2015年3月29日日曜日

51.サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])- 達成する人

साधकः
 [sādhakaḥ]

masculine - 文法的訳:達成する人、一般訳:”スピリチュアル・シーカー(探求者)”


この言葉は、プージャ・スワミジが注意して使っている言葉です。

使い方によっては、強く批判している言葉です。

なぜでしょうか?

一緒に考えてみましょう。

「スピリチュアル・シーカー(探求者)」と呼ばれた瞬間、
長い長い道のりに放っぽり出されたような気になりませんか?

文法的な語源


「達成する」という意味の「サーダ(साध् [sādh])」という動詞の原型に、

「~する人」という意味の「 アカ(अक [aka])」という接尾語を付加して、

「サーダ」+「アカ」=「サーダカ(達成する人)」となります。

サンスクリットの文法って、とってもシステマティックですね!


一般的な使われ方


何かを達成しようとして練習したり勉強をしたりしている人を指して、

「サーダカ」という言葉が使われることがあります。

このことから、アシュラムでヨガやプラーナーヤーマ、瞑想をしたり、

文献の勉強をしている人を指して、「サーダカ」と呼び、

それを英語に訳して「スピリチュアル・シーカー(spiritual seeker)」となるわけです。

日本語で言うと「探求者」でしょうか。


なぜ、ヴェーダーンタの生徒を「サーダカ」と呼ばないのか


私はこの10年ほど、彼の話を聞くために彼の近くに住みながら、

ヴェーダンタを学び、教える生活を続けていますが、

プージャ・スワミジが生徒のことを「サーダカ」と呼んだのを聞いたことはありません。

「スピリチュアル・シーカー/探求者」という意味での

「サーダカ」という言葉のどこがいけないのでしょうか?


サーディヤ=達成されるべきもの


「サーダカ(साधकः [sādhakaḥ])」と似た言葉で、

「サーディヤ(साध्यम् [sādhyam])」という、もう一つのサンスクリットの言葉を紹介しますね。

同じ、「達成する」という意味の「サーダ(साध् [sādh])」という動詞の原型に、

「~されるべきもの」という意味の「 ヤ(य [ya])」という接尾語を付加して、

「サーダ」+「ヤ」=「サーディヤ(達成されるべきもの)」という言葉になります。


ヴェーダーンタが教えていること


ヴェーダーンタを勉強して何を知ろうとしているか?

その対象を指すときに「サーディヤ(達成されるべきもの)」という言葉が使われます。

ヴェーダンタの対象は「ブランマン」です。それは制限も条件もない存在です。

ということは、今ここにいる、あなたと時間的にも空間的にも離れていない、

あなた自身であるべきす。

「そのブランマンは、このあなたです」と教えるのがヴェーダーンタです。

しかし、それをあなたは知らない。

知らされても、ちゃんと理解出来ない。

知らないこと、理解出来ないことに対抗できるのは、知識だけです。

「シッダッシャ・シッディヒ(सिद्धस्य सिद्धिः [siddhasya siddhiḥ])」

日本語に訳すと「既に達成されていることの達成」。

家に居るのに、「家に帰りたいよう~」と泣いている人を、

どうやって家に帰してあげられますか?

「あなたは家に居るんですよ」という知識を理解してもらうしかないのです。


スピリチュアル・シーカー(探求者)の典型的な「遠い道のり」という概念。
自分自身のことなのに、間違った先生達によって、「遠い場所と未来にある何か」だと思い込まされてしまう。

「ブランマン」について教えているのはヴェーダーンタだけです。

ヴェーダーンタは、正しい伝統のもとで、正しく学び、理解されなければなりません。

伝統の中で勉強を正しく修めた人でなければ、

立派な大学教授であろうが、有名なスピリチュアル・リーダーであろうが、

学術的、生理学的、解剖学的なエクササイズを教えることは出来ても、

人生の目的を満たす為の知識については、正しく教えることは出来ません。

正しい伝統を知らない「先生」達が、真剣に幸せを追い求めている純真な生徒達に、

「君は惨めで役立たずのサーダカ、ゴールはとてつもなく遠いサーディヤ」

という、下手をすると修復不可能な認識を植えつけているのです。



「サーダカ」を「探求者」とし、「サーディヤ」を「達成するべきゴール」とした時、

その2つの間には、とてつもなく巨大なギャップが出来上がってしまいます。

時間的距離は永遠で、空間的距離は無限、そんな風にとらえられてしまうのです。

「サーディヤ」は「今」「ここ」の自分自身なのに!

インド人が好きな言葉遊び。
探しているものは、今=Now、ここ=Hereにあるのに、
見つけ出せずに、Nowhereと思ってしまう。

レーベリング(人にラベルを貼り付けること)


ヨガ教室に通っていようがいまいが、アシュラムに出入りしていようがいまいが、

何を食べていようが、周りからの評判がどうであろうが、

人間は誰だって、無条件の幸せを探求しているのです。

ある特定の人にだけ「サーダカ」とラベルを貼ってしまうと、

「私はサーダカだけど、うちの旦那はサーダカじゃなくって!」という分裂が引き起こされるのです。


伝統的な教えの大切さ


「サーダカ(達成する人)」も「サーディヤ(達成されるべきもの)」も、

そしてその為の手段「サーダナ」も、伝統の中で使われるサンスクリット語です。

これらに限らず、どの言葉も全て、意味を正しく理解することはもちろん、

使い方を一歩間違えると、聞く人の心理に多大な損害を与えてしまうかも知れない、

ということに配慮しながら、慎重に言葉を扱って教えるのが「伝統的な教え」なのです。


この記事を書こうと思ったきっかけ


私が教えている3年半のコースのサンスクリット語文法のクラスでは、

今はいろんな種類の接尾語を教えています。

「~する人」を表す接尾語の例として、「サーダカ」を説明た時に、

ヴェーダーンタをもう10年以上も勉強している人が、

「じゃあ、私でもいつか達成できるのね!」と喜んでいました。

彼女が達成しようとしていることは、既に達成されているのに!

先ほどの、「シッダッシャ・シッディヒ(सिद्धस्य सिद्धिः [siddhasya siddhiḥ])」です。

彼女の先生が悪いのか、彼女の理解が悪いのか知りませんが、

このことは、彼女が長年「サーダカ」という言葉で呼ばれ続け、

「自分は達成出来ていない存在なのだ」という認識を長年固め続けた証拠です。

そういう人達は何年何月何日に自分の事を「サーダカ」と呼ぶのを辞めるのでしょうか?

「今ここに居るあなたがブランマンです」という真実を見据えている先生が、

生徒のことを「サーダカ」と呼ぶでしょうか?




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インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。

聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。



<<前回 49.アハンカーラ(अहङ्कारः [ahaṅkāraḥ])<<

それによって「これが私」という考え・結論が出来る。

それがアハンカーラ。


>> 次回 52.マントラ(मन्त्रः [mantraḥ])>>

最近日本のヨガスクールでもどんどん教えられるようになってきましたが、充分な注意が必要です。

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