2016年3月23日水曜日

76.サンスクリット(संस्कृतम् [saṃskṛtam]) - ヴェーダの言語

今回は、サンスクリットとインドに関する、

当たり前と思っていたけど当たり前ではなかった事実を4つ紹介しますね。

その1.
サンスクリットは、サンスクリット語ではサンスクリットではない

その2.
もともとあるのはサンスクリットなので、もともとサンスクリットなんて無い

その3.
インドはインドではインドでない

その4.
ヒンドゥーはヒンドゥーではヒンドゥーとは言わない 


では、ひとつひとう見ていきましょう。


事実 その1:

サンスクリットは、サンスクリット語ではサンスクリットではない


じゃあ、何なのでしょうか。

最後にちゃんと म् をつけて下さい。
現代インドでは、12億総サンスクリット語オンチ現象が蔓延してます。



サンスクリットを、サンスクリット語で書くと、

サムスクリタム(संस्कृतम् [saṃskṛtam])となります。

私達が普段使っている、「サンスクリット」とは、

サムスクリタム[saṃskṛtam]が、英語風に訛ってサンスクリット[sanskrit]になったものを、

カタカナで表記しているのです。

ちょうど、サンスクリット語の言葉、ヨーギニー[yoginī]が、英語で「ヨギーニ」に訛り、

それが日本でカタカナで使われているのと同じような現象です。

(詳しくは「サンスクリットは発音が大事!」のコラムをどうぞ。)


最後をアヌッスヴァーラ(上の点)で終わらせるのも、
サンスクリット語ではあってはならないことです。
これも、12億総サンスクリット語オンチ現象のひとつです。
原因のひとつは、サンスクリットから堕落して派生したヒンディーなどの言語と
混ざってしまっていることです。
なりよりまず、人間のだらしなく考る傾向が一番の原因です。


事実 その2:

もともとあるのはサンスクリットなので、

もともとサンスクリットなんて無い

 
またまた謎めいたタイトルですが、これもちゃんと意味が通っています。

サンスクリットとは、「洗練された(言語)」 という意味です。


「洗練された」言語があるなら、それは「洗練されていない」言葉の存在が前提になっています。

精製米という名前がつくのは、無精製米があるからです。

全世界の米というものは全て、自然な状態から既に精製米だったら、

わざわざ「精製」と付けなくても、「米」という名前だけでよいはずです。


同じような理由から、サンスクリットという名前も、

相対的な名前であって、それ自身では名前を必要しないのです。

 

ヴェーダの言語、サンスクリット


この宇宙は、生れては消えゆくという、創造と破壊をを延々と繰り返しています。

その始まりも終わりも無い想像と破壊のサイクルの中では、

人間のような自由意志を持った生命体が、あちらこちらで出現します。

人間の出現には必ず、ヴェーダの出現が伴います。

そして、ヴェーダの言語はサンスクリット語と決まっているのです。

創造担当のブランマージも、ちゃんとヴェーダを持っています。
四つの顔を持つブランマージ自体がヴェーダと創造の象徴です。 


ヴェーダ自身からの視点では、自らの言葉自体が言語そのものなので、

自分の言葉のことを、わざわざ「サンスクリット語」と呼ぶ必要がありません。

別の言語が出てきて始めて、それと区別する為の言葉が必要になるのです。



 
サンスクリット(洗練された言語)から見て、

そんなに洗練されていない言語は、

プラークリタ(自然のままの、つまり精製・加工されていない)と呼ばれます。

ヴェーダの言語、つまり、人間の言語というものは、サンスクリットであり、

それが劣化した言語を、本来の言語と比較して、プラークリタと呼ぶのです。


ヴェーダは毎回必ずサンスクリット語



ヴェーダの言語はどの回の創造でも、毎回サンスクリット語と決まっているそうです。

「サンスクリット語勉強するの面倒だから、

ヴェーダが日本語で出現するカルパ(創造の単位)を待って、その時に生まれ変わってから、

ヴェーダーンタの勉強すればいいや」

という考え方は出来ません。

そう言う訳で、サンスクリット語の勉強は、

来世に先延ばしせず、今生で勉強しましょうね。




ちなみに、「日本」 も相対的な名前です。

日のもと、つまり東側に位置する国、ということは、

西側で日の出を拝んでいる人達、つまり大陸側の人から見た名前です。



サンスクリット語が洗練されているという訳


私は、サンスクリット文法の講師であり、

元在米プログラマ・SEで、パーニニ・スートラの講師でもあるので、

これについて語りだすと止まりません。

でも、簡単に言うと、サンスクリット語の言葉は、

まず発音がはっきりしている。そして発音システムが確立されている。

そして、サンスクリット語の単語は、きちんと種類分けされた有限数のパーツから、

これまたきちんと分類された有限数の規則を、規則正しい順番で応用することにより、

文法的派生を説明できるという特性があります。

これらの真価を味わうには、まずは発音からきちんと学ぶ必要があります。

イーシュワラとは何かを教えるヴェーダの伝統の知識は、

サンスクリット語の発音ひとつひとつに、自分という小さな個人と、

イーシュワラという全宇宙の知識体が、全く離れていない、

ひとつの存在であることを証明し、その事実を自分のものにしてくれます。

本場インドの3年半コースでサンスクリット語講師を担当させていますが、

いまだに一番の基本である「ア」「アー」「イ」「イー」を

新しく来る人達に、興奮と共に教えられるのは、

このサンスクリット語の発声システムという、「イーシュワラの知識」 を、

自分の体で実感してもらえるからです。



事実 その3:

インドはインドではインドでない


この一見意味の分からないセンテンス、まさにインドですね!

ナンセンスのように見えて、実はそこには深い意味がある。これもインドですね。


インドでは、自分の国のことを「バーラタ(भारत [bhārata])」と呼びます。


ラーマの弟のバラタが、ラーマの帰りを待ちながら、

ラーマのパードゥカー(サンダル)に毎日プージャーしながら、

ラーマの代わりに誠実に治めた国が、

バラタの末裔と言う意味の「バーラタ」となり、

それが、インドの国名となっています。
 
パードゥカー・プージャ-
ちなみに、「インド」「インディア」は、

シンドゥ(सिन्धुः [sindhuḥ])という川の名前から来た、西洋人がつけた名前です。


そして、もうひとつちなみに、Japanと日本は同じです。

「日本」 の中国語読みの西洋諸国語(ポルトガル?)訛りがJapanの由来です。




事実 その4:

ヒンドゥーはヒンドゥーではヒンドゥーとは言わない 


さらには、「ヒンドゥー教」なるものすらもないのです。

宇宙に遍在する物理の法則を、宗教と呼ぶことは出来ないのと同じです。

ヒンドゥーの人々は、宇宙に遍在する法則の全てを、

「サナータナ・ダルマ(सनातन-धर्मः [sanātana-dharmaḥ])」と呼びます。

直訳すると「永遠・恒久の在り方」です。

火に指をつっこむと火傷を負う。

他の生き物を痛めつけると、回りまわって結局自分も痛い思いをする。

宇宙の在り方に逆らわず、調和しながら生きることが、

人間として成長する方法なのだと教え、

人間として成長した人には、人間として生まれてきた意味を教えるのが、

ヴェーダなのです。

ヒンドゥーも、シンドゥ(सिन्धुः [sindhuḥ])という川の名前から来た名前です。




<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

こちらも:
サンスクリットを習い始めた人に、どうか知って欲しいあれこれ 

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間


2016年3月12日土曜日

75.アーサナ(आसनम् [āsanam]) - 座法、座布団

アーサナの語源


動詞の原型「アース(आस् [ās])」は、「座る」という動作を表します。

そこに、「アナ(अन [ana])」という、サンスクリット語によく出てくる接尾語がついて、

आस् [ās] + अन [ana] = आसन [āsana]

となります。

「アナ(अन [ana])」の意味は、実に様々です。

現在の世間一般で、「ヨガ」という言葉の意味となっている、

ポーズをとることによる健康法という意味での「アーサナ」という場合、

「アナ」 は、座るという動作をするための「方法、やり方」となります。

ゆえに、座法という漢訳(?)は正しいですね。


また、 「アナ」 を、座るという動作をするための「場所」とすると、

それは、座る場所、つまり座布団とか、椅子とかになります。



アーサナとは単なる健康法か?


先ほどアーサナを健康法と説明しましたが、

アーサナに思い入れのある人なら、単なる健康法なんかではない!

と思われるかもしれません。

しかし、ヴェーダの文化の全体構成をぐるりと見回す立場から見ると、

アーサナはあくまで、健康法です。


全ては、その限界を知ることから



ヨガでも、瞑想でも、美味しい食べ物でも、お金でも、物でも、地位でも、

どんなに素晴らしい人間関係でも、何でも全て、

それらの限界を知っておくことはとても大事です。

所有物や人間関係、仕事などにおいて、

「これこそが!」と絶対的価値を夢見てしまい、

全人生をかけて没頭してしまうのは、よくあることで、

そのような人に対して、横から囁くようなことはしてはなりませんが、

ヨガや瞑想に入れ込んで、そこで止まってしまうのは、

もったいないなぁ、と思います。

しかし、これもプラーラブダですが。


限界の見極めがつくまでは、人生は何回でも繰り返します。


全てを手に入れ成功する方法を教えてくれるのと同時に、

それらの限界もきっちり教えてくれるのが、ヴェーダなのです。





ここまで言いましたが、しかし、

アーサナが単なる健康法ではない、と言うことも出来ます。


なぜなら、ヴェーダの文化の全体構成に組み入れられているからです。


単なるポーズだけでなく、それを受け継いできた文化に尊敬の態度を持って目を向けると、

全体像が少しずつ見えてきて、ヨガ・アーサナの全体像の中でのポジションが自ずと見えてきます。



伝統の意味



現代の日本やアメリカのみならず、本場インドでも、

○○ヨガ、××ヨガ、、、とかなり現代風にアレンジされています。

私は、伝統を厳格に守るブランミンに囲われて生活しているので、

それらのヨガを、たまに垣間見たときには、絶句してしまいますが、

そのようなものが世界的に主流となっているのが現実です。


アーサナでも、音楽でも、ダンスでも、アーユルヴェーダや占星術、サンスクリット語も全て、

遠い日本で生まれ育った私達が、それらを始めるに至った背景には、

その知識を教え継いでいた先人の存在があります。

まず、その知識の伝承に感謝できるようになって、全てが始まります。

そして、「この伝統文化とは?」ということに興味を持って、

調べたり、実践したりすることは、現代まで伝承してくれた先生方につながり、

全体像につながり、そして自分が正しい知識を得ることにつながります。


こうして、全体像が見えてきて、本当のゴール、本当に手に入れるべきものは何か、

というプルシャ・アルタ・ニスチャヤが出来てくるのです。



馬車の例え



ヴェーダでは、人間の身体は馬車に例えられます。

馬車は走らせて、目的地に辿り着く為にあります。

馬車をチューンナップすることばかりに専念しても意味がありません。

車でも体でも、完全完璧は無理です。当たり前のことですが。

いかに少ない投資で、いかに多く働けるか、のバランスが必要です。

アーサナで造り上げた、しなやかで強く美しいボディで、

どこに向かって走るのですか?




インドの伝統では、プルシャ・アルタという人生の目的の見据え方がはっきりと教えられています。

それをインド人がちゃんと理解しているかどうかは全く別の話ですが!

しかし、日本ではプルシャ・アルタという概念が全く紹介されませんね。

アルタとカーマしか教えられない社会で生きていたら、

そりゃ不安と混乱に満ちた心になるよな、、、、

とインドの山奥で恐ろしく感じます。

交通網も、情報網も、医療機関も、何もかにも「発展」 しているのに、

何の為の発展なのか、その答を教えられるものが無く、

とりあえず楽しく!美味しいもの食べて!

出来るだけ多くのものを消費して!

出来るだけ多くの経験をして!長生きして!

ということぐらいしか教えられないのが現代日本社会です。

当然、空しくなりますね。



長時間座って、何をするべきなのか。


「アーサナ」 という言葉の意味からも分かるように、

結局は、長時間座っていられる身体を造るための実践されるべき智慧が、

ヨガ・アーサナという名前で一般的にしられている言葉の、あるべき意味です。


ヴェーダを基調とした伝統的・文化的な生活規範の全ては、

人間としての成長のためにあります。


自分のするべきこと、社会や家庭での役割・責任を果たすことによってのみ、

人間は成長できます。

これを、ダルマに基づいた生活と言います。

そのために機能できる身体を造り、心をサットヴァにするために、

アーサナのプラクティスは役に立ちます。


ダルマの生活を続けて、人間として成長した人は、

自ずとモークシャに向かうようになります。

最終的にはモークシャを見据えて、

シュラヴァナ、マナナ、二ディッティヤーサナという、

基本的には座りっぱなしの生活を続ける為の身体作りに、

アーサナは最も有効なのです。




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http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/ahimsa.html

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/04/bhaktih.html



 http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/04/suryanamaskara.html

2016年3月11日金曜日

74.スワンナプーム(सुवर्णभूमिः [suvarṇabhūmiḥ]) タイ語になったサンスクリット語

バンコク国際空港の名前はサンスクリット語

サンスクリット語の発音では、[suvarṇabhūmiḥ]、

カタカナにすると、「スヴァルナ・ブーミ」となります。

タイ語になると、「スワンナプーム」となってしまうのですね。


この名前は正真正銘のサンスクリット語です。

数年前、インドから飛んで、バンコクの新国際空港に着いたときに、

その名前を見て、「ヒンドゥーの名前そのもの!」 とビックリし、

さらに、空港のロビーに展示されている巨大な彫刻を見てビックリ。

スラとアスラの、ミルクの海の攪拌の場面。中央にはもちろん青色のヴィシュヌ。


黄金の地



「スヴァルナ」(सुवर्ण [suvarṇa])とは、黄金という意味のサンスクリット語です。

「ス」 (सु [su])とは、良い、美しい、秩序の整った、という意味です。

「ヴァルナ」(वर्ण [varṇa])は、色という意味。

そして、

「ブーミ」(भूमि [bhūmi])は、大地、地球、土地、という意味。

合わせて、「黄金の地」。

インドが起源の仏教の古い文献に出てくる場所の名前だそうです。

スラ(デーヴァ)組


母なる大地


この「ブーミ」という言葉、サンスクリット語の類義語辞典をみてみると、

マヒー(मही)、メーディニー(मेदिनी)、プリティヴィー(पृथिवी)、

ヴァスダー(वसुधा)、ク(कुः)、ブー(भूः)、等‥

と、40近くもあります。

そして、この「大地、地球」という意味のサンスクリット語の同義語は、

全て女性形です。

「母なる大地」、「Mother Earth」という表現はどの文化でも普遍なアイディアなようですね。



アスラ組


サンスクリット語起源のタイ語



タイ王国の王家の人々の名前が「ラーマ」だし、

タイの古い名前「シャム」も、サンスクリット語の吉兆という意味の言葉

「शम्」から来たのかどうか、いろいろな説がありそうです。

「サワディー」も、スヴァスティ(स्वस्ति [svasti])から来ているとか、

「メコン」は、マー・ガンガー(मा गङ्गा) (母なるガンガー)から来た、とか。

100回くらい早口で言ったら、そうなるかなぁ、という遠さですが。

タイ、インドネシアはもちろん、カンボジアもサンスクリットの文化の影響が濃い国ですね。

社会の変化と共に消え去っていますが。。。

その点マレーシアは、イスラムや中国からの移民と共存しながら、

まだまだタミルの延長という感じで、文化が生きていますね。

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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)

阿吽(あうん)、阿伽/閼伽(あか)、
阿闍梨(あじゃり)、阿修羅(あしゅら)






2016年3月4日金曜日

ヨガとアーユルヴェーダと文法と、ヴェーダーンタの関係 - パタンジャリへの祈りから読み解く


ヴェーダーンタに辿り着くまでには、人それぞれ様々な道のりがありますが、

サンスクリット語をベースとしたヒンドゥー文化、という同じ土壌であることから、

ヨガやアーユルヴェーダ、音楽、舞踊、占星術、哲学、文学、文法などが、

ヴェーダーンタの入り口となることはよくあることです。

パームリーフ(椰子の葉)に刻まれて保存された文献

これらの学問と、ヴェーダーンタには、

「サンスクリット語による文献によって伝えられている知識」という共通点はあれども、

主題は全く次元からして異なっています。

次元が違うことなのに、ごっちゃにしてしまって、

ヴェーダーンタを聞いても、「そうそう、私の習ってった○○でもそう言ってた!」

となってしまっては、もったいないです。

というわけで、今回はそこなへんを整理してみたいと思います。



ヨーゲーナ チッタッシャ、、から始まるこのプレーヤー(祈りの句)。

योगेन चित्तस्य पदेन वाचां मलं शरीरस्य वैद्यकेन
योऽपाकरोत्तं प्रवरं मुनीनाम् पतञ्जलिं प्राञ्जलिराणतोऽस्मि ॥

yogena cittasya padena vācāṃ malaṃ  śarīrasya vaidyakena
yo'pākarottaṃ pravaraṃ munīnām patañjaliṃ prāñjalirāṇato'smi ||


ヨーガによって、心のマラ(不純・不調・不和)を、

文法によって、言葉のマラを、

アーユルヴェーダによって、身体のマラを、

取り除いたその人、

賢者の中の最高者、そのパタンジャリに、

私は手を合わせて、 尊敬を示します。


ヨーガによって(yogena)、心の(cittasya)マラ(不純・不調・不和)を(malam)、

文法によって(padena)、言葉の(vācām)マラを(malam)、

アーユルヴェーダによって(vaidyakena)、身体の(śarīrasya)マラを(malam)、

取り除いた(apākarot)その人(yaḥ)、

賢者の中の(munīnām)最高者(pravaram)、その(tam)パタンジャリに(patañjalim)、

私は(asmi)手を合わせて(prāñjaliḥ)、 尊敬を示します(āṇataḥ)。




「学びごとの前には必ず祈る」という重要性



パタンジャリという名の賢人の偉業を讃えることにより、

彼の残した智慧を授かる、という形で、彼からの恩恵を受けるためのお祈りです。

学びごとをする前には、必ずお祈りをします。

祈るという行為により、

知識の伝承という伝統の一員になるのだという、知識を受け取る姿勢を整えるのです。


伝統への姿勢、先生に対する姿勢、知識への姿勢、

そして、知ることの出来る自分の能力や、得られた知識に対しても、

正しい姿勢で向き合えるように、毎回祈り続けるのです。


こうして、今の学びを可能にしている知識の伝承という「伝統」に対して、

正しい姿勢を培います。




パタンジャリの偉業とは


1. ヨーガによって、心のマラ(不純・不調・不和)を、

2. 文法によって、言葉のマラ

3. アーユルヴェーダによって、身体のマラを、

取り除いた


とあります。
 

1.心


「ヨーガによって」とありますが、ここでのヨーガとは、

精神集中をゴールとした、アシュターンガ・ヨーガです。

それを説明したヨーガ・スートラの著者は、パタンジャリですからね。

心の落ち着きの無さ、集中力の無さが、マラ(不純・不調・不和) という訳です。


2.言葉

サンスクリット文法の解説書「マハーバーシヤ」の著者もパタンジャリです。

人間は言葉を使って正しく考えることが出来ます。

間違った言葉、つまり間違った考えが、言葉のマラです。

3.身体

アーユルヴェーダの著者も、パタンジャリとして知られています。

あらゆる体調不良の原因がマラですね。

 

なぜ、心・言葉・身体にマラ(不純・不調不和)ができるのか


心・言葉・身体とはどれも、カルマの産物です。

カルマとは、私達人間が24時間365日している行動のことです。


限りある時間の中で、限りある要素を集めて為される、

限りある結果を生み出すのが、カルマ(行為)です。
 

カルマの産物ゆえに、マラ(不純・不調不和)が出来るのです。



限りとか限界というものは、相対的なものです。

AとBというふたつの物があって、限界が出来るからです。

そんな、相対的なものから成り立っているのが、

カルマであり、その産物である心・言葉・身体なのです。

心・言葉・身体とは結局、儚い「状態」であり、

絶対的な永遠の存在ではありません。


絶対的に完璧な心や身体など無いのです。

ゆえに、 心・言葉・身体には、マラ(不純・不調不和)がある。


ヨガ、アーユルヴェーダ、文法の役割


心・言葉・身体のマラを取り除くための知識が、

ヨーガであり、文法であり、アーユルヴェーダなのです。

それらの知識を得るためのプラマーナ(知る手段)が、

ヨーガ・スートラであり、マハーバーシヤという文法書であり、

アーユルヴェーダという文献なのです。


しかし、これらは相対的な次元での、相対的な解決方法の智慧なのです。

ここが、ヴェーダーンタと根本的に違う点です。


相対的な解決策の限界を見抜くことを、ヴァイラーギャと言います。

心・言葉・身体をどれだけ洗練しても、

時間や身体的・精神的な限界の中でジタバタしているに過ぎない。

そんなジタバタしている自分を辞めたくて、

いろいろ違った方法を試すけど、結局ジタバタの方法が変わっただけ。

根本的な解決にはならない。



「ヴェーダーンタ」 という知る手段


絶対的な解決策などあるのか?

正しい先生によって教えられたヴェーダーンタは、

きっちり最初から最後まで教えます。

時間や身体的・精神的な限界の中で苦しんでいるあなたの本質は、

無限の存在であり、それが、あなたが探し続けているものなのだと。


ヴェーダーンタとは、自分の本質について正しく知るための手段です。

 
限界から成り立っていて、相対的な状態である、

私の心・言葉・身体は、常に変化し続けるゆえに、私の本質ではありません。

限界や変化という向こう岸を眺め続けている私。

現在・過去・未来の心・言葉・身体を眺め続けている私。

そんな、今ここにいる、この私の存在は、自明自白です。



目・耳・鼻・舌・触覚などの知る手段も、それらのデータを元にした推論なども、

対象物として私が眺め続けている、向こう岸にあるものを知る手段です。

自分の本質を知るようには出来ていません。

体験、経験、感覚、感情や思い出などは対象物であり、対象化している自分ではありません。

憶測や思いつきは、憶測や思い付きであり、知る手段ではありません。



自明自白な存在である私を、心・言葉・身体という限界に苛まされた存在であると、

無限の存在である私を、儚い心・言葉・身体という状態なのだと、

誰もが疑うことすらせずに信じていますが、、

「それは間違いですよ。

真実は、自明自白な存在である私は、無限の存在なのですよ。」


と教えるのがヴェーダーンタなのです。

この教えを聞いて、「自分自身に対する混乱が完全に解けました」

と言える人は、人間として精神的に成熟した人です。

つまり、教えを受け継ぐ心の準備が出来ている人です。


精神的な成熟・心の準備は、ダルマに沿った生活によって形成されます。

自分の置かれた状況で、他の命への幸せへの貢献を最大にし、

他の命への負担を最小にしようと努力すること(アヒムサー)です。

それはつまり、宇宙のあり方に調和して生きることです。



ヨガとアーユルヴェーダと文法と、ヴェーダーンタの関係



しかし、心とは執着や嫌悪にまみれているもので、

言葉や身体はそんな心に追随して働いています。

そんな心を成熟させて、執着や嫌悪から自由にしてあげられるのは、

ダルマに沿った生き方だけです。
 

心・言葉・身体のマラを取り除くのは、ダルマに沿って生きやすいようにするためです。

ダルマに沿った生活とは、自分に与えられた家庭や社会の義務を果たしながら、

周りに与える痛みや迷惑を最小限にして、

周りに与える貢献を最大限にして生きることです。

そのように生きる為の心・言葉・身体を整える為に、マラを取り除くのです。

そして、その智慧が、パタンジャリの教えたヨガ・文法・アーユルヴェーダなのです。


ヨガ・文法・アーユルヴェーダ以外にも、インド音楽や舞踊、占星術といった、

インドの伝統文化や生活様式に触れながら、

ダルマに沿って生きていれば、

遅かれ早かれ、必ずヴェーダーンタに辿り着くのです。



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ヴェーダーンタは哲学ではないとは?

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