दुर्गा
[durgā]
まず一つ目の意味から。
昨日のカーリーと同じように、創造と破壊を象徴する女神です。
カーリーはその名の通り、青黒い色で描かれていますが、
ドゥルガーは白くて、ライオンに乗っています。
マヒシャースラ・マルディニーとしても知られています。
その名の通り、マヒシャースラという魔物を殺したからことから由来している名前です。
アイ ギリナンディニ ナンディタメーディニ ヴィシュヴァヴィノーディニ ナンディヌテ~~
ギリヴァラヴィンディヤシローディニヴァーシニ ヴィシュヌヴィラーシニ ジシュヌヌテ~
私の好きな、『マヒシャースラ・マルディニー・ストートラム』です。
一見難しそうだけど、一度口に出すと、スラスラ出てきて、止まらない。しかも長い。
いかにもシャクティ!っという感じで力の湧き出るストートラムです。
バガヴァティ へー シティカンタクトゥンビニ ブーリクトゥンビニ ブーリクリテ~~
ジャヤ ジャヤ へー マヒシャースラマルディニ ランミャカパルティニ シャイラステ~
ここまでで1つのシュローカ。これが20番まで続きます。
ドゥルガーはもちろん、カーリーも、ラーマも、ヴィシュヌも皆、
武器を持った姿で描かれています。
「守ってあげる準備はいつでも出来てるよ!」という意味です。
頼りにしたいから祈っている訳です。
何をどうもってして、頼りになるのか、本当のところを考え出したとき、
それに答えるのがヴェーダーンタです。
そして、二つ目の意味。
[durgā]
1.ドゥルガー女神、創造と破壊の力(シャクティ)
2.理解されにくいもの
まず一つ目の意味から。
1.ドゥルガー女神、創造と破壊の力(シャクティ)
昨日のカーリーと同じように、創造と破壊を象徴する女神です。
カーリーはその名の通り、青黒い色で描かれていますが、
ドゥルガーは白くて、ライオンに乗っています。
マヒシャースラ・マルディニーとしても知られています。
その名の通り、マヒシャースラという魔物を殺したからことから由来している名前です。
アイ ギリナンディニ ナンディタメーディニ ヴィシュヴァヴィノーディニ ナンディヌテ~~
ギリヴァラヴィンディヤシローディニヴァーシニ ヴィシュヌヴィラーシニ ジシュヌヌテ~
私の好きな、『マヒシャースラ・マルディニー・ストートラム』です。
一見難しそうだけど、一度口に出すと、スラスラ出てきて、止まらない。しかも長い。
いかにもシャクティ!っという感じで力の湧き出るストートラムです。
バガヴァティ へー シティカンタクトゥンビニ ブーリクトゥンビニ ブーリクリテ~~
ジャヤ ジャヤ へー マヒシャースラマルディニ ランミャカパルティニ シャイラステ~
ここまでで1つのシュローカ。これが20番まで続きます。
なぜ武器を持った姿で描かれているのか
ドゥルガーはもちろん、カーリーも、ラーマも、ヴィシュヌも皆、
武器を持った姿で描かれています。
「守ってあげる準備はいつでも出来てるよ!」という意味です。
頼りにしたいから祈っている訳です。
何をどうもってして、頼りになるのか、本当のところを考え出したとき、
それに答えるのがヴェーダーンタです。
そして、二つ目の意味。
2.理解されにくいもの
दुर्दुःखेन गम्यते प्राप्यते
[durduḥkhena gamyate prāpyate]
「ドゥル(दुर् [dur])」=難しい
「ガム(गम् [gam])」は「行く」以外にも「理解する」という意味でも使われます。
「ガム(गम् [gam])理解」+「ダ(ड [ḍa])~されるもの」
この「ダ(ड [ḍa])」は、「ड् [ḍ]」の部分が取扱説明書で、
「अ [a]」の部分が中身です。
中身である「अ [a]」をどうやって取り扱うべきか、「ड् [ḍ]」が教えているのです。
「ड् [ḍ]」が教えるメッセージは、、
「前にある言葉の中の、最後の母音から始まる音を全て消して下さい」
(文法が好きな人の為に:डित्त्वसामर्थ्यादभस्यापि टेर्लोपः । という有名なपरिभाषाです。)
ということは、「गम् [gam]」の「am」の部分を消してしまうということですね。
そうすると、「ग् [g]」+「अ [a]」=「ガ(ग [ga])」だけになります。
女性名詞なので、女性接尾語「アー(आ [ā])」を付けて、
「ガー(गा [gā])」ですね。
「अ [a]」+「आ [ā]」=「アー(आ [ā])」、ディールガ・サンディです。
そこに、「ドゥル(दुर् [dur])」を付けて、
「ドゥルガー(दुर् [dur])」、理解し難いもの(女性)となるわけです。
どうしてドゥルガーは理解し難いのか?
ドゥルガー・デーヴィー(女神)は、シヴァ(イーシュヴァラ)と一心同体です。
離れて存在は出来ません。
アルダ・ナーリーシュワラの姿は、それを理解しやすい形ですね。
アルダ(半分)・ナーリー(女性)・イーシュヴァラなのです。
これは、カーリダーサ(昨日見ましたね)のラグ・ヴァムシャの
有名な、最初の祈りのシュローカです。
私が教えている3年コースのサンスクリット語のクラスでも、
毎日皆で唱えています。
जगतः पितरौ वन्दे पारिवतीपरमेश्वरौ ।
jagataḥ pitarau vande pārivatīparameśvarau |
有名な、最初の祈りのシュローカです。
私が教えている3年コースのサンスクリット語のクラスでも、
毎日皆で唱えています。
「ジャガット(この宇宙の全て)の父母である、
パールヴァティーとパラメーシュヴァラに、
尊敬の念を表します。」
イーシュヴァラは、シャクティと、不離一体なのです。
だからこそ、その本質はひとつ。アドヴァイタです。
ひとつしか無いのだから、しかもそれはあなたでしかあり得ないのだから、
これほど分かりやすい事は無いのに!と思うのですが、
「ドゥルガー(理解され難いもの)」なのです。
理解に必要なもの
「理解」というからには、マインド(心、頭脳)が必要です。
マインドが準備されていなければ、理解は出来ません。
掛け算をまだ習っていないマインドが、
「8X9=72」を理解できないのと同じです。
ヴェーダーンタの「イーシュヴァラはあなたです」のヴィジョンも、
準備の出来ていない心=人間として成熟していない心
では理解出来ません。
それゆえに、こんなに明解な真実も、
「そういう意見って面白いよね。分かる分かる!
でも僕は違うと思うけど。」で片付けられてしまうのです。
心の準備、つまり人間として成熟した心とは、
出来るだけ短い言葉で言うと、客観的で、コンパッションのある心です。
当たり前と言えば、当たり前のことですが、
客観性やコンパッションというものは、
それの価値を充分理解し、意識して培っていくものです。
そして、そんな人間として成熟した心は、
自分のすべきこと「スヴァダルマ(स्वधर्मः [svadharmaḥ])」
に徹した生き方でしか得られません。
何が人間として成熟した心なのか?
上で示したように、プラマーナのはっきりしているインドでは、
人間としての成熟とはなにかも、はっきり定義され、詳しく説明されています。
一方、プラマーナの無い国、日本では、それははっきりしていませんね。
何でも「個人の問題」で片付けられて、さまよい続けています。
もちろん個人差はありますが、
日本人ほど、全体的にダルマのレベルが高い国も珍しいのに、
「何がダルマか」というのを、はっきりしたがらずに、
「個人」「感覚」「好きなことを!」という傾向が強く、
せっかく真面目に生きているのに、方向性が与えられていないのは、
インドから見ていて面白いです。っていうか、もったいない!ですね。
せっかく真面目に生きているのに、方向性が与えられていないのは、
インドから見ていて面白いです。っていうか、もったいない!ですね。
インドは元祖「ダルマ」の国で、
揺れ動かない普遍的な「成熟した心」の価値感が、
何千年と伝えられている国なのにも関らず、
全体的に「君たち自由過ぎるよ~!!」のように感じることが多いです。
どちらにせよ、ウパニシャッドでもギーターでも、
アドヴァイタは、「理解され難いものである」と何度も言われています。
宇宙の創造がそういう風に出来ているのですね。
ハッピー・ナヴァラートリー!