サーマ・ヴェーダの中に、「セートゥ・サーマ」と呼ばれる有名な一節があります。
このサーマ・ヴェーダの一節は、プージヤ・スワミジがよく引用されいるので、
今回はこの「セートゥ・サーマ」の一語一句をわかりやすく説明します。
ご存知の通り、後に仏陀と呼ばれる王子シッダールタは、
バリバリのヴァイディカ(वैदिकः [vaidikaḥ])、
つまり、ヴェーダの伝統の生活規範に沿って先祖代々暮らしてきた人です。
仏陀の像に見られる、ヤッニョーパヴィーダ(襷掛けの紐)や耳のピアス、
そしてドーティやティラカは全て、ヴェーダの伝統的生活様式の代表です。
仏陀がサーマ・ヴェーダも勉強されていたのかどうかは知りませんが、
サーマ・ヴェーダの智慧は受け継がれたようですね。
「超え難きを超えよ」
サーマヴェーダのとても美しい響きにのせて、
人生で超え難きもの(セートゥ)の超え方が教えられています。
ここで言われる「超え難きもの」とはつまり、人間の未熟さです。
プージヤ・スワミジはこの「セートゥ・サーマ」が好きなので、
機会があるごとに、サーマヴェーディ(サーマヴェーダを歌う人)達に、
この「セートゥ・サーマ」を歌わせて、私達に聞かせてくれました。
しかし残念ながら、録音した音声ファイルはネット上に無いようです。
只今リシケシに滞在しておりまして、リシケシのアシュラムのテンプルで働く
サーマヴェーディーのプージャリさんに録音をお願い出来るか当たってみます。
私が昔テンプルでお世話をしていた時、彼がサーマヴェーディー独特の
高くてどこまでも届くような声で「サーマ・セートゥ」を歌ってくれたことが何回かありました。
繰り返される部分は、
सेतूंस्तर (セートゥームースタラ)। दुस्तारान् (ドゥスタ、ラーーン)।
(サーマなので、簡略された文法的表記とはかなり相違があります。)
どうやって、どの未熟さを超えるのか?
ヴェーダは言葉から成る知識の集合体です。
これらの言葉は文法的に集まって、文章を成しています。
文章の中で一番大事で一番最初にゲットするのは、、そう、動詞ですね。
この文章の動詞は、「タラ(तर [tara])」です。
「タラ(तर [tara])」は、「超える、泳ぐ」という意味の「तॄ [tṝ]」という動詞の原型を、
命令形・二人称・単数で活用した形です。
「超えよ」という意味ですね。
何を超えるのか?
「セートゥーン(सेतून् [setūn])」は、「セートゥ(सेतु [setu])」という名詞の原型が、
目的語として活用した形です。
「セートゥ(सेतु [setu])」の一般的な意味は「橋」ですが、そのほかにも、
「土を盛って出来た境界、障害物、束縛するもの」とった意味があります。
併せてみると、「境界を越えよ」と言う意味ですね。
境界はどのようなものなのかを表す形容詞も歌われています。
「ドゥスタラ(दुस्तर [dustara])」の दुस् [dus] は「困難な、悪質の」という意味です。
「タラ(तर [tara])」はここでは名詞で、「超えるべきもの」となり、
併せて「超え難い」という意味になります。
「超え難きを超えよ」と繰り返されているわけです。
でも、どうやって?
ここがこの「セートゥ・サーマ」の美しいところです。
4つの方法が述べられています。
1.与えることによって、与えられない未熟さを超えよ
ダーネーナ アダーナム(दानेन अदानम् [dānena adānam])
「与えること」=「ダーナ(दानम् [dānam])」によって、
「与えられない、一歩踏み出して手を差し伸べられない、自分の小ささ」
=「アダーナ(अदानम् [adānam])」を超えよ。
自分と世界の中でリラックスして、安心できて初めて、人は与えられます。
私達は皆、与えられるものを、既に与えられています。
与えられたものは全て、与える為にあるのです。
歩ける足や動かせる手、人を助けることの出来る身体や、
人を癒す優しい言葉を生み出せる舌、考えられる脳みそなど、
全てを与えられてもらいながら、
「自分は無力でつまらない存在だ」と罰当たりなことを言い出して、
周りから愛や認識や物をもらうことばかり考えてしまう。
人間というものは、「もらおう」と考えている以上、未熟な存在です。
惨めな人の考え方の基本は、「この世から出来るだけいっぱいGetしよう」です。
どんなにお金を持っていたとしても、人間を貧しくしているのは、この考えです。
そこから脱出するには?
「この世に出来るだけ沢山Giveしよう」という姿勢で、
実際に、物理的に、体と時間とお金を使って「与える」という行動をすることです。
この世には「理解するべきこと」と「行動に移すべきこと」というふたつ別々のものがあります。
「理解するべきこと」を行動に移そうとしたり、
「行動に移すべきこと」を理解するだけにしようとして、行動に移さなかったり、
大体人間ってそんなものです。
2.怒りに任せた言動を避けることから始めて、怒りを超えよ
アックローデーナ クローダム(अक्रोधेन क्रोदम् [akrodhena krodam])
「怒り」は「クローダ(क्रोधः [krodhaḥ])」です。
その反対が「アックローダ(अक्रोधः [akrodhaḥ])」。
直訳すると、「怒らないことによって、怒りを超えよ」です。
ヨガや瞑想関係で、「怒るのをやめましょう」と教える人がよくいるようですが、
それは人間の心理を理解せず、とても危険なアドヴァイスです。
「今から3秒間手を叩いてください」と言われたら、その通りに出来ますが、
「今から3秒間起こってください」と言われても、その通りには出来ません。
怒る・怒らないは、心理反応(リアクション)であって、
自由意志を持って選択出来る「行為(アクション)」では無いからです。
ゆえに「今から怒るとするか」とか、怒ってしまっている人が「怒るのやめよう」といって、
その通りに実行できるものではないのです。
では、私達には何が出来るのか。金輪際怒りません、は無理です。
しかし、怒ってしまった場合に、怒りに任せた言動を慎む為に、
その場から離れるという行動は選択出来ます。
怒っている時には、とにかく言葉を発したり、行動や決断をしたりしない。
これが最初のステップ「ダマ」です。
怒っていない時に、後から怒ってしまった状況を振り返って、
状況と、自分の怒りのツボを客観的に捉え、
そんな自分を蔑んだり責めたりするのではなく、
大きな心で友情を持って自分を受け入れてあげれば、
怒りの再発はどんどん少なくなります。これが「シャマ」です。
まず「ダマ」、そして「シャマ」が、受け入れ難い感情から毒を抜く方法です。
3.信頼することを学んで、不信頼を超えよ
シュラッダヤー アシュラッダーム(श्रद्धया अश्रद्धाम् [śraddhayā aśraddhām])
「シュラッダー(श्रद्धा [śraddhā])」は、「信頼」と訳してしまってもいいかもしれません。
「自分には良く分からないけど、この人が言っているのだから、
ますこれが正しいという前提で、理解を進めていこう」という態度です。
それの反対が「アシュラッダー(अश्रद्धा [aśraddhā])」、信頼する能力の無さです。
現在の3年コースでサンスクリットを教えていて気付くのは、
ヴェーダーンタやサンスクリット語を難しくさせているのは、
文献の難解さではなく、その人の「アシュラッダー」なのだということです。
自分に分からないことがあれば、自分の考えを先生の考えに合わせようと
努めようとすることが「シュラッダー」です。
先生の考えに自分の考えをチューンして合わせる為の方法を毎日教えているのに、
安心してそれを受け入れられない。だからそれをしない。だから分からない。
持っている全ての知力は、教えを責める為に使われ、
自分の物の見方の間違いを正すことに使われない。
一番近道を教えてあげているのだから、その通りにすればいいのに、
と傍から見てて思うのですが、特に現代人はそれが難しいですね。
「アシュラッダー」の原因
小さいときに、「これをしなさい」とはっきり言ってくれる
親や周りの大人が居ないと、こうなるのかな、と思います。
「何がしたい?お母さんがこれしてもいい?自分で決めてね。」は、
判断材料にまだ乏しい幼児を、パニックに陥れるようなものです。
「私が先に生きてきて、一番正しいと分かったのはこれよ。」と、
先に生きてきた智慧を子供に与えるのが、賢い親や周りの大人のすることです。
子供は、何でそれが正しいのか分からなくても、母親の言うことだからと安心していられます。
それが本当に正しかったのかどうか分かるのに、10年や20年かかっても良い、
と思えてリラックスしていられるのが「シュラッダー」です。
「自分で決めて」から生まれた幼児の頃のパニックは、
表層意識に出ずに、大人になってからも「全部自分で決めなきゃ!」と、
何でもコントロールしようとする「アシュラッダー」という形で、
その人の考え方を支配してしまうのだろうな、と思います。
4.真実により、偽りを超えよ
サッティェーナ アサッティヤム(सत्येन असत्यम् [satyena asatyam])
「サッティヤ(सत्यम् [satyam])」は「真実を話すこと」です。
「アサッティヤ(असत्यम् [asatyam])」はその反対です。
「自分は嘘なんかつかないよ」と思うかもしれませんが、
自分が真実だと思っているだけではなく、ちゃんと真否を確認すること。
そして聞いている人に有益で、感情を傷つけずに話すことです。
もちろん、絶対的には、真実を知ることにより、
真実ではないものを真実だと思い込むことを超えられるのです。
抜粋、意訳です。
दानेन अदानं तर(by giving, grow out of the incapacity to give.)
अक्रोधेन क्रोधं तर(by not acting upon anger, grow out of the anger.)
श्रद्धया अश्रद्धां तर(by trust, grow out of the distrust.)
सत्येन असत्यं तर(by truthfulness, grow out of the incapacity to tell truth.)
全文
हाउ।३। सेतूँस्तर।३। दुस्त। रान्।३। दानेनादानम्।३। हाउ।३। अह मस्मिप्रथमजाऋता२३स्या३४५। हाउ।३। सेतूँस्तर।३। दुस्त।रान्। ३। अक्रोधेन क्रोधम्। २। अक्रोधेन क्रोधम्। हाउ। ३ ।पूर्वं देवेभ्यो अमृतस्य ना२३मा३४५। हाउ। ३। सेतूँस्तर। ३।दुस्त। रान् ।३। श्रद्धयाश्रद्धाम्। ३। हाउ। ३। योमाददाति सइदेवमा२३वा३४५त्। हाउ३। सेतूँस्तर। ३। दुस्त। रान्। ३। सत्येनानृतम्। ३। हाउ।३। अहमन्नमन्नमदन्तमाऽ२३द्मी३४५। आउ२हाउवा। एषागतिः।३। एतदमृतम्।३। स्वर्गछ।३। ज्योतिर्गछ।३। सेतूँस्तीर्त्त्वाचतुराऽ२३४५ः। इति मुखे॥
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