आत्मा
[ātmā]
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出生は無く、永遠に存在するもの
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全てに存在を与えている「空間」。
そしてその「空間」存在を与えているのが、
「ここ」の意味である私です。
[ātmā]
m. 自分自身
アートマンの意味
インド哲学を少しでもかじった人なら、耳にした事がある言葉、
原型が「ātman」なので、カタカナでは「アートマン」とよく表記されています。
活用は「ātmā(アートマー)」「ātmānau」「ātmānaḥ」...となります。
インド哲学で出てくる言葉なので、
「アートマン」と聞くだけで構えてしまうかも知れませんが、
それはあまりよろしくないです。
「アートマン」の指す最初の意味は、
まず単純に「自分」、今ここにいる「自分」でという意味であるべきです。
今ここに在る自分、「いる」という意識の存在である「私」に、
性別や、職業や、母、妻、娘、部長、納税者、、などの、
社会や家庭で使う役割・役職名がのっかっているのです。
さらに、楽しい、悲しい、怒り、惨め、、といった感情も、
この意識的な存在である「私」の上にのっかっている。
「私」は、映画を見ているように、幼少の頃から今までの出来事や身体の変化を、
暗い映画館のような脳みその片隅から、全てを眺めている。
しかし、あまりに映画にのめりこみすぎて、自分が役柄になりきり、
自分が感情や体の変化になりきっている。
そして、そんな役柄や、感情や、必ず朽ち果てる体の変化から
「自由になりたい!」ともがき続けて、
また新しい役柄をとろうとして必死になっている。それが解決策ではないのに。
そんな自分自身に対しての誤解を解くために、
性別や、職業や、母、妻、娘、部長、納税者、、などの、
社会や家庭で使う役割・役職名がのっかっているのです。
さらに、楽しい、悲しい、怒り、惨め、、といった感情も、
この意識的な存在である「私」の上にのっかっている。
「私」は、映画を見ているように、幼少の頃から今までの出来事や身体の変化を、
暗い映画館のような脳みその片隅から、全てを眺めている。
自分に対する無知と混乱
自分が感情や体の変化になりきっている。
そして、そんな役柄や、感情や、必ず朽ち果てる体の変化から
「自由になりたい!」ともがき続けて、
また新しい役柄をとろうとして必死になっている。それが解決策ではないのに。
それを解くのが聖典
聖典の教えが始まるからです。
それゆえに、「アートマン」が、自分とは別の、
どこか離れた場所や時間や次元にあるものだと捉えられてしまうと、
後に続く教えが全て無駄になってしまいます。
「私は太っている」「私は痩せている」
「私は元気だ」「私は疲れている」
「私は迷っている」「私は苦悩している」
「私がやっている」「私はこう考える」
「私は幸せだ」「私はこう感じている」
「私はこのような人間だ」
…
「私」の意味は、人によっても、状況によっても、
実にくるくると変わる意味ですね。
「私は~」に続く意味は無数にありますが、
常にあり続けるのは、この「私」なのです。
聖典が教えようとしているのは、その「私」についてなのです。
アートマンの語源
「आत्मा [ātmā] 」の語源にはいろいろあります。
文献によると、、、
「आप् to pervade」という動詞の原形から、
「全てのものの中に在るもの (सर्वम् आप्नोति)」
という意味から始まり、
「अद् to eat」という動詞の原形からは、
「全てを経験しているもの(विषयान् अत्ति)」となり、
「आङ् + दा to take」からは、似たような意味で、
「全てを受け取っているもの(विषयान् आदत्ते)」になります。
「अत् to go constantly」からは、
「常に存在するもの(अस्य भावः सन्ततः)」という意味で、
全ては「アートマン」、「この私」を指します。
(出典:लिङ्गपुराणः ७०-१६)
=== आत्मा [ātmā] が使われている文献 ===
グルストートラム
मदात्मा सर्वभूतात्मा ...
madātmā sarvabhūtātmā ...
私の本質(アートマー)、それは全ての本質(アートマー)、、、
タイッティリーヤ・ウパニシャッド
तस्माद्वा एतास्मादात्मन आकशः संभूतः।
tasmādvā etāsmādātmana ākaśaḥ saṃbhūtaḥ|
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出生は無く、永遠に存在するもの
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全てに存在を与えている「空間」。
そしてその「空間」存在を与えているのが、
「ここ」の意味である私です。