अहङ्कारः
[ahaṅkāraḥ]
「アハンカーラを捨てなければ」
「アハンカーラを止滅させる」(そんな日本語ないのだけど。ヨーガ・スートラの和訳のせい?)
といった使い方を聞きますが、
それはアハンカーラの意味の理解が正しく出来ていない例です。
今日は、「アハンカーラ」という言葉の意味をはっきりすることに努めてみましょう。
それによって「これが私」という考え・結論が出来る。
それがアハンカーラ。
「私 = アハム(अहम् [aham])」に、
「~を作る道具」という意味の「カーラ(कार [kāra] )」をつけて、
「アハンカーラ(अहङ्कार [ahaṅkāra]」の出来上がりです。
文法の好きな方へ: अहम् + कृ + घञ् (करणे)
अहम् इति ज्ञानं क्रियते अनेन । [aham iti jñānaṃ kriyate anena]
道具、つまりツールという意味と、
さらに、その道具によって行き着いた結果・結論も指します。
アハンカーラだけでなく、マインドと呼ばれる思考機能全てをまとめて、
「アンタッカラナ(अन्तःकरणम्)[antaḥkaraṇam]」と呼ばれます。
文字通り訳せば「(身体の)内側の道具」という意味なのです。
感情や記憶などが混在している、心・マインド・思考能力というものは、
私が何かを達成する為の、大事な道具であり手段です。
マインドというツールをうまく使いこなせば、なんでもうまく行きます。
逆に、それがうまく使いこなせていないと、うまく行きません。
マインドはツール、スプーンと同じ!
マインドとは基本的に駄々っ子で一生直りませんが、
そういうもんだと知って、うまく仲良く楽しく、人生の目標達成を手伝ってもらい、
行く手の邪魔をさせないように、きっぱりと、そして優しく付き合ってあげるのが、
自分のマインドというものです。
人間の脳内機能には、記憶力や思考力など様々な機能があります。
それらを総称して、前出の「アンタッカラナ(内側の道具)」と呼びます。
その中の一つで、「私は~だ」「私が~をする」と言うときの、
「私」と「~」の間を、イコールでつなぐ役目をしているのがアハンカーラです。
アハンカーラが機能していないと、私は食べているのか、走っているのか、
それともあなたが食べているのかもよく分からない。といった、大変なことになります。
記憶喪失になった人が「ここはどこ?私は誰?」と問うのも、
「私」=「~」の方程式の、失われた「~」の記憶が見つからず、
アハンカーラが方程式を成立出来なくて焦っている現われでしょう。
私達は決して、アハンカーラを捨てたり止滅したりすることを目的としません。
「母」「この仕事に取り掛かる」「疲れた」「怒っている」「楽しい」など、
自分を個人たらしめている、身体や心の属性や役割です。
私がこれらの全てであるとしたら、それはつまり同時に、
私はこれら全てではないのです。
「赤色の壷」「青色の壷」「緑色の壷」、、と無数の色と形の壷があるとき、
「では壷という物は赤色のものなのです」とは言えません。
青でも緑でも同じことです。
私は、日本人でも何人でも、女性でも何の性でもなく、
過去の自分でも未来の自分でもなく、
これら全ての役割や属性から自由な、
今ここに居る、意識的な存在です。
よく考えてみてください。
私の人生の問題は全て、身体や心の属性や役割に関するものです。
しかし、私の本質は、それら全ての属性や役割から自由なのです。
ここからは、伝統的なヴェーダーンタの教えをゆっくり聞いてもらうしかありません。
一方で、「日本人」や「女性」などといった身体と心の属性で自分を認識しない限り、
実社会で生きていくのは無理です。
身体と心の属性が、私を他から切り離された「個人」という存在にしています。
しかし、私の身体と心の属性は、宇宙の属性の一部です。
「宇宙」というと、大気圏外のことだと勘違いしてしまいますが、
いえいえ、あなたの部屋も身体も、心までも、宇宙の構成要素です。
その事実を、「イーシュワラ」や「デーヴァター」という言葉で理解しようとするのが
ヴェーダの教えです。
生理学や解剖学、物理学、天文学、地質学、、などといった、
何でもいいのですが、一般教養レベルの科学によって培われた、
「法則は普遍する」という客観的な世界の理解が、
「イーシュワラ」や「デーヴァター」の理解を助けてくれます。
それが「全体」と「個人」との距離を0にしてくれるのです。
この認識が浅いとき、
「この素晴らしい仕事は、他の誰でもない、私がやったのだ!」
「私が頑張ってやってるんだよ!認めろ!」
といった、「個人 VS その他」という認識になります。
これが「アハンカーラ」という言葉を使って指摘される、
その人の認識の浅はかさの表れなのです。
解決策は、アハンカーラを捨てることでも止滅させることでもなく、
私という「個人」を作っている、宇宙という「全体」が、
離れた存在ではないと、客観的に知ることです。
私の偉業も、栄光も、全てはデーヴァター達の偉業であり栄光なのです。
その事実を認識出来ている人は、さらにデーヴァター達の偉業を
自分の身体と心を通して表現出来るように委ねることが出来るのです。
<< 目次へ戻る <<
<< 前回 48.デーヴァター(देवता [devatā]) <<
「私と宇宙は別の存在ではない」ことを気付かせてくれる為に、
この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、
名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。
>> 次回 50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])>>
インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。
聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。
[ahaṅkāraḥ]
masculine - 「これが私」という考え・結論
「アハンカーラを捨てなければ」
「アハンカーラを止滅させる」(そんな日本語ないのだけど。ヨーガ・スートラの和訳のせい?)
といった使い方を聞きますが、
それはアハンカーラの意味の理解が正しく出来ていない例です。
今日は、「アハンカーラ」という言葉の意味をはっきりすることに努めてみましょう。
アハンカーラの語源から定義を探る
それによって「これが私」という考え・結論が出来る。
それがアハンカーラ。
「私 = アハム(अहम् [aham])」に、
「~を作る道具」という意味の「カーラ(कार [kāra] )」をつけて、
「アハンカーラ(अहङ्कार [ahaṅkāra]」の出来上がりです。
文法の好きな方へ: अहम् + कृ + घञ् (करणे)
अहम् इति ज्ञानं क्रियते अनेन । [aham iti jñānaṃ kriyate anena]
道具、つまりツールという意味と、
さらに、その道具によって行き着いた結果・結論も指します。
マインドは大事な「道具」
アハンカーラだけでなく、マインドと呼ばれる思考機能全てをまとめて、
「アンタッカラナ(अन्तःकरणम्)[antaḥkaraṇam]」と呼ばれます。
文字通り訳せば「(身体の)内側の道具」という意味なのです。
感情や記憶などが混在している、心・マインド・思考能力というものは、
私が何かを達成する為の、大事な道具であり手段です。
マインドというツールをうまく使いこなせば、なんでもうまく行きます。
逆に、それがうまく使いこなせていないと、うまく行きません。
マインドはツール、スプーンと同じ!
マインドとは基本的に駄々っ子で一生直りませんが、
そういうもんだと知って、うまく仲良く楽しく、人生の目標達成を手伝ってもらい、
行く手の邪魔をさせないように、きっぱりと、そして優しく付き合ってあげるのが、
自分のマインドというものです。
アハンカーラの機能的な側面
人間の脳内機能には、記憶力や思考力など様々な機能があります。
それらを総称して、前出の「アンタッカラナ(内側の道具)」と呼びます。
その中の一つで、「私は~だ」「私が~をする」と言うときの、
「私」と「~」の間を、イコールでつなぐ役目をしているのがアハンカーラです。
アハンカーラが機能していないと、私は食べているのか、走っているのか、
それともあなたが食べているのかもよく分からない。といった、大変なことになります。
記憶喪失になった人が「ここはどこ?私は誰?」と問うのも、
「私」=「~」の方程式の、失われた「~」の記憶が見つからず、
アハンカーラが方程式を成立出来なくて焦っている現われでしょう。
私達は決して、アハンカーラを捨てたり止滅したりすることを目的としません。
では、何を目的としているのか?
バガヴァッド・ギーターでは、アハンカーラという言葉が何回も出てきます。
何故でしょうか?私たちに何を伝えようとしてるのでしょうか?
「私は~」の「~」に入るのは、「日本人」「女性」「会社員」「既婚」何故でしょうか?私たちに何を伝えようとしてるのでしょうか?
「私」は本質的に誰なのか?
「母」「この仕事に取り掛かる」「疲れた」「怒っている」「楽しい」など、
自分を個人たらしめている、身体や心の属性や役割です。
私がこれらの全てであるとしたら、それはつまり同時に、
私はこれら全てではないのです。
「赤色の壷」「青色の壷」「緑色の壷」、、と無数の色と形の壷があるとき、
「では壷という物は赤色のものなのです」とは言えません。
青でも緑でも同じことです。
私は、日本人でも何人でも、女性でも何の性でもなく、
過去の自分でも未来の自分でもなく、
これら全ての役割や属性から自由な、
今ここに居る、意識的な存在です。
よく考えてみてください。
私の人生の問題は全て、身体や心の属性や役割に関するものです。
しかし、私の本質は、それら全ての属性や役割から自由なのです。
ここからは、伝統的なヴェーダーンタの教えをゆっくり聞いてもらうしかありません。
私を「個人」たらしめている「全体」、その関係を知る
一方で、「日本人」や「女性」などといった身体と心の属性で自分を認識しない限り、
実社会で生きていくのは無理です。
身体と心の属性が、私を他から切り離された「個人」という存在にしています。
しかし、私の身体と心の属性は、宇宙の属性の一部です。
「宇宙」というと、大気圏外のことだと勘違いしてしまいますが、
いえいえ、あなたの部屋も身体も、心までも、宇宙の構成要素です。
その事実を、「イーシュワラ」や「デーヴァター」という言葉で理解しようとするのが
ヴェーダの教えです。
生理学や解剖学、物理学、天文学、地質学、、などといった、
何でもいいのですが、一般教養レベルの科学によって培われた、
「法則は普遍する」という客観的な世界の理解が、
「イーシュワラ」や「デーヴァター」の理解を助けてくれます。
それが「全体」と「個人」との距離を0にしてくれるのです。
認識の浅はかさを指摘する時の「アハンカーラ」
この認識が浅いとき、
「この素晴らしい仕事は、他の誰でもない、私がやったのだ!」
「私が頑張ってやってるんだよ!認めろ!」
といった、「個人 VS その他」という認識になります。
これが「アハンカーラ」という言葉を使って指摘される、
その人の認識の浅はかさの表れなのです。
解決策は、アハンカーラを捨てることでも止滅させることでもなく、
私という「個人」を作っている、宇宙という「全体」が、
離れた存在ではないと、客観的に知ることです。
私の偉業も、栄光も、全てはデーヴァター達の偉業であり栄光なのです。
その事実を認識出来ている人は、さらにデーヴァター達の偉業を
自分の身体と心を通して表現出来るように委ねることが出来るのです。
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<< 前回 48.デーヴァター(देवता [devatā]) <<
「私と宇宙は別の存在ではない」ことを気付かせてくれる為に、
この宇宙を宇宙たらしめている、絶対確固な法則の数々に、
名前をつけて認識したのが、デーヴァターです。
>> 次回 50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])>>
インドの伝統の聖典、知る手段という意味です。
聖典とは何か?
人間の幸せについて教えるのが聖典です。