सत्सङ्गः
[satsaṅgaḥ]
「サット(सत् [sat])」と「サンガ(सङ्ग [saṅga])」という、
2つの言葉が複合語になって、「サットサンガ」になります。
ゆえに、まず「サット」と「サンガ」のそれぞれの意味を見て、
この2つの言葉がどのような関係を持って複合語になっているのかを理解しましょう。
「アス(अस् [as])= 存在する」という意味の動詞の原型から派生した「サット」には、
「存在する、真実の、高貴な、正しい、善い」といった幾つかの意味があります。
(詳しい文法的派生の解説は下を参照してください。)
それらの意味から、「善い人、ダルマに沿った正しい道を行く人、
つまり、ダルマを最優先にして生きている人、ダルマに生きた結果としておのずと、
人生の本当の意味を知る為に生きている人、次世代のお手本になる人」
といった人々を指すために「サット」という言葉が使われることもよくあります。
「サット」と呼ばれる人間の定義を見て、
「自分はそんな人間とは程遠い、そんな風には一生なれないよ~」と
思う人もいるかもしれません。しかし、誰にだって人を思いやる善い心はあります。
ダルマの根底にあるのは「アヒムサー(非暴力)」という価値感です。
アヒムサーという知識は、人種や性別、宗教や生まれ育ちに関係なく、
人間なら共通に誰でも持っているものです。
正しく教えられたヴェーダの知識は、そんな素晴らしい自分の一面に気付かせてくれます。
そして、自分の善い面を善いものだと知り、誇らしく思い、
それを培って大きく育てて行く方法を沢山教えてくれます。
その生き方を、ダルマの生き方と呼ぶのです。
人間というものは、
「執着(ラーガ)=これが無いと私は幸せにはなれない!」と、
「嫌悪(ドヴェーシャ)=これさえ無くなれば私は幸せになれるのに!」の
2つに支配されています。
ある人や物、状況に対して精神的に依存し、その為ならダルマの一線を越しても構わない、
と思えてしまう心理・現実の理解が、ここで言う「執着と嫌悪」の定義です。
家族、恋人、人間関係、仕事、趣味、お金、権力、ファッション、健康、気分、etc.
に対する「執着と嫌悪」によって行動が決定されて、
忙しく西へ東へと走り回って、一生分の時間が過ぎます。
「本当にこれが無いと駄目?」「幸せって何?状況のこと?私のこと?」
などと客観的に問い直している時間も無いほどに、
無心に忙しく駆け回っています。一生は短いですから!
”自分の幸せを達成する為なら、少々ダルマに目をつぶっても、、、
周りのみんなだって普通に殺生しながら生きてるし!
私は幸せになりたいだけなの!幸せになる手段とは、
「執着と嫌悪」による行動をどんどん進めて、達成する事に決まってる!”
全人類がこのような世界観で行動し、全てのマーケットはそれが正しいことだと後押しします。
全ての根源は、「今の自分は駄目だ」という結論です。
「小さい自分 VS 巨大な世界」という認識から生まれる不安に押されて、
「執着と嫌悪」の追究が自分を幸せにする解決策だと信じて、行動を続けるのです。
これが古今東西の全世界の全人類の行動です。
一握りの運の良い人は、そんな渦中から一歩下がって、
自分の心の声を聞くことが出来て、
全世界の風潮から逆らってでも、ダルマの行動を始めます。
自分の都合の良さよりも、他の生き物の痛みに敏感になって行動を決めます。
自分の小ささから行動するのではなく、自分の大きさから行動をするのです。
ヴェーダの智慧は、自分がどれだけ大きな人間なのかを教えてくれます。
ダルマの生き方を実践すればするほど、自分がより寛大に成長します。
ダルマに生きるとは、「執着と嫌悪」から自分の行動を解放することです。
宇宙の法則の在り方(ダルマ)と調和した選択をしている人の心には、平和があります。
不安や恐怖、怒りさえも、宇宙の法則の中にあるのです。
心が惹かれたり離れたりすることも、宇宙の法則と調和しています。
だから、宇宙の在り方に安心して信頼していられるのです。
その人の心にはいつも平穏があり、常に客観性と思いやりに満ちた選択が出来るのです。
「執着と嫌悪」から解放された人の心には自然と、
「人生の本当の意味」について考えられる客観性と余裕が出てきます。
ここで「サットサンガ」が必要になります。
サンガとは、「サンジ(सञ्ज् [sañj])= くっつく」という動詞の原型から派生しています。
そこから、「サンガ」は場合によっては「執着」のように使われる場合もありますが、
「関係を持つ、集まり、仲間」という意味にもなります。
「サット」と呼ばれる人達との繋がりを「サットサンガ」と言います。
自分と繋がっている「サット」な人々のことを「サットサンガ」と呼ぶことも出来ます。
そんな人々と集まり、一緒に話を聞いたり、勉強したり、歌を歌ったりして、
同じ時間を過ごすことも「サットサンガ」と呼びます。
人生の本当の意味を教えてくれる勉強を共にする仲間を「サットサンガ」と呼ぶこともあれば、
その意味を教えてくれる先生のことを「サットサンガ」と呼ぶときもあります。
ダルマの価値を良く知る為の教えに耳を傾ける、
ダルマを優先して生きる方法を学び、その生き方を生きる、
ヴェーダーンタやサンスクリットの勉強をする、
全ては独りで思いついて、独りで出来ることではありません。
最低、それについて教えてくれる先生が必要ですし、
見習える人や、サポートしてくれる人や体制が必要です。
プージャスワミジはいつも、このモークシャの為の生き方と勉強には、
「サットサンガが必要」と言っておられます。
人間の自然な傾向から逆らった追究であるがゆえだからでしょう。
私自身、始まりが無く繰り返されてきた前世の中で貯めたプンニャを全て使った、
といえるぐらい、今回の人生で、先生を始め、素晴らしい「サットサンガ」と呼べる人々に恵まれました。
本当に「サットサンガがあってこそ」と感謝があるのみです。。。
シャンカラーチャーリアが残した多くの詩歌の中で、特に有名なのが、
「バジャ・ゴーヴィンダム」です。
通説では全ての節がシャンカラーチャーリアによって作詞されたのではなく、
様々なアーチャーリャ(先生)たちの作品の寄せ集めだと言われています。
よく引用される節に「サットサンガ」という言葉が出てきます。
リズムがとても良く、発音も難しくないので、声に出して読んで貰いたく、
カタカナに訳してみました。
サットサンガットヴェー ニッサンガットヴァム
सत्सङ्गत्वे निस्सङ्गत्वं [satsaṅgatve nissaṅgatvaṃ]
サットサンガがあれば、限りのあるものに執着することが減り、
ニッサンガットヴェー ニルモーハットヴァム
निस्सङ्गत्वे निर्मोहत्वम् । [nissaṅgatve nirmohatvam |]
執着が無くなれば、現実に関する混乱が減り、
ニルモーハットヴェー ニスチャリタットヴァム
ニスチャリタットヴェー ジーヴァンムクティヒ
निश्चलतत्त्वे जीवन्मुक्तिः ॥ [niścalatattve jīvanmuktiḥ ||]
理解がぶれない時、その人は生きながらにして全ての制限から自由である。
「~トヴェー」~がある時(第7格)、「~トヴァム」~がある(第1格)
という簡単な構成が4つ並んでいます。
ちなみに「トヴァ」とは、「~の状態」という意味です。
下線を引いた「ニッ」や「ニル」、「ニス」は全て語源は同じで、
3つとも全て、「~の無い」という意味です。
ゆえに、
サット(善い人との)サンガ(繋がり)がある時、サンガ(執着)が無い(ニッ)状態(トヴァ)がある。
ニッサンガットヴァがある時、モーハ(混乱)が無い(ニル)状態(トヴァ)がある。
ニルモーハットヴァがある時、チャリタ(ブレること)が無い(ニス)状態(トヴァ)がある。
ニスチャリタットヴァがある時、ジーヴァン(生きながら)ムクティ(自由)がある。
動詞の原型から全部知りたい人は、ご連絡下さい。
「バジャ・ゴーヴィンダム」の中で、私が好きなのは、
アーナンダギリというアーチャーリャが書いたとされる、この詩です。
ヨーガラトー ヴァー ボーガラトー ヴァー
योगरतो वा भोगरतो वा [yogarato vā bhogarato vā ]
ヨーガ(規律のある生活)に愉しんでいようが、ボーガ(快楽)に愉しんでいようが、
サンガラトー ヴァー サンガヴィヒーナハ
सङ्गरतो वा सङ्गविहीनः । [saṅgarato vā saṅgavihīnaḥ |]
サンガ(人々の中)で愉しんでいようが、人から離れていようが、
ヤッシャ ブランマニ ラマテー チッタム
यस्य ब्रह्मणि रमते चित्तं [yasya brahmaṇi ramate cittaṃ]
その人の心が、ブランマンにおいて愉しんでいるなら、
ナンダティ ナンダティ ナンダッティエーヴァ
नन्दति नन्दति नन्दत्येव ॥ [nandati nandati nandatyeva ||]
その人は愉しみ、愉しみ、ただ愉しんでいるだけ。
ブランマン(この宇宙の本質、無限の存在)が自分だと知っている人は、
他人から見てどうだとはジャッジ出来ないということです。
その人が何をしていようが、自分の本質を「知っている」ということ、
それのみが、その人を自由(限りが無い存在)にしているのだ。ということです。
文中に繰り返される「ram(愉しむ)」と共に、
最後の「ナンダティ」も「愉しむ」と訳しましたが、
「幸せ=個人という限界から苛まされていないこと」という意味で「愉しみ」としました。
これぞ私の愉しみとして訳しているだけなので、インスピレーションとして取って下さい。
その意味をしっかり理解したい人は、伝統に基づいた手法でヴェーダーンタを教わった人で、
さらにその教え方を知っている人から、同じ伝統に基づいた手法で教わってくださいね。
一番有名な最初のスタンザ(詩)は、サンスクリット文法の勉強、
特にパーニニ文法を揶揄するもの、と間違って解釈されているので、
またの機会に説明しますね。
先生から生徒へ、ヴェーダーンタの文献の意味を、
伝統的な手法で言葉によって伝えるフォーマルな文献の勉強の時間は、
それ自体がプージャーだと言われるくらいに神聖なものです。
ヴェーダーンタのクラスの最後に、先生にプージャーをする習慣がある程です。
そのようなクラスと区別して、フォーマルな教えの形式をとらない、
先生と生徒の集まりは、通称「サットサンガ」と呼ばれています。
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>> 次回 55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ]) >>
全体、宇宙、イーシュワラとの関わりを認識すること、
それが本当の意味のバクティです。
~~サンスクリット文法好きの人へ~~
「サット(सत् [sat])」
अस् भुवि + लट् 3.2.123
= अस् + शतृ 3.2.124
= स् + अत् 6.4.111
= सत्
「サンガ(सङ्ग [saṅga])」
सञ्च् सङ्गे + घञ् 3.3.18
सञ् ग् + अ 7.3.52
सन् ग् + अ निमित्तापाये नैमित्तिकस्याप्यपायः ।
संग् + अ 8.3.24
सङ्ग् + अ 8.4.58
[satsaṅgaḥ]
masculine - 善い人との繋がり、集まり
サットサンガの語源
「サット(सत् [sat])」と「サンガ(सङ्ग [saṅga])」という、
2つの言葉が複合語になって、「サットサンガ」になります。
ゆえに、まず「サット」と「サンガ」のそれぞれの意味を見て、
この2つの言葉がどのような関係を持って複合語になっているのかを理解しましょう。
サットの意味
「アス(अस् [as])= 存在する」という意味の動詞の原型から派生した「サット」には、
「存在する、真実の、高貴な、正しい、善い」といった幾つかの意味があります。
(詳しい文法的派生の解説は下を参照してください。)
それらの意味から、「善い人、ダルマに沿った正しい道を行く人、
つまり、ダルマを最優先にして生きている人、ダルマに生きた結果としておのずと、
人生の本当の意味を知る為に生きている人、次世代のお手本になる人」
といった人々を指すために「サット」という言葉が使われることもよくあります。
「サット」と呼ばれる人間の定義を見て、
「自分はそんな人間とは程遠い、そんな風には一生なれないよ~」と
思う人もいるかもしれません。しかし、誰にだって人を思いやる善い心はあります。
ダルマの根底にあるのは「アヒムサー(非暴力)」という価値感です。
アヒムサーという知識は、人種や性別、宗教や生まれ育ちに関係なく、
人間なら共通に誰でも持っているものです。
正しく教えられたヴェーダの知識は、そんな素晴らしい自分の一面に気付かせてくれます。
そして、自分の善い面を善いものだと知り、誇らしく思い、
それを培って大きく育てて行く方法を沢山教えてくれます。
その生き方を、ダルマの生き方と呼ぶのです。
ダルマの生き方、それは執着と嫌悪の支配から自分を解放すること
人間というものは、
「執着(ラーガ)=これが無いと私は幸せにはなれない!」と、
「嫌悪(ドヴェーシャ)=これさえ無くなれば私は幸せになれるのに!」の
2つに支配されています。
ある人や物、状況に対して精神的に依存し、その為ならダルマの一線を越しても構わない、
と思えてしまう心理・現実の理解が、ここで言う「執着と嫌悪」の定義です。
家族、恋人、人間関係、仕事、趣味、お金、権力、ファッション、健康、気分、etc.
に対する「執着と嫌悪」によって行動が決定されて、
忙しく西へ東へと走り回って、一生分の時間が過ぎます。
「本当にこれが無いと駄目?」「幸せって何?状況のこと?私のこと?」
などと客観的に問い直している時間も無いほどに、
無心に忙しく駆け回っています。一生は短いですから!
”自分の幸せを達成する為なら、少々ダルマに目をつぶっても、、、
周りのみんなだって普通に殺生しながら生きてるし!
私は幸せになりたいだけなの!幸せになる手段とは、
「執着と嫌悪」による行動をどんどん進めて、達成する事に決まってる!”
全人類がこのような世界観で行動し、全てのマーケットはそれが正しいことだと後押しします。
全ての根源は、「今の自分は駄目だ」という結論です。
「小さい自分 VS 巨大な世界」という認識から生まれる不安に押されて、
「執着と嫌悪」の追究が自分を幸せにする解決策だと信じて、行動を続けるのです。
これが古今東西の全世界の全人類の行動です。
一握りの運の良い人は、そんな渦中から一歩下がって、
自分の心の声を聞くことが出来て、
全世界の風潮から逆らってでも、ダルマの行動を始めます。
自分の都合の良さよりも、他の生き物の痛みに敏感になって行動を決めます。
自分の小ささから行動するのではなく、自分の大きさから行動をするのです。
ヴェーダの智慧は、自分がどれだけ大きな人間なのかを教えてくれます。
ダルマの生き方を実践すればするほど、自分がより寛大に成長します。
ダルマに生きるとは、「執着と嫌悪」から自分の行動を解放することです。
宇宙の法則の在り方(ダルマ)と調和した選択をしている人の心には、平和があります。
不安や恐怖、怒りさえも、宇宙の法則の中にあるのです。
心が惹かれたり離れたりすることも、宇宙の法則と調和しています。
だから、宇宙の在り方に安心して信頼していられるのです。
その人の心にはいつも平穏があり、常に客観性と思いやりに満ちた選択が出来るのです。
「執着と嫌悪」から解放された人の心には自然と、
「人生の本当の意味」について考えられる客観性と余裕が出てきます。
ここで「サットサンガ」が必要になります。
サンガの意味
サンガとは、「サンジ(सञ्ज् [sañj])= くっつく」という動詞の原型から派生しています。
そこから、「サンガ」は場合によっては「執着」のように使われる場合もありますが、
「関係を持つ、集まり、仲間」という意味にもなります。
「サットサンガ」の意味
「サット」と呼ばれる人達との繋がりを「サットサンガ」と言います。
自分と繋がっている「サット」な人々のことを「サットサンガ」と呼ぶことも出来ます。
そんな人々と集まり、一緒に話を聞いたり、勉強したり、歌を歌ったりして、
同じ時間を過ごすことも「サットサンガ」と呼びます。
人生の本当の意味を教えてくれる勉強を共にする仲間を「サットサンガ」と呼ぶこともあれば、
その意味を教えてくれる先生のことを「サットサンガ」と呼ぶときもあります。
サットサンガの必要性
ダルマの価値を良く知る為の教えに耳を傾ける、
ダルマを優先して生きる方法を学び、その生き方を生きる、
ヴェーダーンタやサンスクリットの勉強をする、
全ては独りで思いついて、独りで出来ることではありません。
最低、それについて教えてくれる先生が必要ですし、
見習える人や、サポートしてくれる人や体制が必要です。
プージャスワミジはいつも、このモークシャの為の生き方と勉強には、
「サットサンガが必要」と言っておられます。
人間の自然な傾向から逆らった追究であるがゆえだからでしょう。
私自身、始まりが無く繰り返されてきた前世の中で貯めたプンニャを全て使った、
といえるぐらい、今回の人生で、先生を始め、素晴らしい「サットサンガ」と呼べる人々に恵まれました。
本当に「サットサンガがあってこそ」と感謝があるのみです。。。
バジャ・ゴーヴィンダムのサンスクリット語を理解してみましょう
シャンカラーチャーリアが残した多くの詩歌の中で、特に有名なのが、
「バジャ・ゴーヴィンダム」です。
通説では全ての節がシャンカラーチャーリアによって作詞されたのではなく、
様々なアーチャーリャ(先生)たちの作品の寄せ集めだと言われています。
よく引用される節に「サットサンガ」という言葉が出てきます。
リズムがとても良く、発音も難しくないので、声に出して読んで貰いたく、
カタカナに訳してみました。
サットサンガットヴェー ニッサンガットヴァム
सत्सङ्गत्वे निस्सङ्गत्वं [satsaṅgatve nissaṅgatvaṃ]
サットサンガがあれば、限りのあるものに執着することが減り、
निस्सङ्गत्वे निर्मोहत्वम् । [nissaṅgatve nirmohatvam |]
執着が無くなれば、現実に関する混乱が減り、
ニルモーハットヴェー ニスチャリタットヴァム
निर्मोहत्वे निश्चलतत्त्वं [nirmohatve niścalatattvaṃ]
現実に関する混乱が無くなれば、理解がぶれずに定着し、ニスチャリタットヴェー ジーヴァンムクティヒ
निश्चलतत्त्वे जीवन्मुक्तिः ॥ [niścalatattve jīvanmuktiḥ ||]
理解がぶれない時、その人は生きながらにして全ての制限から自由である。
「~トヴェー」~がある時(第7格)、「~トヴァム」~がある(第1格)
という簡単な構成が4つ並んでいます。
ちなみに「トヴァ」とは、「~の状態」という意味です。
下線を引いた「ニッ」や「ニル」、「ニス」は全て語源は同じで、
3つとも全て、「~の無い」という意味です。
ゆえに、
サット(善い人との)サンガ(繋がり)がある時、サンガ(執着)が無い(ニッ)状態(トヴァ)がある。
ニッサンガットヴァがある時、モーハ(混乱)が無い(ニル)状態(トヴァ)がある。
ニルモーハットヴァがある時、チャリタ(ブレること)が無い(ニス)状態(トヴァ)がある。
ニスチャリタットヴァがある時、ジーヴァン(生きながら)ムクティ(自由)がある。
動詞の原型から全部知りたい人は、ご連絡下さい。
「バジャ・ゴーヴィンダム」の中で、私が好きなのは、
アーナンダギリというアーチャーリャが書いたとされる、この詩です。
ヨーガラトー ヴァー ボーガラトー ヴァー
योगरतो वा भोगरतो वा [yogarato vā bhogarato vā ]
ヨーガ(規律のある生活)に愉しんでいようが、ボーガ(快楽)に愉しんでいようが、
サンガラトー ヴァー サンガヴィヒーナハ
सङ्गरतो वा सङ्गविहीनः । [saṅgarato vā saṅgavihīnaḥ |]
サンガ(人々の中)で愉しんでいようが、人から離れていようが、
ヤッシャ ブランマニ ラマテー チッタム
यस्य ब्रह्मणि रमते चित्तं [yasya brahmaṇi ramate cittaṃ]
その人の心が、ブランマンにおいて愉しんでいるなら、
ナンダティ ナンダティ ナンダッティエーヴァ
नन्दति नन्दति नन्दत्येव ॥ [nandati nandati nandatyeva ||]
その人は愉しみ、愉しみ、ただ愉しんでいるだけ。
ブランマン(この宇宙の本質、無限の存在)が自分だと知っている人は、
他人から見てどうだとはジャッジ出来ないということです。
その人が何をしていようが、自分の本質を「知っている」ということ、
それのみが、その人を自由(限りが無い存在)にしているのだ。ということです。
文中に繰り返される「ram(愉しむ)」と共に、
最後の「ナンダティ」も「愉しむ」と訳しましたが、
「幸せ=個人という限界から苛まされていないこと」という意味で「愉しみ」としました。
これぞ私の愉しみとして訳しているだけなので、インスピレーションとして取って下さい。
その意味をしっかり理解したい人は、伝統に基づいた手法でヴェーダーンタを教わった人で、
さらにその教え方を知っている人から、同じ伝統に基づいた手法で教わってくださいね。
一番有名な最初のスタンザ(詩)は、サンスクリット文法の勉強、
特にパーニニ文法を揶揄するもの、と間違って解釈されているので、
またの機会に説明しますね。
アシュラムでの「サットサンガ」の使われ方
先生から生徒へ、ヴェーダーンタの文献の意味を、
伝統的な手法で言葉によって伝えるフォーマルな文献の勉強の時間は、
それ自体がプージャーだと言われるくらいに神聖なものです。
ヴェーダーンタのクラスの最後に、先生にプージャーをする習慣がある程です。
そのようなクラスと区別して、フォーマルな教えの形式をとらない、
先生と生徒の集まりは、通称「サットサンガ」と呼ばれています。
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<< 前回 太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)の意味と、そのマントラについて <<
>> 次回 55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ]) >>
全体、宇宙、イーシュワラとの関わりを認識すること、
それが本当の意味のバクティです。
~~サンスクリット文法好きの人へ~~
「サット(सत् [sat])」
अस् भुवि + लट् 3.2.123
= अस् + शतृ 3.2.124
= स् + अत् 6.4.111
= सत्
「サンガ(सङ्ग [saṅga])」
सञ्च् सङ्गे + घञ् 3.3.18
सञ् ग् + अ 7.3.52
सन् ग् + अ निमित्तापाये नैमित्तिकस्याप्यपायः ।
संग् + अ 8.3.24
सङ्ग् + अ 8.4.58