古代ギリシャ語の態は、能動態・受動態・中動態の3つに分類されていたそうですが、
Wikipediaには、「サンスクリットでは中動態が広く使われる」とあるではないですか。
サンスクリットに「能動態でも受動態でもない中動態」なんて無いのに。
サンスクリットの文法体系を2500年前に人工言語(メタ言語)化して保存した、
パーニニ・スートラ(3.4.69)に基づいて説明すると、
「態」を「प्रयोगः [prayogaḥ], Voice」と訳すのなら、
サンスクリットの動詞には3つの態しかありません。
1.能動態 (कर्तरि प्रयोगः, 動詞の活用語尾が行動の主体と呼応している)
2.受動態 (कर्मणि प्रयोगः, 動詞の活用語尾が行動の対象物と呼応している)
3.動詞が主語 (भावे प्रयोगः, 動詞の活用語尾が動詞と呼応している)
能動・受動、というのは一般的なアイディアであるのに対して、
कर्ता(主体)とकर्म(対象物)は、文法的専門用語(पारिभाषिक)であり、
パーニニ・スートラにおいて、明確に定義されています。
कर्ता(主体)とकर्म(対象物)、そしてその他の行動を達成するための要素が、
どのように定義されているか、パーニニ・スートラを通して勉強するだけでも、
この世界のあらゆる現象の客観的な理解を助けてくれます。
さらに、能動態・受動態・動詞が主語の態は、動詞の原型のタイプに依っても決まります。
・ 自動飼 (अकर्मक-धातुः)intransitive
行動(व्यापारः)とその結果(फलम्)の場所が同じ(समानाधिकरणम्)である行為。
能動態と動詞が主語の場合にのみ使われます。
・ 他動詞 (सकर्मक-धातुः)transitive
行動(व्यापारः)とその結果(फलम्)の場所が違う(व्यधिकरणम्)行為。
能動態と受動態の場合にのみ使われます。
では何故に、サンスクリット語にも中動態があると言われるのか?
植民地時代の19世紀前後に書いた文法書には、
Active voice(能動態), Passive voice(受動態), Impersonal voice(動詞が主語)
の3つの上に、さらに、
Middle voice(中間態/中動態)というもう一つの態が、
他の動詞の活用表と並んで、追加されています。
能動態、受動態、というひとつの次元の延長線上に、
その次元には属さない、より多次元から成り立つアイディアを、
「中動態」と、もうひとつのアイテムとして増やしてしまうなんて、
自分達のアイディアに何でも押し込める、 なんとも西欧至上主義的。。
日本の大学などで使われているサンスクリット語の教科書も、
こういった西欧人が書いた文法書に基づいています。
多次元なアイディアは、ひとつひとつが世界の理解を助けてくれるのに、
それを、うわべの形だけを見て、無理矢理一次元に押し込めるから、
「暗記ベースの超難解な科目」になってしまうのじゃないかな。
サンスクリット文法は、理解ベースで楽しく勉強できるのに。。。
私はインドで伝統に沿ったパーニニ文法教授法で教わりましたが、
英語や日本語で書かれたサンスクリットの文法書は、
西洋主義的なものしかなかったので、
だから、私はヴェーダーンタを教えながらでも、
サンスクリットの文法書を書いているのです。
今は全部英語で書いていますが、そのうち日本語でも書きますね。
パーニニ文法の枠組みは、動詞を多元的に分析するツールを与えてくれます。
6つのकारक、3つの動詞のप्रयोग、2種類ある活用語尾、
動詞の原型の2タイプ(सकर्मक, अकर्मक)、3タイプ(P, U, A)、等々、、、
これらの多元的なサンスクリットの文法の枠組みは、
ものごとの本質を見抜く為の、とても便利なツールです。
それらの多元的な枠組みをごっちゃにして、
一元的にしてしまうから、本質が見えにくくなり、
何とも分別の付きにくい、ミステリアス(=明瞭に理解されない、の同義語)
な議論に聞こえてしまうのだろうな、と思います。
では、ここで言う中動態は、どのような場合に見られるのか?
パーニニ文法に沿って説明すると、2種類あります。
まず先に、サンスクリット語の動詞の活用語尾は、
3つの人称と3つの数で9つあり、それが2セット(2種類)ある、
ということを説明しなければなりません。
2種類の動詞の活用語尾(接尾語)
1.Pタイプ(परस्मैपदम्)
2.Aタイプ(आत्मनेपदम्)
受動態・行動が主語の場合の活用は、Aタイプ(आत्मनेपदम्) の接尾語が使われます。
能動態の場合は、動詞の原型の種類、使われ方によって、
Pタイプ(परस्मैपदम्) もしくは、Aタイプ(आत्मनेपदम्) が使われます。
能動態において、Aタイプ(आत्मनेपदम्)の接尾語を使って活用した動詞は、
それを西欧的な考えを当てはめて説明すると、中動態と呼ばれるのです。
1.能動態においてAタイプ(आत्मनेपदम्)の接尾語をとるタイプの
動詞の原型(आत्मनेपदी)を、能動態で表す場合。
2.能動態において両タイプの接尾語をとるタイプの動詞の原型(उभयपदी)を、
行動の結果が主体に向けられている場合(कर्त्रभिप्राये क्रियाफले)、
それを能動態で表す場合。
だからどちらとも能動態なのです。
サンスクリット語に中動態なんてありません。
しかし、中動態がなくても、サンスクリットは、
「する」「される」「させる」「させられる」、何でもいいですが、
あらゆる行動と、意志までも含めた行動に関わるあらゆるものの、
絶対的な存在の無さを教えています。
最終的にそれを教える為にサンスクリットがあると言っても過言ではありません。
नवद्वारे पुरे देही नैव कुर्वन्न कारयन् ॥5.13॥
नैव किञ्चित् करोमीति युक्तो मन्येत तत्त्ववित् ।
पश्यन्शृन्वन्स्पृशञ्जिघ्रन्नश्नन्गच्छन्स्वपञ्श्वसन् ॥5.8॥
中動態って?
説明を読む限り、フランス語とかの再帰動詞の原型のような感じがしますが、
サンスクリット語には再帰動詞も無いですね。至ってシンプルです。
しかし、言語を比較しているだけでも、「する」「される」「させる」「させられる」って、
そんなにはっきり対立したアイディアでは無いということは、浮かび上がって来るものです。
「生まれる」は日本語とサンスクリット語では、能動態ですが、英語では受動態だし、
「興味を持つ」のも、日本語では能動態だけど、英語では受動態。
こういうのは、中学校の頃から面白いと思っていました。
サンスクリットで、नश्यति(滅する)、 नाशयति(破壊する)が、
どちらも英語ではdestroyであるように、再帰と使役が英語では同一単語、
というのはよく見受けられます。
そもそも、
シャツのどこを取っても、糸や細胞や素粒子であって、シャツではないように、
行動というものも、それ自体で絶対的に「こうだ」と言えるものではありません。
食べるもの、箸を持っている、つまんでいる、口に入れる、咀嚼している、、、
あらゆる、食べること以外の動詞から成り立っています。
そして、意思と意識は結びついているように見えるけど、
それらの関係はどのようなものか?
संयोगः = 別々に存在できる二つのものがくっついているのか?
समवायः = 本質的にくっついて、ふたつはひとつなのか?
आध्यासिकः = 別のものが同じであるように見えているだけなのか?
行為の絶対的な存在の無さ、
自由意思が使えるかどうか、
意思と意識、つまりकर्तृत्व と आत्मन् については、
ヴェーダーンタで扱われる主題なので、また別の機会に。。