2015年3月29日日曜日

51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])- 達成する人

साधकः
 [sādhakaḥ]

masculine - 文法的訳:達成する人、一般訳:”スピリチュアル・シーカー(探求者)”


この言葉は、プージャ・スワミジが注意して使っている言葉です。

使い方によっては、強く批判している言葉です。

なぜでしょうか?

一緒に考えてみましょう。

「スピリチュアル・シーカー(探求者)」と呼ばれた瞬間、
長い長い道のりに放っぽり出されたような気になりませんか?

文法的な語源


「達成する」という意味の「サーダ(साध् [sādh])」という動詞の原型に、

「~する人」という意味の「 アカ(अक [aka])」という接尾語を付加して、

「サーダ」+「アカ」=「サーダカ(達成する人)」となります。

サンスクリットの文法って、とってもシステマティックですね!


一般的な使われ方


何かを達成しようとして練習したり勉強をしたりしている人を指して、

「サーダカ」という言葉が使われることがあります。

このことから、アシュラムでヨガやプラーナーヤーマ、瞑想をしたり、

文献の勉強をしている人を指して、「サーダカ」と呼び、

それを英語に訳して「スピリチュアル・シーカー(spiritual seeker)」となるわけです。

日本語で言うと「探求者」でしょうか。


なぜ、ヴェーダーンタの生徒を「サーダカ」と呼ばないのか


私はこの10年ほど、彼の話を聞くために彼の近くに住みながら、

ヴェーダンタを学び、教える生活を続けていますが、

プージャ・スワミジが生徒のことを「サーダカ」と呼んだのを聞いたことはありません。

「スピリチュアル・シーカー/探求者」という意味での

「サーダカ」という言葉のどこがいけないのでしょうか?


サーディヤ=達成されるべきもの


「サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])」と似た言葉で、

「サーディヤ(साध्यम् [sādhyam])」という、もう一つのサンスクリットの言葉を紹介しますね。

同じ、「達成する」という意味の「サーダ(साध् [sādh])」という動詞の原型に、

「~されるべきもの」という意味の「 ヤ(य [ya])」という接尾語を付加して、

「サーダ」+「ヤ」=「サーディヤ(達成されるべきもの)」という言葉になります。


ヴェーダーンタが教えていること


ヴェーダーンタを勉強して何を知ろうとしているか?

その対象を指すときに「サーディヤ(達成されるべきもの)」という言葉が使われます。

ヴェーダンタの対象は「ブランマン」です。それは制限も条件もない存在です。

ということは、今ここにいる、あなたと時間的にも空間的にも離れていない、

あなた自身であるべきす。

「そのブランマンは、このあなたです」と教えるのがヴェーダーンタです。

しかし、それをあなたは知らない。

知らされても、ちゃんと理解出来ない。

知らないこと、理解出来ないことに対抗できるのは、知識だけです。

「シッダッシャ・シッディヒ(सिद्धस्य सिद्धिः [siddhasya siddhiḥ])」

日本語に訳すと「既に達成されていることの達成」。

家に居るのに、「家に帰りたいよう~」と泣いている人を、

どうやって家に帰してあげられますか?

「あなたは家に居るんですよ」という知識を理解してもらうしかないのです。


スピリチュアル・シーカー(探求者)の典型的な「遠い道のり」という概念。
自分自身のことなのに、間違った先生達によって、「遠い場所と未来にある何か」だと思い込まされてしまう。

「ブランマン」について教えているのはヴェーダーンタだけです。

ヴェーダーンタは、正しい伝統のもとで、正しく学び、理解されなければなりません。

伝統の中で勉強を正しく修めた人でなければ、

立派な大学教授であろうが、有名なスピリチュアル・リーダーであろうが、

学術的、生理学的、解剖学的なエクササイズを教えることは出来ても、

人生の目的を満たす為の知識については、正しく教えることは出来ません。

正しい伝統を知らない「先生」達が、真剣に幸せを追い求めている純真な生徒達に、

「君は惨めで役立たずのサーダカ、ゴールはとてつもなく遠いサーディヤ」

という、下手をすると修復不可能な認識を植えつけているのです。



「サーダカ」を「探求者」とし、「サーディヤ」を「達成するべきゴール」とした時、

その2つの間には、とてつもなく巨大なギャップが出来上がってしまいます。

時間的距離は永遠で、空間的距離は無限、そんな風にとらえられてしまうのです。

「サーディヤ」は「今」「ここ」の自分自身なのに!

インド人が好きな言葉遊び。
探しているものは、今=Now、ここ=Hereにあるのに、
見つけ出せずに、Nowhereと思ってしまう。

レーベリング(人にラベルを貼り付けること)


ヨガ教室に通っていようがいまいが、アシュラムに出入りしていようがいまいが、

何を食べていようが、周りからの評判がどうであろうが、

人間は誰だって、無条件の幸せを探求しているのです。

ある特定の人にだけ「サーダカ」とラベルを貼ってしまうと、

「私はサーダカだけど、うちの旦那はサーダカじゃなくって!」という分裂が引き起こされるのです。


伝統的な教えの大切さ


「サーダカ(達成する人)」も「サーディヤ(達成されるべきもの)」も、

そしてその為の手段「サーダナ」も、伝統の中で使われるサンスクリット語です。

これらに限らず、どの言葉も全て、意味を正しく理解することはもちろん、

使い方を一歩間違えると、聞く人の心理に多大な損害を与えてしまうかも知れない、

ということに配慮しながら、慎重に言葉を扱って教えるのが「伝統的な教え」なのです。


この記事を書こうと思ったきっかけ


私が教えている3年半のコースのサンスクリット語文法のクラスでは、

今はいろんな種類の接尾語を教えています。

「~する人」を表す接尾語の例として、「サーダカ」を説明た時に、

ヴェーダーンタをもう10年以上も勉強している人が、

「じゃあ、私でもいつか達成できるのね!」と喜んでいました。

彼女が達成しようとしていることは、既に達成されているのに!

先ほどの、「シッダッシャ・シッディヒ(सिद्धस्य सिद्धिः [siddhasya siddhiḥ])」です。

彼女の先生が悪いのか、彼女の理解が悪いのか知りませんが、

このことは、彼女が長年「サーダカ」という言葉で呼ばれ続け、

「自分は達成出来ていない存在なのだ」という認識を長年固め続けた証拠です。

そういう人達は何年何月何日に自分の事を「サーダカ」と呼ぶのを辞めるのでしょうか?

「今ここに居るあなたがブランマンです」という真実を見据えている先生が、

生徒のことを「サーダカ」と呼ぶでしょうか?




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インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。

聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。



<<前回 49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ])<<

それによって「これが私」という考え・結論が出来る。

それがアハンカーラ。


>> 次回 52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ])>>

最近日本のヨガスクールでもどんどん教えられるようになってきましたが、充分な注意が必要です。

2015年3月25日水曜日

49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ])- 「これが私」という考え・結論

अहङ्कारः
[ahaṅkāraḥ]


masculine - 「これが私」という考え・結論




「アハンカーラを捨てなければ」

「アハンカーラを止滅させる」(そんな日本語ないのだけど。ヨーガ・スートラの和訳のせい?)

といった使い方を聞きますが、

それはアハンカーラの意味の理解が正しく出来ていない例です。

今日は、「アハンカーラ」という言葉の意味をはっきりすることに努めてみましょう。


アハンカーラの語源から定義を探る


それによって「これが私」という考え・結論が出来る。

それがアハンカーラ。

「私 = アハム(अहम् [aham])」に、

「~を作る道具」という意味の「カーラ(कार [kāra] )」をつけて、

「アハンカーラ(अहङ्कार [ahaṅkāra]」の出来上がりです。

文法の好きな方へ: अहम् + कृ + घञ् (करणे)
अहम् इति ज्ञानं क्रियते अनेन । [aham iti jñānaṃ kriyate anena]

道具、つまりツールという意味と、

さらに、その道具によって行き着いた結果・結論も指します。


マインドは大事な「道具」


アハンカーラだけでなく、マインドと呼ばれる思考機能全てをまとめて、

「アンタッカラナ(अन्तःकरणम्)[antaḥkaraṇam]」と呼ばれます。

文字通り訳せば「(身体の)内側の道具」という意味なのです。


感情や記憶などが混在している、心・マインド・思考能力というものは、

私が何かを達成する為の、大事な道具であり手段です。

マインドというツールをうまく使いこなせば、なんでもうまく行きます。

逆に、それがうまく使いこなせていないと、うまく行きません。


マインドはツール、スプーンと同じ!

マインドとは基本的に駄々っ子で一生直りませんが、

そういうもんだと知って、うまく仲良く楽しく、人生の目標達成を手伝ってもらい、

行く手の邪魔をさせないように、きっぱりと、そして優しく付き合ってあげるのが、

自分のマインドというものです。




アハンカーラの機能的な側面


人間の脳内機能には、記憶力や思考力など様々な機能があります。

それらを総称して、前出の「アンタッカラナ(内側の道具)」と呼びます。

その中の一つで、「私は~だ」「私が~をする」と言うときの、

「私」と「~」の間を、イコールでつなぐ役目をしているのがアハンカーラです。

アハンカーラが機能していないと、私は食べているのか、走っているのか、

それともあなたが食べているのかもよく分からない。といった、大変なことになります。

記憶喪失になった人が「ここはどこ?私は誰?」と問うのも、

「私」=「~」の方程式の、失われた「~」の記憶が見つからず、

アハンカーラが方程式を成立出来なくて焦っている現われでしょう。

私達は決して、アハンカーラを捨てたり止滅したりすることを目的としません。


では、何を目的としているのか?

バガヴァッド・ギーターでは、アハンカーラという言葉が何回も出てきます。

何故でしょうか?私たちに何を伝えようとしてるのでしょうか?


「私」は本質的に誰なのか?


「私は~」の「~」に入るのは、「日本人」「女性」「会社員」「既婚」

「母」「この仕事に取り掛かる」「疲れた」「怒っている」「楽しい」など、

自分を個人たらしめている、身体や心の属性や役割です。

私がこれらの全てであるとしたら、それはつまり同時に、

私はこれら全てではないのです。

「赤色の壷」「青色の壷」「緑色の壷」、、と無数の色と形の壷があるとき、

「では壷という物は赤色のものなのです」とは言えません。

青でも緑でも同じことです。



私は、日本人でも何人でも、女性でも何の性でもなく、

過去の自分でも未来の自分でもなく、

これら全ての役割や属性から自由な、

今ここに居る、意識的な存在です。


よく考えてみてください。

私の人生の問題は全て、身体や心の属性や役割に関するものです。

しかし、私の本質は、それら全ての属性や役割から自由なのです。

ここからは、伝統的なヴェーダーンタの教えをゆっくり聞いてもらうしかありません。


私を「個人」たらしめている「全体」、その関係を知る


一方で、「日本人」や「女性」などといった身体と心の属性で自分を認識しない限り、

実社会で生きていくのは無理です。

身体と心の属性が、私を他から切り離された「個人」という存在にしています。

しかし、私の身体と心の属性は、宇宙の属性の一部です。

「宇宙」というと、大気圏外のことだと勘違いしてしまいますが、

いえいえ、あなたの部屋も身体も、心までも、宇宙の構成要素です。

その事実を、「イーシュワラ」や「デーヴァター」という言葉で理解しようとするのが

ヴェーダの教えです。

生理学や解剖学、物理学、天文学、地質学、、などといった、

何でもいいのですが、一般教養レベルの科学によって培われた、

「法則は普遍する」という客観的な世界の理解が、

「イーシュワラ」や「デーヴァター」の理解を助けてくれます。

それが「全体」と「個人」との距離を0にしてくれるのです。


認識の浅はかさを指摘する時の「アハンカーラ」


この認識が浅いとき、

「この素晴らしい仕事は、他の誰でもない、私がやったのだ!」

「私が頑張ってやってるんだよ!認めろ!」

といった、「個人 VS その他」という認識になります。

これが「アハンカーラ」という言葉を使って指摘される、

その人の認識の浅はかさの表れなのです。


解決策は、アハンカーラを捨てることでも止滅させることでもなく、

私という「個人」を作っている、宇宙という「全体」が、

離れた存在ではないと、客観的に知ることです。


私の偉業も、栄光も、全てはデーヴァター達の偉業であり栄光なのです。

その事実を認識出来ている人は、さらにデーヴァター達の偉業を

自分の身体と心を通して表現出来るように委ねることが出来るのです。




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<< 前回 48.デーヴァター(देवता [devatā]) <<

「私と宇宙は別の存在ではない」ことを気付かせてくれる為に、

この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、

名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。



>> 次回 50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])>>

インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。

聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。


2015年3月22日日曜日

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段

वेदः 
[vedaḥ]


masculline - 知る手段




パームリーフ(やしの葉)に書かれたリグ・ヴェーダ

ヴェーダとは


ヴェーダは言葉の集まりから成る知識の集合体です。

ヴェーダという言葉は「विद् [vid] to know(知る)」という動詞の原型から派生した言葉です。

「घञ् [ghañ]」は「~する手段」という意味の接尾語です。

この接尾語は「ア [a]」の音だけが残ります。

[vid] と[a] を併せて「知る+手段」という意味の

「ヴェーダ(वेद [veda])」という言葉が出来上がります。
(文法の式は一番下をご覧下さい)

「知る手段」というからには、ヴェーダを使って何かを知ることが出来ます。

何を知る手段なのでしょうか。



ヴェーダという聖典が人類に伝えようとしていること


ここでは「ヴェーダには4つあって、それぞれの名前は、、」

といったどこにでもある情報は割愛させて頂きます。

なぜかというと、4つあるヴェーダが私達人間に伝えるべき題目は同じだからです。

その題目は何かというと「人間の幸せ」です。

「OOヴェーダは紀元前XX年頃に、、」といった情報は、

伝統の教えでは扱われません。ゆえにここでも扱いません。

それは人間の幸せとは無縁な情報だからです。

ヴェーダとは、聖典であるがゆえに、全人類の幸せに貢献するものでなければなりません。

全人類の幸せに貢献してこそ、聖典と呼ばれるに相応しいのです。


そもそも聖典とは?


聖典とは、全人類の幸せに貢献するからこそ聖典と呼ばれるのです。

一部の人間しか幸せになれないようなことが書いてあったり、

ましてや全人類をも不幸に陥れるようなことが書いてあるのなら、

それは聖典などではなく、不幸の書とでも呼ばれるべきです。


もし、人類に暴力と不安をもたらしている宗教があれば、

その宗教の聖典そのものが聖典と呼ばれる資格が無いということです。

聖典としてのステータスを失いたくなければ、

人間による聖典の教義の解釈が間違っていたと認めて、

解釈の改訂を検討するべきです。

聖典の教義という名の下に暴力を振るっている宗教団体がいたとしたら、

社会全体が、彼らに教義の解釈の見直しを迫る必要があります。


話を戻して、

ヴェーダは、言葉という形の知識


ヴェーダは言葉の集まりから成る知識の集合体であることから、

ヴェーダは言葉を通して、私達の幸せの追求のための智慧を教えてくれるのです。

言葉であるゆえに、言語能力を通して理解されるべき対象がヴェーダの教えです。

感じたり、瞑想中に光を見たり、音を聞いたり、

そんな馬鹿げた経験の対象ではありません。




全人類の幸せに貢献するための知識の集合体、ヴェーダ


ヴェーダは私達人間がより幸せになるための知識を言葉を通して教えてくれます。

しかしヴェーダが無くても、私達は生きてきた経験によって、

それなりに幸せになれる方法を沢山知っています。

私達は、より多く働けばより高い収入を得られる。

より魅力的になればより良いパートナーを得られる。

より身体をいじくれば健康と美容を得られる。

より活動すればより多くの人脈や名声を得られる。

そして、それらが私に幸せをもたらしてくれるだろう、ということを知っています。

自分独りの経験による知識だけでは足りなければ、他人の豊富な経験から学べば良いのです。

これらのような経験によって得られる知識は、

ヴェーダの教える範囲ではありません。

目や耳などの五感を通したデータとそれを基にした推論が、

私達に与えられた「知る手段」です。

それらとは独立した「知る手段」がヴェーダです。

ゆえに、ヴェーダが無くても分かることは、ヴェーダは教えないのです。


ヴェーダが扱う題材の範囲


では、ヴェーダは何を教えてくれるのか?

ヴェーダは、私達の経験や推論によって知ることの出来ない範囲の題材について教えています。

例えば「幸運」とか、それを得る為の「祈り」のこととか。


「幸運」と「祈り」


こう書くと、単なる信仰やおまじないのように聞こえますが、

そんな単純なものではありません。

「幸運」を認識するとは、

「結果を出しているのは私だけでは無い」と

客観的に世界の現象を認識することです。

「祈り」は、私達の認識の範囲を、

「個人の対立からなる小さな社会」から、

「宇宙全体の大きな動き」へと、どんどん広げてくれます。

ゆえに、「幸運」や「祈り」は、盲目的に信仰する為のものではなく、

世界の客観的な理解とその認識を助けてくれる便利なツールなのです。

私の住んでいるアシュラムでのお正月プージャー(祈りの儀式)にて

信じさせるのではなく、考え、理解させる聖典


ヴェーダは、人々の多岐にわたる無数の欲求に応えて、

「幸運」や「祈り」についてもこと細かく説明します。

カルマの法則をいうモデルを使って宇宙世界を説明し、

そして宇宙世界とうまく関わる為の生活様式や祈りの儀式を教えます。

カルマの法則とは、簡単にいうと行動と結果の連鎖の法則です。

その理解のために、

デーヴァター(物理や生理などの法則を神格化して説明したヴェーダの神々)や

アドリシュタ(運。結果に関わる予想困難な要素)といったコンセプトが使われます。

「幸運」や「祈り」といった鍵を使って、より多くの物質的・心理的な満足を得ながら、

さらに人間としての精神的な成長も手伝ってくれるのが、ヴェーダの教える生き方です。

「幸運」に気付き感謝し、「祈り」のある生き方は

「自分と宇宙はひとつ」という認識をより確かにしてくれるのです。


消費者から、貢献者へ


私達は生まれつき消費者です。

他の動植物の命を奪わなければ、生きていくことも出来ません。

母親から始まって、幾多の人の慈悲と優しさに頼って生きています。

他の聖典では「地球上の動植物は人間の消費の為に与えられている」と教えられていますが、

ヴェーダは「人間は、貢献者として成長する為に生まれてきた」と教えます。

私達には創意工夫の出来る器用な手先や、

人の痛みを感じ、理論的かつ倫理的に考えられる脳みそが与えられています。

人間は、自由意志をうまく使えば、

ただ地球上にあるものを消費してエンジョイするだけの生き物以上の存在になりえるのです。

ヴェーダは、人間のそれぞれの世代にあわせて、学生や社会人としての義務を与え、

義務を果たすことによって、自然と貢献者として成長出来るような生活規範を教えています。

ヴェーダは人間の幸せの為に与えられた知識です。

人間的な幸せとは、消費ではなく、貢献なのです。


ヴェーダの最後の部分にある教え


こうして人類により豊かに、貢献者として成長する手段を教えた後、

ヴェーダが最終的に教えることは「私」の意味です。

なぜなら「私」のことは、私だけでは知りえないからです。


= サンスクリット文法 =

विद् + घञ् 3.3.131 हलश्च । ~ घञ् करनाधिकरणयोश्च
= विद् +अ   1.3.3 हलन्त्यम् । 1.3.8 लशक्वतद्धिते । 1.3.9 तस्य लोपः।
= वेद् +अ 7.3.84 सार्वधातुकार्धधातुकयोः । गुणः
= वेद
विद्यते अनेन इति वेदः । शब्दप्रमाणम्


51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])

「探求者 ≠ 探求しているもの」
これが全ての間違いのもとなのです。

<<前回 49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ])<<

それによって「これが私」という考え・結論が出来る。

それがアハンカーラ。


<< 前回の言葉 48.デーヴァター(देवता [devatā]) <<


「私と宇宙は別の存在ではない」ことを気付かせてくれる為に、

この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、

名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。

2015年3月20日金曜日

48.デーヴァター(देवता [devatā])- 法則を司る神

देवता 
[devatā]


feminine - 法則を司る神




デーヴァーターとは


この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、

名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。

この宇宙全体と、その中にあるこの小さな私の心と体を、

どちらにも普遍にあるデーヴァターという側面から理解することは、

心と身体を健康に、客観的に、そして幸せに成長させる為に必要なことです。


宇宙にあまねく存在し、宇宙をミクロにマクロに動かしているデーヴァター達が、

あなたから距離0(ゼロ)の存在なのですよ、と知る為の仕掛けが、

ヴェーダの教える生活様式の中に、沢山ちりばめられているのです。


デーヴァターの語源


光ると言う意味の「ディヴ(दिव् [div])」という動詞の原型から成っています。

この世の者ではない、という意味と、光というと意識の光という意味があります。


デーヴァーターはどこにいる?


インドの伝統的な祈りには、デーヴァター達が沢山登場します。

今回紹介するのは、ルッドラというとても有名なシヴァのマントラを唱える前に、

その準備として、心身を清める為に唱えられる「ラグンニャーサ」という章です

清めるとは、自分の身体は祈りをするテンプル(神殿)なので、

各部位にデーヴァターを見て、神聖なものであると認識するということです。

下は「ラグンニャーサ」の中盤です。一緒に見てみましょう。


1:17から聞き始めてください。
書き落としのローマ字表記には間違いが多く見つかりますが、
ダクシナームールティの写真があるので、これを使いました。

प्रजनने ब्रह्मा तिष्ठतु । [prajanane brahmā tiṣṭhatu]
私の生殖器官に、ブランマー(創造を司るデーヴァター)がありますように。

バガヴァーンは、赤ちゃんを空からポトンと落として世に送ったりしません。

父親と母親を通して、さらに母親の痛み、献身、愛と喜びをセットにして、

新しい人間の身体をこの世に送り出します。

プージャスワミジがいつも言う、「親とはバガヴァーンのアソシエイト」のことです。

この仕組みの一環のシステムを総称して、創造のデーヴァター、ブランマーと呼ぶのです。

そのデーヴァターが、私のこの身体に存在している。

デーヴァターとあなたの距離が無いことを、知って欲しいのです。


पादयोर्विष्णुस्तिष्ठतु । [pādayorviṣṇustiṣṭhatu]
私の両足に、ヴィシュヌ(継続を司るデーヴァター)がありますように。

タットヴァボーダにもあるように、足のデーヴァターはヴィシュヌと決まっているみたいです。

हस्तयोर्हरस्तिष्ठतु । [hastayorharastiṣṭhatu]
私の両手に、ハラ(シヴァの別名)がありますように。

ハラとは、「持ち去る」という動詞の原型から来ています。

बाह्वोरिन्द्रस्तिष्ठन्तु । [bāhvorindrastiṣṭhantu]
私の両腕に、インドラ(力強さを司るデーヴァター)がありますように。

जठरेऽग्निस्तिष्ठतु । [jaṭhare'gnistiṣṭhatu]
私の消化器官に、アグニ(火、消化を司るデーヴァター)がありますように。

हृदये शिवस्तिष्ठतु । [hṛdaye śivastiṣṭhatu]
私の心臓に、シヴァ(吉兆という意味)がありますように。

कण्ठे वसवस्तिष्ठन्तु । [kaṇṭhe vasavastiṣṭhantu]
私の喉に、8人のヴァス神たち(元素、要素のデーヴァター)がありますように。

वद्त्रे सरस्वती तिष्ठतु । [vadtre sarasvatī tiṣṭhatu]
私の口に、サラッスヴァティー(言語、知恵を司るデーヴァター)がありますように。

नासिकयोर्वायुस्तिष्ठतु । [nāsikayorvāyustiṣṭhatu]
私の両鼻に、ヴァーユ(風、空気、動きを司るデーヴァター)がありますように。

नयनयोश्चन्द्रादित्यौ तिष्ठेताम् । []
私の両目に、チャンドラ(月)とアーディッティヤ(太陽)
(視覚を司るデーヴァター)がありますように。

कर्णयोरश्विनौ तिष्ठेताम् । [karṇayoraśvinau tiṣṭhetām]
私の両耳に、アシュヴィン(双子の医療を司るデーヴァター)がありますように。

ललाटे रुद्रास्तिष्ठन्तु । [lalāṭe rudrāstiṣṭhantu]
私の額に、ルッドラ(怒りのデーヴァター)がありますように。

मूर्ध्न्यादित्यास्तिष्ठन्तु । [mūrdhnyādityāstiṣṭhantu]
私のつむじに、12のアーディッティヤ(知性の光のデーヴァター)がありますように。

शिरसि महादेवस्तिष्ठतु । [śirasi mahādevastiṣṭhatu]
私の頭に、マハーデーヴァ(デーヴァターを司るデーヴァター)がありますように。

शिखायां वामदेवस्तिष्ठतु । [śikhāyāṃ vāmadevastiṣṭhatu]
私のシカーに、ヴァーマデーヴァ(シヴァの姿の一つ)がありますように。

シカーとはですね、別名チョティです。こんな感じです。
シカー、もしくはチョティと呼ばれる、一束の毛髪。
ヒンドゥーの男子に義務付けられている。
でも現代インド人はそんなこと恥ずかしいことだと現代社会から教えられている。かっこいいのにね。
私の教え子のちびっ子達のシカーが見えますか?
あんまりいい写真が無くて、、
もう地球上に3つしか残っていないサーマヴェーダの小さなグループの将来を担う子達です。

पृष्ठे पिनाकी तिष्ठतु । [pṛṣṭhe pinākī tiṣṭhatu]
私の背後に、ピーナーキー(ピナーカという名の弓を持つシヴァの化身)がありますように。

पुरतः शूली तिष्ठतु । [purataḥ śūlī tiṣṭhatu]
私の前に、シューリー(剣をもつ、スブラマンニャ)がありますように。

पार्श्वयोः शिवाशङ्करौ तिष्ठेताम् । [pārśvayoḥ śivāśaṅkarau tiṣṭhetām]
私の両脇に、シヴァーとシャンカラ(シヴァ夫婦)がありますように。

सर्वतो वायुस्तिष्ठतु । [sarvato vāyustiṣṭhatu]
私の周りに、ヴァーユ(風と空気を司るデーヴァター)がありますように。

ततो बहिः सर्वतोऽग्निर्ज्वालामालापरिवृतस्तिष्ठतु । [tato bahiḥ sarvato'gnirjvālāmālāparivṛtastiṣṭhatu]
そしてその周りを、アグニ(火のデーヴァター )が、火の鎖で囲んでくれますように。

सर्वेष्वङ्गेषु सर्वा देवता यथास्थानं तिष्ठन्तु । [sarveṣvaṅgeṣu sarvā devatā yathāsthānaṃ tiṣṭhantu ]
私の体の全ての部位において、全てのデーヴァターが、あるべきところにありますように。

「ヤタースターナン(あるべきように)・ティシュタントゥ(ありますように)」は、
とても使える祈りです。

मां रक्षन्तु । [māṃ rakṣantu]
(全てのデーヴァター達が)私を守り、恩恵を与えてますように。

सर्वान् महान् जनान् रक्षन्तु ॥ [sarvān mahān janān rakṣantu]
そして全ての高貴な人間を守り、恩恵を与えますように。




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<<前回 47.マウナ、モウナ(मौनम् [maunam])<<

沈黙、言葉を制御するという意味の単語です。









>> 次回 50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])>>

インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。

聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。

2015年3月18日水曜日

47.マウナ、モウナ(मौनम् [maunam])- 沈黙、言葉の制御

मौनम्
[maunam]


neuter - 沈黙、言葉の制御




私の住んでいるアシュラムの敷地内にある
伝統的儀式の習慣を守り続ける、とても強力な寺院で祀られている
シヴァの先生という形、メーダー・ダクシナームールティ

マウナの語源


「ムニ(मुनिः [muniḥ] )」とは、聖人・賢者を表すサンスクリット語です。

聖人・賢者(ムニ)の在り方を、マウナと言います。

मुनेः भवः मौनम् [muneḥ bhavaḥ maunam]

最初の「ム」の音に「ヴリッディ」と呼ばれる母音の変化が起きて「マウ」となり、

「ニ」の最後の「イ」の音が「ア」になって、「マウナ」となります。

中性名詞なので、活用すると、「マウナム(मौनम् [maunam])」となります。

発音によっては「モウナ」と書かれる時もあります。



聖人・賢者って誰?どんな人?


マウナをしている人です!


マウナとは?


言葉を制御することです。


バガヴァッド・ギーター12章で教えられている聖人・賢者の在り方として、

「マウニー」(ヨーガ→ヨーギー と同じ原理で、マウナ→マウニー です。)

つまり、「モウナを実践している人」と教えられています。

シャンカラーチャーリヤは聖人・賢者の在り方である「マウニー」について、

こう解説しています。

「マウナをしているひと、言葉が制御されている人」
(मौनवान् संयतवाक् [maunavān saṃyatavāk])



ぜひトライしてみたい、効果的な「マウナ」


一般に言われるマウナは、言葉を発せずにただ静かに沈黙していることです。

例えば一日のうちの決まった時間や、一週間のうちの決まった曜日などに、

誰とも話さずに無言で過ごす習慣はとても良いことです。

プージャスワミジも、生徒にいつも勧めています。

話さないと決めると、時間がいっぱいあることに気付きます。

実際に話す時間だけではなく、話し相手と話す環境を整える時間、

何を言ってやろうかとか、何であんなこと言ったんだろうとか、

ちゃんと伝わったのかな?と、過去未来へ思いを馳せながら、

とてつもなく多いメンタルな時間を、私達はお喋りに費やしていることに気付きます。

その時間をごっそり全部、自分自身と一緒に過ごせるのです。

これは贅沢な時間です。

しかも、話し相手の時間も無駄にしなくて済むので、これは立派な社会貢献です。



インドでは、何年と言う単位でマウナをしている人がいますが、

そういうのを許してくれるインド社会はもっとすごいですですね。


マウナの最上級形


最上級のマウナは、聞き手の為になる事だけを話すことです。

最小の文章、最小の単語で、要点が伝わるように話す。

聞き手の役に立つ、真実で、しかも気分を害しない優しい言葉で話す。

これに気をつけるだけでも、大きな変化が生まれます。


言葉だけではなく、マインドも洗練される


人間としての成長を促す有効な手段として、「タパス(規律)」があります。

バガヴァッド・ギーター17章では、タパスの種類がいくつか教えられており、

その中に「モウナ」があります。

シャンカラーチャーリヤはモウナのことをこう解説しています。

「マウナとは、言葉の制御であるが、考えの制御が先立つことから、

結果を指す言葉を使って、原因を指し示すとして、

マウナとはここでは、考えの制御と取る。」

मौनं वाक्-संयमः अपि मनःसंयमपूर्वकः इति कार्येण् अकारणम् उच्यते मनःसंयमः मौनम् इति (१७.१६)


聞き手に役立つことだけを話せたらいいですが、

やっぱり「ちょっと聞いて欲しい!」と思うことも日々多々あります。

やせ我慢をするのは良くないですが、

こういう「話さないと気が済まない」というプレッシャーから自由になることが、

人間の成長なんだな、と知っておくのはいいことです。


自分への癒し - 愚痴る人への共感者になる


心を開くことの出来る人がいて、その人に自分の話を聞いてもらったり、

そして共感してもらうことは、大事な癒しのステップです。

自分が聞いてもらう立場にあるより、自分が聞いてあげる立場にある方が、

より確実で、より強力な癒しのステップになります。

人が愚痴り始めたら、ボランティアと思って積極的に聞き役に回ってあげましょう。

よっぽど頼まれない限りアドヴァイスをするのは極力避けて、

とにかく聞いて、共感して、一緒に怒ったり悲しんだりするだけでいいのです。

でもそれ悪いのどっちかな?と思うような時でも、とりあえず、

「ムカつく気持ちは分かる!」と誰かに共感してもらえて始めて、

「まぁ、私も悪かったかも知れないけど」と考えられるみたいです。人間という者は。

人の愚痴を積極的に聞いているうちに、自分も愚痴り方のツボが分かってきて、

最小時間で最大の癒しの効果が得られるような、効率的に愚痴れるようになります。

愚痴をこぼすのは、時間の無駄と言えば無駄ですが、

うまく使えば、とても良い相互の癒しが期待できます。


話を戻して。

見習いたい、賢人の言葉の使い方


ヴェーダーンタと文法に関するサンスクリットの文献を毎日読んでいますが、

賞賛すべきは、解説書の著者達が、一語のみならず、一音節すらも無駄に使わないことです。

「聖典ヴェーダの言葉は全て、何かしら人間の役に立つ意味があるはず」

という前提において研究が進められていることから、

研究者達も、「聞き手の役に立たないなら、半音節すら使うべきではない」

という姿勢が貫かれています。

ゆえに、原典でも、解説書でも、その一言一句ついて、

「なぜこの言葉が使われたのか、この言葉が無かったらどうなっていたか?」

という検証をするのです。

言葉の単位、文章の単位、パラグラフの単位、章の単位、そして本の単位で、

それぞれ、その存在価値を証明しなければならない、という世界です。

その姿勢を表す最高峰が、パーニニ・スートラです。

最小音節を追求して、完全にメタ言語(人工言語)になっています。

スートラと呼ばれるに相応しい文章のあり方として、6つの条件があります。

1.最小最短であること
2.曖昧さがないこと
3.意味があること
4.汎用性があること
5.感嘆詞を入れないこと
6.間違いがないこと

これは、私達が言葉を発する時にも参考にしたいですね。


比べ物には到底成り得ませんが、現代の日本の書籍やインターネットが、

いかに無意味な言葉で溢れているのか、思い知らされますね。


沈黙の教えとは


冒頭に使用したのは、ダクシナームールティの姿です。

描かれた姿の中のひとつひとつのアイテムに、それぞれ深い意味が込められています。
それは、また後の機会に説明しますね

ダクシナームールティは「ヴェーダーンタを沈黙で教えた」と

シャンカラーチャーリヤが彼の詩で表しています。

いつもマウナだった、ラマナ・マハルシについても同じ事が言われています。

ティルヴァンナーマライでは、だから文献の勉強なんてしな~い、になっています。

自分を知るには自分に「私は誰?」と瞑想の中で問いかければいい。

そしたらいつか、瞑想の中でアーナンダを体験出来る、、、というのが彼らの夢です。


無知を直せるのは知識だけ


私達は自分自身のことを、この身体だ、この心だ、この名前だ、等など、

無数の勘違いを持って生まれ、勘違いを深め、増殖しながら生きています。

間違いを正すのは、間違いのある場所でしかありません。


自分の部屋で指輪を無くしたのに、「部屋は探し物をするには暗すぎるから」

といって、明るい屋外に出て指輪を探し続けているのと同じです。


自分に対して持っている結論が間違っているのだから、

その結論のある場所、つまり「私は~だ」という間違いの言葉を、

言葉を使って正すのです。


「沈黙の教え」の本当の意味


じゃあ、私は何なのだ?という答えが「沈黙の教え」です。

「沈黙の教え」とは、その言葉が直接表す意味ではなく、

言葉の意味を理解している主体を指しているのです。

言葉の反対側、つまり無言の側。

言葉とその理解者は向こう岸にあり、私は対岸でそれを無言で傍観している。

つまり言葉とその意味を対象化し続けている、永遠の主体。

言葉が直接指し示すことの出来ない存在。

それは、今ここで、「読んでいる私」を対象化している、意識的存在の、

私のことなのです。


ネオ・ヴェーダーンタの行き詰まり


しかし、ここまで分かったとしても、

イーシュワラ(全体)の意味を理解していなければ、

その人の幸せには全く貢献出来ません。

「あなたは意識的存在だ」なんて、赤ちゃんでも知っています。

知るべきは「あなたはこの宇宙に存在を与えている、

あらゆる制限も無い、ブランマンなのだ」の知識なのです。

ゆえに、伝統的な教えを知る先生と文献が必要なのです。





<< 前回 46.サマーディ(समाधिः [samādhiḥ]) <<

瞑想で鍛えたそのマインドで何するの?
サマーディは手段であって、ゴールではありません。


>> 次回 48.デーヴァター(देवता [devatā])>>

物理の法則、化学の法則、生理学の法則、心理学の法則、、

自分の心身を含めた、宇宙全体にあまねく法則を認識するための言葉です。




2015年3月17日火曜日

サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順)

私がブログで解説を書いている

サンスクリット語の単語の一覧表です。


おめでとうございます。
どのようなきっかけであれ、この知識に行き着くということは、
始まりの無い過去から今までに貯めてきた多大な幸運が実ったということです。

タイトルにもあるように、一日一語ぐらい、もしくは一週間に一語ぐらいのペースで、
ゆっくり意味を味わってもらうことをお勧めします。
この知識が、欲する全ての人に届きますように。

Medha Michikaの著書の一覧はこちら

ア行

4. アーカーシャ(आकाशः [ākāśaḥ]) - 空間、空、スペース (五大元素の一つ) 
75.アーサナ(आसनम् [āsanam]) - 座法、座布団
3.アートマン(आत्मा [ātmā]) - 自分自身
82.アーナンダ(आनन्दः [ānandaḥ]) - 幸福、あらゆる制限から自由であること
19.アウシャディ(औषधिः - [auṣadhiḥ]) - 植物、薬、ハーブ、食物
20.アウシュニャ(औष्ण्यम् [auṣṇyam]) - 熱、暑さ
アグニ(अग्निः [agniḥ])  - 火、パンチャマハーブータ(五大元素)の一つ
2.アジャ(अजः [ajaḥ]) - 出生の無いもの(ブランマン)
1.アタ(अथ [atha]) - まず初めに、そして
アダルマ(अधर्मः [adharmaḥ])  - ダルマとは別の行動
アドリシュタ・パラ(अदृष्टफलम् [adṛṣṭaphalam])  - 見えない結果
49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ]) - 「これが私」という考え・結論
44.アヒムサー(अहिंसा [ahiṃsā]) - 非暴力
59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam]) - 不死、時間の範囲でないもの

(予定)アドヴァイタ

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数々のサンスクリットの祈りの詩節(シュローカ)の中から、
日本の読者に向けて選び集め、
サンスクリット語の原文からの日本語訳と解説を付けました。



音源のダウンロードはこちらから。

音声付きのKindle版もあります。


従来の混乱した認識・手垢のついた陳腐な専門用語は意識して使用せず、
読者に腑に落ちて理解してもらうための簡潔・適格な日本語に訳すように努めました。
インド悠久の智慧の言葉は、単に気分を良くするためにあるのではなく、
自分の存在の意味として、理解するためにあるからです。



7.イーシャ(ईशः [īśaḥ]) - 統治者
8.イーシュワラ(ईश्वरः [īśvaraḥ]) - 統治する者、権力者、神、宇宙の現象の全て
5.イダム(इदम् [idam]) - これ、この
6.イハ(इह [iha]) - ここ、この場所、これにおいて

9. ウダカ(उदकम् [udakam])  - 水
10.ウマー(उमा [umā])  - ウマー(パールヴァティの別称)
ヴァーユ(वायुः [vāyuḥ]) - 風、パンチャマハーブータ(五大元素)の一つ
50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])  - 聖典、知る手段


(予定)ウパニシャッド
(予定)ヴェーダーンタ
(予定)ヴィシュヌ

エーカーダシー(एकादशी [ekādaśī]) - 新月と満月から11日目の断食の日
14.エーシャハ(एषः [eṣaḥ]) - これ
13.エーヴァ(एव [eva]) - ~だけ、~のみ

16.オーシュタ(ओष्ठः [oṣṭhaḥ] )  - くちびる
15.オーム(ओम् [om]) - 全て(ブランマン)の音のシンボル


カ行

23.カーカ(काकः [kākaḥ]) - カラス
24.カーラ(कालः [kālaḥ]) - 時間
67.カーリー(काली [kālī]) ナヴァ・ラートリー・スペシャル 女神の名前シリーズ:1
39.カイラーサ(कैलासः [kailāsaḥ]) - マウント・カイラーシュ、カイラーサ山
40.カイヴァッリャ(कैवल्यम् [kaivalyam]) - 唯一であること、モークシャ、人生のゴール
41.カウムディー(कौमुदी [kaumudī] ) - 月明かり、月光、さわやかな冷たい月からの光
42.カウラヴァ(कौरवः [kauravaḥ] ) - クル家の子孫
21.カター(कथा [kathā])  - お話、特にラーマーヤナやバーガヴァタなどの、歴史や教訓を含んだ伝統的な話
22.カマラ(कमलम् [kamalam] ) - 蓮
64.カルマ(कर्म [karma])  - 自由意志を使って選んで行う行為

ガーヤットリー・マントラ


ガネーシャへのお祈りのシュローカ  
27.キータ(कीटः [kīṭaḥ]) - (這う)虫
28.キールティ(कीर्तिः [kīrtiḥ]) - 名声、有名であること
25.キム(किम् [kim]) - 何
26.キラナ(किरणः [kiraṇaḥ]) - 光線、太陽から注す光の筋

31.クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ]) - 不動の、不変の
32.クーパ(कूपः [kūpaḥ]) - 井戸
29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ]) - 幼年期の男子、シヴァとパールヴァティーの息子
30.クラ(कुलम् [kulam]) - 家、家庭、家系
34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ]) - クリシュナ
33.クリパー(कृपा [kṛpā]) -  思いやり、優しさ、深い共感
60.グル(गुरुः [guruḥ]) - (自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星

35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ]) -  クリシュナ
36.ケーヴァラ(केवल [kevala]) - 唯一の、ただそれだけ

37.コーシャ(कोशः [kośaḥ]) - (剣や刀を収める)鞘(さや)、被覆するもの
38.コーティ(कोटिः [koṭiḥ]) - 数え切れない位の大きな数字

 


 祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば

 ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持たれたて来た方が、
 まず一番に習うプレーヤー(祈りの句)を、学び易いレイアウトで
 まとめました。

 さらに、「祈りって何?」「誰に祈るの?」
「神様を信じる必要はある?」といった、
 祈りの疑問に関しても、現代人の腑にすっきり落ちるよう、
 全て理論的に答えています。




サ行


51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ]) - 達成する者
54.サットサンガ(सत्सङ्गः [satsaṅgaḥ]) - 善い人との繋がり、集まり
46.サマーディ(समाधिः [samādhiḥ]) -  集中、心が一つになっていること
63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ]) - 別の自分になろうとすること
サラッスヴァティー(सरस्वती [sarasvatī]) - 知恵・芸術の女神
70.サラッスヴァティー(सरस्वती [sarasvatī])  - 知恵・芸術の女神
サンカルパ(सङ्कल्पः [saṅkalpaḥ]) - 心に決めること 
76.サンスクリット(संस्कृतम् [saṃskṛtam]) - ヴェーダの言語 
78.サンヴァーダ(संवादः [saṃvādaḥ]) - 対話、ダイアローグ 

77.シッダールタ (सिद्धार्थः [siddhārthaḥ]) 
45.シャーンティ(शान्तिः [śāntiḥ]) - 平安、平穏、鎮静、衝突の無い状態
57.シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ])  - 吉兆をもたらす者、シヴァの名称のひとつ
58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ]) - シャンカラという名前の先生
スーリャ・ナマスカーラの意味とマントラの説明

(予定)サードゥ
(予定)シヴァ
(予定)ジャパ

71.73.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam]) -  意味発音


タ行

79.ダーナ(दानम् [dānam]) - 与えること
ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) - その時その場所で自分が取るべき行動
65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) - 世界のあり方を支えている法則
80.ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ]) - 医学・薬学の原理、ヴィシュヌの姿のひとつ
68.ドゥルガー(दुर्गा [durgā]) - 破壊の女神、理解され難いもの
ドリシュタ・パラ(दृष्टफलम् [dṛṣṭaphalam]) - 見える結果
48.デーヴァター(देवता [devatā])  - 法則を司る神
(予定)ダクシナームールティ
(予定)デーヴァ
(予定)トゥリーヤ
72.トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī])- 主体・客体・その手段といった、3つ組 

ナ行

43.ナマステー(नमस्ते [namaste]) - あなたに尊敬を持って認識しています
66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam]) - 永遠、時間の範囲内でないこと

ハ行

「ハリオ~ム」は「ハリヒ・オーム」
61.ハリ(हरिः [hariḥ]) - 苦しみを取り去る者
パーパ(पापम् [pāpam]) - 不適切な行為の結果、不快な経験の原因
パンチャ・マハーブータ 五大元素
56.バクタ(भक्तः [bhaktaḥ])  - バクティを持っている人
55.バクティ(भक्तिः [bhaktiḥ]) - 深く関わること、献身的に努めること
プージャー (पूजा [pūjā]) - イーシュワラとの関わりを認識する為の儀式
53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam]) - 知る為の手段
プリティヴィー(पृथिवी [pṛthivī]) - 地、パンチャマハーブータ(五大元素)の一つ
プンニャ(पुण्यम् [puṇyam]) - 善い行いの結果、快適な経験を与えてくれる

ホーマ (होमः [homaḥ]ヴェーダで教えられている火の儀式

(予定)バガヴァーン
(予定)ブランマン

マ行

47.マウナ(मौनम् [maunam]) - 沈黙、言葉の制御
83.マハートマー(महात्मा [mahātmā]) -  聖人、寛大な心を持った人
52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ]) - マントラ、ヴェーダの言葉
62.メーダー(मेधा [medhā]) - 知性、知力、知の女神


ヤ行

「ヨガ」は「ヨーガ」、「ヨギ」は「ヨーギー」、「ヨギーニ」は「ヨーギニー」
(予定)ヨーガ

ラ行

ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ]) - 富の女神
69.ラクシュミー(लक्ष्मीः [lakṣmīḥ]) - 富の女神
12.リク(リグ)(ऋक् [ṛk] ) - マントラ、韻文
11.ルタ(ऋतम् [r̥tam]) - 真実


サンスクリット語の数字
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味:

1.阿吽(あうん)、阿伽/閼伽(あか)、阿闍梨(あじゃり)、阿修羅(あしゅら)
2.阿僧祗(あそうぎ)、尼(あま)、阿羅漢(あらかん)、刹那(せつな)、僧伽(さんが)
3.不動明王(ふどうみょうおう)
4.護摩(ごま) 閻魔(えんま)
5.禅(ぜん) 檀那・旦那(だんな) 南無(なむ) 








サンスクリットの表記文字を勉強するのにも、
良い学習教材が無い!
と常日頃思っていたので、自分で作りました。



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 祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば

 ヴェーダーンタやサンスクリット語に興味を持たれたて来た方が、
 まず一番に習うプレーヤー(祈りの句)を、学び易いレイアウトで
 まとめました。

 さらに、「祈りって何?」「誰に祈るの?」
「神様を信じる必要はある?」といった、
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サンスクリット語やヴェーダーンタを、より多くの人に、
わかりやすく説明した本を多数発行しています。

2015年3月15日日曜日

46.サマーディ(समाधिः [samādhiḥ])- 集中、心が一つになっていること

2016年6月5日: ヨーガ・スートラとヴェーダーンタの線引きを明確にするために、大きく加筆・修正しました。

समाधिः 
[samādhiḥ]

feminine. 集中、心が一つになっていること


サマーディの語源


「サム(सम् [sam])」と「アー(आ [ā])」という2つの接頭語が、

動詞の原型「ダー(धा [dhā])」と一緒になると、

「集中する」という意味になります。

そこに、前回見た「ティ(ति [ti])」という接尾語を足すと、

「サマーディ(समाधिः [samādhiḥ])」という形が出来て、

「集中力、集中した心」といった意味の女性名詞になります。


一般で使われる意味でのサマーディ


心がひとつであることは、サンスクリット語では、

チッタ・エーカーグラター(चित्तैकाग्रता [cittaikāgratā])と言います。

つまり、心が集中している状態。

心のある特定の状態です。

これは、何をするにも必要なことです。

この集中した心の状態を作るのに特化した手法が、

パタンジャリのヨーガ・スートラで教えられています。

集中力を養うための手法は、他にも数多くあります。

パタンジャリのヨーガ(集中力養成法)は、

数多くある手法の中の、ひとつに過ぎない、


ということも、(ヴェーダーンタを勉強する人なら特に)、

しっかり知っておく必要があります。

 

ヴェーダーンタでの位置づけ


ヴェーダーンタを勉強するための資格として、

サーダナ・チャトシュタヤという「4つの資格」があます。

その中のひとつの、「6つの資質」のひとつに、

サマーディと同義のサマーダーナがあります。

しかしこれは、一般的な意味のサマーディです。

ヨーガ・スートラの教えるサマーディを指しているのではありません。

ヨーガ・スートラで教えられているサマーディの経験は、

ヴェーダーンタを勉強するために必要ではないのです。

むしろ、道から外れて遠回りをしているとも言えます。

道から外れて、というのは、心の状態を追いかけるのは、

優先順位の混乱を表しているからです。


 

ヨーガ・スートラのサマーディ



ヴェーダーンタの教えるサマーディと、

ヨーガ・スートラの教えるサマーディは、

根本的に違うものです


ヴェーダーンタの教えるサマーディと、

ヨーガ・スートラの教えるサマーディは、

根本的に違うものです。


この根本で混乱があると、そこから派生する混乱は、、、

計り知れません。


最近気づいたのですが、日本では、

ヨーガ・スートラで教えられているパタンジャリのヨーガと、

ヴェーダーンタがごっちゃになっているようです。


これらは全く違うもので、重なり合う部分もありません。


ヨーガ・スートラへの思い入れが強い人が多く、

ヨーガ・スートラの理解を深める為に

ヴェーダーンタを聞いている人も少なくないかもしれませんが、


それは間違いです


ヨーガ・スートラが教えるサマーディは、

心のある特定状態を指す、経験のひとつです。

ヤマ・ニヤマなどの規律の全ては、サマーディの為にあります。

アシュターンガ・ヨーガと言われるは、

ヤマ・ニヤマなどの規律の全ては、サマーディの為にあります。

アシュターンガ・ヨーガと言われるは、

1.ヤマ、2.ニヤマ、3.アーサナ、4.プラーナーヤーマ、
5.プラッティヤーハーラ、6.ダーラナ、7.ディヤーナ、
8.サヴィカルパ・サマーディ

までが、アンガ(構成部分)

で、それらは全て、アンギー(構成部分の存在目的)である

ニルヴィカルパ・サマーディの為にあります。

繰り返し言いますが、ニルヴィカルパ・サマーディは、

ヴェーダーンタに必要ではありません。



また、ヤマ・ニヤマなどのある生活を、

ギーターなどが教えているカルマ・ヨーガに

重ねて理解している人も多いかもしれませんが、

パタンジャリのヨーガは、ギーターの教えるヨーガとは

全く別物であり、代替できるものでもありません。



 

ヴェーダーンタの教えるサマーディ


ニルヴィカルパ・サマーディだろうが、気が散って興奮していようが、

全ての経験にある、意識的な存在に関しての知識が、

どのような心理状態にあっても、常に知られている、

ということを指します。

これは完全に知識の話であって、経験ではありません。

何の知識か?は、正しいヴェーダーンタを教える

正しい先生から、しっかり正しく勉強する必要があります。


サマーディとは悟り?解脱?梵我一如?解放?



日本では一般的に、サマーディの意味としてこのような言葉が紹介されていますが、

これはもう、MAXに混乱を極めているとしか言いようがありません。

このような言葉で納得し、満足している人にとっては、、

ここでの説明や、ヴェーダーンタの言葉も、全く意味を為さないはずなので、

今までどおりの道を進んでいただければ良いのですが、

「なんかおかしいんじゃない?」

「気分が良くなっても、思考を止めても、根本的な解決になってないんじゃない?」

と気づいた人、

「もうちょっとちゃんと知りたい。正しいことを正しく知りたい。」

と考えられる人には、正しい教えに出会ってほしいですね。




<< 前の記事 45.シャーンティ(शान्तिः [śāntiḥ])
<<シャーンティはなぜ3回唱えるのか?シャーンティの正しい発音など

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>> 次の記事 47.モウナ(मौनम् [maunam])>>

誰にでも出来るのに、最高の規律と言われる所以を説明しますね。

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