2014年12月20日土曜日

38.コーティ(कोटिः [koṭiḥ])- 数え切れない位の大きな数字

कोटिः
[koṭiḥ]


feminine - 数え切れない位の大きな数字




”無数”を表現する為の言葉


日本語でも、「百万回トライする」とか「100億個食べる」とか、

数え切れない位の数字を伝えるときに、大きな数字の単位を使いますね。

一千万回でも十万回でも、どちらでも構わないわけです。

同じ意味合いで、サンスクリット語でも「コーティ(कोटिः [koṭiḥ] )」という言葉が使われます。

実際にいくつなのか辞書で調べてみましたが、はっきりした数字は出てきませんでした。

とにかく大きい、天文学的な数字、というアイディアを伝える為の言葉です。

同じ意味合いで、「サハッスラ(सहस्र [sahasra])=1000(千)」という言葉も

文献の中でよく使われています。千は簡単に数えられる数字ですが。。


プルシャ・スークタ


クリシュナ・ヤジュル・ヴェーダの中に有名な「プルシャ・スークタム」という節があります。

ご参考までに、Youtubeの音声を載せますね。

ちょっと編集が過剰ですが、伝統的に信頼されているCallakere Brothersのチャンティングです。


プルシャ・スークタムの詩は、

「千の頭、千の目、千の足、全てはプルシャ」で始まります。
(सहस्रशीर्षा पुरुषः सहस्राक्षः सहस्रपात् । [sahasraśīrṣā puruṣaḥ sahasrākṣaḥ sahasrapāt | ])

ちょっと待って、頭が千個あったら、目と足は2千ずつでしょう?

と思われるかもしれませんが、ここで言う千という数は、

数え切れない位の数、全て、トータル、という意味です。

詩の意味は、「全ての頭(あなたのもね)、全ての目、全ての足は、

プルシャ(イーシュワラ)のもの。」

「プルシャは、現在過去未来に在るもの、真に全て。」
(पुरुष एवेदं सर्वम् । यद्भूतं यच्च भव्यम् । [puruṣa evedaṃ sarvam | yadbhūtaṃ yacca bhavyam | ])

と続きます。

つまり、プルシャ(イーシュワラ)から離れているものなど何も無く、

あなたの頭も、目も、足も、プルシャ(イーシュワラ)なのです。

周りからの認めてもらわないと自己確認出来ない、ちっぽけな自分の正体は、

全世界の人間が神と崇めている、唯一の存在 = 全て なのです。


びっくりさせてしまったら、ごめんなさい。


プルシャ・スークタが教えるヴィジョンの理解


「なんかそれっていい感じだし、理屈にも反していないけど、

スケールが大きすぎて、いきなりそんな事言われても、実感湧かない。」

では、解決法として、ヨガをしたり、瞑想をしたり、インドに行ったりすればいい?

いいえ。

ヴェーダははっきり答えます。

普通の家庭人・社会人として、自分の義務を果たしながら、

周りに貢献出来る、大きく豊かな心を持つ人間に成長しなさい。

それのみが、「私が欲しいもの、望むものの全ては、この私である」と

理解出来る為の心を準備する、唯一の方法なのですよ。

自分の心が、この宇宙の全てくらいに寛大でないと、

「私が全てだ」とは言い切れませんからね。

あなたの心の成長の為に、プルシャはこんな形の宇宙として現れて、

こんな形のあなたと、あなたを取り巻く環境を作ったのですよ。


ちなみに、ウィキペディアには、(いつもの事ですが)

トンデモない、トンチンカンな説明が書いてあります。

こんな説明は、伝統の教えではないことはもちろん、あなたの幸せにも貢献しません。


= コーティ(कोटिः [koṭiḥ] )が使われている文献 =

नमोऽस्त्वनन्ताय सहस्रमूर्तये सहस्रपादाक्षिशिरोरुबाहवे ।
सहस्रनाम्ने पुरुषाय शाश्वते सहस्रकोटियुगधारिणे नमः ॥
[namo'stvanantāya sahasramūrtaye sahasrapādākṣiśirorubāhave |
sahasranāmne puruṣāya śāśvate sahasrakoṭiyugadhāriṇe namaḥ ||]

ヴィシュヌ・サハッスラナーマ・ストートラムの終わりの章に出ているシュローカです。

趣旨は、上のプルシャ・スークタムと同じです。

無限、全ての形、全ての脚と目と頭と腕を持つ者、全ての名前を持つ者、

全ての時間、全ての創造を支える、プルシャに「ナマハ」。

「ナマハ」は、「ナマステー」の、ナマハです。

「ナマハ」、「ナマステー」の意味はとてもとても深いです。

また、今度ゆっくり話しますね。


ガネーシャへの祈り


वक्रतुण्ड महाकाय सूर्यकोटिसमप्रभ ।
निर्विघ्नं कुरु मे देव सर्वकार्येषु सर्वदा ॥
vakratuṇḍa mahākāya sūryakoṭisamaprabha |
nirvighnaṃ kuru me deva sarvakāryeṣu sarvadā ||

(いい音源がYoutubeで見つかりませんでした。

短く簡単なシュローカなので、日本の皆さんがチャンティング出来るように、

近いうちに自分でファイルを作りますね。)


ガネーシャの特徴


障害物を司る神様は、日本でも人気のガネーシャです。

しかし、障害物を司る神様って?

障害物という形で私たちに見える宇宙の原理、すなわち、原因と結果の繋がり、

ってことは、私の体も心も、私の目の前に見えているものも、そうでないものも、

全ては、原因と結果の繋がりの範囲内にあり、それ以外のものは存在しない。

ブラックホールだって、ビッグバンだって、全ては原因と結果の繋がりの範囲内です。

その、原因と結果の繋がりは、時として、私たちの前に、

障害物という形として現れます。


自由意志


私たちが自由意志を使ってとる行動は、

この原因と結果のネットワークに影響を与えることが出来ます。

自由意志だって、原因と結果の繋がりの範囲内であって、操り人形みたいに、

自由じゃないじゃん!って考える人がいますが、

「あたかも」の自由であっても、やっぱり私たちが自由に使えるものなのだから、

賢く自由に使うべきです。

自由というものは常に、乱用・悪用されているのですから。

賢い自由意志の使い方は、自分にも周りにも一番良い行動を選択することです。

自分の手の届く範囲には、しっかり手を打つ。

客観的な人は、自分の手の届く範囲の外にある決定要素もしっかり視野に入っています。

そんな人が、自由意志を完全に自由にして行える行為が、「祈り」です。

人間のうまい生き方マニュアルであるヴェーダは、

ガネーシャというフォーム(形)を、障害物に対して働きかける行為をするために与えています。

心の中に、ガネーシャのフォームを描いて、そこに、

宇宙全体に広がる、原因と結果の繋がりのネットワークを認識し、

それに対して、祈りという行為で影響を与えることが出来る、と教えているのです。

手を合わせて「うまくいきますように」と、心の中で言うことも出来ますし、

伝統で教えられている、このサンスクリットのシュローカを唱えることも出来ます。


ガネーシャへの祈りの意味



曲がった鼻と(vakratuṇḍa)

大きな体、(mahākāya)

数億個の太陽の光を持つ(sūryakoṭisamaprabha)

デーヴァよ!(deva)

全ての取り組みにおいて(sarvakāryeṣu )

私の為に(me)

常に(sarvadā )

障害物の無いようにしてください(nirvighnaṃ kuru)。



<< 前回の単語 37.कोशः [kośaḥ] - コーシャ <<

パンチャ・コーシャ・ヴィヴェーカに出てくる言葉です。
間違った意味がヨガ界・インド哲学界でまかり通っているので、
伝統に沿った、ちゃんとした意味を知りましょう。





>> 次回の単語 कैलासः [kailāsaḥ] - カイラーサ >>

今は中国領のシヴァ神の住処です。          

2014年11月22日土曜日

37.コーシャ(कोशः [kośaḥ])- (剣や刀を収める)鞘(さや)、被覆するもの

कोशः
[kośaḥ] 


masculine - (剣や刀を収める)鞘(さや)、被覆するもの





ヨガ・インストラクター養成講座や本などを通して、ヨガ哲学らしきものを勉強した人なら

聞き覚えのある言葉 - 「パンチャ・コーシャ」のコーシャです。

「パンチャ」とは数字の5です。直訳すると「5つの鞘(さや)」となります。


パンチャ・コーシャの意味


この「パンチャ・コーシャ」という言葉は、間違った理解&あいまいな理解が

先走りしている、ヨガ用語の代表的なひとつです。


「パンチャコーシャ」の間違った理解の一般例
アートマンって一番ちっちゃいの?
外は全部捨てちゃっていいの?


サンスクリット語によって代々教え継がれている、

正しい伝統に沿った意味を、ここでは日本語で、分かり易く説明します。


ちなみに、「分かり易く」とは、単純化しているのではありません。

伝統的でないインド哲学に氾濫している「神秘的な言葉遊び」をしない、ということです。

教えとは、先生から生徒への言葉を通したコミュニケーションです。

聞き手が理解出来て、初めてコミュニケーションなのです。



ではまず、自分や世界のことを理解するために、

なぜ「コーシャ(鞘)」という概念が使われるのか?

伝統的に言われる理由は2つあります。


理由1: 自分が見つかる場所だから。


この部屋の中に剣があるとしたら、その剣はどこにある?

と聞かれたら、まず鞘を探しますよね。

鞘が見つかれば、そこに剣がある、と認識する。

同じように、「あなたは何処にいますか?」「あなたは誰?」と聞かれた時に、

人間は誰でも、だいたいこの5つのコーシャのどれかを基準にして、

「私は~にいる」、「私は~だ」と答えます。



理由2: 鞘のように隠すから

上で見たように、「私」=「~~(誰それ)」という自己認識の右辺の部分として、

認識されているのが、この5つのコーシャです。

私が、5つのどれでも有り得る、ということは、私は5つの全てであり、

同時に、本質的には5つのどれでも無い、ということでもあります。

私の本質は、5つのうちのどれでも無いのに、

「私は~だ」とはっきり答えてしまうのは、自分の本質が理解出来ていない証拠です。

それゆえに、自分の本質を取り違えてしまう対象、

という意味で「コーシャ」が使われています。



では、5つのコーシャをひとつづつ見て行きましょう。


1.アンナマヤ・コーシャ(物質的な身体)


「私は太っている」「私は痩せている」「私の背は高い」などと言う時、

その人は、食べ物の変化によって作られた物質的な体で自分を認識しています。

太っていることや瘦せていること、背の高さや鼻の高さは、

自分の存在、「私は今ここに居る」という意識的存在とは何の関係もありません。

なのに、慣習的に体で自己認識をしてしまいます。

このように、「自分」という言葉の意味として認識されている物理的身体のことを、

アンナマヤ・コーシャと言います。


2.プラーナマヤ・コーシャ(生理機能的な身体) 


「私は元気だ」「私は病気を患っている」「お腹が空いた」と言う時の、

自己認識の対象を、プラーナマヤ・コーシャと呼びます。


3.マノーマヤ・コーシャ(流動的な心の機能)

「私は悲しい」「私は怒っている」「どうしようかな」「こんなのいいかな」と言う時、

常に移り変わる心の動きで自己認識をしています。

心を池の水に例えると、心の動きは水の表面に現れるさざ波のようです。

波の形が、感情や考えの形と例えられます。

心理的法則に従って、ありとあらゆることを、次から次へと自動的に、

波紋のように、感情や考えは表れ続けます。

そんな心の状態で自分を認識しているとき、

その人は、マノーマヤ・コーシャにおいて自己認識をしていると言えます。


4.ヴィッギャーナマヤ・コーシャ(しっかりした思考能力、私という個体認識)

マノーマヤ・コーシャにおいての考えが流動的で自動的であるのに対して、

理知や分析、智恵や道徳心を使って、自分なりに出した結論や決心によって、

「こうあるべきだ」「こうするべきだ」「こうに違いない」

と考えている時、その人はヴィッギャーナマヤ・コーシャによって自己認識をしています。

また、「アハンカーラ」と呼ばれる心理機能も、ヴィッギャーナマヤ・コーシャに含まれます。

アハンカーラとは、「私は~~だ」の「~~」の部分を探し、

「私は~~だ」という文章を完成させる心理機能です。

これは、生活をする上で必要な機能です。

「アハンカーラを捨てろ!」とかいう台詞をよく聞きますが、

捨てるのは無理ですし、捨てる必要もありません。

アハンカーラを、アハンカーラという心理機能として認識していればいいだけです。

さらに、望ましい結果の期待できる行動をしている時の、

「私が~をする」「私は~をしている」という行動の主体として自分を認識するのも、

ヴィッギャーナマヤ・コーシャにある機能です。



5.アーナンダマヤ・コーシャ(幸せを感じている心)


どんな不幸な状況に置かれていても、人は、時折起こる小さな出来事や大きな出来事で、

幸せを感じながら生きています。

幸せを感じている時とは、どんな時でしょうか?

それはずばり、自分の抱えている問題や、コンプレックスを忘れている時です。

例えば、平和な動物や風景を見ている時、

音楽を聴いている時、自分の好きな人やものと一緒に過ごしている時、寝ている時、、、

そんな時の気持ちが、アーナンダマヤ・コーシャです。

ただシンプルな幸せな気持ちです。

ヨガ・スクールが提唱するような瞑想など必要ありません。


そして、その気持ちで自分を認識している時、つまり、

「あー、幸せ」と感じている時、衝突の無い、平和な時間を楽しんでいる時、

私は、アーナンダマヤ・コーシャで自己認識をしていると言えます。


私達は皆、幸せになりたくて、言い換えると、この「幸せな私」を再現するが為に、

毎日、一生の間ずっと奔走しています。

つまり、この「幸せな気持ち」で自己認識している自分は、

体、心、知能など、他のコーシャで自己認識している自分達の全ての

ボスなのです。全ての動機は、シンプルに「幸せになりたい」だけなのです。



「パンチャ・コーシャ・ヴィヴェーカ」

5つ(パンチャ)の鞘(コーシャ)という概念を使った、

自分の本質とそれ以外を見分ける為の分析(ヴィヴェーカ)。

これは、タイッティリーヤ・ウパニシャッドがベースになっていますが、

タイッティリーヤ・ウパニシャッドの中では「コーシャ」という言葉は一回も使われていません。



物質的に見て、この体は、宇宙全体の一部です。

この宇宙のかけらをもらって、体が生まれて、死んだらまた宇宙に返ります。

生きている間も、呼吸や新陳代謝を通して、物質的な交換が行われています。

ゆえに、この体は宇宙全体の「一部」として切り離すことすら出来なくなります。

そんな物質的な体を「私」たらしめているのは、、

生理学的機能。生きてこそ「私」です。

私だけでなく、全人類、哺乳類、昆虫、微生物など、全ての生き物は、

生理学的機能により生かされており、その原理は同じです。

そして宇宙人でもデーヴァ(天国の住人)でも、彼らが生きていられるのは、

私達にも共通している、生理学的機能のおかげです。


生きてたら考えたり、感じたりします。

心理学的反応とも呼べる機械的な考え、思考判断に基づく結論、幸福感、

全ては、脳内のシナプス間の電流という物理的なものです。

全ての生き物、地球上のみならず、どの場所でも、どの時間においても、原理は同じです。


それを「私」たらしめているのは、、

今ここに居る私ですね。

どこに探しに行く必要も無い私です。




「パンチャ・コーシャ」の理解の重要なポイントは、

「パンチャ・コーシャ」のどの部分も、宇宙とは切り離せない。

という事実です。


これを理解するのに必要な知識は、一般常識の範囲の自然科学で十分です。

中学校や高校のレベルの数学、生物学、化学、物理学、地学、天文学、心理学、

これらの知識は、「自分はどの部分をとっても、宇宙と切り離せない存在だ」

と言い切るのに十分な理論的バックアップを与えてくれます。

「パンチャ・コーシャ」は、理解の対象である事実を教えるためのモデルです。

神秘的な体験や実践を謳う言葉の集合ではありません。

多くの人々が、神秘的(ミスティック)な言葉にほだされています。

神秘的とは何でしょうか。
  • 理屈が通っていない。
  • 聞き手が理解出来ていない。
  • 話し手も自分が何を言っているか分かっていない。

というのが神秘的と言うものです。

そういうものは、一時的に良い気分にしてくれるかもしれませんが、

根本的な問題の解決にならないどころか、より遠ざけてしまいます。





<< 前回の言葉 36.केवल [kevala] - ケーヴァラ <<
   
たった一つの、唯一のという意味のサンスクリット語の言葉です。
なぜ一つであることと、幸せとが関係しているのか、じっくりヴェーダの教えの伝統に沿って説明します。



>> 次回の言葉 38.कोटिः [koṭiḥ] - コーティ >>

数え切れないほど大きな数、という意味のサンスクリット語です。

2014年11月16日日曜日

34.クリシュナ(कृष्णः [kṛṣṇaḥ])

कृष्णः 
[kṛṣṇaḥ] 

masculine - クリシュナ


インド関係のことを少しでも知っている人なら

誰でも知っているだろう、ということで、

クリシュナ、といきなり固有名詞を訳にいれました。

孔雀の羽をつけて、

笛を持って、

いつも微笑んでいて、

青黒い肌をした、

牛飼いのハンサムボーイ、

という容姿が伝統で私達に与えられています。


このような容姿や形のことを、伝統的には「ウパーサナ・ムールティ」と呼びます。

私達の心は、色、形状、音などの「フォーム」とやりとりするように出来ています。

色や形が無い、抽象的で、形而上のアイディアであっても、

私達の経験や考えの全ては、最終的には、脳波の形です。


なぜ、ウパーサナ・ムールティが伝統の中で教えられているのでしょうか?


なぜ、このような容姿が伝統で教えられているのか?



神様とは?全知全能とは?私達は何処から来た?

何のために生きている?死んだらどうなる?

この世の意味は?


といった人間として基本的な探求をする時に、

その人の心を、こういった容姿や形のものに持って行くと、

水先案内人のように、スムーズに答えに導いてくれますよ。

と伝統が教えているのです。

バガヴァッド・ギーターの冒頭の詩で、

रणनदी पाण्डवैः सोत्तीर्णा, कैवर्तकः केशवः ॥

’このマハーバーラタ戦争という、とても超え難い川を、

パーンダヴァ達は越す事が出来た。

なぜなら、ケーシャヴァ(クリシュナ)が水先案内人をしていたから。”

とあります。


クリシュナを味方につけるということは、

グレース(幸運)という、全ての成功に必要な要素の存在を認めて、

グレースを手に入れるために、ちゃんと手を打っている、と言う事です。


さらに、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナが教えを説きます。

先生を水先案内人として置く、ということは、

先生の教える智慧に、自分の思考とその基準を沿わせる、ということです。

道に迷ったら、出口を知っている人に道を聞くのと同じ事です。




ヴィシュヌ神の化身(アヴァターラ)とは?


クリシュナって誰?と聞くと、すぐに返ってくる答えが、

「ヴィシュヌ神の化身」「ヴィシュヌ・アヴァターラ」

ですが、それを聞いて何を分れと言うのでしょうか?

ヴィシュヌって誰?

神様に決まってるじゃん!

って、当たり前のように言ってるけど、

神様って誰よ?化身って一体何?


「神」の定義を試みてみましょう


宗教を持っている人も、持っていない人も、

「神様が、、」とか、「神様はいるの?」とか、「神様なんかいない!」とかも、

あたかも既に、神様が誰か知っているのが前提になっています。

それって、とっても変ですね。人間って面白いものです。

信仰の厚い人でさえも、「神様って何???」ってちゃんと真面目に考えている人は、

この世に殆どいないように見受けられます。


一般的に定義されている、神様とは、、、

「信仰の対象」― 信じないと存在出来無い神様なんて、頼りになるのでしょうか?

「人知を超えた存在」― 要するに、解からない、知らないってことでしょ?

そんな掴みどころのない神様に、世界の人口の殆どが、

すがりついたり、人生を捧げたりしている事自体が、摩訶不思議に他なりません。


今までの手垢のついた「神」の曖昧な定義は横において、

今から、一からきちんと定義しなおしてみましょう。

まず大前提として、「神」とは、信じる対象ではなく、理解されるべき対象である。

ということです。

全世界の大多数は、「神」と言ったとたんに、知能がOFFになっています。

大事な事は、知能をONにして、ちゃんと正面に向かって、考えるべきです。


「全知全能」というのが、神様によくついてくる形容詞ですね。

全知 = 全部知ってる。

私が今何を考えているとか、どんな状況に置かれているとか、

いちいち報告しないと知らなかったり、報告しても気づいてくれなかったりするのは神様じゃない。

私の考えも、自然環境の在り方も、宇宙の動きも、全て、

脳神経学、生物学、物理学、素粒子物理学、、、などの知識の表れです。

その識のて = 全知 

が、「全知」という言葉の本当の意味です。

これは、信じる必要性の全くない、理解出来ることです。

そして、理解されるべき事です。


全能 = 全ての能力

先ほど見た、「全ての知識」が、私の考えや体や、飼い猫や、お隣さんや、

政治情勢や、環境問題も含む、全ての「宇宙」として現れるために必要な能力のことです。

これも、信じるとか信じないとかいった議論ではないですね。


「全知全能」とは、理解し、認識するべき対象なのです。



全知全能の本当の意味が理解出来たら、

見るもの全ては全知全能の神の表れです。

しかし、そんなことを言われても、

「スケールが大きすぎて、把握できない。。」

というのが、人間の頭脳です。

それゆえに、理解につながるための第一段階として、

人間の頭脳で把握できる、「形」が伝統の中で提唱されているのです。

それが、ヴィシュヌであり、クリシュナであり、シヴァであり、ドゥルガーであり、、、

と人間の好みの数だけ、神様の形も用意されているのです。




「アヴァターラ」とは?



この前の、「ケーシャヴァ」の回で説明しています。

ヴィシュヌのアヴァターラとして良く知られているのがラーマとクリシュナ、

そして、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダもヴィシュヌのアヴァターラとして数えられています。

コーダンダという名の彼しか扱えない大きな弓を持って、
直立しているのが、ラーマの姿勢。
ダルマ=正義を表している。


いっぽう、クリシュナは笛を持って、
体をくねらせているのがいつものポーズ。
アーナンダ=幸せを表している。

ラーマが象徴するダルマ(正義、宇宙の秩序との調和)があって、

初めて、クリシュナの象徴するアーナンダが可能なのです。


ではでは、本題のクリシュナの意味を見てみましょう。


クリシュナの意味



1.永遠の幸福



कृष्णः [kṛṣṇaḥ] は、कृष् [kṛṣ] という動詞の原形から派生しています。

कृष् [kṛṣ] とは、「存在する」という意味です。

ण [ṇa] は、「幸福」を表しています。

伝統で語り継がれているクリシュナの容姿は、常に幸福を表しています。

笛を吹いたり、ダンスをしたり、周りの人達を皆幸せにしたり。。。

しかし、「存在する」を「幸福」とがどう繋がって、クリシュナになるのか?

आकृष् [ākṛṣ] という動詞の原形は「魅了する、心を引き付ける」という意味です。

人は誰でも、心が惹きつけられるものに幸せを見出します。

しかし、どんな幸せも長く続きません。

この宇宙の中にあるもの全ては、常に変わり続けているからです。

変化し続けているものは、それが「在る」といった瞬間に、既に変化しています。

私達の心も体も、物理的、心理的、様々なレベルで、変化し続けています。

そういったものを「絶対的な存在」と呼ぶ事は出来ません。

しかし、「じゃあ、無い」とも言えません。

私はここにいるし、つま先を机の角にぶつければ痛い。

つま先は在るし、机も在る。

姑に何か言われたらムカつく、ってことは、姑はいるし、ムカつく心も在る。

時間とともに生まれては無くなるものばかりだけど、ある、と言える。

その「在る」が、कृष् [kṛṣ] の意味である、「存在する」です。

そして、それが「幸福」のण [ṇa] なのです。

なぜ?

今までの人生の中で、来ては去っていった、沢山の幸せな時間を思い出してください。

私を幸せにしてくれた状況は、常に変化し続けている、宇宙の中の出来事でした。

その中で、常に、一定して在ったもの、、、

それは、「私」でした。

「存在」と「幸せ」のつながりが見えましたか?

そして、それが、私達が常に追いかけ続けているもの、心を惹きつけているものなのです。




2.青黒い色をした者



これが、上で言われている「ウパーサナ・ムールティ」のことです。




<< 前回の言葉 33.クリパー(कृपा [kṛpā])<<

マハーバーラタの戦い、アルジュナの心理、
バガヴァッド・ギーターの背景などを説明します。


   

>> 次回の言葉 35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])>>
          
クリシュナの別名、ケーシャヴァについてサンスクリット語文法を交えて説明します。

2014年11月8日土曜日

33.クリパー(कृपा [kṛpā])- 思いやり、優しさ、深い共感

कृपा
[kṛpā]


feminine - 思いやり、優しさ、深い共感





== कृपा [kṛpā] - クリパー が使われている文献 ==


कृपया परयाविष्टो विषीदन्निदमब्रवीत् ।
kṛpayā parayāviṣṭo viṣīdannidamabravīt |

バガヴァッドギーター1章28節

”とても深い(parayā)人々を思いやる心に(kṛpayā)打ち響かれた(।āviṣṭaḥ)

アルジュナは、とても悲しくなりながら(viṣīdan)言いました。(idamabravīt)”


この詩のバックグラウンド


バガヴァッドギーター1章のこの部分は、

マハーバーラタ戦争が今まさに始まろうとしている時、

主人公であり、正義を通すために戦うパーンダヴァ軍のトップであるアルジュナが、

戦車を止めて戦場を見渡した時、

そこには自分の愛する家族、先生、友人、親戚達が両軍に配置され、

これから愛する者同士で殺し合いをしなければならないという、

想像を絶する境遇に置かれている現実を目の当たりにした時の一節です。


勇敢なアルジュナが、真っ青になって愕然とし、

意識朦朧としている様子をクリシュナに伝えるところです。


アルジュナは「クシャットリア」という、王家に属している身分で、

国を統治したり、民衆のために戦ったり、勧善懲悪の為に尽くすのが、

与えられた役目です。


バガヴァッド・ギーターとは?


ここで、バガヴァッド・ギーターの説明を。。

バガヴァッド・ギーターはマハーバーラタという壮大な叙事詩の中に収められている、

18章、700節からなる小さなセクションです。

なぜこの部分だけクローズアップされて特別に扱われているかというと、

1.ブランマの知識
2.それを知るための成長した心を造る方法=ヨーガ(YOGA,ヨガ)

が凝縮して、バガヴァーン・クリシュナによって直接教えられているからです。


バガヴァッド・ギーターが始まる前の、マハーバーラタの話の中でも、

クリシュナもアルジュナも登場しますが、彼が教え始めるのは、

バガヴァッド・ギーターの2章からです。

2章で初めて、アルジュナが生まれて初めて、幼馴染のクリシュナに教えを請うのです。

マハーバーラタ戦争が今まさに始まろうとしている時、
アルジュナが人間の根本的な問題に気付き、
クリシュナに教えを請います。


教えを請われて初めて、उपदेशः [upadeśaḥ] ティーチング(教え)が始まるのです。

この教えは、頼んでもいない人に、教えるものではないからです。

アルジュナが「教えてください」と言い出すには、バックグランドがあります。

マハーバーラタの以前の部分で、この戦争に至るまでの、

何世代も前からのバックグランドが描かれています。



マハーバーラタ戦争に至るまでのあらすじ



あらすじをまとめると、、、

クルという王国は跡継ぎを必要としていました。

武力に秀でて、品行も正しく、なにより正義とは何かを体現している、

パーンダヴァと呼ばれる王子5人兄弟が、疑いのない候補でした。

才能に長け、皆から愛され、皆を愛しているパーンダヴァ達を、

彼らのいとこであるドゥリヨーダナは、ひどく嫉妬していました。

ドゥリヨーダナと99人の兄弟は、嫉妬に駆られるままに、

非合法的、非道徳的、暴力的な手段で、

パーンダヴァ達の破壊を、事あるごとに試みてきました。

身内の中での争いを好まないパーンダヴァ5人兄弟は、

ドゥリヨーダナ達の悪行に目をつむって甘んじている間、

事態は悪化する一方でした。

身内同士での戦争を避ける為に、数々の侮辱を受け入れ続けたれども、

ドゥリヨーダナの悪行は度を過ぎ、これ以上放置すると、

社会全体が無秩序になるというところまでになり、

パーンダヴァ達が、ドゥリヨーダナ達と戦争をする他ならない状況になりました。

正義という秩序を守るのが、クシャットリアであるパーンダヴァ達の義務だからです。



アルジュナの葛藤



しかし、両軍とも身内ばかりです。

しかも、ドゥリヨーダナは卑怯な手で、パーンダヴァ達に関係の深い人々に、

恩を着せて、自分の軍で戦うように囲っていました。


これが、マハーバーラタで伝えられているバックグランドです。


そして、バガヴァッド・ギーターの1章では、

両軍の中に、親しく愛しく尊敬する人々ばかりを見つけている、

凄まじい痛みと葛藤に襲われたアルジュナの心境が描かれています。


「正義の為と言っても、お世話になった人や身内を殺すなんて事は出来無い。

戦争に勝って王国を手に入れたところで、全ては自分が殺した親戚の血で染まっている。

自分は何も欲しいものは無いのだから、このままリシケシにでも言って、

サドゥーになって、乞食をしながら暮らしたほうがいい。」

と言い出します。



伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

1.アルジュナは家族に執着しているのか?



最近のヴェーダーンタでは、アルジュナの壮絶な心境を、

「家族に対するアタッチメント」

と軽く言ってのけますが、それはとっても危険です。

身内を陥れて殺すことを躊躇しないドゥリヨーダナの方が、

「家族に対するアタッチメント」がなくて、よりスピリチュアル♪といった、

とんでもない論議に展開してしまいます。

スビリチュアル=家族や社会生活を大切にしない

というとんでもない勘違いが罷り通っています。これは絶対に間違っています。


ヴェーダーンタは、伝統的に、本当にちゃんとした教え方がされなければ、

とても、とても危険なので、気をつけましょう。


アルジュナがこの状況で苦しんでいるのは、

彼の精神的豊かさの表れの他なりません。

それが、バガヴァッド・ギーターの詩節のながで、

「कृपा [kṛpā] - クリパー」という言葉で表されているのです。

身内を殺したくないと思うのは、人間として当然のことです。

究極的な立場に追い詰められても、人間性を失わないでいられるのは、

彼が「कृपा [kṛpā] - クリパー」を持っている証拠です。

だからこそ、この状況で、人間として最も基本的な疑問にぶつかるのです。

「自分は何の為に生きているのか?」

「何が人間にとって真実の意味で良いことのなのか?」

そして、それにクリシュナが答えるのです。



伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

2.クリシュナは、戦争をけしかけているのか?



これもよくある解釈です。

「インド国民に、パキスタンに対しての戦闘意識を植え付けるために、

ギーターが教えられている」

といった、いかにもキリスト教宣教師が吹聴したような、

トンチンカンな噂が横行していると聞きます。


人間にとって最も大事で根本的な価値は、

「अहिंसा [ahiṃsā] アヒムサー(非暴力)」である、

とう教えが、バガヴァッド・ギーターの中で何回も出てきます。

ギーターのメッセージは、戦うことそのものではありません。


バガヴァッド・ギーターのメッセージは、

「人は誰でも、その人に与えられた義務を遂行することによって、

人間として成長出来る。家庭や社会の役割を果たす事が、ヨーガなのだ」

ということです。

クリシュナは、教えを請われる前の冒頭に、

「まぁ、つべこべ言わずに、戦いな」と助言します。

この部分は、バガヴァッド・ギーターの教えの部分ではありません。

まだバックグラウンドの部分です。

そのあと、アルジュナに、人間の基本的な問題への答えを教えるように請われてからは、

けしかけたり、助言したりは、一切しません。

クリシュナは、教え出すのです。


全ての人間のみならず、全ての生き物が探している、本当のもの。

本人達は気付いていないけど、全人類が、それとは知らずに、

追いかけ続けている、その本当のもの。

私達は、本当は何が欲しくて、毎日汗をかいたり、苦労したり、

泣いたり、笑ったりしながら、一生掛けて駆けずり回っているのか?


その答えをクリシュナは教えます。

そして、その答えを理解するには、理解する為の「心」が必要です。

「心」が、理解出来るくらいに成長していなければ、

答えを聞かされても、馬に念仏です。


その成長した「心」を育てる為にはどうしたらいいのか?

その方法が「ヨーガ」として、バガヴァッド・ギーターの中で教えられています。

心を成長させるものは、全てヨーガです。

結婚生活も、子育ても、社会貢献も、その人の理解と心がけで、

全て大事なヨーガになるのです。


どんな役割も、それぞれの人に、運命と言う名のもとに与えられています。

役割には、自然と義務が付随します。

これが宇宙の在り方なのです。

役割に与えられた義務を果たす事は、宇宙の秩序と調和する事です。

その人の行動や在り方の全てが、宇宙と調和するようになったとき、

「私が宇宙だ」と言えるぐらい、心の大きな人間に成長しているのです。


それらを何度も繰り返してしっかり教えた後、18章でクリシュナはアルジュナに言います。

「教えるべきことは教えたから、あとは、自分のしたいようにしなさい。」




伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性

3.義務とはいえ、家族内の戦争で殺し合いをするのは、極端すぎ?



もちろんそうです。

与えられた役割の義務を果たす事がヨーガなら、

役割が母親で、義務がお弁当を作ること、でも良いのです。

しかし、あまり地味な設定では、

全世界、全時代の人々の心を揺さぶる超大作ドラマになりえません。

そして、「お弁当作るぐらいなら出来るけど、朝5時起きはいや」とかいった、

否定できる可能性を残さない為に、

人間として、一番究極に辛い行為が取り上げられているのです。

これを、「प्रथम-मल्ल-न्यायः [prathama-malla-nyāyaḥ](プラタマ・マッラ・ニャーヤ)」と言います。

直訳すると、「レスリング・チャンピオンの例え」です。

今年のチャンピオンを決めるには、今年のトーナメントで勝ち残ったチャンピオンと、

去年のチャンピオンを戦わせればOK。という例えです。


上にも述べたように、ギーターの教えるヨーガの、

根本的価値を支えているベースは「アヒムサー(非暴力)」です。

この言葉がギーターの中に何度も出てきます。

バガヴァッド・ギーターのメッセージは、戦う事そのものにはありません。


全ての人の置かれた立場に対応出来るように、最も極端な義務を使って教えているのです。


伝統的正しいヴェーダーンタの教えの必要性



4.伝統的教えを知らなければ、大学教授であってもトンチンカンな解釈しか出来無い。




ヴェーダーンタ、ウパニシャッド、バガヴァッドギーター、そしてヴェーダ全般、

その他の文献の理解には、伝統的教授法というのがあります。

はっきり申し上げますが、インドでも、日本でも、

大学などの機関には、伝統的教授法はありません。

あるとすれば、間違った解釈の教授法が伝統になっているだけです。

いくらサンスクリットの文法に精通していたとしても、

これらの文献は文面をたどるだけでは理解出来るようには出来ていません。

私はインドで、ヴェーダーンタを学ぶことを志す世界中から来た生徒達に、

伝統的方法で(パーニニ)サンスクリットを教えていますが、

「代々続くヴェーダーンタの先生達の教えを受け取るために、

サンスクリットと勉強しているのですよ。

自分で勝手に読み進めるために勉強しているのではありません。」

と口をすっぱくして教えています。

先生の助け無しに文法の知識だけで文献を読んでみると、

トンチンカンな意味しか出てこない、そんな仕掛けがいっぱいあるのを、

実際に例を挙げて、生徒達に見せています。

先生について勉強しない人には、

ヴェーダはその本当の意味を見せないように出来ているのです。


大学教授達がウパニシャッドやギーターに関して研究して書いた文献、

さらにそれを元にして書かれたであろう文献が世間に出回っている文献の大多数を占めますが、

トンチンカンな解釈ばかりです。

こうして多くの誠実な生徒達が、間違った解釈に連れて行かれているのです。



バガヴァッド・ギーターの正しい理解の助けになれば幸いです。



「कृपा [kṛpā] - クリパー」の意味と、その育て方



ちなみに、「कृपा [kṛpā] - クリパー」という言葉の意味である、

「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」というものは、

自然に出てくるもの、と思われがちです。

誰にだって、このような心のあり方を持っています。

スピリチュアリティー、もしくはもっと簡単に、人間として成長すること、

実用的に言うと、メンタルが強く、大きい人になる、というのは全て、

これらの心の在り方を、意識して培い、育てていく事です。


「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」の深い人間へと成長する方法は?

答えは簡単。

今の自分があたかも、ものすごく深い「思いやり」「やさしさ」「深い共感」「愛情」を

持っているかのように振舞う事です。

例え内面がギクシャクしていたとしても、すぐにそれが自分の自然な振る舞いとなります。


逆に、意識して育てない限り、人間と言うものは、なかなか勝手には育ちません。

この事実が、自分に対しても、他人に対してもしっかり当てはまる事も、

よく覚えておかなければならない事です。






<< 前回の言葉 32. कूपः [kūpaḥ]  - クーパ <<

ヴィシュヌ・アヴァターラのラーマ王、そして
初級サンスクリット語学習法の歴史にも触れます。






 
次の言葉はクリシュナ


 >> 次回の言葉 34.कृष्णः [kṛṣṇaḥ] - クリシュナ >>

 クリシュナの名前の意味を説明します。

2014年11月2日日曜日

念願の「曲線矢印」を書き順に導入! サンスクリット・アルファベット練習帳第2版

ナマステ、

おかげさまで、今年のマハーシヴァラートリー(2月)にリリースした、

サンスクリット・アルファベット練習帳 Vol. 1 & 2 合計1000冊がほぼ完売となったので、

第2版を作ることにしました。

今回は、念願の「曲線矢印」を導入しました。(地味ですが。)


カーヴィーっていいなぁ。

こんな書き順なのです!ってすっきり伝わります。


実は、今日思いついて、今日一日で一気に全部編集し直しました。

明後日までに原稿を印刷に出して、16日のアシュラムのアニヴァーサリーで、

プージャスワミジにリリースしてもらう予定です。

ほんとに、いつもギリギリ。

調べたのですが、Word7の英語版には、曲線の矢印は存在せず、

曲線と、矢印を縮めてつくった arrow head を組み合わせる、といった、

かなり細かくて、地味で、根気を要する作業ですが、頑張りました!

曲線の矢印を入れた書き順の出来上がりが、とても素敵なもんで、

嬉しくて楽しくて、一気に出来てしまいました。

今日は、3年コースの生徒達が皆出掛けていて、

久々にゆっくりヨガでもしようかな~っと思っていたけど、、、またいつかですね。


書き順は、インドなんで、基本どうでも良い、という感じですが、

いちおう、サンスクリットに詳しいスワミジに、以下のサイトを見てもらったら、

これが一番 authentic だと言う事なので、今回はこれに沿って再編集しました。

サンスクリットのアルファベット(デーヴァナーガリー)の書き順サイト
http://chl.anu.edu.au/languages/devanagari/


それぞれのアルファベットの書き方の横に、例の単語を2つずつ載せています。

それらの単語の意味を、ひとうひとつ、このサイトで紹介しているのです。



本作りは、沢山の時間と労力を要します。

いつも皆さんの厚意と助けに恵まれ、支えられて、

短期間で沢山の便利な本を世に送り出すことが出来ています。

本を出すたびに、プージャスワミジに見てもらっているのですが、

いつも「useful.」と褒めてくれます。

これからも、沢山のusefulな本を作り出しながら、

皆で安心して沢山勉強できますように。



ちなみに、


で入手可能です。

売り上げは全てアシュラムの運営に充てられます。

日本や、インド国外で入手希望の方は、私にご連絡下さい。

インドから送付する事も出来ますし、

日本その他の外国での、本の入手&サンスクリットの勉強を出来るところを紹介します。


= 追記 =

2014年11月16日、インドのタミルナドゥ州コインバトールにある、

プージャスワミジのアシュラムの24周年式典で、

プージャスワミジご本人に、第2版のリリースをしていただきました。

皆さん、ご協力ありがとうございました!


36.ケーヴァラ(केवल [kevala])- 唯一の、ただそれだけ

केवल
 [kevala] 


adjective - 唯一の、ただそれだけ





英語で言う「ONLY」です。


アルファベット練習帳の第一版では、केयूरः(腕飾り)だったのだけど、

第二版では、この「केवल [kevala] - ケーヴァラ」という言葉に差し替えました。

ヴェーダーンタに関係する意味のある言葉の方が良いと思ったのと、

次に出てくるकैवल्य [kaivalya](唯一である事)と、

併せて理解出来ると良いと思ったので、変更しました。




この言葉は、ヴェーダーンタを理解するうえでとても大切な言葉です。

ヴェーダーンタは日本語のWikiなどで、「不二一元論」と訳されています。

(私は使いませんが!)

「不二」「一元」「唯一」、、、

どうして「1つであること」がそんなに大事なのでしょうか?

どうしてそれが、人間の幸せに関わるのでしょうか?

天涯孤独のような響きがして、幸せとは反対のような気がしませんか?


「唯一」の定義


ヴェーダーンタが教えるこの「唯一」という言葉を、

まずは、きっちり定義してみましょう。



= 唯一であることの3つの条件 =


1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

सजातीयभेद-रहितम् [sajātīyabheda-rahitam]

花でも、動物でも、無生物でも、同じ種類に属するメンバーは複数あります。

例えば、「木」というジャーティ(種類、クラス)があります。

その中には、リンゴの木、菩提樹の木、ニームの木、、、

といろんなベーダ(違い)があります。


同じ種類に属するメンバーがひとつも無いもの、それが「唯一」の定義のひとつです。

例えば、「空間(space)」というコンセプトの中には種類はありません。

家の外の空間、中の空間、というのは、

壁で区切って考えている人の中にあるコンセプトであって、

空間そのものに種類があるわけではありません。


2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

विजातीयभेद-रहितम्  [vijātīyabheda-rahitam]

「木」という種類・クラス以外にも、「石」「山」「哺乳類」など、

様々な種類・クラスが存在します。

そして、それらは、お互いに別々の違い(ベーダ)があります。


空間には、サジャーティーヤ・ベーダは無いけれど、

ヴィジャーティーヤ・ベーダはあります。

空間以外の全てのコンセプトが、ヴィジャーティーヤ・ベーダです。



3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違いが)・ラヒタ(無い事)

स्वगतभेदरहितम्   [svagatabhedarahitam]

ひとつの「木」をとっても、それ自身の中には様々なベーダ(違い)が存在します。

幹、枝、根、葉、花、、、それぞれはお互いに違う存在です。

空間には、スヴァガタ・ベーダはありません。空間の何処をとっても空間です。



なぜ、唯一を理解するのが、ヴェーダーンタの理解に関係しているのか?

ヴェーダーンタは、この宇宙の一切の原理が、たった一つだと教えているからです。



しかし、原理がただひとつである事と、私の幸せとに何の関係があるのでしょうか?


「へぇ、昔のインドにはそういう考え方している人達もいたんだね」と、

単にちょっと物知りになって、ヨーガの哲学のクラスで分かったっぽい事を言って、

聞いている人に感心してもらう為でしょうか?

インターネットで、”ヴェーダーンタ”とか”ウパニシャッド”とかを検索してみると、

ウィキペディアを初めとして、数々のサイトが、

「不二一元論」とか「梵我一如」とか、「ブラフマンの悟り」とか、

言葉だけが先走りして、理解を伴っていないであろう語彙達や、

「ヴャーサが開祖」とか「シャンカラが開祖」とかいった、

間違った理解のオンパレードです。まぁ、世の中というのは、そんなもんなんですけど。


言葉というものは、

まず話し手が、使う言葉をちゃんと理解して、自分のものにして、

そして、その言葉を使うことによって、聞き手の幸せに貢献出来るかどうか、

ちゃんと見極めてから使って、

初めて、言葉の本当の役目が果たされるのです。


ヴェーダとは、言葉の集まりです。

ヴェーダというものは、私達の幸せに貢献する為にある、知識の集合体です。

ヴェーダは、私達の幸せの為に、言葉を通して、「唯一であること」を教えてくれます。


しかし、そもそも、「私の幸せ」って何なのでしょうか?


家族や周りの人が皆、健康で笑顔でいられること。

好きな人と一緒にいる時。

好きなものを食べている時、欲しいものを手に入れた時、

好きな音楽を聴いている時、素敵な景色を見ている時、、、

幸せにしてくれる状況は色々あって、状況は常に変わり続けています。

これらに共通していることは何でしょうか?





それは、「幸せな私」です。


10年前に私を幸せにしてくれた状況は、今年の私を幸せにはしてくれません。

代わりに、10年前に何とも感じなかった状況が、今年の私を幸せにしてくれています。

幸せとは、状況のことではなく、「私」のことなのです。


「幸せ」=「私」と言われても、常に幸せを感じているわけではないですよね。

不幸とまで感じる時はしょっちゅう無くても、常々不満に感じることは、誰にでもあります。

幸せを「感じている」時というのは、常々ある不満を「忘れている」時に他なりません。

「自分を忘れさせてくれる経験=幸せな経験」なのです。

もっときっちり定義すると、

「常々自分が自分に対して持っているイメージや考えを、忘れさせてくれる経験=幸せな経験」

となります。

だから人は、寝ている時が幸せなのです。

人間関係、芸術鑑賞、スポーツ、ヨガや瞑想、しいてはお酒や薬物も、

いつも自分が抱いている、モヤモヤやコンプレックスから、気分を解放してくれるから、

幸せに感じさせてくれるから、そちらに向かって行くのです。



思考を逆転してみましょう。

幸せとは、不幸せの反対。不幸せが無い事。

幸せになりたい、って思うことは、デフォルトは不幸せって事、なんです。

では、不幸せって何なのでしょうか?


不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ、、、

これら全ての正体は、何なのでしょうか?

つまるところ、これら全ては、自分が自分に対して持っているイメージ、考え、意見です。

そんなもの達は、何処から来たのでしょうか。出所は明らかです。

それは、自分にかかっている「制限」です。

制限って?

「自分は○○であって、××ではない」

「自分の△△は、○○であって、××ではない」

全ての制限はこの2つに集約されます。


不幸、不満、コンプレックス、ストレス、モヤモヤ等を感じているとき、

原因は何かを分析してみると、必ずこの2つのどれかになります。

「私は50歳であって、もう25歳ではない」

「私の所持金はマイナス3000万円であって、プラス1億円では無い」

「私の過去も将来も暗くて、明るくは無い」

「私の、、、」に続くのは、心の状態、体の状態、持ち物、人間関係、

属している国や、政治のあり方、環境のあり方、、、何でも当てはまります。


これらは、全て「制限」と言いましたが、

「ベーダ(भेद [bheda])、違い」と言う事も出来ます。


1.サジャーティーヤ(同じ種類に属する)・ベーダ(違い)

2.ヴィジャーティーヤ(違う種類に属する)・ベーダ(違い)

3.スヴァガタ(それ自身に属する)・ベーダ(違い)


「自分は○○であって、××ではない」

「自分の△△は、○○であって、××ではない」


○○ と ×× が別のものだから、

すなわち、○○ ≠ ×× だから、

不満やコンプレックスが可能なのです。


そして、○○ ≠ ×× という違いは、

上記の3つのベーダ(違い)によって生み出されます。



不幸、不満と、「ベーダ(भेद [bheda])」、違い。

幸せ、私、唯一、「ケーヴァラ(केवल [kevala] )」。

考えるためのツールとして、これらの言葉を使って、

ゆっくり分析してみてください。

続きは、37.कैवल्य [kaivalya] - カイヴァリヤ にて、、、






<< 前回の言葉 35.केशवः [keśavaḥ] - ケーシャヴァ <<
 
クリシュナの別名「美しい髪を持った者」という意味の単語です。








>> 次回の言葉 37.कोशः [kośaḥ] コーシャ >>
 
ヨガ・スクールで必ずと言っていいほど勘違いされて、
間違った意味で教えられている、「パンチャ・コーシャ」
の意味について詳しく説明します。

2014年10月24日金曜日

35.ケーシャヴァ(केशवः [keśavaḥ])- クリシュナ

केशवः 
[keśavaḥ] 


masculine - クリシュナ




ヴィシュヌ・アヴァターラとしてのクリシュナ


複数の意味を持っている言葉ですが、

一般的には、ヴィシュヌのアヴァターラ(日本語では「アバター」ですね。)、

特に「クリシュナ」を指す時に用いられる言葉です。


ちなみに、アヴァターラ(avatāra)、それが変化した、アバター(avtar)は、

直訳すると、「上から降りてくる」という意味です。

バガヴァッドギーターの4章で、クリシュナが自分自身をアヴァターラとして紹介しています。

普通の人は、その人のカルマ(過去の行い)の結果として、

自分の行いの結果を味わうためにぴったりの体を、次から次へと授かり続け、

生きている間にまた更なるカルマをして、永遠に生と死を繰り返すと言われています。

日本語で言う、輪廻転生ってやつですね。


普通の個人が、自分自身の行為の結果として、次の体を持たされるのに対して、

多くの人々の「祈り」という行為の結果として、体を持って生まれてくるのが

アヴァターラです。

しかし、何をしに、体を持って降りて来たのでしょうか?

परित्राणाय साधूनां विनाशाय च दुष्कृताम् ।
धर्मसंस्थापनार्थाय सम्भवामि युगे युगे ॥ ४-८॥
paritrāṇāya sādhūnāṃ vināśāya ca duṣkṛtām |
dharmasaṃsthāpanārthāya sambhavāmi yuge yuge || 4-8||

ギーターの中でも、一番有名なシュローカのひとつです。


このシュローカの中で言われている、

アヴァターラが体を持って生まれてくる理由は3つ:

1.善い人を守る為(paritrāṇāya sādhūnāṃ )

2.悪い行いをする人を無くす為(vināśāya ca duṣkṛtām)

3.ダルマ(簡単に訳すと「正義」)を確立する為(dharmasaṃsthāpanārthāya)


でも、アヴァターラがいなくたって、人間として生まれたら、

何が正義で、何が悪い事か、誰でもちゃんと分かっています。

A.自分が「傷つきたくない」ということは、生き物なら誰でも知っています。

人間の場合、それ以上に、

B.他の人も自分と同じように「傷つきたくない」と思っていることも知っています。

わざわざ神様に、十戒とかを石版に刻んでいただかなくても、

人間として生まれたら、Bの知識が必ず心の中にプログラムされているのです。

ヒトラーだって、「こんなこと自分がされたら嫌だな。」

「そんな嫌な気持ちを、やられている人達は味わっているんだな。」

「それは良くないことだな。」ということぐらい分かっていたはずです。

それなのに、なぜ、人は傷つけあうのか?

答えは簡単。その人の心が小さいからです。


何十兆円というお金を持ってしても、

総理大臣とか大統領という権力を持ってしても、

正しい心がけが無ければ、その人の心は大きくなりません。

小さい心は、いつも欲しがって、欲求が満たされなければ憎んで、

人を傷つける事も平気になってしまうのです。


世の中を見回したら、

1.善い人は損をしている

2.悪い行いをする人が権力を持っている

3.何が善い事で、何が悪い事なのかについて、すなわちダルマについて、混乱が起きている

こんな状態は世の常です。

「アヴァターラは何処行ったんじゃーい?」と聞きたくなりますね。

答えは、その聞いている人の心の中にあるのです。


アヴァターラの話を聞くだけで、

自分の中にあったけど、混乱でよく分からなくなっていたダルマを、

再確立することが出来ます。

損をしてでも、自分の知識の範囲で最善の行動を選ぶことが出来る能力も、

バガヴァーンの表れです。

悪い行いも全てはバガヴァーンですが、それが悪いと分かること、

そしてそれを避けたり抑圧出来たりする能力は、バガヴァーンの「Grace」です。


「自分がやった」「アイツがやった」という近眼のヴィジョンから、

「全て」を認識できるヴィジョンを持つことが、いわゆる人間の成長です。

バガヴァーンは、アヴァターラのみならず、いろんな姿や形や言葉を通して、

私達が大きなヴィジョンを持つ為の成長を促してくれているのです。


話をアヴァターラから、ケーシャヴァに戻しましょう。



विष्णुसहस्रनामस्तोत्र(ヴィシュヌの1000の名前)について書かれている

コメンタリー(भाष्यम्)に沿って解釈すると、

ケーシャヴァ(keśavaḥ)の意味には、5つあります。


1.美しい髪を持っている者

2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿

3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者

4.光の筋として現れる者

5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)

長くなりそうですが、ひとつひとつ見て行きましょう。



1.美しい髪を持っている者


「髪」はサンスクリット語で「ケーシャ(केशः[keśaḥ])」です。

それを持つ者、という意味で、「ヴァ」という接尾語が付いて、

ケーシャ + ヴァ = ケーシャヴァ になります。

こんな感じでいかがでしょう

体や持ち物の特徴が名前になっている場合、その姿を思い出して、

その姿形を通して、全体=バガヴァーンを認識して欲しい、という意味があります。

サイババ師も、素敵な髪をお持ちでしたね。

2.ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァの3つを合わせた姿



「ka」が、創造をの象徴である、ブランマージー

「a」は、持続の象徴である、ヴィシュヌ

「īśa」は破壊の象徴である、シヴァ

ここからは、サンスクリット語の文法を勉強されている方には、

もってこいの、サンディの練習問題です。

「ka」+ 「a」+ 「īśa」は?

まず、「ka」+ 「a」=「kā」 ディールガ・サンディってやつですね。

「ア」と「ア」で「アー」です。サンスクリット語を勉強していなくても、

人間なら誰にでも分かる連音変化です。

そして、「kā」+ 「īśa」=「keśa」 グナ・サンディってやつです。

「ア/アー」と「イ/イー」をあわせると、グナになる、

すなわちここでは「エー」の音になります。

結局、3つ併せて「ケーシャ(keśa)」

これこそが「三位一体」と言われるにふさわしい姿です。

なぜかというと、創造も、維持も、破壊も、視点によるもので、

これらは、ひとつに他ならないからです。

壷は、作られたり、維持されたり、壊れたりしますが、

あるのは土だけです。

壷が出来たとか、そのせいで粘土がなくなちゃったとか、

壷が壊れたとか、そのせいで土が生まれたとか、

人間の体も同じことです。

創造も、維持も、破壊も、ものの見方次第なのです。

どれが創造で、どれが破壊と、絶対的に言えるものは無い。

だから、「三位一体」なのです。

この「三位一体」は、とても理論的ですね。


神・息子(キリスト)・ホーリーゴーストの三位一体って、

何なのかを知りたくて、昔勉強してみましたが、

理論的な考えを培うのにも、自分の幸せにも、なにも貢献してもらえませんでした。


ちなみに、ブランマ・ヴィシュヌ・シヴァを合わせた姿を、

サンスクリット語では「トリムールティ」と言います。
トリニティ = トリムールティ


3.ケーシーと呼ばれる怪物を退治した者



「ヴィシュヌ・プラーナ」と呼ばれる文献の中で、

クリシュナを殺すために馬に化けて、ブリンダーヴァンにやって来た、

ケーシーという名の怪物を、クリシュナが殺した時に、

ケーシーを殺した者(ヴァダ)ということで、ケーシャヴァという名前を付けられた。。。

という話があります。




4.光の筋として現れる者



太陽や月、火や電気、全ての光の筋は、バガヴァーンの髪(ケーシャ)。

と、ポエティックにイメージして、全てとは何か、バガヴァーンとは何かの理解を

深めるのに役立てることも出来ます。

もうひとつ、光の筋とは、ダクシナームールティストートラムで教えられている、

「穴の開いた壷の中に光が入っていて、そこから光線が飛び出している」

その光の筋のことでもあります。

それはつまり、私達の意識を例えているのです。

目鼻口などの開き口を通して、意識の光の筋が飛び出して、

その光線に当たった対象物が、主体によって意識的に認識される。。。

その光こそが、私達が毎日使っている言葉「私」の本質の意味なんですね。

それがバガヴァーンの本質に他ならない、と教えるのがヴェーダーンタです。

これを理解するためにはまず、バガヴァーン=全てって何?

を理解する必要があります。

ヴェーダは教えています。

幼少期も、結婚生活も、親になることも、社会で生きることも、

人生の中で与えられているステージの全ては、

バガヴァーンを理解するために設計されていると。

与えられた責任をこなすこと、社会の中で貢献者になること、

それが人間を成長させる手段であること、

成長とはすなわち、「全て」を把握できる大きな心を持つこと、

それがヴェーダの教える、人間のあるべき生活なのです。



5.シャクティ(この世界の全ての現象を可能にしている知識と能力)



シャクティとは、能力のことです。

ブランマージーの、創造するため能力、資源、それに関わる知識全て。

ヴィシュヌが、この宇宙全体を維持するために必要な、資源、能力、知識の全て。

シヴァが、この宇宙全てのものを破壊し続けられる能力と知識全て。

それらの3つの能力全てを併せた、すべての全てが、シャクティと呼ばれる能力です。

それを表す為に、「ケーシャヴァ」という言葉が使われる場合もあります。





<< 前回の言葉 34. कृष्णः [kṛṣṇaḥ] - クリシュナ <<
   
クリシュナという言葉の意味を、サンスクリット語の文法と、
ヴェーダーンタの視点から説明します。








>> 次回の言葉 36.केवल [kevala] - ケーヴァラ >>

「唯一であること」とはどういうことか?

2014年9月28日日曜日

32.クーパ(कूपः [kūpaḥ])- 井戸

कूपः
[kūpaḥ] 


masculine - 井戸




いきなり生活臭のする言葉に降りてきました。

哲学的な言葉ばかりを選んできて、なぜ今、井戸なんでしょうかね?

理由は2つ。

ひとつ目の理由は、クー(कू [kū] )から始まる言葉ってあまり無いんですね。

ふたつ目の理由は、サンスクリット語のテキストとして長年流通している、

Antoine(日本語では「アントン」、フランス語では「アントワン」)

という著者のSanskrit Manual という本の中で、

一番最初に出てくる名詞の活用表に登場する言葉だからです。


初級サンスクリットの勉強方法


サンスクリット語の名詞を勉強する時に、一番初めに習うのは、aで終わる男性名詞。

これが基本中の基本です。

そして、普通、aで終わる男性名詞と言えば「ラーマ(राम [rāma])」。

伝統的にサンスクリット語を学べば、必ず、例外なく、最初の言葉はラーマです。

ラーマとは、インド人なら12億人が全員知っている、あのラーマです。

「ラーマ」というアーキタイプ


アーヨーディヤーという国の王子、ダシャラタの息子、

シーターの夫、ラクシュマナの兄、そしてバラタの兄、ハヌマーンの最愛の主、

国民からはもちろん、おおくの聖者から、そして神々からでさえも、深く愛されているラーマ。

ラーマの人格、容姿、全てが人々の心を捉えます。

ラーマを賞賛する言葉だけで、何百何千という詞が出来てしまう、そんな人物がラーマです。

もちろん、ヴィシュヌのアヴァターラなので、ただの人じゃないのですが、

一人の地に足の着いた男性として、ラーマーヤナの中で描かれています。

ラーマーヤナを少しでも読むと、世界中のどんな人だって、

彼が正義の象徴であることが理解出来ます。

そして、どんな人だって、ラーマの話を少しでも聞くと、彼を愛さずにはいられません。

皆、ラーマのことが大好き
そんな完璧な人間なんて滅多にいないからこそ、

100%安心して尊敬出来る、そして愛し、見習える人物像が与えられているのです。

ラーマのような人物像と、絶対的な信頼に基いた関係を持つということは、

人間の精神的な成長に大きく関わるのだと思います。


ちなみに、ラーマという言葉を発するだけで、プンニャですからね。

ラーマを活用して何回も唱えるなんて、かなりのプンニャです。


西欧サンスクリット学者の陰謀


そんなラーマの名前を、幸先のよい一番目のサンスクリット活用表から降ろし、

クーパ(井戸)なんて味気も無い言葉を持って来たのがアントワンです。

アントワンはなぜそのようなことをしたのでしょうか?


答えは簡単です。彼はのクリスチャンの修道士でした。

イギリスやヨーロッパが、インドを植民地化するために、

この何世紀間、現在までも、ヒンドゥー教潰しが盛んに行われています。

キリスト教の布教する人達が、ヒンドゥー教の文化に忍び入って、文化を学び、

ヒンドゥー文化を内側から潰そうとする事は、現在でも一般的に行われています。

アントワンもその一人でした。19世紀にインドにやって来てサンスクリット語を学び、

ヒンドゥー文化の語彙を一掃した教科書を作ったのです。


新しい改革的な教科書の必要性


コンパクトにまとまっている本なので、現在でも一般的に使われている教科書ですが、

私のクラスでは使いません。

使わない理由は、彼の本意があまり正直に感じられない事もありますが、

実際的には、のちのちパーニニを勉強するに当たって、不都合な点が沢山出てくるからです。

アントワンを勉強した人に、パーニニを教えるのは、とても辛いことです。

そんなわけで、現在サンスクリット語を担任させてもらっている、

南インドでの3年コースにおいて、新しい教科書を作っています。

その名も「Sanskrit for Vedanta Student」。

そのうち日本語に訳されて、日本でも勉強し易い環境を提供できるようになりたいです。




    
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不動、不変という意味のサンスクリット語の単語


   
 

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クリシュナの別名「素敵な髪の毛を持った者」という意味の単語

2014年8月29日金曜日

31.クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ])- 不動の、不変の

कूटस्थ
 [kūṭastha]

adjective - 不動の、不変の




クータスタの語源


文法的に説明すると:

कूट [kūṭa] (クータ)という名詞に、

स्था [sthā] (スター)という動詞の原型が組み合わさった、

複合語(サマーサ)が、「クータスタ(कूटस्थ [kūṭastha])」です。


स्था [sthā] (スター)は、to stay, to stand という意味の動詞の原形です。

英語の音と良く似ていますね。

ラテン語などのヨーロッパの言語と、サンスクリット語を比べると、

類似している言葉が沢山あります。

ヨーロッパの西端から、朝鮮半島そして日本までは、殆ど陸続きなので、

交易商の流通と共に、文化や哲学、様々な学問、史記(噂話?)が

東西に往来しているのも当然です。


クータスタの2つの意味


この「クータスタ(कूटस्थ [kūṭastha])」という複合語には、

2種類の展開が、バガヴァッド・ギーターのシャンカラーチャーリアの

コメンタリー(バーシャ)の中でされています。(12章3節)



1つ目の意味:マーヤーの中の存在


1.कूटे तिष्ठति । kūṭe tiṣṭhati |

कूट [kūṭa]  = 騙すもの、マーヤー、この世の現象の原因。

その中に、तिष्ठति [tiṣṭhati]  存在しているもの。

どのようにして存在しているのか?間借りしている居候のように存在しているのか?

いいえ。そのकूट [kūṭa] と呼ばれる、この世の現象の原因に、

存在を与えているもの、司っているもの、それが「कूटस्थः [kūṭasthaḥ] (クータスタ)」です。

時間的にも空間的にも果てしない、この変わり続ける宇宙の中で、

どれだけ見回しても、何一つ「これ」と名指す事の出来る、絶対的な存在はありません。

なぜなら、一瞬も留まる事無く変化し続けているからです。

この変化し続ける現象の原因が、マーヤー、あるいはクータです。

それに存在を与えているもの。

宇宙は「在る」と言えます。目の前のコンピューターも「在る」。

私もここに「在る」。

ブッディスト(仏教学者、禅学者)のように、「無い」とは言わせませんよ。

だって、「無い」と言っているあなたが「在る」でしょう。

「在るかな、無いかな、うーん、分からない」と言う人も、まずその人が存在して、

初めて、在るとか無いとか分からないとか言えるのです。

どこに在るのか聞かれたら、今ここに居る私、この意識として存在するのです。

存在を疑うにしても、この意識的存在を無しにしては、疑えないでしょう。

サット(存在)=(イコール)チット(意識)なのです。

これ以上簡単なことはありません。

今そこに居る、私、という意識的存在。これを見つけるのに瞑想も何も要りません。

そしてこの、今ここにいる私、という意識的存在は、絶対的存在で、

全ての宇宙と言う、移り変わる相対的存在に、存在を与えているのです。

何を突然スケールのでかすぎる事を!と思うかもしれませんが、

よくよく考えると、これほどはっきりしていて、筋の通っている事実はありません。

茂木健一郎さんという科学者が、人生をかけて突き詰めようとしている

「クオリア」という物体(?)も、それを探求している人自身の本質なのです。

自分のおへそから出てくるいい匂いを探し続けて、

草原を四方八方に走り回り、疲れ果てて死に行く鹿。

という例えとして、インド哲学によく出てくるやつです。

是非、彼にも知っていただきたい。

話は戻って、この宇宙が「在る」と認めるなら、

その原因のマーヤーも「在る」と認めざるを得ない。

でも、それらは変わり行くものだから、それらだけでは存在してると言えない。

では、それらの存在はどこから借りているのか?

それが、クータ(マーヤー)の中で、存在を与えるものとして居る(スタ)もの。

つまり、「クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ] )」であり、

それが、ブランマンであり、それは、私(アートマン)として理解されるのです。



2つ目の意味:山のように不動の存在



では、「クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ] )」という言葉の2つ目の解釈。

2.कूटवत् तिष्ठति । kūṭavat tiṣṭhati |

ここでの「クータ」は、山のように大きく積み重なって動かないもの、

或いは、鉄を打つ時の、台のことも「クータ」と言います。

どちらにしても、「動かないもの」という意味です。

熱い鉄を打って、いろんな形のものが出来上がります。

そのプロセスの中で、形の変化する為の土台を与えているのが「クータ」なのです。

動かないもの、変わらないもの、という意味ですね。


カイラーサ山
= कूटस्थः [kūṭasthaḥ] - クータスタ の出て来る文献 =

バガヴァッド・ギーター12章3節

ये त्वक्षरमनिर्देशमव्यक्तं पर्युपासते ।
ye tvakṣaramanirdeśamavyaktaṃ paryupāsate |

सर्वत्रगमचिन्त्यं च कूटस्थमचलं ध्रुवम् ॥१२.३॥
sarvatragamacintyaṃ ca kūṭasthamacalaṃ dhruvam ||12.3||



永遠(ニッティヤ)の3つの意味



もうちょっと話をしますね。

永遠(ニッティヤ)という言葉には、3種類の使われ方があります。


1.アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिक-नित्यम् [āpekṣika-nityam])


相対的に長い時間。例えば1兆年とか。

「天国に行ったら、そこで楽しく快適に、永遠の時間を過ごせます。」

という時に使う「永遠」です。

気の遠くなるほど長い時間ですが、やっぱり時間の範囲内。

時間が経てば、1週間のハワイ旅行から会社へ帰ってくるのと同じように、

また人間の体の中に生まれてきて、せっせと徳と不徳を積む為に、一生汗をかくのです。


2.プラヴァーハ・ニッティヤ प्रवाह-नित्यम् [pravāha-nityam]


これは英語でperennial と呼ばれる、永遠です。

つまり、絶え間なく流れ続ける、変化し続ける、その時間の流れです。

例えるなら、川の流れのようなものです。枯れる事無く流れ続けるけど、

流れている水の形は、一瞬たりとて、同じではありません。変化をし続けています。

この宇宙の創造も、ビッグ・バンがあって、創造が続いて、

そしてビッグ・クランチとして現象が無くなった状態になり、

― つまり可能性の形、例えば種や卵のように ― 

また次のビッグ・バンの原因の形となるのです。

そうして、現れては、また見えなくなって、それがまた現れて、、、

と繰り返し続ける、永遠の時間を、プラヴァーハ・ニッティヤと言います。


3.クータスタ・ニッティヤ कूटस्थ-नित्यम् [kūṭastha-nityam]


絶対的な永遠のこと。

つまり、時間の範囲でない事。

時間の範囲でないものはどこに存在している?

時間を対象化している、主体のことです。

それってどこにあるの?

あなたです。

20年前とか、5年前とか、昨日とか、明日とか、

そんな時間と、時間にある事象を対象化し続けている主体。

それ自体は全く変わらない主体。

それが、永遠=timeless=時間の範囲外 = あなたなのです。

違う!とは言えないでしょう?




<< 前回の言葉 30. कुलम् [kulam] - クラ <<









2014年7月26日土曜日

30.クラ(कुलम् [kulam])- 家、家庭、家系

कुलम् 
[kulam] 


masculine - 家、家庭、家系




サンスクリット語の「クラ(कुलम् [kulam] )」は、

物理的な住居用建物の「家」では無く、

家庭、家族、家系を表す言葉です。


プージャ・スワミジのグルクラ


例えば、私が2010年から住んでいる、タミルナードゥ州にあるアシュラムの

正式な名前は「アールシャ・ヴィディヤー・グルクラム」です。

「グル(先生)」の「クラ(家)」というわけです。

インドの伝統では、ヴェーダやヴェーダに関する伝統的な学問を習う時には、

先生のところに何年か住み込んで、家族の一員となって、

先生から学ぶ、という習慣があります。




 映画「グルクラム」は、私の恩師のグルクラムのドキュメンタリーです。
私が2010年から住み込みで、学び、教え続けている場所です。
冒頭に私が入ってます!

グルクラという伝統のシステム


このシステムは、私達が当たり前だと思っている学校のシステム、つまり、

「何時から何時まで、教室に行けば先生がいて、

約束どおりの教科について、約束どおりに教えてくれる」といった感覚とは全く違います。


サーマヴェーダを教える小さなグルクラに住み込みで勉強している子供たち。
インドの伝統を守る貴重な存在です。
私はそんなブランマナ(日本語で言うバラモン)にサンスクリット語を教える、
人類史上初の日本人、外国人女性です。

先生の家に住み込むという事はつまり、

24時間いつでも先生のお世話を出来る準備が出来ていると言う事、

先生の人となりを見ながら学ぶと言う事、

というバックグラウンドがあります。



日本語の「お世話」、サンスクリット語の「セーワー」


お世話とは、サンスクリット語でも「セーワー」と言います。

日本語の「世話」は、サンスクリット語から来たのだと著者は思います。

先生(グル)へのお世話(セーワー)を「グル・セーワー」と呼びます。

知識を得る時のグル・セーワーの必要性は、ヴェーダやギーターではっきり教えられています。

तद् विद्धि प्रणिपातेन परिप्रश्नेन सेवया ।
उपदेक्ष्यन्ति ते ज्ञानं ज्ञानिनस्तत्त्वदर्शिनः ॥ ४-३४॥
tad viddhi praṇipātena paripraśnena sevayā |
upadekṣyanti te jñānaṃ jñāninastattvadarśinaḥ || 4-34||
バガヴァッドギーター4章34句

praṇipātena :先生に完全にナマスカーラをすることによって、

paripraśnena :正しい質問によって、

sevayā :グル・セーワーによって、

tad viddhi:その知識を知りなさい。


グル・セーワーとは、先生の生活の為の炊事洗濯や牛の世話などから始まって、

先生が実現すべき社会貢献事業に関わることも、グル・セーワーと呼ぶ事ができます。

先生のヴィジョンの実現に関わることによって、先生のヴィジョンが分かってくるのです。




== कुलम् [kulam] - クラ   が使われている文献 ==

チャーンドーギャ・ウパニシャッド


श्वेतकेतो वस ब्रह्मचर्यम् ।
न वै सोम्य अस्मत्कुलीनः अननूच्य ब्रह्मबन्धुरिव भवतीति ।
śvetaketo vasa brahmacaryam |
na vai somya asmatkulīnaḥ ananūcya brahmabandhuriva bhavatīti |
チャーンドーギャ・ウパニシャッド 6章1節1句より

12歳になったシュヴェータケートゥという名の男子に、父親が言います。

「グルクラに住んで、ヴェーダの勉強をしなさい。

私達の家系(クラ)に属していながら、ヴェーダの勉強をしない人にはならないで。」

インドの伝統的な家庭に生まれたら、少年期の12年間は先生のところに住み込んで

ヴェーダを暗記する義務があるのです。

この伝統は今世紀までも細々と続けられていますが、

イスラムの侵入、クリスチャンの改宗、資本主義社会の侵略、と

次から次へとヴェーダ文化の衰退にアクセルがかかっています。

時代の波に押されて、ヴェーダを勉強しても「かっこ悪い」ということで、

誰も学びたがらず、また、ヴェーダを勉強した男子は、なかなか結婚出来無い、

という現実もあります。どこの親も、IT系男子に娘をやりたいものなのです。


消え行くサーマ・ヴェーダの文化


私が住んでいるグルクラの中にも、さらに小さなグルクラがあって、

サーマヴェーダを住み込みで勉強している子供たちが8人ほどいます。

彼らが勉強している「ジャイミニ・シャーカー」に属するサーマヴェーダを教えているグルクラは、

インドに(ということは世界に)3つしかありません。

ヴェーダの文化の無いインドを、インドと呼ぶ事が出来るのでしょうか?

ドーティを巻いたり、チョティを生やしたり、花を耳に掛けたり、

そんなことをもうしないインドは、もうインドである意味は無いように思えます。

インドの若い人達に、自分たちの文化の深さや重さを知ってもらう為にも、

私はより多くの人達に、サンスクリットを教え続けます!



バガヴァッドギーター


कुलक्षये प्रणश्यन्ति कुलधर्माः सनातनाः।
धर्मे नष्टे कुलं कृत्स्नमधर्मोऽभिभवत्युत॥ १-४०॥
kulakṣaye praṇaśyanti kuladharmāḥ sanātanāḥ |
dharme naṣṭe kulaṁ kṛtsnamadharmo'bhibhavatyuta || 1-40||
バガヴァッドギーター1章40句

戦いを拒むアルジュナが、マハーバーラタ戦争が引き起こすであろう悲劇を予想して、

あれこれ愚痴っている場面から。

このシュローカ(句)の前後で、クラ(家系の伝統)を守る事の大切さが

懇々と述べられています。

殺し合いをした後には、クラ(家系)から男性が消えてしまうので、

家系が続かなくなる。そうなると、脈々と続いてきた家系の伝統が無くなってしまう。

家系の伝統が無くなるということは、社会全体の伝統も無くなってしまう。

そのような(伝統を守る男性が不在の)社会では、女性が守られず、

社会全体の秩序が乱れてしまう。そうなると社会全体が地獄行きになってしまう。。。

と、アルジュナは延々と続けます。


「男性が女性を守る」とは古臭く聞こえるかも知れません。

私もそう思っていました。

しかし最近では、それは資本主義社会の謳うプロパガンダなのだと考えるようになりました。

健康な社会とは、男性は女性を守るために機能している。

男性達が自分たちの仕事=女性に不安を与えずに、安心だけを与える事に専念して、

女性は安心して、次世代の養育に愛情を注ぐ事、つまり女性の仕事に専念出来る。

子供を産んだり、母性愛を持って育てたり出来るのは、女性だけです。

それがこの世界の在り方なので、間違っているとかどうとかは、誰とも議論は出来ません。

不公平でも何でも無いのです。

「女性が男性と肩を並べてバリバリ働く事が自由なのだ」というのは、

資本主義によって利益を得る少数の人達にとって都合の良い理屈です。

実際にそれを信じて、与えられた母性を放棄して、ボロボロに搾取されて、

それでも「私は男女平等という自由を謳歌している」と信じ込まされているのは、

犠牲者であるようにしか見えません。







<< 前回の言葉 29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ])<<

南インドで大人気のクマーラ君。
シヴァの息子であり、ガネーシャの弟でもあります。






   


>> 次回 31.クータスタ(कूटस्थः [kūṭasthaḥ])>> 

不動、不変という意味のサンスクリット語の言葉です。


2014年7月3日木曜日

29.クマーラ(कुमारः [kumāraḥ])- 幼年期の男子

कुमारः 
[kumāraḥ] 

masculine - 幼年期の男子



シヴァとパールヴァティーの息子


この「クマーラ」という言葉は、インド男子の名前によく使われます。

名前として使われるときは、最後の「a」が落ちて「クマール」と発音されます。

しかし、サンスクリット語では、きちんと「クマーラ」と発音されるべきです。

南インドのタミル・ナードゥ州では特に多く見られる名前です。

なぜかと言うと、シヴァ神とパールヴァティー女神の間にある、

2人の息子のうちの弟の名前が「クマール」で、

タミル・ナードゥ州では多大な信仰を集めているからです。

お兄さんは、北インド、特にマハーラーシュトラ州でで大人気の「ガネーシャ」。



弟は、南インド、特にタミル・ナードゥで人気を博している「スブラマンニャ」またの名を「カルティケーヤ」、そしてまたの名を「シャンムカ」、はたまた「スカンダ」、通称は「クマール」君です。

南インドで大人気のクマーラ君。
シヴァの息子であり、ガネーシャの弟でもあります。

なぜか北インドでは殆ど知られていません。

私もこちらコインバトールに来る前に、リシケシに4年住んでいましたが、

ガネーシャに弟がいる事自体、ぜんぜん知りませんでした。

コインバトールからリシケシに帰った時に、地元の人に

「ガネーシャには兄弟がいる」って言っても信じてもらえなかった。。

また、クマール君は、少年期から、結婚して、家族を持って、

最後にサンニャーシー(出家僧)になるまで、南インド各地を転々としていたそうです。

ゆえに、それぞれの土地で、それぞれの人生の段階のイメージで知られているので、

クマール君が、未婚の青年として知られている土地では、

「彼が結婚しているなんて!」って思われるそうです。



ガネーシャとクマール君の逸話:


シヴァとパールヴァティーは、ある日、とてもスペシャルな果物をもらったので、

自分たちの息子たちのうちの一人にそれをあげようと思った。

この世界、宇宙を、速く一周した方が、果物をもらえるという条件にした。

おなかのポッコリ出ている、正直ちょっと肥満体質のガネーシャ君の

ヴァーハナ(乗り物)は、ちっちゃいネズミちゃん。

一方、端麗なクマール君の乗り物は、すばしっこい孔雀。

クマール君は「ここは俺がもらった!」と言いながら、

さっそうと孔雀に乗って、宇宙をくるっと一周してのける。

絶対勝ち目のなさそうなガネーシャ君は、焦りもせず、

クマール君が外を走っている間に、

目の前に座っているシヴァとパールヴァティーの周りを、くるりと歩いて一周した。

「この宇宙の全ては、私のお母さんとお父さんです。」

「良く解かってるじゃないか!」と喜びながら、

シヴァとパールヴァティーは、ガネーシャ君に果物をあげましたとさ。




== कुमारः [kumāraḥ] - クマーラ   が使われている文献 ==

カタ・ウパニシャッド 


冒頭部分

ॐ उशन् ह वै वाजश्रवसः सर्ववेदसं ददौ। तस्य ह नचिकेता नाम पुत्र आस।। 1.1.1
om̐ uśan ha vai vājaśravasaḥ sarvavedasaṃ dadau| tasya ha naciketā nāma putra āsa|| 1.1.1

ヴァージャシュラヴァスという名のお金持ちの男性は、

自分の財産を全て寄付してしまう、ヴィシュヴァジットという儀式をしていました。

彼には、ナチケータスという名の息子がいました。

तँ ह कुमारँ सन्तं दक्षिणासु नीयमानासु श्रद्धाविवेश सोऽमन्यत।। 1.1.2
tam̐ ha kumāram̐ santaṃ dakṣiṇāsu nīyamānāsu śraddhāviveśa so'manyata|| 1.1.2

自分もお父さんの持ち物だから、誰かに寄付されるのだと思ったナチケータスは、

お父さんに、「僕を誰にあげるの?」のしつこく聞きます。

儀式に忙しいお父さんは、しつこい息子に対して、

怒りに任せて「お前なんて死神にあげるよ!」と言ってしまいます。

死神のところに送られるも、主人ヤマは不在。

3日3晩待った後、待たせてしまって悪いと思った死神ヤマから、

3つの願い事を叶えて貰う権利を授かります。

...

少年ナチケータス


カタ・ウパニシャッドの主人公は、少年ナチケータス。

マントラでは、「クマーラ」と形容されています。

まだ幼い少年でありながら、死神ヤマから、

しっかりブランマ・ニャーナを教えてもらうのです。

死神ヤマは、教えを乞われても、最初は教えることを拒みます。

引き換えに、長生き出来る特権や、高級車や美女を差し出します。

そんな誘惑に乗らない(若すぎるから?)ナチケータスだからこそ、

このブランマ・ニャーナを知ることが出来るのです。

彼の成長が伺える点が他にもあります。

死神ヤマは、ナチケータスに、3つの願い事を叶えてあげる約束をします。

ナチケータスが最初に頼んだのは、

生きてお父さんのところに帰してもらう事。

お父さんの後悔も怒りも悲しみも記憶も無くなって、

今までどうりに幸せな親子関係を持てる事。

ここで、息子としての、家族に対する責任と義務をしっかり果たしているのですね。

2つめは、天国に行く為の儀式の方法を教えてもらうこと。

ナチケータス自身は天国に興味はないのだけれど、

社会の人々の健康な幸福の実現の為に、この儀式の方法を学び、

生前の社会に戻った後、人々にこの儀式の方法を教え伝えるのです。

この儀式は後に、「ナーチケータサ」と言う名で知られるようになります。

ここでは、社会の幸福の為に貢献しているのですね。

そして、3つ目にやっと、ブランマ・ニャーナを乞うのです。

これが、人間の成長のステップであり、順番は抜かせないって事なんでしょうね。






<< 前回の言葉 28.キールティ(कीर्तिः [kīrtiḥ])<<

私の能力、行動、判断において、神性をみせてくれる祈りのある生活
   



>> 次回の言葉 30.クラ( कुलम् [kulam] ) >>

家、家庭、家系という意味のサンスクリット語です。

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