不動明王(ふどうみょうおう)
これは、サンスクリット語の音ではなく、
サンスクリット語の意味から訳された言葉です。
サンスクリット語では「アチャラ・ヴィッディヤー・ラージャ」となるそうで、
シヴァ神の別名だそうす。
1.アチャラ(अचल [acala]) = 不動
2.ヴィッディヤー(विद्या [vidyā]) = 明
3.ラージャ(राजः [rājaḥ]) = 王
サンスクリット語の意味はもう、完全にヴェーダ・ヴェーダーンタの世界です。
国宝 不動明王 坐像 平安時代 木造彩色 |
不動=「アチャラ」=動かない者、とはどういう意味?
「アチャラ(अचल [acala])」とは、「動かないもの」という意味です。
「チャル(चल् [cal])」が「動く」 という意味の動詞の原型です。
最初の「ア」 は否定を表しています。
न चलति [na calati] 動かないものが、「アチャラ(अचल [acala])」。
何で動かないの?
動くには、自分の存在しない場所が必要です。
この世もあの世も全部含めた世界の全てが、神の名に相応しい、シヴァ神です。
まぁ、ヴィシュヌ神でも、ブランマージーでも、ガネーシャでも何でもいいんですけどね。
宇宙の果てまであますことなく、世界の全てがシヴァ神なら、
彼が動いて行くことの出来る場所などあるでしょうか。
あるわけがありませんね。
だから、「アチャラ(अचलः [acalaḥ])」なのです。
そんな知識って、たとえ知ったとしても、
「ふーん、シヴァ神様ってすごいんだねー。
いいよねー、シヴァ神は!
でも私と来たら、こんなちっぽけで惨めで、コンプレックスだらけで。。。」
ちょっと待った!
この世の全てだったら、あなたも含まれています。
他人事ではありません。
あなたがシヴァ神なのです。
「シヴォーハム、シヴォーハム(私がシヴァだ。私がシヴァだ。)」 ですね。
シヴォーハムの意味
この詩の中では、「私は思考でも知性でもアハンカーラでもない。
私は体でも、五大要素でも、何でも、かんでも、ない」
と続けながら、「シヴォーハム、シヴォーハム」と繰り返しますが、
シヴァは、この世もあの世も全ての全てなのだから、
私の思考も姿勢もアハンカーラも、体も何でもかんでも、全部シヴァなのです。
「あれでもない、これでもない」 と全てを否定(というよりは止揚ですね)して、
シヴァと自分の本質において、一つであることを教えたら、
きちんと「あれも、これも、全ては私から存在を得ているのだ」と、
もう一歩進んで教えるのが、責任のあるヴェーダーンタの教え方です。
「シヴォーハム、シヴォーハム」の詩はシャンカラーチャーリヤによるもので、
内容はもちろん正しいのですが、
シャンカラーチャーリヤの伝統の中で、正しく教えられないと、
とっても危険で無責任な解釈のされ方になってしまいます。
そして、間違った解釈の方が一般的なのも事実です。トホホ。
不動明王 立像 ドーティはいてますね。 |
明王=「ヴィッディヤー・ラージャ」=「知識の王様」とはどういう意味?
「へぇー。全てはシヴァで、それは私か。そりゃ知らなんだ!」
そう、知らなかっただけなのです。
だから、知るしかないのです。
違いはひとつ、知識だけなのです。
知識はサンスクリット語で「ヴィッディヤー」 ですね。
「ヴィデッィヤー」は光に例えられます。だから「明」なのですね。
自己に関する無知と混乱である「アヴィッディヤー」は、闇に例えられます。
光が来たら、闇は消えます。完全に相反するもので、同居出来ないのです。
知っているときに、知らない、とは言えません。
少し知ってる、なんとなく知ってる、知ってたけど忘れた、
というのは、部分的に知っていて、別の部分は知らないのです。
知ったのなら、経験は要らない
知ってから、「じゃ、シヴァになるように実践するね!」はありえません。
だって「アチャラ(動かないもの)」 ですから。
どれだけあがいても暴れても、ヒマラヤに行こうが、深い瞑想に入ろうが、何をしようが、
シヴァになったり、シヴァを経験することなど、絶対に不可能なのです。
だって、今ここのあなたが既にシヴァ神なわけで、
あなたがシヴァ神でなかった時など無かったわけなのですから。
知ることが私の幸福にどう貢献するのか?
「オッケー。じゃあ、私はこの宇宙の全てであるシヴァ神です。
でも、そんなこと知って、何かいいことあるの?」
逆に訊ねますが、なぜ人類は皆、
今ここの自分とは別の自分になろうとし続けて、
今ここの自分から逃げ続けているのでしょうか?
自分にかけられた制限、環境的、身体的、心理的、なんでもかんでも、
制限が気に入らないからですね。
制限の無い完全な私が「幸せ」の意味なのです。
幸せは、自分の外にある何かではなく、自分の中にしかないのです。
全てであるシヴァの本質は、制限のない、幸せの意味である、
私の本質に他なりません。
その事実は、知ることでしか手に入りません。
自分の意味が、制限のない、幸せの本質であり、
この宇宙の全てであるとき、もう満たされるべき隙間はありません。
その知識を理解したとき、人間として生まれて来た意味の全てが、完全に満たされたのです。
ヴィッディヤー・ラージャ(明王)とは 1
最後の言葉「ラージャ」は、~の王様という意味です。
この知識(ヴィッディヤー)を与えてくれる王様(ラージャ)。
つまり、知識を得るために必要な、先生、環境、それまでに積んだ経験、、、
そして、知識を理解できる、成熟した心を与えてくれるもの。
さらに、この知識の伝承の最初の先生は、サダーシヴァ、つまりシヴァ神です。
人間が経験によって知ることの出来る知識ではないからです。
ヴィッディヤー・ラージャ(明王)とは 2
「全ての知識の(ヴィッディヤー)王様(ラージャ)」と取ることも出来ます。
世の中には様々な知識があれども、このヴェーダーンタの知識だけは特別です。
なぜかというと、自分が完全な存在だと知ってしまえば、
完全ゆえに、それ以上知ることが出来ないからです。
ヴェーダーンタ以外の知識は全て、知れば知るほど、知らないことが出てきます。
ヴェーダーンタの知識は、完全ゆえに、あなたを完全に、足りないところなどあり得ない、
満たされた存在なのだと教えてくれるのです。
<<目次へ戻る<<
シリーズになっています。
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)阿吽(あうん)、阿伽/閼伽(あか)、阿闍梨(あじゃり)、阿修羅(あしゅら)
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(2)
阿僧祗(あそうぎ)、尼(あま)、阿羅漢(あらかん)、刹那(せつな)僧伽(さんが)
仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(4)