リシとは
リシという言葉は、「マントラを得た人・発見した人」
そして、「知識により、サムサーラの向こう側を見た人」とも定義されます。
(शब्दकल्पद्रुमः - ऋषति प्राप्नोति सर्व्वान् मन्त्रान् ज्ञानेनपश्यति संसारपारं वा इति)
ヴェーダと呼ばれる聖典は、マントラによって構成されています。
マントラとは、サンスクリット語の文章の集まりで、
人間の幸せの追求に役立つ知識を教えています。
サムサーラとは、自分の本質以外のものに幸せを求め、追いかけ続ける人生。
体験に幸せを求めている限り、サムサーラは続きます。
サムサーラの向こう側とは、つまり、あらゆる体験の主体である自分自身の本質です。
リシの語源
リシ(ऋषिः [ṛṣiḥ])という言葉の元となる、動詞の原型「リシ(ऋष् [ṛṣ])」は、
2500年前の文法家パーニニの定義によると、
「गतौ [gatau]」、直訳すると、「行く」となりますが、
それはつまり、「辿り着く」「得る」「理解する・知る」、
そしてものごとが明らかに「見える」という意味でも使われます。
「マントラを得た人・発見した人」、「サムサーラの向こう側を見た人」という意味の
リシ(ऋषिः [ṛṣiḥ])という言葉は、そのような意味で派生しているのです。
マントラを「発見した」とは?
マントラとは、ヴェーダを構成している、サンスクリット語の文章です。
それらの文章は、「発明された・著された」のではなく、「発見された」と言われます。
人間の経験とそれに基づいた理論、さらに憶測に基づいた思考を記したものは、
「哲学」とされます。
「物語」や「詩歌」 も、人間の創作です。
いっぽう、
この世界に常に存在していた法則や定理が、
熱心にひとつの研究に専念していた研究者によって見出されるように、
この世界の創造と共に常にある知識は、マントラという形で、
タパスによって鍛えられたマインドを持つリシ達によって発見されたとされます。
ゆえに、ヴェーダで教えられているマントラは、特定の人物の作品ではなく、
マントラで教えられている知識は、人間の経験・思考の集積である智慧や、
ましてや哲学とも呼ぶことはできません。
では、マントラで教えられている知識とは、どのような知識なのでしょうか?
リシ達が知っているのはどんな知識?
「知識により、サムサーラの向こう側を見た人」
というのも、リシの定義にあります。
リシによって発見された知識を、「アールシャ・ヴィッディヤー(आर्षविद्या [ārṣavidyā])」と言います。
「アールシャ(आर्ष [ārṣa])」 = リシの、リシによって発見された、
(リシ(ऋषि [ṛṣi])→アールシャ(आर्ष [ārṣa])への変化については、下に説明します。)
「ヴィッディヤー(विद्या [vidyā])」 = 知識
恩師プージャ・スワミジが名付けた、こちらのグルクラムの名前ですね。
ちなみに、グルクラムとは、先生の家という意味で、生徒が先生のもとに住み込みで、
祈りのある規律に沿った生活とセーヴァーをしながら、
朝から晩までガッツリ猛勉強する為の場所です。(のんびりだらだらする場所ではありません。)
クリシュナのグルは、サンディーパニー・リシ。プージャスワミジの最初の3年コースが開催されたグルクラムの名前ですね。 |
リシによって発見された知識は、上でも見たように、ある個人や宗教に属するものではなく、
人類全てに共通する知識です。
「人類全てに共通する」 とはつまり、
全ての人間、あらゆるものに共通する「真実」であり、「本質」である、ということです。
どれだけ悲しんでいても、怒っていても、嫉妬や憎悪に狂っていても、
心の状態に影響されず、触れられず、来ては去って行く感情や経験を、
ただただ平静に見つめている、
心の状態のみならず、身体の状態からも、過去の行いからも、
そしてこの世界のあらゆる何ごとからも、限界を与えられていない、
それらを平静に見つめながら、現実を与えている、完全に満ちた存在。
満ちているとは、全ての人間が常に探している、幸せの本質。
それが、本当の自分、自分の真実であり、本質であるということ。
それが、この広い世界のいつかどこかに、幸せを見つけ出そうとしてもがきまくっている、
自分という存在の、真実なのです。
自分自身の身体や心、感情、記憶、健康状態も、
そして、現在過去未来のあらゆる体験も全ては、この広い世界に含まれていて、
終わることの無い幸せ探しの地図の、一部分に過ぎません。
どのエリアを探究しても、そこで見つかる幸せは儚いものです。
なぜなら、探している場所を間違えているからです。
暗い自分の部屋の中で指輪を落としてしまったけれど、
「暗いから探せない。外は明るいから、外に行って指輪を探しましょう。」
と言っているのと同じことなのです。
マハルシ?マハリシ?
「偉大なリシ」という意味で、表記は、महर्षि [maharṣi] もしくは、महऋषि [mahaṛṣi] となります。
「ん」を除く、全ての文字に母音が含まれる日本語では、
Rの音が単品では表記できないので、「ル」とか「リ」とかでしか書けませんね。
महत् [mahat] = 偉大な
という形容詞を前に付けた、複合語(サマーサ)です。
複合語が造られる過程は、先のアールシャと共に、
文末にパーニニ・スートラで解説しておきました。
ご興味のある方、文法を勉強されている方は、睨めっこしてみてください。
相変わらず、ヴェーダーンタとパーニニ文法に偏った話の展開ですが、
それが私の専門なので、当然ですね。。。
<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<
「マハリシ」という複合語の出来る過程
महांश्चासावृषिश्चेति महर्षिः/महऋषिः ।
महान् 1/1 + ऋषिः 1/1
महत् + सुँ + ऋषि + सुँ
同格の言葉が複合語に。 (2.1.57 विशेषणं विशेष्येण बहुलम्। ~ समासः तत्पुरुषः)
महत् + ऋषि
複合語になると、まとめてひとつのप्रातिपदिकになり、その中のसुप्は消去される。
(1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च। ~ प्रातिपदिकम्, 2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः। ~ लुक्)
मह आ + ऋषि
महत् の後ろに同格の言葉のある複合語は、最後のत्がआに変わる。
(6.3.46 आन्महतः समानाधिकरणजातीययोः। ~ उत्तरपदे)
महा + ऋषि
मह の अ と、आ の間で、सवर्ण-दीर्घ-सन्धि が起きますね。
(6.1.101 अकः सवर्णे दीर्घः। ~ अचि एकः पूर्वपरयोः संहितायाम्)
महर्षि
आ と ऋとの間は、गुण-सन्धि ですね。(6.1.87 आद्गुणः। ~ अचि एकः पूर्वपरयोः संहितायाम्)
गुण-सन्धि の代わりに、オプショナルで、サンディが起きない現象(प्रकृतिभाव)が見られます。
その場合、前にある長音は短くなります。(6.1.128 ऋत्यकः।, लघुのअच्-सन्धि の最後のスートラです。)
महऋषि
इकारान्त-पुंलिङ्ग-शब्द として、हरिवत् に活用します。
リシ(ऋषि [ṛṣi])→アールシャ(आर्ष [ārṣa])への変化について。
ऋषेः इदम्, that which belongs to ṛṣi, リシに属するもの
ऋषि + ङस् + अण्
「~に属するもの」という意味で、अण् という接尾語が、第6ケースで終わる名詞の原型の後に付きます。(4.3.120 तस्येदम्।)
अण् のように、ケースで終わる名詞の原型の後に付く接尾語を、タッディタ(तद्धित-प्रत्ययः)と呼びます。
ऋषि + अण्
タッディタで終わるひとまとりはप्रातिपदिकとみなされます。そして、上の複合語のように、その中のसुप्は消去される。
(1.2.46 कृत्तद्धितसमासाश्च। ~ प्रातिपदिकम्, 2.4.71 सुपो धातुप्रातिपदिकयोः। ~ लुक्)
ऋषि + अ
अण् の最後の ण् は、इत् と定義され(1.3.3 हलन्त्यम्।)、消去されます。(1.3.9 तस्य लोपः।)
आर् षि + अ
इत् である ण् は、अङ्ग の最初の母音にヴリッディ(वृद्धि )を起こします。(7.2.117 तद्धितेष्वचामादेः।)
ヴリッディ(वृद्धि )とは、आ, ऐ, औ の3つの音ですね。(1.1.1 वृद्धिरादैच्।)
ऋ に一番近いヴリッディの音は、आ です。(1.1.50 स्थानेऽन्तरतमः।)
ऋ の音から変化した आ の後ろには、र् が付きます。(1.1.51 उरण् रपरः।)
आर् ष् + अ
अङ्ग の最後の इ が落ちます。(6.4.148 यस्येति च।)
これで、आर्ष の出来上がりです。
初めて見た人には、なんのこっちゃ?と思われて当然ですが、
少し勉強すれば、全てが繋がっているので、分かってきて面白く楽しくなります。
必要なのは、少しの時間を割いて作ることだけです。
文法の勉強は、脳の活性化に最適です。
「脳のヨガ」 とも呼びたいところです。
身体は毎日鍛えないと、しなやかに保てません。脳みそも同様です。
物質的な身体を使ったヨガは、多くの人が何時間もかけてしているけど、
文法とか、思考能力を使うことは、カリユガに生きる人々は、
とても嫌がって一目散に逃げ出してしまいます。
せっかく人間として生まれた特権=ブッディという、
正しい思考が出来る可能性を秘めた、特別な能力を備えてもらっているのに、
間違った考えばかりに突き進んで、頭を空っぽにすることによってしか、
心の平和を得られないのは、MOTTAINAI。
正しい思考が出来る「可能性」としたのは、人間の考えとはその性質上、放っておいたら、
間違った考えに深く入り込むように出来ているからです。
「放っておいたら」、というのは、主観を取り除く努力を怠っていたら、というのと、
正しいプラマーナに触れないでいたら、という二種類の放置があります。
「XX筋を鍛える!」のと同じ熱意で、ブッディも鍛えて欲しいです。。。