2015年6月26日金曜日

62.メーダー(मेधा [medhā])- 知性、知力、知性の女神の名前

मेधा 
[medhā]


feminine - 知性、知力、知性の女神の名前




私たちにとって、とても大事なものです。

また、恩師が私にくれた名前でもあります。


知性の女神


メーダー(मेधा [medhā])とは、知性の女神の名前として良く知られています。

芸術と学問の女神サラッスヴァティーと同じと考えて良いですが、

芸術と学問の女神サラッスヴァティ。
両手に持っているのは古典楽器のヴィーナ。
スパティカ・マーラーとヴェーダの文献を持っている。


サラッスヴァティーは白いサリーを着て、スパティカ(水晶)のマーラー(数珠)を

持っている姿で描かれるのに対して、

メーダーには特に描かれる姿がありません。

絵柄によって姿が描かれないヒンドゥーの神様って珍しいですね。


知力(メーダー・シャクティ)


一般的に「メーダー」と言うと、

「メーダー・シャクティ」、つまり「記憶力」と解釈されます。

しかし、より伝統的な解釈では、

メーダー・シャクティには3つの側面があると言われます。


1.多くの情報から正しい意味を素早く把握する力。理解力

一度言われただけで分かる人、何回言われても分からない人、

すぐに状況が飲み込める人、そうで無い人、

見た目だけでなく、その裏にある真実を見抜ける人、見かけで騙される人、

速く学び上達する人、そうでない人、

この差を作っているのが、メーダー・シャクティの一番目の能力、

Grasping Powerと言われる、把握力、理解力です。


2.理解したことを保持する力。記憶力

理解しても、すぐ忘れてしまったら意味がありません。

現代人には「私には記憶力が無い!」と言い張る人が多いですが、

本当は、記憶力というものは誰にでもあるものです。

しかし、それを発揮するには、メーダー女神のグレースが必要なのです。


私はインドでサンスクリット文法を教えている身ですが、

現代人は、理解に重きをシフトした分、

繰り返し&暗記ベースの学習アレルギーを持つ人が多いように思います。

現代人というよりも、伝統の暗記ベースの学習法に敬意を持っていない人達、

って言うほうが正しいですね。

現代人でも覚えることの大切さを知っている人は沢山いるので。

「私には記憶力が無い」という生徒に、

「でも、記憶するために5分でも努力したことある?」

と聞き返したら、返ってくる答えは必ず「NO」です。

記憶出来ないのではなくて、記憶する努力をしたことがないだけなのです。

それなのに「私には記憶力が無い」というのは、真実に沿った発言とは言えません。

「記憶するなんて面倒くさい、それに価値が見出せない」と言うほうが正直です。


暗記するプロセスは、心のあり方を学ぶプロセスです。

そのことに気付くことにも相当のグレースが必要です。


3.覚えたことを、必要な時に取り出せる力。

せっかく覚ても、ここぞ!という時、特に人前で話す時など、

大事な時に限って、出てこない!

ってことは誰にでも良くあることです。

これかそ、メーダー女神のグレースが必要なシャクティですね。


メーダー女神のグレースを得るには


有名なヴェーダのマントラ「メーダー・スークタム」があります。

日本にいる人がチャンティングをするのはまず無理ですから、聞くのが良いでしょう。

Googleでざっと検索しましたが、本当にウェブ上にあるヴェーダのマントラのチャンティングって、

めちゃくちゃな間違った発音のものばかりです!

間違った発音は不本意な結果を招くので気をつけて下さい!

10種類以上ある中、いろいろ聞いてみて、ちゃんとしてると思えたのはこれだけです。


しかし、最後の「マイ メーダーム」のいいところが収録されていない!


私が住んでいるアシュラムの主要なデーヴァターは、

「メーダー・ダクシナームールティ」です。

ヴェーダーンタの勉強に必要なのは、メーダーですから!

恩師がこのアシュラムを建立したときに、このデーヴァターに決めたそうです。

これは、アメリカのセーラースブルグのアシュラムの
メーダー・ダクシナームルティ
メーダー・ダクシナームルティに手をあわせて、

メーダー・シャクティを願うだけでも、充分でしょう。

ओं नमो मेधादक्षिणामूर्तये मह्यं  मेधां प्रज्ञां प्रयच्छ स्वाहा ।
oṃ namo medhādakṣiṇāmūrtaye mahyaṃ  medhāṃ prajñāṃ prayaccha svāhā |




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<< 前回 61.ハリ(हरिः [hariḥ]) <<

私達の辛さ苦しさを原因ごと持って行ってくれる、

ヴィシュヌの別名、ハリについて。




>> 次回 63.サムサーラ(संसारः [saṃsāraḥ])>>

サンサーラの本当の意味。

ヴェーダが信仰ベースの宗教では無い所以。

他宗教との比較など。




文法の好きな方用:

मेधते सङ्गच्छते अस्याम् इति मेधा

मेध् सङ्गमने + अङ् + टाप्

properly understand

2015年6月22日月曜日

61.ハリ(हरिः [hariḥ])- 苦しみを取り去る者

हरिः 
[hariḥ]

masculine - 苦しみを取り去る者


ハリの別名を持つ、ヴィシュヌ神

バガヴァーン、イーシュワラなどと並んで、

この宇宙の全体を指す名前のひとつです。

ハリというと、普通はヴィシュヌのことを指します。

こられ全ての名前は、ひとつのブランマンを指しているのです。

ハリの語源


「フル(हृ [hṛ] )」という、カタカナではなんとも表現しにくいですが、

「取り去る、持って行ってしまう」という意味の動詞の原型から派生した言葉です。

そこに、「~する者」という、行動の主体を表す接尾語の「イ(इ [i]」 が来て、

 हृ [hṛ] + इ [i]

接尾語がくると、動詞の原型の [ṛ] の音が [ar] に変化して、

= हर् [har] + इ [i]

になります。それらをくっつけると、

हरि [hari] ハリ

という名詞の原型になりましたね!

名詞の原型は、हरिः, हरी, हरयः ... といった具合に変化します。

日本語で言う、ハリが、ハリに、ハリと、、、といった感じです。

日本語では名詞の形は変わらず、「ガヲノニトハモヘ」 という助詞が付きますが、

サンスクリット語では名詞の形も変わってしまうわけです。

そういう面では、日本語は世界の言語の中で一番シンプルだと思います。

でも、日本語は理論的なディスカッション向きの言語ではありませんね。


何を取り去るのか?


 हृ [hṛ](取り去る) + इ [i](者)
= 取り去る者

が「ハリ」さんですが、何を取り去るのでしょうか?

伝統では、

ハラティ(取り去る者)、パーパーニ(苦しみを)、イティ(というのが)、ハリヒ(「ハリ」です。)
हरति पापानि इति हरिः ।

と教えられています。


苦しみ(パーパ)を取り去る者がハリなのです。


パーパって何?


一度聞いたら忘れられない言葉の響きですね。

ハリが取り去ってくれるパーパとは何なのでしょうか。

簡単に言うと、自分の思うように行かない状況を作る、自分自身の行為の結果です。

つまり、宇宙のあり方に調和しない行動を選択したとき、

例えば他の生き物を苦しめたり、嫌な思いをさせたりするような行動をしたときに発生する

マイナスポイントみたいなものです。


相対的な意味のパーパ


相対的な意味では、パーパとは「ラーガ・ドヴェーシャ」と呼ばれる、

正しい判断を狂わせるパワーのある、執着や嫌悪です。

ダルマの一線を越してしまう理由にはならない、

つまり害の無い、単なる好き嫌いは問題ありません。

しかし、人を傷つけてまでも、嫌な思いをさせてまでも、

これが無いと我慢できない!もしくは、これがあるから我慢できない!

というのがパーパです。

具体的には、苦手な人とか、嫌いな物とか、辛い状況とかです。

そいうものが私達の人生を惨めにしているのです。

そんなパーパを取りさらってくれるのが、我らがバガヴァーン、ハリです。

でも、どうやって?


ハリはヴィシュヌ、つまりバガヴァーンです。

バガヴァーンということは、この宇宙の法則の全てです。

法則の塊なので、そこに自分の行為を投入すると、それなりの結果が返ってきます。

バガヴァーンに「私のパーパを取り去ってください!」と祈ると、

祈りという行為をした訳なので、何らかの結果が出ます。

その結果のことを、サンスクリット語では「プンニャ(पुण्यम् (puṇyam)」 、

英語では「グレース(grace)」と言います。

その結果が、自分の望む方向へ流れを変えることを願って祈るのです。

また、その結果は、今まで自分を苦しめて来た人や物に対して、

「ま、いいんじゃない?別にそんなのどうってことないよ」

 と言える様になる大きさを自分に与えてくれるかもしれません。

祈るということ自体、この世の全ては自分独りで回っているわけではない、

だれが回しているのかというと、究極的にはバガヴァーンである、と認めているわけなので、

そういう大きなヴィジョンを持っている人にとって、パーパの影響は少なくなるのです。


ヴィシュヌの手は4本。
チャックラ(時間という必殺の武器)、蓮の花、
ガダ(これも武器)、そしてほら貝を持っています。
後ろは無限大のパワー(シャクティ)を示す、シェーシャ(蛇)。

絶対的な意味で

 

パーパとか、 苦しみとか、そういったことは相対的なものです。

時間と共に生まれ、時間と共に変化し、0.1秒後なり、10年後なり、

いずれ無くなるものです。そこに絶対的な存在はありません。

そんな相対的なものに、絶対的価値を見出しているのが、

無知の表れなのです。

無知を取り除いてくれるのは、 もちろん知識だけですが、

知識を得るのにも、多大なプンニャ(グレース)が必要です。

最低限、正しい先生に出会い、その先生の言っていることが

100%理解出来ないといけないのですから。

それの邪魔をするパーパも取り除き、

最終的には、自分にはパーパなど無かった!と気付かせてくれるのも、

バガヴァーン・ハリのお仕事なのです。


左がラーマ、右がクリシュナ。
どちらも「ハリ」の名前で知られるヴィシュのアヴァターラです。

マハー・マントラの謎

 

世界中で最も有名なマントラと言っても良い、

カリ・サンターラ・ウパニシャッド(कलिसन्तारोपनिषद्)

の中にある、一度聞いたら忘れられないマントラです。


ハレー ラーマ ハレー ラーマ 
ラーマ ラーマ ハレー ハレー 

ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ 
クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー 

हरे राम हरे राम राम राम हरे हरे ।
hare rāma hare rāma rāma rāma hare hare |
हरे कृष्ण हरे कृष्ण कृष्ण कृष्ण हरे हरे ॥
hare kṛṣṇa hare kṛṣṇa kṛṣṇa kṛṣṇa hare hare ||

ちなみに、イスコン(ハレークリシュナ)の人達は、

先にクリシュナのラインを唱えます。クリシュナが一番ですから!

って、ウパニシャッドのマントラ変えちゃってもいいの?

でも、ずっと繰り返して唱えるわけだから、2回目以降はどちらが先か、

もう分からなくなるから、いいか。


しかしこのマントラ、文法的にいうと、文章になっていません。

動詞が無く、呼びかけだけで構成されているからです。

マントラの中にある言葉は、16語。

種類で言えば3語のみ。1.ハレー、2.ラーマ、3.クリシュナ

3語とも、「サンボーダナ」と呼ばれる、お~い!って呼びかる時の形です。

マントラの全てが呼びかけなのです。

お~い!ハリ!(हे हरे!)

お~い!ラーマ!(हे राम!)

お~い!クリシュナ!(हे कृष्ण!)

と呼びかけているだけなので、動詞が無く、

文法的には文章として成り立ちません。

ウパニシャッドの言葉なのに、文章として成り立たないなんて?

しかも、神様の名前を呼びかけの形で連呼しているだけで、

それって神様に失礼では?

誰の名前でも、呼んでおいて、その後何も言わないって失礼ですよね?


左側がクリシュナとラーダー、右側が弟ラクシュマナ、ラーマ、そして妻シーターです。
ラーマの前で膝まづいているのがハヌマーン。

マハー・マントラの意味



インドの鉄道駅には、チャイ・ワーラーや、コーピー・ワーラ達が

絶え間なく往来しています。

チャイ・ワーラーとは、チャイ(インドの甘いミルクティー)を売る人、

コーヒー・ワーラーは、そう、コーヒーを売る人です。

彼らはポットと紙コップ(ちょっと前までは赤土で出来た使い捨てカップ)を

持ち歩きながら、「チャイ・ワ~ラ~」「コーヒー・ワ~ラ~」と自分で言いながら

プラットフォームを歩いています。

チャイが欲しい人は、「チャイ・ワーラー!」 と叫べばよいだけです。

呼びかけに気付いたチャイ・ワーラーは、別に「チャイ下さい」とわざわざ言われなくても、

無言で勝手にチャイをカップに注ぎ、それを客に渡して去って行きます。

誰かの名前を呼ぶときには、相手に何を期待しているかによって、

それに応じた名前で呼ぶのです。

「先生!」 と呼ぶ時は、何かを教えて欲しい時、

「社長!」と呼ぶ時は、何かをおごって欲しい時、

「チャイ・ワーラー!」と呼ぶときは、チャイが欲しい時で、

「コーヒー・ワーラー!」と呼ぶときは、コーヒーが欲しい時です。

呼んだ後に、チャイが欲しいの、とかコーヒー出来る?とか聞かなくてもいいのです。

じゃや、バガヴァーンのことを、

「お~い!ハリ!(へー!ハレー!)」と呼ぶ時は?

そう、ハラティ パーパーニ。パーパを取り払う者。

苦しみを原因ごとどっかに持って行って欲しい時です。

どうやって持って行くの?とかどれくらい?とか、いちいち気にしなくても、

相手はバガヴァーンなのです。

何がどうなのか、一番よく知っているからバガヴァーンなのです。

「へー!ハレー!」と祈ったら、あとは委ねればよいのです。


ハリはヴィシュヌの別名であり、ラーマもクリシュナもヴィシュヌのアヴァターラなので、

2人ともハリ、苦しみを取り去る者です。


アカンダ・サンキールタナ


ちなみに、このマハー・マントラ、インドでは

アカンダ(途切れなく)・サンキールタナ(栄光を唱えること)として、

24時間年中無休で、ハレー ラーマ ハレー ラーマ、、、と

唱え続ける場所を設けているアシュラムが幾つかあります。

私のふるさと、リシケシのスワミ・ダヤーナンダ・アシュラムでも、

毎日朝6時から夕方の6時まで、このマハー・マントラのアカンダがされています。




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<< 前回 60.グル(गुरुः [guruḥ]) <<

ブランマ・ヴィディヤーを教えてくれる先生、という意味の
サンスクリット語の単語です。








>> 次回 62.メーダー(मेधा [medhā]) >>

知力、知性、知力の女神、メーダーについて

2015年6月17日水曜日

60.グル(गुरुः [guruḥ])- (自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星

गुरुः 
[guruḥ]

masculine - (自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星



グルとは


現代では、音楽や舞踊そしてヨーガや瞑想の先生もグルと呼ばれますが、

伝統的には、下記のシュローカ(詩節)にある意味が示すように、

自分の本質の正しい知識について教える先生が、グルと呼ばれます。


गुकारस्त्वन्धकारो वै रुकारस्तन्निवर्त्तकः ।
gukārastvandhakāro vai rukārastannivarttakaḥ |
अन्धकारनिरोधित्वाद् गुरुरित्यभिधीयते ॥
andhakāranirodhitvād gururityabhidhīyate ||

gukāraḥ(グの音)vai(まさに)andhakāraḥ(暗闇)
tu(一方)rukāraḥ(ルの音)tannivarttakaḥ(その暗闇を追い払う者)|
andhakāra(暗闇と)nirodhitvād(相反するものであることから)
guruḥ(グル)iti(として)abhidhīyate(呼ばれています。) ||


「グ」の音は「暗闇」を表し、「ル」の音はそれを追い払うもの(光)を表す。

「グル」とは、暗闇(無知)に反するもの(知識の光)を表すことから、

(そのような人、つまり先生は)グルと呼ばれる。


自分の本質の正しい知識とは


自分の身体や心については、ある程度のことは誰でも知っています。

そして、自分とは身体のことだ、とか、自分とは心のあり方のことだ、

と自分の本質を身体や心と取り違えています。

なぜかと言うと、自分の身体や心を見続けている、

本当の自分、自分の本質は、暗闇の中に隠されているからです。

ちょうど、暗い映画館で、銀幕の中の世界にのめり込み過ぎて、

ヒーロー/ヒロインを自分自身だと取り違えている人のようです。

自分自身のことは、真っ暗なので分からないのです。

この自分自身に対する無知の暗闇が「グ」です。

それを取り払ってくれる光が「ル」です。

光と暗闇は相反するので共存できません。

同じように、知識と無知は相反するので共存できません。

無知を追い払いたければ、知識しかないのです。

その知識を教えてくれる人のみが、グルと呼ばれるのです。


グルについてのもうひとつのシュローカ


गुरुर्ब्रह्मा गुरुर्विष्णुर्गुरुर्देवो महेश्वरः ।
gururbrahmā gururviṣṇurgururdevo maheśvaraḥ |
गुरुरेव परं ब्रह्म तस्मै श्रीगुरवे नमः ॥
gurureva paraṃ brahma tasmai śrīgurave namaḥ ||

guruḥ(グルは)brahmā(創造主ブランマージーである)
guruḥ(グルは)viṣṇuḥ(この宇宙を維持しているヴィシュヌである)
guruḥ(グルは)maheśvaraḥ(マヘーシュヴァラ、シヴァ)devaḥ(神である)
guruḥ(グル)eva(こそが)paraṃ brahma(絶対的本質である)
tasmai(その)śrīgurave(グルに)namaḥ(私の尊敬を示します)

グルって、私に教えてくれる先生なんだから、人間じゃないの?

このシュローカでは、絶対神!みたいな名前のオンパレードです。

グルと呼ばれている、身体を持った人間が、

それらが全ての神々だという意味のシュローカです。

これってどういう意味なのでしょうか。

3人揃って。

ブランマー、ヴィシュヌ、シヴァという三大神は、

見え方は3つそれぞれ別々ですが、本質はひとつです。

ひとつであるゆえに、他のものがない事から、その本質は絶対的本質です。

それぞれ異なる見え方は、相対的なものであり、それゆえに本質ではないのです。

ブランマーも、ヴィシュヌも、シヴァも、ここにある全てのことなのですから、

それらの本質が、ひとつの絶対的な本質なら、

それは、グルという人間の本質でもあるはずです。

ゆえに、このシュローカ「グルはブランマー、グルはヴィシュヌ、、」なのです。

そして、その本質は、私の本質でもあるはずです。

それを教えるのがグルの役目なのです。


神様とグル、どちらが優先?


同じ内容で、インドではこの話が良く知られています。

「先生とヴィシュヌが同時に自分の前に現れたら、

先にどちらに対してナマスカーラをするべきか?

答えは、先生。なぜなら、ヴィシュヌが誰なのか、その本質は何なのか、

を教えてくれるのは先生だから。

先生にナマスカーラをして教えてもらって初めて、

ヴィシュヌにも全てにもちゃんとナマスカーラが出来るって訳なのです。


木星もグル



太陽系の惑星の木星も、グルと呼ばれています。

木曜日は、グル・ワーサラ(गुरुवासरः [guruvāsaraḥ])と言います。

木星は太陽の周りを一周するのに12年かかります。

同じように、なにか習い事をする場合、ひとつの周期は12年と考えられています。

なんでも気長に、ですね。

木星は、結婚している女性の守り神でもあります。



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<<前回 59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])<<

不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの









>> 次回 61.ハリ(हरिः [hariḥ])>>

マハー・マントラの謎に迫ります。

ハレー ラーマ ハレー ラーマ
ラーマ ラーマ ハレー ハレー 
ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ 
クリシュナ クリシュナ ハレー ハレー 

2015年6月5日金曜日

59.アムリタ(अमृतम् [amṛtam])- 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの

अमृतम्
[amṛtam]


neuter - 不死、時間の範囲でないもの、それによって死が無くなるもの




不老不死の秘薬?


古今東西の物語の中で「アムリタ」とは、

「不老不死の秘薬」という、この世のものではないような飲み物のことを指します。

王様や富豪が世界中の辺境な地に遣いをやったり、

時には自ら危険をおかしてまでも、この不老不死の秘薬を手に入れようとします。

どんなにお金や権力を持ってしても、やっぱり老いや死を恐れる、

か弱い生き物なのだな、人間と言うものは。と幼心に思ったものです。


しかし、不老不死の秘薬なんて、誰も見たことも無いものなのに、

そんなもの、どこから聞きつけてきたのか?と思っていましたが、

ヴェーダをはじめとする文献には「アムリタ」という表現がよく出てきます。

ヴェーダの教える「アムリタ」とは、一体何なのでしょうか。


アーユルヴェーダの神様、ヴィシュヌの姿のひとつ、
ダンヴァンタリーが手にしている壷の中身は?

アムリタの語源


アムリタという言葉は、以下のように定義されています。

नास्ति मृतं मरणं यस्मात् तद् अमृतम् ।

「それ(アムリタ)によって、死(ムリタ、マラナ)がなくなるもの。

それが、アムリタ。」

それってやっぱり、不老不死の秘薬みたいですね。

この世にあるものは全て例外なく、時間の中で滅び行く運命にあるのに、

どうやって死がなくなるのでしょうか。


「ムリ(मृ [mṛ])」とはサンスクリット語で「死ぬ」という動詞の原型です。

この「ṛ」の巻き舌の音は、日本語に無い音なので、

「ムリ」とも「ムル」とも言えない音ですが、とりあえず「ムリ」とカタカナ表記しています。


この動詞の原型に、「~すること」という意味の「タ(त [ta])」という接尾語を付けると、

「ムリ(मृ [mṛ])死ぬ」+「タ(त [ta])~すること」
=「ムリタ(मृत [mṛta])死ぬこと、死」

になります。


否定の意味の「ア(अ [a])」と、「ムリタ(मृत [mṛta])死」をくっつけて、

「アムリタ(अमृत [amṛta])」となります。


文法の話: バフヴリーヒ・サマーサ


このタイプの複合語(サマーサ)は、「バフヴリーヒ」というタイプのサマーサで、

複合された言葉以外の意味を指す言葉です。

つまり、「それにより、死(ムリタ無くなる(」という場合、

複合語は「ムリタ」ですが、

その言葉の意味は、「それ」、つまり不老不死の薬などを指しているのです。


その人の、心や考え(アートマー)は寛大(マハー)である」の場合、

複合語は「マハーアートマー」で、

その言葉の意味は「その人」つまりガンジー師や、サドゥーを指します。

サンスクリット語は深い!

その中身は?

死にたくない、幸せになりたい、と願うことは、尊敬されるべき願い



「アムリタ」を求めているのは、何も王様や富豪だけではありません。

全ての人が欲しいものの象徴として、「アムリタ」があります。

それは何故かと言うと、私たちは皆例外なく、死ぬのは嫌だからです。

死にたくないと思うことは、恥ずかしいことでも何でもありません。

それがバガヴァーンのアレンジメントなのです。

ヴェーダーンタを学んで理解しなかった自称グルが、

「生への執着を捨てろ」などと教えるのは、危険極まりないことです。

人間だけでなく、全ての生きているものが、

死ぬことを嫌がること、傷ついたり痛みを感じることを嫌がることは、

バガヴァーンの在り方であるゆえに、尊敬されるべきことです。

自ら命を絶とうとする人もいますが、その人も「これ以上の痛みを感じたくない」

という思いから行動しているのです。例外なく誰だって、幸せになりたいのです。

幸せになりたいと願うのは、生きるものとして当たり前のことであり、

それを追求する為に、人生の時間が与えられているのであり、

それもバガヴァーンの創造のあり方なので、

自分の願いも、他者の願いも、後ろめたさを感じることなく、

尊重されるべきことなのです。


コンパッション - 成長した人間の在り方


「死にたくない」というのは、全ての生き物に共通であることから、

ユニヴァーサルな価値感、つまり宇宙に普遍する共通の法則のあり方です。

私達生きるもの全ては、自分が「死にたくない」というのをよーく知っています。

自分自身のことですからね。

では、自分と同じように、他の生き物も「死にたくない」と思っている事を、

一番よーく知っているのは誰でしょう?

それは人間です。

このことをよーく知っているがゆえに、人間なのです。

「このこと」とは「共感、コンパッション、思いやり、良心」といった、

人間の、一番人間らしい感情のことです。


しかし、人間は、宗教の名の下に、「お国を守る」為に、

そして怒りや恐怖、不安から、

そして「地球上の動植物は全て、人間の消費の為にあるのだよ」といった

宗教的、あるいは経済至上的な価値感教育による洗脳、

そんな理由から、他の生き物を毎日殺しています。

自分が生きていく為に避けられなかった、最小限の殺生よりも、

はるかに多くの命を、上に挙げたような都合で殺生しているのです。


私利私欲の為に、大多数の人々に対して、

人間はもちろん動植物を殺すことを推奨することは、

その人々の人間性を否定していることに他なりません。


宗教、政治、経済などの大きな波に飲まれて、

大多数の人間達は、人間である証、「コンパッション」を放棄させられているのです。


神々が集まって、ミルキー・オーシャンを攪拌して、
アムリタを取り出そうとしている図
プラーナに出てくる有名なお話。

時間軸の中にあるのは全て、死に行く運命にある



生きているものが全て「死にたくない」「傷つきたくない」と願う一方で、

この世にあるものは全て、そして、ヴェーダによれば、あの世にあるもの全ても、

例外なく、いつか死ぬ運命にあります。

この宇宙自体、全体そのものが、

時間の範囲内で生まれ、時間の範囲内で一瞬も止まらずに変化し続けています。

それゆえに、この宇宙にあるもの全てにおいても同じことが言えます。

この机は動いてないよ~って言っても、ミクロレベルでは素粒子はぐるぐると動き続けています。

マクロレベルでも、太陽の視点から見ると、

この机はものすごいスピードで、ぶんぶん回っています。

太陽は動いてないって?銀河の視点から見たら、太陽もぶんぶん回っています。

私の体の細胞も、私の考えも、ぶんぶん、ぐるぐる、、、変化し続けています。

そして、時間軸の中にあるものは全て、変化を遂げて、

最終的には、その名前で呼ばれることに相応しくない形へと変化します。

形を変えているだけで、新しい名前と形の登場とも言えますが、

死ぬ、という呼び方で認識されます。

ここにポジティヴ・シンキングもネガティブ・シンキングも要りません。

この世のあり方の現実として、死があり、それは、

人間でも、動物でも、植物でも、どんな生き物でも、忌み嫌うものです。

なぜかと言うと、そういう風に出来ているからです。

それがバガヴァーンの創造のあり方です。

それは尊敬と畏怖をもって受け入れられるべきことです。

誰だって死ぬのは嫌なのです。


しかし、生きている以上、死というイベントは避けられません。

なぜなら、私達の体は時間軸の中に存在しているからです。

どんなに健康でラッキーでも、意外と短い時間内に、必ず、

身体の機能はストップしてしまいます。

時間軸のなかで生まれてきたものは必ず、時間に縛られています。

つまり、時間軸内で形を変え、時間軸の中で姿を消していくのです。

自分の目に入るもの、考えられるもの全てにおいて、

時間に縛られて消えていくことを認識する必要があります。


絞りたてのアムリタですよ~
と偽って、偽物のアムリタを分配しようとしている、
モーヒニーに化けているヴィシュヌ

「不死」なんて絶対無理?


そうだとしたら、「不死」なんて、絶対無理ですね。

「アムリタ」が何であれ、それによって私から死を無くすなんて、

あり得ないことです。

時間はサンスクリット語で「カーラ(कालः [kālaḥ])」と言いますが、

時間という言葉そのものが、死を表しているのです。


ヴェーダーンタが教える、あなたの本質


しかし、ヴェーダは教えます。

「あなたは死(時間)から自由な存在である」と。

どういうことでしょうか?

私は生まれてからずっと、時間の中にあるものを対象化し続けています。

小さいときの自分の身体と心のあり方は、今ではもうほとんど原型を留めていません。

でも、自分の変わり続ける身体と心を、脳みそのどこかで静かに眺め続けている私がいます。


4D?5D?19D?


1枚の紙の上に描かれる絵は、2Dです。つまり縦軸と横軸の中の世界です。

それを鑑賞するには、もうひとつのディメンション、つまり奥行きという軸を足した、

3Dの視点から眺めなければなりません。

私達が眺めている世界は、3Dです。時間軸を足したら4Dですかね。

あの世も足したければ、もうひとつ足してもいいですよ。

ちなみにヴェーダでは世界は大きく分けて3つ、さらに分けたら14あります。

「じゃあ、私のいる世界は、5D?いや、10D?いやいや、19D??」

というのが凡人の考えです。

どういう点が凡人なのかと言うと、

同じディメンションという枠の中で数を増やしているだけ、という点です。

さらに、「そこに行って見たい!」と言い出すのは凡人の極みです。

どこに行こうが行くまいが、行き先の話をしているのではなく、

行っている自分の話をしているのです。

時間的にも空間的にも離れていない、

今、ここに存在している、自分の話をしてるのです。

ディメンションの数がいくつであれ、移り変わり行くそれらを対象化している、

変らない、意識的な存在である、いまここにいる自分は、

それらの対象物とは、まさに次元が違うのです。


対象化されているものは、時間枠の中にあるので、「ムリタ(मृतम् [mṛtam]」。

つまり死に行くもの。

それを対象化しているのは、時間枠の中にいない、

「今」という現実である私。

時間に制限されていない、死から自由な存在、それが私の本質なのです。


アンコール・ワットにも、同じモチーフの壮大な彫刻があります。
バンコクのスワルナ・ブーミ(サンスクリット語で「黄金の地」)国際空港にも、
アムリタのお話のディスプレイがあります。


アムリタの意味



もし、私が時間軸の中に存在していない、不死の存在であるとしたら、

今、ここで既に、私は不死の存在であるべきです。

「今」の意味は、時間の中には無いのです。

「今」の意味は、いま、ここ、の意識的な存在、つまり自分なのです。

しかし私はそんなことも知らずに、死と老いを恐れて毎日生きています。

そうです、「知らずに」いることが、私を「死にゆく者」にしているのです。

では、私を死から、時間の制限から解放してくれるもの、

つまり、「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」=「それにより死が無くなるもの」とは、、、

「あなたは時間軸の中に存在していないのですよ。

意識的存在である、あなたが時間に存在を与えているのですよ」

と教えてくれる、ヴェーダの知識が「アムリタ(अमृतम् [amṛtam]」なのです。

それをきちんと理解出来たときにのみに言えることですが。



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58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])


質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?








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(自分の本質の正しい知識を教えてくれる)先生、木星

2015年6月3日水曜日

質問:ヴェーダーンタは哲学ではないとは?

「ヴェーダーンタは宗教でも哲学でも科学でもない」
58.シャンカラーチャーリヤ(शङ्कराचार्यः [śaṅkarācāryaḥ])の項)
プラマーナに関して質疑応答のコミュニケーションをしたので、
皆さんとここでシェアしますね。



質問: 
ヴェーダーンタは哲学ではないとは?ヴェーダーンタは六派哲学のうちのひとつと言われているのだから、哲学ではないのか?

答え:

「ヴェーダーンタは哲学ではない」を理解する鍵は
「プラマーナ(知る手段)」にあります。


早い話が、
ヴェーダーンタは独立したひとつのプラマーナであるのに対して、
哲学は、経験や憶測をもとにした考えの結果であって、
プラマーナでは無い。
この点に尽きます。

さらに、六派哲学は全て、ヴェーダをプラマーナとしているではないか?
とするなら、答えはこうです。
彼ら5つのダルシャナは、
ヴェーダの教える意味の追求が間違っていて、
彼ら独自の混乱した結論が先にあり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。

もうちょっと広げると、、、

色や形を知る為のプラマーナは視覚です。
それ以外で色や形を知ることは出来ません。
ゆえに視覚は、色や形に対して、
プラマーナというステータスを持っているのです。

同じように、音を知るプラマーナは聴覚のみ。
月までの距離を知るプラマーナは視覚を元にした
アヌマーナ(推論)のみです。

人間に与えられた知る手段は
五感などの「プラッティヤクシャ」と、
プラッティヤクシャのデータを元にした「アヌマーナ」、「アルターパッティ(こうでなければあり得ない)」、「ウパマー(例え)」、そして「アヌーパラブディ(ある場所にあるものの不在を知ること)」の5つです。これらはプラマーナであるゆえに、その対象はこれらを通してしか知ることが出来ません。それゆえに干渉しあうことがないのです。

プラマーナを数えるのはとても大事なことです。(後に出てくる理由から。)

哲学は経験や憶測を元にした思考の結果であるゆえに、
プラマーナとして数えられません。

この5つのプラマーナは全て、自分が対象化出来る
対象物を知る為の手段です。

これらは全く持ってして、対象化している主体を知る手段では無いのです。

対象物を見ている主体であり、
「対象化をしている自分」さえをも対象化している、
最終的な主体については、
「今ここにいる自分」だと知っていますが、
それ以上のことを人間は知りません。
また、対象を知るためだけにある5つのプラマーナで、
主体を知ることも出来ません。

では、知ることは出来ないのか?
主体の本質を知る為の、もうひとつ別のプラマーナがあります。
それがヴェーダーンタなのです。

ヴェーダーンタが自分とは何かを知る手段、
つまりプラマーナなのだ、
なんてそんなこといきなりいわれても、
信じるしか他ならないようですが、
ヴェーダーンタの教えは理解するためのもので、
信仰するためのものではありません。

小学校の先生が掛け算を教えている時に、
「私はあなたを信じます」といちいち信仰心を持たなかったとしても、
「この人は正しいことを教えているはずだ」という信頼はあったはずです。
「この人が教えている掛け算たるものは
インチキで嘘八百に違いない」と疑っていたら、
掛け算をマスターすることはなかったでしょう。
「掛け算という知識を得るためのプラマーナが
小学校の先生である」という意識はしてなくても、
信頼を元に先生の話を聞いていれば、
掛け算を理解することが出来ます。

一度理解してしまえば、
掛け算も先生も、信仰の対象でも何でも無くなってしまいます。

ヴェーダーンタも同じことです。
掛け算と同じように、事実について、きちんと理解しようとするのが
ヴェーダーンタの勉強する姿勢です。
ヴェーダというプラマーナを使い、それが明らかにしている事実を
きちんと理解するためのプロセスが、ヴェーダーンタの勉強です。

普通の哲学は、ヴェーダをプラマーナとして扱っていません。
また、六派哲学と呼ばれるうちの5つは、
いちおうはヴェーダをプラマーナとして数えているけれども、
早い話が、先にプラッティヤクシャETCベースの混乱した結論があり、
それをバックアップするためにヴェーダを引用しているだけなのです。

プラマーナの特性を知り、きちんと数え分けることは
とても大切です。
ヴェーダを独立したプラマーナだとして向き合わなければ、
ヴェーダとしての役割を果たさないからです。


追記:


ここにあるものは、
「私」と「私の対象物」の2つのみです。

対象物には私の身体はもちろん考えも感情も体験も、深い瞑想の中のスピリチュアルでブリスフルな体験も、来世の体験も全て含まれます。
幽体離脱しても、4Dでも5Dでも、それら全ては、やはり「私の対象物」の範囲内です。

「私」と「私の対象物」の2つしかないことをしっかり突き詰める必要があります。
例外もBetweenもBeyondもありません。

ヴェーダーンタ以外のプラマーナは、「私の対象物」を知る為の手段です。
ヴェーダーンタは「私」を知る為の手段です。
・ 本当にそうなのか?
・ 私は私じゃん!いまさら何を知れというのか?
・ 私がこの宇宙に存在を与えている無限の存在だって?そんなの本当?だって私はこんなに小さい存在じゃん?これは理論的にどう説明するの?
と、理論を使って追究(ヴィチャーラ)するのが、「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」です。

世界や個人の本質について思考を巡らせ追究をする、
という点で類似していることから、ヴェーダーンタも、
哲学と同じカテゴリーで一般的には認識されています。

まずはプラマーナが何であるかの定義をしっかり把握し、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」が
哲学や他のダルシャナとどう違うのかをはっきり区別出来るように
努めながらプラマーナに接して初めて、
「ヴェーダーンタ・プラマーナ・ヴィチャーラ」としての実を結ぶのです。