औषधिः
[auṣadhiḥ]
ओषधिः [oṣadhiḥ](オーシャディ)と、औषधिः [auṣadhiḥ](アウシャディ)は、
音も似ていますが、意味も殆ど同じです。
辞書の意味では、植物や薬草を指しますが、
ヴェーダーンタの文献を見てみると、、、
単なる植物と言うよりは、「食べ物」の意味合いで使われています。
तस्माद्वा एतस्मादात्मन आकशः सम्भूतः ।
tasmādvā etasmādātmana ākaśaḥ sambhūtaḥ |
その(ブランマン)から、アートマンから、アーカーシャ(空間)が生まれた。
आकाशाद् वायुः ।
ākāśād vāyuḥ |
アーカーシャからヴァーユ(風)。
वायोरगुनिः ।
vāyoraguniḥ |
ヴァーユからアグニ(火)
अग्नेरापः ।
agnerāpaḥ |
アグニからアプ(水)。
अद्भ्यः पृथिवी ।
adbhyaḥ pṛthivī |
アプからプリティヴィー(土)。
पृथिव्या ओषधयः ।
pṛthivyā oṣadhayaḥ |
プリティヴィーからオーシャディ(植物)。
ओषधीभ्योऽन्नम् ।
oṣadhībhyo'nnam |
オーシャディから人間の元。
अन्नात् पुरुषः ।
annāt puruṣaḥ |
人間の元から人間。
このことから分かるように、ヴェーダでは、人間の食べ物は、植物、
すなわちヴェジタリアンと決まっています。
アヒムサー(非暴力)が、人間としての、最も重要な価値観である時、
生きていく為に発生するヒムサー(環境に与える痛みや負担)を最小限にしようとするのは当然です。
北極や砂漠地帯などの極端な環境にいない限り、
食べ物に関して一番環境に負担が少ないのは、植物性の食べ物なのですから、
ヴェーダが、植物を食べ物として紹介しているのも当然です。
人間が幸せに生きる為のマニュアルであるヴェーダは、「肉を食べるな」と、はっきりと教えています。
「ヴェジタリアン」と言ったとたん、「ノン・ヴェジタリアン」の人が、
拒絶や叱責を感じてしまうのは当然です。
ここでは、「ノン・ヴェジタリアン」をしている人間や人格を批判しているのではなく、
全ての人間が持っている、「考え」に対する怠惰さを批判しているのです。
「何を食べるか」という、重大な責任のある選択権を、
利益追求を優先するコマーシャルなプロパガンダに、みすみすと明け渡してしまっている、
という事実を明らかにしようとしているのです。
しかし、なぜ、アヒムサー(非暴力)が、人間としての、最も重要な価値なのでしょうか?
あらゆる生き物は、植物でも、動物でも、人間でも、誰でも、
他から傷つけられることを望みません。
この事実を、誰にも教えられずに、生まれた時から知っているのは人間だけです。
人間を人間たらしめているのは、この先天的な知識です。
この先天的な知識が土台となって、他者の痛みに共感できる優しさ、すなわち心の成長があるのです。
しかし、この大事な知識 -「自分が傷つけられたくないと思うのと同じように、
どんな生き物だって傷つけられるのは嫌なのだ」- という知識は、
コマーシャルや教育、習慣によって、覆い隠されてしまいます。
自分の快楽や便宜さの為に、他者を傷つけることに鈍感になってしまうのです。
周りに、不必要に痛みや負担をかけて、さらにそれに対して鈍感であることが、
すなわち人間としての幼稚さ、小ささなのです。
少し立ち止まって、考えたり、観察したりすると、
今まで肉食をしていたのは、あまりちゃんと考えていなかった結果であることが見えてきます。
バガヴァッド・ギーターでも、ヴェーダと同じことが言われています。
15章では、バガヴァーンが「全ては私である」と教えています。
「食べ物は私、食べる人も私、消化の力も私」と説明している中で、
पुष्णामि चौषधीः सर्वाः सोमो भूत्वा रसात्मकः॥
puṣṇāmi cauṣadhīḥ sarvāḥ somo bhūtvā rasātmakaḥ||
と、食べ物は、植物=औषधी - [auṣadhī] アウシャディーとして登場しています。
食べるという行為は、宇宙と自分の体との、物理的で直接的な関わりです。
空気を吸うときは、どのような空気を吸うかは自分で決められませんが、
どのような食べ物を食べるかにおいては、Freewill=自由意志が使えます。
日本の食生活のコマーシャルなあり方に流されるがままに、肉食をしているのは、
自由意志が、自由ではない証拠です。
自分の頭で「正しく」考えることにより、
自分の意志を、考えの足らない習慣の束縛からの解放、
すなわち自由にしてあげられるのです。
<< 前回の言葉 18.ऐश्वर्यम् [aiśvaryam] - アイシュワリヤ <<
>> 次回の言葉 20.औष्ण्यम् [auṣṇyam] - アウシュニャ >>
補足:
ヴェジタリアンと言うと、
「禁欲的で美味しいものは食べられない」というイメージがありますが、
それは間違いです。
特にインド料理は、スパイスが利いていて美味しいので、
ヴェジタリアンだと言わない限り気が付かれません。
日本でも本場の、ピュア・ヴェジの食料品が手に入ります。
http://www.ambikajapan.com/
マクロビのような、玄米と海草、豆類、野菜といった日本食もいいですね。
「エコヴェジ」が日本に広まれば、と願っています。
まずは、一日のうちで一食を菜食にするだけでも、エコ効果があります。
意外ですが、菜食にするだけで、家庭でも産業でも、節電に貢献できるのですよ。
[auṣadhiḥ]
feminine - 植物、薬、ハーブ、食物
ओषधिः [oṣadhiḥ](オーシャディ)と、औषधिः [auṣadhiḥ](アウシャディ)は、
音も似ていますが、意味も殆ど同じです。
辞書の意味では、植物や薬草を指しますが、
ヴェーダーンタの文献を見てみると、、、
単なる植物と言うよりは、「食べ物」の意味合いで使われています。
タイッティリーヤ・ウパニシャッド
तस्माद्वा एतस्मादात्मन आकशः सम्भूतः ।
tasmādvā etasmādātmana ākaśaḥ sambhūtaḥ |
その(ブランマン)から、アートマンから、アーカーシャ(空間)が生まれた。
आकाशाद् वायुः ।
ākāśād vāyuḥ |
アーカーシャからヴァーユ(風)。
वायोरगुनिः ।
vāyoraguniḥ |
ヴァーユからアグニ(火)
अग्नेरापः ।
agnerāpaḥ |
アグニからアプ(水)。
अद्भ्यः पृथिवी ।
adbhyaḥ pṛthivī |
アプからプリティヴィー(土)。
पृथिव्या ओषधयः ।
pṛthivyā oṣadhayaḥ |
プリティヴィーからオーシャディ(植物)。
ओषधीभ्योऽन्नम् ।
oṣadhībhyo'nnam |
オーシャディから人間の元。
अन्नात् पुरुषः ।
annāt puruṣaḥ |
人間の元から人間。
このことから分かるように、ヴェーダでは、人間の食べ物は、植物、
すなわちヴェジタリアンと決まっています。
アヒムサー(非暴力)が、人間としての、最も重要な価値観である時、
生きていく為に発生するヒムサー(環境に与える痛みや負担)を最小限にしようとするのは当然です。
北極や砂漠地帯などの極端な環境にいない限り、
食べ物に関して一番環境に負担が少ないのは、植物性の食べ物なのですから、
ヴェーダが、植物を食べ物として紹介しているのも当然です。
人間が幸せに生きる為のマニュアルであるヴェーダは、「肉を食べるな」と、はっきりと教えています。
ヴェジタリアンという、アヒムサーの選択
「ヴェジタリアン」と言ったとたん、「ノン・ヴェジタリアン」の人が、
拒絶や叱責を感じてしまうのは当然です。
ここでは、「ノン・ヴェジタリアン」をしている人間や人格を批判しているのではなく、
全ての人間が持っている、「考え」に対する怠惰さを批判しているのです。
「何を食べるか」という、重大な責任のある選択権を、
利益追求を優先するコマーシャルなプロパガンダに、みすみすと明け渡してしまっている、
という事実を明らかにしようとしているのです。
しかし、なぜ、アヒムサー(非暴力)が、人間としての、最も重要な価値なのでしょうか?
あらゆる生き物は、植物でも、動物でも、人間でも、誰でも、
他から傷つけられることを望みません。
この事実を、誰にも教えられずに、生まれた時から知っているのは人間だけです。
人間を人間たらしめているのは、この先天的な知識です。
この先天的な知識が土台となって、他者の痛みに共感できる優しさ、すなわち心の成長があるのです。
しかし、この大事な知識 -「自分が傷つけられたくないと思うのと同じように、
どんな生き物だって傷つけられるのは嫌なのだ」- という知識は、
コマーシャルや教育、習慣によって、覆い隠されてしまいます。
自分の快楽や便宜さの為に、他者を傷つけることに鈍感になってしまうのです。
周りに、不必要に痛みや負担をかけて、さらにそれに対して鈍感であることが、
すなわち人間としての幼稚さ、小ささなのです。
少し立ち止まって、考えたり、観察したりすると、
今まで肉食をしていたのは、あまりちゃんと考えていなかった結果であることが見えてきます。
バガヴァッド・ギーターでも、ヴェーダと同じことが言われています。
15章では、バガヴァーンが「全ては私である」と教えています。
「食べ物は私、食べる人も私、消化の力も私」と説明している中で、
पुष्णामि चौषधीः सर्वाः सोमो भूत्वा रसात्मकः॥
puṣṇāmi cauṣadhīḥ sarvāḥ somo bhūtvā rasātmakaḥ||
と、食べ物は、植物=औषधी - [auṣadhī] アウシャディーとして登場しています。
食べるという行為は、宇宙と自分の体との、物理的で直接的な関わりです。
空気を吸うときは、どのような空気を吸うかは自分で決められませんが、
どのような食べ物を食べるかにおいては、Freewill=自由意志が使えます。
日本の食生活のコマーシャルなあり方に流されるがままに、肉食をしているのは、
自由意志が、自由ではない証拠です。
自分の頭で「正しく」考えることにより、
自分の意志を、考えの足らない習慣の束縛からの解放、
すなわち自由にしてあげられるのです。
<< 前回の言葉 18.ऐश्वर्यम् [aiśvaryam] - アイシュワリヤ <<
>> 次回の言葉 20.औष्ण्यम् [auṣṇyam] - アウシュニャ >>
補足:
ヴェジタリアンと言うと、
「禁欲的で美味しいものは食べられない」というイメージがありますが、
それは間違いです。
特にインド料理は、スパイスが利いていて美味しいので、
ヴェジタリアンだと言わない限り気が付かれません。
日本でも本場の、ピュア・ヴェジの食料品が手に入ります。
http://www.ambikajapan.com/
インドで一般的なヴェジマークを、日本でも広めたいです。 |
マクロビのような、玄米と海草、豆類、野菜といった日本食もいいですね。
「エコヴェジ」が日本に広まれば、と願っています。
まずは、一日のうちで一食を菜食にするだけでも、エコ効果があります。