ての人間が持っているものなのか?
A1:はい。自由意志を持たされているのが人間です。
ヴェーダによる人間の定義は「自由意志を持っている生命体」です。
地球にいようと、どの惑星にいようと、
自由意志を持っていれば、人間とみなされます。
Q2:全ては運命に操られているのだから、自由意志ではどうにもならないのでは?
A2:運命とは、その人がしてきた行為、つまりカルマの現われです。
カルマとは、自由意志を使用・誤用・悪用して、行われた行為です。
その結果が運命なので、運命を認める事自体が、
カルマ、つまり自由意志を認めていることなのです。
あなたの自由意志は、自由に使いこなされているか?
自由意志とは、自由にうまく使いこなす為に与えられているものです。
実際には、使いこなせていない場合が殆どなのです。
殆どの人が多くの場合、
1.自由意志を使っていない、もしくは
2.自由意志を誤用、悪用しているのです。
なぜそうなるかというと、
1.何も考えずに機械的に行動をしている
2.こうじゃなきゃやだ!という執着に背中を押されて判断が鈍っている
という理由が考えられます。
自分のこころの成長と平和を願う人は、この辺りを気をつければ良いわけです。
「好きなこと」と「すべきこと」
経済至上主義の社会では、「自分の好きなことをやる!」ことが、
いかにも自由であるように教えられていますが、
人間の特権である自由意志が、好き嫌いにハイジャックされている状態を、
本当の意味で自由と呼ぶことは出来ません。
「好きなこと」と「すべきこと」が同じとは限りません。
好きか嫌いかは別として、「すべきこと」が出来る人を、
「客観的」「ヨーギー」「大人」「精神的に成長した人」と呼ぶのです。
カルマ、ヴィカルマ、アカルマ
先ほど上で見た、ギーターのシュローカをもう一度見てみましょう。
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]
1.文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。
2.何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。
3.何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。
これらカルマの理解は難しいものです。」
1.カルマの理解は、ここで試みましたね。
2.ヴィカルマとは、今ここでするべきではない行為です。
つまり、自由意志の不使用、誤用、悪用、乱用によって選択された行為です。
宇宙の秩序の調和に欠けた行為であるゆえに、
その人のこころには、不調和、未熟・幼稚さ、不平和、不満、などがついて回ります。
3.調和のある行為の結果はプンニャだし、不調和の結果はパーパ、
自分はプンニャもパーパも要らないから、息を潜めて、ただただ座って、何もしません!
というのが「アカルマ」です。
しかし、息を潜めているのも、自分で選んでしている行為、つまりカルマです。
座っているのもカルマです。生きているうちは、カルマをしない!なんてのは無理です。
馬鹿ばかしく聞こえるかも知れませんが、ヴェーダーンタを勉強していながら、
このような「僕はヨーギーだから何もしない!」という落とし穴にはまっている人を
私は何人も見てきています。
だから、クリシュナもわざわざギーターの中で言ってくれているのでしょうね。
サムサーラから自由になる、カルマの知識とは?
तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]
「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、
そのカルマについて、教えましょう。」
と、16節でクリシュナが約束した、カルマについて知る時が来ました。
それを教えるのが次のシュローカです。
कर्मण्यकर्म यः पश्येद् अकर्मणि च कर्म यः ।
[karmaṇyakarma yaḥ paśyed akarmaṇi ca karma yaḥ |]
「カルマの中に、アカルマを見ている者。
アカルマの中にカルマを見ている者。」
教えはこれだけです。
後は、教えを理解している人について。
स बुद्धिमान् मनुष्येषु स युक्तः कृत्स्नकर्मकृत् ॥ 4-18 ॥
[sa buddhimān manuṣyeṣu sa yuktaḥ kṛtsnakarmakṛt || 4-18 || ]
その人の考え、言葉、行動には矛盾が無く、
その人は、人間として生まれてするべきカルマを全てした人である。」
人間としてするべき全てのカルマとは、
「カルマでは人間の幸福は満たされない」という見切りが付けられて、
ヴェーダーンタに出会うまでのプンニャを稼げたら、
ほとんど仕事は終わりです。
あとは、カルマ・ヨーガでこころを成長させながら、
日々クリアーになるヴェーダーンタの教えに触れ続ける生活があるのみです。
カルマの中にアカルマを見る
「料理をする」というカルマ(行為)をとってみます。
そこには、台所に立つ、米を研ぐ、水を流す、、、という行為の連続があります。
それらのどれひとつをとっても「料理をする」ではありません。
「料理をする」という実体は無いのです。
「米を研ぐ」という行為にも、米を釜に入れる、水道の蛇口を開ける、米をかき回す、、、
という行為の連続があり、どれひとつをとっても、それは「米を研ぐ」ではありません。
つまり「行為」に実体は無いのです。
お米をとっても、そこにはデンプンと水分があるだけ、デンプンには炭素と窒素などの原子が、
水の分子には、水素と酸素の原子が、、、と素粒子まで行っても、
やっぱり最終的に「これだ!」という実体はないのです。
じゃあ、何も無いのか?
実体はないけれども、ほかほかの美味しいご飯は食べられます。
いや、ご飯なんて無い!世の中はすべて「無」だ!
というなら、ご飯抜きね。ほかほかご飯も、食べる人も、無いんでしょ?
じゃあ、実体は何なのか?
この実体と、実体は無いけれども、「ある」世の中の現象全てについて、
追究するのがヴェーダーンタなのです。
これは、人生の意味を満たしてくれる、真剣な勉強です。
ヴェーダーンタは必ず、ヴェーダーンタの知識の伝承の伝統のなかで学んだ先生から、
直に教えてもらわなければ、その意味は成せません。
ギーターチャーリヤ(ギーターの先生) バガヴァーン・クリシュナ |
じゃあ、カルマは無いのか?
カルマの役割は、正しく理解される必要があります。
ヴェーダーンタの知識を理解出来るこころは、
カルマを通してのみ、つまり義務を果たす生活を通してのみ、培われます。
また、モークシャとか、解脱とか、ニルヴァーナとか、ニッバナとか、
「何からの解放・自由なのか?」というと、「カルマ」からです。
つまり、カルマを認めないと、そこからの自由も無いのです。
ゆえに、カルマが何かを分からないと、そこからの自由も何も語れないのです。
何を求めているのか、何が気に食わないのか、何がどうなればいいのか、
全てをきっちり考え抜かないのは、
「メルセデスを欲する代わりに、解脱を欲している」のレベルです。
考え抜くガイドをしてくれ、その答を教えてくれるのが文献とそれを教える伝統なのです。
クリシュナの言うとおり、カルマについては混乱だらけです。
カルマの役割を正しく知ってこそ、さらなるカルマの意味が分かるのです。
今回見た一連のギーター・シュローカの一語一語は、
その意味と意味の開き方の伝統を知る先生から、正しく教えてもらって下さい。
皆さんが正しい先生とめぐり逢える事をお祈りしています。
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こちらも: 行動の選択と葛藤について、ギータークラスの質問への答え
63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])
ヒンドゥーでは、天使や悪魔のささやきといった、人格を分裂させ、自己否定・自己糾弾させるような教えはありません。
>> 次回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) >>
カルマと言えば、ダルマを知らなければなりません。
カルマの語源(文法編)
「クル(कृ [kṛ])」に「マン(मनिँन् [manim̐n])」という接尾語を付けます。
この接尾語を付加することによって、
「される対象、もしくはすることによって得られる対象」
という意味の名詞の原型が出来るのです。
さらに、この接尾語は、「クル(कृ [kṛ])」にグナの変化を起こします。
k ṛ + man
= k a + man
「ṛ」のグナは「a」です。
「ṛ」の音が「a, i, u」のいづれかに変化した際、その後ろに「r」が付加されます。
ゆえに、
= k a r + man
となり、「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がるのです。
ちなみに、「カルマ」という形は、名詞の活用変化をした後の形です。