2016年3月4日金曜日

ヨガとアーユルヴェーダと文法と、ヴェーダーンタの関係 - パタンジャリへの祈りから読み解く


ヴェーダーンタに辿り着くまでには、人それぞれ様々な道のりがありますが、

サンスクリット語をベースとしたヒンドゥー文化、という同じ土壌であることから、

ヨガやアーユルヴェーダ、音楽、舞踊、占星術、哲学、文学、文法などが、

ヴェーダーンタの入り口となることはよくあることです。

パームリーフ(椰子の葉)に刻まれて保存された文献

これらの学問と、ヴェーダーンタには、

「サンスクリット語による文献によって伝えられている知識」という共通点はあれども、

主題は全く次元からして異なっています。

次元が違うことなのに、ごっちゃにしてしまって、

ヴェーダーンタを聞いても、「そうそう、私の習ってった○○でもそう言ってた!」

となってしまっては、もったいないです。

というわけで、今回はそこなへんを整理してみたいと思います。



ヨーゲーナ チッタッシャ、、から始まるこのプレーヤー(祈りの句)。

योगेन चित्तस्य पदेन वाचां मलं शरीरस्य वैद्यकेन
योऽपाकरोत्तं प्रवरं मुनीनाम् पतञ्जलिं प्राञ्जलिराणतोऽस्मि ॥

yogena cittasya padena vācāṃ malaṃ  śarīrasya vaidyakena
yo'pākarottaṃ pravaraṃ munīnām patañjaliṃ prāñjalirāṇato'smi ||


ヨーガによって、心のマラ(不純・不調・不和)を、

文法によって、言葉のマラを、

アーユルヴェーダによって、身体のマラを、

取り除いたその人、

賢者の中の最高者、そのパタンジャリに、

私は手を合わせて、 尊敬を示します。


ヨーガによって(yogena)、心の(cittasya)マラ(不純・不調・不和)を(malam)、

文法によって(padena)、言葉の(vācām)マラを(malam)、

アーユルヴェーダによって(vaidyakena)、身体の(śarīrasya)マラを(malam)、

取り除いた(apākarot)その人(yaḥ)、

賢者の中の(munīnām)最高者(pravaram)、その(tam)パタンジャリに(patañjalim)、

私は(asmi)手を合わせて(prāñjaliḥ)、 尊敬を示します(āṇataḥ)。




「学びごとの前には必ず祈る」という重要性



パタンジャリという名の賢人の偉業を讃えることにより、

彼の残した智慧を授かる、という形で、彼からの恩恵を受けるためのお祈りです。

学びごとをする前には、必ずお祈りをします。

祈るという行為により、

知識の伝承という伝統の一員になるのだという、知識を受け取る姿勢を整えるのです。


伝統への姿勢、先生に対する姿勢、知識への姿勢、

そして、知ることの出来る自分の能力や、得られた知識に対しても、

正しい姿勢で向き合えるように、毎回祈り続けるのです。


こうして、今の学びを可能にしている知識の伝承という「伝統」に対して、

正しい姿勢を培います。




パタンジャリの偉業とは


1. ヨーガによって、心のマラ(不純・不調・不和)を、

2. 文法によって、言葉のマラを、

3. アーユルヴェーダによって、身体のマラを、

取り除いた


とあります。
 

1.心


「ヨーガによって」とありますが、ここでのヨーガとは、

精神集中をゴールとした、アシュターンガ・ヨーガです。

それを説明したヨーガ・スートラの著者は、パタンジャリですからね。

心の落ち着きの無さ、集中力の無さが、マラ(不純・不調・不和) という訳です。


2.言葉

サンスクリット文法の解説書「マハーバーシヤ」の著者もパタンジャリです。

人間は言葉を使って正しく考えることが出来ます。

間違った言葉、つまり間違った考えが、言葉のマラです。

3.身体

アーユルヴェーダの著者も、パタンジャリとして知られています。

あらゆる体調不良の原因がマラですね。

 

なぜ、心・言葉・身体にマラ(不純・不調不和)ができるのか


心・言葉・身体とはどれも、カルマの産物です。

カルマとは、私達人間が24時間365日している行動のことです。


限りある時間の中で、限りある要素を集めて為される、

限りある結果を生み出すのが、カルマ(行為)です。
 

カルマの産物ゆえに、マラ(不純・不調不和)が出来るのです。



限りとか限界というものは、相対的なものです。

AとBというふたつの物があって、限界が出来るからです。

そんな、相対的なものから成り立っているのが、

カルマであり、その産物である心・言葉・身体なのです。

心・言葉・身体とは結局、儚い「状態」であり、

絶対的な永遠の存在ではありません。


絶対的に完璧な心や身体など無いのです。

ゆえに、 心・言葉・身体には、マラ(不純・不調不和)がある。


ヨガ、アーユルヴェーダ、文法の役割


心・言葉・身体のマラを取り除くための知識が、

ヨーガであり、文法であり、アーユルヴェーダなのです。

それらの知識を得るためのプラマーナ(知る手段)が、

ヨーガ・スートラであり、マハーバーシヤという文法書であり、

アーユルヴェーダという文献なのです。


しかし、これらは相対的な次元での、相対的な解決方法の智慧なのです。

ここが、ヴェーダーンタと根本的に違う点です。


相対的な解決策の限界を見抜くことを、ヴァイラーギャと言います。

心・言葉・身体をどれだけ洗練しても、

時間や身体的・精神的な限界の中でジタバタしているに過ぎない。

そんなジタバタしている自分を辞めたくて、

いろいろ違った方法を試すけど、結局ジタバタの方法が変わっただけ。

根本的な解決にはならない。



「ヴェーダーンタ」 という知る手段


絶対的な解決策などあるのか?

正しい先生によって教えられたヴェーダーンタは、

きっちり最初から最後まで教えます。

時間や身体的・精神的な限界の中で苦しんでいるあなたの本質は、

無限の存在であり、それが、あなたが探し続けているものなのだと。


ヴェーダーンタとは、自分の本質について正しく知るための手段です。

 
限界から成り立っていて、相対的な状態である、

私の心・言葉・身体は、常に変化し続けるゆえに、私の本質ではありません。

限界や変化という向こう岸を眺め続けている私。

現在・過去・未来の心・言葉・身体を眺め続けている私。

そんな、今ここにいる、この私の存在は、自明自白です。



目・耳・鼻・舌・触覚などの知る手段も、それらのデータを元にした推論なども、

対象物として私が眺め続けている、向こう岸にあるものを知る手段です。

自分の本質を知るようには出来ていません。

体験、経験、感覚、感情や思い出などは対象物であり、対象化している自分ではありません。

憶測や思いつきは、憶測や思い付きであり、知る手段ではありません。



自明自白な存在である私を、心・言葉・身体という限界に苛まされた存在であると、

無限の存在である私を、儚い心・言葉・身体という状態なのだと、

誰もが疑うことすらせずに信じていますが、、

「それは間違いですよ。

真実は、自明自白な存在である私は、無限の存在なのですよ。」


と教えるのがヴェーダーンタなのです。

この教えを聞いて、「自分自身に対する混乱が完全に解けました」

と言える人は、人間として精神的に成熟した人です。

つまり、教えを受け継ぐ心の準備が出来ている人です。


精神的な成熟・心の準備は、ダルマに沿った生活によって形成されます。

自分の置かれた状況で、他の命への幸せへの貢献を最大にし、

他の命への負担を最小にしようと努力すること(アヒムサー)です。

それはつまり、宇宙のあり方に調和して生きることです。



ヨガとアーユルヴェーダと文法と、ヴェーダーンタの関係



しかし、心とは執着や嫌悪にまみれているもので、

言葉や身体はそんな心に追随して働いています。

そんな心を成熟させて、執着や嫌悪から自由にしてあげられるのは、

ダルマに沿った生き方だけです。
 

心・言葉・身体のマラを取り除くのは、ダルマに沿って生きやすいようにするためです。

ダルマに沿った生活とは、自分に与えられた家庭や社会の義務を果たしながら、

周りに与える痛みや迷惑を最小限にして、

周りに与える貢献を最大限にして生きることです。

そのように生きる為の心・言葉・身体を整える為に、マラを取り除くのです。

そして、その智慧が、パタンジャリの教えたヨガ・文法・アーユルヴェーダなのです。


ヨガ・文法・アーユルヴェーダ以外にも、インド音楽や舞踊、占星術といった、

インドの伝統文化や生活様式に触れながら、

ダルマに沿って生きていれば、

遅かれ早かれ、必ずヴェーダーンタに辿り着くのです。



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これもおすすめ:

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/09/blog-post_17.html アーユルヴェーダのプレーヤー(祈りの句)

ダンヴァンタリへの祈りです。












ヴェーダーンタは哲学ではないとは?

http://sanskrit-vocabulary.blogspot.in/2015/03/vedah.html

50.ヴェーダ(वेदः [vedaḥ])- 知る手段

2016年2月10日水曜日

サンスクリットの数字の説明(6~10)

6.シャシュ(षष् [ṣaṣ])


舌を反らしながら出す、「シャ」の音は、

シャンムカ(षण्मुखः [ṣaṇmukhaḥ])のシャ、と言われます。

シャンカラ(शङ्करः [śaṅkaraḥ]) のシャ、

サラッスヴァティー(सरस्वती [sarasvatī])のサ、

という風に、サンスクリット語に3つある「S」を区別するのです。
 
シャンムカ(षण्मुखः [ṣaṇmukhaḥ])
= 六つ(シャシュ、連音変化でシャン)の顔(ムカ)を持つ者
= カールティケーヤ
= ガネーシャの弟
= シヴァとパールヴァティーの次男

顔が六つでしょ
シャンムカは、北インドではあまり知られていませんが、

南インド、とくにタミル・ナードゥでは大人気です。

スッブラマンニャ、クマール、カールティケーヤ、ムルガン、

といった名前で親しまれています。

こちらのアシュラムにも、丘の上にムルガン・テンプルがございます。

その名も、カッリヤーナ・ スッブラマンニャ・テンプル。

そう、結婚や良い縁談の祈りに適しています。そして健康にも。


7.サプタン(सप्तन् [saptan])


活用すると、最後のNが落ちて、サプタ(सप्त [sapta])となります。


サプタパディー(सप्तपदी [saptapadī])とは、

ヴェーダの結婚の儀式で、もっとも大事なステップです。

儀式の火の回りを、新郎新婦が一緒に七歩進むことで、

結婚が成立します。

先述の、こちらのアシュラムの敷地内にある、
結婚に良いとされる、カッリヤーナ・ スッブラマンニャ・テンプルで、
結婚の儀式をされたのを、何度が見たことがあります。

私のような、白いサリーを着た尼の一歩手前は、結婚式に立ち会うのは不吉とされているので、(結婚とか家庭とか豊かさの追求から身を引きました、と宣言している身分なので)私自身はあまりそういう場にはうろつかないのですが、結婚に使われるマントラとその意味は聞いたことがあります。

ヴェーダの伝統に生きる人にとって、大事な節目である結婚。

そのの儀式で使われる、ヴェーダのマントラの意味は、

人生とは何の為にあるのかを分からせてくれます。


プリーストに来てもらったり、マントラをチャンティングしたり出来なくても、

マントラの意味だけは、結婚式に持ち込んでもいいと思います。


8.アシュタン(अष्टन् [aṣṭan])


パタンジャリの「アシュターンガ・ヨーガ」は聞いたことがある人は多いかもしれませんね。


アシュターンガ(अष्टाङ्गः [aṣṭāṅgaḥ])
= 八つ(アシュタ) の構成要素(アンガ)を持つもの

瞑想によって、精神(心・アンタッカラナ)の状態を

コントロール出来るようになるのを目的としたテクニックです。


アシュターンガ・ヨーガは、

1.身体のポーズが、心のポーズかの違いだけ

2.心の状態を整えるのは、その先にある本当のゴールの為の準備であって、瞑想自体がゴールではない

ということから、期待しすぎ、のめり込みすぎには注意してください。

というのがヴェーダーンタを知る者からの忠告です。

あと、

3. ヴェーダーンタと同等に考えないで!



なぜ、ヨーガ・スートラを勉強するの?



(考えることの出来る人なら誰でも分かることだけど)

 「ヨガとはポーズだけじゃない」と気づいた人が、

その次は、、と求めて、「ヨガ」という語呂あわせで、

じゃあ、「ヨーガ・スートラを勉強しなきゃ」となるのが昨今のトレンドになっています。

しかし、人生の意味を満たすために、

ヨーガ・スートラの教える、アシュターンガ・ヨガは、

全ての人に必要なわけではありません。

常にダルマに沿った選択が出来る心を持ち、

ゆっくり座って、ヴェーダーンタの教えに耳を傾けることが出来て、

学んだことを熟考しながら、ダルマに沿った生活が続けられる。

それが出来るような身体と心の状態であれば、

ヨーガ・スートラを知っていなくても、全く問題ありません。


ヨーガ・スートラを勉強する時間があるのなら、
ギーターの勉強をすればいいのに!

と思うのですが、それはもう、その人のプラーラブダですね。

アーサナやプラーナーヤーマ、瞑想ばかりに目が行って、

ダルマの生活や、ヴェーダーンタの勉強に目が行かないのは、

非常にもったいない!

たとえ文献の勉強に辿り着いても、

正しい先生にめぐり合える人は、これまた少ない。

ほんとに、これだけは、その人の持つグレース(プンニャ)ですね。



この件は、後で「パタンジャリの祈りのシュローカの意味」というコラムを書くので、

そこでゆっくり検証しながら説明しますね。


9.ナヴァン(नवन् [navan])

ナヴァラートリー(नवरात्री [navarātrī])
= 九(ナヴァ)夜(ラートリー)
= 女神にプージャーをする、9日間続くインドのお祭り


















10.ダシャン(दशन् [daśan])


ラーマのお父さんは、ダシャラタですね。

ダシャラタ(दशरथः [daśarathaḥ])
= 十の(ダシャ) 馬車・戦車(ラタ)を持つ者

直訳するとこうなりますが、一国の王様なのだから、実際はもっと持ってたと思うのですが。


ダシャーナナ(दशाननः [daśānanaḥ])
= 十の(ダシャ) 顔(アーナナ)を持つ者

= ラーヴァナ



ラーマの奥さん、シーターを誘拐・幽閉した、ラーヴァナの別名です。

顔が十もある、というのは、その人の人格が分裂していることを表しています。

ラーヴァナは、サーマヴェーダを歌うブラーンマナであり、

一国の王であり、ヴァイディカな家庭の出身という側面を持ちながら、

欲望や嫉妬、暴力といったアダルマな側面が自分でもどうしようもなく強い。

だから、頭の中はコンフリクト(葛藤)だらけで、アシャーンティで、

自分や周りの人間を破滅に追いやる存在になってしまう。


考えるという行為、言葉を発するという行為、

そして、身体を使った行動、

全てにおいて、どんな小さな事でも、

誰かを怖がらせたり、痛めつけたりするのではないか?

という疑いがあるのなら、

理屈をつけずに、潔く、さっさと辞めていく。

それだけで、葛藤からどんどん自由になれるのです。



これまでは、1、2、3という基数を見てきました。

次回は、第一、第二、第三、という序数を見ます。


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