अमृतम्
[amṛtam]
古今東西の物語の中で「アムリタ」とは、
「不老不死の秘薬」という、この世のものではないような飲み物のことを指します。
王様や富豪が世界中の辺境な地に遣いをやったり、
時には自ら危険をおかしてまでも、この不老不死の秘薬を手に入れようとします。
どんなにお金や権力を持ってしても、やっぱり老いや死を恐れる、
か弱い生き物なのだな、人間と言うものは。と幼心に思ったものです。
しかし、不老不死の秘薬なんて、誰も見たことも無いものなのに、
そんなもの、どこから聞きつけてきたのか?と思っていましたが、
ヴェーダをはじめとする文献には「アムリタ」という表現がよく出てきます。
ヴェーダの教える「アムリタ」とは、一体何なのでしょうか。
アムリタという言葉は、以下のように定義されています。
नास्ति मृतं मरणं यस्मात् तद् अमृतम् ।
この「ṛ」の巻き舌の音は、日本語に無い音なので、
「ムリ」とも「ムル」とも言えない音ですが、とりあえず「ムリ」とカタカナ表記しています。
この動詞の原型に、「~すること」という意味の「タ(त [ta])」という接尾語を付けると、
「ムリ(मृ [mṛ])死ぬ」+「タ(त [ta])~すること」
=「ムリタ(मृत [mṛta])死ぬこと、死」
になります。
否定の意味の「ア(अ [a])」と、「ムリタ(मृत [mṛta])死」をくっつけて、
「アムリタ(अमृत [amṛta])」となります。
このタイプの複合語(サマーサ)は、「バフヴリーヒ」というタイプのサマーサで、
複合された言葉以外の意味を指す言葉です。
つまり、「それにより、死(ムリタ)が無くなる(ア)」という場合、
複合語は「ア+ムリタ」ですが、
その言葉の意味は、「それ」、つまり不老不死の薬などを指しているのです。
「その人の、心や考え(アートマー)は寛大(マハー)である」の場合、
複合語は「マハー+アートマー」で、
その言葉の意味は「その人」つまりガンジー師や、サドゥーを指します。
サンスクリット語は深い!
「アムリタ」を求めているのは、何も王様や富豪だけではありません。
全ての人が欲しいものの象徴として、「アムリタ」があります。
それは何故かと言うと、私たちは皆例外なく、死ぬのは嫌だからです。
死にたくないと思うことは、恥ずかしいことでも何でもありません。
それがバガヴァーンのアレンジメントなのです。
ヴェーダーンタを学んで理解しなかった自称グルが、
「生への執着を捨てろ」などと教えるのは、危険極まりないことです。
人間だけでなく、全ての生きているものが、
死ぬことを嫌がること、傷ついたり痛みを感じることを嫌がることは、
バガヴァーンの在り方であるゆえに、尊敬されるべきことです。
自ら命を絶とうとする人もいますが、その人も「これ以上の痛みを感じたくない」
という思いから行動しているのです。例外なく誰だって、幸せになりたいのです。
幸せになりたいと願うのは、生きるものとして当たり前のことであり、
それを追求する為に、人生の時間が与えられているのであり、
それもバガヴァーンの創造のあり方なので、
自分の願いも、他者の願いも、後ろめたさを感じることなく、
尊重されるべきことなのです。
「死にたくない」というのは、全ての生き物に共通であることから、
ユニヴァーサルな価値感、つまり宇宙に普遍する共通の法則のあり方です。
私達生きるもの全ては、自分が「死にたくない」というのをよーく知っています。
自分自身のことですからね。
では、自分と同じように、他の生き物も「死にたくない」と思っている事を、
一番よーく知っているのは誰でしょう?
それは人間です。
このことをよーく知っているがゆえに、人間なのです。
「このこと」とは「共感、コンパッション、思いやり、良心」といった、
人間の、一番人間らしい感情のことです。
しかし、人間は、宗教の名の下に、「お国を守る」為に、
そして怒りや恐怖、不安から、
そして「地球上の動植物は全て、人間の消費の為にあるのだよ」といった
宗教的、あるいは経済至上的な価値感教育による洗脳、
そんな理由から、他の生き物を毎日殺しています。
自分が生きていく為に避けられなかった、最小限の殺生よりも、
はるかに多くの命を、上に挙げたような都合で殺生しているのです。
私利私欲の為に、大多数の人々に対して、
人間はもちろん動植物を殺すことを推奨することは、
その人々の人間性を否定していることに他なりません。
宗教、政治、経済などの大きな波に飲まれて、
大多数の人間達は、人間である証、「コンパッション」を放棄させられているのです。
この宇宙自体、全体そのものが、
時間の範囲内で生まれ、時間の範囲内で一瞬も止まらずに変化し続けています。
それゆえに、この宇宙にあるもの全てにおいても同じことが言えます。
この机は動いてないよ~って言っても、ミクロレベルでは素粒子はぐるぐると動き続けています。
マクロレベルでも、太陽の視点から見ると、
この机はものすごいスピードで、ぶんぶん回っています。
太陽は動いてないって?銀河の視点から見たら、太陽もぶんぶん回っています。
私の体の細胞も、私の考えも、ぶんぶん、ぐるぐる、、、変化し続けています。
そして、時間軸の中にあるものは全て、変化を遂げて、
最終的には、その名前で呼ばれることに相応しくない形へと変化します。
形を変えているだけで、新しい名前と形の登場とも言えますが、
死ぬ、という呼び方で認識されます。
ここにポジティヴ・シンキングもネガティブ・シンキングも要りません。
この世のあり方の現実として、死があり、それは、
人間でも、動物でも、植物でも、どんな生き物でも、忌み嫌うものです。
なぜかと言うと、そういう風に出来ているからです。
それがバガヴァーンの創造のあり方です。
それは尊敬と畏怖をもって受け入れられるべきことです。
誰だって死ぬのは嫌なのです。
しかし、生きている以上、死というイベントは避けられません。
身体の機能はストップしてしまいます。
時間軸のなかで生まれてきたものは必ず、時間に縛られています。
つまり、時間軸内で形を変え、時間軸の中で姿を消していくのです。
自分の目に入るもの、考えられるもの全てにおいて、
時間に縛られて消えていくことを認識する必要があります。
そうだとしたら、「不死」なんて、絶対無理ですね。
「アムリタ」が何であれ、それによって私から死を無くすなんて、
あり得ないことです。
しかし、ヴェーダは教えます。
「あなたは死(時間)から自由な存在である」と。
どういうことでしょうか?
私は生まれてからずっと、時間の中にあるものを対象化し続けています。
小さいときの自分の身体と心のあり方は、今ではもうほとんど原型を留めていません。
でも、自分の変わり続ける身体と心を、脳みそのどこかで静かに眺め続けている私がいます。
1枚の紙の上に描かれる絵は、2Dです。つまり縦軸と横軸の中の世界です。
それを鑑賞するには、もうひとつのディメンション、つまり奥行きという軸を足した、
3Dの視点から眺めなければなりません。
私達が眺めている世界は、3Dです。時間軸を足したら4Dですかね。
あの世も足したければ、もうひとつ足してもいいですよ。
ちなみにヴェーダでは世界は大きく分けて3つ、さらに分けたら14あります。
「じゃあ、私のいる世界は、5D?いや、10D?いやいや、19D??」
というのが凡人の考えです。
どういう点が凡人なのかと言うと、
同じディメンションという枠の中で数を増やしているだけ、という点です。
さらに、「そこに行って見たい!」と言い出すのは凡人の極みです。
どこに行こうが行くまいが、行き先の話をしているのではなく、
行っている自分の話をしているのです。
時間的にも空間的にも離れていない、
今、ここに存在している、自分の話をしてるのです。
ディメンションの数がいくつであれ、移り変わり行くそれらを対象化している、
変らない、意識的な存在である、いまここにいる自分は、
それらの対象物とは、まさに次元が違うのです。
対象化されているものは、時間枠の中にあるので、「ムリタ(मृतम् [mṛtam]」。
つまり死に行くもの。
それを対象化しているのは、時間枠の中にいない、
「今」という現実である私。
時間に制限されていない、死から自由な存在、それが私の本質なのです。
もし、私が時間軸の中に存在していない、不死の存在であるとしたら、
今、ここで既に、私は不死の存在であるべきです。
「今」の意味は、時間の中には無いのです。
「今」の意味は、いま、ここ、の意識的な存在、つまり自分なのです。
しかし私はそんなことも知らずに、死と老いを恐れて毎日生きています。
そうです、「知らずに」いることが、私を「死にゆく者」にしているのです。
では、私を死から、時間の制限から解放してくれるもの、
つまり、「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」=「それにより死が無くなるもの」とは、、、
「あなたは時間軸の中に存在していないのですよ。
意識的存在である、あなたが時間に存在を与えているのですよ」
と教えてくれる、ヴェーダの知識が「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」なのです。
それをきちんと理解出来たときにのみに言えることですが。
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58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])
質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?
>> 次回 60.グル(गुरुः [guruḥ])>>
(自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星
[amṛtam]
neuter - 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの
不老不死の秘薬?
古今東西の物語の中で「アムリタ」とは、
「不老不死の秘薬」という、この世のものではないような飲み物のことを指します。
王様や富豪が世界中の辺境な地に遣いをやったり、
時には自ら危険をおかしてまでも、この不老不死の秘薬を手に入れようとします。
どんなにお金や権力を持ってしても、やっぱり老いや死を恐れる、
か弱い生き物なのだな、人間と言うものは。と幼心に思ったものです。
しかし、不老不死の秘薬なんて、誰も見たことも無いものなのに、
そんなもの、どこから聞きつけてきたのか?と思っていましたが、
ヴェーダをはじめとする文献には「アムリタ」という表現がよく出てきます。
ヴェーダの教える「アムリタ」とは、一体何なのでしょうか。
アーユルヴェーダの神様、ヴィシュヌの姿のひとつ、 ダンヴァンタリーが手にしている壷の中身は? |
アムリタの語源
アムリタという言葉は、以下のように定義されています。
नास्ति मृतं मरणं यस्मात् तद् अमृतम् ।
「それ(アムリタ)によって、死(ムリタ、マラナ)がなくなるもの。
それが、アムリタ。」
それってやっぱり、不老不死の秘薬みたいですね。
この世にあるものは全て例外なく、時間の中で滅び行く運命にあるのに、
どうやって死がなくなるのでしょうか。
「ムリ(मृ [mṛ])」とはサンスクリット語で「死ぬ」という動詞の原型です。
この「ṛ」の巻き舌の音は、日本語に無い音なので、
「ムリ」とも「ムル」とも言えない音ですが、とりあえず「ムリ」とカタカナ表記しています。
この動詞の原型に、「~すること」という意味の「タ(त [ta])」という接尾語を付けると、
「ムリ(मृ [mṛ])死ぬ」+「タ(त [ta])~すること」
=「ムリタ(मृत [mṛta])死ぬこと、死」
になります。
否定の意味の「ア(अ [a])」と、「ムリタ(मृत [mṛta])死」をくっつけて、
「アムリタ(अमृत [amṛta])」となります。
文法の話: バフヴリーヒ・サマーサ
このタイプの複合語(サマーサ)は、「バフヴリーヒ」というタイプのサマーサで、
複合された言葉以外の意味を指す言葉です。
つまり、「それにより、死(ムリタ)が無くなる(ア)」という場合、
複合語は「ア+ムリタ」ですが、
その言葉の意味は、「それ」、つまり不老不死の薬などを指しているのです。
「その人の、心や考え(アートマー)は寛大(マハー)である」の場合、
複合語は「マハー+アートマー」で、
その言葉の意味は「その人」つまりガンジー師や、サドゥーを指します。
サンスクリット語は深い!
その中身は? |
死にたくない、幸せになりたい、と願うことは、尊敬されるべき願い
「アムリタ」を求めているのは、何も王様や富豪だけではありません。
全ての人が欲しいものの象徴として、「アムリタ」があります。
それは何故かと言うと、私たちは皆例外なく、死ぬのは嫌だからです。
死にたくないと思うことは、恥ずかしいことでも何でもありません。
それがバガヴァーンのアレンジメントなのです。
ヴェーダーンタを学んで理解しなかった自称グルが、
「生への執着を捨てろ」などと教えるのは、危険極まりないことです。
人間だけでなく、全ての生きているものが、
死ぬことを嫌がること、傷ついたり痛みを感じることを嫌がることは、
バガヴァーンの在り方であるゆえに、尊敬されるべきことです。
自ら命を絶とうとする人もいますが、その人も「これ以上の痛みを感じたくない」
という思いから行動しているのです。例外なく誰だって、幸せになりたいのです。
幸せになりたいと願うのは、生きるものとして当たり前のことであり、
それを追求する為に、人生の時間が与えられているのであり、
それもバガヴァーンの創造のあり方なので、
自分の願いも、他者の願いも、後ろめたさを感じることなく、
尊重されるべきことなのです。
コンパッション - 成長した人間の在り方
「死にたくない」というのは、全ての生き物に共通であることから、
ユニヴァーサルな価値感、つまり宇宙に普遍する共通の法則のあり方です。
私達生きるもの全ては、自分が「死にたくない」というのをよーく知っています。
自分自身のことですからね。
では、自分と同じように、他の生き物も「死にたくない」と思っている事を、
一番よーく知っているのは誰でしょう?
それは人間です。
このことをよーく知っているがゆえに、人間なのです。
「このこと」とは「共感、コンパッション、思いやり、良心」といった、
人間の、一番人間らしい感情のことです。
しかし、人間は、宗教の名の下に、「お国を守る」為に、
そして怒りや恐怖、不安から、
そして「地球上の動植物は全て、人間の消費の為にあるのだよ」といった
宗教的、あるいは経済至上的な価値感教育による洗脳、
そんな理由から、他の生き物を毎日殺しています。
自分が生きていく為に避けられなかった、最小限の殺生よりも、
はるかに多くの命を、上に挙げたような都合で殺生しているのです。
私利私欲の為に、大多数の人々に対して、
人間はもちろん動植物を殺すことを推奨することは、
その人々の人間性を否定していることに他なりません。
宗教、政治、経済などの大きな波に飲まれて、
大多数の人間達は、人間である証、「コンパッション」を放棄させられているのです。
神々が集まって、ミルキー・オーシャンを攪拌して、 アムリタを取り出そうとしている図 プラーナに出てくる有名なお話。 |
時間軸の中にあるのは全て、死に行く運命にある
生きているものが全て「死にたくない」「傷つきたくない」と願う一方で、
この世にあるものは全て、そして、ヴェーダによれば、あの世にあるもの全ても、
例外なく、いつか死ぬ運命にあります。
この宇宙自体、全体そのものが、
時間の範囲内で生まれ、時間の範囲内で一瞬も止まらずに変化し続けています。
それゆえに、この宇宙にあるもの全てにおいても同じことが言えます。
この机は動いてないよ~って言っても、ミクロレベルでは素粒子はぐるぐると動き続けています。
マクロレベルでも、太陽の視点から見ると、
この机はものすごいスピードで、ぶんぶん回っています。
太陽は動いてないって?銀河の視点から見たら、太陽もぶんぶん回っています。
私の体の細胞も、私の考えも、ぶんぶん、ぐるぐる、、、変化し続けています。
そして、時間軸の中にあるものは全て、変化を遂げて、
最終的には、その名前で呼ばれることに相応しくない形へと変化します。
形を変えているだけで、新しい名前と形の登場とも言えますが、
死ぬ、という呼び方で認識されます。
ここにポジティヴ・シンキングもネガティブ・シンキングも要りません。
この世のあり方の現実として、死があり、それは、
人間でも、動物でも、植物でも、どんな生き物でも、忌み嫌うものです。
なぜかと言うと、そういう風に出来ているからです。
それがバガヴァーンの創造のあり方です。
それは尊敬と畏怖をもって受け入れられるべきことです。
誰だって死ぬのは嫌なのです。
しかし、生きている以上、死というイベントは避けられません。
なぜなら、私達の体は時間軸の中に存在しているからです。
どんなに健康でラッキーでも、意外と短い時間内に、必ず、
身体の機能はストップしてしまいます。
時間軸のなかで生まれてきたものは必ず、時間に縛られています。
つまり、時間軸内で形を変え、時間軸の中で姿を消していくのです。
自分の目に入るもの、考えられるもの全てにおいて、
時間に縛られて消えていくことを認識する必要があります。
絞りたてのアムリタですよ~ と偽って、偽物のアムリタを分配しようとしている、 モーヒニーに化けているヴィシュヌ |
「不死」なんて絶対無理?
そうだとしたら、「不死」なんて、絶対無理ですね。
「アムリタ」が何であれ、それによって私から死を無くすなんて、
あり得ないことです。
時間はサンスクリット語で「カーラ(कालः [kālaḥ])」と言いますが、
時間という言葉そのものが、死を表しているのです。
ヴェーダーンタが教える、あなたの本質
しかし、ヴェーダは教えます。
「あなたは死(時間)から自由な存在である」と。
どういうことでしょうか?
私は生まれてからずっと、時間の中にあるものを対象化し続けています。
小さいときの自分の身体と心のあり方は、今ではもうほとんど原型を留めていません。
でも、自分の変わり続ける身体と心を、脳みそのどこかで静かに眺め続けている私がいます。
4D?5D?19D?
1枚の紙の上に描かれる絵は、2Dです。つまり縦軸と横軸の中の世界です。
それを鑑賞するには、もうひとつのディメンション、つまり奥行きという軸を足した、
3Dの視点から眺めなければなりません。
私達が眺めている世界は、3Dです。時間軸を足したら4Dですかね。
あの世も足したければ、もうひとつ足してもいいですよ。
ちなみにヴェーダでは世界は大きく分けて3つ、さらに分けたら14あります。
「じゃあ、私のいる世界は、5D?いや、10D?いやいや、19D??」
というのが凡人の考えです。
どういう点が凡人なのかと言うと、
同じディメンションという枠の中で数を増やしているだけ、という点です。
さらに、「そこに行って見たい!」と言い出すのは凡人の極みです。
どこに行こうが行くまいが、行き先の話をしているのではなく、
行っている自分の話をしているのです。
時間的にも空間的にも離れていない、
今、ここに存在している、自分の話をしてるのです。
変らない、意識的な存在である、いまここにいる自分は、
それらの対象物とは、まさに次元が違うのです。
対象化されているものは、時間枠の中にあるので、「ムリタ(मृतम् [mṛtam]」。
つまり死に行くもの。
それを対象化しているのは、時間枠の中にいない、
「今」という現実である私。
時間に制限されていない、死から自由な存在、それが私の本質なのです。
アンコール・ワットにも、同じモチーフの壮大な彫刻があります。 |
バンコクのスワルナ・ブーミ(サンスクリット語で「黄金の地」)国際空港にも、 アムリタのお話のディスプレイがあります。 |
アムリタの意味
もし、私が時間軸の中に存在していない、不死の存在であるとしたら、
今、ここで既に、私は不死の存在であるべきです。
「今」の意味は、時間の中には無いのです。
「今」の意味は、いま、ここ、の意識的な存在、つまり自分なのです。
しかし私はそんなことも知らずに、死と老いを恐れて毎日生きています。
そうです、「知らずに」いることが、私を「死にゆく者」にしているのです。
では、私を死から、時間の制限から解放してくれるもの、
つまり、「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」=「それにより死が無くなるもの」とは、、、
「あなたは時間軸の中に存在していないのですよ。
意識的存在である、あなたが時間に存在を与えているのですよ」
と教えてくれる、ヴェーダの知識が「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」なのです。
それをきちんと理解出来たときにのみに言えることですが。
<< 目次へ戻る <<
58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])
質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?
(自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星