कोटिः
[koṭiḥ]
日本語でも、「百万回トライする」とか「100億個食べる」とか、
数え切れない位の数字を伝えるときに、大きな数字の単位を使いますね。
一千万回でも十万回でも、どちらでも構わないわけです。
同じ意味合いで、サンスクリット語でも「コーティ(कोटिः [koṭiḥ] )」という言葉が使われます。
実際にいくつなのか辞書で調べてみましたが、はっきりした数字は出てきませんでした。
とにかく大きい、天文学的な数字、というアイディアを伝える為の言葉です。
同じ意味合いで、「サハッスラ(सहस्र [sahasra])=1000(千)」という言葉も
文献の中でよく使われています。千は簡単に数えられる数字ですが。。
クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダの中に有名な「プルシャ・スークタム」という節があります。
ご参考までに、Youtubeの音声を載せますね。
ちょっと編集が過剰ですが、伝統的に信頼されているCallakere Brothersのチャンティングです。
プルシャ・スークタムの詩は、
「千の頭、千の目、千の足、全てはプルシャ」で始まります。
(सहस्रशीर्षा पुरुषः सहस्राक्षः सहस्रपात् । [sahasraśīrṣā puruṣaḥ sahasrākṣaḥ sahasrapāt | ])
ちょっと待って、頭が千個あったら、目と足は2千ずつでしょう?
と思われるかもしれませんが、ここで言う千という数は、
数え切れない位の数、全て、トータル、という意味です。
詩の意味は、「全ての頭(あなたのもね)、全ての目、全ての足は、
プルシャ(イーシュワラ)のもの。」
「プルシャは、現在過去未来に在るもの、真に全て。」
(पुरुष एवेदं सर्वम् । यद्भूतं यच्च भव्यम् । [puruṣa evedaṃ sarvam | yadbhūtaṃ yacca bhavyam | ])
と続きます。
つまり、プルシャ(イーシュワラ)から離れているものなど何も無く、
あなたの頭も、目も、足も、プルシャ(イーシュワラ)なのです。
周りからの認めてもらわないと自己確認出来ない、ちっぽけな自分の正体は、
全世界の人間が神と崇めている、唯一の存在 = 全て なのです。
びっくりさせてしまったら、ごめんなさい。
「なんかそれっていい感じだし、理屈にも反していないけど、
スケールが大きすぎて、いきなりそんな事言われても、実感湧かない。」
では、解決法として、ヨガをしたり、瞑想をしたり、インドに行ったりすればいい?
いいえ。
ヴェーダははっきり答えます。
普通の家庭人・社会人として、自分の義務を果たしながら、
周りに貢献出来る、大きく豊かな心を持つ人間に成長しなさい。
それのみが、「私が欲しいもの、望むものの全ては、この私である」と
理解出来る為の心を準備する、唯一の方法なのですよ。
自分の心が、この宇宙の全てくらいに寛大でないと、
「私が全てだ」とは言い切れませんからね。
あなたの心の成長の為に、プルシャはこんな形の宇宙として現れて、
こんな形のあなたと、あなたを取り巻く環境を作ったのですよ。
ちなみに、ウィキペディアには、(いつもの事ですが)
トンデモない、トンチンカンな説明が書いてあります。
こんな説明は、伝統の教えではないことはもちろん、あなたの幸せにも貢献しません。
= コーティ(कोटिः [koṭiḥ] )が使われている文献 =
नमोऽस्त्वनन्ताय सहस्रमूर्तये सहस्रपादाक्षिशिरोरुबाहवे ।
सहस्रनाम्ने पुरुषाय शाश्वते सहस्रकोटियुगधारिणे नमः ॥
[namo'stvanantāya sahasramūrtaye sahasrapādākṣiśirorubāhave |
sahasranāmne puruṣāya śāśvate sahasrakoṭiyugadhāriṇe namaḥ ||]
ヴィシュヌ・サハッスラナーマ・ストートラムの終わりの章に出ているシュローカです。
趣旨は、上のプルシャ・スークタムと同じです。
無限、全ての形、全ての脚と目と頭と腕を持つ者、全ての名前を持つ者、
全ての時間、全ての創造を支える、プルシャに「ナマハ」。
「ナマハ」は、「ナマステー」の、ナマハです。
「ナマハ」、「ナマステー」の意味はとてもとても深いです。
また、今度ゆっくり話しますね。
वक्रतुण्ड महाकाय सूर्यकोटिसमप्रभ ।
निर्विघ्नं कुरु मे देव सर्वकार्येषु सर्वदा ॥
vakratuṇḍa mahākāya sūryakoṭisamaprabha |
nirvighnaṃ kuru me deva sarvakāryeṣu sarvadā ||
(いい音源がYoutubeで見つかりませんでした。
短く簡単なシュローカなので、日本の皆さんがチャンティング出来るように、
近いうちに自分でファイルを作りますね。)
障害物を司る神様は、日本でも人気のガネーシャです。
しかし、障害物を司る神様って?
障害物という形で私たちに見える宇宙の原理、すなわち、原因と結果の繋がり、
ってことは、私の体も心も、私の目の前に見えているものも、そうでないものも、
全ては、原因と結果の繋がりの範囲内にあり、それ以外のものは存在しない。
ブラックホールだって、ビッグバンだって、全ては原因と結果の繋がりの範囲内です。
その、原因と結果の繋がりは、時として、私たちの前に、
障害物という形として現れます。
私たちが自由意志を使ってとる行動は、
この原因と結果のネットワークに影響を与えることが出来ます。
自由意志だって、原因と結果の繋がりの範囲内であって、操り人形みたいに、
自由じゃないじゃん!って考える人がいますが、
「あたかも」の自由であっても、やっぱり私たちが自由に使えるものなのだから、
賢く自由に使うべきです。
自由というものは常に、乱用・悪用されているのですから。
賢い自由意志の使い方は、自分にも周りにも一番良い行動を選択することです。
自分の手の届く範囲には、しっかり手を打つ。
客観的な人は、自分の手の届く範囲の外にある決定要素もしっかり視野に入っています。
そんな人が、自由意志を完全に自由にして行える行為が、「祈り」です。
人間のうまい生き方マニュアルであるヴェーダは、
ガネーシャというフォーム(形)を、障害物に対して働きかける行為をするために与えています。
心の中に、ガネーシャのフォームを描いて、そこに、
宇宙全体に広がる、原因と結果の繋がりのネットワークを認識し、
それに対して、祈りという行為で影響を与えることが出来る、と教えているのです。
手を合わせて「うまくいきますように」と、心の中で言うことも出来ますし、
伝統で教えられている、このサンスクリットのシュローカを唱えることも出来ます。
曲がった鼻と(vakratuṇḍa)
大きな体、(mahākāya)
数億個の太陽の光を持つ(sūryakoṭisamaprabha)
デーヴァよ!(deva)
全ての取り組みにおいて(sarvakāryeṣu )
私の為に(me)
常に(sarvadā )
障害物の無いようにしてください(nirvighnaṃ kuru)。
<< 前回の単語 37.कोशः [kośaḥ] - コーシャ <<
パンチャ・コーシャ・ヴィヴェーカに出てくる言葉です。
間違った意味がヨガ界・インド哲学界でまかり通っているので、
伝統に沿った、ちゃんとした意味を知りましょう。
>> 次回の単語 कैलासः [kailāsaḥ] - カイラーサ >>
今は中国領のシヴァ神の住処です。
[koṭiḥ]
feminine - 数え切れない位の大きな数字
”無数”を表現する為の言葉
日本語でも、「百万回トライする」とか「100億個食べる」とか、
数え切れない位の数字を伝えるときに、大きな数字の単位を使いますね。
一千万回でも十万回でも、どちらでも構わないわけです。
同じ意味合いで、サンスクリット語でも「コーティ(कोटिः [koṭiḥ] )」という言葉が使われます。
実際にいくつなのか辞書で調べてみましたが、はっきりした数字は出てきませんでした。
とにかく大きい、天文学的な数字、というアイディアを伝える為の言葉です。
同じ意味合いで、「サハッスラ(सहस्र [sahasra])=1000(千)」という言葉も
文献の中でよく使われています。千は簡単に数えられる数字ですが。。
プルシャ・スークタ
クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダの中に有名な「プルシャ・スークタム」という節があります。
ご参考までに、Youtubeの音声を載せますね。
ちょっと編集が過剰ですが、伝統的に信頼されているCallakere Brothersのチャンティングです。
プルシャ・スークタムの詩は、
「千の頭、千の目、千の足、全てはプルシャ」で始まります。
(सहस्रशीर्षा पुरुषः सहस्राक्षः सहस्रपात् । [sahasraśīrṣā puruṣaḥ sahasrākṣaḥ sahasrapāt | ])
ちょっと待って、頭が千個あったら、目と足は2千ずつでしょう?
と思われるかもしれませんが、ここで言う千という数は、
数え切れない位の数、全て、トータル、という意味です。
詩の意味は、「全ての頭(あなたのもね)、全ての目、全ての足は、
プルシャ(イーシュワラ)のもの。」
「プルシャは、現在過去未来に在るもの、真に全て。」
(पुरुष एवेदं सर्वम् । यद्भूतं यच्च भव्यम् । [puruṣa evedaṃ sarvam | yadbhūtaṃ yacca bhavyam | ])
と続きます。
つまり、プルシャ(イーシュワラ)から離れているものなど何も無く、
あなたの頭も、目も、足も、プルシャ(イーシュワラ)なのです。
周りからの認めてもらわないと自己確認出来ない、ちっぽけな自分の正体は、
全世界の人間が神と崇めている、唯一の存在 = 全て なのです。
びっくりさせてしまったら、ごめんなさい。
プルシャ・スークタが教えるヴィジョンの理解
「なんかそれっていい感じだし、理屈にも反していないけど、
スケールが大きすぎて、いきなりそんな事言われても、実感湧かない。」
では、解決法として、ヨガをしたり、瞑想をしたり、インドに行ったりすればいい?
いいえ。
ヴェーダははっきり答えます。
普通の家庭人・社会人として、自分の義務を果たしながら、
周りに貢献出来る、大きく豊かな心を持つ人間に成長しなさい。
それのみが、「私が欲しいもの、望むものの全ては、この私である」と
理解出来る為の心を準備する、唯一の方法なのですよ。
自分の心が、この宇宙の全てくらいに寛大でないと、
「私が全てだ」とは言い切れませんからね。
あなたの心の成長の為に、プルシャはこんな形の宇宙として現れて、
こんな形のあなたと、あなたを取り巻く環境を作ったのですよ。
ちなみに、ウィキペディアには、(いつもの事ですが)
トンデモない、トンチンカンな説明が書いてあります。
こんな説明は、伝統の教えではないことはもちろん、あなたの幸せにも貢献しません。
= コーティ(कोटिः [koṭiḥ] )が使われている文献 =
नमोऽस्त्वनन्ताय सहस्रमूर्तये सहस्रपादाक्षिशिरोरुबाहवे ।
सहस्रनाम्ने पुरुषाय शाश्वते सहस्रकोटियुगधारिणे नमः ॥
[namo'stvanantāya sahasramūrtaye sahasrapādākṣiśirorubāhave |
sahasranāmne puruṣāya śāśvate sahasrakoṭiyugadhāriṇe namaḥ ||]
ヴィシュヌ・サハッスラナーマ・ストートラムの終わりの章に出ているシュローカです。
趣旨は、上のプルシャ・スークタムと同じです。
無限、全ての形、全ての脚と目と頭と腕を持つ者、全ての名前を持つ者、
全ての時間、全ての創造を支える、プルシャに「ナマハ」。
「ナマハ」は、「ナマステー」の、ナマハです。
「ナマハ」、「ナマステー」の意味はとてもとても深いです。
また、今度ゆっくり話しますね。
ガネーシャへの祈り
वक्रतुण्ड महाकाय सूर्यकोटिसमप्रभ ।
निर्विघ्नं कुरु मे देव सर्वकार्येषु सर्वदा ॥
vakratuṇḍa mahākāya sūryakoṭisamaprabha |
nirvighnaṃ kuru me deva sarvakāryeṣu sarvadā ||
(いい音源がYoutubeで見つかりませんでした。
短く簡単なシュローカなので、日本の皆さんがチャンティング出来るように、
近いうちに自分でファイルを作りますね。)
ガネーシャの特徴
障害物を司る神様は、日本でも人気のガネーシャです。
しかし、障害物を司る神様って?
障害物という形で私たちに見える宇宙の原理、すなわち、原因と結果の繋がり、
ってことは、私の体も心も、私の目の前に見えているものも、そうでないものも、
全ては、原因と結果の繋がりの範囲内にあり、それ以外のものは存在しない。
ブラックホールだって、ビッグバンだって、全ては原因と結果の繋がりの範囲内です。
その、原因と結果の繋がりは、時として、私たちの前に、
障害物という形として現れます。
自由意志
私たちが自由意志を使ってとる行動は、
この原因と結果のネットワークに影響を与えることが出来ます。
自由意志だって、原因と結果の繋がりの範囲内であって、操り人形みたいに、
自由じゃないじゃん!って考える人がいますが、
「あたかも」の自由であっても、やっぱり私たちが自由に使えるものなのだから、
賢く自由に使うべきです。
自由というものは常に、乱用・悪用されているのですから。
賢い自由意志の使い方は、自分にも周りにも一番良い行動を選択することです。
自分の手の届く範囲には、しっかり手を打つ。
客観的な人は、自分の手の届く範囲の外にある決定要素もしっかり視野に入っています。
そんな人が、自由意志を完全に自由にして行える行為が、「祈り」です。
人間のうまい生き方マニュアルであるヴェーダは、
ガネーシャというフォーム(形)を、障害物に対して働きかける行為をするために与えています。
心の中に、ガネーシャのフォームを描いて、そこに、
宇宙全体に広がる、原因と結果の繋がりのネットワークを認識し、
それに対して、祈りという行為で影響を与えることが出来る、と教えているのです。
手を合わせて「うまくいきますように」と、心の中で言うことも出来ますし、
伝統で教えられている、このサンスクリットのシュローカを唱えることも出来ます。
ガネーシャへの祈りの意味
曲がった鼻と(vakratuṇḍa)
大きな体、(mahākāya)
数億個の太陽の光を持つ(sūryakoṭisamaprabha)
デーヴァよ!(deva)
全ての取り組みにおいて(sarvakāryeṣu )
私の為に(me)
常に(sarvadā )
障害物の無いようにしてください(nirvighnaṃ kuru)。
パンチャ・コーシャ・ヴィヴェーカに出てくる言葉です。
間違った意味がヨガ界・インド哲学界でまかり通っているので、
伝統に沿った、ちゃんとした意味を知りましょう。
>> 次回の単語 कैलासः [kailāsaḥ] - カイラーサ >>
今は中国領のシヴァ神の住処です。