इदम्
[idam]pronoun これ、この
サンスクリット語の代名詞
サンスクリット語の名詞の中で、35種類あるसर्वनाम(代名詞)の中で、
このइदम् [idam]は、ある程度近くのものを指す代名詞です。
「これ」とか「それ」という意味の代名詞には4つあります。
1.एतद् [etad](エタド)
2.इदम् [idam](イダム)
3.अदस् [adas](アダス)
4.तद् [tad](タド)
1.自分に一番近いのが、एतद् [etad]。
2.次がइदम् [idam]。まだ「これ」の範囲。
3.少し離れて、अदस् [adas]から「それ」になる。でもまだ見える範囲。
4.तद् [tad]の「それ」は自分にはもう見えない範囲。
इदम् [idam]という代名詞は、サンスクリット言語の中で、
男性形、女性形、中性形と全ての性で活用するのはもちろん、
いろいろな接尾語が付いて、様々な形に変化し、頻繁に使われています。
イダムの哲学的意味
哲学的には、इदम् [idam]という言葉は、とても大事な意味で使われます。
その大事な意味とは、、、
इदम् [idam]=「これ」と、指さして”対象化”出来ることから、
「対象化出来るもの」と言う意味で使われます。
目の前の机はもちろん目や触覚で対象化出来ます。
テレビやラジオやインターネットで見聞きする情報は、
目の前のディスプレイのみならず、
扱われている情報も全て、
自分の頭(マインド、心)で対象化出来ます。
遠くにある土星や、視覚の届かない何処かの星雲やブラックホールも、
マインドの対象物です。
自分の身体も、見たり触ったり感じたり出来るので、対象物ですね。
自分の心も、自分にとっては対象物です。
嬉しい時も、悲しい時も、忙しい時も、全ては、
マインドの中で起きている事を私が対象化しているのです。
細胞も、原子も、素粒子も、対象物です。
時間も、空間も、私にとっての対象物です。
これら全て、対象化出来るものを、इदम् [idam]と呼ぶのです。
イダム(客体)を対象化している永遠の主体、私
では、対象化している、主体は?
それは、「私」です。
इदम् [idam]には絶対にならない、主体の「私」です。
茂木健一郎氏が、捜し求め続けている「クオリア」の正体は、
この「私」に他ならないのです。
研究も瞑想も必要なく認識できる、今ここにいる「私」が答えなのです。
(研究や瞑想に、時間や労力を投資すればするほど、
こんな簡単な答えを、受け止めるのが難しくなるようです。)
इदम् [idam]=「これ」という言葉で指せるものは全て、
「私」という主体に対しての、「対象物」なのです。
と言う事は、
इदम् [idam]=「これ」という言葉で指せるものは全て、
「私」は対象化できない
最終的主体である「私」だけが意識的な存在であり、
それ以外の全ては、इदम् [idam]と言われる対象物なのです。
まず、इदम् [idam]を提示して、その意味を理解し、
それが、「私」の認識へと、導いてくれるのです。
茂木健一郎氏が「クオリア」を追い求め続けなければならないのは、
なぜかというと、「対象化できない、対象化の最終主体」を、
対象化の範囲で捉えようとしているからです。
意識的主体、私の正体
バガヴァッド・ギーター13章の最初から、
バガヴァーンが教えます。
इदं शरीरं कौन्तेय क्षेत्रमित्यभिधीयते ।
idaṃ śarīraṃ kaunteya kṣetramityabhidhīyate |
”「この」体は、「クシェートラ」です。”
クシェートラ=耕地=行動をして結果を刈り取る場所
एतद्यो वेत्ति तं प्राहुः क्षेत्रज्ञ इति तद्विदः॥१३-१॥
etadyo vetti taṃ prāhuḥ kṣetrajña iti tadvidaḥ||13-1||
”このクシェートラを(対象物として)知っているのが、クシェートラを知る者です。”
身体のことを「私」だと思いがちだけど、
その身体を対象化している「私」は身体とは別の、主体である。
ここまでは、わかり易いですね。
バガヴァーンは続けます。
क्षेत्रज्ञं चापि मां विद्धि
kṣetrajñaṃ cāpi māṃ viddhi
”そのクシェートラを知る者(つまり、あなた)が、
私(つまり、バガヴァーン)であると知りなさい。”
私(つまり、バガヴァーン)であると知りなさい。”
これは爆弾発言ですね。
バガヴァーンは続けてもう一つ爆弾を落とします。
सर्वक्षेत्रेषु भारत।
sarvakṣetreṣu bhārata|
”全てのクシェートラ(身体)において”
「私=バガヴァーン」でも、さっき十分びっくりさせられたのに、
「私=バガヴァーン=全員」って!
よくある疑問:
「私」は私にとっては、最終の主体だけれども、
他の人にとっては、私は対象物なんですけれども。
答え:
私の意識と、横で私を対象化している人の意識を、
2つのものとして隔てているものは何でしょうか?
身体や、心や、空間などですね。
それらは、全て対象化出来るものですね。
क्षेत्रक्षेत्रज्ञयोर्ज्ञानं यत्तज्ज्ञानं मतं मम॥१३-२॥
kṣetrakṣetrajñayorjñānaṃ yattajjñānaṃ mataṃ mama||13-2||
”クシェートラとそれを知る者についての知識が、
本当の知識であり、それは私のヴィジョンです。”
「本当の知識」の反対は、「そこそこの知識」=私達が知っている事全て。
「私のヴィジョン」とは、無知や誤解、混乱のないヴィジョン。
サンスクリットのボキャブラリーを紹介するだけのページにしようと思ったのに、
いつも、「書きすぎたかなぁ」と思ってしまいます。
ヴェーダーンタの教える知識を、インターネット上でこんなに公開してしまってよいのか?
という議論はいつもありますが、ここまで読んでくれる人は、
必ず「アディカーリン」(この知識を得る為の資格を持っている人)に違いない筈です。
=== इदम् [idam] が使われている文献 ===
チャーンドーギャ・ウパニシャッド6章2節マントラ1
सदेव सोम्य इदमग्र आसीदेकमेवाद्वितीयम् ...
sadeva somya idamagra āsīdekamevādvitīyam ...
”創造の前には、इदम् [idam] =この世界/宇宙は、
現れていない形で在った。(以下略)”
ここでは、इदम् [idam] は、この宇宙、創造という意味です。
対象化出来る物全て、と同じ意味です。
इदं सर्वम्
idaṃ sarvam
”この宇宙、創造の一切合切”
イーシャーヴァーシャ、タイッティリーヤ、マーンドゥーキャなど、
殆ど全てのウパニシャッドに登場する言葉です。
それゆえに、何度も繰り返し教えに耳を傾けながら、
しっかりと意味を把握するべき言葉なのです。