2015年12月15日火曜日

不動明王 & シヴォーハムとは 仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(3) 


不動明王(ふどうみょうおう)


これは、サンスクリット語の音ではなく、

サンスクリット語の意味から訳された言葉です。

サンスクリット語では「アチャラ・ヴィッディヤー・ラージャ」となるそうで、

シヴァ神の別名だそうす。

1.アチャラ(अचल [acala])  = 不動 
2.ヴィッディヤー(विद्या [vidyā]) = 明 
3.ラージャ(राजः [rājaḥ]) = 王

サンスクリット語の意味はもう、完全にヴェーダ・ヴェーダーンタの世界です。

ひとつひとつの言葉の意味を見て行きましょう


国宝 不動明王 坐像 平安時代 木造彩色

不動=「アチャラ」=動かない者、とはどういう意味?


 「アチャラ(अचल [acala])」とは、「動かないもの」という意味です。

「チャル(चल् [cal])」が「動く」 という意味の動詞の原型です。

最初の「ア」 は否定を表しています。

न चलति [na calati] 動かないものが、「アチャラ(अचल [acala])」。

何で動かないの?

動くには、自分の存在しない場所が必要です。

この世もあの世も全部含めた世界の全てが、神の名に相応しい、シヴァ神です。

まぁ、ヴィシュヌ神でも、ブランマージーでも、ガネーシャでも何でもいいんですけどね。

宇宙の果てまであますことなく、世界の全てがシヴァ神なら、

彼が動いて行くことの出来る場所などあるでしょうか。

あるわけがありませんね。

だから、「アチャラ(अचलः [acalaḥ])」なのです。

そんな知識って、たとえ知ったとしても、

「ふーん、シヴァ神様ってすごいんだねー。

いいよねー、シヴァ神は!

でも私と来たら、こんなちっぽけで惨めで、コンプレックスだらけで。。。」

ちょっと待った!

この世の全てだったら、あなたも含まれています。

他人事ではありません。

あなたがシヴァ神なのです。

「シヴォーハム、シヴォーハム(私がシヴァだ。私がシヴァだ。)」 ですね。



シヴォーハムの意味



この詩の中では、「私は思考でも知性でもアハンカーラでもない。


私は体でも、五大要素でも、何でも、かんでも、ない」

と続けながら、「シヴォーハム、シヴォーハム」と繰り返しますが、

シヴァは、この世もあの世も全ての全てなのだから、

私の思考も姿勢もアハンカーラも、体も何でもかんでも、全部シヴァなのです。

「あれでもない、これでもない」 と全てを否定(というよりは止揚ですね)して、

シヴァと自分の本質において、一つであることを教えたら、

きちんと「あれも、これも、全ては私から存在を得ているのだ」と、

もう一歩進んで教えるのが、責任のあるヴェーダーンタの教え方です。

 「シヴォーハム、シヴォーハム」の詩はシャンカラーチャーリヤによるもので、

内容はもちろん正しいのですが、

シャンカラーチャーリヤの伝統の中で、正しく教えられないと、

とっても危険で無責任な解釈のされ方になってしまいます。

そして、間違った解釈の方が一般的なのも事実です。トホホ。


不動明王 立像 ドーティはいてますね。



明王=「ヴィッディヤー・ラージャ」=「知識の王様」とはどういう意味?



「へぇー。全てはシヴァで、それは私か。そりゃ知らなんだ!」

そう、知らなかっただけなのです。

だから、知るしかないのです。

違いはひとつ、知識だけなのです。

知識はサンスクリット語で「ヴィッディヤー」 ですね。

「ヴィデッィヤー」は光に例えられます。だから「明」なのですね。

自己に関する無知と混乱である「アヴィッディヤー」は、闇に例えられます。

光が来たら、闇は消えます。完全に相反するもので、同居出来ないのです。

知っているときに、知らない、とは言えません。

少し知ってる、なんとなく知ってる、知ってたけど忘れた、

というのは、部分的に知っていて、別の部分は知らないのです。


知ったのなら、経験は要らない



知ってから、「じゃ、シヴァになるように実践するね!」はありえません。

だって「アチャラ(動かないもの)」 ですから。

どれだけあがいても暴れても、ヒマラヤに行こうが、深い瞑想に入ろうが、何をしようが、

シヴァになったり、シヴァを経験することなど、絶対に不可能なのです。

だって、今ここのあなたが既にシヴァ神なわけで、

あなたがシヴァ神でなかった時など無かったわけなのですから。


知ることが私の幸福にどう貢献するのか?


「オッケー。じゃあ、私はこの宇宙の全てであるシヴァ神です。

でも、そんなこと知って、何かいいことあるの?」

逆に訊ねますが、なぜ人類は皆、

今ここの自分とは別の自分になろうとし続けて、

今ここの自分から逃げ続けているのでしょうか?

自分にかけられた制限、環境的、身体的、心理的、なんでもかんでも、

制限が気に入らないからですね。

制限の無い完全な私が「幸せ」の意味なのです。

幸せは、自分の外にある何かではなく、自分の中にしかないのです。

全てであるシヴァの本質は、制限のない、幸せの意味である、

私の本質に他なりません。

その事実は、知ることでしか手に入りません。

自分の意味が、制限のない、幸せの本質であり、

この宇宙の全てであるとき、もう満たされるべき隙間はありません。

その知識を理解したとき、人間として生まれて来た意味の全てが、完全に満たされたのです。




ヴィッディヤー・ラージャ(明王)とは 1


最後の言葉「ラージャ」は、~の王様という意味です。

この知識(ヴィッディヤー)を与えてくれる王様(ラージャ)。

つまり、知識を得るために必要な、先生、環境、それまでに積んだ経験、、、

そして、知識を理解できる、成熟した心を与えてくれるもの。

さらに、この知識の伝承の最初の先生は、サダーシヴァ、つまりシヴァ神です。

人間が経験によって知ることの出来る知識ではないからです。


ヴィッディヤー・ラージャ(明王)とは 2


「全ての知識の(ヴィッディヤー)王様(ラージャ)」と取ることも出来ます。

世の中には様々な知識があれども、このヴェーダーンタの知識だけは特別です。

なぜかというと、自分が完全な存在だと知ってしまえば、

完全ゆえに、それ以上知ることが出来ないからです。

ヴェーダーンタ以外の知識は全て、知れば知るほど、知らないことが出てきます。

ヴェーダーンタの知識は、完全ゆえに、あなたを完全に、足りないところなどあり得ない、

満たされた存在なのだと教えてくれるのです。



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シリーズになっています。


仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)阿吽(あうん)、阿伽/閼伽(あか)、阿闍梨(あじゃり)、阿修羅(あしゅら)


仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)

阿僧祗(あそうぎ)、尼(あま)、阿羅漢(あらかん)、刹那(せつな)僧伽(さんが)



仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)

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