हरिः
[hariḥ]
バガヴァーン、イーシュワラなどと並んで、
この宇宙の全体を指す名前のひとつです。
ハリというと、普通はヴィシュヌのことを指します。
こられ全ての名前は、ひとつのブランマンを指しているのです。
「フル(हृ [hṛ] )」という、カタカナではなんとも表現しにくいですが、
「取り去る、持って行ってしまう」という意味の動詞の原型から派生した言葉です。
そこに、「~する者」という、行動の主体を表す接尾語の「イ(इ [i]」 が来て、
हृ [hṛ] + इ [i]
接尾語がくると、動詞の原型の [ṛ] の音が [ar] に変化して、
= हर् [har] + इ [i]
になります。それらをくっつけると、
हरि [hari] ハリ
という名詞の原型になりましたね!
名詞の原型は、हरिः, हरी, हरयः ... といった具合に変化します。
日本語で言う、ハリが、ハリに、ハリと、、、といった感じです。
日本語では名詞の形は変わらず、「ガヲノニトハモヘ」 という助詞が付きますが、
サンスクリット語では名詞の形も変わってしまうわけです。
そういう面では、日本語は世界の言語の中で一番シンプルだと思います。
でも、日本語は理論的なディスカッション向きの言語ではありませんね。
हृ [hṛ](取り去る) + इ [i](者)
= 取り去る者
が「ハリ」さんですが、何を取り去るのでしょうか?
伝統では、
ハラティ(取り去る者)、パーパーニ(苦しみを)、イティ(というのが)、ハリヒ(「ハリ」です。)
हरति पापानि इति हरिः ।
と教えられています。
苦しみ(パーパ)を取り去る者がハリなのです。
一度聞いたら忘れられない言葉の響きですね。
ハリが取り去ってくれるパーパとは何なのでしょうか。
簡単に言うと、自分の思うように行かない状況を作る、自分自身の行為の結果です。
つまり、宇宙のあり方に調和しない行動を選択したとき、
例えば他の生き物を苦しめたり、嫌な思いをさせたりするような行動をしたときに発生する
マイナスポイントみたいなものです。
相対的な意味では、パーパとは「ラーガ・ドヴェーシャ」と呼ばれる、
正しい判断を狂わせるパワーのある、執着や嫌悪です。
ダルマの一線を越してしまう理由にはならない、
つまり害の無い、単なる好き嫌いは問題ありません。
しかし、人を傷つけてまでも、嫌な思いをさせてまでも、
これが無いと我慢できない!もしくは、これがあるから我慢できない!
というのがパーパです。
具体的には、苦手な人とか、嫌いな物とか、辛い状況とかです。
そいうものが私達の人生を惨めにしているのです。
そんなパーパを取りさらってくれるのが、我らがバガヴァーン、ハリです。
でも、どうやって?
ハリはヴィシュヌ、つまりバガヴァーンです。
バガヴァーンということは、この宇宙の法則の全てです。
法則の塊なので、そこに自分の行為を投入すると、それなりの結果が返ってきます。
バガヴァーンに「私のパーパを取り去ってください!」と祈ると、
祈りという行為をした訳なので、何らかの結果が出ます。
その結果のことを、サンスクリット語では「プンニャ(पुण्यम् (puṇyam)」 、
英語では「グレース(grace)」と言います。
その結果が、自分の望む方向へ流れを変えることを願って祈るのです。
また、その結果は、今まで自分を苦しめて来た人や物に対して、
「ま、いいんじゃない?別にそんなのどうってことないよ」
と言える様になる大きさを自分に与えてくれるかもしれません。
祈るということ自体、この世の全ては自分独りで回っているわけではない、
だれが回しているのかというと、究極的にはバガヴァーンである、と認めているわけなので、
そういう大きなヴィジョンを持っている人にとって、パーパの影響は少なくなるのです。
時間と共に生まれ、時間と共に変化し、0.1秒後なり、10年後なり、
いずれ無くなるものです。そこに絶対的な存在はありません。
そんな相対的なものに、絶対的価値を見出しているのが、
無知の表れなのです。
無知を取り除いてくれるのは、 もちろん知識だけですが、
知識を得るのにも、多大なプンニャ(グレース)が必要です。
最低限、正しい先生に出会い、その先生の言っていることが
100%理解出来ないといけないのですから。
それの邪魔をするパーパも取り除き、
最終的には、自分にはパーパなど無かった!と気付かせてくれるのも、
バガヴァーン・ハリのお仕事なのです。
カリ・サンターラ・ウパニシャッド(कलिसन्तारोपनिषद्)
の中にある、一度聞いたら忘れられないマントラです。
ハレー ラーマ ハレー ラーマ
ラーマ ラーマ ハレー ハレー
ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ
クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー
हरे राम हरे राम राम राम हरे हरे ।
hare rāma hare rāma rāma rāma hare hare |
हरे कृष्ण हरे कृष्ण कृष्ण कृष्ण हरे हरे ॥
hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare ||
ちなみに、イスコン(ハレークリシュナ)の人達は、
先にクリシュナのラインを唱えます。クリシュナが一番ですから!
って、ウパニシャッドのマントラ変えちゃってもいいの?
でも、ずっと繰り返して唱えるわけだから、2回目以降はどちらが先か、
もう分からなくなるから、いいか。
しかしこのマントラ、文法的にいうと、文章になっていません。
動詞が無く、呼びかけだけで構成されているからです。
マントラの中にある言葉は、16語。
種類で言えば3語のみ。1.ハレー、2.ラーマ、3.クリシュナ
3語とも、「サンボーダナ」と呼ばれる、お~い!って呼びかる時の形です。
マントラの全てが呼びかけなのです。
お~い!ハリ!(हे हरे!)
お~い!ラーマ!(हे राम!)
お~い!クリシュナ!(हे कृष्ण!)
と呼びかけているだけなので、動詞が無く、
文法的には文章として成り立ちません。
ウパニシャッドの言葉なのに、文章として成り立たないなんて?
しかも、神様の名前を呼びかけの形で連呼しているだけで、
それって神様に失礼では?
誰の名前でも、呼んでおいて、その後何も言わないって失礼ですよね?
インドの鉄道駅には、チャイ・ワーラーや、コーピー・ワーラ達が
絶え間なく往来しています。
チャイ・ワーラーとは、チャイ(インドの甘いミルクティー)を売る人、
コーヒー・ワーラーは、そう、コーヒーを売る人です。
彼らはポットと紙コップ(ちょっと前までは赤土で出来た使い捨てカップ)を
持ち歩きながら、「チャイ・ワ~ラ~」「コーヒー・ワ~ラ~」と自分で言いながら
プラットフォームを歩いています。
チャイが欲しい人は、「チャイ・ワーラー!」 と叫べばよいだけです。
呼びかけに気付いたチャイ・ワーラーは、別に「チャイ下さい」とわざわざ言われなくても、
無言で勝手にチャイをカップに注ぎ、それを客に渡して去って行きます。
誰かの名前を呼ぶときには、相手に何を期待しているかによって、
それに応じた名前で呼ぶのです。
「先生!」 と呼ぶ時は、何かを教えて欲しい時、
「社長!」と呼ぶ時は、何かをおごって欲しい時、
「チャイ・ワーラー!」と呼ぶときは、チャイが欲しい時で、
「コーヒー・ワーラー!」と呼ぶときは、コーヒーが欲しい時です。
呼んだ後に、チャイが欲しいの、とかコーヒー出来る?とか聞かなくてもいいのです。
じゃや、バガヴァーンのことを、
「お~い!ハリ!(へー!ハレー!)」と呼ぶ時は?
そう、ハラティ パーパーニ。パーパを取り払う者。
苦しみを原因ごとどっかに持って行って欲しい時です。
どうやって持って行くの?とかどれくらい?とか、いちいち気にしなくても、
相手はバガヴァーンなのです。
何がどうなのか、一番よく知っているからバガヴァーンなのです。
「へー!ハレー!」と祈ったら、あとは委ねればよいのです。
ハリはヴィシュヌの別名であり、ラーマもクリシュナもヴィシュヌのアヴァターラなので、
2人ともハリ、苦しみを取り去る者です。
ちなみに、このマハー・マントラ、インドでは
アカンダ(途切れなく)・サンキールタナ(栄光を唱えること)として、
24時間年中無休で、ハレー ラーマ ハレー ラーマ、、、と
唱え続ける場所を設けているアシュラムが幾つかあります。
私のふるさと、リシケシのスワミ・ダヤーナンダ・アシュラムでも、
毎日朝6時から夕方の6時まで、このマハー・マントラのアカンダがされています。
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ブランマ・ヴィディヤーを教えてくれる先生、という意味の
サンスクリット語の単語です。
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知力、知性、知力の女神、メーダーについて
[hariḥ]
masculine - 苦しみを取り去る者
ハリの別名を持つ、ヴィシュヌ神 |
バガヴァーン、イーシュワラなどと並んで、
この宇宙の全体を指す名前のひとつです。
ハリというと、普通はヴィシュヌのことを指します。
こられ全ての名前は、ひとつのブランマンを指しているのです。
ハリの語源
「フル(हृ [hṛ] )」という、カタカナではなんとも表現しにくいですが、
「取り去る、持って行ってしまう」という意味の動詞の原型から派生した言葉です。
そこに、「~する者」という、行動の主体を表す接尾語の「イ(इ [i]」 が来て、
हृ [hṛ] + इ [i]
接尾語がくると、動詞の原型の [ṛ] の音が [ar] に変化して、
= हर् [har] + इ [i]
になります。それらをくっつけると、
हरि [hari] ハリ
という名詞の原型になりましたね!
名詞の原型は、हरिः, हरी, हरयः ... といった具合に変化します。
日本語で言う、ハリが、ハリに、ハリと、、、といった感じです。
日本語では名詞の形は変わらず、「ガヲノニトハモヘ」 という助詞が付きますが、
サンスクリット語では名詞の形も変わってしまうわけです。
そういう面では、日本語は世界の言語の中で一番シンプルだと思います。
でも、日本語は理論的なディスカッション向きの言語ではありませんね。
何を取り去るのか?
हृ [hṛ](取り去る) + इ [i](者)
= 取り去る者
が「ハリ」さんですが、何を取り去るのでしょうか?
伝統では、
ハラティ(取り去る者)、パーパーニ(苦しみを)、イティ(というのが)、ハリヒ(「ハリ」です。)
हरति पापानि इति हरिः ।
と教えられています。
苦しみ(パーパ)を取り去る者がハリなのです。
パーパって何?
一度聞いたら忘れられない言葉の響きですね。
ハリが取り去ってくれるパーパとは何なのでしょうか。
簡単に言うと、自分の思うように行かない状況を作る、自分自身の行為の結果です。
つまり、宇宙のあり方に調和しない行動を選択したとき、
例えば他の生き物を苦しめたり、嫌な思いをさせたりするような行動をしたときに発生する
マイナスポイントみたいなものです。
相対的な意味のパーパ
相対的な意味では、パーパとは「ラーガ・ドヴェーシャ」と呼ばれる、
正しい判断を狂わせるパワーのある、執着や嫌悪です。
ダルマの一線を越してしまう理由にはならない、
つまり害の無い、単なる好き嫌いは問題ありません。
しかし、人を傷つけてまでも、嫌な思いをさせてまでも、
これが無いと我慢できない!もしくは、これがあるから我慢できない!
というのがパーパです。
具体的には、苦手な人とか、嫌いな物とか、辛い状況とかです。
そいうものが私達の人生を惨めにしているのです。
そんなパーパを取りさらってくれるのが、我らがバガヴァーン、ハリです。
でも、どうやって?
ハリはヴィシュヌ、つまりバガヴァーンです。
バガヴァーンということは、この宇宙の法則の全てです。
法則の塊なので、そこに自分の行為を投入すると、それなりの結果が返ってきます。
バガヴァーンに「私のパーパを取り去ってください!」と祈ると、
祈りという行為をした訳なので、何らかの結果が出ます。
その結果のことを、サンスクリット語では「プンニャ(पुण्यम् (puṇyam)」 、
英語では「グレース(grace)」と言います。
その結果が、自分の望む方向へ流れを変えることを願って祈るのです。
また、その結果は、今まで自分を苦しめて来た人や物に対して、
「ま、いいんじゃない?別にそんなのどうってことないよ」
と言える様になる大きさを自分に与えてくれるかもしれません。
祈るということ自体、この世の全ては自分独りで回っているわけではない、
だれが回しているのかというと、究極的にはバガヴァーンである、と認めているわけなので、
そういう大きなヴィジョンを持っている人にとって、パーパの影響は少なくなるのです。
ヴィシュヌの手は4本。 チャックラ(時間という必殺の武器)、蓮の花、 ガダ(これも武器)、そしてほら貝を持っています。 後ろは無限大のパワー(シャクティ)を示す、シェーシャ(蛇)。 |
絶対的な意味で
パーパとか、 苦しみとか、そういったことは相対的なものです。
時間と共に生まれ、時間と共に変化し、0.1秒後なり、10年後なり、
いずれ無くなるものです。そこに絶対的な存在はありません。
そんな相対的なものに、絶対的価値を見出しているのが、
無知の表れなのです。
無知を取り除いてくれるのは、 もちろん知識だけですが、
知識を得るのにも、多大なプンニャ(グレース)が必要です。
最低限、正しい先生に出会い、その先生の言っていることが
100%理解出来ないといけないのですから。
それの邪魔をするパーパも取り除き、
最終的には、自分にはパーパなど無かった!と気付かせてくれるのも、
バガヴァーン・ハリのお仕事なのです。
左がラーマ、右がクリシュナ。 どちらも「ハリ」の名前で知られるヴィシュのアヴァターラです。 |
マハー・マントラの謎
世界中で最も有名なマントラと言っても良い、
カリ・サンターラ・ウパニシャッド(कलिसन्तारोपनिषद्)
の中にある、一度聞いたら忘れられないマントラです。
ハレー ラーマ ハレー ラーマ
ラーマ ラーマ ハレー ハレー
ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ
クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー
हरे राम हरे राम राम राम हरे हरे ।
hare rāma hare rāma rāma rāma hare hare |
हरे कृष्ण हरे कृष्ण कृष्ण कृष्ण हरे हरे ॥
hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare ||
ちなみに、イスコン(ハレークリシュナ)の人達は、
先にクリシュナのラインを唱えます。クリシュナが一番ですから!
って、ウパニシャッドのマントラ変えちゃってもいいの?
でも、ずっと繰り返して唱えるわけだから、2回目以降はどちらが先か、
もう分からなくなるから、いいか。
しかしこのマントラ、文法的にいうと、文章になっていません。
動詞が無く、呼びかけだけで構成されているからです。
マントラの中にある言葉は、16語。
種類で言えば3語のみ。1.ハレー、2.ラーマ、3.クリシュナ
3語とも、「サンボーダナ」と呼ばれる、お~い!って呼びかる時の形です。
マントラの全てが呼びかけなのです。
お~い!ハリ!(हे हरे!)
お~い!ラーマ!(हे राम!)
お~い!クリシュナ!(हे कृष्ण!)
と呼びかけているだけなので、動詞が無く、
文法的には文章として成り立ちません。
ウパニシャッドの言葉なのに、文章として成り立たないなんて?
しかも、神様の名前を呼びかけの形で連呼しているだけで、
それって神様に失礼では?
誰の名前でも、呼んでおいて、その後何も言わないって失礼ですよね?
左側がクリシュナとラーダー、右側が弟ラクシュマナ、ラーマ、そして妻シーターです。 ラーマの前で膝まづいているのがハヌマーン。 |
マハー・マントラの意味
インドの鉄道駅には、チャイ・ワーラーや、コーピー・ワーラ達が
絶え間なく往来しています。
チャイ・ワーラーとは、チャイ(インドの甘いミルクティー)を売る人、
コーヒー・ワーラーは、そう、コーヒーを売る人です。
彼らはポットと紙コップ(ちょっと前までは赤土で出来た使い捨てカップ)を
持ち歩きながら、「チャイ・ワ~ラ~」「コーヒー・ワ~ラ~」と自分で言いながら
プラットフォームを歩いています。
チャイが欲しい人は、「チャイ・ワーラー!」 と叫べばよいだけです。
呼びかけに気付いたチャイ・ワーラーは、別に「チャイ下さい」とわざわざ言われなくても、
無言で勝手にチャイをカップに注ぎ、それを客に渡して去って行きます。
誰かの名前を呼ぶときには、相手に何を期待しているかによって、
それに応じた名前で呼ぶのです。
「先生!」 と呼ぶ時は、何かを教えて欲しい時、
「社長!」と呼ぶ時は、何かをおごって欲しい時、
「チャイ・ワーラー!」と呼ぶときは、チャイが欲しい時で、
「コーヒー・ワーラー!」と呼ぶときは、コーヒーが欲しい時です。
呼んだ後に、チャイが欲しいの、とかコーヒー出来る?とか聞かなくてもいいのです。
じゃや、バガヴァーンのことを、
「お~い!ハリ!(へー!ハレー!)」と呼ぶ時は?
そう、ハラティ パーパーニ。パーパを取り払う者。
苦しみを原因ごとどっかに持って行って欲しい時です。
どうやって持って行くの?とかどれくらい?とか、いちいち気にしなくても、
相手はバガヴァーンなのです。
何がどうなのか、一番よく知っているからバガヴァーンなのです。
「へー!ハレー!」と祈ったら、あとは委ねればよいのです。
ハリはヴィシュヌの別名であり、ラーマもクリシュナもヴィシュヌのアヴァターラなので、
2人ともハリ、苦しみを取り去る者です。
アカンダ・サンキールタナ
ちなみに、このマハー・マントラ、インドでは
アカンダ(途切れなく)・サンキールタナ(栄光を唱えること)として、
24時間年中無休で、ハレー ラーマ ハレー ラーマ、、、と
唱え続ける場所を設けているアシュラムが幾つかあります。
私のふるさと、リシケシのスワミ・ダヤーナンダ・アシュラムでも、
毎日朝6時から夕方の6時まで、このマハー・マントラのアカンダがされています。
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ブランマ・ヴィディヤーを教えてくれる先生、という意味の
サンスクリット語の単語です。
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