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2016年8月14日日曜日

79.ダーナ(दानम् [dānam]) 与えること


「消費者」社会の現代の日本では、

豊かさとは、より多くのものを「ゲット」すること、という価値観ですが、

「貢献者」社会である伝統的なインドでは、

豊かさとは、より多くのものや思いやりを「ギブ」できること、という価値観です。

本当の豊かさを模索する上で、最近日本でも知られるようになってきている、

とても重要なインドの智慧のひとつ、「ダーナ」について、

伝統に沿って、正しく理解していただけるように紹介しますね。


ダーナの語源


「与える」という意味の動詞の原型「ダー(दा [dā])」に、

「~すること」という意味の接尾語「アナ(अन [ana])」を付けて出来上がり。

分かりやすいですね。



ダーナとは


ダーナとは、語源からみると単に「与えること」ですが、

与えられた人の幸せに貢献できるものを与えること、というのはもちろん、


インドの伝統文化に沿ってもっときちんと定義すると、

1.お返しの出来ない人

(お返しが出来るなら、それは普通の取引・やり取りであり、ダーナではありません。)

2.自分が与える義務の無い人

(家族の扶養・納税・賃金労働・何かしてもらったお礼はダーナではありません。)

このような人に対して、自分からわざわざ歩み寄って与えることがダーナです。


与えることのできるものは、自分が与えられているものなら何でも、です。

金品だけに限らず、 時間や能力・知識など、自分に与えられているものは全て、

他の人や動植物に与えるために、そうして思いやりを表現するために、与えられているのです。

もし自分に思いやる気持ちがないのなら、与えることを実践してみて、

思いやりとは何かが分かるように、全てのものは自分に与えられているのです。


「与えられる」という能力は、その人の心の豊かさを表しています。

どれだけの富を持っていても、心が貧しければ、ダーナは出来ません。

富の蓄積が無くても、心が豊かな人は、手に持っているものを差し出すことが出来ます。



インド伝統文化での「ダーナ」の意味



この「ダーナ」はインドの文化でとても高貴な行動とされ、

人間としての精神的な成長の表われとして讃えられ、

ゆえに、自己成長の手段として実践されています。


実際に与えてみて初めて、自分がどれだけ与えられているのか、

そして、自分がどれだけ満たされているのかが分かるからです。

世界平和を祈り、毎日独りガンガー・プージャーをするプージャリ(祭司)さん

サンスクリット文献の中でのダーナ


ヴェーダ文献の教えの全ては、ヴェーダーンタの教えとされる、

「あなたは無限の存在である」に集約されます。

自分のお金や持ち物のみならず、思いやる心や、時間、さらに思考能力までもを、

目先の快楽の獲得以外には絶対に使おうとしない、吝嗇な心を持つ人には、

ヴェーダーンタの教えを100万回の人生分聞いても、絶対に理解は出来ません。

自分が無限の存在であることをすんなり矛盾なく理解できる心は、

自分と周りとの限界に苛まされていない、思いやりに境界線の無い、

与えることのできる寛大な心です。

そのような心を育てるために、人生の全ての行動はあるのです。

ダーナは、心を育てるための、とても強力で有効な手段であると、

サンスクリットの文献のいたるところで教えられています。


バガヴァッド・ギーター(18章5節)

यज्ञो दानं तपश्चैव पावनानि मनीषिणाम् ।
yajño dānaṃ tapaścaiva pāvanāni manīṣiṇām |

「祈りの儀式(それぞれの義務)・ダーナ・タパスは、人間を清める行為です」

どのような立場の人でも、人生のどのステージにおいても、

自分のするべきこと(スヴァ・ダルマ)が、精神的な成長の手段であり、

それは、勉強であったり、家族を養うことであったり、労働によって社会に貢献することであったり、

その時その場所、その人によって、 いろいろ変わりますが、

上の三つ(祈りの儀式(それぞれの義務)・ダーナ・タパス)は、

全ての人の、全ての人生のステージで、共通してあるべきもので、

辞めたり、引退することの出来ないものだと教えられています。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド(1章22節)

श्रद्धया देयम् । अश्रद्धयाऽदेयम् । श्रिया देयम् । ह्रिया देयम् । भिया देयम् । संविदा देयम् ।
śraddhayā deyam | aśraddhayā:'deyam | śriyā deyam | hriyā deyam | bhiyā deyam | saṃvidā deyam | 

「シュラッダー(これは善いことであるという信頼)を持って、与えなさい」

ダーナは、経済効果を狙った活動ではありません。
ダーナとは、祈りの表現方法のひとつなのです。


「シュラッダーが無いのなら、与えるべきではありません」

「ラクシュミーを持って(豊富に気前良く)与えなさい」

ダーナは、不用品の処分ではありません!

「羞恥心を持って(上からではなく、下から)与えなさい」

「(これで十分ではないかも知れないと)恐れを持って与えなさい」

「(受け取る人や状況が適切であるかの)知識をもって与えなさい」

一度与えたら、もう「ナ、ママ(私のものではありません)」なので、

使い道を気にしたり、口出ししたり、パトロンになったような姿勢で接したりするのは、

ダーナのスピリットではありません。


サーマ・ヴェーダ(セートゥ・サーマ)

दानेन अदानं तर । dānena adānaṃ tara |

「与えることが出来ない自分の小ささは、

与えるという行動によって、超しなさい」

知識と行動は、まったく別のものです。

どれだけダーナが善いことだと知っていても、実践しなければ意味がありません。

栄養失調の人が、どれだけ栄養学を勉強しても、栄養は摂れないのと同じです。

私の今の状況では、まだダーナなんて出来ない!と、状況のせいにしがちですが、

ダーナが出来ないのは状況のせいではなく、自分が出来ないだけだからです。

ダーナが出来るようになるために、たった一つの必要なことは、

自分が与えることを「選び取る」ことだけです。

聖地でアンナ(食べ物)・ダーナをすることは、とても高徳とされます。


ダーナについて、もう少し詳しく知る


日本ではいろいろ勘違いされて使われている言葉でもあるので、
もうちょっと実際的に詳しく見ると:

1.お返しの出来ない人に対して与えることが、ダーナ。

何かの見返りとして、もしくはお返しを見込んで与えることは、
生活の中での取引なので、ダーナとは呼びません。

2.スヴァ・ダルマの範囲外で与えることが、ダーナ。

自分の(=スヴァ)するべきこと(=ダルマ)を、スヴァ・ダルマと呼びます。
ゆえに、スヴァ・ダルマの範囲外とは、自分がしなくてもいいことを指します。
アフリカにボランティア活動をしにいかなかった、という理由で法的に責められることはありません。
反対に、子供にご飯を食べさせることは、ダーナとは呼びません。


また、「ダクシナ」と「ダーナ」とは、別々のものです。

ダクシナは、儀式・芸術鑑賞・学び等を完成させる要素のひとつとして、

それぞれ祭司・芸術家・先生に渡すお礼です。

それらのお礼はダーナとは呼べません。

バラタナティヤムの有名なダンサー。日本語も話せます。ガンガーにて。

特に、プージャーをしてもらった際に、祭司に対してダクシナをきちんとしないのは、

儀式が不完全になり、不吉とされるので気をつけましょう。

また、無料のイベントであっても、出演された音楽家・舞踊家には、

主催者が必ず、出演者とイベントのステータスに見合うダクシナをするのが常識とされます。

インドの文化とうまく馴染むための知識として、お役に立てれば幸いです。。。


おまけ: ダーナをした時には名前を公表するべきか?


日本にはダーナの文化が一般に成熟してないゆえに、有名人が公にダーナをすると、理不尽な批判にさらされるという不幸が相次いでいるようですね。。。

バガヴァッド・ギーターでは、何らかの間接的な見返りを期待してダーナをするのは「ラジャス」なダーナとされていますが、「名前を公表してはならない」という決まりはありません。

ヴェーダでも、ダーナをした人の話が多く讃えられており、隠れてしなければならない、という感じではありません。

むしろ、ダーナが出来るということはおめでたいことなので、「結婚しました」「おかげさまで誕生日を迎えました」と同じ感覚で、皆にシェアして、皆で喜ぶべきことです。

インドでも、ダーナをした人に対して、「Thank you」と英語文化で答えることもありますが、「ああ、ダーナをしたのね。Congratulations! おめでとう!」という方がインド的です。

(故人を偲ぶ機会としてダーナをすることもあるので、一概には言えませんが!)

実際には、わざわざ名前を公表する・される機会が無く、そのまま人知れずダーナをする人も多数いて、それを良しとする人も多くいます。
しかし、ダーナをしたと公表すること自体について批判をするという文化はありません。

ダーナをしたことを公表することによって、より多くの人々は勇気を与えられ、「じゃあ、私も!」と、
善い行いをするきっかけになるので、公表することは社会にとっても善いことです。

そして、仮に売名行為でダーナをする人がいたとしても、売名が動機となって、その人がダーナを出来ることになったのだから、悪いことではありません。
きっかけは何であれ、ダーナが出来なかった自分から、大きな一歩を踏み出したのです。それは祝福するべきことです。
一度ダーナをすると、その高貴な行動の力によって心は成長し、遅かれ早かれ、特別な動機がなくても自然とダーナが出来る寛大な人間へと必ず変化を遂げるようになっているのです。

そのような人と一緒に喜べるような社会になりたいですね。





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2016年3月23日水曜日

76.サンスクリット(संस्कृतम् [saṃskṛtam]) - ヴェーダの言語

今回は、サンスクリットとインドに関する、

当たり前と思っていたけど当たり前ではなかった事実を4つ紹介しますね。

その1.
サンスクリットは、サンスクリット語ではサンスクリットではない

その2.
もともとあるのはサンスクリットなので、もともとサンスクリットなんて無い

その3.
インドはインドではインドでない

その4.
ヒンドゥーはヒンドゥーではヒンドゥーとは言わない 


では、ひとつひとう見ていきましょう。


事実 その1:

サンスクリットは、サンスクリット語ではサンスクリットではない


じゃあ、何なのでしょうか。

最後にちゃんと म् をつけて下さい。
現代インドでは、12億総サンスクリット語オンチ現象が蔓延してます。



サンスクリットを、サンスクリット語で書くと、

サムスクリタム(संस्कृतम् [saṃskṛtam])となります。

私達が普段使っている、「サンスクリット」とは、

サムスクリタム[saṃskṛtam]が、英語風に訛ってサンスクリット[sanskrit]になったものを、

カタカナで表記しているのです。

ちょうど、サンスクリット語の言葉、ヨーギニー[yoginī]が、英語で「ヨギーニ」に訛り、

それが日本でカタカナで使われているのと同じような現象です。

(詳しくは「サンスクリットは発音が大事!」のコラムをどうぞ。)


最後をアヌッスヴァーラ(上の点)で終わらせるのも、
サンスクリット語ではあってはならないことです。
これも、12億総サンスクリット語オンチ現象のひとつです。
原因のひとつは、サンスクリットから堕落して派生したヒンディーなどの言語と
混ざってしまっていることです。
なりよりまず、人間のだらしなく考る傾向が一番の原因です。


事実 その2:

もともとあるのはサンスクリットなので、

もともとサンスクリットなんて無い

 
またまた謎めいたタイトルですが、これもちゃんと意味が通っています。

サンスクリットとは、「洗練された(言語)」 という意味です。


「洗練された」言語があるなら、それは「洗練されていない」言葉の存在が前提になっています。

精製米という名前がつくのは、無精製米があるからです。

全世界の米というものは全て、自然な状態から既に精製米だったら、

わざわざ「精製」と付けなくても、「米」という名前だけでよいはずです。


同じような理由から、サンスクリットという名前も、

相対的な名前であって、それ自身では名前を必要しないのです。

 

ヴェーダの言語、サンスクリット


この宇宙は、生れては消えゆくという、創造と破壊をを延々と繰り返しています。

その始まりも終わりも無い想像と破壊のサイクルの中では、

人間のような自由意志を持った生命体が、あちらこちらで出現します。

人間の出現には必ず、ヴェーダの出現が伴います。

そして、ヴェーダの言語はサンスクリット語と決まっているのです。

創造担当のブランマージも、ちゃんとヴェーダを持っています。
四つの顔を持つブランマージ自体がヴェーダと創造の象徴です。 


ヴェーダ自身からの視点では、自らの言葉自体が言語そのものなので、

自分の言葉のことを、わざわざ「サンスクリット語」と呼ぶ必要がありません。

別の言語が出てきて始めて、それと区別する為の言葉が必要になるのです。



 
サンスクリット(洗練された言語)から見て、

そんなに洗練されていない言語は、

プラークリタ(自然のままの、つまり精製・加工されていない)と呼ばれます。

ヴェーダの言語、つまり、人間の言語というものは、サンスクリットであり、

それが劣化した言語を、本来の言語と比較して、プラークリタと呼ぶのです。


ヴェーダは毎回必ずサンスクリット語



ヴェーダの言語はどの回の創造でも、毎回サンスクリット語と決まっているそうです。

「サンスクリット語勉強するの面倒だから、

ヴェーダが日本語で出現するカルパ(創造の単位)を待って、その時に生まれ変わってから、

ヴェーダーンタの勉強すればいいや」

という考え方は出来ません。

そう言う訳で、サンスクリット語の勉強は、

来世に先延ばしせず、今生で勉強しましょうね。




ちなみに、「日本」 も相対的な名前です。

日のもと、つまり東側に位置する国、ということは、

西側で日の出を拝んでいる人達、つまり大陸側の人から見た名前です。



サンスクリット語が洗練されているという訳


私は、サンスクリット文法の講師であり、

元在米プログラマ・SEで、パーニニ・スートラの講師でもあるので、

これについて語りだすと止まりません。

でも、簡単に言うと、サンスクリット語の言葉は、

まず発音がはっきりしている。そして発音システムが確立されている。

そして、サンスクリット語の単語は、きちんと種類分けされた有限数のパーツから、

これまたきちんと分類された有限数の規則を、規則正しい順番で応用することにより、

文法的派生を説明できるという特性があります。

これらの真価を味わうには、まずは発音からきちんと学ぶ必要があります。

イーシュワラとは何かを教えるヴェーダの伝統の知識は、

サンスクリット語の発音ひとつひとつに、自分という小さな個人と、

イーシュワラという全宇宙の知識体が、全く離れていない、

ひとつの存在であることを証明し、その事実を自分のものにしてくれます。

本場インドの3年半コースでサンスクリット語講師を担当させていますが、

いまだに一番の基本である「ア」「アー」「イ」「イー」を

新しく来る人達に、興奮と共に教えられるのは、

このサンスクリット語の発声システムという、「イーシュワラの知識」 を、

自分の体で実感してもらえるからです。



事実 その3:

インドはインドではインドでない


この一見意味の分からないセンテンス、まさにインドですね!

ナンセンスのように見えて、実はそこには深い意味がある。これもインドですね。


インドでは、自分の国のことを「バーラタ(भारत [bhārata])」と呼びます。


ラーマの弟のバラタが、ラーマの帰りを待ちながら、

ラーマのパードゥカー(サンダル)に毎日プージャーしながら、

ラーマの代わりに誠実に治めた国が、

バラタの末裔と言う意味の「バーラタ」となり、

それが、インドの国名となっています。
 
パードゥカー・プージャ-
ちなみに、「インド」「インディア」は、

シンドゥ(सिन्धुः [sindhuḥ])という川の名前から来た、西洋人がつけた名前です。


そして、もうひとつちなみに、Japanと日本は同じです。

「日本」 の中国語読みの西洋諸国語(ポルトガル?)訛りがJapanの由来です。




事実 その4:

ヒンドゥーはヒンドゥーではヒンドゥーとは言わない 


さらには、「ヒンドゥー教」なるものすらもないのです。

宇宙に遍在する物理の法則を、宗教と呼ぶことは出来ないのと同じです。

ヒンドゥーの人々は、宇宙に遍在する法則の全てを、

「サナータナ・ダルマ(सनातन-धर्मः [sanātana-dharmaḥ])」と呼びます。

直訳すると「永遠・恒久の在り方」です。

火に指をつっこむと火傷を負う。

他の生き物を痛めつけると、回りまわって結局自分も痛い思いをする。

宇宙の在り方に逆らわず、調和しながら生きることが、

人間として成長する方法なのだと教え、

人間として成長した人には、人間として生まれてきた意味を教えるのが、

ヴェーダなのです。

ヒンドゥーも、シンドゥ(सिन्धुः [sindhuḥ])という川の名前から来た名前です。




<< サンスクリット語一覧(日本語のアイウエオ順) <<

こちらも:
サンスクリットを習い始めた人に、どうか知って欲しいあれこれ 

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段
http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html
24.カーラ(कालः [kālaḥ])- 時間


2016年3月12日土曜日

75.アーサナ(आसनम् [āsanam]) - 座法、座布団

アーサナの語源


動詞の原型「アース(आस् [ās])」は、「座る」という動作を表します。

そこに、「アナ(अन [ana])」という、サンスクリット語によく出てくる接尾語がついて、

आस् [ās] + अन [ana] = आसन [āsana]

となります。

「アナ(अन [ana])」の意味は、実に様々です。

現在の世間一般で、「ヨガ」という言葉の意味となっている、

ポーズをとることによる健康法という意味での「アーサナ」という場合、

「アナ」 は、座るという動作をするための「方法、やり方」となります。

ゆえに、座法という漢訳(?)は正しいですね。


また、 「アナ」 を、座るという動作をするための「場所」とすると、

それは、座る場所、つまり座布団とか、椅子とかになります。



アーサナとは単なる健康法か?


先ほどアーサナを健康法と説明しましたが、

アーサナに思い入れのある人なら、単なる健康法なんかではない!

と思われるかもしれません。

しかし、ヴェーダの文化の全体構成をぐるりと見回す立場から見ると、

アーサナはあくまで、健康法です。


全ては、その限界を知ることから



ヨガでも、瞑想でも、美味しい食べ物でも、お金でも、物でも、地位でも、

どんなに素晴らしい人間関係でも、何でも全て、

それらの限界を知っておくことはとても大事です。

所有物や人間関係、仕事などにおいて、

「これこそが!」と絶対的価値を夢見てしまい、

全人生をかけて没頭してしまうのは、よくあることで、

そのような人に対して、横から囁くようなことはしてはなりませんが、

ヨガや瞑想に入れ込んで、そこで止まってしまうのは、

もったいないなぁ、と思います。

しかし、これもプラーラブダですが。


限界の見極めがつくまでは、人生は何回でも繰り返します。


全てを手に入れ成功する方法を教えてくれるのと同時に、

それらの限界もきっちり教えてくれるのが、ヴェーダなのです。





ここまで言いましたが、しかし、

アーサナが単なる健康法ではない、と言うことも出来ます。


なぜなら、ヴェーダの文化の全体構成に組み入れられているからです。


単なるポーズだけでなく、それを受け継いできた文化に尊敬の態度を持って目を向けると、

全体像が少しずつ見えてきて、ヨガ・アーサナの全体像の中でのポジションが自ずと見えてきます。



伝統の意味



現代の日本やアメリカのみならず、本場インドでも、

○○ヨガ、××ヨガ、、、とかなり現代風にアレンジされています。

私は、伝統を厳格に守るブランミンに囲われて生活しているので、

それらのヨガを、たまに垣間見たときには、絶句してしまいますが、

そのようなものが世界的に主流となっているのが現実です。


アーサナでも、音楽でも、ダンスでも、アーユルヴェーダや占星術、サンスクリット語も全て、

遠い日本で生まれ育った私達が、それらを始めるに至った背景には、

その知識を教え継いでいた先人の存在があります。

まず、その知識の伝承に感謝できるようになって、全てが始まります。

そして、「この伝統文化とは?」ということに興味を持って、

調べたり、実践したりすることは、現代まで伝承してくれた先生方につながり、

全体像につながり、そして自分が正しい知識を得ることにつながります。


こうして、全体像が見えてきて、本当のゴール、本当に手に入れるべきものは何か、

というプルシャ・アルタ・ニスチャヤが出来てくるのです。



馬車の例え



ヴェーダでは、人間の身体は馬車に例えられます。

馬車は走らせて、目的地に辿り着く為にあります。

馬車をチューンナップすることばかりに専念しても意味がありません。

車でも体でも、完全完璧は無理です。当たり前のことですが。

いかに少ない投資で、いかに多く働けるか、のバランスが必要です。

アーサナで造り上げた、しなやかで強く美しいボディで、

どこに向かって走るのですか?




インドの伝統では、プルシャ・アルタという人生の目的の見据え方がはっきりと教えられています。

それをインド人がちゃんと理解しているかどうかは全く別の話ですが!

しかし、日本ではプルシャ・アルタという概念が全く紹介されませんね。

アルタとカーマしか教えられない社会で生きていたら、

そりゃ不安と混乱に満ちた心になるよな、、、、

とインドの山奥で恐ろしく感じます。

交通網も、情報網も、医療機関も、何もかにも「発展」 しているのに、

何の為の発展なのか、その答を教えられるものが無く、

とりあえず楽しく!美味しいもの食べて!

出来るだけ多くのものを消費して!

出来るだけ多くの経験をして!長生きして!

ということぐらいしか教えられないのが現代日本社会です。

当然、空しくなりますね。



長時間座って、何をするべきなのか。


「アーサナ」 という言葉の意味からも分かるように、

結局は、長時間座っていられる身体を造るための実践されるべき智慧が、

ヨガ・アーサナという名前で一般的にしられている言葉の、あるべき意味です。


ヴェーダを基調とした伝統的・文化的な生活規範の全ては、

人間としての成長のためにあります。


自分のするべきこと、社会や家庭での役割・責任を果たすことによってのみ、

人間は成長できます。

これを、ダルマに基づいた生活と言います。

そのために機能できる身体を造り、心をサットヴァにするために、

アーサナのプラクティスは役に立ちます。


ダルマの生活を続けて、人間として成長した人は、

自ずとモークシャに向かうようになります。

最終的にはモークシャを見据えて、

シュラヴァナ、マナナ、二ディッティヤーサナという、

基本的には座りっぱなしの生活を続ける為の身体作りに、

アーサナは最も有効なのです。




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http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/ahimsa.html

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/04/bhaktih.html



 http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/04/suryanamaskara.html

2015年12月14日月曜日

73.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam]) - ちなみに発音について

ज्ञानम् 
[jñānam]


私自身は、人のことなので、あまり気にしませんが、

多くの生徒から聞かれるので、書き留めておきました。

追記: こちらも参照にしてください。
 ジュニャーナ?ギャーナ?ニャーナ?ज्ञान [jñāna] の発音はどうするべきか?


ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])の発音


ज्ञानम् [jñānam]はよく、「ギャーナ」と発音されますが、

表記をご覧の通り、「G」の音は見受けられません。

「G」の音は、喉から出す音です。

「j」も「ñ」も、舌の中央辺りが、上顎に押し付けられている音です。

「ñ」は、日本語の猫の鳴き声「ニャ」とほぼ同じです。

最初の「j」を考慮し、「ジニャーナ」と言いたくなるところでしょうが、

複合子音の場合、特にこの組み合わせの場合、

最初の音は殆んど聞こえずに、「ッニャーナ」と聞こえます。

こういうことは、生まれ育ちからヴァイディカ(ヴェーダの伝統文化)に沿って生きている、

ブランミンの純粋なパンディット達に囲まれて生活していないと分からないことかもしれません。

もともと、サンスクリット語をカタカナ表記しようとすること自体に無理があるので、

これ以上の議論は避けます。

カタカナ表記に悩んだ末の結果なのでしょう。


しかし、喉の音「G」を使って、「ギャーナ」と発音するのは、

完全な「ブラマ(混乱して道から反れる事)」です。

現代のインド人たちの殆んどが犯しているブラマですが。

ヴェーダに関る文献に触れるのなら、改めたい点ですね。


喉から出す音について


カ行の音(क्  k ख् kh ग् g घ् gh ङ् ṅ )と、ハ行の音(ह् h )は全て、

「カンティヤ(कण्ठ्यः [kaṇṭhyaḥ])」と呼ばれ、

喉(カンタ कण्ठः [kaṇṭhaḥ]) を意識して、喉から出す音です。

喉とは、首の真ん中辺りくらいです。

そこに意識を置いて、日本語のカ行よりはもっと深いところから出す音です。

しかし、ネットでざっと画像検索してみると、喉から出すはずのカンティヤの音が、

舌の付け根をくっつけて発声すると解説した図ばかりが出てきます。

これは間違いです。

出典元は全て、西洋のサンスクリット研究と、

それに完全に頼っている日本のサンスクリット研究でした。

多くの人に知恵の光が灯りますように。

植民地化精神+手探りの西洋式サンスクリット研究



西洋のサンスクリット文法書もいろいろ目を通しましたが、

植民地化精神が根底に貫かれていて、インドの伝統を尊重しないで(というか軽蔑して)、

自分達の分かる範囲で手探りで勉強してきた結果があちこちで見つかります。

つまり、西洋のインド哲学研究や、サンスクリット文法研究は、

「高飛車でお門違い」と結論した方が安全です。

日本の大学のサンスクリット研究は、そんな西洋の研究を基礎としています。

ゆえに、「大学こそがアカデミックなオーソリティー(学術的権威)」と思い込むのは、

サンスクリット語やヴェーダーンタに関しては、とても無意味で危険です。

私自身が、ハーバード大学でサンスクリット語のPhDを取った人を始め、

北米、欧州各国、豪州、そしてBHUを始めとするインドの大学で、

サンスクリット語科の修士や学士を取った人々に、

本場のサンスクリット語文法を教えてきた経験から言えることです。




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http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2015/12/triputi.html72.トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī])- 
主体・客体・その手段といった、3つ組




http://sanskrit-vocabulary.blogspot.com/2015/11/jnanam.html
71.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- (意味1:) 知る手段










ジュニャーナ?ギャーナ?ニャーナ?ज्ञान [jñāna] の発音はどうするべきか?

2015年11月9日月曜日

71.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])- (意味1:) 知る手段

ज्ञानम् 
[jñānam]

<意味1> 知る手段 (करणे व्युत्पत्तिः)


サンスクリットの言葉は派生の仕方で意味が変わる


「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」には、下に述べる文法的な理由から、

様々な意味を持たせることが出来ます。

今回は、バガヴァッド・ギーター13章11の中で、

「एतज्ज्ञानमिति प्रोक्तम् [etajjñānamiti proktam] ...」と言われている、

「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」について取り上げます。


バガヴァッド・ギーター13章7~11のシュローカで教えられている、
ウパニシャッドの理解に先立つ「心の成熟」について、
じっくり解き明かした一連のレクチャーです。

毎週木曜日に開催しているThe Value of Values のクラスのトピックでであり、

重要なポイントなので、今回の言葉にしました。


ニャーナの語源


「知る」という意味の動詞の原型「ニャー(ज्ञा [jñā])」に、

接尾語「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」を付加します。

「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」は「アナ(अन [ana])」に形を変えます。

これは突然変異のようなもので、理屈はありません。

「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」は「アナ(अन [ana])」なる。

そして、「ニャー(ज्ञा [jñā])」+「アナ(अन [ana])」で、

「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」になる訳です。


サンスクリット語の中で最もよく見かけられる接尾語、「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」


接尾語「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」は、動詞を名詞に変化させる接尾語です。

サンスクリット語の単語の中で最頻出と言ってよいくらい、

「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」つまり「アナ(अन [ana])」で終わる言葉は沢山あります。

ヨガのポーズとして知られる「アーサナ(आसनम् [āsanam])」、

座布団や座る場所も、アーサナと言いますね。

瞑想は「ディヤーナ(ध्यानम् [dhānam])」、

達成手段は「サーダナ(साधनम् [sādhanam])」、

見ることは「ダルシャナ(दर्शनम् [darśanam])」、

結びつけるものは「バンダナ(बन्धनम् [bandhanam])」ですね。

結ぶバンダナと、ムリッティユンジャヤ・マントラに出てくるバンダナは、

同じ言葉ですね。

どれも全部、「アナ」 で終わっていますね。


さまざまな意味を持つ、接尾語「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」


接尾語「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」の意味には、何でもありと言っていいくらい、

沢山あります。

主に使われるのが、「バーヴェー(भावे [bhāve])」と呼ばれる、

動詞そのものを示す意味で、「~すること」という意味の名詞を造ります。

例えば、「ニャー(ज्ञा [jñā])」の後ろに、

「バーヴェー(भावे [bhāve])」の意味において「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」を足して出来た言葉、

「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」 は、「知ること」という意味の単語になります。


また、「カルマニ(कर्मणि [karmaṇi])」と呼ばれる、

動詞の対象物や目的語を示す意味でも「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」は使われます。

この場合の 「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」は、「知る対象、知識」という意味になります。

同じ形でも、違う意味になるのです。


そして、「カラネー(करणे [karaṇe])」 と呼ばれる、

動詞の手段、方法を示す意味で「リュット(ल्युट् [lyuṭ])」を使えば、

同じ 「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」でも、「知る手段、知る為に必要な道具」となります。


バガヴァッド・ギーター13章11で言われている 「ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam])」は、

この「カラネー(करणे [karaṇe])」という意味で取られます。

ウパニシャッドの知識を得るために必要な、心のあり方です。

それはつまり、人間として成長をした心のあり方です。

結局人生のゴールというのは何なのか、を明らかにし、

その達成に必要な、成長した心のあり方とは何か、を明らかにすることによって、

成長した心のあり方という価値(value)に、価値(value)を見出す必要があります。

それらは、仕事や子育てといった、その人それぞれに与えられた

家庭や社会の責任と義務を果たすことによって、意識して培かっていくものなのです。


次回は、「知る主体」「知る対象物」「知る手段」といった、

ヴェーダーンタのディスカッションに必要不可欠な、

トリプティー(त्रिपुटी [tripuṭī]) という概念について、文法的な説明しますね。


発音については、こちらもご参照ください。
ジュニャーナ?ギャーナ?ニャーナ?ज्ञान [jñāna] の発音はどうするべきか?  
73.ニャーナ(ज्ञानम् [jñānam]) - ちなみに発音について 




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2015年9月3日木曜日

66.ニッティヤ(नित्यम् [nityam])永遠、時間の範囲内でないこと

ニッティヤ(नित्यम् [nityam])は「永遠の」という形容詞としても使われますが、

中性名詞として使えば、「永遠」「エタニティ」という意味の抽象名詞になります。



形容詞の「永遠の愛」とか「永遠の幸せ」とかいった使われ方や、

中性名詞の「永遠」「エタニティ」はキャッチフレーズのように良く使われますが、

その本当の意味が理解出来るのなら、それはモークシャです。

今回は、「永遠」「エタニティ」という言葉の意味をじっくり探ってみましょう。



ニッティヤ(नित्यम् [nityam])には大きく分けて3つの意味があります。

1.相対的なニッティヤ
  アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])

2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ
  プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])

3.絶対的なニッティヤ
  パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])

では、それぞれを見ていきましょう。


1.相対的なニッティヤ



気の遠くなるような長~い長い時間のことを、

アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])と呼びます。

アペークシャ(अपेक्ष [apekṣa])とは、相対的、比較的という意味です。

長いけれども、終わりがある。

結婚するときに誓う、「永遠の愛」とか、

ヴェーダの教える「永遠の(ように長い時間遊んでいられる)天国」などに、

このタイプの「ニッティヤ(永遠)」が使われます。

天国とは?


ヴェーダは嘘をつきません。

ヴェーダは天国のことを「相対的に長い時間楽しんでいられる場所」として教えています。

絶対的な永遠は、その意味を理解出来る準備が出来た人のみに教えられます。


ヴェーダ以外では天国をどのように教えているのでしょうか。

宗教というものは大体「永遠の天国」を「人間の得られる最高のゴール」としています。

天国があるのか無いのかは、死んでからしか分からないので、

生きている間は信じるしかありません。

「信じないと永遠の地獄に落ちるぞ」と脅して、

生きている間のその人の人生をコントロールします。

人間というものは無邪気なもので、「永遠って何さ?」と立ち止まって考えてもみずに、

文字通り「盲目的」に永遠の天国というコンセプトを鵜呑みにして一生を棒に振ります。


天国とは、行ってまた帰ってくるところ


会社で一生懸命働いて残業代を沢山稼ぎ、無駄遣いもしないでちゃんと貯金すれば、

ハワイに1週間遊びに行けます。

でも、1週間過ぎたらまた、もとの会社に戻ってまた働くのです。

同じように、人間として生きている間に善い行いを沢山すれば、

死んだ後に天国に行けるよ~、とヴェーダは約束をします。

しかし、「本当の永遠ではなく、相対的な永遠、つまりまた人間として戻ってきますよ!」

と、ヴェーダは正直にちゃんと教えてくれます。

天国行きとは結局、ハワイ旅行と同じ、ツーリズム・プロモーションなのです。

天国に行っても、人間の本当の、最終のゴールは果たせないと、

人間に解らせてくれるのです。

でも、それを言われても解らないのが人間なので、いつか気付くまでの間は、

気の済むまで天国行きを繰り返せるように、いろんな方法を教えてくれます。





相対的な永遠


ヴェーダの教える天国「スワルガ(स्वर्गः [svargaḥ])」では、

とてつもなく長~い時間快適に過ごすことが出来ます。

人間の身体というものは、持っても100年そこそこで、

生きている間もどんどん老いて、痛みやコンプレックスの根源であり、

命をつなぐ為だけにも、毎日食べたり消化したり汗をかいたりとメンテナンスが大変で、

楽しいことばかりにいそしんでいられません。

一方、人間として生きている間に善い事を沢山した人は、

死んでからスワルガに行き、そこでスワルガ用の身体を得ます。

スワルガ用の身体は老いたり病気をしたりしません。汗もかきません。

長い時間、ただただエンジョイするためだけに設計された身体です。

スワルガには色んな種類があって、最上の天国はブランマ・ローカだと、

ヴェーダは教えます。ブランマ・ローカではブランマージーの一生分の時間が過ごせます。

それってどれ位の長さかというと。。。

こちらにヒンドゥーの気の遠くなるような時間の単位の計算をまとめました。

物理的にこのように長くなくとも、感覚的にでも構いません。

実質は5分しか経っていなくても、その5分が永遠に感じる時があります。

5分でも、5兆年でも、どちらも相対的な時間の範囲なのです。

長いと感じたら、それは長いのです。

経験というものは相対的なものなのですから。



2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ


プラヴァーハ(प्रवाह [pravāha])とは、「河の流れ」という意味にもなっているように、

継続的な流れを指すサンスクリット語です。

河の水面を眺めていると、一瞬一瞬にそれぞれ違った形をしていて、

同じ形の水面は2度とありません。

私が昔住んでいたリシケシのアシュラムから眺める
ガンガージーの水面(雨季)

同じように、変化し続けながら存在する、この世界・宇宙は、

プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])と呼ばれます。

世界・宇宙は、五感で知覚出来るように表れている状態でも、

五感で近く出来なくても、可能性という状態で存在しています。

今の科学の説明を使うと、ビッグバン以前でも、ビッグバンが起きる原因として

宇宙は存在し続けていると言えます。

宇宙の表れ方について、物理学的、地学的、天文学的、

といったあらゆる側面の法則をダルマと呼びます。

ゆえにダルマもプラヴァーハ・ニッティヤです。

ヴェーダも、人間のあるところには必ず表れるので、プラヴァーハ・ニッティヤです。

ちなみに、人間の定義は、「自由意志を持った生命体」です。




3.絶対的なニッティヤ


パラマールタ(परमार्थ [paramārtha])とは「絶対的」という意味です。

絶対的な意味でのニッティヤは、

パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])

と呼ばれます。

この言葉の本当の意味を理解出来れば、それがモークシャです。


人間の生まれてきた意味、人生のゴール


モークシャとは、文字通り訳すと「自由」です。

何からの自由なのかというと、「常に何かになろうとしている自分からの自由」です。

人間の最終的なゴールと呼ばれるにふさわしい、

本当のモークシャは永遠でなければなりません。

しかし、永遠とか永遠でないものについてきちんと考えないゆえに、

時間制限付きのモークシャで手を打つのです。

永遠といったテーマについてきちんとした考えを持っていないがゆえに、

宗教家やスピリチュアル・リーダーとよばれる人々が、

「人生にゴールなんてありません」といった無責任な言葉を発しているのが

現在の日本の状況です。


しかし、私達人間にはもっときちんと考えられるブッディ(思考力)が与えられています。

今一度、きちんと考えて見ましょう。

きちんとした考えを助けるのが、ヴェーダーンタの伝統なのです。


楽しい経験をしている時、瞑想という経験をしている時、

平和な気持ちを経験している時、などの経験は、

時間制限つきの相対的なモークシャです。

5秒間なり、1分間なり、1年間なり、惨めな自分のことを忘れていられる時間を、

「幸せ」つまり「(相対的な)モークシャ」と定義づけ、

それを夢見て追いかけ続けて一生を過ごします。

ジタバタして頑張って、至福の時間を経験しても、時間が切れれば、

また元の惨めな自分に戻ります。

そんな経験を繰り返しているうちに、とてつもなく幸運な人々は、

お金・権力・人間関係・瞑想・などなどから得られる「経験」を分析し、

それら時間制限付きの幸せの限界を見抜き、興味を失います。

「ニッティヤーニッティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ
(नित्यानित्यवस्तुविवेकः [nityānityavastuvivekaḥ])」

そう、タットヴァ・ボーダ(तत्त्वबोधः [tattvabodhaḥ])ですね。

この世でもあの世でも、宇宙の中で経験できる全ての幸せについて、

限界を見抜いた人が、ヴィヴェーキー(विवेकी [vivekī])、つまり

ヴィヴェーカ(विवेकः [vivekaḥ])を持っている人であり、

その人はムムクシュ(मुमुक्षुः [mumukṣuḥ])と呼ばれます。

時間の範囲内では、相対的ではない、絶対的なモークシャとは、

絶対的な永遠でなければなりません。

絶対的な永遠とは何か。

本当の永遠の意味とは、実はそれを探しているあなたのことなのですよ。

時間の流れを傍観し続けている、時間の範囲内では無い、

こちら側、つまり永遠である、それがあなたなのですよ。

と教えるのがヴェーダーンタなのです。



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 仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)

<< 前回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) <<

2015年7月7日火曜日

64.カルマ(कर्म [karma])- 自由意志を使って選んで行う行為

कर्म
[karma]

neuter - 自由意志を使って選んで行う行為


マハーバーラタ戦争が始まろうとする中で、
アルジュナに教えるクリシュナ

正しく理解されていないもの、それがカルマ


日本でも使われている「カルマ」という言葉は、

正しく理解されないままに使われているサンスクリット語の

代表例のひとつでしょう。

バガヴァッド・ギーターの中でも、クリシュナが言っています。

किं कर्म किमकर्मेति कवयोऽप्यत्र मोहिताः ।
[kiṃ karma kimakarmeti kavayo'pyatra mohitāḥ]

「何がカルマで、何がアカルマ(カルマの反対)なのか、

賢者とみなされるような人達まで、この点において混乱している。」


ましてや、文献の正しい解釈に触れる機会を持たずして、

分かったつもりで会話の中で多用するのは避けたほうが良いですね。


クリシュナは続けます。

तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]

「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、

そのカルマについて、あなた(アルジュナ)に教えましょう。」


カルマとは何かを「知ることにより」と言われています。

頼まれたら教えます。
頼まれてもいないのに教えても、
解らないどころか、誰も聞いてくれません。このような教えは。


次のシュローカは、

कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]

「文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。

何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。

何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。

これらカルマの理解は難しいものです。」


そして、次のシュローカで、クリシュナは、

サムサーラから解放してくれる、カルマの知識を教えてくれるのです。

しかも、たった半分のシュローカの中で。


その前に、カルマの語源と定義を見てみましょう。

カルマの語源


「クル(कृ [kṛ])」という動詞の原型から派生した言葉です。

「する、つくる」という意味で、英語の「do」に相当する、

言語の基本になる、重要な動詞の原型です。

そこに、「マン (मन् [man])」という接尾語をつけて、

「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がります。

詳しい文法は、下に別記しました。


カルマの定義


さまざまな学派によって、さまざまな定義がされているのが、

「カルマ」という言葉です。

ゆえに、クリシュナも「賢者と呼ばれるような人でも混乱している」と言っているのです。


では、さまざまな定義をひとつひとつ検証しましょう。


1.動くことがカルマ(चलनात्मकं कर्म)

これだと、流れている川、風に揺れる木も、

カルマをしていることになります。

でもそれは違います。



2.見えない結果を生む行動がカルマ(अदृष्टफलकं कर्म)

見えない結果とは、日本語の「徳」のようなもののように、

親切にしたり、祈りの儀式をしたり、または非道徳な行為をした場合、

その行為の直後には見えないけど、後になって回りまわって自分に帰ってくると信じられる、

そんな結果をサンスクリット語で「アドリシュタ」と呼び、

それを直訳すると、「見えない結果」となる訳です。

「アドリシュタ」には「プンニャ」と「パーパ」があり、それぞれ、

「善い行いの結果」と「善くない行いの結果」という意味です。

もうちょっと広げると、

「自分の義務、つまり宇宙の秩序に沿った行為をすることによって生まれる、

後に快適な経験をもたらしてくれるもの」がプンニャで、

その反対がパーパです。

ちなみにプンニャは、ヴェーダーンタやサンスクリットへの興味、

そしてそれらを勉強出来る環境(先生、先生へのアクセス、心の平和など)も、

作り出してくれます。


この定義も完全とはいえません。

全ての行為が必ず「アドリシュタ」を生むとは限らないからです。


3.文法上のカルマ(कर्तरीप्सिततमं कर्म)

行為の主体の対象、という意味です。

これは、文法の話をしている時だけに使われるべき言葉です。


4.自由意志を使ってする行為がカルマ(कर्तृतन्त्रं कर्म / पुरुषतन्त्रं कर्म)

私達は、この身体を使って、ありとあらゆる種類の行為をすることが出来ます。

この時この場所で、この行為を、するか、しないか、するとしたらどのようにするか、

という選択権は私達にあります。

その選択権を「自由意志」と呼びます。

行為の選択権である「自由意志」を持たされている生命体を「人間」と定義します。

行為の選択基準は「宇宙の秩序との調和」です。

宇宙との調和を基準にして、この時この場所で、自分の行為を選ぶとき、

そこには、選択肢は殆どありません。

宇宙の動きが、「自分のすべきこと」として、目の前に表れているのです。

自分の行為を通して、宇宙の動きの中に、調和という形で参加する。

そのとき、その人のこころに精神的な成長が生まれ、平和が生まれるのです。

こうして、自由意志を使って選択した行為(カルマ)と通して、

精神的な成長と平和を得ること(ヨーガ)を、カルマ・ヨーガというのです。


アヒムサー


「宇宙の秩序との調和」として、一番大切な基準は「アヒムサー」です。

「私は痛めつけられたくない。」

という知識は全ての生命体が持っています。

「私と同じように、他の生き物も、痛めつけられたくない」

という知識を持っているのが、人間です。

ゆえに、

「あらゆる生命体に対して、自分が与える痛みを最小限にして生きたい。」

と願うのは、人間が、もっとも人間らしくある姿なのです。


よくある質問:


Q1:自由意志なんて、全ての人間が持っているものなのか?

A1:はい。自由意志を持たされているのが人間です。

ヴェーダによる人間の定義は「自由意志を持っている生命体」です。

地球にいようと、どの惑星にいようと、

自由意志を持っていれば、人間とみなされます。


Q2:全ては運命に操られているのだから、自由意志ではどうにもならないのでは?

A2:運命とは、その人がしてきた行為、つまりカルマの現われです。

カルマとは、自由意志を使用・誤用・悪用して、行われた行為です。

その結果が運命なので、運命を認める事自体が、

カルマ、つまり自由意志を認めていることなのです。




あなたの自由意志は、自由に使いこなされているか?


自由意志とは、自由にうまく使いこなす為に与えられているものです。

実際には、使いこなせていない場合が殆どなのです。

殆どの人が多くの場合、

1.自由意志を使っていない、もしくは

2.自由意志を誤用、悪用しているのです。

なぜそうなるかというと、

1.何も考えずに機械的に行動をしている

2.こうじゃなきゃやだ!という執着に背中を押されて判断が鈍っている

という理由が考えられます。

自分のこころの成長と平和を願う人は、この辺りを気をつければ良いわけです。


「好きなこと」と「すべきこと」


経済至上主義の社会では、「自分の好きなことをやる!」ことが、

いかにも自由であるように教えられていますが、

人間の特権である自由意志が、好き嫌いにハイジャックされている状態を、

本当の意味で自由と呼ぶことは出来ません。

「好きなこと」と「すべきこと」が同じとは限りません。

好きか嫌いかは別として、「すべきこと」が出来る人を、

「客観的」「ヨーギー」「大人」「精神的に成長した人」と呼ぶのです。



カルマ、ヴィカルマ、アカルマ


先ほど上で見た、ギーターのシュローカをもう一度見てみましょう。

कर्मणो ह्यपि बोद्धव्यं बोद्धव्यं च विकर्मणः ।
अकर्मणश्च बोद्धव्यं गहना कर्मणो गतिः ॥ 4-17 ॥
[karmaṇo hyapi boddhavyaṃ boddhavyaṃ ca vikarmaṇaḥ |
akarmaṇaśca boddhavyaṃ gahanā karmaṇo gatiḥ ||]

1.文献で教えられているカルマが何か、正しく知られるべきです。

2.何をすべきでないか(ヴィカルマ)も、正しく知られるべきです。

3.何もしていない(アカルマ)とは何かも、正しく知られるべきです。

これらカルマの理解は難しいものです。」


1.カルマの理解は、ここで試みましたね。

2.ヴィカルマとは、今ここでするべきではない行為です。

つまり、自由意志の不使用、誤用、悪用、乱用によって選択された行為です。

宇宙の秩序の調和に欠けた行為であるゆえに、

その人のこころには、不調和、未熟・幼稚さ、不平和、不満、などがついて回ります。

3.調和のある行為の結果はプンニャだし、不調和の結果はパーパ、

自分はプンニャもパーパも要らないから、息を潜めて、ただただ座って、何もしません!

というのが「アカルマ」です。

しかし、息を潜めているのも、自分で選んでしている行為、つまりカルマです。

座っているのもカルマです。生きているうちは、カルマをしない!なんてのは無理です。

馬鹿ばかしく聞こえるかも知れませんが、ヴェーダーンタを勉強していながら、

このような「僕はヨーギーだから何もしない!」という落とし穴にはまっている人を

私は何人も見てきています。

だから、クリシュナもわざわざギーターの中で言ってくれているのでしょうね。


サムサーラから自由になる、カルマの知識とは?


तत्ते कर्म प्रवक्ष्यामि यज्ज्ञात्वा मोक्ष्यसेऽशुभात् ॥ 4-16 ॥
[tatte karma pravakṣyāmi yajjñātvā mokṣyase'śubhāt]

「それを知ることによって、サムサーラから自由になる、

そのカルマについて、教えましょう。」

と、16節でクリシュナが約束した、カルマについて知る時が来ました。

それを教えるのが次のシュローカです。

कर्मण्यकर्म यः पश्येद् अकर्मणि च कर्म यः ।
[karmaṇyakarma yaḥ paśyed akarmaṇi ca karma yaḥ |]

「カルマの中に、アカルマを見ている者。

アカルマの中にカルマを見ている者。」

教えはこれだけです。

後は、教えを理解している人について。

स बुद्धिमान् मनुष्येषु स युक्तः कृत्स्नकर्मकृत् ॥ 4-18 ॥
[sa buddhimān manuṣyeṣu sa yuktaḥ kṛtsnakarmakṛt || 4-18 || ]

「その人は、人間に与えられた知能を、使われるべき用途で使った人。

その人の考え、言葉、行動には矛盾が無く、

その人は、人間として生まれてするべきカルマを全てした人である。」

人間としてするべき全てのカルマとは、

「カルマでは人間の幸福は満たされない」という見切りが付けられて、

ヴェーダーンタに出会うまでのプンニャを稼げたら、

ほとんど仕事は終わりです。

あとは、カルマ・ヨーガでこころを成長させながら、

日々クリアーになるヴェーダーンタの教えに触れ続ける生活があるのみです。


カルマの中にアカルマを見る


「料理をする」というカルマ(行為)をとってみます。

そこには、台所に立つ、米を研ぐ、水を流す、、、という行為の連続があります。

それらのどれひとつをとっても「料理をする」ではありません。

「料理をする」という実体は無いのです。

「米を研ぐ」という行為にも、米を釜に入れる、水道の蛇口を開ける、米をかき回す、、、

という行為の連続があり、どれひとつをとっても、それは「米を研ぐ」ではありません。

つまり「行為」に実体は無いのです。

お米をとっても、そこにはデンプンと水分があるだけ、デンプンには炭素と窒素などの原子が、

水の分子には、水素と酸素の原子が、、、と素粒子まで行っても、

やっぱり最終的に「これだ!」という実体はないのです。

じゃあ、何も無いのか?

実体はないけれども、ほかほかの美味しいご飯は食べられます。

いや、ご飯なんて無い!世の中はすべて「無」だ!

というなら、ご飯抜きね。ほかほかご飯も、食べる人も、無いんでしょ?


じゃあ、実体は何なのか?

この実体と、実体は無いけれども、「ある」世の中の現象全てについて、

追究するのがヴェーダーンタなのです。

これは、人生の意味を満たしてくれる、真剣な勉強です。

ヴェーダーンタは必ず、ヴェーダーンタの知識の伝承の伝統のなかで学んだ先生から、

直に教えてもらわなければ、その意味は成せません。

ギーターチャーリヤ(ギーターの先生)
バガヴァーン・クリシュナ

じゃあ、カルマは無いのか?


カルマの役割は、正しく理解される必要があります。

ヴェーダーンタの知識を理解出来るこころは、

カルマを通してのみ、つまり義務を果たす生活を通してのみ、培われます。


また、モークシャとか、解脱とか、ニルヴァーナとか、ニッバナとか、

「何からの解放・自由なのか?」というと、「カルマ」からです。

つまり、カルマを認めないと、そこからの自由も無いのです。

ゆえに、カルマが何かを分からないと、そこからの自由も何も語れないのです。


何を求めているのか、何が気に食わないのか、何がどうなればいいのか、

全てをきっちり考え抜かないのは、

「メルセデスを欲する代わりに、解脱を欲している」のレベルです。

考え抜くガイドをしてくれ、その答を教えてくれるのが文献とそれを教える伝統なのです。


クリシュナの言うとおり、カルマについては混乱だらけです。

カルマの役割を正しく知ってこそ、さらなるカルマの意味が分かるのです。

今回見た一連のギーター・シュローカの一語一語は、

その意味と意味の開き方の伝統を知る先生から、正しく教えてもらって下さい。

皆さんが正しい先生とめぐり逢える事をお祈りしています。




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こちらも: 行動の選択と葛藤について、ギータークラスの質問への答え



63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])

ヒンドゥーでは、天使や悪魔のささやきといった、人格を分裂させ、自己否定・自己糾弾させるような教えはありません。


>> 次回 65.ダルマ(धर्मः [dharmaḥ]) >>

カルマと言えば、ダルマを知らなければなりません。







カルマの語源(文法編)


「クル(कृ [kṛ])」に「マン(मनिँन् [manim̐n])」という接尾語を付けます。

この接尾語を付加することによって、

「される対象、もしくはすることによって得られる対象」

という意味の名詞の原型が出来るのです。

さらに、この接尾語は、「クル(कृ [kṛ])」にグナの変化を起こします。

  k ṛ + man

= k a + man

「ṛ」のグナは「a」です。

「ṛ」の音が「a, i, u」のいづれかに変化した際、その後ろに「r」が付加されます。

ゆえに、

= k a r + man

となり、「カルマン(कर्मन् [karman])」という名詞の原型が出来上がるのです。

ちなみに、「カルマ」という形は、名詞の活用変化をした後の形です。

2015年6月5日金曜日

59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])- 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの

अमृतम्
[amṛtam]


neuter - 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの




不老不死の秘薬?


古今東西の物語の中で「アムリタ」とは、

「不老不死の秘薬」という、この世のものではないような飲み物のことを指します。

王様や富豪が世界中の辺境な地に遣いをやったり、

時には自ら危険をおかしてまでも、この不老不死の秘薬を手に入れようとします。

どんなにお金や権力を持ってしても、やっぱり老いや死を恐れる、

か弱い生き物なのだな、人間と言うものは。と幼心に思ったものです。


しかし、不老不死の秘薬なんて、誰も見たことも無いものなのに、

そんなもの、どこから聞きつけてきたのか?と思っていましたが、

ヴェーダをはじめとする文献には「アムリタ」という表現がよく出てきます。

ヴェーダの教える「アムリタ」とは、一体何なのでしょうか。


アーユルヴェーダの神様、ヴィシュヌの姿のひとつ、
ダンヴァンタリーが手にしている壷の中身は?

アムリタの語源


アムリタという言葉は、以下のように定義されています。

नास्ति मृतं मरणं यस्मात् तद् अमृतम् ।

「それ(アムリタ)によって、死(ムリタ、マラナ)がなくなるもの。

それが、アムリタ。」

それってやっぱり、不老不死の秘薬みたいですね。

この世にあるものは全て例外なく、時間の中で滅び行く運命にあるのに、

どうやって死がなくなるのでしょうか。


「ムリ(मृ [mṛ])」とはサンスクリット語で「死ぬ」という動詞の原型です。

この「ṛ」の巻き舌の音は、日本語に無い音なので、

「ムリ」とも「ムル」とも言えない音ですが、とりあえず「ムリ」とカタカナ表記しています。


この動詞の原型に、「~すること」という意味の「タ(त [ta])」という接尾語を付けると、

「ムリ(मृ [mṛ])死ぬ」+「タ(त [ta])~すること」
=「ムリタ(मृत [mṛta])死ぬこと、死」

になります。


否定の意味の「ア(अ [a])」と、「ムリタ(मृत [mṛta])死」をくっつけて、

「アムリタ(अमृत [amṛta])」となります。


文法の話: バフヴリーヒ・サマーサ


このタイプの複合語(サマーサ)は、「バフヴリーヒ」というタイプのサマーサで、

複合された言葉以外の意味を指す言葉です。

つまり、「それにより、死(ムリタ無くなる(」という場合、

複合語は「ムリタ」ですが、

その言葉の意味は、「それ」、つまり不老不死の薬などを指しているのです。


その人の、心や考え(アートマー)は寛大(マハー)である」の場合、

複合語は「マハーアートマー」で、

その言葉の意味は「その人」つまりガンジー師や、サドゥーを指します。

サンスクリット語は深い!

その中身は?

死にたくない、幸せになりたい、と願うことは、尊敬されるべき願い



「アムリタ」を求めているのは、何も王様や富豪だけではありません。

全ての人が欲しいものの象徴として、「アムリタ」があります。

それは何故かと言うと、私たちは皆例外なく、死ぬのは嫌だからです。

死にたくないと思うことは、恥ずかしいことでも何でもありません。

それがバガヴァーンのアレンジメントなのです。

ヴェーダーンタを学んで理解しなかった自称グルが、

「生への執着を捨てろ」などと教えるのは、危険極まりないことです。

人間だけでなく、全ての生きているものが、

死ぬことを嫌がること、傷ついたり痛みを感じることを嫌がることは、

バガヴァーンの在り方であるゆえに、尊敬されるべきことです。

自ら命を絶とうとする人もいますが、その人も「これ以上の痛みを感じたくない」

という思いから行動しているのです。例外なく誰だって、幸せになりたいのです。

幸せになりたいと願うのは、生きるものとして当たり前のことであり、

それを追求する為に、人生の時間が与えられているのであり、

それもバガヴァーンの創造のあり方なので、

自分の願いも、他者の願いも、後ろめたさを感じることなく、

尊重されるべきことなのです。


コンパッション - 成長した人間の在り方


「死にたくない」というのは、全ての生き物に共通であることから、

ユニヴァーサルな価値感、つまり宇宙に普遍する共通の法則のあり方です。

私達生きるもの全ては、自分が「死にたくない」というのをよーく知っています。

自分自身のことですからね。

では、自分と同じように、他の生き物も「死にたくない」と思っている事を、

一番よーく知っているのは誰でしょう?

それは人間です。

このことをよーく知っているがゆえに、人間なのです。

「このこと」とは「共感、コンパッション、思いやり、良心」といった、

人間の、一番人間らしい感情のことです。


しかし、人間は、宗教の名の下に、「お国を守る」為に、

そして怒りや恐怖、不安から、

そして「地球上の動植物は全て、人間の消費の為にあるのだよ」といった

宗教的、あるいは経済至上的な価値感教育による洗脳、

そんな理由から、他の生き物を毎日殺しています。

自分が生きていく為に避けられなかった、最小限の殺生よりも、

はるかに多くの命を、上に挙げたような都合で殺生しているのです。


私利私欲の為に、大多数の人々に対して、

人間はもちろん動植物を殺すことを推奨することは、

その人々の人間性を否定していることに他なりません。


宗教、政治、経済などの大きな波に飲まれて、

大多数の人間達は、人間である証、「コンパッション」を放棄させられているのです。


神々が集まって、ミルキー・オーシャンを攪拌して、
アムリタを取り出そうとしている図
プラーナに出てくる有名なお話。

時間軸の中にあるのは全て、死に行く運命にある



生きているものが全て「死にたくない」「傷つきたくない」と願う一方で、

この世にあるものは全て、そして、ヴェーダによれば、あの世にあるもの全ても、

例外なく、いつか死ぬ運命にあります。

この宇宙自体、全体そのものが、

時間の範囲内で生まれ、時間の範囲内で一瞬も止まらずに変化し続けています。

それゆえに、この宇宙にあるもの全てにおいても同じことが言えます。

この机は動いてないよ~って言っても、ミクロレベルでは素粒子はぐるぐると動き続けています。

マクロレベルでも、太陽の視点から見ると、

この机はものすごいスピードで、ぶんぶん回っています。

太陽は動いてないって?銀河の視点から見たら、太陽もぶんぶん回っています。

私の体の細胞も、私の考えも、ぶんぶん、ぐるぐる、、、変化し続けています。

そして、時間軸の中にあるものは全て、変化を遂げて、

最終的には、その名前で呼ばれることに相応しくない形へと変化します。

形を変えているだけで、新しい名前と形の登場とも言えますが、

死ぬ、という呼び方で認識されます。

ここにポジティヴ・シンキングもネガティブ・シンキングも要りません。

この世のあり方の現実として、死があり、それは、

人間でも、動物でも、植物でも、どんな生き物でも、忌み嫌うものです。

なぜかと言うと、そういう風に出来ているからです。

それがバガヴァーンの創造のあり方です。

それは尊敬と畏怖をもって受け入れられるべきことです。

誰だって死ぬのは嫌なのです。


しかし、生きている以上、死というイベントは避けられません。

なぜなら、私達の体は時間軸の中に存在しているからです。

どんなに健康でラッキーでも、意外と短い時間内に、必ず、

身体の機能はストップしてしまいます。

時間軸のなかで生まれてきたものは必ず、時間に縛られています。

つまり、時間軸内で形を変え、時間軸の中で姿を消していくのです。

自分の目に入るもの、考えられるもの全てにおいて、

時間に縛られて消えていくことを認識する必要があります。


絞りたてのアムリタですよ~
と偽って、偽物のアムリタを分配しようとしている、
モーヒニーに化けているヴィシュヌ

「不死」なんて絶対無理?


そうだとしたら、「不死」なんて、絶対無理ですね。

「アムリタ」が何であれ、それによって私から死を無くすなんて、

あり得ないことです。

時間はサンスクリット語で「カーラ(कालः [kālaḥ])」と言いますが、

時間という言葉そのものが、死を表しているのです。


ヴェーダーンタが教える、あなたの本質


しかし、ヴェーダは教えます。

「あなたは死(時間)から自由な存在である」と。

どういうことでしょうか?

私は生まれてからずっと、時間の中にあるものを対象化し続けています。

小さいときの自分の身体と心のあり方は、今ではもうほとんど原型を留めていません。

でも、自分の変わり続ける身体と心を、脳みそのどこかで静かに眺め続けている私がいます。


4D?5D?19D?


1枚の紙の上に描かれる絵は、2Dです。つまり縦軸と横軸の中の世界です。

それを鑑賞するには、もうひとつのディメンション、つまり奥行きという軸を足した、

3Dの視点から眺めなければなりません。

私達が眺めている世界は、3Dです。時間軸を足したら4Dですかね。

あの世も足したければ、もうひとつ足してもいいですよ。

ちなみにヴェーダでは世界は大きく分けて3つ、さらに分けたら14あります。

「じゃあ、私のいる世界は、5D?いや、10D?いやいや、19D??」

というのが凡人の考えです。

どういう点が凡人なのかと言うと、

同じディメンションという枠の中で数を増やしているだけ、という点です。

さらに、「そこに行って見たい!」と言い出すのは凡人の極みです。

どこに行こうが行くまいが、行き先の話をしているのではなく、

行っている自分の話をしているのです。

時間的にも空間的にも離れていない、

今、ここに存在している、自分の話をしてるのです。

ディメンションの数がいくつであれ、移り変わり行くそれらを対象化している、

変らない、意識的な存在である、いまここにいる自分は、

それらの対象物とは、まさに次元が違うのです。


対象化されているものは、時間枠の中にあるので、「ムリタ(मृतम् [mṛtam]」。

つまり死に行くもの。

それを対象化しているのは、時間枠の中にいない、

「今」という現実である私。

時間に制限されていない、死から自由な存在、それが私の本質なのです。


アンコール・ワットにも、同じモチーフの壮大な彫刻があります。
バンコクのスワルナ・ブーミ(サンスクリット語で「黄金の地」)国際空港にも、
アムリタのお話のディスプレイがあります。


アムリタの意味



もし、私が時間軸の中に存在していない、不死の存在であるとしたら、

今、ここで既に、私は不死の存在であるべきです。

「今」の意味は、時間の中には無いのです。

「今」の意味は、いま、ここ、の意識的な存在、つまり自分なのです。

しかし私はそんなことも知らずに、死と老いを恐れて毎日生きています。

そうです、「知らずに」いることが、私を「死にゆく者」にしているのです。

では、私を死から、時間の制限から解放してくれるもの、

つまり、「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」=「それにより死が無くなるもの」とは、、、

「あなたは時間軸の中に存在していないのですよ。

意識的存在である、あなたが時間に存在を与えているのですよ」

と教えてくれる、ヴェーダの知識が「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」なのです。

それをきちんと理解出来たときにのみに言えることですが。



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58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])


質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?








>> 次回 60.グル(गुरुः [guruḥ])>>

(自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星

2015年4月8日水曜日

53.プラマーナ(प्रमाणम् [pramāṇam])- 知る手段、情報源

प्रमाणम् 
[pramāṇam]


neuter - 知る手段、情報源




プラマーナの語源


「マー(मा [mā])」とは、「知る」と言う意味の動詞の原型です。

「プラ(प्र [pra])」は動詞の前につく接頭語で、それ自体には意味は無いのですが、

「マー(मा [mā])」の意味を他の意味として取られないようにしています。

サンスクリット語で「お母さん」「~してはいけない」という時でも、

「マー(मा [mā])」が使われるからです。

動詞の原型の後についている接尾語は「アナ(अन [ana])」です。

「アナ(अन [ana])」には様々な意味がありますが、ここでは「~する手段」です。

全部併せると、「プラ+マー(知る)」+「アナ(~する手段)」、

つまり、「プラマーナ(知る手段、それによって知れるもの)」という言葉が出来上がります。

サンスクリットの文法って難しくないでしょ?でしょ?



プラマーナとは


対象物は何であれ、人間が何かを知る時には、

「その対象物を知る手段」つまり「プラマーナ」が必要です。

プラマーナを通してのみ、人は何かを知ることが出来るのです。

色や形を知るためには、「視覚」というプラマーナを使う。

音を知るためには、「聴覚」というプラマーナを使う。

明日晴れるかどうかを知るためには、目で見たデータを元にして、

それを論理的に処理して結果に導く「推測」というプラマーナを使う。

このように、プラマーナは何種類かに分類できます。


(カタカナばっかりになってしまうので、要点だけを押さえて簡素化しました。)

自分の身体の中に与えられたプラマーナ

1.五感

         i.    プラッティヤクシャ(五感)
        ii. サークシー・プラッティヤクシャ(空腹感など)

2.推論(五感から得たデータが元)

         i.    アヌマーナ
        ii. アルターパッティ
       iii. ウパマーナ
       vi. アヌーパラブディ
 と、4つありますが、全ては五感から得たデータに基づいて
 それを分析したものだと分かればそれでOKです。
 
自分の身体の外にあるプラマーナ

3.言葉

 a. パウルシェーヤ(人間の思考からの言葉)

         i.    出所が五感 「今朝あの人に会ったよ~」
        ii. 出所が推論 「顔色悪かったらきっと風邪引いたんだろうね」
       iii. 出所がアパウルシェーヤ … バガヴァッド・ギーターなど(スムルティ)

 b. アパウルシェーヤ(人間の思考からではない言葉)

         i.    独立したプラマーナ … ヴェーダ(シュルティ)



プラマーナである条件


・ 他のプラマーナと相反してはならない (अबाधितम्)

例えば、目の前のコップが2つに見える。しかし、触ったら1個だった。

視覚と触覚の2つのプラマーナが相反しています。

この場合は、視覚と言うプラマーナに欠陥があるので、メガネなどで補正する必要があります。


・ 他のプラマーナとかぶらない   (अनधिगतम्)

それぞれのプラマーナは、それぞれのエリアをカヴァーしていて、

他のプラマーナのエリアと重なったりしません。

例えば「視覚を使って聞いたりすることは出来ない」ということです。

当たり前すぎるようですが、ヴェーダで教えられている知識を正しく知ろうとする時に、

必ず前提として知っておくべきことです。

また、他の既存のプラマーナとかぶっているなら、

もうひとつのプラマーナとして数えられることは出来ません。


・ プラマーナを使う人に利益をもたらさなくてはならない。(फलवत्त्वम्)

これは言葉(シャブダ)がプラマーナである時に必要な条件です。

わざわざ言葉を使って、聞き手に何かを伝えているのですから、

聞き手の役に立つ新しい情報を提供するものでなければなりません。


プラマーナとして認められないもの


上で見た条件から、プラマーナとして認められないものをあげて見ると、、

・ 個人的な意見
・ 詩、作り話
・ 出鱈目、デマ
・ 直感、夢、お告げ、etc.

・ 言葉がプラマーナである場合:
  ・ 五感や推論に反するもの (अबाधितम्)
  ・ 聞き手の役に立たないもの (फलवत्त्वम्)
 
  ・ 言葉がプラマーナで、さらにアパウルシェーヤの場合:
    ・ 五感や推論で到達できる情報 (अनधिगतम्)



プラマーナに関する混乱が、情報リテラシーのレベルを下げる


無責任で利己的なな情報が溢れる中、自分自身の情報リテラシーのレベルが

落ちぶれないように常に気をつけないと、

プラマーナと呼ぶに値しないものを、プラマーナとしてとらえて論じ始め、

プラマーナと呼ばれるべきものを、「個人の意見」として片付けてしまう、

そんな混乱を自分自身の頭の中に招いてしまうのです。



何を知るために、どのプラマーナを使うか?


色や形を知るためには、視覚と言うプラマーナを使う。

こんなことは当たり前です。

では、自分自身を知るためには、どのプラマーナが適しているのか?

古今東西、自分と世界の真理を知る為の試みが、

哲学や宗教という名の下に続けられてきました。

哲学や宗教は、以下の情報の下に成り立っています。

A. 五感を基にした推論
B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ

哲学や宗教は、自分自身を知る為に適したプラマーナなのでしょうか?

A. 五感を基にした推論 では無理

五感や推論は、自分以外の対象物を対象化する為のプラマーナです。

世界のみならず、自分の身体や思考、感情も対象化し続けている、

意識的な主体=私を知る為に、五感や推論は使えません。


B. 個人的なアイディア
C. 神様からのお告げ でも無理

出所は五感では無いですが、

五感や推論に反するものであったり、(永遠の天国、無形で男性の神様など)

聞き手の幸せに貢献するものでなかったりするからです。(あなたは罪人です、など)




ヴェーダーンタ・プラマーナ


ヴェーダの最後の部分を、ヴェーダーンタ、或いはウパニシャッドと呼びます。

ヴェーダーンタは、自分と世界の本質を知る為の手段、

つまりプラマーナとして扱われています。


ヴェーダーンタを理解する為の伝統な論理手法として、

ウッタラ・ミーマームサーと呼ばれる学問があります。

そこでは、ヴェーダーンタのプラマーナとしての有効性が論理的に明らかされ、

さらに、プラマーナであるヴェーダーンタの教えの有効性が論理的に明らかにされます。


プラマーナ不在の精神世界マーケット


情報リテラシーに関して注意深くあるべきと常に気をつけていなければ、

ただでさえ正しい知識活動をするのは難しいのに、

一度「精神世界」「スピリチュアル」「宗教」の話になると、

人間の知能とは、局部麻酔にでもかけられた様に、機能を停止してしまうようです。


世界中に溢れている、「スピリチュアル」「エンライトメント」「サマーディ」

「覚醒」「解脱」「涅槃」「セルフ・ナレッジ」といったアイディアは、

どれも手探りの情報で、プラマーナと呼べるものではありません。

南インドのもっと南では、「自分自身について知りたければ、自分自身に聞けばよい」

と教えて瞑想を推奨し、プラマーナが何かなどとは考える余地も与えません。

どれも全ては、体験を追いかけるものばかりで、

体験者の本質を理解することと、人間の幸せとの関係を教えるものはありません。

インスパイアはしてくれても、辻褄の合う「教え」が無いのです。

体験を追いかけ、理屈に合わないけど、なんとなく気分のいい話を聞いていると、

それなりに満足感や心の平安を、一時的に与えることは出来るかもしれませんが、

一時的な体験であることから、ショッピングや旅行や晩酌と同じで、

根本的な解決には成り得ないのです。

プラマーナに関する質疑応答「質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?



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最近日本のヨガスクールでもどんどん教えられるようになってきましたが、充分な注意が必要です。





太陽礼拝(スーリャ・ナマスカーラ)の意味と、そのマントラについて

全身を使って太陽に礼拝することに、どのような意味が込められているのか、マントラとともに説明します。

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