2015年8月2日日曜日

65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])- 世界のあり方を支えている法則

धर्मः
[dharmaḥ]


masculine - 世界のあり方を支えている法則



ダルマ・チャックラ(車輪)
 あなたの身体も心も過去も未来も含んだ、この宇宙の全ては、
法則に沿って、形を変え続け、回り続けている

ダルマとは?


前回に見た「カルマ」といえば「ダルマ」です。

仏教のお坊さんの名前「達磨さん」も、この「ダルマ」という言葉から来ています。


「ダルマ(धर्मः [dharmaḥ])」は、インドの智慧に少しでも触れれば、

必ず耳にする言葉のうちのひとつですが、

文化の上に成り立っている言葉の代表のようなので、

その意味を日本語一言で言い表すのは難しいです。

ゆえに今回は広げて説明しますね。でも、出来るだけ簡潔にわかりやすくまとめます。

こちらのダルマ・チャックラの方がインドの国旗に使われているものと似ている。
ちなみにインド国旗では深い青色で描かれている。

ダルマの語源


世界を、宇宙のあり方を支えているもの(धरति लोकान् [dharati lokān])

「ドリ(धृ [dhṛ])」という動詞の原型には、「支える」という意味があります。

そこに、ブランマンとかアートマンとか、カルマンとかの「マン」という接尾語が

付加されて出来た言葉です。接尾語の意味は「~するもの」です。

धृ [dhṛ](支える)+ मन् [man](~するもの)= धर्म [dharma](支えるもの)

となります。何を支えているのか?この


具体的な例を見ていきましょう。

無生物のダルマ


「火」のダルマは、「熱い、光を放つ」という性質です。

燃えている火が熱く、光を放ってこそ、この世はこんな風に出来ているのです。

火は熱いけど、たまに冷たくなる時もある、なんてことになると、

料理を作ったり、太陽に太陽でいてもらうことさえも期待出来なくなります。

空気は空気、水は水、海は海、川は川、空は空、

それぞれの「ダルマ」を守って、その範囲内で動いているからこそ、

この世界はこのような世界なのです。


生物のダルマ


生物でも、ライオンはライオン、猫は猫、パンダはパンダ、

竹は竹、きのこはきのこの「ダルマ」を守って、

それぞれの行動基準に沿った生き方をしています。

ある日突然竹やぶの竹が「ガオ~!」と叫んだりはしません。

個性はいろいろあれども、自分のあるべきあり方の一線を越すことはしません。


カメレオンはカメレオンらしく。

人間のダルマ


どうして人間様だけを特別に生物から離して別のカテゴリーに分けたのかというと、、、

人間には「自由意志」があるからです。

自由意志があるということは、自分のダルマに関して混乱がある、ということです。

人間にももちろん「人間のダルマ」そして「その人個人のダルマ」というものがあります。

自分に与えられた身体とその機能、立場という「ダルマ(あり方)」を見れば、

自分のするべき事についての「ダルマ」もおのずと決まります。


ただ食べてテレビを見て寝るだけにしては、

やたらにラグジュアリーな手足や脳みそが与えられています。

それらは、他の人間や動植物を愛したり、守ったりする為に与えられています。

脳みそは、しっかり考えられるように、かなり大きめに作って与えられています。

自分達の安全や快楽に関わる智慧を持って実行出来る事から、

他の動植物に比べてかなり有利な立場にあります。

日本に生まれてきたら、経済的にも職業選択の自由にもかなり有利な立場にあります。


しかし、そんな人間としての有利さを活かして、

「人間のダルマ」に沿って行動を選んでいるかと言えば、、、

怠惰や好き嫌いの慣性に引っ張られて、

「人間のダルマ」と誇らしく言えない方向に流されがちです。

そのジレンマがあるのが人間です。

このジレンマを司っているのが「自由意志」なのです。

必要であれば自由意志を使って、

人間としてのダルマを「選択」しなければならないのが、人間なのです。

ここが、他の動植物と人間が違うポイントです。


「ダルマ」の起源


「ダルマ」という言葉を使って、世界のあり方について教えるのが聖典ヴェーダです。

「カルマ」や「ダルマ」といった言葉とその意味(コンセプト)は、

聖典ヴェーダが元のソースとなっています。

「カルマとは、、」「ダルマとは、、」と説明する時には、

その元となる情報源は、ヴェーダであるべきです。

ヴェーダを元の情報源とせず、堂々とヴェーダの語彙を説明しているケースをよく見かけられるので、ご用心を。


幸せになりやすい人生を教えるヴェーダ


ヴェーダは人間の一生に、これでもかというほど生活規範を与えます。

朝は日の出までに起きて、お風呂はこういう風にしてこのマントラを唱えながら入って、

そのあとプラーナーヤーマとかしてからお祈りして、ジャパして、、、

と、ヴェーダの言う通りに生きていると自然に、

人間の好き嫌いの傾向をを諦めて、本能的惰性に引っ張られない、

精神的に安定・独立した、幸せが簡単に手に入りやすい人間に成長します。


なぜ幸せが手に入りやすいのかというと、

その人は客観的に世界を理解出来る、心が広く優しい人なので、

(心の狭さは、世界の理解を歪めますからね)

周りの無意味なあれこれに左右されにくく、

するべきことがすんなり出来て、多くの人を助けられるので、

自然と心は落ち着き、周りとも調和しているのです。


それだけでも十分幸せですが、ヴェーダが本当に教えたいことはその先にあります。

このように心を成長させた人にしか理解出来ない、

最後の教え、つまりヴェーダーンタを教える為に、

人間の心を成長させる手段を、ヴェーダの99.9%を占める

ヴェーダーンタの前の部分(カルマ・カーンダ)で言葉を尽くして教えているのです。

シャンカラーチャーリヤが持っている旗は「ダルマ」の印です。
ダルマがあって、初めてモークシャなのです。

自分のダルマって何?


これが、ヴェーダの文化の無い、現代日本の問題です。

私のダルマって?
ダルマは、あれこれ悩むものではなく、
その時その場所で正しく判断することなのです。

ダルマとは、その場その場で「Best of my knowledge(私の知る限りでベスト)」

を尽くして判断するように出来ています。

ゆえに、「これが私の定職、役目、ダルマ!」といえるものが

見つからないのは問題ではありません。

その日その日、目の前のやるべきことをやっていく、それがダルマなのです。


ダルマに沿った行動は、その時その場所で客観的に判断するべき事です。

自由意志を、惰性や好き嫌いから解放してあげて、やるべきことを選ぶ、

という生き方を続けていると、自然と正しい選択が苦も無く出来るようになります。

そんな人を、人間として精神的に成長した人と呼ぶのです。

物理的な成長は「人間的な成長」とは呼べません。

人間でなくても生物なら全て、時間が経てば自動的に成長し、劣化し、そして死にます。

人間の特権である「自由意志」を意識的に使い、精神的な成長を遂げることが、

わざわざ人間として生まれた目的なのです。



人間として生まれた目的


人間が生きている間になすべき目的は、人間として精神的に成長することにあります。

正しい知識に沿ってきっちり説明してもらえば、こんなに簡単で明快なことはありません。

正しいガイダンスがあれば、人生の目的は太陽の光の如くはっきりしますが、

正しいガイダンス無しに、頭をフル回転させているだけなら、

頭の良い医学博士でも、成功した実業家でも、宗教家でも、セラピストでも、

「人間としての目的」について、はっきりしたことが言えません。

健康で、長生きして、、その人生で何するの?

富と財産と名声は、、それ自体がゴールじゃなくて手段ですよね?

じゃあそれで何を得るべきなの?

人類を幸せに導く為の宗教家やオピニオン・リーダーの人達も、

悪気無く「人生に目的なんか無い、そんなの探しちゃ駄目!」と言ってのけます。

しっかりした価値感のベースになる教えが、日本には無いのです。

人生のゴールという絶対的価値が欠落している社会で、

何をどうやって納得しながら生きていけるのだろうか?

と、インドからおせっかいにも心配してしまいます。




ダルマの基準


随時状況を判断し、自由意志を使って行動を選択しなければならないのが人間の宿命です。

しかし、判断するには判断基準が必要です。

全てが完全に計算されつくされいるかのような、宇宙の秩序の中では、

ある生命体に自由意志を与えた場合、同時に意志を使う基準も与えています。

その基準は、私達人間ののDNAに、

そして深層心理にも表面心理にも、深く刻まれています。

どこぞの石版に刻まれている必要もありません。

その基準は、「アヒムサー」や「思いやり、コンパッション」と呼ばれるものです。

人間は、自分が傷つけらるのが嫌なのと同じように、

他の生物も傷つけられるのが嫌なことを、

誰から教わることなく、必ず知っています。

だから、他の痛みに敏感になり、出来るだけ痛みの少ない行動を選択する。

これがダルマの基準です。




全ての人類において普遍的なダルマは、サーマーンニャ・ダルマと呼ばれます。

サーマーンニャ(सामन्यः [sāmanyaḥ])とは、総体的な、一般的な、という意味です。

一方、その時代や場所で変わるダルマは、ヴィシェーシャ・ダルマと呼ばれます。

ヴィシェーシャ(विशेषः [viśeṣaḥ])とは、特異な、特別な、という意味です。

文化や習慣、宗教の違いも、このヴィシェーシャ・ダルマに反映されます。

そこから、サンスクリットが劣化して出来た言語であるヒンディーでは、

さまざまな宗教のことを、ダルマと呼びます。

イーサイー(キリスト)・ダルマ、イスラーム・ダルマ、ブッダ・ダルマ、、、


ダルマの種類??


しかし、ここでよく気をつけないと、

宇宙の原理が宗教創設者の考えによりいくつもある、

なんてことになってしまいます。


ヒンドゥーには、「我らのダルマ」などはありません。

あるのは、「サナータナ・ダルマ」(悠久に続くダルマ)だけです。

月や地球が軌道に沿って動くのが「ダルマ」です。

言葉や武器で傷つけられて、痛みを感じるのが「ダルマ」です。


ダルマとカルマ、そしてその結果


ダルマに沿って選択された行動は、この宇宙のあらゆる法則と調和しているので、

回り続ける大宇宙を車輪に見立てた、ダルマ・チャックラ(車輪)を回す動力になります。

そして、その行動をする人の周りや、その人の心の中に調和や平和、つまり幸せを生みます。




ダルマに沿わない行動は、宇宙のあらゆる法則と不調和しているので、

大宇宙のダルマ・チャックラの動きに反して、不協和音を発します。

ちょうど、ささくれ立った堅い木の皮に、服を脱いで背中を

きつくこつりつけているようなものです。

同じように、ダルマに沿わない行動を選択した人は、

遅かれ早かれ、必ず痛い思いをするわけです。


「ダルマ」は、自分や他人を審判する為のコンセプトではありません。

毎日を調和と共に生きて、自分と周りにより多くの幸せをもたらすことで、

自分が精神的に成長するために、知っておくべきコンセプトなのです。



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<< 前回 64.カルマ(कर्म [karma]) <<

正しく理解されていないもの、それがカルマ

日本でも使われている「カルマ」という言葉は、
正しく理解されないままに使われているサンスクリット語の
代表例のひとつです。バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナが言っています、、



>> 次回 仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1) >> 



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