कैवल्यम्
[kaivalyam]
前回の「ケーヴァラ(केवल [kevala] - )」で見た、「唯一の、ただそれだけ」という意味に、
「~であること」「~というステータス」という言葉を作るための接尾語「ष्यञ्」をつけて、
となりまして、「カイヴァッリャ(कैवल्यम् [kaivalyam] )」が出来上がりです。
केवल + ष्यञ् 5.1.123
कैवल + य 7.2.117
कैवल् य 6.4.148
途中の番号が気になる方は、パーニニ文法を勉強してみましょう!
ऐश्वर्यम् [aiśvaryam] - アイシュワリヤ でも同じステップです。
なぜ、唯一であることが、モークシャと呼ばれる、人生のゴールなのでしょうか?
モークシャ(मोक्षः [mokṣaḥ] )とはちなみに、「自由になる」という意味です。
何から「自由になる」のでしょうか?
悲しい自分、苦しい自分、辛い自分、小さい自分、不健康な自分、
楽しくない自分、つまらない自分、こんな自分、あんな自分、、、
そんな自分から解放されたいが為に、物乞いから億万長者まで奔走を続けています。
かといって、「自分」からの自由、というわけではありません。
「自分」の前についている、あれやこれやの「形容詞」からの自由です。
形容するということは、区切りをつけている、つまり限界をつけているということです。
結局のところ、人間誰しも、自分の持っている限界が気に食わない訳です。
じゃあ、それから自由になるには?
ヴェーダは教えます。「あなたは、もともと限界から自由です。」
区切るものが無いから、だからたったひとつ、唯一の存在なのです。
へぇー、それは知らなんだ。そう、自分に対しての無知が原因なのです。
無知を取り除くには?知るしかない。
しかし、なぜヴェーダに教えてもらわないといけないのか?
私達に与えられている情報収集機能は、目鼻口などの五感と、
五感から得られたデータをベースにした推論だけです。
それらは全て、自分以外のことを知るためにあります。
色や形や言葉の意味も、全ては区切りであり限界です。
だから、自分自身の本質は、自分ではどうしても知ることの出来ないように出来ているのです。
とてもシンプルなことですが。
では、ヴェーダの言うことが正しいとして、理解出来れば、
「私はただ唯一の存在です。だから全ての限界から自由です。
だから、”~な自分”から逃げるための奔走から自由です。
つまり、人生のゴールは私であり、それは私であるがゆえに、もう達成されているのです」
と言い切れるのです。
ヴェーダを分かったつもりで、でも理解出来てない人達が、
「分かったから、じゃあ、瞑想に入って、その無限とやらを体験しよう」と言い出すのです。
瞑想して、サマーディや涅槃の境地に入っても、
「境地に入る」こと自体、限界を表しています。
入るということは、以前はそれに入っていなかった、
そしてまたいつかは出る、ということです。
全ての時間と場所に存在を与えているのが無限の存在なのです。
それがあなたなのです。
全く同じ理屈で、天国や地獄も、出たり入ったりの境地に過ぎません。
ハワイも罰ゲームも同じです。
人生を正しく生きれば、心が成長し、考えを歪ませる感情から自由になり、
物事を客観的に観察出来るようになります。
この世やあの世の全ての限界の見極めがついた時、
ヴェーダの言葉「あなたは無限の唯一の存在だ。」を理解するのはたやすい事なのです。
その時、目に見える無数の限界の全てはどうなるのでしょうか。
これをちゃんと教えないのが、中途半端なヴェーダーンタであり、
一般的に現代のヨガ界・スピリチュアル界で氾濫している考え方です。
自分の中にも外にもある限界、全ての現象とその因果関係を、
物理の法則や生物学の法則、心理学の法則など、
寸分の狂いも無い全ての法則の中にあるという理解が先に必要です。
これが、ヴェーダで教えられている、イーシュワラの理解であり、
それは客観的で成長した心の持ち主の世界観なのです。
>> 次の言葉 41.कौमुदी [kaumudī] - カウムディー >>
優しい月明かりという意味のサンスクリット語の単語です。
[kaivalyam]
neuter - 唯一であること、モークシャ、人生のゴール
前回の「ケーヴァラ(केवल [kevala] - )」で見た、「唯一の、ただそれだけ」という意味に、
「~であること」「~というステータス」という言葉を作るための接尾語「ष्यञ्」をつけて、
となりまして、「カイヴァッリャ(कैवल्यम् [kaivalyam] )」が出来上がりです。
कैवल + य 7.2.117
कैवल् य 6.4.148
途中の番号が気になる方は、パーニニ文法を勉強してみましょう!
ऐश्वर्यम् [aiśvaryam] - アイシュワリヤ でも同じステップです。
なぜ、唯一であることが、モークシャと呼ばれる、人生のゴールなのでしょうか?
モークシャ(मोक्षः [mokṣaḥ] )とはちなみに、「自由になる」という意味です。
何から「自由になる」のでしょうか?
悲しい自分、苦しい自分、辛い自分、小さい自分、不健康な自分、
楽しくない自分、つまらない自分、こんな自分、あんな自分、、、
そんな自分から解放されたいが為に、物乞いから億万長者まで奔走を続けています。
かといって、「自分」からの自由、というわけではありません。
「自分」の前についている、あれやこれやの「形容詞」からの自由です。
形容するということは、区切りをつけている、つまり限界をつけているということです。
結局のところ、人間誰しも、自分の持っている限界が気に食わない訳です。
じゃあ、それから自由になるには?
ヴェーダは教えます。「あなたは、もともと限界から自由です。」
区切るものが無いから、だからたったひとつ、唯一の存在なのです。
へぇー、それは知らなんだ。そう、自分に対しての無知が原因なのです。
無知を取り除くには?知るしかない。
なぜモークシャにヴェーダーンタが必要なのか?
しかし、なぜヴェーダに教えてもらわないといけないのか?
私達に与えられている情報収集機能は、目鼻口などの五感と、
五感から得られたデータをベースにした推論だけです。
それらは全て、自分以外のことを知るためにあります。
色や形や言葉の意味も、全ては区切りであり限界です。
だから、自分自身の本質は、自分ではどうしても知ることの出来ないように出来ているのです。
とてもシンプルなことですが。
では、ヴェーダの言うことが正しいとして、理解出来れば、
「私はただ唯一の存在です。だから全ての限界から自由です。
だから、”~な自分”から逃げるための奔走から自由です。
今ここにいる自分でない自分になろうとして 行動しを繰り返し、生まれ変わりを続けること、 それが、サムサーラ(輪廻) |
つまり、人生のゴールは私であり、それは私であるがゆえに、もう達成されているのです」
と言い切れるのです。
ヴェーダを分かったつもりで、でも理解出来てない人達が、
「分かったから、じゃあ、瞑想に入って、その無限とやらを体験しよう」と言い出すのです。
リミットレスは体験出来ない。理解するしかない。
瞑想して、サマーディや涅槃の境地に入っても、
「境地に入る」こと自体、限界を表しています。
入るということは、以前はそれに入っていなかった、
そしてまたいつかは出る、ということです。
全ての時間と場所に存在を与えているのが無限の存在なのです。
それがあなたなのです。
全く同じ理屈で、天国や地獄も、出たり入ったりの境地に過ぎません。
ハワイも罰ゲームも同じです。
人生を正しく生きれば、心が成長し、考えを歪ませる感情から自由になり、
物事を客観的に観察出来るようになります。
この世やあの世の全ての限界の見極めがついた時、
ヴェーダの言葉「あなたは無限の唯一の存在だ。」を理解するのはたやすい事なのです。
その時、目に見える無数の限界の全てはどうなるのでしょうか。
これをちゃんと教えないのが、中途半端なヴェーダーンタであり、
一般的に現代のヨガ界・スピリチュアル界で氾濫している考え方です。
自分の中にも外にもある限界、全ての現象とその因果関係を、
物理の法則や生物学の法則、心理学の法則など、
寸分の狂いも無い全ての法則の中にあるという理解が先に必要です。
これが、ヴェーダで教えられている、イーシュワラの理解であり、
それは客観的で成長した心の持ち主の世界観なのです。
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優しい月明かりという意味のサンスクリット語の単語です。