2015年9月19日土曜日

セートゥ・サーマ(सेतुसाम [setusāma])

サーマ・ヴェーダの中に、「セートゥ・サーマ」と呼ばれる有名な一節があります。

このサーマ・ヴェーダの一節は、プージヤ・スワミジがよく引用されいるので、

今回はこの「セートゥ・サーマ」の一語一句をわかりやすく説明します。



この「セートゥ・サーマ」は「仏陀の言葉」としても紹介されていました。

ご存知の通り、後に仏陀と呼ばれる王子シッダールタは、

バリバリのヴァイディカ(वैदिकः [vaidikaḥ])、

つまり、ヴェーダの伝統の生活規範に沿って先祖代々暮らしてきた人です。

仏陀の像に見られる、ヤッニョーパヴィーダ(襷掛けの紐)や耳のピアス、

そしてドーティやティラカは全て、ヴェーダの伝統的生活様式の代表です。

仏陀がサーマ・ヴェーダも勉強されていたのかどうかは知りませんが、

サーマ・ヴェーダの智慧は受け継がれたようですね。


「超え難きを超えよ」


サーマヴェーダのとても美しい響きにのせて、

人生で超え難きもの(セートゥ)の超え方が教えられています。

ここで言われる「超え難きもの」とはつまり、人間の未熟さです。


プージヤ・スワミジはこの「セートゥ・サーマ」が好きなので、

機会があるごとに、サーマヴェーディ(サーマヴェーダを歌う人)達に、

この「セートゥ・サーマ」を歌わせて、私達に聞かせてくれました。

しかし残念ながら、録音した音声ファイルはネット上に無いようです。

只今リシケシに滞在しておりまして、リシケシのアシュラムのテンプルで働く

サーマヴェーディーのプージャリさんに録音をお願い出来るか当たってみます。

私が昔テンプルでお世話をしていた時、彼がサーマヴェーディー独特の

高くてどこまでも届くような声で「サーマ・セートゥ」を歌ってくれたことが何回かありました。


繰り返される部分は、

सेतूंस्तर (セートゥームースタラ)। दुस्तारान् (ドゥスタ、ラーーン)।

(サーマなので、簡略された文法的表記とはかなり相違があります。)


どうやって、どの未熟さを超えるのか?


ヴェーダは言葉から成る知識の集合体です。

これらの言葉は文法的に集まって、文章を成しています。

文章の中で一番大事で一番最初にゲットするのは、、そう、動詞ですね。

この文章の動詞は、「タラ(तर [tara])」です。

「タラ(तर [tara])」は、「超える、泳ぐ」という意味の「तॄ [tṝ]」という動詞の原型を、

命令形・二人称・単数で活用した形です。

「超えよ」という意味ですね。

何を超えるのか?

「セートゥーン(सेतून् [setūn])」は、「セートゥ(सेतु [setu])」という名詞の原型が、

目的語として活用した形です。

「セートゥ(सेतु [setu])」の一般的な意味は「橋」ですが、そのほかにも、

「土を盛って出来た境界、障害物、束縛するもの」とった意味があります。

併せてみると、「境界を越えよ」と言う意味ですね。

境界はどのようなものなのかを表す形容詞も歌われています。

「ドゥスタラ(दुस्तर [dustara])」の दुस् [dus] は「困難な、悪質の」という意味です。

「タラ(तर [tara])」はここでは名詞で、「超えるべきもの」となり、

併せて「超え難い」という意味になります。

「超え難きを超えよ」と繰り返されているわけです。

でも、どうやって?

ここがこの「セートゥ・サーマ」の美しいところです。

4つの方法が述べられています。


1.与えることによって、与えられない未熟さを超えよ


ダーネーナ アダーナムदानेन अदानम् [dānena adānam])

「与えること」=「ダーナ(दानम् [dānam])」によって、

「与えられない、一歩踏み出して手を差し伸べられない、自分の小ささ」

=「アダーナअदानम् [adānam])」を超えよ。

自分と世界の中でリラックスして、安心できて初めて、人は与えられます。

私達は、与えられるものを、既に与えられています。

与えられたものは全て、与える為にあるのです。

歩ける足や動かせる手、人を助けることの出来る身体や、

人を癒す優しい言葉を生み出せる舌、考えられる脳みそなど、

全てを与えられてもらいながら、

「自分は無力でつまらない存在だ」と罰当たりなことを言い出して、

周りから愛や認識や物をもらうことばかり考えてしまう。

人間というものは、「もらおう」と考えている以上、未熟な存在です。

惨めな人の考え方の基本は、「この世から出来るだけいっぱいGetしよう」です。

どんなにお金を持っていたとしても、人間を貧しくしているのは、この考えです。

そこから脱出するには?

「この世に出来るだけ沢山Giveしよう」という姿勢で、

実際に、物理的に、体と時間とお金を使って「与える」という行動をすることです。

この世には「理解するべきこと」と「行動に移すべきこと」というふたつ別々のものがあります。

「理解するべきこと」を行動に移そうとしたり、

「行動に移すべきこと」を理解するだけにしようとして、行動に移さなかったり、

大体人間ってそんなものです。


2.怒りに任せた言動を避けることから始めて、怒りを超えよ


アックローデーナ クローダムअक्रोधेन क्रोदम् [akrodhena krodam])

「怒り」は「クローダ(क्रोधः [krodhaḥ])」です。

その反対が「アックローダक्रोधः [akrodhaḥ])」。

直訳すると、「怒らないことによって、怒りを超えよ」です。

ヨガや瞑想関係で、「怒るのをやめましょう」と教える人がよくいるようですが、

それは人間の心理を理解せず、とても危険なアドヴァイスです。

「今から3秒間手を叩いてください」と言われたら、その通りに出来ますが、

「今から3秒間起こってください」と言われても、その通りには出来ません。

怒る・怒らないは、心理反応(リアクション)であって、

自由意志を持って選択出来る「行為(アクション)」では無いからです。

ゆえに「今から怒るとするか」とか、怒ってしまっている人が「怒るのやめよう」といって、

その通りに実行できるものではないのです。

では、私達には何が出来るのか。金輪際怒りません、は無理です。

しかし、怒ってしまった場合に、怒りに任せた言動を慎む為に、

その場から離れるという行動は選択出来ます。

怒っている時には、とにかく言葉を発したり、行動や決断をしたりしない。

これが最初のステップ「ダマ」です。

怒っていない時に、後から怒ってしまった状況を振り返って、

状況と、自分の怒りのツボを客観的に捉え、

そんな自分を蔑んだり責めたりするのではなく、

大きな心で友情を持って自分を受け入れてあげれば、

怒りの再発はどんどん少なくなります。これが「シャマ」です。

まず「ダマ」、そして「シャマ」が、受け入れ難い感情から毒を抜く方法です。



3.信頼することを学んで、不信頼を超えよ


シュラッダヤー アシュラッダームश्रद्धया अश्रद्धाम् [śraddhayā aśraddhām])

シュラッダーश्रद्धा [śraddhā])」は、「信頼」と訳してしまってもいいかもしれません。

「自分には良く分からないけど、この人が言っているのだから、

ますこれが正しいという前提で、理解を進めていこう」という態度です。

それの反対が「アシュラッダーश्रद्धा [aśraddhā])」、信頼する能力の無さです。


現在の3年コースでサンスクリットを教えていて気付くのは、

ヴェーダーンタやサンスクリット語を難しくさせているのは、

文献の難解さではなく、その人の「アシュラッダー」なのだということです。

自分に分からないことがあれば、自分の考えを先生の考えに合わせようと

努めようとすることがシュラッダー」です

先生の考えに自分の考えをチューンして合わせる為の方法を毎日教えているのに、

安心してそれを受け入れられない。だからそれをしない。だから分からない。

持っている全ての知力は、教えを責める為に使われ、

自分の物の見方の間違いを正すことに使われない。

一番近道を教えてあげているのだから、その通りにすればいいのに、

と傍から見てて思うのですが、特に現代人はそれが難しいですね。

「アシュラッダー」の原因


小さいときに、「これをしなさい」とはっきり言ってくれる

親や周りの大人が居ないと、こうなるのかな、と思います。

「何がしたい?お母さんがこれしてもいい?自分で決めてね。」は、

判断材料にまだ乏しい幼児を、パニックに陥れるようなものです。

「私が先に生きてきて、一番正しいと分かったのはこれよ。」と、

先に生きてきた智慧を子供に与えるのが、賢い親や周りの大人のすることです。

子供は、何でそれが正しいのか分からなくても、母親の言うことだからと安心していられます。

それが本当に正しかったのかどうか分かるのに、10年や20年かかっても良い、

と思えてリラックスしていられるのが「シュラッダー」です。

「自分で決めて」から生まれた幼児の頃のパニックは、

表層意識に出ずに、大人になってからも「全部自分で決めなきゃ!」と、

何でもコントロールしようとする「シュラッダー」という形で、

その人の考え方を支配してしまうのだろうな、と思います。


4.真実により、偽りを超えよ


サッティェーナ アサッティヤसत्येन असत्यम् [satyena asatyam])

サッティヤसत्यम् [satyam])」は「真実を話すこと」です。

「アサッティヤसत्यम् [asatyam])」はその反対です。

「自分は嘘なんかつかないよ」と思うかもしれませんが、

自分が真実だと思っているだけではなく、ちゃんと真否を確認すること。

そして聞いている人に有益で、感情を傷つけずに話すことです。

もちろん、絶対的には、真実を知ることにより、

真実ではないものを真実だと思い込むことを超えられるのです。



抜粋、意訳です。

दानेन अदानं तर(by giving, grow out of the incapacity to give.)
अक्रोधेन क्रोधं तर(by not acting upon anger, grow out of the anger.)
श्रद्धया अश्रद्धां तर(by trust, grow out of the distrust.)
सत्येन असत्यं तर(by truthfulness, grow out of the incapacity to tell truth.)


全文

हाउ३। सेतूँस्तर।३। दुस्त। रान्।३। दानेनादानम्।३। हाउ।३। अह मस्मिप्रथमजाऋता२३स्या३४५। हाउ।३। सेतूँस्तर।३। दुस्त।रान्। ३। अक्रोधेन क्रोधम्। २। अक्रोधेन क्रोधम्। हाउ। ३ ।पूर्वं देवेभ्यो अमृतस्य ना२३मा३४५। हाउ। ३। सेतूँस्तर। ३।दुस्त। रान् ।३। श्रद्धयाश्रद्धाम्। ३। हाउ। ३। योमाददाति सइदेवमा२३वा३४५त्। हाउ३। सेतूँस्तर। ३। दुस्त। रान्। ३। सत्येनानृतम्। ३। हाउ।३। अहमन्नमन्नमदन्तमाऽ२३द्मी३४५। आउ२हाउवा। एषागतिः।३। एतदमृतम्।३। स्वर्गछ।३। ज्योतिर्गछ।३। सेतूँस्तीर्त्त्वाचतुराऽ२३४५ः। इति मुखे॥ 




<< 目次へ戻る <<




<< 前回 アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句) <<

ダンヴァンタリへの祈りの句です。


2015年9月17日木曜日

アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句)

今回は、アーユルヴェーダ(健康長寿の智慧)を授けた神として崇められる、

ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ])という名のデーヴァに向けての

祈りの句(シュローカ )を紹介します。

一語一語の意味を、文法的にもわかりやすく説明しますね。
 

ダンヴァンタリ(धन्वन्तरिः [dhanvantariḥ])とは、

ヴィシュヌがデーヴァター達の主治医として現れた形、

つまりヴィシュヌの化身のひとつです。

今回紹介するシュローカは、

アーユルヴェーダの施術を受ける前に、ダンヴァンタリが奉られる祭壇に向かって、

施術をする人とされる人の両方が一緒に、手を合わせて唱える祈りのシュローカです。


नमामि धन्वन्तरिम् आदिदेवं सुरासुरैर्वेन्दितपादपद्मम् ।
[namāmi dhanvantarim ādidevaṃ surāsurairvenditapādapadmam |]

लोके जरारुग्भयमृत्युनाशं दातारमीशं विविधौषधीनाम् ॥
[loke jarārugbhayamṛtyunāśaṃ dātāramīśaṃ vividhauṣadhīnām ||]


サンスクリット語の祈りのシュローカは全て、

文法的に分析できる文章から成っています。

文章は単語の集まりから構成されています。

文章の中で一番大事で一番最初に見つけるべきは、動詞です。

このシュローカの文章においての動詞は:

नमामि (ナマーミ [namāmi]) = 私は敬礼を示します。


この動詞は、नम् [nam] という動詞の原型が活用したものです。

नम् [nam]は、単に「挨拶する」というよりも「尊敬を表現する」という方が良いでしょう。

尊敬する、ということはつまり、何が尊敬するべき価値かを知っているということです。

知識、特にヴェーダの知識を持っていることは、多大な尊敬に値します。

その価値を知っている人は、知識を持っている人に対して尊敬を表現する行動、

つまり手を合わせたりお辞儀してナマスカーラをします。

しかし、ヴェーダの知識を、いろいろある思想のひとつとして捉えている文化圏の人には、

ヴェーダの知識や、知識を持っている人に対して、尊敬すべき価値が分かりません。

ナマスカーラは、それをされる人の為にあるのではなく、

ナマスカーラをする人の価値感や姿勢を育てる為にあるのです。

シュローカの意味に戻りましょう。

私は誰に対して敬礼を示しているのでしょうか?

サンスクリット語の能動態の文章の中で「~に」という目的語に値する名詞は、

第2格で活用します。このシュローカの中には第2格で活用している名詞が6つあります。

私が敬礼を示している相手を説明する言葉が6つあると言うことです。


1.धन्वन्तरिम्(ダンヴァンタリム [dhanvantarim])= ダンヴァンタリに


ミルクの海を、スラとアスラ(日本語の阿修羅)が攪拌して出てきた

アムリタを手に持って出現したヴィシュヌの化身の名前です。

だいたいこんな感じで登場します。

2.आदिदेवम्(アーディデーヴァム [ādidevam])= 最初のデーヴァに


「最初・始まり」という意味の「アーディ(आदि [ādi])」と、

この世界のあり方の法則、そして意識的な存在という意味の

デーヴァ(देव [deva])」という言葉の複合語です。

あまり分かってもらえないですが、この世界には始まりも終わりも無く、

ぐるぐると、創造と破壊のサイクルを繰り返しているのです。

そこに「アーディ(最初)」など無いのですが、

一般に人々が最初と捉えている、その時にも既にいるので、

「アーディ」という形容詞が付くのです。

सुरासुरैः  (スラースライヒ [surāsuraiḥ])= スラとアスラによって

3.वन्दितपादपद्मम्(ヴァンディタ-パーダ-パッドマム [vanditapādapadmam])

= 敬礼された蓮の花のような足を持つ者に


「パーダ(पाद [pāda])」とは「足」という意味です。

インドの伝統では、高い尊敬を表すとき、足を触ったり、洗ったり、プージャーしたりします。

足という部分は、プージャーする為の祭壇となるからです。

そんなプージャーに値する足は、蓮の花に例えられます。

蓮の花は「パドマ(पद्म [padma])」ですね。

そんなロータス・フィート(蓮の花のような足)は、

人間に栄光を与えられるスラからも、人間を混乱させるアスラからも、

敬礼されています。=「ヴァンディタ(वन्दित [nandita])」

वन्द् [vand] は、नम् [nam] と同じ意味です。



लोके (ローケー [loke])= この世における

4.जरारुग्भयमृत्युनाशम्(ジャラルッグバヤムリッティユナーシャム [jarārugbhayanāśam])= 老いや病からの恐怖、そして死を破壊する者

「ローカ(लोक [loka])」とは「世界」という意味。「人々」という意味もあります。

第7格で活用して「この世界において、この世界の中で」という意味になります。

「ジャラー(जरा [jarā])」は「老い」、「ルグ(रुग् [rug])は「病気」、

それらからの「バヤ(भय [bhaya])」=恐怖を、

そして「ムリッティユ(मृत्यु [mṛtyu])」=死を、

「ナーシャ(नाश [nāśa])」= 破壊する人

相対的には、健康や長寿を実現することにより、

老いや病からの恐怖や死を克服出来ますが、

絶対的には「アムリタ」にあるように、

自分の本質を正しく知ることによってのみ可能です。

5.दातारम् (ダーターラム [dātāram])= 与える者


「与える」という意味の「ダー(दा [dā])」という動詞の原型に、

「~する人」という意味の「トゥル(तृ [tṛ])」という接尾語を付加した派生語です。


6.ईशम् (イーシャム [īśam])= 司る者

「司る」という意味の「イーシュ(ईश् [īś])」という動詞の原型に、

「~する人」という意味の「ア(अ [a])」という接尾語を付加した派生語です。

意味は「イーシャ」のページをご覧下さい。


何を与えたり司ったりする者なのでしょうか、ダンヴァンタリという神様は?

विविधौषधीनाम्(ヴィヴィダウシャディーナーム [vividhauṣadhīnām])
= 様々な薬草の


「ヴィヴィダー(विविधा [vividhā])」とは「色んな種類の」という意味です。

アウシャディ(औषधिः [auṣadhiḥ])」は、「薬草」または「薬」ですね。

「アー(आ [ā])」と「アウ(औ [au])」という母音が、この順番で連なった時は、

そう、ふたつの音がヴリッディになるのでしたね。

最後に意味をつなげ合わせると:

「スラからもアスラからも尊敬を示された、蓮の花のような足を持つ、

老いや病気の恐怖や死を破壊する、

様々な薬草を与え、司る者、最初のデーヴァ、ダンヴァンタリに

私はナマスカーラをし、恩恵を授かります。」



<< 目次へ戻る <<


仏教用語になったサンスクリット語と、その本来の意味

シリーズ(1)シリーズ(2)


Medhaみちかの関連サイト

人気の投稿(過去30日間)

【新刊のお知らせ】
ヨガクラスの座学や、チャンティングのクラス、
サンスクリット語入門のクラスの教材として活用してください。
 

 すぐ読み書きできるようになる
サンスクリット語 デーヴァナーガリー文字 
練習帳 & 問題集
 
 わかりやすいサンスクリット語の正しい発音と表記
のメソッドに沿った、全ての文字の練習帳と、 
早く読み書きできるようになるための問題集です。

 
 初心者にはわかりづらい、連続した子音文字について、
よく見かけられるもの、そして応用の利くものを集め、
豊富な例と共に紹介しています。
お祈りの句の書き写しの練習も紹介しています。