ニッティヤ(नित्यम् [nityam])は「永遠の」という形容詞としても使われますが、
中性名詞として使えば、「永遠」「エタニティ」という意味の抽象名詞になります。
形容詞の「永遠の愛」とか「永遠の幸せ」とかいった使われ方や、
中性名詞の「永遠」「エタニティ」はキャッチフレーズのように良く使われますが、
その本当の意味が理解出来るのなら、それはモークシャです。
今回は、「永遠」「エタニティ」という言葉の意味をじっくり探ってみましょう。
ニッティヤ(नित्यम् [nityam])には大きく分けて3つの意味があります。
1.相対的なニッティヤ
アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])
2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ
プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])
3.絶対的なニッティヤ
パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])
では、それぞれを見ていきましょう。
気の遠くなるような長~い長い時間のことを、
アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])と呼びます。
アペークシャ(अपेक्ष [apekṣa])とは、相対的、比較的という意味です。
長いけれども、終わりがある。
結婚するときに誓う、「永遠の愛」とか、
ヴェーダの教える「永遠の(ように長い時間遊んでいられる)天国」などに、
このタイプの「ニッティヤ(永遠)」が使われます。
ヴェーダは嘘をつきません。
ヴェーダは天国のことを「相対的に長い時間楽しんでいられる場所」として教えています。
絶対的な永遠は、その意味を理解出来る準備が出来た人のみに教えられます。
ヴェーダ以外では天国をどのように教えているのでしょうか。
宗教というものは大体「永遠の天国」を「人間の得られる最高のゴール」としています。
天国があるのか無いのかは、死んでからしか分からないので、
生きている間は信じるしかありません。
「信じないと永遠の地獄に落ちるぞ」と脅して、
生きている間のその人の人生をコントロールします。
人間というものは無邪気なもので、「永遠って何さ?」と立ち止まって考えてもみずに、
文字通り「盲目的」に永遠の天国というコンセプトを鵜呑みにして一生を棒に振ります。
会社で一生懸命働いて残業代を沢山稼ぎ、無駄遣いもしないでちゃんと貯金すれば、
ハワイに1週間遊びに行けます。
でも、1週間過ぎたらまた、もとの会社に戻ってまた働くのです。
同じように、人間として生きている間に善い行いを沢山すれば、
死んだ後に天国に行けるよ~、とヴェーダは約束をします。
しかし、「本当の永遠ではなく、相対的な永遠、つまりまた人間として戻ってきますよ!」
と、ヴェーダは正直にちゃんと教えてくれます。
天国行きとは結局、ハワイ旅行と同じ、ツーリズム・プロモーションなのです。
天国に行っても、人間の本当の、最終のゴールは果たせないと、
人間に解らせてくれるのです。
でも、それを言われても解らないのが人間なので、いつか気付くまでの間は、
気の済むまで天国行きを繰り返せるように、いろんな方法を教えてくれます。
ヴェーダの教える天国「スワルガ(स्वर्गः [svargaḥ])」では、
とてつもなく長~い時間快適に過ごすことが出来ます。
人間の身体というものは、持っても100年そこそこで、
生きている間もどんどん老いて、痛みやコンプレックスの根源であり、
命をつなぐ為だけにも、毎日食べたり消化したり汗をかいたりとメンテナンスが大変で、
楽しいことばかりにいそしんでいられません。
一方、人間として生きている間に善い事を沢山した人は、
死んでからスワルガに行き、そこでスワルガ用の身体を得ます。
スワルガ用の身体は老いたり病気をしたりしません。汗もかきません。
長い時間、ただただエンジョイするためだけに設計された身体です。
スワルガには色んな種類があって、最上の天国はブランマ・ローカだと、
ヴェーダは教えます。ブランマ・ローカではブランマージーの一生分の時間が過ごせます。
それってどれ位の長さかというと。。。
こちらにヒンドゥーの気の遠くなるような時間の単位の計算をまとめました。
物理的にこのように長くなくとも、感覚的にでも構いません。
実質は5分しか経っていなくても、その5分が永遠に感じる時があります。
5分でも、5兆年でも、どちらも相対的な時間の範囲なのです。
長いと感じたら、それは長いのです。
経験というものは相対的なものなのですから。
プラヴァーハ(प्रवाह [pravāha])とは、「河の流れ」という意味にもなっているように、
継続的な流れを指すサンスクリット語です。
河の水面を眺めていると、一瞬一瞬にそれぞれ違った形をしていて、
同じ形の水面は2度とありません。
同じように、変化し続けながら存在する、この世界・宇宙は、
プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])と呼ばれます。
世界・宇宙は、五感で知覚出来るように表れている状態でも、
五感で近く出来なくても、可能性という状態で存在しています。
今の科学の説明を使うと、ビッグバン以前でも、ビッグバンが起きる原因として
宇宙は存在し続けていると言えます。
宇宙の表れ方について、物理学的、地学的、天文学的、
といったあらゆる側面の法則をダルマと呼びます。
ゆえにダルマもプラヴァーハ・ニッティヤです。
ヴェーダも、人間のあるところには必ず表れるので、プラヴァーハ・ニッティヤです。
ちなみに、人間の定義は、「自由意志を持った生命体」です。
パラマールタ(परमार्थ [paramārtha])とは「絶対的」という意味です。
絶対的な意味でのニッティヤは、
パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])
と呼ばれます。
この言葉の本当の意味を理解出来れば、それがモークシャです。
モークシャとは、文字通り訳すと「自由」です。
何からの自由なのかというと、「常に何かになろうとしている自分からの自由」です。
人間の最終的なゴールと呼ばれるにふさわしい、
本当のモークシャは永遠でなければなりません。
しかし、永遠とか永遠でないものについてきちんと考えないゆえに、
時間制限付きのモークシャで手を打つのです。
永遠といったテーマについてきちんとした考えを持っていないがゆえに、
宗教家やスピリチュアル・リーダーとよばれる人々が、
「人生にゴールなんてありません」といった無責任な言葉を発しているのが
現在の日本の状況です。
しかし、私達人間にはもっときちんと考えられるブッディ(思考力)が与えられています。
今一度、きちんと考えて見ましょう。
きちんとした考えを助けるのが、ヴェーダーンタの伝統なのです。
楽しい経験をしている時、瞑想という経験をしている時、
平和な気持ちを経験している時、などの経験は、
時間制限つきの相対的なモークシャです。
5秒間なり、1分間なり、1年間なり、惨めな自分のことを忘れていられる時間を、
「幸せ」つまり「(相対的な)モークシャ」と定義づけ、
それを夢見て追いかけ続けて一生を過ごします。
ジタバタして頑張って、至福の時間を経験しても、時間が切れれば、
また元の惨めな自分に戻ります。
そんな経験を繰り返しているうちに、とてつもなく幸運な人々は、
お金・権力・人間関係・瞑想・などなどから得られる「経験」を分析し、
それら時間制限付きの幸せの限界を見抜き、興味を失います。
「ニッティヤーニッティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ
(नित्यानित्यवस्तुविवेकः [nityānityavastuvivekaḥ])」
そう、タットヴァ・ボーダ(तत्त्वबोधः [tattvabodhaḥ])ですね。
この世でもあの世でも、宇宙の中で経験できる全ての幸せについて、
限界を見抜いた人が、ヴィヴェーキー(विवेकी [vivekī])、つまり
ヴィヴェーカ(विवेकः [vivekaḥ])を持っている人であり、
その人はムムクシュ(मुमुक्षुः [mumukṣuḥ])と呼ばれます。
時間の範囲内では、相対的ではない、絶対的なモークシャとは、
絶対的な永遠でなければなりません。
絶対的な永遠とは何か。
本当の永遠の意味とは、実はそれを探しているあなたのことなのですよ。
時間の流れを傍観し続けている、時間の範囲内では無い、
こちら側、つまり永遠である、それがあなたなのですよ。
と教えるのがヴェーダーンタなのです。
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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)
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中性名詞として使えば、「永遠」「エタニティ」という意味の抽象名詞になります。
形容詞の「永遠の愛」とか「永遠の幸せ」とかいった使われ方や、
中性名詞の「永遠」「エタニティ」はキャッチフレーズのように良く使われますが、
その本当の意味が理解出来るのなら、それはモークシャです。
今回は、「永遠」「エタニティ」という言葉の意味をじっくり探ってみましょう。
ニッティヤ(नित्यम् [nityam])には大きく分けて3つの意味があります。
1.相対的なニッティヤ
アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])
2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ
プラヴァーハ・ニッティヤ(प्रवाहनित्यम् [pravāhanityam])
3.絶対的なニッティヤ
パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])
1.相対的なニッティヤ
気の遠くなるような長~い長い時間のことを、
アーペークシカ・ニッティヤ(आपेक्षिकनित्यम् [āpekṣikanityam])と呼びます。
アペークシャ(अपेक्ष [apekṣa])とは、相対的、比較的という意味です。
長いけれども、終わりがある。
結婚するときに誓う、「永遠の愛」とか、
ヴェーダの教える「永遠の(ように長い時間遊んでいられる)天国」などに、
このタイプの「ニッティヤ(永遠)」が使われます。
天国とは?
ヴェーダは嘘をつきません。
ヴェーダは天国のことを「相対的に長い時間楽しんでいられる場所」として教えています。
絶対的な永遠は、その意味を理解出来る準備が出来た人のみに教えられます。
ヴェーダ以外では天国をどのように教えているのでしょうか。
宗教というものは大体「永遠の天国」を「人間の得られる最高のゴール」としています。
天国があるのか無いのかは、死んでからしか分からないので、
生きている間は信じるしかありません。
「信じないと永遠の地獄に落ちるぞ」と脅して、
生きている間のその人の人生をコントロールします。
人間というものは無邪気なもので、「永遠って何さ?」と立ち止まって考えてもみずに、
文字通り「盲目的」に永遠の天国というコンセプトを鵜呑みにして一生を棒に振ります。
天国とは、行ってまた帰ってくるところ
会社で一生懸命働いて残業代を沢山稼ぎ、無駄遣いもしないでちゃんと貯金すれば、
ハワイに1週間遊びに行けます。
でも、1週間過ぎたらまた、もとの会社に戻ってまた働くのです。
同じように、人間として生きている間に善い行いを沢山すれば、
死んだ後に天国に行けるよ~、とヴェーダは約束をします。
しかし、「本当の永遠ではなく、相対的な永遠、つまりまた人間として戻ってきますよ!」
と、ヴェーダは正直にちゃんと教えてくれます。
天国行きとは結局、ハワイ旅行と同じ、ツーリズム・プロモーションなのです。
天国に行っても、人間の本当の、最終のゴールは果たせないと、
人間に解らせてくれるのです。
でも、それを言われても解らないのが人間なので、いつか気付くまでの間は、
気の済むまで天国行きを繰り返せるように、いろんな方法を教えてくれます。
相対的な永遠
ヴェーダの教える天国「スワルガ(स्वर्गः [svargaḥ])」では、
とてつもなく長~い時間快適に過ごすことが出来ます。
人間の身体というものは、持っても100年そこそこで、
生きている間もどんどん老いて、痛みやコンプレックスの根源であり、
命をつなぐ為だけにも、毎日食べたり消化したり汗をかいたりとメンテナンスが大変で、
楽しいことばかりにいそしんでいられません。
一方、人間として生きている間に善い事を沢山した人は、
死んでからスワルガに行き、そこでスワルガ用の身体を得ます。
スワルガ用の身体は老いたり病気をしたりしません。汗もかきません。
長い時間、ただただエンジョイするためだけに設計された身体です。
スワルガには色んな種類があって、最上の天国はブランマ・ローカだと、
ヴェーダは教えます。ブランマ・ローカではブランマージーの一生分の時間が過ごせます。
それってどれ位の長さかというと。。。
こちらにヒンドゥーの気の遠くなるような時間の単位の計算をまとめました。
物理的にこのように長くなくとも、感覚的にでも構いません。
実質は5分しか経っていなくても、その5分が永遠に感じる時があります。
5分でも、5兆年でも、どちらも相対的な時間の範囲なのです。
長いと感じたら、それは長いのです。
経験というものは相対的なものなのですから。
2.時間軸の中で流れ続けるニッティヤ
プラヴァーハ(प्रवाह [pravāha])とは、「河の流れ」という意味にもなっているように、
継続的な流れを指すサンスクリット語です。
河の水面を眺めていると、一瞬一瞬にそれぞれ違った形をしていて、
同じ形の水面は2度とありません。
私が昔住んでいたリシケシのアシュラムから眺める ガンガージーの水面(雨季) |
同じように、変化し続けながら存在する、この世界・宇宙は、
世界・宇宙は、五感で知覚出来るように表れている状態でも、
五感で近く出来なくても、可能性という状態で存在しています。
今の科学の説明を使うと、ビッグバン以前でも、ビッグバンが起きる原因として
宇宙は存在し続けていると言えます。
宇宙の表れ方について、物理学的、地学的、天文学的、
といったあらゆる側面の法則をダルマと呼びます。
ゆえにダルマもプラヴァーハ・ニッティヤです。
ちなみに、人間の定義は、「自由意志を持った生命体」です。
3.絶対的なニッティヤ
パラマールタ(परमार्थ [paramārtha])とは「絶対的」という意味です。
絶対的な意味でのニッティヤは、
パーラマールティカ・ニッティヤ(पारमार्थिकनित्यम् [pāramārthikanityam])
この言葉の本当の意味を理解出来れば、それがモークシャです。
人間の生まれてきた意味、人生のゴール
モークシャとは、文字通り訳すと「自由」です。
何からの自由なのかというと、「常に何かになろうとしている自分からの自由」です。
人間の最終的なゴールと呼ばれるにふさわしい、
本当のモークシャは永遠でなければなりません。
しかし、永遠とか永遠でないものについてきちんと考えないゆえに、
時間制限付きのモークシャで手を打つのです。
永遠といったテーマについてきちんとした考えを持っていないがゆえに、
宗教家やスピリチュアル・リーダーとよばれる人々が、
「人生にゴールなんてありません」といった無責任な言葉を発しているのが
現在の日本の状況です。
しかし、私達人間にはもっときちんと考えられるブッディ(思考力)が与えられています。
今一度、きちんと考えて見ましょう。
きちんとした考えを助けるのが、ヴェーダーンタの伝統なのです。
楽しい経験をしている時、瞑想という経験をしている時、
平和な気持ちを経験している時、などの経験は、
時間制限つきの相対的なモークシャです。
5秒間なり、1分間なり、1年間なり、惨めな自分のことを忘れていられる時間を、
「幸せ」つまり「(相対的な)モークシャ」と定義づけ、
それを夢見て追いかけ続けて一生を過ごします。
ジタバタして頑張って、至福の時間を経験しても、時間が切れれば、
また元の惨めな自分に戻ります。
そんな経験を繰り返しているうちに、とてつもなく幸運な人々は、
お金・権力・人間関係・瞑想・などなどから得られる「経験」を分析し、
それら時間制限付きの幸せの限界を見抜き、興味を失います。
「ニッティヤーニッティヤ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ
(नित्यानित्यवस्तुविवेकः [nityānityavastuvivekaḥ])」
そう、タットヴァ・ボーダ(तत्त्वबोधः [tattvabodhaḥ])ですね。
この世でもあの世でも、宇宙の中で経験できる全ての幸せについて、
限界を見抜いた人が、ヴィヴェーキー(विवेकी [vivekī])、つまり
ヴィヴェーカ(विवेकः [vivekaḥ])を持っている人であり、
その人はムムクシュ(मुमुक्षुः [mumukṣuḥ])と呼ばれます。
時間の範囲内では、相対的ではない、絶対的なモークシャとは、
絶対的な永遠でなければなりません。
絶対的な永遠とは何か。
本当の永遠の意味とは、実はそれを探しているあなたのことなのですよ。
時間の流れを傍観し続けている、時間の範囲内では無い、
こちら側、つまり永遠である、それがあなたなのですよ。
と教えるのがヴェーダーンタなのです。
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仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味(1)
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