संसारः
[saṃsāraḥ]
昔(って今でもありますが)、ゲランの香水の名前になっていましたね。
どういう成り行きで、このネーミングになったのでしょうね。
今の自分に満足が行かず、次から次へと、別の自分になろうとすること、
またはその理由。つまり、「別の自分になる!」と言わせている、このセットアップ。
サムサーラとは、この世界のことだと思われがちですが、
この世界自体は、サムサーラとは呼べません。
サムサーラとは、
自分と世界に関しての根本的な無知がある人から見た、自分と世界のことです。
सम्यक् सरति अस्माद् इति संसारः
[samyak sarati asmād iti saṃsāraḥ]
サムミャク サラティ アスマード イティ サムサーラハ
まさに 行く それにより それが サムサーラ
サムサーラの「サム(सम् [sam])」は「サムミャク(सम्यक् [samyak])」を表しています。
「サムミャク」とは、「まさに、実に、その通りに、とても良く」という意味です。
サムサーラの「サーラ」は、「スリ(सृ [sṛ])」という動詞の原型から派生しています。
「スリ」とは、「行く、進む、何か別のところに辿り着く」という意味です。
その動詞の原型の後ろに、「そのアクションの原因」もしくは「そのアクションそのもの」
を表す接尾語「ア」を付加して、「サムサーラ」という言葉を作るのです。
つまり、サムサーラとは、人々が前世から今世へと、そして今世から来世へと、
自分の願望や、願望を成し遂げる為にした善悪の行いの結果を経験するために、
適した身体と世界を、次から次へと移り行き続けること、
またはその原因=無知からの欲望を指す言葉なのです。
「サム(सम् [sam])」+「スリ(सृ [sṛ])」+「ア(अ [a])」
まさに 行く それにより
社会生活や、家族生活のことをサムサーラと呼ぶ人は多いですが、
それは間違っています。
サムサーラとは、今の自分とは違う自分になろうとしていることを指すのです。
「ライフ オブ ビカミング(life of becoming)」です。
来年にはメルセデスのオーナーになろうとして頑張ります。
なぜなら、メルセデスを持っていない自分に、自分自身が耐えられないからです。
素敵な配偶者を持っている自分になりたい。
素敵な配偶者を持っていないような自分は駄目だと自分が判断してるから。
こんな子供を持っている自分になりたい。こんな家を持っている自分になりたい。
こんな給料をもらって、こんな役職についている自分になりたい。。。
この世界は、人類がこのような夢や希望を持って生きるように作られているので、
それ自体が問題ではありません。
ただ、「まだ目標達成出来ていない自分のことが、自分にとって心地よくないから」
と思ってしまう心のトリックに気付いていれば、バランスを崩すことは無いでしょう。
人間というものは、社会生活や家族生活を通してのみ、精神的に成長出来るので、
健全な夢や希望は、精神的成長の動力です。
バガヴァッド・ギーターでも
「私(バガヴァーン)は、世界と調和している欲望(カーマ)として、
人類の心の中に現われる(7章11節)」と教えられています。
自分の中に、「幸せな家族を持ちたい」や、
「適職に就いて、達成感を得ながら社会に貢献したい」という願望が
現われるのは、バガヴァーンの現われなのです。
そのような願望はどんどん行動に移せば良いのです。
周りにとって良いことは、結果的に自分の成長にとって一番良いことだからです。
では反対に、世の中の秩序に背き、不調和を起こすような願望が、
自分の中に現われた場合はどうなのでしょうか?
それって、悪魔の仕業?
いいえ。「悪魔のささやき」のような、人格を分割させるような教えは、
ヒンドゥーにはありません。
前世も含めて、今までに見聞きした膨大な情報は、
自分の心に印象(ワーサナ、サムスカーラ)を与え、
それが自分の考えに影響を与えるのです。
考えというものは、心の中で生まれては消えて行くものです。
自分でも予想のつかない、様々な考えが、次から次へと自動的に生成され、
そして消えて行きます。
そんなことは、ヴィパーサナ瞑想などに10日間を費やさなくても、
分別があれば誰でも分かることです。
よっぽど「スピリチュアル」な情報に惑わされていない限り、ですが。
ゆえに、世界と調和しないような考えが、心の中に現われても、
自分の事を責めたり、その考えにとらわれたりせず、ましてや行動に移したりせず、
「過去の印象から自動生成されたものだから」と、そのまま受け流せば良いだけなのです。
今の自分に満足いかず、次から次へと別の自分になろうとするのが
「サムサーラ」です。
別の自分がいるのは、今ここでは無い、「いつかどこかの時間と場所」です。
「いつかどこかの時間と場所」には、天国も含まれています。
現代で勢力を持っている宗教というものは、
この「天国行き」を最終ゴールとした宗教です。
「この世界にある全ての動植物は人間の消費の為にある」と教え、
「天国に行く為なら、人を傷つけることもいとわない」という、
とても危険な考えを教えています。
それらの宗教を信じている「人」が悪いのではなく、
それらの宗教の「教え、教義」が間違っているのです。
間違った考えを持っている人達は、広い心で受け入れられる必要がありますが、
間違った考えを、正しい考えとして受け入れるのは、そう、間違いです。
この勢力宗教の「間違った教義」は、現代に生きる人類が、
皆で考え、対話を通してアップデートをしていく必要のある課題です。
ヴェーダは天国や、天国への行き方を教えている部分もありますが、
「どうせ行っても、時間が来たらまた別の世界に降りて来ないといけない世界」
として教えています。
「1年間一生懸命働いて稼いだお金と有給で手に入れた、
二週間のハワイ旅行も、二週間経てば、また同じ労働生活に戻らなければならない」
というロジックと全く同じ。
天国に行っても、完全な幸せと平安を得ることは出来ない。
「天国もサムサーラの範囲内」ということを分かってもらうために、
ヴェーダは天国について教えているのです。
クリスチャンやムスリムが信じる聖書では、天国も地獄も「永遠」とされていますが、
ヴェーダでは、天国も地獄も永遠の場所ではありません。
「永遠の天国」「永遠の地獄」は理論的に間違っています。
多くの宗教では、天国も地獄も「永遠」とされていますが、
今ここでは無い、死んでから行く場所を永遠とするのは、
理論的に間違っています。
なぜなら、今、ここに無い世界が、永遠であるわけが無いからです。
天国は快楽を経験する場所、地獄は苦痛を経験するための場所なら、
それは永遠ではありえません。経験とは時間と場所の軸内にあるからです。
時間の軸内にあるものを永遠とは呼べません。
永遠ということは、時間的に制限が無いということです。
それならば、今ここにいる私が、永遠であるべきです。
改宗して、他の人を弾圧して、そして死んでから、
神様に気に入ってもらえれば行けるような場所は、永遠とは呼べません。
理論で到達出来ない事実はあったとしても、
理論的に間違っていることを、ヴェーダは教えません。
結局は理解ベースの教えだからです。
理論的に間違っていることを、思考停止して飲み込ませるのが「信仰宗教」です。
ゆえに、聖書は思考停止して飲み込むだけの「信仰ベースの宗教」です。
一方、ヴェーダは明瞭な思考を要する「理解」ベースの「教え」です。
なぜなら、間違いを認識できる明瞭な心によってのみ理解される
真実を教えるのがヴェーダだからです。
アヒムサーを尊重し、心の平和を明瞭さを育て、
私達の持っている、世界や自分や幸せについての結論の中に、
理論的間違いを指摘し、それを理解してもらう、一連の教えがヴェーダなのです。
誤解を避けるために繰り返しますが、
「間違った考えを、真実として受け入れない」ことは大事であり、同時に、
「間違った考えを飲み込んでいる信仰深い人々を、
そういう人々として愛情を持って受け入れる」という許容力も大事である、
というのが、ヴェーダの文化のあり方です。
いわゆる「インド哲学」や「スピリチュアル」に感化された人の中には、
「私はサムサーラから抜け出したい」と受け売りの発言をする人もいます。
なぜ受け売りなのかと言うと、
「今の自分よりも、もっといい条件にいる自分になりたくない」
という人はいないからです。
じゃあ、何から抜け出そうとしているのかというと、
「別の自分になり続けるために、走り回っているのに疲れた。
天国にまで行っても、それが永遠では無いのなら、
出口も解決方法も無い。本当に走り回り続けなければ、私は幸せでいられないのか?」
と考え始めた人を、ヴェーダでは「ムムクシュ」と呼びます。
直訳すると「解放を願う人」、つまり「頑張り続けないと幸せにはなれない、
幸せになったつもりでも、遅かれ早かれ、やっぱり頑張っている自分がいる。
いつまで経っても自分は自分自身に満足出来ていない。
という根本的な問題からの解決を探し始めた人」という意味です。
そんな、根本的な問題に気付くことが出来て、根本的な解決を探すことを始めた、
とても頭脳明瞭で、精神的な成長を遂げた「ムムクシュ」に対して、
最終的な答を教える為に、ヴェーダはあるのです。
ヴェーダは「ここにある全てはひとつの存在であり、それはあなたです。」と教えます。
あなたの欲しいものは全てあなたの中にあり、
あなたの求めている、幸せの意味はあなた自身であり、
永遠とは今ここにいるあなたのことであるがゆえに、
あなたの探している、永遠の幸福、永遠の平和とは、つまり、
今ここにいるあなたに他ならない。
と教えています。
もしそうなら、サムサーラなど、今までにもこれからも、一度も無かったのです。
これは、「ビューティフル!」と詩的に鑑賞するための文学などではなく、
分析し、理論と突合せ、100%理解する為の文章です。
このようなウパニシャッドの言葉を、美文体に訳して、
なんとなくいい気分になって味わうのでは無く、
「100%明瞭に理解したい」と願う人を、「ジッニャース」と呼びます。
直訳すると、「知りたいと願う人」です。
この「ムムクシュ」から「ジッニャース」へのジャンプには、明瞭な思考が必要です。
明瞭な思考には、平和な心が必要です。
平和な心を得るには、世界と調和のとれた生活が必要です。
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人間の根本的な問題を解く鍵、それは知性。
知性の女神、メーダーについて。
>> 次回 64.カルマ(कर्म [karma]) >>
その意味が正しく理解されずに使われている言葉の代表、
カルマについて、詳しく説明します。
[saṃsāraḥ]
masculine - 別の自分になろうとすること
昔(って今でもありますが)、ゲランの香水の名前になっていましたね。
どういう成り行きで、このネーミングになったのでしょうね。
サムサーラとは
今の自分に満足が行かず、次から次へと、別の自分になろうとすること、
またはその理由。つまり、「別の自分になる!」と言わせている、このセットアップ。
サムサーラとは、この世界のことだと思われがちですが、
この世界自体は、サムサーラとは呼べません。
サムサーラとは、
自分と世界に関しての根本的な無知がある人から見た、自分と世界のことです。
サムサーラの語源
सम्यक् सरति अस्माद् इति संसारः
[samyak sarati asmād iti saṃsāraḥ]
サムミャク サラティ アスマード イティ サムサーラハ
まさに 行く それにより それが サムサーラ
サムサーラの「サム(सम् [sam])」は「サムミャク(सम्यक् [samyak])」を表しています。
「サムミャク」とは、「まさに、実に、その通りに、とても良く」という意味です。
サムサーラの「サーラ」は、「スリ(सृ [sṛ])」という動詞の原型から派生しています。
「スリ」とは、「行く、進む、何か別のところに辿り着く」という意味です。
を表す接尾語「ア」を付加して、「サムサーラ」という言葉を作るのです。
つまり、サムサーラとは、人々が前世から今世へと、そして今世から来世へと、
自分の願望や、願望を成し遂げる為にした善悪の行いの結果を経験するために、
適した身体と世界を、次から次へと移り行き続けること、
またはその原因=無知からの欲望を指す言葉なのです。
「サム(सम् [sam])」+「スリ(सृ [sṛ])」+「ア(अ [a])」
まさに 行く それにより
世界の秩序に沿った健全な欲望は、バガヴァーンの現われ
社会生活や、家族生活のことをサムサーラと呼ぶ人は多いですが、
それは間違っています。
サムサーラとは、今の自分とは違う自分になろうとしていることを指すのです。
「ライフ オブ ビカミング(life of becoming)」です。
来年にはメルセデスのオーナーになろうとして頑張ります。
なぜなら、メルセデスを持っていない自分に、自分自身が耐えられないからです。
素敵な配偶者を持っている自分になりたい。
素敵な配偶者を持っていないような自分は駄目だと自分が判断してるから。
こんな子供を持っている自分になりたい。こんな家を持っている自分になりたい。
こんな給料をもらって、こんな役職についている自分になりたい。。。
この世界は、人類がこのような夢や希望を持って生きるように作られているので、
それ自体が問題ではありません。
ただ、「まだ目標達成出来ていない自分のことが、自分にとって心地よくないから」
と思ってしまう心のトリックに気付いていれば、バランスを崩すことは無いでしょう。
人間というものは、社会生活や家族生活を通してのみ、精神的に成長出来るので、
健全な夢や希望は、精神的成長の動力です。
バガヴァッド・ギーターでも
「私(バガヴァーン)は、世界と調和している欲望(カーマ)として、
人類の心の中に現われる(7章11節)」と教えられています。
自分の中に、「幸せな家族を持ちたい」や、
「適職に就いて、達成感を得ながら社会に貢献したい」という願望が
現われるのは、バガヴァーンの現われなのです。
そのような願望はどんどん行動に移せば良いのです。
周りにとって良いことは、結果的に自分の成長にとって一番良いことだからです。
「悪魔のささやき」など無い
では反対に、世の中の秩序に背き、不調和を起こすような願望が、
自分の中に現われた場合はどうなのでしょうか?
それって、悪魔の仕業?
いいえ。「悪魔のささやき」のような、人格を分割させるような教えは、
ヒンドゥーにはありません。
前世も含めて、今までに見聞きした膨大な情報は、
自分の心に印象(ワーサナ、サムスカーラ)を与え、
それが自分の考えに影響を与えるのです。
考えというものは、心の中で生まれては消えて行くものです。
自分でも予想のつかない、様々な考えが、次から次へと自動的に生成され、
そして消えて行きます。
そんなことは、ヴィパーサナ瞑想などに10日間を費やさなくても、
分別があれば誰でも分かることです。
よっぽど「スピリチュアル」な情報に惑わされていない限り、ですが。
ゆえに、世界と調和しないような考えが、心の中に現われても、
自分の事を責めたり、その考えにとらわれたりせず、ましてや行動に移したりせず、
「過去の印象から自動生成されたものだから」と、そのまま受け流せば良いだけなのです。
「天使&悪魔のささやき」といった考えは、 葛藤や人格分裂をおこすだけ。 心についてもっと知り、客観的になり、 自分の心から距離を置く必要があります。 |
サムサーラの範囲
今の自分に満足いかず、次から次へと別の自分になろうとするのが
「サムサーラ」です。
別の自分がいるのは、今ここでは無い、「いつかどこかの時間と場所」です。
「いつかどこかの時間と場所」には、天国も含まれています。
現代で勢力を持っている宗教というものは、
この「天国行き」を最終ゴールとした宗教です。
「この世界にある全ての動植物は人間の消費の為にある」と教え、
「天国に行く為なら、人を傷つけることもいとわない」という、
とても危険な考えを教えています。
それらの宗教を信じている「人」が悪いのではなく、
それらの宗教の「教え、教義」が間違っているのです。
間違った考えを持っている人達は、広い心で受け入れられる必要がありますが、
間違った考えを、正しい考えとして受け入れるのは、そう、間違いです。
対話による、間違った教義のアップデートの必要性
この勢力宗教の「間違った教義」は、現代に生きる人類が、
皆で考え、対話を通してアップデートをしていく必要のある課題です。
ヴェーダの教える天国は「サムサーラの範囲内」
ヴェーダは天国や、天国への行き方を教えている部分もありますが、
「どうせ行っても、時間が来たらまた別の世界に降りて来ないといけない世界」
として教えています。
「1年間一生懸命働いて稼いだお金と有給で手に入れた、
二週間のハワイ旅行も、二週間経てば、また同じ労働生活に戻らなければならない」
というロジックと全く同じ。
天国に行っても、完全な幸せと平安を得ることは出来ない。
「天国もサムサーラの範囲内」ということを分かってもらうために、
ヴェーダは天国について教えているのです。
行ってもまた帰ってきますよ。 天国であれ、地獄であれ、今ここでは無い場所も時間も全てはサムサーラ。 永遠ではありません。 |
「永遠の天国」など無い
クリスチャンやムスリムが信じる聖書では、天国も地獄も「永遠」とされていますが、
ヴェーダでは、天国も地獄も永遠の場所ではありません。
「永遠の天国」「永遠の地獄」は理論的に間違っています。
多くの宗教では、天国も地獄も「永遠」とされていますが、
今ここでは無い、死んでから行く場所を永遠とするのは、
理論的に間違っています。
なぜなら、今、ここに無い世界が、永遠であるわけが無いからです。
天国は快楽を経験する場所、地獄は苦痛を経験するための場所なら、
それは永遠ではありえません。経験とは時間と場所の軸内にあるからです。
時間の軸内にあるものを永遠とは呼べません。
永遠ということは、時間的に制限が無いということです。
それならば、今ここにいる私が、永遠であるべきです。
改宗して、他の人を弾圧して、そして死んでから、
神様に気に入ってもらえれば行けるような場所は、永遠とは呼べません。
理論で到達出来ない事実はあったとしても、
理論的に間違っていることを、ヴェーダは教えません。
結局は理解ベースの教えだからです。
ヴェーダは信仰ベースの宗教では無い所以
理論的に間違っていることを、思考停止して飲み込ませるのが「信仰宗教」です。
ゆえに、聖書は思考停止して飲み込むだけの「信仰ベースの宗教」です。
一方、ヴェーダは明瞭な思考を要する「理解」ベースの「教え」です。
なぜなら、間違いを認識できる明瞭な心によってのみ理解される
真実を教えるのがヴェーダだからです。
アヒムサーを尊重し、心の平和を明瞭さを育て、
私達の持っている、世界や自分や幸せについての結論の中に、
理論的間違いを指摘し、それを理解してもらう、一連の教えがヴェーダなのです。
誤解を避けるために繰り返しますが、
「間違った考えを、真実として受け入れない」ことは大事であり、同時に、
「間違った考えを飲み込んでいる信仰深い人々を、
そういう人々として愛情を持って受け入れる」という許容力も大事である、
というのが、ヴェーダの文化のあり方です。
サムサーラからどうやって抜け出す?
いわゆる「インド哲学」や「スピリチュアル」に感化された人の中には、
「私はサムサーラから抜け出したい」と受け売りの発言をする人もいます。
なぜ受け売りなのかと言うと、
「今の自分よりも、もっといい条件にいる自分になりたくない」
という人はいないからです。
じゃあ、何から抜け出そうとしているのかというと、
「別の自分になり続けるために、走り回っているのに疲れた。
天国にまで行っても、それが永遠では無いのなら、
出口も解決方法も無い。本当に走り回り続けなければ、私は幸せでいられないのか?」
と考え始めた人を、ヴェーダでは「ムムクシュ」と呼びます。
直訳すると「解放を願う人」、つまり「頑張り続けないと幸せにはなれない、
幸せになったつもりでも、遅かれ早かれ、やっぱり頑張っている自分がいる。
いつまで経っても自分は自分自身に満足出来ていない。
という根本的な問題からの解決を探し始めた人」という意味です。
ヴェーダの答え
そんな、根本的な問題に気付くことが出来て、根本的な解決を探すことを始めた、
とても頭脳明瞭で、精神的な成長を遂げた「ムムクシュ」に対して、
最終的な答を教える為に、ヴェーダはあるのです。
ヴェーダは「ここにある全てはひとつの存在であり、それはあなたです。」と教えます。
あなたの欲しいものは全てあなたの中にあり、
あなたの求めている、幸せの意味はあなた自身であり、
永遠とは今ここにいるあなたのことであるがゆえに、
あなたの探している、永遠の幸福、永遠の平和とは、つまり、
今ここにいるあなたに他ならない。
と教えています。
もしそうなら、サムサーラなど、今までにもこれからも、一度も無かったのです。
これは、「ビューティフル!」と詩的に鑑賞するための文学などではなく、
分析し、理論と突合せ、100%理解する為の文章です。
このようなウパニシャッドの言葉を、美文体に訳して、
なんとなくいい気分になって味わうのでは無く、
「100%明瞭に理解したい」と願う人を、「ジッニャース」と呼びます。
直訳すると、「知りたいと願う人」です。
この「ムムクシュ」から「ジッニャース」へのジャンプには、明瞭な思考が必要です。
明瞭な思考には、平和な心が必要です。
平和な心を得るには、世界と調和のとれた生活が必要です。
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人間の根本的な問題を解く鍵、それは知性。
知性の女神、メーダーについて。
>> 次回 64.カルマ(कर्म [karma]) >>
その意味が正しく理解されずに使われている言葉の代表、
カルマについて、詳しく説明します。